第十六話  終わりの魔獣

 


 ピシリ、という時計の針が動き出す音が、その時広場に響いた。

 かつては美しい広場だったそこは、今はドラゴンに蹂躙され見る影もない。ただ巨大な水晶の大樹の苗床となっているだけで、憩いの時など過ごせようもない。

 真昼の少し前――このランカ北地区の広場には百人余りの勇姿が揃っていた。
 全員が全員、不死鳥の刻印を紅鎧や羽織るマントに刻んだ、シストラバス家の精鋭たち。一騎当千を誇る、いずれも歴戦の勇士たちである。

 だが此度の戦いにおいて、彼らに任じられた役目は、ない。

 もしもの時に備えて配置されただけという彼らが、その剣と魔法の腕を見せることになることはない。そうなる前に全ては終わるだろうし、終わらせなければならない。

 此度の、崩れ落ち始めた水晶樹木の中にいる敵との戦いは、戦いになる前に倒す――そういう手はずになっている。

 戦いが始まる前に、必殺の秘策『不死鳥聖典』をもって[閉鎖魔女クローズウィッチ]から脱出したドラゴンを滅する――それが今回唯一の作戦であり、被害を最小限に抑え、ドラゴンを倒す唯一の方法なのだ。

 その戦いの主役たる少女は、騎士たちより幾らか水晶の大樹に近い場所に立っていた。

 紅い聖衣を纏った、紅の聖女にして、紅い鎧をつけた紅の騎士――

 これより英雄の所行である『竜殺し』を行うリオン・シストラバスの姿は、行いに似つかわしい気高い姿であった。

 リオンの手には、いつも握られているドラゴンスレイヤーはない。その代わりに一冊の赤表紙の本が握られていた。

 シストラバスの家宝にして、始祖ナレイアラの聖骸聖典――『不死鳥聖典』である。

 表紙に金で、細やかな不死鳥の形が施されている本は、確かに聖典と呼ぶに相応しい装いをしている。古書とは思えない新品同様の姿は、さすがは人ならざる理に守られた、使徒の聖骸聖典と言えるのかもしれない。

 口を真一文字に結んで、両手で『不死鳥聖典』を握ったリオンも、直接『不死鳥聖典』を見るのはこれが二度目である。

 竜滅姫たるリオンといえど、家宝である『不死鳥聖典』を手に取ったことは、十年前、母の死によって『不死鳥聖典』を受け継いだとき以来のことだった。この偉大なる聖典は、シストラバス家の秘密聖殿で厳重に守られている、という話である。それが事実かどうかは、現当主しか知らない。

 故に、リオンが『不死鳥聖典』の内容を読んだのは、実はこれが初めてのことだった。

 昨夜、ゴッゾの手により渡された『不死鳥聖典』の内容は、聖神教の聖典に似ていた。
創世から始まり、ドラゴンという敵と戦う古の『始祖姫』たちの姿、力、偉業をしたためた聖典。

 今なお固く信じられ続ける、救世序詞――その中でも、『不死鳥聖典』は使徒ナレイアラの偉業が中心として書かれていた。

 そも、『不死鳥聖典』――使徒の聖骸聖典と呼ばれる物の正体は、使徒の聖骸である。

 伝え語られている話によると、神の獣、神の使い、人類の導き手であり救い手である使徒は、人間ではない。神が人のために使わした、神の末端――神獣なのだという。

 彼らは人の姿を持ちながら、人ならざる神獣としての姿を本質とし、その肉体は人の世の理には縛られない。不老不死に近い肉体を持ち、美しい金色の双眸を持つ彼または彼女は、人の母より生まれ出でた時にはすでに使徒である。そして生まれてすぐに、聖地にて人を導く任に就くのだ。
神からのお告げを元に、人を護り、人を導いて幸福へと至らしめる。

 その大変な役割は長い間続き、やがて使徒は人知れず死を迎えるという。

 死を迎えた使徒の魂は、神の御許へと導かれる。

 その時、その肉体は現世に残ることなく、魂と共に神の御許へと運ばれるという話だ。
 そして現世には、使徒が生きた証として、聖典の形をした、使徒の持つ『人を救う力』が封じられた聖骸が残る。

 使徒の生と死の証であり聖骸それこそが使徒の聖骸聖典と呼ばれるものの正体なのである。

 死した使徒の神獣としての姿から、聖骸聖典はそれぞれ個別に名が付けられる。
 そして不死鳥の姿を持っていた、シストラバス家の開祖である使徒ナレイアラの聖骸聖典こそ、この『不死鳥聖典』であった。

