第五話  奉仕活動初日(後編)


 

 リオンは万全の準備を期して、来るべき決戦の時を待っていた。
 椅子に腰掛け、優雅に紅茶を飲んでいるように見えて、その心の中ではグルグルとある考えが回っている。

 それは先程、とある新人使用人の部屋での失態……いや違う、失態ではない。あれは、そう……相手を油断させるための巧妙なフェイクに過ぎない。

 ……いや、誤魔化すのはよくない。認めよう。あれは失態と呼ばれるものだった。

 リオンのこれまでの人生において、失態だとか失敗だとか、そう言ったやり直しを求められる結果に陥ったことは、本当に少ない。

 失態や失敗などの不手際を起こすことが少ない理由は簡単だ。
 ただ物事を推し進める前に計画を練り、努力をし、失態や失敗など起こりえない自信がついた後に行動に移る。だから失敗など起こりえない。リオンという少女は、それなりの慎重派であった。

 だが、同時にリオンは行動も素早い。
 こうと決めたことに対しては、即日中に行動に移している。
 
 矛盾する二つの事柄。

 それを同時に実行していられる理由は、彼女にとって慎重に計画を練り自信を得て行動に移る慎重さと、速攻で行動し結果をもぎ取る――これが同義のことであったからだ。

 リオンは常日頃から努力を怠らず、瞬時に物事の判断ができ、常に自信を持って生きている。だから大抵の問題に直面しても、素早く実行に移せるのである。

 故に問題解決のスピードは素早く、慎重でもあるが故に失敗も少ない。

 だが、リオンも人間である。たまには失敗もする。

 そんな時、珍しいことであるばかりに動揺してしまうことが多い。
 さらに持ち前の負けん気によって、リオンは失態に徹底的なまでにプライドを傷つける。
先程の不埒者との諍いは、そんな珍しい失敗――屈辱である。

 琥珀色の紅茶に口を付けつつも、内心では先の屈辱に震え、怒りを噛み殺しているのだ。
 紅茶もおいしくない。どうにかこの怒りを発散させないことには、おいしく紅茶など飲めようもない。

 怒りを発散させ、名誉を挽回する機会を今か今かと待ちわびていると、その時、部屋の扉をノックする音が聞こえてきた。

 それこそが待ちわびた反撃の狼煙。突撃を告げる、角笛の如き音である。

(来ましたわね)

 カップから口を離し、リオンは扉を一瞥して、それから視線を前に戻す。

――入りなさい」

 あくまでも気品を保ったまま、薄く笑みを作る。そして今朝の食事を運んできた使用人を迎え入れるため、澄み渡る声で来室の許可を出した。

「失礼します」

 まだ互い知り合って間もないが、どうにも耳に残る忌まわしい男の声。
 いつもは粗野な言葉遣いでありながら、扉の向こうからの返事は敬語だ。一応、使用人としての心得はあるらしい。

(一つ注意するところが減りましたが……構いませんわ。見ていらっしゃい。先程の屈辱、百倍にして返して差し上げますから)

 扉を開け、一礼してから入っていた黒髪黒眼黒縁眼鏡の男を見て、雪辱戦が始まったことを肌で感じる。

 一方的な思い込みであるが、燕尾服を着た男――ジュンタの来室と共に、空気が張りつめたようにリオンには感じられたのだ。

 音も小さく、ジュンタはワゴンを押しつつ部屋に入ってくる。
 
 自室に彼を入れることに若干の不満はあるものの、これからの喜悦に比べたら些細なこと。我慢する価値は十二分にあった。

 さて。ところでいつもの場合、リオンの朝食の用意をするのはユースである。

 リオン付きの従者であるユースは、身の回りの世話をするための専属メイドだ。

 着替えの用意やベッドメイキング、紅茶を淹れることなどが主な彼女の仕事である。調理場で作られた食事をリオンが自室で取る場合、配置するのもまた彼女の仕事となっている……と言っても、ワゴンで運んできた食事を綺麗に並べ、飲み物をグラスに注ぐ。それくらいのことなのが。

