第十三話 一番目のオラクル 逃げ惑う異教徒に対する、それはまるで火炙りの刑のよう。
だがドラゴンの炎の凄まじさは、人が処刑に使う炎とは一線を画している。 「これがドラゴン……この世で最も強き種」 リオンは空を自由気ままに泳ぐドラゴンを睨み付ける。
鋭い眼差しには怒りの炎が揺らいでいた。 異端教徒の方は知らないが、まぁ、この際彼らのことは放って置くしかない。彼らの身の安全を心配できるほど、この状況は生易しいものではない。 リオンは不安を振り払い、自分のことに専念する。 リオンのすべきことは、仲間を心配することではない。他人を心配することではない。敵が目の前にいるこの状況でリオンがすべきこと、優先しなければいけないことは、敵を排除すること――ドラゴンを倒すことに他ならない。 向かう先は、広場から出ていく道ではない。真逆の、広場の中央の方へと向かう。 そう、リオンが目指していたのは広場の中央、噴水の地下にある秘密地下通路であった。 地下通路は街の至る所へと続いている。 鋭い一閃により、大きな瓦礫は真っ二つとなるが、その向こうにはさらなる瓦礫の姿が。 地下通路を使うことができなくなってしまったため、リオンは仕方なく次善の策に移すことにした。 空洞の壁を蹴って、空中曲芸のように地面に舞い戻る。 噴水の周りの地面は、度重なる衝撃に脆くなっていたのだろう。 それは御伽噺で描かれるような、悪竜に挑む美しい騎士姫の再現のよう。 目の前の獣は、人などでは敵いようもない『悪魔』なのだと。 そしてリオンは、ドラゴンを倒すことが出来るとてつもない力の存在と、それが在る場所を知っていた。だというのに、この手には今、そのとてつもない力が存在しない。 ――その一瞬が命取り。 大きな口を開くドラゴンの姿が、我を取り戻したリオンの瞳の中に映り込む。 受ければ、痛みもなく塵と消える業火が、自分へと迫っている。回避は、間に合わない。 リオンとドラゴンの間は、距離にして十メートルもない。 絡みついてくるような高熱に喘ぎながら、自分は今死んだのだと、リオンは確信した。 情けなくて、悲しくて、哀れで愚かな自分が許せなくて、リオンは涙を零しながら―― 「バカ、まだ死んでないだろうが!」 衝撃による痺れが身体から抜けていくと共に、横腹に受けた傷と、火傷でヒリヒリする痛みが甦ってくる。それに合わせて、身体が上下に揺られている感覚と、手に触れている誰かの胸板の感触にリオンは気が付いた。 耳元でドクンドクンと動く心臓の鼓動が、妙にくすぐったい。 「すごいな。剣から手を離さないなんて、さすが剣は騎士の誇りって言ってただけのことはあるよな。うん、すごいから……できれば首の辺りで揺らさないで欲しいなぁ〜。この状態はどうしようもなかったからで、俺も別にお姫様抱っこをするつもりはなくてだな」 ピントの合っていなかった視界が、徐々に鮮明さを取り戻す。 「ジュンタ」 黒い髪に黒い瞳。 ◇◆◇ (あり得ない。何やってるんだ、俺は……) 自分の先程の行動を思い出し、ジュンタは自分で自分に対して呆れかえる。 何か、林を飛び出す前の記憶があやふやな感じであるが、アルコールを多量摂取したときぐらい、こんなの自分じゃないと思うほど思考を爆発させた覚えがある。たぶん、今まで生きてきた中でも滅多になかったぐらいの感情の爆発だ。 「ジュンタ?」 (ああ、ダメだ。これ以上は考えないようにしよう。それに、一応ヤバイ状況であるわけだし) 頭が冷静に回転しないことに恐れを抱いたジュンタは、努めて冷静になろうとする。 「大丈夫か? 怪我、かなり酷いみたいだけど?」 「え、ええ、それは大丈夫……ですけど……」 質問に対するリオンの言葉は、どこか煮え切らないもの。ジュンタは少し訝しげに思う。 「大丈夫そうには全然見えないけど、それ本当か?」 「ほ、本当ですわよっ!」 本当は怪我が痛むのを我慢しているのではないかと、リオンの態度から疑ったジュンタが再度確認を取る。リオンは真っ赤な顔をさらに真っ赤にして再度肯定した。 (本当か? なんだか怪しいけど……) お姫様抱っこをしている今、リオンの顔はすぐ近くにあるから、それがよく分かる。 