第二話  ある罪人の現状


 

 正直に告白をすれば――牢に入れられたことより、大事な猫を取り上げられた方が辛かった。
 
 両手足を鎖で縛られ、固いベッドの上に転がるジュンタは、同じ部屋にはいない白い猫を思って瞼を閉じる。

「ちくしょう。サネアツの奴を殴らないと気がすまん」

 大事な大事な元凶は、今は手厚く看病を受けているに違いない。
 罪人には厳しい騎士の方々も、見た目は小さくてか弱い子猫には優しいのだ。

「どうしてこうなる、いや、サネアツの所為なんだけどさ……」

 自分で呟いた疑問に、自分で答えるというたまらなく惨めな儀式を終えた後、ジュンタは大きな溜息を吐いた。

 つい、数十分前のことを思い出す。
 
 今も瞼の裏に焼き付いた、美しく広大な世界の風景。
 
 寝静まった神秘的な異世界の都。その街の周りに広がる豊かな大自然。……あと、地面に力なく倒れていた猫とか。

「サネアツの奴、後先考えないで魔法なんてよくわからんものを使いやがって。初めて使うものを、人に向かって使うんじゃないっていうんだ」

 幼なじみに対する文句など山ほどある。だが今は、その幼なじみが目の前にはいない。文句をグチグチ言うのは不毛でしかないのだが、じっと黙っているのは無理に近い。

 ただでさえ硬いベッドに、固い鎖で縛られて転がっているのだ。
  手足を塞ぐ鎖は痛いし冷たいしで肉体的に厳しい。それに物々しい呪文が書かれた石の壁に四方を囲まれているというのは、精神的にもかなりまいる。

「どうして俺がこんな扱いを……いや、半分はサネアツの所為なんだけどさ……」

 今日の話――
 
 ジュンタはとある事故によって牢に入れられることになった。
 その点に関しては、取りあえずジュンタも納得している。ちゃんと理由を聞いたわけでもないが、理由も察しが付いたし、少しは自分にも責任があったからだ。
 
 だけど、それからのことはどうだろう?
 
 白い毛並みの子猫になった幼なじみ――サネアツの登場。
 サネアツから語られる、衝撃の事実――異世界。
 そしてサネアツが行った暴挙――魔法。

 ジュンタがいた牢屋の壁は崩れ、見事に脱獄にしか見えない状況に。
 そうして逃亡が成功したのならともかく、結果を言えば再び捕まってしまって、状況は悪化しただけ。

 捕まった理由は簡単。これまたサネアツが行った第二の暴挙によってできた高くそびえる石の柱の上に強制的に乗ることになり、そして肝心の魔法行使者が気絶し、降りられなくなったからだ。

 そうしてなんとか地上に降りようと試みること一分。わらわらと石の柱の周りに集まってきた、紅い鎧の騎士の方々。

 先程の牢を壊した騒ぎで駆けつけてきたのだろう、石柱の上にいる脱獄者を見る視線はもの凄く鋭かった。

 なるほど、ダルマ倒しとはああいった風に実用的に使えるのかと感心しつつ、騎士たちのお陰で石柱の上から地上に戻ることができたのだが、そのままあえなく御用。

 少し手荒に手足を縛られて、新たな牢屋に連れて行かれる最中、視界に映ったのは綺麗なメイドさんに抱きかかえられた白い猫の姿。

 ――殺意沸きましたよ。ええ、マジに。

 その時のことを思い出し、ジュンタは額に青筋を浮かべる。今思い出しても腹立たしい。確かに姿形はか弱い小動物だが、あれはゴキブリより生命力に溢れた厄介な生物である。見た目に騙されちゃいけないという言葉を体現する、白いトラブルメーカーなのだ。

 まぁ、そんなことを初見のメイドさんに分かるはずもなく、サネアツは手厚く看護されている。その光景を想像する度にはらわたが煮えくりかえる。

 そうしてムカムカし続けて数分――脱獄騒ぎで先程の牢より堅固で、鉄格子もない薄暗い牢に閉じこめられたジュンタは、かなりの眠気を覚えてきていた。
 
 現在の時刻は……正確には分からないがかなり遅い。眠たくなるのも必然だが、このまま眠って良いものか?

