第六話 初めての休日 ユース・アニエースの目から見ても、最近の主――リオンは少し変わったと思う。 それがリオンという少女の生き方であり在り方。 ユースには今の生活に対する不満もなく、この生活が他の人間より恵まれているという自覚もある。かつての自分からは考えられない生活だ。 だが、それでも抑えきれない人としての部分が、リオンという少女に憧憬を覚える。生まれながらに輝く高貴なる魂は、物事に対する欲の少ないユースでも羨ましと思わずにはいられない。 だからこそ、こうしてメイドとして彼女に仕えていることが嬉しく、誇れるのであるが。他の貴族であったならこうはいかないだろう。 よって、今のような状況はユースには歓迎するべき事柄だった。 ここ最近、主の行動が少しばかり変化したこと。 さらにいつもは起床から数十分後に開始する身支度を、起床早々に行っている。それも以前よりも満遍なく。以前が適当というわけではないが、それにしても現在の気合いの入りようは違う。 「……恋というものは人をここまで変えるものなんですね」 ボツリと、何ともなしに呟いてしまった。 彼女は紅茶を傾ける手を止め、訝しげな視線を、後ろに控えているこちらに向けてくる。 「ユース、いきなり何を言い出しますの? 一体、誰が誰に恋をしているのです? 私と一番一緒にいるあなたが分からないはずがないでしょう?」 驚いた。どうやら彼女には自覚がなかったらしい。 「ちょっと、なんでそんなに驚きますのよ? 私、何かおかしなこと言いまして?」 「いえ、別におかしなことは何も」 ただ、少し勘違いな言動ではあったけれども。 (ですが、自覚がないとするとどうしましょうか……) (助言をするとなると私は適任ではありません。私にはそう言った経験がありませんから) ……それは難しいだろう。 だからといって放っておくこともできない。 そう思ったのでユースは、唐突ながらそんなことを言ってみた。 「知っていますかリオン様。最近、使用人たちの間でとある噂が囁かれていることを」 「また突然ですわね。なんですの? その噂というのは?」 紅茶を口に含みながら、優雅に窓の外に視線を向けているリオン。 視線を前に向けたまま、リオンが耳を傾けていることを確認した後、 「こんな噂です。なんでも、リオン様がとある使用人とただならぬ関係であると」 「むぐぅっ! ふぁ、はんでふってケホッ!」 ちょうど紅茶を嚥下していた最中に驚愕の言葉を告げられたからだろう。紅茶がおかしなところに入ってしまったようだ。 口を押さえながら、涙目でリオンはモゴモゴとしゃべる。解読できぬほど無粋ではない。 「ええ、ですから。つまりリオン様とあの――」 「きゃー! 聞きたくありませんわ、あの不埒者の名前なんて! というよりも、どうしてそんな根も葉もない噂が立ってますのよ!? おかしいですわ、ありえませんわっ!」 ……どうやら言葉が少々遠回しすぎて、下手に感情を突いてしまっただけらしい。 主と使用人のスキャンダル的な噂が広まっているのは事実だが、少しばかり今の言葉は誇張表現でしかない。 「ユース! 一体それはどういうことですの。どうして、どこから、そんな噂が現れましたの?! 誰かは知りませんが、目が腐ってますわよ絶対に!」 「まぁ、落ち着いてくださいリオン様。火のないところには煙は立たない、というじゃありませんか」 「噂されている本人が心の底から否定していますのよ!? これ以上の証明はありませんわ!」 ギャーギャーと騒ぎ立てるリオンに、ユースは軽く溜息を吐く。 どうやら自覚の欠片もないらしい。もしかしたら、分かっていて認めたくないのかもしれないが。 「……ですが最近、リオン様がことある事にジュ――失礼。とある使用人のところに顔を出していることは事実でしょう? しかも楽しそうに。それを目撃した人間がそのような考えに至ってしまうのは、決しておかしな反応とは言えませんが?」 自覚を促すように話題を振れば、リオンからは完全なる否定の言葉が返ってくる……それでも顔を出していることは否定しなかった辺り、無自覚にも認めている部分はあると判断する。 「それにそもそも、ユース、あなたは私があの不埒者のところへ赴く理由を知っているではありませんか」 「?? 