第一話  異世界




 ピチャ、と水滴が落ちる音をジュンタは聞いた。

 湿った空気を肌に感じる。視界には白い湯気がかかり、どこからか甘い薔薇のような香りが漂ってきていた。

 よくよく自分の状況を振り返ってみると、下半身はお湯に浸かっており、上半身を浴槽の縁から出した格好だった。どうやらここは浴室らしい。しかも並大抵の大きさではない。左手をついた浴槽は滑らかな手触りの大理石であり、並々とたたえられた湯には無数の薔薇の花びらが浮かべられている。まるで映画に出てくる王侯貴族が使う宮殿の浴室のようだ。

 ――さて、なんで自分はこんな場所にいるのだろう?

 まずジュンタはそのことに疑問を持ち、

 ――そして、なぜ俺は裸の女の子を押し倒しているのかなぁ?

 目の前で自分を見つめる少女の存在に、身体を硬直させていた。

「…………」

 紅い髪の少女はちょうど浴槽から上がろうとしたところに乗りかかられたのだろう。咄嗟に避けることも出来ずに、されるがままに押し倒されていた。

 しかしとてつもない美少女である。

 年齢は一六歳ほど。腰の近くまである癖のない髪は炎を映し込んだかのような真紅。意志の強そうな切れ長の瞳の色も、また紅蓮を閉じこめたかのような真紅だ。

 顔のパーツは神が手ずから作り上げた至高の人形のように整っており、桃色に色付いた唇は艶やかで、ほんのり色づいた肌はそれでも東洋人とは違う白さを持っている。一糸纏わぬという姿でありながら、にじみ出るような気品を感じさせた。

「……きれいだ」

 色々と現状に対する疑問はあったが、まずジュンタは少女の美しさに対する賞賛を口にした。

 女神のような神々しさ。絶世の美少女。
 そんな言葉はきっと彼女のような相手にこそ相応しい。

「………ん……」

 僅かな興奮を感じ、知らぬ間に手に力が入る。そこで初めてジュンタは、自分の右手が押し倒した少女の小ぶりな胸のふくらみを、上から覆うように掴んでいたことに気が付いた。

「ほわっ!?」

 少女が軽く身動ぎ、口から桃色の吐息を吐き出したことでようやくジュンタは再起動を果たした。慌てて手をどけて、湯を跳ね上げながら跳び退る。

 それは少女の方も同じだった。

 大きく見開かれていた瞳が細く鋭く狭まるのと同時に、一歩、水の抵抗を感じさせない力強さで踏み込み、拳を固めた右手を振り抜いた。

 その次の瞬間――ジュンタの身体は宙を舞っていた。

 まず浮遊感を感じ、次に鼻の奥がツンとするような痛みに襲われ、最後に盛大な水しぶきと共に浴槽の底に叩き付けられた。その衝撃たるや、もしも湯が緩衝材になっていなければ、そのまま死んでいたかも知れない。

 しかし水面から顔を出したジュンタは、文句も悲鳴も口にすることができなかった。

「ふふっ、よくわたくしの本気の拳を受けて生き延びましたわ。褒めて差し上げます」

 すぐ目の前で両手で胸と太腿の付け根を隠した少女が睨んでいた。

 そのときジュンタは殺意と呼ばれるものがどんなものであるかを悟った。視線一つで相手の身動きを物理的に封じ込めるほどの圧力。次の瞬間には殺されると、本能の域で理解できるものなのだと。

「ええ、嬉しい限りですわ。い、今の私の怒りと屈辱を思えば、そそそ、そんなすぐに楽になんてさせてたまるものですか」

「よし、どうして俺がこんな女湯にいるのかはわからないが、お前がすごく怒ってるのはわかった。だから落ち着こう。話し合おう」
 
 無意味だと察しつつも、せめてもの抵抗にジュンタは挑戦する。

「そっちが怒る気持ちはよく分かる。謝罪の気持ちもある。申し訳ない。悪かった。ごめんなさい。だけど言い訳が許されるならわざとじゃなかったんだが」

「さあ、このリオン・シストラバスの珠玉の裸身を見た幸福と罪の中で死になさい」

「うん、聞いてないな」

 抵抗はやはり意味がなかった。

 少女――リオンは殺意を露わにすると、胸を隠していた右手を軽く手首を回すようにして伸ばした。するとその中指に填められていた黄金のような光沢を持つ紅色の指輪が、一瞬発光したかと思えば、次の瞬間には一振りの長剣に姿を変えていた。