『不死鳥聖典』には使徒ナレイアラが誇った竜殺しの力が封じ込められており、ドラゴンが人の世を脅かしたとき、彼女の子孫たちがその命を賭して竜殺しの力を行使することが出来る。

 行使の条件は自らの命を捧げることと、行使者が聖骸聖典となった使徒の血縁か、同じ使徒であることの二つだけ。その条件を満たすことで今は亡き、偉大なるかつての使徒の力をこの世に再現することができるのだ。

 リオンは初めてそんな規格外な力を有する『不死鳥聖典』の中身を見て、こんな状況でありながら興奮を隠しきれなかった。

 今こうして中身に眼を通すことを、今まで自分の先祖たちも、母も、等しく行っていたかと思うと、不思議な高揚感を感じる。

 リオンには『不死鳥聖典』から、その芸術品としても通じる美しさ以外の輝きは感じられなかったが、これが自分にとてつもない力をもたらすと考えると、手の平には緊張のために汗が滲んだ。

「リオン」

 緊張に強ばった細い背に、その時声がかけられた。

 リオンは『不死鳥聖典』に魅入られていた視線を、声をかけられた方に向ける。

「お父様、どうなさったんですの?」

 そこにいた父――ゴッゾにリオンは柔らかな声で尋ねる。

 するとゴッゾの顔が、苦しそうに一瞬歪められた。それはすぐに元の笑みに戻ったが、その一瞬の変化の理由がリオンにはひしひしと伝わって来た。

「いや、あまり緊張しない方が良い。そう、言いたかっただけだよ」

 ゴッゾはそう言っただけだったが、本心は恐らく違うのだろう。
 リオンには、自分がこれから死ぬことによってゴッゾがどう思うか、分かっていた。どれほど親不孝なことなのか、分かっていた。

(……ごめんなさい、お父様)

 心の中で謝ってから、

「ありがとうございますわ。でも、大丈夫です。不安はありませんから」

 声に出して、そうゴッゾにお礼を述べた。

 ありがとうという言葉には、気にかけてくれたこと以外にも万感の想いが込められていた。生まれてからずっと尊敬してきた父に対し、ありがとうという言葉は何万回言っても足りないくらい。

 自分の我が儘とも言える、この竜滅姫としての役目を否定することなく許してくれたことに感謝を。最後の時まで、温かい眼差しで見守り続けてくれたことに感謝を。

 寄り添うように隣に控えてくれているゴッゾに、リオンはそっと微笑みかける。
 
 それを見たゴッゾは、苦笑混じりに口を開く。

「リオンは、カトレーユによく似てきたね」

「え? お母様に?」

「ああ、とてもよく似ている。外見だけじゃない。色々なところも、よく似てきたよ」

「そうですか、それは……とても嬉しいですわ」

 十年前。今の自分と同じようにして死んだ母は、リオンの誇りであり憧れだった。その母と似ていると言われてとても嬉しい。それは最高の褒め言葉だ。

 ただゴッゾにとっては、それは違うのだということも、やはりリオンには分かった。
 母によく似ているという言葉。それは、人生の終わりもよく似ていると言うことなのだろうから。

(ごめんなさい、お父様)

 最後にもう一度だけ謝って、リオンは大好きな父から視線を逸らした。

 手には竜滅の時を今か今かと待ち侘びている、紅の聖典。
 リオンは刻一刻と迫る[閉鎖魔女クローズウィッチ]崩壊の兆しを静かに見つめながら、最後の時を待つ。

 ……後悔はない。この決断に、後悔はない。

(私は、リオン・シストラバスは、竜滅姫として終わりを迎える)

 そこに後悔など、割り込む余地はない。

(……次代の子を残せなかったのは、残念でしたけど)

 だけど竜滅姫としてのもう一つの役割を果たせなかったことは、少し残念だった。それに付随してくる、愛する人との日々を過ごせなかったことも、残念と言えば残念で――

(…………私は……)

 ――この場に、一人の少年がいないことも、ほんの少しだけ残念だった。

 


 

       ◇◆◇

 

 


 鮮やかな空は雲一つない陽気。秋風も、今日はどこか温かい。
 胸一杯に吸い込んだ空気はとても新鮮で、恐怖で震える身体を、程よく癒してくれた。

「ジュンタ、もうすぐだぞ」

「ああ、分かってるさ」

 サネアツの言葉に、ジュンタは僅かに震える声で返した。

 ジュンタが今いる場所は、水晶樹木を挟んでシストラバスの騎士たちが揃う広場とは反対側――五百メートルほど離れた、高い塔の上である。

 塔は鐘付き塔らしく、背中には大きな鐘がドンと存在感を放っている。
 片手で手すりを持って、ジュンタは畳四畳分ぐらいのそこに立っていた。

 視線はまっすぐ広場の方に。下は絶対に見られない。

 ドラゴンを封じる水晶の大樹より幾らか離れたここは、地上からも結構離れているのだ。よく広場の様子を見渡せるようにと選ばれたここは、何気に不安を増幅させるのに一役買っていたりする。