一体なんのことです? 生憎と、私は知りませんが?」 「なっ! ユース、あなたはあの男が私にした仕打ちを忘れたとでもいいますの!?」 「ええ、残念ながら。私には特に何の問題もない少年に、一方的にリオン様が会いに行っているようにしか見えません」 断言してみせると、リオンは愕然とした面持ちとなる。 正直に言えば、ユースもそのことは忘れてはいなかった。 だけどそれでも知らぬ振りをしたのには意味がある。それはリオンとて気付いているはずなのだ。 「た、確かにあれはそういうことにしましたが、それとこれとは話が別で……」 「ええ、そうです。あの事件はありませんでした。そうでしょう? ゴッゾ様の留守中、屋敷の留守をリオン様が任されてから今日まで、何の問題も起きていない。違いますか?」 ユースの言葉にリオンは黙り込む。父親の名前を出されると、彼女は弱い。 リオンはドレスの裾を軽く握りしめ、 「……そうでしたわね。申し訳ありません。失言でしたわ」 「いえ、お気になさらず。何もなかったのですから、何の問題もありません」 淡々と言い放ったユースの言葉に、言葉以上の意味はない。 疲れたように椅子に腰を下ろしたリオンは、冷めてしまった紅茶を飲み干してから話を戻した。 「……そのことはさておき。先程の件ですけど、やはり噂は嘘ですわ。私の心の中に、あの男に対する報復の想いはあっても、恋情の類の想いは存在しません。楽しそうに見えるというのなら、それはただの錯覚ですわ。だって真剣勝負なのですから」 「ぐっ、ち、違いますわっ。これから、そう、これからですわよ! 今までは少し油断をしていただけですわ。あの男が卑怯にも他人の助力を請い、シャルロッテを盾にし、小狡い手ばかりを使って来るんですもの。ほんの少し油断をして! 本当ですわよ?!」 「ええ、分かってます。そうですよね。これからです。きっとリオン様ならやり遂げられますよ……どんな理由かは知りませんが」 ニコリ、と本当に小さいがユースは笑う。 誇り高い主人であるが、すぐムキになるところは非常に愛らしい。 「その意気ですリオン様。かっこいいです。おもしろいです。素晴らしいです」 「そうでしょう、そうでしょう。――それでは今日も行ってまいりますわ。寝起きで頭が働かないところを、私の巧妙な話術を持って貶めてさしあげます!」 ……ああ、でもこれだけは言っておかなければならないか。 「リオン様」 「なんですのユース。ああ、あなたもあの男のほえ面を見たいと言うのなら、一緒に来てもいいですわよ?」 「無理ですよ」 「分かっていますわ。あの男の顔を見ると、こう妙に胸がムカムカしてきますものね。構いません。では一緒に……待ちなさい。今、なんと言いました?」 高笑いを中断し、リオンはこちらを向く。 不安と困惑を混ぜ合わしたような表情が、非常にかわいらしい。 それでもきちんと伝えるしかないので、ユースはもう一度そう言った。 すると案の定、リオンの面持ちは怒りのソレになってしまった。 それで昨日の夜はあんなに早く寝たのか。またもや敗北したから、不貞寝をしていただけだと思っていたが、どうやら間違いであったらしい。 ……まぁ、その結果、こんな感じの衝撃的な場面が出来上がってしまったわけなのだが。 リオンを落ち込ませるのは不本意だが、彼女に無駄足をさせるわけにはいかない。心苦しいが、はっきりと理由をもの申さなければならないだろう。 「いいですか、リオン様。今日で彼を雇って一週間です」 「あら、もうそんなに経ってましたのね……って、そんなことはどうでもいいですわ! ユース、どうしてあの男に報復することができませんの? はっきり言いなさい!」 そう命じられたら、使用人としてはストレートに言わなければならない。 だから、ユースは言った。 「――彼、今日は休みの日です」 異世界にやってきてから、即ちこのシストラバス邸で働くことになって約一週間。 『ごめん。伝え忘れてた。執事長が、ジュンタ君は明日休みだって』 ――そんなわけで一夜明けて今日。 「……まぁ、だけどいつも通りに起きるんだけどな」 使用人としての燕尾服ではなく、異世界にやってきた当日に着ていた服――紺色のブレザータイプの学生服を着て、ジュンタは食堂に朝食を食べにきていた。 