 刀身が指輪のとき同様、黄金の光沢を持つ紅い剣に――

「って、剣なんて取り出してマジか?!」

「私は大真面目ですわ!」

 ジュンタがリオンの繰り出した突き出しを避けられたのは、一重に偶然だった。凶器を見て腰が引けた際、偶々足を滑らせたに過ぎない。仰向けに倒れ込んだジュンタの目と鼻の先を、真紅の閃光が貫いていく。

「このっ、逃げても無駄でしてよ!」

「こいつマジだ!」

 さらに容赦なくジュンタの脳天目掛けてリオンは剣を振り下ろす。ここでもやはり浴室という場所がジュンタの命を救った。湯気がリオンの視界を遮り、その狙いが僅かに逸れる。

 そこでジュンタは信じられないものを見た。

 バシャッ、という音と共に水面が真っ二つに切り裂かれたのだ。湯の半分以上が浴槽の外へあふれ出し、大量の花びらが天井近くまで舞い上げられる。
 
 天井――浴室の天井は一面ガラス張りの立派なものだった。
 窓の向こうには漆黒の夜空が広がり、大きな月が優しい光を落としている。

 黄金の色に輝く、美しい満月が。

 その月明かりを一心に浴びているのはリオン・シストラバス。薔薇の花びらが舞い落ちる中、紅い髪をひるがえして紅い剣を敵に突きつける。

 その眩しいからこそ儚い姿と紅き瞳のあまりの美しさに、ジュンタは自分の陥っている状況を忘れて、ただ見惚れた。

「これで終わりですわね。さあ、覚悟なさい!」

 しかし至高の時間は、薄く口元を綻ばせたリオンの言葉に打ち破られる。

「何か言い残したことがあるならおっしゃりなさい。最後の言葉くらいは聞きと届けて差し上げましてよ」

 首筋に突きつけられた剣の切っ先。
 浴槽の底に尻餅付いたまま、ジュンタは堂々と仁王立ちする騎士と姫の貫禄を持つ少女を見上げ、言った。


「あ、その髪って地毛だったんだ」


「え……? あ、ぴぇっ?!」

 悲鳴と共に剣の腹がハンマーのように不埒者を横殴りにする。
 意識を失う前にジュンタが見たものは、生まれてこの方会ったことがないような美少女の、やはり生まれて初めて見る生まれたままの姿だった。






       ◇◆◇






 覚えている最後の記憶は、アルバイト先から自宅へと帰って行く最中の記憶である。

 ジュンタの暮らしている観鞘みさや市は、近代化の波に上手く乗った地方の街である。

 都会にあるものなら当然の如くあり、近隣の町々からも若者が集まってくる、その辺りの地域では一番発展した地方都市だった。
 
 古きを尊ぶ人から見れば、見るに堪えない発展だったかも知れない。だが、生まれた時からビルが立ち並ぶ街並を見てきたジュンタには、そんな感慨はまったくない。昔の自然豊かな街だった頃の面影は、ジュンタが生まれた頃にはほとんど残っていなかった。
 