(考えなきゃいけないことはたくさんあるよなぁ……)

 なんたって異世界である。
 
 現在、自分が生まれた世界を遠く離れ、恐らく地球での中世ヨーロッパ程度の文化レベルの異世界にいる。

 それは先程の脱獄騒ぎで得た、唯一プラスに働く情報であった。

「異世界、か。……なんで俺はこんな場所に来ることになったんだろうなぁ?」
 
 その答えを知っていそうな、サネアツ白い子猫も今は手元にいない。
 牢に捕まっている現状では、どう足掻いても今分かる以上の情報は得られないだろう。

 そう判断してからの行動は早い。

「取りあえず、明日考えよう。おやすみなさい」

 鎖が痛くないよう横向きになり目を閉じる。

 それからものの数分もせぬ内に、ジュンタは寝息を立て始めた。

 

 


       ◇◆◇






 リオン・シストラバスの朝は、いつも通りに始まった。

 聖神教会が鳴らす鐘の音がランカの街に響く頃、リオンも目を覚ます。それは朝日も昇って僅かの頃――貴族の令嬢が起きるには、少しだけ早い時間だ。
 
 眠たそうにうっすらと目を開けるリオン。  
 見慣れたベッドの天蓋を視界におさめ、少しだけ頭が動き出す。それでも完全覚醒にはほど遠い。
 
 リオンという少女、起きるのが早いのはいいが、少しばかり朝に弱かった。
 目を開けたまま、起きているか寝ているか分からない状態でいること数分――リオンは徐にベッドの上で身動ぐ。
 
 大の大人が五人は一緒に眠れるベッドの上を、ゴソゴソとゆっくり端に移動していく。
 
 端に移動した彼女は、転がり落ちるようにベッドから抜け出し、近くにあった椅子に腰掛ける。
 
 そうしてそこでまた数分、起きているか寝ているか分からない状態でボーとする。
 
 リオンがそうしている間に、部屋の戸がノックされた。
 
「…………どうぞ」
 
 リオンが声を出したのは無意識のことだ。彼女の頭はノックの意味を理解できるほど目覚めておらず、ただ常の条件反射として声を出したに過ぎない。

「失礼します」

 そんなことは百も承知のメイドが、部屋に恭しく入ってくる。
 
 手にはティーセットを乗せた銀のお盆。
 ティーポットには温かな紅茶が準備されていて、後はカップに注ぐだけになっている。

「おはようございます、リオン様」

「……おはようですわ、ユース」

 これまた無意識のうちにリオンはあいさつを返す。
 
 メイド――ユース・アニエースはお盆を椅子の横のテーブルに置き、テキパキとした動きで紅茶を入れる。

「どうぞ、ミルクティーです。リオン様」

「…………ありがとう」

 リオンは紅茶を受け取って、自然な動作で口へと運んでいく。

 優雅にカップを傾ける姿は、とても寝起きで寝ぼけている人間には見えない。紅茶を飲む仕草が条件反射にまで達している少女など、リオン以外にそうはいないだろう。

 目を細め、ぼうっとしながらもリオンは紅茶を飲んでいく。

 口の中で花開く紅茶の香り。
 香り高い高級葉は、甘いミルクと相成って少しずつリオンを現世へと呼び戻していく。

「……ん、今日もおいしかったですわ」

 紅茶を一杯飲み終わる頃には、リオンは完全に目覚めていた。

 これがリオン・シストラバスの朝の光景。
 数年前から変わることのない、優雅……とは少し言い難い朝の一時である。

 空っぽになったカップに二杯目、今度はストレートの紅茶を注ぎながらユースが話しかけてくる。

「リオン様。あまり眠れなかったのですか?」

「あら、どうしてそう思いますの?」

 カップを取ったリオンは、怪訝そうに眉を顰める。
 
ユースはいつも通りの冷めた瞳で見てきて、

「少しだけ、目が充血していますから」

 近くの棚から大きな手鏡を持ってきて、目の前に差し出してくる。

 金の縁で覆われた鏡には、寝起きの自分の顔が映っている。自慢の髪が少し乱れていることを除けば、いつも通りの麗しい顔である。寝起きだからといって眩しさをなくすような顔ではない。自画自賛と思われるかも知れないが、その通りなのだからしょうがない。