 なら両手で手すりを持てばいいという話ではあるのだが、もう片方の手には作戦における最大の要が握られているために、それは無理な話なのである。

 紅の刀身の美しい、匠の装飾剣。

 リオンが役割を果たすために広場に臨んだ時、形見としてユースに手渡され、そしてジュンタへと運ばれた本物のドラゴンスレイヤー――『不死鳥聖典』である。

 ジュンタとサネアツ以外に、もう一人この鐘付き塔にいる人間であるユースは、遠くの水晶樹木を観察している。

 魔法使いである彼女には、ドラゴンが[閉鎖魔女クローズウィッチ]を解呪する実際の時間が、正確に分かるらしいのだ。『不死鳥聖典』での竜殺しには、ドラゴンが脱出した瞬間こそが一番好ましいため、その時間を正確に知ることができるユースの存在は作戦には必要不可欠なのだった。

「ジュンタ様。[閉鎖魔女クローズウィッチ]の崩壊まで、後十分程度になりました」

「了解です」

 正体を知り、協力してくれる彼女は淡々とした口調で話しかけてくる。名前を呼ぶ際に『様』が付いているのは、使徒の身分として呼ぶことに、もう何ら障害はないからである。

 貴族ではないユースにとっては、使徒であるジュンタは本当なら雲の上の存在だ。目上の者への対応で接するのは、メイドとして当然のことなのである。

 そのことに対し、現代社会で生きてきたジュンタには少々思うところがあり、今まで通りにして欲しいお願いしたのだが……頑なに断られたためにすでに諦めている。彼女のメイドとしての誇りは、もしかしたらリオンの騎士としての誇りに匹敵しているかもしれない。

「……あと、本当にもう少しだな」

「そうだな……」

 ユースとまではいかなくても、魔法を扱えるサネアツにも、どうやら[閉鎖魔女クローズウィッチ]の崩壊の時間は大体分かるらしい。

 頭の上に座り込んだ彼は、じっと水晶の大樹の方を見ている。

「ありがとな、サネアツ」

 昨日の宣言より、『不死鳥聖典』を使うことを止めるような発言はしないサネアツ。その心の内を考えると、思わず礼が口から出た。

「突然なんだ、ジュンタ。礼を言われるようなことなど、特にした記憶はないが?」

「いや、まぁ、取りあえず受け取っておいてくれ。色々なことに対するお礼だから」

 今までサネアツには幾度となくトラブルに巻き込まれ、迷惑を被った。だけど一番長い時間を一緒に過ごしたことに代わりはないし、楽しかった思い出も多い。感謝するべきことも、また多かった。

 異世界なんてところに来てまで、小猫の姿になってまで、自分を助けようとしてくれた彼には本当に感謝しても足りないのだ。

「そういうことなら、遠慮無く受け取っておこうか」

 そんな風に言ってそっぽを向いたサネアツに、心の中でもう一回お礼を言い、今度はユースに視線を向ける。

 サネアツがしゃべることは前もって教えておいたユースに、猫がしゃべっていることに対する驚きの表情はない。そもそも表情はいつもと変わらない、クールな表情のまま。

 何かしらの知覚系の魔法行使を行っていたユースは、ジュンタの視線に気付いて閉じていた目を開いた。

「どうかされましたか?」

「いや、ユースさんにもお礼を言っておこうと思って。色々とお世話になりました。ありがとうございます」

「そんな、気にしないでください。私がしたことなど、ジュンタ様がしてくれたことに比べたらほんの些細なことです。それに私がしたことは結局、ジュンタ様を騙していたということになりますから。むしろお礼をいうのはこちらの方です」

 ユースはいつもの透明な表情を崩し、申し訳なさそうな顔でジュンタに頭を下げた。

「ありがとうございました」

「では、俺からも礼を言っておこう。――ありがとう」

 頭を下げるユースに便乗する形で、頭の上からもお礼の声が聞こえてきた。

「サネアツ?」

「受け取っておけ。色々なことに対するお礼だ」

 サネアツが顔を背けたまま、そう言い放った。
 きっと自分がそうであるように、サネアツもまた感じているのだ。今、言っておかなければ、この先もう言うことはできないのだと。