 だが、それくらいのことを、初心者にやらせるとなると難しいのもまた事実。

 テーブルに食事を並べるだけでも、それ相応の作法という物は存在する。
 皿を並べる位置。フォークとナイフの向き。並べるときの立ち回り方や、並べるタイミング。全て作法が決まっていて、そして個人によってこの並べ方は若干の変化が出る。

 そのため主人を熟知していない初心者では、簡単に見える作業も完璧にこなすのは中々に難しいのである。

 だからリオンの朝食の準備はいつもユースがしているわけなのだが……どうしてか今日は違う。

「お嬢様。朝食をお持ちいたしました」

「ええ、並べてくれてかまいませんわよ」

 これが執事長やメイド長など、リオンを幼少の頃より知っている、使用人の中でも熟練の彼らが用意をするのならまだ話は分かる。実際、稀にだがそういう日もある。

 しかし朝食を運んできて、リオンの了解によって今から朝食を並べようとしているのは……ジュンタ。今日から屋敷で働き始めたばかりのド新人だ。主人であるリオンの世話と言った大役を任せられるような相手では、決してない。

 それなのにどうしてジュンタがやることになったのか?

 ……簡単な話だ。要は、これこそがリオンが用意した雪辱の舞台だった。
 
 つい先程の雪辱を晴らすため、リオンはなんとかジュンタを屈服させたい。だが、それは理不尽な理由ではいけない。リオンの騎士道精神がそれを許さない。正々堂々と挑み、勝利するのが騎士の正道。リオンの求める、真の名誉の挽回である。
 
 それならば堂々の正面切って注意することができる状況を作りあげればいい。そう、リオンは考えた。
それがこれである。

(ふふっ、さぁ、あなたらしい粗野な並べ方をしてみなさい。その時こそ、私が堂々と注意できるというわけですわ!)

 作戦は単純。作戦とも言えないような単純極まりない作戦である。
 ジュンタに新人には難しい朝食の準備という大役を、主人権限によって強引にやらせる。もちろんジュンタは作法など知らず、失敗をするだろう。そこですかさず、

『あら? なんですの、この並べ方は? まったくなっていませんわ。やり直しなさい』

 威厳たっぷりに注意する。

 そうしてやり直しをさせるが、もちろん作法を教えては上げないので、また失敗する。

 その瞬間――深々と溜息を吐いて言ってやるのだ。

『はぁ……情けない。これがシストラバス家の使用人だと思うと、情けなさ過ぎて涙が出てきますわ。いいえ、あなたは別にお気になさらずともよろしいんですのよ? 私、初めからあなたには何の期待もしていませんでしたから』

 ポイントはあくまでも淡々と、呆れているのではなく冷めた目つきで。

(そうしたらこの男。きっと肩を震わし、屈辱でわななくはずですわ。いえ、もしかしたら私の鋭い意見に自己嫌悪に陥るかも。どちらにしろ、借りを返すことは容易いというもの。ああ、我ながらなんて素晴らしい作戦なのでしょう)

 そもそも根本的な問題として、新人にやらせている時点で正々堂々とは言えないということに、リオンはまったく気付いていない。気付いていたら、こんなことはしないだろう。

 朝食使われるテーブルの前の席。
 そこにずっと腰掛け続けていたリオンの近くに、そっとジュンタがワゴンを運んでくる。

(さて、ここからが本番ですわ)

 少し油断すれば口からもれそうになる笑いを必死に噛み殺す。
 それでも抑えきれない笑みは、傾けるカップで隠しておく。これからのことを考えると、どうしても笑みを零しそうになるのを我慢できなかった。

 リオンの目が向けられる中、ワゴンに乗せてあった皿へと、ジュンタは手を伸ばす。
 
 きちんと正した燕尾服を着て、真っ直ぐ背筋を伸ばして彼は皿……ではなく、ナイフとフォーク、スプーンを手に取りリオンの前に滑り込ませるように、そして音を立てずに並べた。

「………………ぇ?」

 きっと最初から皿を手に取るだろうと、そう思っていたリオンの表情が固まる。
 そしてその表情は、ジュンタが着々とテーブル・セッティングを行い、皿を並べ進める度に、呆然としたものになっていく。