 そんな観鞘市に両親と暮らしていたジュンタは、高校二年生。世間一般的に、色々と物入りになる年齢である。

 だが、それでもどちらかと言えばジュンタはお金を浪費しない方であった。 

 黒髪に黒眼で黒縁眼鏡を愛用しているというのに、主な彼の服装の色は黒。または白。なんとも地味な色を好むジュンタは、傍目からの印象通りお洒落にはあまり興味がない。

 地元で一番の進学校に通っている、というのはあまり関係ないだろう。

 家から一番近いから……ただそれだけの理由で通うことを決めたのだから、お洒落に疎いのは元からである。
 
 だからお金はそれほど必要としていなかった。

 でも現在ジュンタはアルバイトに励んでいたりする。

 もちろん高校はアルバイトを禁止しているし、例外にあるようなアルバイトの必要性もない。家は中流家庭の中でも上等な方だ。

 それなのにどうしてアルバイトを始めたのかというと、それは様々な要因が重なった結果である、と言うしかない。

 その中の一つ、アルバイトを始めた当時お金が必要だったから、というのは確かに大きい。

 だがお金が必要じゃなくなった現在もバイトを続けているのは、純粋に働くことが楽しいからだ。

 幼い日に置き去りにしていた、心地よい疲れ。
 それを一度味わってしまったジュンタは、働くことの魅力に取り憑かれたと言ってよかった。

 アルバイトを始めた夏休み前から、秋風が吹く今日という日まで。ジュンタは確かに何事もなく勤労を続けていた。

 これからも当分、続けていくはずだった。

 ――あの奇怪な光に出会わなければ。


 

 

 鉄格子の向こうには月が明るい夜が広がっていた。

 ジュンタが現在いる場所は、広さにして六畳ぐらいの部屋だった。
 簡素なベッドと用途不明な箱。木の机に椅子が置いてあるだけという、非常に殺風景……というより冷たい雰囲気の部屋である。

 それもそのはず、この部屋は牢屋だった。

 入り口の戸がある場所には、鉄格子の戸が備え付けられている。

 天井も壁も床も硬い石。
 唯一の明かりが鉄格子のある窓から入り込む月明かりだけという、なんとも見事な牢屋である。

 つい先程寝心地最悪のベッドの上で目を覚ましたジュンタは、手を腰の後ろで縛られ、足首も縛られ身動き一つ取れなかった。部屋の様子を確認できたのがどうにか精一杯のことだった。

「どうしてこんなことに……」
 
 自分のいる場所が牢屋だと気付いたのは早かった……というかそれ以外にここを表しようがなかったのだが、そんなことは横に置いておく。

 何より現状で求めているのは、どうして牢屋なんかにいる理由だった。

「いや、なんとなく理由は分かってるんだけどな」

 誰もいない静かな牢内で、ジュンタはアンニュイに呟く。

 理由など、実は分かっていた。
 そんなものは意識を失う前のことと、もの凄く痛い頭部を考えれば分かることだ。

 リオン・シストラバス。

 偶然にも裸を見てしまった少女の言葉を思い出し、ジュンタは溜息を吐く。

 あの一人称が『わたくし』である、どう見てもお嬢様な彼女。彼女の所為というのもあれだが、彼女の命令で今ここにいることは明白だろう。

『この不埒者は私の身体をこともあろうに傷物にしましたのよ! 問答無用で死刑にしますから、牢屋に叩き込んでおきなさい!!』

 そんなことを言った可能性が。

「うわっ、めちゃめちゃ簡単に想像できた」

 ブルッと身体を震わし、ジュンタは軽く青ざめる。

 もし本当に彼女がそんなことを言ったのだとしたら、明日の夜を迎えた頃にはさらし首になっている可能性もある。なんとなく、この世界がそんな所行が許される場所だと、本当になんとなくだか理解できてしまって震えが止まらない。

「まずい、まずいぞ! どうしてあの浴室に移動したのかも分からなければ、ここがどんな場所かも分からないのに、というか死ぬのは嫌だ!」

「まぁ、誰しも普通は死を恐れ、逃れようとするだろうな。それでも一方的にやってくるのが死というものだが……なに、ジュンタなら問題なく逃れられるさ」

「そうか? でも、なんだかあのリオンって奴には正論とか言い訳とか通じなさそうだし、あくまでも事故だけど裸を見たのは確かだし……」

「確かにジュンタにも少しぐらいの過失はあったかも知れない。だが、わざとじゃなかったということは大事なことだ。ジュンタはただいつの間にかあの場所にいた。それだけのこと。死を持って償うほどの罪ではないと、俺は思うぞ」