 他の誰より自分の美貌について理解しているリオンは、軽く小首を傾げた。

「充血……していますか? 私にはそうは見えませんけど」

「ええ、ですから少しだけです。睡眠不足というよりはストレスみたいな感じですね」

 リオンが鏡と睨めっこしている間、部屋のカーテンを開いていたユースが淡々と言う。

 このユースというお付きのメイドは、かなり有能なメイドである。
 
 リオンの家、即ちシストラバス家で働いている使用人は大抵が凄腕であるが、ユースはその中でも特別だろう。彼女はリオンの世話を主な仕事とする、リオン専属のメイドだ。専属となったことからも、その有能さは知れるというもの。
 
 薄茶色の髪を短く切り、頭にはホワイトブリムと呼ばれる、レースで出来たカチューシャ。 
 
 白いエプロンドレスの上からも分かる豊かな胸の膨らみと、羨ましいぐらいにスタイルはいい。銀縁眼鏡の奥に輝く無感動そうな翠眼が少し問題と言えば問題だが、それも人によっては好まれるだろう。
 
 時に主人を主人と思わぬ言動こそあるが、それも許容範囲。
 リオンの知る若いメイドの中では、間違いなくトップクラスの技能を有している。
 
 数年前から自分の専属となり、それ以来主人・従者の関係で付き合ってきた相手がユースだ。そんな彼女が言うのだから、自分の目が少し充血しているのは事実だろう
 
 ……それが一般では充血と言わないレベルの話であることは、まぁ、間違いないが。
 
 それにリオンも薄々、充血の原因である睡眠不足やストレスの原因に気付いていた。

 それは昨日の夜のこと。とある同年代ぐらいの少年のことである。

「ああ、思い出しただけで腹立たしいですわっ!」

 気付き、思い出してしまったリオンは、苛々と強くカップをソーサーに置く。
 まったく朝の優雅な一時が台無しだと、リオンは自分で思い出しておいて全てをその男の所為にした。

 名前も知らない男を想像の中でけたぐり回し、リオンはふんっと鼻を鳴らした。

「どうやらご機嫌斜めのようですね」

「当たり前ですわよっ!」

 広い部屋のカーテン全てを開いたユースが、近くに戻ってくる。
 
 彼女の一言に愚痴モードに突入する。

「あの不埒者が私に何をしたか、それを思い出しただけで……こ、この私の裸を見たあげくに、む、むむむ胸まで揉みしだきましたのよ?! ま、まだどなたにも見せたことがありませんのにっ!」