「いや、下ろす時間がもったいない。俺は大丈夫だからこのまま行くぞ」 何か言いたそうなリオンは片手に剣を、もう片手でジュンタの服の胸元を握っている。 あまり体勢としていいとは言えないが、このまま走り続ける分には何も問題はなかった。ただ、それはジュンタの主観であり、リオンはそうとは思っていないようだった。 「そ、その……」 いつもの彼女とは違う、どこか弱々しい感じである。 ジュンタは先ほどよりも訝しげに思う気持ちを強くしつつ、視線をリオンへと向ける。 予期していなかった質問に、ジュンタは軽く驚きの声をもらす。 「いや、別に重くなんてないけど」 「…………嘘ですわ」 「嘘を言ってどうするんだよ。それに本当に重かったら、抱き上げて走るなんてできないだろ?」 「そ、それはそうですけど……う、うぅ〜」 実際のところ、リオンはまったく重くなかった。まるで羽のよう――いや、比喩ではなく、本当に羽ぐらいの重さしか感じられない。 総質量で言えば、成人男子の平均の重さくらいは、悠にあるはずである。それを重くないと……羽のようだと言えるのは明らかにおかしい。そのことを、ジュンタは自覚していた。 自分の腕、足、場所問わず、身体全てを覆っている虹色の光。 だが、いくら人間としては最高の状態で動くことができても、それは結局人間の範疇。元より、人間を遥かに超えた種の前ではそれはほとんど意味を成さない。 「ジュンタ!」 真昼の太陽が何か大きなものに遮られ、辺りが一瞬暗くなる。 「ジュンタ、ご苦労様でした。助けて頂いたこと、心からお礼を言わせて貰いますわ。 勝手なことをしようとしたリオンを抱える手の力を強める。 ドラゴンを睨み付けながら、ジュンタはそうはっきりと言い放った リオンの藻掻きが一瞬止まり、次の瞬間に激しくなる。それと共にリオンが顔を寄せてきて、耳元で怒鳴りつけてきた。 「正義感じゃないさ」 『目の前のドラゴンは、自分が倒さなければいけない』 「悪いな、リオン。先に謝っておく」 「ちょっと待ちなさい。あなた一体何をするつもりですの?!」 ジュンタは仕方がないと、 「当たり所が悪かったらごめんなさい。傷をつけちゃったら、それはまぁ、責任を取らせていただきますってことで」 思い切り――リオンの身体を片腕で投げ飛ばした。 力一杯、方向だけ決めて、後は力をこめることだけに集中した結果、リオンの驚愕の悲鳴がどんどんと遠くなっていく。彼女の身体は、物の見事に放物線を描いて宙を飛んでいった。 「そうか、言わばこの力は、『反則』なのか」 時間が過ぎるほどに、より実感を与えてくる力をジュンタはそう考える。 みんなが等しく同じルールの下で競技やっている中、同じようにやっているように見せかけて、大きなズルをしているようなもの。そりゃ、自分が一番になるに決まっている。 高さもスピードもあるが、命に別状はないだろう。ここに残るより生存率は高いので、そこの辺りは許して欲しい。一応、傷物にしてしまった場合、責任を取るつもりはある。それこそ元の世界に帰らず、この世界に残ってもいいとはっきり言えるくらいに。 ジュンタは浮かべていた苦笑を止め腰に吊っていた剣を引き抜く。 どうせ重さを感じないのなら、この十倍ぐらいの大きさの剣を用意して欲しかった。 「やるしかない、か。でも……ああくそぅ、これが一番目のオラクルって何かの間違いじゃないか? これ絶対、最後のオラクルとかにふさわしい試練だろうよ」 試練の順番を決めた、まだ顔を見たこともない誰かに悪態づき、剣を構えてジュンタはドラゴンを見据える。 「吼えるなデカブツ。口は閉じてろ」 「ぇ?」
広場は阿鼻叫喚の地獄だった。
ドラゴンが吹く炎が地面を焼き、広場を囲む木々を焼き、そして人を焼いた。
直撃しなくても、炎はその余波だけで人の肌を焼き、直撃した人間は骨も残らず一瞬にして焼き尽くされる。そんなものが乱射された広場は、空までが焼け落ちそうなぐらいの熱が立ちこめていた。
横を見れば炎の壁。