「そうだよな…………で? そろそろ突っ込んでもよろしいでしょうか?」

 ハハハ、とジュンタは渇いた笑い声をあげつつ、背筋に力を入れて身体を起こし、部屋の高い所にある鉄格子の窓を見る。

「突っ込むか。なるほどなジュンタ。どんとこい、と俺は答えよう」

 そこには先程より、会話が成立していた生き物がいた。

 生き物だ。人間ではない。

「猫?」

「猫か、と聞かれれば頷くべきだな。だが、もちろんただの猫ではない」

 人語をしゃべる猫がただの畜生であってたまるものか――声には出さず、ジュンタは何やら話そうとしている猫の次の言葉を待つ。

 真っ白な毛並に黒い瞳のまだ小さな子猫は、流暢な日本語でしゃべり始めた。

「このかわいらしい子猫の姿は仮の姿。俺の真の姿はもっと素晴らしい。いや、別にこの身体が気に入ってない訳じゃなく、どちらかと言えば超気に入ってるんだが……まぁ、それは置いておいて――ふっ、今こそ言おう俺の正体を!」

 鉄格子の隙間に挟まるように立ちながら、白猫はクワッと目と口とを開く。


「俺こそが三千世界に名を轟かす、憎いねかっこいいね凄いね的な視線を独り占めするナイスガイ! 人呼んで『ナチュラルに素晴らしい男』ミヤタ・サネアツとは俺のことだ!」


「…………え〜と……」

 どうだと言わんばかりに胸を反らす猫――宮田実篤ミヤタサネアツ。ジュンタはこれでもかと言わんばかりの白い目を、子猫に向けた。

 名前を呼んできて、人間っぽい名前を持ち、なんともふざけたことを抜かす猫。

 猫が言葉を話しているという超常現象を前にしただけじゃない、猫の名乗った名前を聞いて頭が痛くなってきた。

「……偶然だな。俺の知り合いにも宮田実篤っていう、人呼んで『ナチュラルに馬鹿な男』がいるんだ。いや、本当に偶然だな」

「ほう、何だジュンタ。俺と同姓同名の知り合いをいつの間に作っていたのだ? まぁ、俺とは似ても似つかないバカなようだが」

「…………うわぁ、マジか〜」

 子猫と普通に会話が成立しているだけでも驚きなのに、猫はまるで知り合いのように接してくる。それも会話の間の取り方、しゃべり方、どれを取っても見覚えがありすぎる。

 宮田実篤――そう呼ばれる人間ヽヽの知り合いは、確かにジュンタにはいた。

 小学生の頃に隣の家に引っ越してきて、それから高校に至るまでずっと一緒だった幼なじみの名前だ。言動がおかしくて、やることなすことおかしくて、誰もが認める変人で、ジュンタからすれば悪友である男。

 ……だが、彼は人間である。猫ではない。

「どうしたのだジュンタ。なんとも色っぽい顔をしているぞ……手足を縛られたジュンタというのも、中々に乙な物だな」

 そう、例えいちいちセクハラチックな言い方が、実篤にそっくりだとしても違う。実篤は人間。たまに本当に人間か疑いたくなるように言動をするが、一応は人間。決して猫ではない。

 ジュンタは音もなく床に降り立った猫を見て、起こしていた身体をベッドに戻す。

 じっと黒い瞳で見てくる猫は、ただ人間の言葉を話し、知り合いと同姓同名の猫である……ということにして思考を落ち着ける。そうだ。宮田実篤という名前も、きっとニュアンスが微妙に違うのだ。ミヤタ・サネアツとカタカナっぽく言うに違いない。

