第四話  奉仕活動初日(前編)
 

 

 むくりと身体を起こすと、その拍子に胸からゴロンと白い塊が床に転がっていった。

 白い塊……それは白い子猫だった。
 フワフワと温かく、柔らかくて弾力のある子猫。名をサネアツといい、少し前までは人間として生きていたという経歴を持つ、とんでもキャットである。

 サネアツは床に転がり落ちても、まったく気にすることなく眠っている。呼吸に合わせて腹部が揺れ、尻尾がピクピクと動く。

「……寝てれば普通の小猫みたいでかわいいんだがなぁ〜」

 だがその正体は、起きればその瞬間に得体の知れない行動に出る白い猫なのだ。

 なんともおかしな言動でしゃべり、演技じみた動作を取る。幼い子供の心を外見でとろけさせ、内面でトラウマを与えるという、愛くるしい形をした最終兵器――うん、どうやらかなり寝ぼけているらしい。

 もう一度大きくあくびをしつつ、ジュンタは立ち上がる。
 
 秋という季節だというのに、ジュンタは毛布一つかぶらずに眠っていた。
 それは別に暑かったというわけじゃなく、純粋にかぶるものが無かったからである。もし毛布の一枚でもあったなら、サネアツを湯たんぽ代わりには使わなかっただろう。

「んぁ、二日連続で変なとこで寝たからなぁー、身体が痛い。エネルギーが足りない」

 小さな窓から朝日が差し込む部屋は酷く殺風景だ。
 石造りの部屋には家具の類が一つもない。十畳ほどの部屋の天井から床まで、ゴミや塵が一つとしてないかわりに、物もまったくない。

 そんな部屋がジュンタの部屋であった。

 無論、元から何もない部屋だったわけじゃない。昨日の夕刻までは逆に物が溢れかえっていた……見事なまでに何一つ再利用不可能な、ゴミが。
 
 腐って支柱の折れたテーブル。カビの生えたベッド……エトセトラエトセトラ。耐久年数を百年近く超えたガラクタ、それが昨日まで部屋を占領していた物の名前である。

 この部屋を今日から働くことになった屋敷の主に宛がわれたジュンタは、初めは部屋として機能できるように、害虫の巣としてでしか存在意義のない部屋を人間が住める空間にしようとした。