 リオンの表情がマネキンのように固まりきった十数秒後――

「お食事の用意、完了しましたお嬢様。どうぞ、お召し上がりください」

 ジュンタはリオンに向かって、綺麗にお辞儀をした。

 ……あり得ない。

 すまし顔で後ろに引っ込んだジュンタへと、リオンは信じられない者でも見たかのような眼差しを向ける。
 
 完璧だった。

 ユースほど滑らかとは言わずとも、アルゴー執事長ほど美しいとは言えないけれど、それでも文句が付けられない程度には、完璧だった。

「どどど、どういうことですのよ?! どうして庶民のあなたがテーブル・セッティングの仕方を、それも私が好むやり方を知っていますの!?」

 望んだ結果とは違う結果を出されたリオンは、すまし顔などどこへ行ったのか、困惑の表情でジュンタに詰め寄った。

 ガタンと立ち上がる勢いで椅子を倒したリオンの接近に、後ろで控えていたジュンタは、

「何か問題でもございましたでしょうか?」

 顔色一つ変えずに答えた。

 この返答にはリオンが言葉を詰まらせる。
 問題などないからだ。問題がないから、こうやって騒ぎ立てているのだ。

 リオンは自分でも自覚できるぐらい、こんがらがった頭でジュンタに文句を付ける。

「問題がないことが問題ですのよ?! そんな何事もなくやられてしまったら、クレームを付けることができないじゃありませんの!? 少しは雰囲気を読みなさいっ!!」

「それはそれは、申し訳ありませんでしたお嬢様。まさかわたくし私、仕事をきちんとこなすことがお嬢様の機嫌を損ねることになるとは、まったく考えませんでした。ええ、つまりは仕事にある程度の不手際を混ぜてやらなければいけない。そういうことなのか、リオン?」

「なっ! なんですの、その言葉遣いは?! あなたは使用人で私は――

「ああ、これは重ね重ね失礼をば。てっきりわたくし私、先のお嬢様のお言葉を『しっかりやるな』という風に受け止めてしまいまして。失礼。これからはちゃんと、しっかりと仕事をこなさせてもらいます……ところで、では先程のお怒りの原因は一体何が原因だったのでしょうか?」

 あくまでも反省していますよ的な笑顔で、是非に私めにご教授を――みたいな風にジュンタに問われたところで、リオンは彼の思惑と、そして全てのトリックに気が付いた。

 なんてことない。少し考えれば分かることだった。

 テーブル・セッティングの作法など知らぬはずの平民の男。彼がきちんと仕事をこなした理由は、一重にシストラバス家使用人のトップの有能さにあったのだろう。

 リオンは半ば強引にジュンタに朝食の用意をさせなさい、と執事長に指示をした。
だが執事長に、ジュンタにやり方を教えるなとは言っていない。

 ならばあの人の良い執事長は、決して主人に迷惑をかけないために、新人の使用人にきちんとしたやり方を伝授したに違いない。

 アルゴー執事長の執事としての腕は素晴らしく、そして教育者としての腕も素晴らしいことは、長い付き合いであるリオンは心得ていた。
 
 例えテーブル・セッティングの『テ』の字も知らぬ庶民といえど、彼の手にかかれば短時間で二流ぐらいの腕は身に付けられる。そして新人の使用人が、リオンの目論見よりも使用人としての適性を持っていた。ただそれだけのことである。

 その使用人の男は、もう隠さぬニヤニヤ笑いを浮かべ、

「まさかとは思いますが、難癖などお付けになろうとは思ってなかったでしょうね。お嬢様ともあろうものが、リオン・シストラバスともあろうものが」

 などと止めの一撃を放ってくる。

 第一ラウンド。KO負け……深くを予想できなかった、リオンの敗北である。

 顔を屈辱で真っ赤にして、リオンはぼそぼそと小さな声で言う。

「…………さ、先程の言葉は撤回いたしますわ。失言でした。忘れなさい……忘れて頂戴」

「ええ、分かりました。それがお嬢様のご命令でしたら」

 勝ち誇った笑みと声色で言った男の顔を、きっと当分忘れることはできないだろう。

 ……その後食べた朝食は、近年稀にないくらい、まずかった。


 