 小さくて柔らかそうな子猫は、ベッドへと近付いてくる。

 なんともかわいらしい。どちらかと言えば犬の方が好きなジュンタだが、小さな猫というものは普通にかわいいと感じる。
 
 ベッドの上に飛び乗ってきた猫のサネアツは、ジュンタの顔の方へと近付いてきて口を開き、

「なんだな。人間だった頃とは違って、視点も低いし、何より全てが大きく見える。なんとも世界が変わって見えるな」

 とても重要っぽい情報をさらっと言った。

「……なぁ? 今、人間だった頃とか言わなかったか?」

 猫と会話することはもうおかしいと思わず、普通に小猫に尋ねる。

 ジュンタの顔の前で座り込んだサネアツは頷いた。

「言ったぞ。……なんだジュンタ、まだ信じていないのか?」
 
 真剣な瞳で、サネアツが見てくる。

 視線は猫のものであるが、どこか違う輝きを放っていた。

 ……そもそも、猫が人語を話すということがまずおかしい。 

 猫は人の言葉は話さない。にゃーとかしか鳴かない。

 ならば答えは簡単だ。目の前にいるサネアツという猫が普通の猫ではない、ただそれだけのこと。

「言っておくが――

 サネアツはジュンタが余計なことを考えぬよう、先に一つ教える。

――この世界でも猫は人の言葉をしゃべらない。俺が特別らしいぞ」

 もしかして、とか。まさか、とか。そんなことを言う前に決定的だ。

 ミヤタ・サネアツ……この猫が一体誰であるか。

「……認めないわけにはいかない、か。ああくそぅ、サネアツ。お前一体いつから猫に変身できるようになったんだ?」

 認めよう。この白猫は間違いなく、幼なじみの宮田実篤だ。

 どうしてだかは知らないが、人間だったサネアツが今猫の姿で自分の目の前にいるのだ。

「そうだな。実はつい先程可能になった。俺もさすがに驚いたぞ。まさか自分が猫になる日が来るなど、ほんの少ししか考えたことがなかったからな」

「普通はまったく考えないと思うぞ。それで、一体どうしてそんな風になったんだよ? 当たり前の話だが、そんなことは――

「普通じゃない、か。確かにそうだな。普通、人間が猫になるなどあり得ない。そう考えることが普通だし、俺たちの世界のルールだった。だがな、この世界ではそういうルールはないらしい。人が猫になることも、千年に一度くらいは起きる可能性もあるようだ」
 
 人間が猫になるということを、問答無用で納得しかねない言葉。

「ちょっと待て。お前の言い方だと、まるで今いる世界が俺たちの生まれた世界じゃないみたいな言い方じゃないか?」

 サネアツはピクリと髭を震わし、

「そう言ったんだよジュンタ。この世界は俺たちが生まれた世界じゃない。記憶にある世界じゃない。異なるロジック、異なる摂理、異なる人類が住まう、俗に言う『異世界』という場所だ」

「ぇ?」

 今、サネアツはなんと言ったのか?

 ジュンタの常識が、彼の言葉を聞かなかったことにした。

 だってそうだろう? 『異世界』だなんて、あり得ない。どうしてあり得ないかというと、異世界なんて存在しないからあり得ない。それが常識だからだ。

 その常識を、サネアツが一言で切り捨てる。

「認めろジュンタ。ここは異世界だ。そも、異世界が常識はずれだというのなら、今お前の目の前にいる俺はどうなる? 人語を介す猫。宮田実篤という人間が変質した猫。これも常識ではあり得ないんじゃないのか?」

「そ、それは……」

 確かにそうだ。どうして猫が幼なじみの宮田実篤と認めたのに、この世界が異世界であることは認められないのか。

 その理由を、長年幼なじみをしていたサネアツが先に気が付いた。

「なるほど、証拠がないからか。俺が俺だと認められたのは、目の前に俺という証拠がいるから。だけどこの世界が異世界であるということは、証拠がないから信じられない。つまりはそう思っているのだな?」

 ならば話は早い、とサネアツは笑う。

 ニヒルな笑い方は、非常にサネアツらしい笑みだ。

 その笑みをサネアツが浮かべる度に、自分は様々な厄介事に首を突っ込む嵌めになったのだ。

「俺が猫になるという異常が、ここが異世界であるという証拠といえるのだが……どうやらそれでは足りなかったらしいな。ならば仕方がない。仕方がないよな、ジュンタ」

「ま、待て、お前何をするつもりだ! あからさまに怪しいというか嫌な予感がするんだが!」

「いや、これはあくまでも証拠を見せるために必要なことだ。別に知識として与えられた『技術』を使ってみたかったから、というわけじゃない。そう、あくまでもこれはジュンタのためなのだ」

「話を聞けよっ!」

 すでに暴走を始めたサネアツ。

 とてもこの場から逃げだしたい気分だが、手足は縛られ身動きできない。

 哀れなジュンタの目の前で、サネアツは証拠を見せるためのパフォーマンスを開始する。

「俺もこれが初めてだからな、上手くいかないかもしれん。だが安心しろ。どうにかなる」

 もの凄い不安な前置きをしてから。

「何をする気なんだサネアツ! 止めろ、絶対ろくなことにならない気がするからヤーメーテー!」

 ジュンタの脳裏に浮かぶのは、サネアツが起こした自称・武勇伝。他称・トラブル。

 時には冬の海で水泳をした。
 時には暑い日に着ぐるみをかぶって高速道路を爆走した。
 時にはクラスメイトから白い目で見られた。
 時にはクラスメイトから英雄と称えられた。