「なぁ、サネアツ」

「なんだ?」

 ならば、と、最後にジュンタはサネアツに言っておこうと思った。知っておいて欲しかったことがあったのだ。

「俺はさ、結局、異世界にまで連れて来られてなんだけど、救世主になんてなる気はなかったんだ」

「知ってるさ」

「俺は世界なんてもののために、知らない人のために、自分の命を賭けたくなんてなかった」

「ああ、お前はそう言う奴だ」

 サネアツが苦笑している。

 自分がサネアツのことを一番知っているように、ジュンタという極々普通の少年を一番知っているのも、この幼なじみの男なのである。
 
「ああ、俺はそういう奴だな。だから俺は、昔からみんながしてきたような、普通なことにしか命を賭けられない。惚れた奴を守るためにしか、自分の命は賭けられなかった。そんなことを極々普通に決定できた自分が、俺は、実は結構誇らしかったりするんだよ」

「ほぅ、それは新しい発見だ。ジュンタは実は、ナルシストだったのか」

「かもな」

 ジュンタが最後に伝えたかったこと、それは自分がこの選択を誇れていることだった。それを一番の親友に知っていて欲しかった。後で止められなかったと、苦しんで欲しくはなかった。

 サネアツと叩く軽口は、あまりにもいつも通りに終わった。
 またこれからも同じような時間が続くよな気さえする中、ユースが始まりの言葉を、苦しそうに心告げた。

「……時間です。今が『不死鳥聖典』の起動に、最も適した時間です」

「そうか。なら、いっちょやりますかね」

「がんばるがいいさ。一度自分で決めたことなのだからな。最後まで、やり遂げて見せろ」

 サネアツが最後に激励をして、頭の上から飛び降りた。
 ジュンタは持つ剣を構え、ゴッゾから教えられたようにイメージする。

 一冊の本――紅い背表紙に、美しい金の細工で不死鳥が描かれた聖骸聖典を、今、覚醒させる。
 ドクン、と身体から何かが吸い取られる感覚がして、ジュンタはその時、剣の姿から『不死鳥聖典』へと元に戻す理を掴んだ。

旅の終わりは、まだ見つからない

 高らかに、頭に思い浮かんだとおりの聖句を、ジュンタは紡いだ。
 瞬間――圧倒的な力の奔流が、『不死鳥聖典』から溢れ出し、一振りの剣はその本当の姿へと変貌する。

 竜滅の時に咆哮する、紅い不死鳥の聖骸へ、と。


 

 

       ◇◆◇

 

 


旅の終わりは、まだ見つからない

 高らかに紡がれた第一の聖句の後、リオンの持つ紅の聖典はそのページから炎を吹き上げた。
 火の粉は宙に舞い上がり、不可思議な紋様を描いていく。それは魔法陣であった。

生まれながらにして、決定された者

 二言目の聖句――魔法陣は歪んだ円をつくり、リオンが前方に翳す本の前で輝きを発す。
 バラバラと裂け、割れて崩れていく[閉鎖魔女クローズウィッチ]の崩落を前にしても、リオンは動せず朗々と聖句を紡ぎ出す。

炎の加護を持ちて、最強を誇り

 第三の聖句を持って、完全に魔法陣は完成する。

定められた路に沿って、独り竜を滅し世を救う

 第四の聖句を持って、魔法陣はその威力を強めていく。

 炎を吹き上げる聖典によって刻まれた魔法陣は、儀式魔法のように紅蓮を吹き上げ続ける。

 その炎はリオンの視界を塞ぐほどに広がり、巨大なものになっていく。
 だからその炎よりも遥かに美しく強い炎が、水晶の大樹を挟んで反対側にあることに、リオンは気付けなかった。

 

 


 迷いなく続けられた第四までの聖句によって、『不死鳥聖典』から溢れ出す紅蓮の奔流は、見ているだけで卒倒するかのような恐ろしい力を具象していた。

 紅蓮の奔流は、ただ色の付いた力の奔流。まだほとんど魔力であり、炎という形を未だ取っていない。『不死鳥聖典』が招くという竜殺しの不死鳥の火は、未だ完成を見せないというのに、その力のなんと圧倒的なことか。

(くそっ、なんて力だよ……!)