 脳裏に地獄のような光景が思い描かれる。

 自由なバスタイムは、一日の疲れを洗い流す至福の時間だ。
 自分が一日の行動の中でも重きをおくその時間を、よりによって人生でも五指に入る最低な時間に変えた不埒者。

 黒い髪に黒い瞳。黒縁眼鏡に黒に近い色の服。

 全身真っ黒という、暗殺者顔負けの男は、唐突に浴場に現れた。
 窓を突き破って侵入したわけでもなく、突如光と共に現れたのだ。

 リオンにはあの光がなんであったか、すぐに分かった。

『魔法光』――魔法使いが魔法を行使するにあたり、構成された魔法陣が放つ光のことだ。即ち、昨日現れた不埒者は魔法で侵入を試みたということになる。

 まぁ、侵入をしただけならばまだ分かる。

 リオンの家は何代も続く、貴族の中の貴族。
 騎士名家にして、神聖なる使徒の血を継ぐ一族。

 ――いと高きシストラバス。

 大陸全土に名を轟かせる家ゆえに、敵などいくらでもいる。ランカに居を構える本邸にも、侵入を試みようとする不貞の輩もたくさんいるだろう。現に今までにもいた。

 だがよりにもよって、今度の侵入者は浴室に現れた。それもシストラバス家の次期後継者である自分が入浴している時に、だ。

 思考が止まったというのは、ああいう時のことをいうのだろう。魔法光には理解が及んだというのに、次のことには理解が及ばなかった。

 突然の魔法光の輝きと共に、黒尽くめの不埒者が虚空に出現し、浴槽内に落ちてきた。

 ちょうどその時、自分は身体を洗おうと浴槽から出ようとしたところで、いきなり覆い被さるように落ちてきた不埒者に、そのまま押し倒される形になってしまった。

 咄嗟のことで身体を隠すこともできず、不埒者に全裸を晒してしまった。

 それだけでもリオンにとっては絶大なる屈辱……だと言うのに、その上不埒者は、手を伸ばして胸をまさぐってきたのだ。

 嫌悪とか、驚愕とか、屈辱とか。そういうことを全て真っ白にしてしまうほど、あれは衝撃だった。

 精神的にも肉体的にも真っ白になって、思考が定まらなくて無様に硬直。

 どうにか我を取り戻した経緯も、男に胸を揉まれたからで…………人生始まって以来の失態だ。

 その後も常に襲撃に備えて用意していた剣を取ったはいいが、気が動転して再び全裸を見せてしまったりと、思い出すだけで恥ずかしい。

「くぅぅ、なんたることでしょう……」

 自分の顔が真っ赤になっていることが、鏡を覗き込んでいるリオンには分かった。

 悔やんでも悔やみきれない失態の果てに不埒者を捕まえたのはいいが、昨夜、ベッドに入った頃に再び事件は起きた。

 悔しいですわ、許せませんわ、とリオンがベッドの上で悶々とすること数十分――どうにか眠れそうだと思った矢先、その騒音は耳に届いてきた。
 
 ガラァアアアという、固い何かが崩れる音。
 
 なにごとだと慌てて現場に駆けつけてみると、屋敷の中庭に石柱がそびえ立っていた。
 
 現場にいた騎士に尋ねると、返ってきた言葉は、捕まえた不埒者が脱獄を試みたという報告。自分は危うく、入浴を覗いた不埒者を逃がしかけたのだ。

「本当に、昨夜の私はどうかしていましたわ。あの男が魔法使いであることには気付いていましたのに、なんの対策もない牢に閉じこめるなんて」

 鏡を横へとどけつつ、リオンは苦虫を潰したような顔で呟く。

 魔法使いという人種を閉じこめるのに、普通の牢では役不足である。
 
 彼ら魔法使いはどんなに手足を塞がれていようと、固い鉄格子の中に閉じこめられようと、話すことさえ出来れば魔法を行使することが出来る。その力量によっては口を塞がれても魔法行使は可能で、牢屋からの脱出は容易いだろう。

 魔法使いを閉じこめるのには、魔法を使えなくする特殊な措置が必要だ。
 現在、例の不埒者を閉じこめてある魔法防壁が張り巡らされた牢も、そんな特殊な措置がされている場所の一つである。

「あの少年を逃がしかけたのは、私の失態でもあります。私も魔法使いの端くれながら、彼が魔法使いであることに気付くことが出来ませんでした」

 常の無表情を、僅かに申し訳なさそうにしてユースが謝る。

「いいですわ。元はと言えば魔法使いだと言わなかった私の失態。それに自爆するような三流魔法使い、魔力が感知できなくても不思議ではありませんもの」

 自分の斜め後ろに立つユースへと、そうフォローを入れる。いや、事実を述べたに過ぎない。
 
 リオンの表情には自己嫌悪。
 昨夜の失態を思い出し、屈辱に震える騎士の姿がそこにはあった。

「ですが捕まえることは出来たわけですし、それでよかったことにするのはどうでしょうか?」

「そう言う問題ではありませんわ」

 主人に対するフォローとして今度はユースが述べてくるが、そんなものはまったく通用しない。

「……ですが捕まえたのは事実。そして捕まえたということは、好きに罰を与えることができるということ。ふふふっ、さぁ一体どんな罰を与えて差し上げましょうか。そうですわね。取りあえずは手始めに地にひれ伏させ、自分がどんなに罪深いことをしたか教えて差し上げますわ」

 真紅の瞳を憎悪で燃やし、目尻をつり上げて激怒の形相を作る。

 怖っ! ――その時確かに、部屋にいたリオン以外の二人の意思は重なった。

 余程昨日のことが腹に据えかねているのか、リオンの恨み辛みの発露は続く。

「それから足を舐めさせ、屈辱と私の足に触れられる喜びを教え込み、二度とあんなことができないよう辱めを与えないといけませんわね。それから先は私の手足として、しばらくこき使って差し上げますわ」