 

       ◇◆◇

 

 


 シストラバス邸の庭は広い。
 なんというか、広いという形容詞を使うことを憚られるぐらい広い。森一つと湖一つが丸ごと収まるぐらいの広さなのだから、到底計り知れない広さだろう。

「というか、森って街から突き出てない?」

 手に竹箒を持って邸宅の庭を掃いていたジュンタは、遠く広がる深緑の森を見て呆気にとられる。

 元の世界の日本では、山奥に行かないと見られない景色が向こうの方に広がっている。湖が森の中にあるらしいが、あまりに遠いので見ることは叶わない。

 照りつける太陽の下、静かに竹箒が地面に擦れる音だけが響き渡る。
 背後には高くそびえる城。眼前には庭に、向こうには広大な森。シストラバス邸は今日も悠然と、ランカの街の人々にその威容を示している。

 きっと遠くから見ても城――シストラバス邸は見ることができるだろう。
 屋敷の敷地を越えて、街に出たことがないから分からないが、屋敷は小高い丘の上に立っている上にとてもでかい。かなりの自信を持って見えるだろうと断言できる。

 隣に掃き集めた落ち葉の小山を作り、のんびりと、それでいてきちんと仕事に励む。

 食堂で昼食を食べた後、ジュンタが任されることになった仕事は、この庭の落ち葉集めだった。

 季節は秋――夏に茂った葉が赤く色付き、そして冬の前に散り行く季節である。

 美しい紅葉が映える庭の木々の中には、すでに葉を散らせ始めた木が多々ある。
 数にして半数近く。全部の木の数が百を超えているのだから、落ち葉集めはかなり大変だ。

 それでも、まぁ、森の落ち葉まで集めろと命令されなかっただけ、助かったと思うしかない。
 
 反復動作として竹箒を動かしつつ、自分が集めた落ち葉の山を見る。
 昼より二時間、まだまだ終わらない落ち葉集め。集めた量は相当な量で、風がなくてよかったとしみじみ思う。飛ばされる心配のない落ち葉は、今やジュンタの膝近くまで積み上げられていた。

 これまで掃いてきた木を見、そしてこれから掃いていく木を見て、ジュンタは軽く溜息を吐く。

 ……まだまだ終わりそうもない。

 仕事を選ぶつもりはないが、こうも単純作業の反復だと、少々退屈だ。それに結構肉体的に辛い仕事だし。

 新任執事のジュンタの教育係だというエリカは、現在他の仕事をやっている。

 確かに落ち葉集めぐらい、簡単な説明くらいで十分に可能だ。心配して見守ってもらう必要もない。そりゃ、今朝の時のようなテーブル・セッティング。ああいう執事らしい仕事の時には力を貸してもらわないといけないが。

――そういや、今朝のリオンの顔は傑作だったな」

 ジュンタは今朝のことを思い出し、連想してリオンのことも思い出した。
 今朝、彼女は何を思ったか――いや、どうせ子供じみた嫌がらせだったのだろうが――朝食のテーブル・セッティングをやらせようとしてきた。

 アルバイトをしていたと言っても、フランス料理のお店であるようなテーブル・セッティングなど、ジュンタはしたことがなかった。

 これは困った。確実にリオンの術中に嵌る――そう焦ったジュンタを助けてくれたのは、執事長のアルゴー老。

 執事長として、きちんと新人にテーブル・セッティングの仕方を手解きしてくれ、そのお陰でなんとか成功させることができた。その時のリオンの真っ赤な顔がジュンタには忘れられなかった。

 あの高飛車なお嬢様は、基本的に誰かに恥をかかせようとすることが出来ないのである。そういう性格だ。それでも慣れないことをしようとするから、ことごとく裏目に出てしまうのだ。