視界は遮られ、見えるのは空を踊るドラゴンのみ。地獄というものの光景はこんな感じなのではないかと、溶けかけている自分の鎧を見下ろし、リオンは思った。
リオンのつけている紅の鎧には、一級の防炎加工が鍛冶技術と魔法技術の両方から施されており、並の魔法使いの御する炎にはビクともしない一品である。それが直撃を受けていないのにも限らず、余波だけで溶かされかけている。
剣を握る方とは逆の手を、血が出るぐらいにぎりしめながら、リオンはその場に立つ。
地獄という名前こそが、リオンが立つ舞台の名前。
かつて広場として市民に愛された場所は、もう見る影もなく、周りにはもう自分以外に動く影は見あたらない。
ドラゴンが現れ、そして本能に従って人間に対し炎を打ち出してから数分……僅か数分で、この現状が出来上がった。敵であったウェイトン異端導師も、仲間であった騎士たちも、今は見つけることができない。
雨あられと降り注ぐ炎の中、爆発の衝撃と炎の揺らぎで、彼らとははぐれてしまった。数分前まで広場を満たしていた悲鳴や怒号が今は消え伏せていることが、自分以外に生きている人間はいないかのようで、リオンには恐ろしく思えた。
だがそれでも、自分の騎士たちは無事であると信じている。
シストラバスの騎士たちは厳しい審査や訓練を通過してきて、ようやくなることが許される花形職だ。その審査や訓練は、人手不足の現在でも、ある一定のレベルまで達しないとクリアできない。
稀に先日のジュンタ・サクラのように、何かしらの讃えられるべき行いをして、その力量を認められて騎士に特別任命されることもあるが、そんなことは数年に一回あるかないかだ。
今日リオンが連れてきた騎士たちは、全員極々普通に訓練の果て、騎士になった者たちである。そんな彼らが、遊びに興じるドラゴンに殺されるはずがない。
「きっと全員、無事に逃げることができていますわ」
片手には母の形見であるドラゴンスレイヤー――竜殺しの剣。
母が死した十年前からずっと大事にしてきた紅の剣が、今自分が何をすべきか教えてくれていた。
それは千年も昔から脈々と受け継がれてきた血の定めであり、リオンという少女がシストラバス家に生まれたときから決まっていたこと。
時は来た。運命は巡ってきたのだと、竜滅剣が炎を刀身に映し出し、静かに物語っていた。
「思っていたよりも少し、いえ、大分早い巡りでしたけど、問題はありませんわ。お母様、私は竜滅姫としての使命を立派に果たして見せます」
それは剣に告げ、敵に告げる、騎士の誓い。
――今代の『竜滅姫』リオン・シストラバスは、この瞬間ドラゴンを倒すことを誓約した。
「そのために、私が今すべきことは……」
炎よりも美しい真紅の瞳で、敵である恐るべき悪魔を一度目に収め、そしてリオンは脱兎のごとく、その場からの離脱を開始した。
逃げると選択したリオンの動きはとてつもなく速い。
とても深い怪我を負っているとは思えないスピードだ。
痛みに顔を顰めることはなく、苦しみに足を鈍らせることもなく、決して軽くない鎧を身につけ剣を持ちながら、リオンは広場からの最短の逃走路を分析する。
ドラゴンの視界に入ってしまう広場を横切って出るルートより、地下通路を使ったルートの方が遥かに安全で、余計な障害物もないため早く逃げられる。
炎の壁にぶつからないように走りつつ、中心だと思う方へと歩を進める。すると一分もかからずに噴水跡地へとたどり着くことができた。
聖神教の名のある聖者の像が飾られた美しい噴水は、ベアル教の信者と、リオンが広場へと出る際に使用させた魔法により跡形もなくなっている。ここに噴水があったという僅かな痕跡は、細く水が出ているということだけ。
「……どうやらここにもドラゴンの炎が当たったようですわね」
リオンは噴水を見たあと、そう判断した。
理由は溢れるほどあった噴水の水が、今は殆ど残っていないからである。ドラゴンの炎が当たり、水は蒸発してしまったのだろう。
観察は少しに留めて、早速リオンはその場から地下通路のある下の空洞へと降りようとする。が、下へと降りたところで顔を顰める光景を目の当たりにした。
広場へと出る時に使用した通路は、焼けこげ、崩れた土と瓦礫で塞がっていた。