 高笑いを浮かべ、とてもいいプランを考えてリオンはほくそ笑む。
 そんな人権とか色々問題がありそうなプランを、彼女なら実行できるのだから質が悪い。

 そこから先、リオンの口から次々と新たなオシオキの計画が述べられていく。よくそんなに思いつくものだと、リオンの妄想力をユースが再認識した時――

「にゃ〜」

 ――小さな鳴き声が部屋に響いた。

 それはか弱い小さな鳴き声であったが、リオンの人より優れた耳には届いた。

 それまでのサディスティックな笑みをピタリと止め、

「ユース。そう言えば、昨日助けた子猫さんはどうなってますの? あの不埒者の魔法の影響は何かありまして?」

「いえ、調べてみましたが、取りあえずは何も」

 ユースは部屋をトコトコと歩いていき、少し離れたところにあったテーブルに近付いていく。テーブルには大きな籠が置いてあって、その中にはたくさんのフワフワな布と、一匹の白い子猫が入っていた。

 ユースは優しく子猫を抱き上げ、リオンの元まで戻っていく。

 ユースの腕の中で目を開き、じっとしている子猫は非常に愛くるしい。
 白い毛は汚れ一つない綺麗な毛並で、クリクリとした黒眼は周りを観察している様子。ユースの連れてきた子猫を見て、リオンは満面の笑みを浮かべた。

「ふふっ、よく眠れましたか子猫さん。お互い、昨日は厄日でしたわね」

 リオンはユースから子猫を受け取って、人間の子供に話しかけるようにしゃべりかける。

 もちろん猫はにゃーとしか鳴かないが、リオンにはそれだけでよかった。
 今までのギスギスとした苛立ちが、猫の愛くるしい姿で癒されていく。手に伝わるフワフワで柔らかくて温かな感触は、なんとも心を解きほぐす。

 この世が猫で一杯になったら、きっと争い事はなくなるに違いないですわ――というのは、リオンが常々考えていることだった。

「子猫さん。お腹空いていません? もちろん空いていますわよね。ユース」

「はい、ちゃんと準備してあります」

 子猫を胸に抱くリオンからの、述語無しの催促にユースは見事に答える。
 都合数年の間柄は伊達じゃない。リオンが分かりやすいというのもあるが、大抵のことは以心伝心でユースには分かるのだ。

 リオンが求めたのは子猫のご飯――即ちミルクである。

「さぁ、子猫さん。たくさんお飲みなさい。お代わりはいくでもありますわよ」

 ふふふっ、とほ乳瓶をユースから受け取ったリオンは、幸せの絶頂という感じでほ乳瓶を猫に差し出す。

 猫は一度迷ったように身動いだ後、仕方がないと言わんばかりにほ乳瓶の先に口を付ける。

 ほ乳瓶の中のミルクを約半分あたりまで飲んだところで、子猫はほ乳瓶の先から口を離してしまった。お腹が一杯になったのか、しばらくリオンがほ乳瓶をそのままにしても再びは口を付けない。

「あら、もうお腹が一杯になってしまったんですの? まだたくさん残っているですけど……」

 リオンは残念そうにほ乳瓶をテーブルの上に置く。
 
 猫は撫でられるのが嫌なのか、リオンが撫でようとすると腕の中で暴れ出す。
 そんな子猫の仕草がたまらなく嬉しいのか、これでもかと言うぐらいに頬笑んでいるリオンに、ユースが声をかけた。