 天然の自爆体質なのだろう。

 そのことに自分で気付いていないところが、なんともおもしろ……いじらしい。

「まぁ、力で押さえつけるような理不尽なやり方を選ばないだけ、高潔な奴なんだろうけどさ」

 そこのところは彼女の大きな美点だが、これからも今日のような小さな嫌がらせをしてくるとなると、少しだけ憂鬱。

 ジュンタの願いとしては、極々普通に異世界ライフを送りたい。無理だろうが。

「……そういや、サネアツの奴。今どこにいるんだ?」

「呼んだか?」

 異世界云々から幼なじみを思い出したジュンタは、ボソリと独り言を呟いたつもりだったのだが、その独り言に答える声が足下から聞こえてきた。

 破天荒な幼なじみとずっと関わってきた身。気配もなく背後に忍び寄られるぐらいでいちいち驚いたりはしない。
 落ち着きながら後ろを振り返り、落ち葉の山の中から頭だけを覗かせた白い子猫を見る。

「サネアツ? お前、今までどこにいたんだ?」

「ああ、少々調べ物をしていたのだ」

 白い子猫の姿のサネアツは、落ち葉の中から現れるというシチュエーションに、まったくジュンタが反応してくれないことに寂しそうにしつつ、素直に質問に答える。

「調べ物? 何をだ?」

「無論。この世界のことに決まってるだろう。なにやらジュンタは執事として忙しいみたいだからな。代わりに俺がジュンタの分まで、この異世界のことを、しいては元の世界に戻る方法を探していたというわけなのだよ」

「うっ、それは助かる。……よくよく考えてみれば、執事なんてやってる場合じゃないんだよな。なんたって異世界。元の世界に戻る方法だって、まだ分かってないのに」

 今は遥か次元の彼方の故郷を想い、ジュンタは重要なことを思い出す。

 異世界からの来訪者であるジュンタとサネアツ。

 両名の取りあえずの目的は、元の世界に戻ることだ。
 それなのに自分は執事の仕事にかまけていて、元の世界に戻る方法を探すことを忘れてしまっていた。あってはならない問題である。
 
 そこのところをちゃんと分かっていたサネアツの方は、今まで調査をしていてくれたらしい。
「……悪い。なんか無責任だな、俺」

「いいさ、気にするな。ジュンタにはやらなきゃいけないことがあるが、俺はこんな猫の姿だ。やることもなくて暇なのだからな。いっそのこと、調査は俺に一任してもらっても構わないくらいだ。猫の姿の方が調査に適しているしな」

「適し……その手で? いや、そもそも人に話を聞くこともできないんじゃあ……」

「はっはっはっ、問題ない。人前でしゃべることはできなくとも、鍵のかかった部屋に忍び込むことは出来る。今日もこの屋敷にあった書庫に忍び込み、色々と書物を漁っていたのだ。字を読むことは難しいが、それも少し時間を貰えれば解読可能だということが分かった。調査は比較的順調だぞ」

「……それは頼もしいことで」

 サネアツは、猫の姿になってしまったことを最大限に利用しているようだ。なんとも逞しいというか、普通人間から猫なんかになってしまったら、精神に異常を来してもおかしくないのに。

(まぁ、サネアツらしいっていえば、らしいんだけど……)

 むしろこの全てに前向きなところがサネアツの美点といえよう。
 いくらトラブルを引き起こし、迷惑を被っても、ジュンタがサネアツと付き合いを断つことがないのは、そんなところを気に入っているからかも知れない。

 ……自分が手綱を握ってないと危ないとか、腐れ縁ということもあるが。

「それで? 調査一日目、何か分かったこととかあるのか?」

「もちろんだ。先に言ったとおり文献の類の解読はダメだったが、人の噂話を盗み聞いてある程度の情報は仕入れた。まぁ、これも話しかけることはできないため、必要な情報を的確に知ることができた、というわけにはいかなかったのだがな」

「一日目だし、それで十分だろ?」

「そう言って貰えると救われる。……さて、では必要だと思う情報だけ開示しようか。
 まず一つ。今現在、俺たちがいる場所だ」

 サネアツは頭の切り替えをし、さっそく情報を教えてくれる。

 ジュンタは掃除を一旦止め、話に耳を傾ける。
 異世界の情報は無知に近いため、少しでも多くのことを知っておきたい。

「神聖大陸エンシェルト。そう呼ばれている大陸にあるグラスベルト王国という国。その国内の一都市、商業都市ランカと呼ばれている街が現在俺たちのいる場所だ。そしてシストラバス家は、そのランカの街を治めている領主であるようだ」