リオンは通路の状況を把握してすぐに、持っていた剣を通路を塞ぐ瓦礫へと振る。
それだけなら何とかなったのだが、瓦礫の合間を埋めるように土が流れ込んでいる。これでは剣だけで突破することは困難極まりない。
「仕方ありませんわね。危険度は上がりますが、上を行くしか……」
火の粉が舞う空が見え、見たくもない炎の壁が視界に現れ、そして次の瞬間に、
――ドンッという大きな衝撃で、地面が揺れた。
僅かな合間だけの空中浮遊。
揺れる衝撃にリオンの足は地面を離れ、次に気付いた時にはもう敵は目の前にいた。
大地を揺るがした原因を探ろうと、視線を前へと向けたリオンの瞳は、覗き込むように自分を見つめる漆黒のドラゴンの瞳と重なった。
「――ッ!」
見上げるほどの巨体の、凍り付くように冷たい鮮血の瞳に、リオンは背筋をゾクリと震わせる。
思わず出かけた悲鳴を噛み殺し、ドラゴンから距離を取るためにその場から離れる。そしてそれは、ちょうど大地の崩壊と時を同じくした行動となった。
通路を瓦礫と土が塞いだように、リオンが立っていた場所は空洞へと吸い込まれるように崩れていった。
丸く陥没した地面を挟み、リオンとドラゴンは対峙する。
地獄の中で繰り広げられようとする、英雄譚の始まりの一ページを見ているような、そんな光景であった。
ピリピリと震える空気と、呼吸すら気取られそうな静寂の中、リオンは自分の命がドラゴンに握られているのではと錯覚した。
いや、それは錯覚ではない。紛れもない事実だ。
ドラゴンと間近で対峙してみて、リオンにはそのことがはっきりと分かった。
人が生み出した技法などでは、この恐るべき悪魔は倒せない。何人集めようと、何日かけようと、人はドラゴンには決して敵わない。
もし人の身でドラゴンを倒したいのなら、それは人の身で人ならざる力を用いるしかない。
人間ではドラゴンには敵わないというルールすら覆すとてつもない力が、この漆黒の獣を倒すには必要なのだと、リオンにははっきりと分かった。
手に掴めば勝てるのに、今は勝てない。
一瞬ではあったがリオンの心の隙間に絶望が入り込み、ドラゴンの行動に機敏に反応することができなくなる。
眩しいほどに赤い、紅蓮の炎がドラゴンの口の中で渦巻く。
魔法で言うなら対隊魔法である、火の属性の儀式魔法に匹敵する熱量の輝きは、人の目には少々眩しすぎた。
目を瞑る暇もなくその小さな太陽を直視し、目が眩み、視界が真っ白となる。
「しまっ――」
自分の行いの愚かさを呪った時には、全てが遅かった。
目が見えなくても分かるほどの、濃密な熱量が自分へと放たれたのが、リオンにははっきりと感じられた。
(そんな! こんなところで?!)
吐き出された炎が自分に到達するまでに考えられることは、そんな後悔の念だけだった。
ドンッ、という衝撃と痛みが身体を襲う。
死ぬ間際には走馬燈が見えると言うが、リオンはそんな物は見なかった。走馬燈も、目が見えなくては見ることが叶わないのかと、少しだけ寂しく思う。
(ごめんなさい、お父様、お母様……私、役目を果たすことができませんでしたわ)
走馬燈の代わりに、後悔だけが胸中に込み上げてくる。
肉体の痛みはすぐに麻痺したのに、死にたくないと、まだ死ねないと、楽しい思い出とつらい思い出が絡み合い、心の痛みとなって訴えてくる。
「いや、まだ、死にたくないですわ……私はまだ、死ねない……」
――そうやって、誰かに怒られた。
先程の衝撃と同じぐらいの精神的衝撃。
頭の中が真っ白になって、しばらくリオンは何も考えることができなかった。
身体にかかる、熱風の感触。頬をくすぐる、生暖かい息づかい。
それは自分ではない他人の鼓動なのに、妙に自分の鼓動と一体化して聞こえる。
頼もしく、ずっと聞いていたい力強い命の鼓動。それに感化されるように、リオンの心臓の鼓動も大きく、熱く、世界に訴えるように脈動する。
そう、脈動している。その意味を理解するまで、幾らか時間を必要とした。
戻ってくる身体の感覚。手の中にある、形見の剣の重さに気が付いた時、
リオンはもう一度、そんな声を聞いた。