 詳しいことは分からないがジュンタにも、『不死鳥聖典』がもたらした力の波動だけは如実に感じることができた。なぜなら実際に自分の肉体を持って行使しているからだ。先程から、自分の中を巨大な熱量が暴れているのを味わっていれば、嫌でも分かる。

 口を開ければ、熱い苦痛の吐息がもれる。
 
 自分の命を賭けた法だというのは、伊達ではないらしい。
 まだ半分程度しか聖句を唱えていないのに、もうジュンタは瀕死の形相であった。

 ジュンタの手によって本来の聖骸聖典の形に戻された『不死鳥聖典』は、今や本という形を保っていない。

 ページが冊子から離れ、辺り一面に乱舞している状態である。
 そのただ中にいるジュンタは、まるで『不死鳥聖典』のページに埋もれているかのようにも、囲まれて命を吸い取られているかのようにも見える。

 だが実際のところ、逆にページは身体を守ってくれていた。

 範囲は小さいながらも爆発的な力の奔流は、すでに鐘付き塔を破壊してしまっていた。
 一緒にいたサネアツも、身の危険を察したユースによって確保、退避がなされている。今は少し離れた家屋の上で、こちらを見ている状態である。

(負けて――たまるかっ!)

 身体が発する危険信号を気力で押さえつけ、次の聖句を紡ごうとジュンタは口を開く。
 聞いたこともない聖句は、眼を通さなくても不思議と頭に浮かんでくる。まるで見知らぬ誰かの記憶を、情報として頭の中に直接叩き込まれているかのようである。

 頭に過ぎる紅の翼。空虚な想い。それが一体誰の記憶であるか、九割方確証があった。

『不死鳥聖典』の聖骸の主、ナレイアラ・シストラバス――彼女の記憶だろう。

 彼女の空虚な記憶が流れ込んできて、胸を苛む。
 ナレイアラという姫君を彩る人生の形を、悲しい聖句としてジュンタは紡いだ。

その栄華は約束され、栄光はその手から零れない

 第五の聖句によって、今まで無秩序だった力の奔流に、指向性が出てきた。
 渦を巻くように力の奔流は、真下にある鐘付き塔を完全に崩壊させながら集まってくる。

されど栄華も栄光も、ただ空しく響くものなり

 そして第六の聖句が紡がれた瞬間。集まった力は一気に燃え上がった。

 辺りの空間を焼き尽くすかのような熱気。真下がまるでマグマのように煮えている。
 ジュンタを守る『不死鳥聖典』のページは、全て真下の方へと集まっていく。それが足場となり、ジュンタは炎の上に立っているような状態となった。

 今までページによって塞がれていた視界が、一気に開ける。

 遠く、広場の方ではすでに、九割方ドラゴンを封じる水晶樹木が崩れていた。

(まずい! 予定より、解呪が早い?!)

 危機にジュンタが気付いたその時――膨大な熱量がほぼ同じ場所で、二つのところから同時に放たれた。

 

 


       ◇◆◇ 

 

 


 完成された魔法陣の輝きは、広場を紅く染め上げていた。

 九の聖句から完成された焔。
 竜滅の力を持つという紅蓮の焔は、凄まじい勢いで燃え盛っている。

 ――だが、リオンはふいに疑問を抱く。

 果たして、ナレイアラの炎というのはこの程度なのか?
 滅多に見ることのできないほどの炎だということは認めるが、それでも英雄と謳われるナレイアラの竜滅の火が、果たして本当にこの程度なのか?
 
 感じる力も、炎の迸りも、かなり足りないようにリオンには感じられた。

 そう考えてしまい、一瞬眼を敵から離してしまった。
 枯れた大樹という表現が相応しいほどに、周りの水晶が剥がれ落ちてしまった水晶樹木。その中のドラゴンから、一瞬とはいえ意識を背けてしまったのだ。

 そして運悪く、その一瞬に敵は動き出す。

 徐々に剥がれ落ちていた水晶が、そのとき一気に爆発四散した。
 辺り一面に飛び散る水晶の中から現れたのは、身体のあちこちを焼き焦がした漆黒のドラゴン。

「解呪が予定より早いぞ!」

 後ろでゴッゾが叫んだのを聞き、リオンは一瞬考えてしまった疑念を振り払う。

「グルゥアアアウウウウウウウウアアアッ!!」

 ついに[閉鎖魔女クローズウィッチ]より開放されてしまったドラゴンは、狂ったような雄叫びを上げる。その声色には、確かな怒りがこもっていた。

閉鎖魔女クローズウィッチ]からの開放が予定より五分程度早い。
 それは恐らく、最後の最後でドラゴンが水晶樹木の中で炎を吹いたからだろう。

 完全な状態の[閉鎖魔女クローズウィッチ]ならともかく、すでに崩壊寸前だった水晶樹木は、ドラゴンの炎の吐息を防ぐことはできなかったということ。

 ドラゴンの炎は水晶樹木内で大爆発を引き起こした。一気に水晶の壁を突破するため、己にも被害が出ることが分かっていながら、ドラゴンは中で炎を噴射したのだ。それにはリオンも怖気を感じずにはいられなかった。

 だが、怖気を覚えたのはそれに対してだけではない。

(傷が、もう治っていますの?!)