「この家ってそんなにすごい家柄だったのか? 確かに屋敷は広いし、リオンの奴は偉そうだけど」

「詳しくはまだ分からんが、恐らく高い地位にある貴族なのだろうな。ジュンタも気付いていると思うが、この世界の文化レベルは地球で言うところの中世ヨーロッパに近い。王族・貴族・平民としっかり階級が決まっている時代だ。
 剣と魔法の世界。科学技術などはまったく発達していないが、魔法という神秘の技術の恩恵か、衛生的な方面などの一部の技術は二十一世紀に迫るものもあるな」

 ジュンタもこの世界の文化レベル――技術の発達レベルや社会の在り方、人々の思想などが現代よりも昔であることに気付いていた。貴族なんてものはイギリスの方を見れば名乗っている人もいるだろうが、世界に根付いているとなると勝手は少し違うだろう。

 中世ヨーロッパと言えば、暗黒時代とも呼ばれる停滞の時代であり、戦乱の時代だ。

 この異世界は剣と魔法の世界。騎士と魔法使いが実在し、活躍している時代である。つまりはファンタジーの世界と言うわけだ。

「この世界の情報が大体分かるまでは、下手な行動や言動は慎むべきだよな」

「暗黒時代というわけじゃなさそうだがな。思いの外、魔法という物がこの世界には深く浸透し、良い方向に時代を動かしているらしい。恐らくこの先の発展も、科学と共に魔法がある社会になるだろう。
 ……それはさておき、ジュンタの危惧するところは正しい。これも俺が掴んだ情報だが、この世界ではとある宗教が幅をきかせているようなのだ」

「宗教が?」

 人が生きていくに辺り、思想のよりどころである『神』『宗教』と呼ばれるものは必要不可欠である。戦乱の時代であるのなら、より必要とされているだろう。だから宗教があるというのは別に驚くようなことではない。

 それなのにサネアツは酷く重要な事柄として扱っている。
 
「なにかその宗教にまずいことでも? 邪神信仰とか?」

「いや、そうではない。この大陸、いや、世界の九割以上を占めているという宗教――『聖神教』で崇めている神は聖神だ。邪神ではない。教皇のような存在である『使徒』なる人物の下、いや、中々におもしろい宗教展開をしているようだ」

「それなら真っ当じゃないか? それに何の問題が……ああいや、分かった。信仰者が世界人口の九割以上か。それはさすがに異常と言えるかもな」

「そうだ。どうやら宗教の浸透には、何か理由がありそうだな。まぁ、それは追々わかることだろう……俺が一番に危惧しているのはこの国が熱心な宗教国家であるということだ。どうやら聖神教以外の宗教は、この国では異端と見なしているらしい」

 日本で一番ポミュラーな感じで見られている宗教は仏教だろう。過去の時代でも、多くの仏教の僧が政治に関わっている。

 だが、現在日本ではほとんどの若者が宗教を重視してはいない。仏教を信ずる家に生まれても、キリストの誕生日をクリスマスとして祝い、ハロウィンパーティーを開いたりと、日本は世界有数の宗教に感心がない国と言ってもいい。

 しかし日本を離れれば、宗教は大きく重要視されている。

 ところによれば、宗教に関わることで戦争が起きているくらいに。

「それじゃあ、下手に他の宗教だとか言ったらまずいことになりかねないか」

「異教徒は基本的に異端、迫害の対象となりかねないからな。俺がこの話を知った情報源も、ベアルという異教徒の集団が各地で諍いを起こしているという噂からだ。いいか、ジュンタ。この先、宗教関係のことを訊かれたら気を付けろ」