「うっ、そんな胡乱げな瞳で見なくてもいいだろ? 一応、俺も助けにきたわけだし、褒められて然るべきだと……」
言い訳を並べているような、ご機嫌を伺っているような、少し怒っているような、だけど楽しんでいるかのように笑っている声は、どこかで聞いたことがある声をしていた。
視界が回復する頃には、まだ自分が死んでいないことに気付いていた。
自分が死んでいないと悟ったときには、自分が誰かにお姫様抱っこをされていると分かっていた。
……顔が蒸気でも出すのではないかと思うぐらい熱い。
熱に浮かされたような声で、リオンは自分を抱き上げて走っている、少年の名を呼んだ。
「なんだよ、リオン。悪いけど、文句をぶつけられる時間はないぞ?」
黒い黒縁眼鏡の素朴な顔が、目と鼻の先にあった。
ジュンタは後ろにいるドラゴンを軽く見やり、冷や汗と共に胃の中の物を戻しそうになった。
無謀で、バカで、愚かな行動をしたと、ジュンタは自分自身に呆れていた。
ジュンタがしたことは単純明快。 隠れていた林から抜け出て広場中央へとがむしゃらに走り、ドラゴンと対峙していたリオンへと飛びついて抱き上げ、そのまま脱兎の如く突っ走っているだけだ。
思考を真っ白にして後先考えずに林を飛び出し、今に至って、ようやく思考をヒートダウンさせることに成功したという感じ。正直、気が付いたらリオンをお姫様抱っこしていたと言っても過言ではない。
頬を撫でる熱い風に、先程ドラゴンが吐いた炎の熱さを思い返す。
紙一重で避けることができたドラゴンの炎だが、一歩間違えればリオンと共に自分も焼死していたのは想像するに難しくない。
そしてそんなことは、ドラゴンと対峙するリオンを見つけた時に気付いていたことだった。気付いていてなお、あの時の自分はリオンを助けようとした。自分の身を危険に晒してまで誰かのことを助けるなんて、自分のキャラではあり得ない。いや、それは狂人の考えだ。常ならばきっと選ばない選択肢だろう。
現に今ジュンタは自分の先の行いに呆れている。
呆れて、呆れて、呆れて――そして誇っていた。
胸には安堵。あの時唯一考えられた、『リオンを助ける』という目的を果たせた安堵と歓喜が、自分の行いを呆れる横で、膨れあがって踊り狂って喜びの合唱をフルオーケストラでイヤッホーイ!
そんなぐちゃぐちゃな思考の断片たちが、喜びを主張している。つまり、ジュンタは自分で自分のした行いを誇っていた。
よくやったと、自分で自分を褒めていた。自分の無謀を褒め称えていた。
それがどうして起こった感情なのか、今更気付かないほど自分の心に鈍くはない。
腕の中の柔らかい感触と、金属の固い感触に身を包んだ紅い少女の存在が、気付けば自分の中で大きなウェイトを占めていた。ただ、それだけのこと。
古来から、人が命を賭ける理由としては、あまりにもありきたり。
だがそれがいい。それこそがいい。その普遍さが、自分らしいとジュンタは笑う。
国とか、誇りとか、正義感とか、そういう想いよりもそっちの方が何倍も、意味も価値もある。
少なくともジュンタにとってはそうだったから、今自分の行いを呆れてはいるが悔やんでいない。何度でもあの瞬間には、同じことを繰り返すという確信があった。
「――って、俺、何恥ずかしいこと考えてるんだ」
腕の中のリオンが身じろいだことにより、ジュンタは我に返り、自分が考えていたことに自分で照れる。
頬を染めて、ちょっぴり俯き加減で恥ずかしがるジュンタ。すると、ちょうどリオンと視線がばっちり合った。
自分のとある感情を認めた手前、彼女の顔を見るのが妙に気恥ずかしい。
なんて熱っぽい声で呼ぶものだから、恥ずかしさはさらに倍増する。
サネアツのお陰で羞恥心は麻痺していたと思っていたが、どうやらまだベクトルの違う羞恥心は正常稼働していたらしい。
きょとんとした顔でこちらを見ているリオンに対し、一言軽口を叩いてから、
リオンが吐く吐息はとても熱い。
周りは炎の海だ。この中で過ごしていれば、熱が出るのも仕方がない。ジュンタも口の中の水分がなくなってきているのを感じていた。