休日と言うことで、望むなら一日眠っていても大丈夫なのだが、そうなると時刻通りに用意されている食事にはありつけない。従って、睡眠はほどほどにしてジュンタは食事のために早起きした……いつも通りの時間に目を覚ましてしまったというのも大きいが。 まぁ、朝食の後、部屋でゴロゴロとしていよう。 自室となった部屋は一週間以上前の汚さから一転、今ではちゃんとした人の住めるスペースになっている。 迷惑をかけたお詫びか、普通の使用人の部屋より広めな自室には、比較的大きなベッドがユースの手によって用意されている。ドアより大きなベッドをどうやって部屋に入れたかは知らないが、お陰でゴロゴロするには快適だった。 ゴロゴロ〜、ゴロゴロ〜と朝食の後の幸せな時間を考えていたジュンタ。 「それで、実際のところどうなの?」 それを裏切るように、朝食の終了と同時にエリカに絡まれたのは、まぁ、お約束である。 今から朝食であるエリカは、仕事着であるメイド服のまま、真向かいの席に腰を下ろしていた。 (ああ、貴重な時間が……) 眼鏡をズリ落とすぐらい落ち込みつつ、ジュンタはエリカの質問に答える。 「……あり得ない。というか、そもそもそんな噂が立っていることが信じられないんだが」 「えー! 違うの? なんだ、つまんない」 「あのなぁ」 あからさまにがっかりしたエリカの態度は、くだらない質問に付き合わされたジュンタから見れば冗談じゃない。 「一体どこをどう間違えたら、俺とリオンの奴が付き合ってるってことになるんだよ?」 呆れた風にエリカの先の質問を、あり得ないと断言する。 エリカは小さく頬を膨らまし、 「だって、主と使用人の禁断の関係なんだよ? 爛れた関係なんだよ? あえて言うなら有閑マダムに可愛がられるペットの少年なんだよ? どうしてそんな簡単に否定しちゃうかなぁ〜」 「…………」 エリカの言葉にジュンタは絶句する。 別にエリカと話すのはこれが初めてというわけじゃないが、それでも彼女のちょっとぶっ飛んだ思考にはついていけない。 初見の時、まともだと感じた少女は実のところ、それなりに濃い人間だった。 (この屋敷でまともな人は、アルゴー執事長しかいないのか?) 異世界の人間は高確率で変人だ。特に偉くなればなるほどに。 「ああ、違う。絶対に、間違いなく、エリカの望む関係じゃないと断言できる」 「ちょっと待て。もしかして噂の発信源ってエリカか?」 と尋ねた瞬間――エリカが肩をピクリとさせたことをジュンタは見逃さなかった。 エリカを少々きつい瞳で見る。 エリカは思いの外強いジュンタの怒気に、タラリと冷や汗を流す。どうやらジュンタはすでに、広まった事実無根の噂に迷惑を被っていたらしい。 「エリカ、そこのところをハッキリさせておこうか? これからの俺たちの円満な関係のために」 「あ、あはははは。な、なんのことかな……あっ! お父さんだ!」 「なにぃっ?!」 目を泳がせていたエリカが、急に一点に視線を釘付けにして指差した。それと同時に彼女の口から出た『お父さん』という単語に、慌ててジュンタは振り向きその場に直立する。 「違います。誤解です。昨日聞かれたお嬢様との噂ぐらいの間違いです。エルジンさんの娘さんとはただの友達同士、いえ仕事仲間程度の関係でしか……って、いない! はっ、騙された!」 気付いた時にはすでに遅し。 「お、親子揃って、なんて厄介な……」 異世界での初めての休日――それはこうして始まった。 ◇◆◇ 朝食の後、自室に戻ってゴロ寝。 昼食前に起きて昼食を食べ、再び自室でゴロゴロ。 …………ただ、悲しいかな。それは一日中できはしなかったのである。 二時ぐらいだろうか? 昨日までのハードワークの疲れは、半日の睡眠でどこかに行ってしまった。 「う〜ん、暇だな」 ジュンタは屋敷の敷地内にて、暇つぶしの散策を行っていた。 暇潰しならこちらの世界に来てからできた知り合いと談笑でもと、そう一度は思ったが、知り合いとなったのは同じシストラバス邸で働いている使用人だ。 もちろん決まった日に休みを貰えることはできるだろう。要相談、というわけだ。 一週間前からそうだが、彼は一日のほとんどを書物と情報集めに費やしている。