 その全てがジュンタの欲した平穏ではなく、その真逆の厄災の類だった。

 そうして学んだ一つのこと――

『佐倉純太の人生において、平和とは宮田実篤に関わらないことである』

 そうして今回も、その教訓は正しいという結果に終わる。

「ふははははっ! 見ろジュンタ、この俺の新たなる力を! これこそが異世界の力! 異世界の神秘! 異世界のワンダフルなナチュラルパワー! 魔法だぁ――ッ!!」」

 器用にサネアツはベッドに二本足で立ち、頭上に手を向けた。

 変化は一瞬。サネアツの手の先に歪んだ円が浮かび上がり、奇怪な光を伴って輝く。それはジュンタがアルバイト帰りに見た光にどこか似ていた。

『魔法』――そうサネアツが言った異世界の神秘の技術は、今狭い室内で発現する。無論、こんな展開望んじゃいない。

 サネアツの手先の円が弾け、爆発的な光量が発生。同時に地面が揺れ、何かが崩れる音が響き渡る。

「な、なんだ?! 何をしたんだサネアツ!?」

「ハハハハハッ、心配するな。魔法は大成功だ! 見ろジュンタ! 分厚い石の壁が木っ端微塵だ」

 サネアツの高笑いが響く中、砂埃が立ちこめる室内はやがて静かになっていく。

 砂埃は吹き込んでくる風に掻き消え、部屋の様子が露わになる。

 そうして現れた牢……それは今までとはまるで違っていた。

「素晴らしい。これが俺の新たなる力! なんという破壊力! なんという超常現象! これぞ俺が求めていた力なり!」

 のりにのっているサネアツがしでかしたことは、本当にとんでもないことだった。

 石造りの簡素な牢屋は、今では崩れた廃墟のそれ。 
 外の光を取り込む鉄格子の窓があった方の壁が、地中から生まれた石の刃で串刺しにされ、見事に崩れていた。崩れた壁の向こうには深緑が見え、広大に広がる庭のような場所が見える。

「嘘だろ……?」

 呆然と蓑虫状態のまま、ジュンタはサネアツが起こした結果を見る。

 地中から伸び壁を壊した鋭い石槍。
 それを生み出したのがサネアツであることは疑いもなく――なんて危ない。
 
 どこの誰が授けたかは知れないが、その行いは無邪気な子供に核爆弾の発射ボタンを『絶対に押してはいけない』と言って渡したようなものだ。

『押してはいけない? どうして押してはいけないか分からないから、取りあえず実験だ。人間とは知的好奇心によって進化してきた生き物。俺も人間の端くれとして、ここは偉大なる先達たちに続くとしよう。それ、ポチっとな』

 ……こんな風になるのは目に見えている。風通しが良くなった牢の壁。この結果は必然だろう。

 だが甘い。サネアツという男はこれだけで終わるような奴ではない。

「それでは第二弾だ。これではまだここが異世界であることを証明するのは難しいだろう。仕方がない。心苦しいが、これも友のため。しいては世のため俺のためだ。さぁ、ジュンタ。次の魔法を使うから、出口から外へと出るのだ!」

 ジュンタの頭の上へと、空中で三回転を決めてから飛び乗るサネアツ。いつの間に解いてくれたのか、手足を縛っていた縄はベッドの上に落ちていた。

 ビシッと短い猫の手を、サネアツは石槍で崩れた壁の向こうに向ける。

 未だ状況に理解が及ばないジュンタは、サネアツの次弾を止めさせるのではなく、自由になった足を動かし外へと出てしまった。いつもなら、それが次のトラブルに続くことだと気付いていたはずなのに……

 美しい満月を頭上に仰ぐ、緑豊かな見知らぬ庭。

 背後を見れば今までジュンタがいた建物がそびえ立っている。石造りの豪華で巨大な、お城のような屋敷。屋敷のようなお城である。

 呆然と庭の中程まで歩いてきたジュンタは、そこではっと我に返る。
 
 先の『魔法』の衝撃から、ようやく抜け出せたジュンタは背後にまた視線を向けた。

 崩れた壁。地より生えた石の槍。 

(だ、ダメだ! これ以上は色々とまずい!)
 