 一人ではそのあまりの汚さに絶望したが、サネアツという頼りになる相棒の存在に、袖を捲って作業に取りかかり……五分で挫折した。

 ――そしてサネアツに一言。

『全部、燃やしちゃって』

 そしてサネアツの暴走魔法によって破壊された部屋は、害虫やガラクタを経済的に処理できた変わりに、何一つなくなってしまった。壁にも破壊の余波で傷ができていたりする。

 まぁ、前よりはマシだろうと諦めた。

 疲れもあったので、そのままの部屋の固い床で眠ってしまった。またもや魔法を限界超えて行使してしまったサネアツも、同時にダウンである。

 そして翌朝……つまり今に至る。かなり寝た。

 ジュンタは固く固まった身体を解しつつ、左腕に視線を注ぐ。
 
 左腕には、元の世界からこの異世界に持ってくることができた腕時計が嵌められている。この異世界の正確な時間は分からないが、大体の時間で時を刻んでいる。

「…………朝の六時か……」

 結構早いが、だからといってもう一度眠る気にはなれない。
 床にはダランと大の字になって眠る白い猫がいるが、生憎とサネアツほど状況にのんびりはしていられない。

 なぜなら今日から、このシストラバス家で無償奉仕を開始するのだから。

「さて。じゃあ、行ってくるとしますかね。サネアツは……まぁ、このままでいいか」

 ジュンタはサネアツを一瞥した後、部屋から出ようと扉の取っ手に手をかける。

 だが扉は、ジュンタが開くよりも先になぜだか開いた。

「あれぇ?」

「ん?」

 ……開いた扉の向こうにいたメイド服の少女と、バッチリと視線が合ってしまった。

 軽くウェーブしている髪に、元気良さそうな鳶色の大きな瞳。
 少しばかり背は低いがスタイルは中々によろしい。メイドスタイルとのマッチはグッドである。

 初見である彼女は部屋の扉を開け放った格好のまま、目を二度三度瞬かせる。

 その後――

「おはよう、新人君。よく眠れたかな?」

 元気よくあいさつをしてきた。
 ジュンタも少女の格好と第一声に、彼女がどんな人物であるか見当がついた。

 赤と白のエプロンドレス。その格好は、昨日ジュンタが見たユースというメイドの女性と同じ格好だ。つまり、彼女もこのシストラバス家の使用人ということになる。

 新人くん、と呼ぶ辺りから、どうやら自分呼びに来てくれたらしい。

「おはよう。ええと、君はこの家の使用人の人でいいのかな?」

「うん、その通り。名前はエリカ・ドルワートル。歳も同じぐらいみたいだし、エリカでいいよ。君の名前は?」

「ジュンタ・サクラ。お言葉に甘えてエリカって呼ぶからそっちも好きに呼んでくれ」

 笑顔が眩しい少女――エリカに、ジュンタも釣られて頬笑んでしまう。

 彼女はリオンのように飛び抜けてかわいいというわけじゃないが、人を自然に笑顔にしてしまう魅力のようなものを持っていた……まぁ、ジュンタが彼女に感激してしまったのは、もっと別のことが原因だったわけだが。

(……普通だ。初めて出会う、普通の女の子だ)

 何気に失礼な感想だが、そんな存在こそをジュンタは求めていた。

 なぜなら今まで会う異世界の住人たちは、皆が皆どこかおかしい、性格に難がありそうな人間ばかりだったからだ。

 この出会いに感謝を。
 今日から始まる日々に少しだけ光明を見た気がするジュンタは、ふと気が付く。

「……ちょっと待ってくれ。君、エリカ? エリカ・ドルワートル?」

「そうだよ。ジュンタ君、それがどうかした?」

「…………あー、君のお父さんはこの屋敷で騎士をしてる、エルジン・ドルワートル?」

「そうだけど…………もしかしてお父さんに何か言われた? まぁ、大体予想は付くけどね。どうせ娘に手を出したらタダじゃおかない、ってとこでしょ?」

 快活に笑う彼女の言うとおり。
 エリカの父・エルジンから言われたのは、まったくもってその通りの意味の言葉だった。もっとも、告げられた言葉はもっと直接的な行為を表していたが。

 エリカはジュンタの様子に、ここにはいない父親のことを呆れ顔で語り始める。

「はぁ……まったくお父さんったら。ごめんね、ジュンタ君。でもお父さんのことは気にしなくて良いからね。お父さん、取りあえず来る人来る人にそういうから。別にジュンタ君個人に対して恨みとか敵意を持ってる訳じゃないから」 

「…………いやぁ、そうだとウレシイナー」

 ニコニコと笑うエリカは知らないから、そういう態度を取れるのだ。

 もし屋敷で働くことになった原因をエリカが知れば、そんな態度は取れないだろう。
そして『娘に手を出したら殺す』と、そう忠告したエルジンに冗談とかジョークだとか、そういう感じはまったく感じられなかった。つまり至って本気。エリカに手を出したらマーダーされます。

「エ、エリカ。それでどうして部屋まで来てくれたんだ? 何か用事でもあったのか?」

 出来るだけ彼女とは関わらないようにしよう――そう心に決めたジュンタの言葉に、エリカは首を縦に振る。

「うん。メイド長に執事服と、それと色々な案内をお願いされたの。つまりはジュンタ君の教育係ってとこかな? よろしくね」

 エリカに悪気はない。そう分かっているのだが、彼女の後ろに親バカ騎士を見てしまい、笑顔で右手を差し出した彼女の存在を素直に喜べない。最悪の人選だ。

「……よろしく頼む」

 取りあえず彼女の気分を害さぬ範囲で最短に握手を済まし、ババッと廊下の様子を窺う。
 
 部屋の陰から親バカ騎士が覗いてでもいないかと疑心暗鬼に。杞憂だった。

 傍目には怪しいジュンタの態度をおかしく思った様子はなく、エリカは天真爛漫に笑う。

「じゃあ、ジュンタ君。これが執事服ね。これに着替えてから食堂に行くよ」

 と言ってエリカが渡してきたのは、真新しいきれいな服。

 見るからに上等そうな生地でできているその服は、エリカの言葉が正しいなら執事服。これからの仕事着となる服である。

(まさか、執事なんてすることになるとはなぁ……)