――と、そのとき今まで少しぼんやりとしていたリオンの方から話しかけてきた。
「ね、ねぇ……私、降りて走れますわよ?」
恐らくは抱き上げられる時に、無意識にバランスを取ろうとして掴んだのだろう。確実に握っていることに気が付いていない様子……というより、抱き上げたときから身体はまったく動いていない。氷像のように硬直している。
右手の剣の、その刀身はジュンタの肩の上をそよそよと動いている。
正直怖いが、捨てろなんて言えるわけがない。その剣がリオンの母親の形見であると知っているために。
ドラゴンの前より離れ、広場を抜け出たぐらいだろうか? リオンが再び口を開く。
するとリオンは、ジュンタの視線から逃げるように視線を逸らし、その状態のままボソボソと呟くように言った。
「私、その…………お、重くありません?」
「へ?」
リオンは軽く唸って、それから黙り込む。
その辺りの質問は、乙女としてどうにも気になるところらしい。
ジュンタは別に身体を鍛えているわけでも、力が特別強いわけでもない。リオンが本当に重かったら、抱き上げ続けることも難しかっただろうし、ましてや抱えて走り続けることなどできるはずがない。
(でも、リオンが重くないなんて、それはおかしい)
実際にそう思っているし、感じている。腕にかかる重みは本当に羽ぐらいの軽さ。だが、リオンが重くないなんて本来ならあり得ないはずなのだ。
いくらリオンが軽いといっても、それにも限度がある。二十キロの米袋に比べたとしたなら、しっかりと成長した人間のリオンの方が重いに決まっているし、その上リオンは今、金属でできた鎧を纏い、剣を持っている状態だ。
自分がリオンを抱え、そして走り続けられていることに疑問を覚える。
筋力や持久力から考えてみると、決して百メートル以上全速力で走ることはできない計算となる。それを覆す結果を叩き出しているのは、一重におかしなことと言うしかあるまい。
ジュンタは今、リオンの体重を羽ぐらいにしか感じていない。
リオンを抱えているという感覚はあるのに、彼女と彼女の身に付けている物の重さを感じないのだ。感じていないから、こうして走っていられる。
(絶対に、これが原因だよな……)
ジュンタは異常に気付くと共に、その理由にも大体察しがついていた。
リオンの腕や足など全身と、鎧や剣を覆い尽くしている、虹色の光。
この不思議な光を、ジュンタは以前にも見たことがあった。
それはワイバーンと戦ったとき。重たい剣を、その重さに気付かないぐらい軽々と振り回せたあの時も、この虹色の光は輝いていた。
リオンにはどうやら見えていないようだが、ジュンタの目にはその虹色の光がはっきりと見えていた。つまりそれは、ジュンタという人間の何か特殊な力と言うことになる。何かしらの力場をその虹の光が作り出していて、包んでいるものの重さを伝わらないようにしているとしか考えられない。
原理もそれが発動している理由も分からないが、この状況には非常に助けとなっている。光の恩恵はリオンの重さだけに限らず、ジュンタ自身の身体にも及んでいた。
先程から自覚していたが、妙に身体が軽い。
別に筋力がアップしたわけじゃなく、無駄な重みがなくなって体重が軽くなった感じ。虹色の光が、自分の身体の余分な重みを消し去ってくれているかのように思える。
まるでどこまでも飛んでいけるかのような、身体の軽さ。
人として平均的な身体能力しかないジュンタでも、働く不思議な力によって無駄な重さがなくなれば、人として限りなく極限までの力を出すことができた。だから、いつもより走るスピードも持久力もあった。
獣の到来に気付いたのは、ジュンタよりもリオンの方が先だった。
ジュンタはリオンの声に上を見上げ、慌てて立ち止まった。
大地を揺らし、ジュンタの目の前へと降り立ったドラゴン。時間をかけて稼いだ距離を、瞬く間に詰めて現れた敵は、鮮血の瞳で睨みつけてくる。
肌に感じる敵意。
空間を軋ませる存在感。
圧倒的な存在を前にして硬直するジュンタに、凛とした声がかけられる。
ありがとうございます。ですがここで終わり、あなたはお逃げなさい。ドラゴンの相手は私が致しますわ」