 より恐怖を抱いたのは、炎により負ったドラゴンの傷が、すでにほとんど癒えていたことに対してだった。

 人の数百倍もの回復力を持つというドラゴンの、その傷の回復の様子は、まるで時が巻き戻ったかのよう。その姿にリオンは再び疑問を抱いてしまう。

(本当に、この炎でドラゴンを倒せますの?)

 予想を下回る規模の竜滅の炎。
 ドラゴンを倒す唯一無二の必殺は、リオンに安心感を与えてくれない。

 しかしリオンは、自分がこの炎を信じ、招くことを責務として生きてきた竜滅姫であることを思い出す。

(私が信じなくて、一体誰か信じるというのですか!)

 リオンは不安に思った自分を叱咤し、炎の目標をドラゴンにロックオンする。

「終わりの魔獣よ! 我がシストラバス家の遥かな歴史を、その身に受けなさいッ!!」

 そして苛烈な叫びと共に、外界に降り立った悪魔に、リオンはその炎を撃ち出した。

 それと時を同じくして、ドラゴンもリオンに対し、また炎のブレスを撃ち放つ。




 

 放たれた二つの炎の一撃は、その中心部でかち合って、その力の流れを爆発へと転じた。

 遠目からでも目視できる爆発の規模は、かなりでかい。
 炎の行使者であるリオンとドラゴンを中心に、炎は飛散し、辺り構わず小規模な爆発を巻き起こす。

 両者が放った炎の規模はほとんど同じ。
 ドラゴンの炎の息吹と、儀式魔法である炎の攻性魔法の威力は、イーブンで終わった。

 そのことにジュンタは戦慄を覚える。

 全ての原因は、ドラゴンが[閉鎖魔女クローズウィッチ]より脱出したのが予定より早いことにある。
 その所為で、リオンが偽りの『不死鳥聖典』――魔法の行使を手助けする魔道書の炎を放つのと同時に、ジュンタも竜滅の火を放つという作戦が一気に崩れてしまった。

(早く、早く、炎を完成させないと!)

 ジュンタは焦りながら、苦痛を堪えて次の聖句を詠み上げる。

英雄たるその人生は、そのまま終わりへと至り

 第七の聖句――残りの聖句は後二つ。
 連続して二つを詠み上げてしまいたいジュンタだが、それは叶わない。

『不死鳥聖典』の行使は、ただ聖句を詠み上げるのではなく、定まった瞬間に聖句を紡がなければいけないのだ。その情報は、自然と頭に流れ込んできている。

 真下で迸る炎が、聖句によりその形を変化させていく。

 大規模な炎の固まりを中心に残し、いくらかの炎が魔法陣のように炎の下へと奔っていく。
 幾何学的な紋様を作り出し、炎の固まりの足場であり陣となるように、それは空中に固定される。

 それで第七の聖句による炎の変化は終了――急ぎ、次の第八の聖句を紡ごうとして、

「リ、オン……?」

 ――敵であるドラゴンが、その手に紅の少女を掴んでいるのを、ジュンタは目撃した。

 

 


 まったく炎は効かなかった。

 いや、効いた、効かないの問題じゃない。必殺と思って撃ち出した炎は、ドラゴンの吐息と相殺され、相手に到達することすらなかった。

 その絶望的な事実を前に、リオンは呆然と立ち尽くしてしまった。
 絶対だと信仰すら持っていたナレイアラの炎の慎ましやかな成果は、自分の身を一度、ドラゴンの炎から守ったという成果しかない。

 なにが竜滅の火か……まったくもって意味が分からない。
 
(何が、どういうことですの……?)

 状況の把握ができない、いや、したくないリオンは、呆然と『不死鳥聖典』を見つめる。
 
「リオン、危ない!」

――ッ!」

 その致命的な隙を逃さず、ドラゴンの太い腕がリオンの身体を掴み、持ち上げた。

 後ろでゴッゾが慌て、後方に控えていた騎士たちにリオンの救出を指示する。

 先鋭の勇姿たちは、ほぼゼロのタイムラグでそれぞれの攻撃を開始する。
 魔法の一撃。竜殺しの加護のある矢の射出、槍の投擲――確かにそれはドラゴンの身体に傷は付けられるも、次の瞬間にはその傷は塞がってしまう。