 何がダメかというと、色々なものがダメだ。

 自分は捕まっていたのである。事故とはいえ、少女の心にトラウマ並の衝撃を与えてしまったのである。

 それなのに……これではどう見ても、壁を壊して脱獄したとしか見えないだろう。

「サネアツ! 分かった。認めた。ここが異世界だってことは認めました! だから魔法だかなんだか知らないが、もう止めてくれ!」

 頭上へと手を伸ばし、そこにいるサネアツに制止を呼びかける。

 だがしかし、すでに頭の上にサネアツはいなかった。

「ってあれ? サネアツどこに……」

 小さな猫になってしまった幼なじみを探し、辺りを軽く見回す。捜索対象はすぐに見つかった。
 
 少し離れた庭の真ん中で、先程より巨大な歪んだ円――『魔法陣』を生みだし、茶色に輝く光を放っている白猫を見逃すはずがない。

 止めろ、と制止する暇もなくサネアツの魔法は発動する。

「ジュンタ、動くなよ!」

 その忠告がなんともリアルに最悪だった。

 まず最初に感じたのは地震のような揺れ。次に感じたのは軽い浮遊感。ジュンタがサネアツの使った魔法の効果に気付いた時には、もう完全に遅かった。

 サネアツの魔法は、すでにジュンタの身体を捉えていた。

 立っていた地面が前触れもなく隆起し始める。
 円形に地面をくりぬき、凄まじい速さで空へと伸びていく。
 
 魔法系統・地の属性――石柱ロックタワー
 
 そのように、異世界の魔法使いから呼ばれている魔法は、かなり手加減をされて襲ってきた。
 
 身体を突き飛ばすのではなく、ゆっくり持ち上げるようにそびえ立つ、硬質した土の柱。
 ジュンタは地面に倒れ込むことによって落下をまぬがれ、バクバクと鼓動する心臓を抑えながら、必死に落ちないよう僅かな出っ張りにしがみつく。

 かなり高くなった視点は、普通に、怖い。

「なるほど……あまり調子に乗るものではないな。知識はあっても、扱うにはかなりの修行が必要のようだ。と、おや? どうしてだか景色が滲んで、き……た…………」

 今はもう遠く離れた地上から、猫になった幼なじみの呟きが聞こえてきた。

 もう呆れ果てて、怒鳴りつける気力もない。

 地上にいるサネアツを見るのは精神衛生上よろしくないと、ジュンタは真逆の空を眺めた。

 金色に輝く美しい満月。これだけを見れば、まったく元の世界とは変わらない。

 だけど高いここから見える景色は、元の世界とは似ても似つかなかった。


 ――そこは旅人が憧れた、見果てぬ大地。


 遠くに雄大な山々が高く聳え、森がどこまでも緑を茂らせ広がっている。
 森を囲んで草原が広がり、その中央には透き通った水が流れ、空は蒼く澄み渡り、輝ける陽光が美しい大地を照らしている。

 眼下に広がるは異世界の街。

 木、石、レンガ造りと建物に統一感はない。それでも立ち並ぶ迷宮のような街並は、異世界を象徴する美しい景観だった。
 
 そこかしこから生命の息吹が感じられる、太陽に照らされた風景をジュンタは幻視した。
 
 今は月明かりに照らされ、静かに眠りについている世界も、陽が昇ればまた動き出す。

「あれ、なんで……?」

 遙かに広く、遠き異世界。

 濡れた頬に疑問を抱きながら、ジュンタはゆっくりと立ち上がる。 

 誰に問われるまでもなく、もう信じていた。
 誰に教えられるまでもなく、もう受け入れた。

「ああ、確かに……ここは異世界だ」

 見果てぬ異世界の風景はどこか懐かしく感じられ、静かに心に波紋を打つ。

 ……あと、なんだか嫌な予感で胸が痛い。

「あ〜これ、どうやって降りるんだろ?」

 その疑問に答えられる一匹の畜生は、

「きゅ〜」

 後先考えてない初めての魔法行使に、ダラリと地面で気絶していた。









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