「聖神教の教徒のように振る舞うべき、だろ? 
 ……正直、宗教とかにはあまり関わり合いになりたくないんだけど」

 神の教えとか、神の存在とか……そういうことはあまり信じない質である。
 熱心な信徒の方々の気持ちが分からないでもないが、自分がそうなるのは少し遠慮したい気持ちが大きい。

(まぁ、そうは言ってられないか。異世界はやっぱり勝手が違うだろうし)

 この先どんな、非現実的なことが起きるか分からない。

 異世界に来たというだけでもこれでもかと言うぐらいの異常なのだが、魔法なんてものがある世界である。信じられない現象に出会わないとは、決して言い切れない。

「よし、分かった。宗教的なことには気を付けることにする。他に気を付けて置くべきこととか、何かあるか?」

「そうだな……他にはこちら独自の基本的な一般常識を間違えないことか。どれだけ文化に差があるかは分からないから、そこは臨機応変にやってもらうしかないが……ジュンタならば大丈夫だろう」

「結局はやっぱり、そういう結論になるか」

 何かがこの先起きても、臨機応変にやり過ごしていくしかない。

 あくまで受動的な姿勢になってしまうが、現状では最善の策だろう。下手に行動して、致命的な墓穴を掘る確率だってあるのだ。それこそジュンタから見れば、なんで? と思うようなことで捕まる可能性だってある。 

「異世界で生活するということ中々に難しいようだな……だが、だからこそ心が躍るというものだ」

 ジュンタの内心を察してか、サネアツがそんなことを言う。
 前者には同意できるが、後者には同意できない。ジュンタ的には、やはり何事もなく異世界での生活が終わってくれることを祈るのみである。

「でも無理っぽいよなぁ〜〜」

 そんな気がヒシヒシとする。

 例えば――今まさにこちらに気付いて荒い足取りで近寄ってくる、紅髪紅眼の少女だとか。そういう輩と関わってしまった時点で、平穏とはほど遠い生活になりそうである。

「ちょっとあなた! なにさぼっていますの!」

 ズカズカと近寄ってきたリオンが、腰に手を当てて叱ってくる。

「見たところ落ち葉をかき集めているようですが、何を立ち止まってぼうっとしているのですか? ふんっ、どうせ疲れただとかの理由で休んでいるのでしょう? まったく、これだから根性と心構えのない人間は嫌ですわ」

 別に暇だから落ち葉を掃く手を止めていたわけではないのだが、彼女の目から見たらそう見えてしまうようである。これからの生活に思いを馳せ、軽くアンニュイな気持ちになっている姿は、彼女からすればぼうっと突っ立っていることになるらしい。

 ……というよりも、リオンの目から見れば自分はどんなことをしていても、サボっているようにしか見えないんじゃないか、とジュンタは思った。

 広大な庭にわざわざ足を運んできて、彼女がしたかったことは注意することなのだろう。
楽しそうな表情は、朝食をまずそうに食べていたときとは違って、非常に生き生きとしている。

 だがそんな楽しそうな彼女の表情も、両者共に無言である状況が続くにつれ、険悪なものに変わっていく。

「……ちょっと、何か言ったらどうですの? それとどうして呆れた目で私を見ていますのよ?」

 リオンのテンションについて行けず、思わず苦笑してしまう。見れば、足下に隠れるように身を潜ませているサネアツも、同様の思いを抱いているようである。

『おいおい、こんなのが現在の屋敷の主で大丈夫かよ?』

 確かめずとも分かる。二人の異世界からの来訪者の心は合致したと。

「ちょっと、いい加減何か言いなさい! 貴婦人を無視することは紳士にとって最低の行いですわよっ!」

「と、言われてもな」

 出来れば可能な限りスルーしたいんですけど……心の底からのこの考えは、この場所では貫き通すことは出来ないらしい。

 リオンは主で自分は使用人。あくまでもここではそうなっている。然らば、彼女の命令にはある程度恭順しておいた方がいいと判断する。

 内心軽くむかついたのを顔には出さないように、

「それで? わざわざお嬢様が、こんなところまで足を運びになった理由ななんでしょうか? 生憎とここには、お嬢様の退屈を紛らわせられるようなものは何一つありませんが?」