「あ、ぐぅ……!」

 ギリギリと力がこもるドラゴンの手の中、リオンは自分の骨が悲鳴をあげている音を聞く。激痛が身体を走り、つけていた鎧が粉々になったことを確信する。

 手から逃れようともがくも、ドラゴンの力からはどう足掻いても逃げられない。
 リオンの細腕では、この状況では外部からの協力なしでは逃がれることは出来ない。

「腕だ! 腕を狙えっ!」

 ゴッゾの命令が聞こえる。

 ドラゴンが完全に開放された危険極まりない状況の中、父である男性はこの場に残って、恐るべき敵から自分を助けようとしてくれている。

 視界自分を握りしめるドラゴンの腕に魔法が突き刺さり、槍や矢で裂傷ができる場面が映る。だがそれも、やはり圧倒的な回復力によってすぐに塞がってしまう。

 今、リオンが生きているのは一重にドラゴンの気まぐれ。
 もう少し握る力を強めれば、口から炎を吐けば、儚い人など一瞬で命を散らす――そんな絶望的な状況の中、

「こんな風に、死ぬなんて…………まっぴらゴメンですわ!」

 それでも諦めず、リオンは決死の力で自分の生を渇望した。

 

 


「どうする! 今、炎を使ったら、リオンまで巻き込んでしまうじゃないか?!」

 ジュンタの焦燥は、現場にいるゴッゾの焦燥とほとんど変わらなかった。

 遠い向こう。黒い巨体の手の中に、綺麗な紅い色が見て取れる。その色を、少女を、ジュンタが見間違えるはずもない。

 リオンだ。リオンが、今、ドラゴンの手に捕まっている。

 ドラゴンに捕まるということは、命が風前の灯火ということだ。
 ただ対峙しているだけで、死亡確率九割以上。同じ街にいるだけで死亡確率が発生するドラゴンに捕まるということは、ほぼ絶対的な死亡が決定されたということに他ならない。

 そんなことは許せるはずもない……だがどうすればいいか、ジュンタには分からなかった。

 ドラゴンを滅するには、後二つの聖句を紡げばいい。そうすればドラゴンはきっと、間違いなく倒すことが可能だろう。その確信がジュンタにはある。

 ナレイアラの炎は、対象のみを焼き殺す神秘の火だ。
 
 この場合の滅却対象であるドラゴンのみを、広場にいるシストラバス家の人間には一切のダメージを与えず倒せるはずだった。だが、ドラゴンに接触しているものに対しては、いくらかのダメージが及んでしまう。

 直接的なダメージはドラゴンの数千分の一だが、ナレイアラの炎は一度放てばドラゴンを一体でも二体でも同時に焼き殺せる威力がある。数千分の一といえど、人一人を殺すには十二分に事足りる威力だ。

(どうする! どうやって、リオンを助ければいい?!)

 ジュンタの中に、リオンごとドラゴンを倒すという選択肢は存在しない。

 リオンを助けるためにドラゴンを倒すのだ。ドラゴンを倒せるのはいいが、リオンを失ってしまったら本末転倒だ。恐怖を押し殺して、覚悟を決めた意味がない。

(どうする! どうする!? どうする?!)

 ジュンタは考え込んだまま停止する。どうすればいいかなんて、分から、ない。


 ――そう思ったその瞬間、脳裏に爆発的な情報が流れ込んできた。


「ぐぁあああああっ!!」

 脳をパンクさせるほどの情報の奔流に、ジュンタは頭を抱えて絶叫する。

『使徒とはそれ即ち、神の獣』

『使徒は人ではない。人の殻を被った、人ならざる存在である』

『使徒ナレイアラは不死鳥であるが故に使徒たりえた』

『最も新しき使徒よ。君は、何を持って使徒たりえる?』

 膨大な情報の中、ジュンタはその四つの言葉を――まるでヒントを与えるかのような言葉だけを知覚し、残りの情報を破棄する。

 情報の流れはストップし、ジュンタは絶叫を上げた状態のまま静止する。

 だがその口元には確かな笑みが。思考には、確かな歓喜があった。

「そうか、そうだったのか……」

 忘れていたのか? それとも、気付かないふりをしていたのか?
 人であることを止めたくなかったから、その真実を放棄していたのか? 自分の中に息づく可能性を、否定していたのか? 

 それはジュンタにも分からない。だが歓喜を伴って気付いたそれを、ジュンタはもはや迷うことなく受け入れる。

 例え人ではなくなっても――
 例え救世主なんていう、どうでもいいものになる未来を決定されても――

 大事な人をそれで救えるのなら、魂だって悪魔に売ってやる!