胸元を握っていた手で、軽くジュンタの身体を押すリオン。
彼女としてはそこそこ力を入れて押したのだろう。しかし、不思議な力が働いているジュンタには、『リオンが押した』感触以外は伝わらない。
「バカ、何言ってるんだよ」
早々と状況を把握して動こうとしたリオンを決して離さないよう、しっかりと抱く。
怒りのためか、顔を真っ赤にして藻掻くリオンに対し、
「逃げるのはお前だ。あいつが望んでる相手、どうやら俺のようだからな」
「馬鹿なことを言うのではありませんわ! あなたにドラゴンの相手が務まるはずないでしょう?! バカな正義感は捨てて、さっさとお逃げなさい!!」
予想通りの反応に、ジュンタは軽く苦笑しつつ答える。
自分が囮となってリオンを逃がすという行為。
それはリオンを大事だと思う感情の他にも、もう一つ理由があった。
それは責任感。ドラゴンが存在する原因が自分にあるという責任感が、もう一つの理由だった。
ジュンタにはドラゴンがどのように生まれるのか分からない。どこから生まれるのか分からない。だけど、生まれた理由だけは分かっていた。
――ドラゴンは、サクラ・ジュンタの敵となるために生まれてきたのだ。
ジュンタという人間が、救世主なんていうものになるための第一の試練として、ドラゴンは生まれてきたのだ。ジュンタは願ってはいないけれど、肯定もしていないけれど、それでもドラゴンが生まれた原因は自分にある。
それが分かっているから、ジュンタは関わりのない他者を逃がし、命すら賭けて戦おうと思った。
ジュンタはドラゴンを前にして、一つの決意を胸に抱いていた。
そして同時に、確信する。自分がそう思ったように、また相手も同じことを思ったのだ、と。
ドラゴンの視線は、ジュンタの抱えるリオンは捉えない。
ただまっすぐにこちらだけを見つめ、ドラゴンは敵意をぶつけてくる。そしてその敵意は、どんどんと密度を増していた。
もう一刻の猶予もない。睨み付けてくるリオンへと顔を向ける。
リオンの瞳には、絶対に囮になることを許さないという想いがすぐ分かるほど、強烈に怒気が溢れていた。どんなに言葉を並べても、決して聞き入れてはくれないだろう。
だから、
「なぁっ!?」
こうしてリオンを投げることができたのも、また虹の光の恩恵である。
ジュンタは砲丸投げだったら、十メートルも投げられない。
だが砲丸ではなく小石だったら、その十倍程度は投げられないこともない。
ジュンタが感じるリオンの重さはゼロに近いのだから、リオンの身体がいくら大きくても軽々と投げ飛ばすことができた。それもかなりのスピードで。
それが虹の光――『自分に対する余分な質量の働きを消失させる』という効果を見せた、異能の力の正体だった。
リオンを投げ飛ばしたのは、ちょうど林がある方向だ。
「まぁ、それは生きてたらの話なんだけどな」
もちろんリオンがではなく、自分が、である。
やはり虹の光が質量を消失させている剣は、ジュンタに対し何の負担もかけない。これなら腕の延長として、自由自在に振り回せることができる。
それでもドラゴンを相手にするには、あまりにも心許ない。
異教徒事件のお陰で周りに人はいないから、何かに気を向ける必要もない。ただ目の前の巨体を――ドラゴンだけを見て、戦えばいい。
「グルゥウウウウウウウウウウウウッ!!」
ドラゴンは閉じた口の間から、炎を時折吹き上げつつ、獰猛な唸り声を上げている。
戦いの舞台は炎の海。まるで地獄を連想させるかのような、閉じた灼熱。
悪しきドラゴンに剣を向けるのは、一人の騎士にも、救世主にもなることを承諾していない少年。
英雄譚の始まりのような、あまりにも出来すぎた舞台。
使命も正義もへったくれもない平々凡々な少年は、確かにこの時この瞬間――物語の主役を彩るに相応しき、英雄の輝きを放っていた。
口を開いたドラゴンから、吐き出されようとする炎。
勇気を振り絞って一歩を踏み出し、互いに敵だと認め合う相手にジュンタは剣を向ける。
そうして戦いの始まりの交差は起きようとして――
――その轟音は、全ての音を消失させた。