 元の世界にいた頃には想像もできなかった職種である。

 エリカから受け取った着替えを、複雑な面持ちで広げる。
 白いシャツに燕尾服……というのだろうか? 黒い上着に下は黒いスラックスと、比較的スーツに似た感じに仕立てられている。

 服の構造上、着方が分からないということもなさそうなので、早速着替えようと、ジュンタは広げていた服を胸に抱えてから、部屋に戻ろうとする。

 そこで、部屋を不思議そうに覗き込んでいるエリカの存在に気が付いた。

「エリカ、一体何やってるんだ?」

「え? あ、うん。いや、ね。この部屋ってば結構汚かったでしょ? それなのに、今はこの通り。すごいなぁ〜って思って」

「ああ、なるほど」

 エリカが語った理由にジュンタは納得する。

 昨日のような汚さの部屋を使用人が知らないはずもない。
 あの現状を知っていた人物なら、今の部屋の様子に驚くこともあるだろう。

「……でもさ。一つ訊くけど、どうしてあそこまで汚かったんだ? 掃除とか、普通するだろ?」

 知っていたらならどうして片付けようとしなかったのか?

 そこのところどうなのかと、ジュンタはエリカに尋ねてみる。
 エリカはジュンタの至極当然の質問に、バツが悪そうな顔となり、

「確かにその通りなんだけど、少しばかり理由があってね。掃除はできなかったの。理由は……ごめんね。口止めされてて、言えないんだ」

「いやまぁ、いいけど……」

 どうやらこの部屋は、自分が思っているより深い事情がある場所らしい。

 自殺者がいたとかだったら最悪だと思いつつ、ジュンタはエリカに言葉を向ける。
「それじゃあ、俺は着替えてみるから」

「うん。大丈夫だと思うけど、もし着方が分からなかったら遠慮無く言ってね」

「ありがと」

 エリカの普通の気遣いがもの凄く嬉しいジュンタだった。

 ニコニコとかわいらしい、異世界における初めて癒しになる女の子である。……少なくとも彼女自身は。少なくともこの時は、そうジュンタは思っていた。

「これで父親があれじゃなければ……惜しい。実に惜しい逸材だ」

 部屋に入り戸を閉め、元の世界から着てきた制服を脱ぎ、仕事着を手に取る。

 シャツを着て、上着に手を通し、スラックスを履く――着替え終了。

「う〜ん、取りあえず着てはみたけど、なんだか今一しっくりこないな。生地が新しいからなのか、それとも着方を間違えたのか……」

 取りあえず着てみたが、どうにも着心地が悪い気がする。
 部屋には姿見はおろか、手鏡もないので自分の姿を見ることは出来ない。だからおかしいのかも分からない。

「まぁ、取りあえずエリカに感想を聞いてみるか」

 そう思って扉を開け、廊下に出る。

 廊下にいるはずのエリカに、ジュンタは服の感想を聞こうとして、

「あら、ようやく出てきましたわね」

「中々似合っていますよ。ですが少し襟元が歪んでいます」

 偉そうな主人と冷静なメイドの姿を視認し、扉を閉めて部屋に引っ込む。

「ちょっとなんですのよっ! 人の顔を見るなり扉を閉めるなんて、無礼にも程がありますわよ!」

 バンッ、とその次の瞬間には、怒声と共に戸が開け放たれてしまう。

 哀れ。錆びつきながらもがんばって役目を果たしていた戸は、廊下側からすれば引き戸なのに思い切り突き破られ、留め具が壊れて吹っ飛んだ。

 戸を壊した張本人も少なからずご臨終に驚いていたが、すぐ表情は怒り顔に戻る。

 リオン・シストラバス――彼女の突然の来訪に頭を痛めながら、ジュンタは部屋の中に入ってくる彼女を出迎える。

 一応彼女は、今日から自分の雇い主。取りあえずの敬意を込めて、朝のあいさつをする。

「おはようございます」

「ええ、おはようですわ……ではなくっ! これ、どういうことですのよっ!?」

 リオンの言葉の意味が分からないジュンタは、先程ユースより言われたとおり襟元を直す。先程感じた違和感は、綺麗さっぱり無くなった。

「よしっ。じゃあ、がんばって仕事を始めますか。いやー、緊張するなー」

「無視するのではありませんわ!」

 紅い髪を逆立てながら怒鳴るリオン。
 せっかく先程の意味不明な発言を聞かなかった振りをしてあげたというのに、こう大きな声で呼びかけられたら見て見ぬ振りもできない。