たまにリオンに弄ばれているところを目撃するが、それ以外はほとんど姿を現さない。彼も彼なりに、異世界という場所に興味……いや、危機意識を持っているのだろう。 『疲れをきちんと癒せ。情報集めは俺に任せろ』 そう言われて却下になっている。 そういった感じで、ジュンタが誰かと遊ぶという選択肢は全て却下に―― (まぁ、一人。もの凄く暇そうな奴はいるが……) ――なった。 ……そうして敷地内を横断し、今ジュンタの眼前には高くそびえ立つ塀がある。 高さにして十メートル近くあるだろうか? 「……ただ働いてたら忘れてたけど、俺って一応閉じこめられてるんだよなぁ」 ジュンタはことの発端。この屋敷で働く原因となったことを思い出す。 まだ色濃く残っている少女の姿に若干頬がほてる。ほてった頬を冷ましていると、声をかけられた。 「え? あ、ユースさん」 突然声をかけられ、少々驚きつつジュンタは声をかけてきた相手の姿を確認する。 ジュンタに声をかけたのは、メイド服を着た美しい女性。年齢はジュンタより少し上、二十歳前後程度に見える眼鏡をかけたクールビューティーなメイドさん。 リオン付きの従者という大変なお仕事をなされている、ユース・アニエースである。 ユースは塀の向こうを見るように塀を見ていたジュンタの姿に、何か感づいたようで、 「休日、少し暇を持て余していますか?」 徐に、そんなことを訊いてくる。 「ええ、少しだけですけど。ちょっと暇ですね」 「そうですか……それで、やはり街に出てみたいと思いますか?」 「まぁ、やっぱり。少しは、ですけど」 シストラバス家に仕えている使用人のほとんどは、ジュンタのように屋敷内に住み込みで働いている。だが、中には街の方から通ってきている人たちもいる。 そんな人たちがいるのだから、当然のように休日に街に出かけることは禁止されてはいない。 ……だが、その唯一の例外となっているのがジュンタである。 「でも、そもそもの始まりがアレですから。我慢しますよ」 ハハハ、とジュンタは苦笑する。 確かにこの塀を越えて、街に繰り出したい気持ちはある。 でも、それは出来ない。なぜならジュンタは『罰の代わりに無償労働をしている』のだ。勝手な外出は、強く禁止されている。もちろん逃げられないようにするために。 そこのところをちゃんと自分でも理解しているので、残念ではあるが、脱走をしようとは思わない。まぁ、出来るとも思わないが。 「やはりそうですか。一週間、屋敷内というのは少し気が滅入ってしまいますよね」 「いや、そんなことはないです。こんな場所で働くなんて初めてですから、結構楽しくやっていますよ」 ユースが少し考える素振りをする。なんか心配しているような感じだから、そんな日々の感想を告げてみたり。 ……そしてしばらくの間、世界が静寂に包まれる。 (き、気まずい空気だなぁ……) 感情表現も豊か、というわけじゃなく、どちらかと言えば乏しい方だ。 「もしジュンタさんが望まれるのでしたら、屋敷の外に出ることも可能ですが?」 「え?」 彼女が言ったことがあまりに意外すぎて、素っ頓狂な声が口から出てしまった。 ユースが翠の双眸でじっと見つめてくる。 「……ええっと、外に出れるって、本当ですか?」 「はい。もちろん、遊びに行って貰うという感じでは無理ですが、適当に理由をでっちあげれば可能です。実は私、これから街に紅茶の葉を買いに行こうと思っていたんです。最近、リオン様がよく飲みますから。報復方法を考えている時に」 「それはつまり、お使いに行くということなら外に出られるってことですか?」 「ええ、つまりはそういうことです。どうでしょう? 休日に無理に言って貰うということなので、別途に給金は出ます。もちろん、ちゃんと受け取って貰って結構です」 ユースの申し出にジュンタは声も出なかった。 お使いだなんて言って、ユースはジュンタを外に出る口実を作ってくれたのだ。いや、お使いというのは本当だろうが、それでも彼女が行けば済む話。それをジュンタに持ちかけてくれたのは、一重に彼女の優しさだ。 誤解をしていた。どうして気付かなかったのか? 「あ、でも、それをあのリオンが許してくれますか? それでユースさんに何か迷惑がかかるなら俺は……」 ユースが優しいからこそ、ジュンタも優しくなれた。 