 軽く皮肉を込めてジュンタは尋ねみる。
 
 ようやく反応を示したジュンタの一言に、リオンはムッとした感じを強める。一応下にいる身として丁寧な言葉を使ったというのに、彼女は気に召してはくれなかったらしい。

「……別に、あなたに会いに来たというわけではありませんわ。いえ、そんな酔狂なことをするような者はこの屋敷にはいません。ああ、違いますわね。世界中を見渡してもいませんわね」

「大層な言い分だが……なら、どうしてこんなところに? 本当にここには何もないけど?」

 リオンが本心から自分に用があるわけではないと感じたジュンタは、どうせ丁寧な口調でもいつも通りの口調でも反応は一緒なのだからと、気楽に話しかける。

「あなたの話に付き合ってあげられるほど暇ではありませんが、かわいそうなので教えて差し上げますわ」

「……それはどうも」 

 歩き回っている時点で暇のように見えるが、そんなことはなかったらしい。

 言動に多々問題はあるが、リオンは貴族。するべきことは幾らでもあるに違いない。

「私がここに来た理由。それはシャルロッテを探しているからですわ」

 訂正。リオンはかなり暇らしい。

 自分の足に隠れていた子猫がビクリと震えたのを察しつつ、

「シャルロッテって、サネアツのことだろ? なら、ここにいるけど」

 ジュンタは大きく横に一歩動く。

「にゃっ!?」

「シャルロッテ!」

 ジュンタが急に動いた所為で、足影に隠れていたサネアツはリオンの視界に晒されてしまう。

 見つけたリオンが大声で――シャルロッテという彼女独自の名前で――サネアツを呼び、笑顔で駆け寄る。

 リオンに抱き留められてしまったサネアツが、裏切り者でも見るような目つきで見てくるが、それは意図的に無視する。

「ほら、サネ……シャルロッテも見つかったし、さっさと戻った方がいいんじゃないか? 俺もまだ掃除が残ってるし、きっとシャルロッテもお腹が空いてると思うしな」

 友を売ることをまったく気にしていないジュンタ。
 リオンという名の厄介事を遠ざけるためなら、このような非道も辞さない考えです。
 
 リオンは厄介払いのような言い方に目を尖らせながらも、ジュンタの付け加えた一言に渋々頷く。

「シャルロッテがあなたのところにいたことに対する文句はありますが、ここはシャルロッテのために引いて差し上げますわ」

「それはありがたい」

「ふんっ……言っておきますが、いい気になっていられるのも今のうちでしてよ? 私が本気を出せば、あなたをギャフンと言わせるぐらい簡単なんですから」

 もう嫌がらせを隠す必要もないのか、リオンは敵意丸出しの言葉でジュンタに忠告する。

「……さいですか。まったく、早く飽きてくれることを祈ってるよ」

「何を言ってますの? この私が屈辱を忘れるなんてこと、あるはずがありませんわ。
 あなたに傷つけられた傷を癒し、百倍にして返すまでは、絶対にあの仕打ちを忘れることはありません。ええ、せっかくですからここで断言させて頂きますわ」

 胸を反らし、絶対のプライドを開示するようにリオンは宣言する。

――私、リオン・シストラバスはあなたから受けた仕打ちに対し、必ず相応の報復を与えると」

 その宣言はストーキング宣言に匹敵する、嫌がらせの宣言だった。

 あまりのハッキリした物言いにジュンタが呆気にとられている間、

「それまで、束の間の余韻に浸っていることですわね。その余韻は本来、あなたが一生かかっても得ることの叶わないはずの奇跡なのですから。それではご機嫌よう」

 リオンは最後まで敵意を露わにしたまま、ぐったりとしたサネアツを腕に抱いて屋敷へと去っていってしまった。

「…………ほんとに、平穏にはほど遠いよなぁ〜……」

 リオン・シストラバス。彼女との関わりが続く限り、自分に平穏な日々はやってこないだろう。

 そして今日みたいなやり取りがこれから当分の間続くのかと、ジュンタは大きく肩を落とすのだった。

 

 

 

 

 戻る / 進む

inserted by FC2 system