 ちょっぴりかわいそうな人を見る視線でリオンの方を見て、ジュンタは眼鏡の位置を徐に直す。実際、何の意味のない行為。会話を一呼吸置くための行為でしかない。

「……なにか問題でも?」

「問題ありすぎですわよ! 主人を無視するなんて使用人として言語道断ですわ!」

「それは申し訳ございません。使用人として、あそこはスルーするべきかと判断いたしましたので」

 リオンの言うことは一々正論なのだが、どうやら彼女は自分が例外に当たる存在だとは気付いていないらしい。

「まぁ、いいや……それで? こんな朝早くからなんの用なんだ? そんなに貴族っていうのは暇なのか?」

 これまでは一応主人相手ということで敬語を使っていたジュンタも、なんだかバカらしくなって素の態度に戻る。

 砕けた口調にリオンは文句を付けたそうな顔をしたが、先にジュンタの質問に答えた。

「暇なわけがありませんわよ。やることなどたくさんありますわ。市民からの要望や苦情、書類仕事は本当に大変なんですから」

「なら、こんな一使用人の部屋で遊んでいる暇はないんじゃないのか? さっさと仕事しないと、色々な人に迷惑がかかるだろ?」

 そうジュンタが言うと、リオンの後ろに控えていたユースがうんうんと頷く。
 
 なんとなくシンパシー。どうやら怜悧そうなメイドさんも、高飛車な主人には困っている様子。眼鏡越しに互いの視線を合わせ、揃って軽く苦笑する。
 もっともユースの表情はまったく変わっていないが、それでもジュンタは彼女が苦笑したような気がした。今異世界を越え、リオンという迷惑極まりない少女の元、二人の意思は通じ合ったのだ。

「って、なに二人見つめ合ってるんですのっ!」

 二人を見て、決して通じ合えそうにもない少女がガーと吠える。

 ジュンタはリオンが本当に由緒正しい貴族であるかと疑問を抱くと共に、いい加減に本題に入って欲しいと口を開く。

「結局、リオンは何の用で来たんだ? 本気で急いでるから、できればさっさと用件を話して欲しいんだけど」

「……名前を呼び捨てにされたことに対する怒りはさておき、いいでしょう。このままあなたと話していたら日が暮れてしまいますものね」

 リオンは眉根をつり上げたまま、腕を組む。
 そうして用件を話そうと桃色に色付く口を開いたところで、ピタリと硬直した。

(……一体何なんだ? もしかして、何の用件もなしに来たのか?)

「そ、そのですわね。用件は……そう、ですわね、ええと……」

 なぜかしどろもどろになるリオン。本当に用件があったのなら、こんな風にはならないだろう。

 ジュンタは怪訝に思いつつ、リオンの向こうのユースへと視線を向ける。
 声はなくとも、溜息を吐いたユースの姿に大体のことを察する。まぁ、昨日のことを考えれば嫌でも分かるが。

 ジュンタはリオンに対し、呆れているのか同情しているのか分からない視線を向け直す。

「どうせあれだろ? 汚い部屋に絶望して、一人寂しく廊下で寝てる俺を笑いに来たとか、そんなところだろ? わざわざ朝早くに支度を整えて、ご苦労なことだな」

「な、何訳の分からないことを言ってますのよっ。由緒正しい貴族であり、騎士である私が、そ、そんなことをするはずないではありませんの!」

 そう言われても、視線が合わないようにそっぽを向き、冷や汗を垂らしながら言われても説得力がない。見事な狼狽ぶりを見せられて、どう信じろというのか?