「ところで、一応尋ねておきたいんですが」

「なんですの?」

「いえ、聞かなくても大体答えは分かりますが……その猫どうするおつもりですか?」

「そんなこと簡単ですわ。家で飼うに決まってるじゃありませんの」

「ですけど、屋敷にはすでに二十を越す猫や犬がいますが……リオン様が拾われた」

 また増えるんですか? という遠回しなユースの問いに、それがどうした? とリオンは視線で答える。

「これまで拾ってきた猫や犬。彼らは我が家で飼ったというのに、この子猫さんを飼わないというのはかわいそうでしょう?」

「まぁ、分からないこともない理屈ですが、そもそもその猫に飼い主はいないのですか?」

 飼うことを前提にリオンは話を進めているが、前提条件として飼い主の有無の確認が先決ではないのか? そのことをユースに指摘され、初めて気が付いた。

 確かにそうだ。飼い主がいたのなら、飼うことはできない。

「で、でも首輪も何もありませんし、飼い猫ではないのではありませんの?」

「その割には毛並みが綺麗ですよ。首輪を嫌がったりするから、付けなかったという可能性も考えられます。首輪が無いからといって、飼い主がいないと判断するのは早計かと」

 ごもっともなユースの意見に、リオンは黙りこむ。
 
 小さくてフワフワな子猫。猫の中でも、かなり綺麗で可愛い子猫。

 ――飼いたい。

 腕の中で見上げてくる黒い瞳を見返しながら、リオンは考える。

「……分かりました。ではこうしましょう。今しばらくは魔法の影響が出るかも知れませんので、我が家で保護をしますわ。その後、何の問題もなければ飼い主を捜しましょう」

「…………それは全部をうやむやにしようという魂胆では?」

「そうと決まれば名前がないのは不便ですわね。よしっ、ここは私が素敵な名前を考えてあげますわ。そうですわね、なにがいいかしら?」

 先程のリオンの言葉は提案でなく、決定だったらしい。
 
 自分の言葉をことごとく無視されたユースは、溜息を一つ吐く。心境はもうどうにでもしてください、と成り行き任せだ。

 リオンはリオンで子猫の名前を考え込んでいる。それからしばらく真剣に悩んだ後、

「……シャルロッテ。ええ、シャルロッテにしましょう。真っ白な毛並みがどことなく気品を感じさせますし」

「シャルロッテ……ですか?」

 ユース個人としては特にその名前に文句はないが、ユースの目にはその名前を猫が嫌がっているように見えた。

 子猫はジタバタと、何かを訴えるように暴れている。

「シャルロッテ、シャルロッテ――我ながらとてもいい名前ですわ。それではシャルロッテ。今日から私があなたの主人ですわよ」

 ニコリと笑って子猫に名前を付けたリオン。
 その名前を猫が嫌がっているのは、まったく気にしていない、というか気付いていない。

 シャルロッテ、シャルロッテと、新たな自分のペットの名前を呼ぶ。

 嫌な名前を呼び続けられた子猫は、ついに限界を迎えたようだった。

「いたっ!」

 リオンが小さく悲鳴をあげ、抱いていた子猫を開放してしまう。

 そのまま床に降りた子猫は、トトトトッと走って行く。
 慌ててその後を追うも、器用に子猫は窓から外へと出てしまう。

「きゃあっ! シャルロッテ?!」

 先程子猫にひっかかれた手が少し痛むも、今は気にならない。それよりなにより、子猫の安全の確認が優先される。

 リオンの部屋は屋敷の三階。
 猫といえど、地面に落ちたらいっかんの終わりだろう。

 脳裏に嫌な想像を描きつつ、窓へとリオンは駆け寄る。
 
 身体を乗り出して外を見てみる。下の地面に、白い子猫の姿は見られない。
 
 なら、一体どこへとリオンは考えたが、その疑問はすぐに解決した。
 窓の少し下にある僅かな出っ張り。そこをトトトトッと駆けていく子猫の姿があったからだ。

「はぁ、よかったですわ……って、早く捕まえませんとっ!」

 だからといって安心はできない。
 出っ張りは僅かなもので、少し重心を崩しただけで地面に真っ逆さまだ。あんなところに、かわいい子猫を放っては置けない。

「ユース! 行きますわよっ! 一刻も早くシャルロッテを保護するのですわ!」

 寝巻き着である薄地のドレスのまま、リオンは扉を蹴破る勢いで部屋を飛び出ていってしまった。

 こうなると、従者であるユースも後に続くしかない。

 小さく溜息を吐いてリオンの後を小走りに追うユース。
 こんなことが時折の、リオン専属メイドであるユースの、朝における日課であった。

 

 


       ◇◆◇

 

 


「起きろジュンタ。もう朝だぞ」

 と耳元で囁かれ、ジュンタは目を開けた。

 目を開け、まず飛び込んできたのは白い毛むくじゃら。かわいらしい子猫の姿だった。
 一瞬、それが誰なのか分からなかった。いや、どうして猫が自分を起こしに来たのかが分からなかったのだ。