「大丈夫です。確かに、そのままのことをリオン様に伝えたら難しいでしょうが、少し事実をねじ曲げてお伝えすれば問題はありません。そうですね、こんな風に言えばきっと大丈夫です。 「それは確かに……確実にいい笑顔で頷くだろうな」 嬉々としてオーケーするリオンの姿が簡単に想像つく。 しかしユースのやり口には、少しジュンタは驚いた。 優しさはもちろん、彼女には茶目っ気もあるらしい。 「それでどうしますか? お使い、行って貰えますでしょうか?」 ユースの確認の言葉に、ジュンタは悩むことなく答える。 「もちろん。お願いします」 念願である街に出ることが出来る上、お金も貰えるという。一文無しの暇人間にはこの上ない素晴らしい提案を、断るはずがない。 「そうですか。ではお願いします。私は今から、リオン様にお伺いを立ててきますので。すみませんが、一応はお使いということなので、服を着替えて貰えますか?」 「それでは、十五分後に正門前に集まると言うことでお願いします。また後ほどに」 「はい! ありがとうございました!」 ジュンタはユースに対し、心の底からの感謝の気持ちを込めて頭を下げた。 ユースはジュンタの行為に対し、 「いえ、構いません。お使いに行って貰って助かるのは、私の方ですから」 無表情で答える。 ――ああ、それなのに。どうしてこうなってしまったのだろうか? 燕尾服に着替えたジュンタが集合場所である正門前に来てみると、そこにはユース以外に人間が一人。元人間現畜生の一匹がなぜかいた。 真紅の髪に映える純白のドレスを着たリオンに、この一週間の間にリボンを首輪代わりに付けることになった――無論、付けたリボンはリオンの物である――サネアツ。 ジュンタは無言でその場に立ち尽くし、サネアツが肩の上に昇ってくるのを無視して、ユースの方へと視線を向けた。 ――とでも高飛車なお嬢様は言ったのだろう。 お出かけ用の服なのか、いつもより気合いの入った服装のリオンを見て、溜息が出る。 「どうした溜息を吐いて? せっかく街に行けるのだぞ? ドキドキワクワク、略してパラダイス気分ではないか」 この猫は猫で、きっとリオンに捕まっていたに違いない。 (最悪だ。この二人と一緒に出かけるとなると、どんな目に遭うことか……) トラブルメーカーが二人。とてもじゃないが、ジュンタが望んだのんびりとした観光は不可能だろう。いや、むしろとんでもないトラブルが起きそうである。いや、絶対に起きる。何も起きないで平穏無事に帰ってくる自分の姿が想像できない。 厄災を運んでくる二人と一緒に街に行くなんて、自殺行為に等しい。 ジュンタは一抹の希望を胸に、唯一の良識人であるユースに対して視線を向ける。 「はっはっはっ、らしくないぞジュンタ。胸を張って行こうではないか。この門の向こうは、旅人が夢見るフロンティアだぞ」 いつもよりハイテンションのサネアツ。 「ちょっと、光栄にもこの私のお供ができますのよ。もっとしゃんとして歩きなさい。それではシストラバス家の品位が疑われてしまうではありませんの!」 そして見たことがないくらい、楽しそうなリオン。 ゆっくりと開いていく正門。
言動が普通じゃないとか、行動が普通じゃないとか、そういうのは前々からだ。
そもそも大貴族である彼女が、常人と思考回路を同じにしているはずがない。そのことを指摘しても、誇りはしても直したりはしないだろう。
常人とは一線を画す、いと高き不死鳥の真実の血統。
……正直を言えば、少しだけ羨ましい。
いつもは苦手なはずの早起きを誰に言われずとも率先して行い、いつもは半覚醒状態な寝起きをどういうわけか根性で乗り越えている。
リオンに合わせて彼女の部屋にやってくる時間を若干早めている有能なるメイドのユースは、生き生きとした笑みを浮かべつつ紅茶を飲んでいる主を見、
本当に小声で、気を付けていないと聞き取れなかった小さな呟き……それをリオンは聞き止めてしまったらしい。
「…………」
常の無表情をほんの少し――それこそリオンでなければ分からないぐらいの――困った表情に変え、ユースは少しだけ悩む。
未だとある感情に気付いていない主。使用人として、彼女に助言をすべきだろうか?