(まぁ、十中八九予想通りなんだろうけど……それはそれで癪だよな)

 心に、少しの悪戯心が湧き上がってくる。
 一度この少女をギャフンと言わせたいという念が、沸々と湧き上がってくる。

 ジュンタはちょっと考え、口ごもるリオンに対し口を開いた。

「……でも、そうだよな。まさかリオン・シストラバスともあろうお人が、そんな人間としてどうかと思えるようなことはしないよな。いや、おかしなことを言ってしまいました。申し訳ございませんお嬢様」

「…………ええ、分かればよろしいんですわ」

 堂々と皮肉を言ったというのに、それを受け入れざるをえなかったリオンの顔は、屈辱に歪んでいる。それでも毅然と胸を張っている姿は、なんともおもしろい。

(やばい。なんだ、このからかいがいのある奴は)

 屈辱に震えていながらも、ジュンタの言葉に反論する手だてがないため、下唇を噛んで堪えているリオン。彼女がからかいに見事に陥ってくれたことに、ジュンタは感激に似た気持ちを抱く。

 策士、策に溺れる。

 嫌がらせをしたリオンは、嫌がらせと理解しているがゆえに、指摘をはね除けることができなかったのである。

「それで結局、どうしてお嬢様はこの部屋に来られたんですか?」

「え、えと、そうですわね。ただの――」 

「もちろん、ただの偶然なんて言いませんよね? こんな突き当たりの部屋、お嬢様が偶然に来るなんてことありませんよね?」

 リオンの反応に気を良くしたジュンタはニコリと笑って、リオンの言い訳の途中で口を挟み、追撃を叩き込む。

 正論には言い返せないタイプなのか、リオンはうぅっと唸って口を噤んでしまう。

 どうしよう、と傍目から見ても焦っている様子を見せ、キョロキョロと部屋の中を見回している。

 光明の糸口を見つけようとしているのだろうが、生憎と部屋には何もない。彼女が求めているようなものは……いや、一つだけあった。

 リオンは部屋の床の一点に視線を向けたまま止まる。

(あ〜あ、すっかり忘れてた……)

 ジュンタの質問に対する返答を見つけてしまったリオンは、素早く動いて床に寝転がっていた白い塊を抱き上げる。

 床で寝ていたというのに汚れもない白い毛並み。
 眠っている姿だけなら、非常に愛くるしい子猫のサネアツだ。

 サネアツを抱き上げたリオンは、ジュンタに対して笑みを向ける。

「ふふっ、私がここに来た理由はもちろん、あなたのような下賤な輩が寒さに震えるところを見に来たわけではありませんわよ。このシャルロッテを探しに来ただけですわ」

「なるほど……それなら納得できるか、一応は」

 上手い具合に逃げられてしまい、内心からかえなかったことを残念に思う。

「というか、シャルロッテって何だよ? 聞き慣れない名前だけど……もしかして、その猫のことじゃないよな?」

「? 当たり前でしょう。このシャルロッテがシャルロッテでなければ、一体何だと言うんです?」

「……その猫、一応雄なんだけど。あと、名前はサネアツっていうんだけど」

 リオンが何やらサネアツを普通の子猫と勘違いして、可愛がっているようなのは分かっていたが、まさかシャルロッテなんて名前を付けているとは予想外だった。

 白い子猫の姿なら違和感はないが、サネアツの元の姿を知っているジュンタから見れば笑い話にもならない。痛々しい命名である。

 だが名前に対し問題を抱いたのは、何もジュンタだけではなかった。

「サネアツ? 何なんですの、そのおかしな名前は? まさかとは思いますが、シャルロッテの名前……なんてことはありませんわよね?」

「いや、その通りなんだけど。サネアツ。その白い子猫の名前」

「な、なんですって!?」

 リオンはサネアツを胸に抱きかかえたまま、

「サネアツ? こんなに愛くるしいのにサネアツ? 一体あなたどんなネーミングセンスをしていますの? 痛々しいですわよその名前! ……い、いいえ。それよりもあなたが名前を知っていると言うことは、シャルロッテはまさかあなたの飼い猫ですの?」

(サネアツ。哀れな。自分の名前を痛々しいとまで言われたぞ)