 だが、身動きの取れない身体と、猫の向こうの呪文が書かれた石の天井を見、ジュンタは白い子猫が誰であるか思い出す。

「おまっ、サネアツ!」

「そうだ。ジュンタ専用の愛くるしいマスコットキャット。サネアツ君だ。決してシャルロッテという痛々しい名前ではないからな」

 かわいらしい猫の身でニヒルに笑うサネアツ。彼が言った言葉の意味はわからずとも、彼に何かがあったことだけは分かった。珍しく落ち込んでいる。

「くそぅ、手足が自由なら一発殴れるんだが。生憎と手足を縛られてるからな。お前を粛正することは難しい」

 ベッドに寝転んだまま、手と足を鎖でグルグル巻きにされているジュンタは、恨めしい視線を顔の傍にいるサネアツに向ける。

 何を隠そうこの状況、原因はサネアツである。が、サネアツは気絶していたから知らない。首を傾げている。

「……まぁ、いいや。過ぎたことをああだこうだ言ってもしょうがない」

 眠る前は彼に対して強い怒りを覚えていたのだが、今はそれほどない。
 だって仕方がない。サネアツの今の姿は、ずっと一緒だった人間の姿ではなく、小さな子猫の姿なのだから。前は普通にできた殴る蹴るも、小猫の姿だとできそうにない。

「ふむ、色々と俺が気絶した後にあったようだな。残念だ。興味深そうなのに……」

「それはもう忘れさせてくれ。そんなことよりサネアツ、お前この鎖どうにか解けないか? かなり痛いんだけど」

 ジュンタのお願いにサネアツが首を横に振る。

「無理だ。先程試してみたのだが、できない。猫の筋力では千切れないし、魔法を使って切ろうにもこの部屋の中では魔法が使えないようだ。ジュンタを起こす前に色々と試したんだがな、全て不発に終わった」

「……それはこの部屋に感謝だな。そうじゃなきゃ、今頃俺はミンチになっていたかもしれない」

 昨夜のサネアツの所行を思い出し、タラリとジュンタは冷や汗を垂らす。
 威圧感しか与えてこなかった物々しい呪文が書き綴られた壁が、なんとも頼もしかった。

「だけど、サネアツにもどうしようもないとすると、本気でどうしようもないよな」

「まぁ、いずれ解かれるだろう。それまで我慢するしかあるまい」

 誰のせいでこうなったのかは置いておいて、サネアツの言葉は正論である。

「そうだな。じゃあ、この問題は横に置いておこうか。
 さて、それじゃあ次の質問だ。サネアツ、ここが異世界ってどういうことだ?」

 それは昨夜の質問の続き。
 今一番に考えなきゃいけない、理解しなければいけないことだ。

 サネアツはベッドに座り込んで、ジッとジュンタの顔を見る。滅多に見られない、真剣な顔つきである。

「……そうだな。当分時間もありそうだ。話そうとしようか」

「頼む」

「うむ、承知した。
 ではまず、一言先に行っておく。ジュンタ、お前はここが異世界であることは認めたな?」

 サネアツの問いに頷き返す。

 今もまだ鮮明に思い出せる異世界の風景。
 決定的な証拠を見せられた訳じゃないが、不思議とジュンタは今自分がいる場所が異世界だと確信していた。

「よし、それならばそれを前提に話そう……と言っても、俺にもほとんど分からないんだがな」

「そうなのか? なんだかなんでも知ってそうな感じだけど? ほら、魔法とか使ってたし」

 どうやって知識を得たかは知らないが、サネアツは異世界の知識について色々と知っているように見える。

 だが、それは半分正解で、半分間違いだったらしい。

「確かに。俺が異世界でこの猫の姿で目覚めたとき、教えて貰ってもいない知識がある程度分かっていた。今俺たちがいる場所が地球とは違う異世界だということも、魔法を使う方法も、他にも色々と知識が頭の中にあった。だがな……」

 サネアツは軽く首を振る感じで、

「どうして俺が猫の姿なのか、異世界にいるのか、知らないはずの知識を知っているのか……そういう根底にあるべきことは分からんのだ」

「そうなのか? まぁ、俺もどうして異世界に来たのか、よく分からないしな。覚えてるのは、アルバイト帰りにおかしな光に遭遇したってことだけだ。たぶん、その光が原因なんだろうけど、確定じゃないし」

「俺の場合は異世界に来る前の記憶もあやふやだ。奇怪な光に遭遇した記憶もないと思う」
 まったく分からない原因に、二人揃って肩を落とす。

「……だがまぁ、俺の場合はどうやら事前情報があったらしいがな」

「事前情報って、サネアツは異世界に来ることを分かっていて異世界に来たってことか?」
 意外なサネアツの言葉に、ジュンタは驚く。

「確か、そういう風な感じで俺は異世界に来たような気がする。だが、どうやって異世界のことを知り、どういう経緯で異世界に来ることになったかは覚えてない。現状で分かっていることはここが異世界であり、俺が魔法を使えることであり、そして――