――ただ在って、全てへと至る者


 ジュンタが紡ぐのは、ある意味聖句のようなもの。
 世界に己を刻みつける、この世界でほんの僅かな資格保有者のみに許される奇跡。

 自己暗示。イメージするのは自分の中で眠っていた、サクラ・ジュンタという人間の殻を被ったもの存在の本質の姿。人の形をしていない、人ならざる獣の姿。

 虹の獣。金色の瞳を持った災厄。

 ジュンタの身体に、虹色の閃光が迸る。
 閃光は激しくスパークし、虹の雷となって、身体を包みこんでいく。

 圧倒的光量――燃え盛る紅蓮すら呑み尽くす、神の雷がその時、ランカの街を虹色に染めた。


 

 

      ◇◆◇



 


 漆黒のドラゴンが手の中の虫けらを殺そうと思ったその時――その獣は本能的に、危険を感知した。

 手の中でもがいていた虫けらを、何の躊躇もなく放り出す。
 元からそれは自分の敵では為り得なかった。だから、殺さずに捨て置いても何の問題もない。

 ……そう、元から自分の敵などたった一人しかいない。

 背後へと視線を注げば、そこには獣の姿を形取った虹色の雷がある。ドラゴンは刹那的に、それに対して恐怖を抱いた。

 初めて感じた、自分よりも上に在る存在規模。いや、上ではない。それは決して認められない。あれは上ではなく、自分と並ぶ存在規模でしかない。

 そうだ。あれは自分と同じものなのだから、自分を凌駕するはずがない。自分と同じ姿を持つのだから、その力は同等であるはずだ。

 漆黒のドラゴンはただ敵と認めた唯一を見て、そのどうでもいい場所から上空へと飛翔する。

 ――殺せ。コロセ。

 そして徐々に虹の雷の中から這い出てくる、その純白の魔獣を見、武者震いに震えた。

 

 


「…………う、そ……」

 ドラゴンの手から何の前触れもなく放り投げられ、地面へと落ちたリオンは、そのままの状態でただ呆然と空を見仰いでいた。

 漆黒のドラゴンは今や、空高くへと飛翔している。
 何のためにドラゴンが空へと駆け上ったのか、それが分からない人間などこの場所にはいないだろう。

 広場に集まった誰も彼もが、上空の光景に息を吸うのも忘れていた。

 あり得ない――そんな陳腐な言葉でしか言い表せない光景が、今、ランカの街の上空で生み出されていた。

 突如発生し、広場の皆の視界を奪い取った虹の閃光。

 視界が回復した時には、すでにその獣は空に存在していた。

 漆黒のドラゴンと上空で対峙する、巨大な紅蓮を背後にした真っ白な獣。

 体長は約二十メートルぐらいだが、尾の長さを含めるともっと長い、巨大過ぎる体躯。色は全体を通し真っ白で、身体には金色の線が幾本も刻まれている。両手両足の鋭い爪の色も、金色。そして美しく七色に輝く虹の双翼をもって、その獣という存在は空にその存在を明示していた。

 恐らく、自分の場所からは遠すぎて見えないが、その瞳の色は鮮血の色をしているに違いない。

 そうリオンが判断したのは、純白の獣が、先程まで自分を掴んでいた漆黒の悪魔とほぼ同じ姿形をしていたからだ。

 それの存在を表す名を思い描くのに、費やした時間は一秒を切る。

 ……正解は、これしかあり得ない。


――終わりの魔獣ドラゴン』」


 そう、そこに現れたのは純白にして虹色のドラゴン。もはや絶望を越えて現実味すらない、二体目の災厄だった。

 ――だが、誰が知ろう?

 そのシストラバス家の人間にとって、敵以外の何者でもないその純白のドラゴンが、自分たちの味方であると。自分たちが敬愛して止まない始祖ナレイアラと同じ、使徒の一柱であると。その神獣としての姿であると。

 気付いた者は、本当に少ない。

 だがそんな気付いた人間の内の一人、ゴッゾ・シストラバスは、純白のドラゴンを見て、呟きをもらす。

「……ジュンタ君」

 それが戦闘開始の合図になったわけではないが、その瞬間に、二体のドラゴンは時同じくして動き始めた。

 吐き出される虹の雷と紅蓮の炎。
 あり得ない、厄災――ドラゴン同士の戦い。

 その凄まじさに、
 その現実離れした光景に、
 
 誰もが見入り、言葉を忘れた。


 

 

 純白のドラゴンは、漆黒のドラゴンを相手取って踊る。

 ――その双眸は、黄金の色に輝いていた。

 

 

 

 


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