 リオンに抱き上げられた衝撃で、つい先程長い眠りから目覚めたサネアツが、寝起き様に『サネアツって名前、痛々しい』と言われ、物の見事に硬直している。

 サネアツが何気に自分の名前を気に入っていることを知っているジュンタは、ショックを受けている子猫を見て少し同情する。恐らくサネアツといえど、名前をここまでぼろくそに言われたのは初めてのことだろう。

「ちょっと、どうなんですの? あなたがシャルロッテの飼い主なんですの? 早く答えなさい!」

 我慢という言葉を知らないのか、リオンは再度質問をぶつけてくる。

 なんと答えるべきか、目線でサネアツに尋ねてみる。
 サネアツはちょっぴり濁った目で、コクリと頷いた。飼い主ということにしておいてくれという意味に違いない。

「そうだよ。俺がサネアツの飼い主だ」

「そ、そんな……あなたみたいな人間最底辺の男が、こんな愛くるしいシャルロッテの飼い主? う、嘘ですわ。猫を飼ってる人に悪い人はいないというのは、間違ってましたのね」

 ガクリと膝をついたリオンの手から、藻掻いてサネアツが飛び出る。
 そのままこちらへと走ってきて、身軽に跳んで肩まで昇ってきて、リオンに見せつけるようにスリスリと頬をすり寄せてきた。

「理不尽ですわ……世の中間違ってますわ……」

 幸せそうなサネアツを見て、リオンは恨めしい目を向けてくる。

 彼女は立ち上がると、ビシリと指差してきて、

「私は諦めませんわ! 絶対にサネ――いえ、シャルロッテは私が貰い受けて見せます! それまでせいぜい、その何物にも代え難い感触を味わってるがいいですわ!」

 と言い残して、脱兎の如く部屋を飛び出していってしまった。

 ……リオンが去った後の室内に、なんとも言えない空気が残る。

「申し訳ありませんでした。昨日わざわざリオン様が汚した部屋といい、今日のことといい……今日中にはこの部屋の中にちゃんと家具を配置しますので。あと、どうぞサネアツ君は飼ってください。問題はありませんので。では失礼します」

 リオンに置いていかれたユースが綺麗に一礼し、主人の後を追って部屋を出て行く。
 
 部屋に取り残されたジュンタは、何とも言えないやるせない気分で首の後ろに触れた。
 主の登場で廊下の隅で畏まっていたエリカの復活を待って、ようやく食堂へと赴くことが出来たのは、起床より三十分以上も後のことだった。


 

 

       ◇◆◇






 シストラバス家にある部屋は、使用人しか使わない部屋といっても内装はかなりのものである。

 朝の一悶着の後、エリカに連れられてやってきたのは広々とした食堂。
 白いテーブルクロスが引かれた長机に、所々花瓶が飾られている。椅子が百近く並べられ、一度に何人もの人が食べられるようになっている。