 サネアツは指し示すように、ジュンタを指差す。

「俺はジュンタのサポート役としてここに在るらしいということだけだ」

「俺の、サポート役?」

「ああ、何をサポートするか、それは定かじゃないが、そのことだけは間違いない。俺はジュンタを助けるためにここにいる。そしてジュンタが異世界にいる理由も、確かに存在する。そういうことだ」

 サネアツの言葉に、ジュンタは頷く術を持っていなかった。

 いきなり異世界に連れてこられ、その理由は分からない。だけど異世界に来る理由はあって、サネアツはその理由のために一緒にいるという。

 まるで要領を得ないのに、奇妙に物語が作られている。
誰かの手の平で踊っているようで、なんとも気持ちが悪い。

「恐らくは、その理由も直に分かるようになるだろう。不思議とそういう確信がある。いずれジュンタの身に何かが起こり、それこそが異世界に来た理由だと思い出すことだろう。よくは分からないが、俺は差し当たってはジュンタを助けることをがんばろうと思う」

 自分のことを奇妙に思っているのはサネアツも同じ。いや、サネアツの場合は人間の姿すら奪われ、猫の姿になっている。困惑は自分以上だろう。

 それなのに、サネアツは自分の元に駆けつけてくれ、助けてくれるという。

 ……なら、こっちも黙っているわけにはいかないだろう。

「じゃあ、差し当たって俺は、その理由が訪れるまで異世界ライフを楽しむってとこかな」

 最悪に近い状況だが、せめて気持ちだけはポジティブに。
ジュンタとサネアツ。異世界からの来訪者は、互いに顔を突き合わせ、申し合わせたかのように同時に吹き出す。

 少なくとも、遠い異世界に一人でないということは頼もしい。

 と、その場の雰囲気が和やかになった時――その声は聞こえてきた。

「屋敷中を探し回って、一体どこへ行ったかと心配をして、もしかしたらと思って赴いてみましたら……そうですの。あなたが隠していましたの」

 人の胸を打つ、澄んだ声。
 聞き心地のいい声が、今はただただ恐ろしい。

 ギィ〜と重たい戸が開く音が、狭い部屋に響き渡る。

 怒りの籠もった声の主は、どうやら戸の向こう側にいるらしい。

「おっとこれはいけない。ジュンタ。俺は情報収集のために猫の振りをしようと思う。だから他人がいるところではしゃべらない。そういうことにしておく」

「あははははっ、ちょっと待てやコラ。明らかにお前のせいっぽいぞ! その理由、どう見ても逃げの言い訳だろ!?」

「…………(足で頭を掻いている)」

「うわぁ、もうすごい猫の振りしてるし、っていうか上手いなサネアツ。…………なんかもの凄い殺意が近付いてくるんですけど、見たくないなぁ〜」

 ジュンタは今、ベッドの上に身動きの取れない状態だ。
 体勢上、牢の戸の方が見えないため、見えないが故の恐怖を味わっていた。その小刻みに震える姿は蓑虫のようであり、生贄のようであった。
 
 ピョンとサネアツがベッドの上から飛び降りて、安全そうな隅っこに走って行く。

 靴が床を叩く音が、ゆっくりと近付いてくる。

「ふふっ、何を一人でブツブツ言っていますの? ああ、命乞いの練習ですか。安心なさい。そんなことをしても無駄ですわ。なぜなら命乞いを聞くつもりはありませんから」

 目線は真っ直ぐに、横を見たくないジュンタ。
 上から降り注ぐような少女の声は恐怖の具現のようで、だが見ないでいるのも恐ろしい。

「いやぁー、一応言っておくけど全ては偶然の結果というか、俺も巻き込まれた側というか……被害者なんですけどぉ〜」

 ジットリの背中に汗が伝ってくる。
 異世界って厳しいんだなぁー、と知りたくもない教訓を覚えた瞬間だった。

 そして訪れるその瞬間――ジュンタは自分の死に様を想像した。

「さぁ、部屋まで来なさい。このリオン・シストラバスが直々に、正義とはなんたるかを教えて差し上げましてよ。ええ、あなたにシャルロッテは渡しませんわ」

 訂正――異世界云々ではなく、全ての物事はサネアツの存在故に優しくないらしい。









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