 壁には献立表か、はたまた何かの教訓か、ジュンタには分からない異世界の文字で書かれた紙が貼り付けられていた。

 使用人たちが食事を取る場所である食堂は、主の食事が作られる場所でもある。
 
 食堂内に今はほとんど人はいないが、奥まったところにある調理場では調理着を着込んだ人たちが忙しそうに働いている。

 現在の時刻は六時半を少し回ったところ。

 ちょうど主――即ち、リオンの朝食が作られているところだという。

「使用人の朝食の時間は、お嬢様が食べ終わった後の時間ね。朝の当番になってないなら、その時間に食堂に来て朝食。その後働くってことになるから」

「なるほど」

 エリカは食堂の使い方を教えてくれた後、ジュンタを食堂にいるある一人の男性の下まで連れて行った。

 人の少ない食堂内で働く数人のメイドたちの中、一人だけジュンタと同じ執事の服を着たその男性は、こちらの姿を目に留めると柔和に笑った。

「おはようございます、執事長」

「あ、おはようございます」

 エリカがその初老の男性の前まで着て、頭を下げてあいさつをする。それに習い、ジュンタもその男性に頭を下げた。

「おはよう。エリカ君。それに君も。――ああ、なるほど君が噂の少年だね。どうだい? 昨日はよく眠れたかね?」

「はい、ぐっすりと」

 柔和に笑う男性の言葉で、ジュンタが使用人になった理由を彼が知っているのだと気が付いた。

 その割には非常に優しげな目であることに驚いている間に、彼はエリカに対して指示を告げる。

「エリカ君。悪いが、食堂の準備を手伝ってもらえるかい? 少々人手が足りないようでね。彼の案内は私が代わるから」

「あ、はい。分かりました。……それじゃあ、ジュンタくん。またね」

「ああ、案内してくれて、ありがとう」

 エリカは男性の指示通り、食堂にいるメイド達の方に向かっていってしまった。

 と、そのとき――

「執事長! お嬢様の朝食の準備ができましたぜ!」

 調理場の方から野太い男性の声が響いてきた。

 男性――執事長は透き通る声で返事をし、ジュンタの方を見て、

「では、君の最初の仕事だ。ジュンタ君と言ったね? 君の最初の仕事は、リオン様の部屋に朝食を運んで用意をすることだよ」

 そんな、ジュンタの気が重たくなるような指示を出した。

 

 


 シストラバス家に仕える使用人の数は、のべ百人以上になるという。
 広大な敷地を誇るシストラバス家だ。確かにそれくらいいないとどうにもならないかも知れない。

 そんな使用人達のトップに君臨しているのが、シストラバス家に仕えて数十年。一番の古株でありながら、颯爽とした礼儀正しい執事の中の執事、アルゴー執事長だという。

 そんな彼ともう一人、彼の妻であるメイド長の二人だけが、使用人の中でジュンタの裏事情を知る人物なのだとか。

 そんな話を、朝食をワゴンに乗せてリオンの部屋まで持って行く最中に聞かされた。

 アルゴー執事長が事情を知っていると言われて、初めジュンタは少し焦った。
 彼は使用人の中では一番えらい人、自分の上司となる人だ。そんな彼に、騎士エルジンのような態度を取られるのは勘弁して欲しかったからだ。

 でもアルゴー執事長がジュンタを見る目は、覗きを犯した犯罪者を見る目ではなかった。

 覚悟していたのとは違う態度に、しばし戸惑う。

 喜ばしいことではあるのだが、どうにも腑に落ちなくてジュンタはアルゴー執事長に尋ねた。

「……執事長は俺のこと、おかしな目で見ないですよね?」

「こんな仕事を長年やっているとね、人より少しだけ目が良くなる。だから一目見ただけで君が悪い子ではないということが分かってしまったんだ」

「そんなものなんですか……?」

「そういうものだよ」

 どうやらこのアルゴー執事長、ジュンタが思っているより遥かに傑物のようである。

 エリカに続いて、心の中でまともな人第二号だとジュンタは彼を命名した。

 リオンの部屋に到着するまで色々と説明と激励をしてくれたアルゴー執事長。
彼の期待に応えるためにもがんばらないといけない。そうジュンタは改めてこの仕事に決意を燃やす。

(そうだ。失敗は許されない。執事長の期待を裏切らないためにも、俺はこの最初の仕事を完璧にこなさなければならない!)

 ジュンタは目の前の扉をトントン、とノックした後、一度大きく深呼吸する。

 隣を向く。アルゴー執事長が、元気づけるように頷いてくれた。

 緊張はない。問題もまた、ない。
 やれるとジュンタが思ったのと時同じくして、扉の向こうから声が聞こえてきた。

――入りなさい」

 中からの返事を聞き、ジュンタは扉を開け一礼する。
 アルゴー執事長から教わった通りに、まず来室の言葉を述べる。

「失礼します」

 頭を上げた先には、椅子に腰掛け上品な笑みを浮かべるリオンの姿が。

 そう、これはある意味戦いなのだ。自分と、彼女の戦い。
 ジュンタは内心に闘志をたぎらせつつも、表面上はクールに装う。そして一歩、足を前に踏み出した。
 
 そこはすでに敵地。リオンの部屋だ。戦いは、始まりを告げたのだ。


 それから数十分後――リオンの部屋からほくほく顔で出てきたジュンタの姿を、見ることができたという。

 

 

 


 

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