リオンの一番近くにいる者として、ここ最近の楽しそうな彼女には頬を弛ます思いだ。できればもっと生き生きと輝いて欲しいと、そう思う。
話題に興味がない。そういう風に取れる態度だが、ユースには分かっていた。リオンも貴族といえども、いや貴族であるからか、噂話などのゴシップに強い興味があることを。
勢いよく驚愕と動揺に目を見開いて、リオンは詰め寄ってくる。
噂はあくまでも、最近楽しそうなリオンを見た使用人が『恋でもなさってるのかも』などと言い、その頃に新しくやってきた使用人の少年とを、勝手に結びつけているに過ぎなかったりする。
これは困った。ユースとしては、どうしていいか分からない。
「楽しそうに? 違いますわ、あれは不敵な笑みといいますのよ。愚かなあの男に吠え面をかかせようと気合いを入れているだけ。そう言った意図の笑みとは百八十度違いますわ」
「そんなっ! あの男はこともあろうに、この私の入浴を覗――」
「ストップですリオン様。ダメです。それ以上の言葉は、なかったことをさらけ出す結果になります」
いや、忘れることはできないだろう。あれは衝撃的な事件だったのだから。
「一週間。完全に負け越しましたけど」
「ふ、ふんっ、当然ですわ。このリオン・シストラバスの辞書に、敗北の二文字はありませんもの。見てらっしゃい、ジュ……いえ不埒者! 私が絶対にギャフンと言わせて差し上げましてよ!」
その行為は騎士道精神に則っているのか甚だ疑問ではあるが、楽しそうなリオンの姿を見て口は挟まない。彼女にはゴーイングマイウェイで行って欲しい。
そんなかわいらしい表情が、自分の一言で壊れてしまうのは少し……いや、結構悲しいものがある。ユースは、リオンには負けるが結構かわいいものとか好きである。
「ですから、今日彼に対して報復を行うのは無理です」
「ど、どうしてですの!? せっかく睡眠時間を削ってまで素晴らしい妙案を考えましたのよ! 今度こそは絶対の自信がありますのに、どうして無理ですのよ!? 早起きした意味がないではありませんの!!」
それはあまりに意外な言葉だったのか、リオンの動きは見事に固まってしまった。
◇◆◇
無償労働と言っても、休みはしっかりとくれるらしい――そのことをジュンタが知ったのは、つい昨日のことだった。
ことあるごとに突っかかってくるリオンの対応をしながら、任された仕事をこなすというハードワークを行っていたジュンタに、昨夜、部屋にエリカが来て言った。
夜遅くに部屋にやってくるという、見ようによってはそういうことだと勘違いされそうなシチュエーションに、エリカの父親に気を付けながら用事を聞いた結果――
ということを知った。
一週間の疲れを癒すことのできる、記念すべき初休日がやってきたのだった。
パッチリとした大きな鳶色の瞳が、好奇心に輝いている。
できれば様々な事情から席を立ちたいジュンタを、決して逃さぬとその目が語っている。
噂好きというところは年頃の女の子によくありそうだが、彼女の場合妄想の度合いがハンパじゃない。
彼女にかかればただ世間話をしていただけの騎士が、薔薇色の背景で仲睦まじくしていたということになるし、ジュンタのようにリオンに一方的に難癖つけられている情景が、意地悪な彼氏とじゃれあう彼女……そんな構図になるらしい。
そんな嫌な確信を持つに至ったジュンタに、エリカは再確認の意味をこめて聞いてくる。
「それで本当にお嬢様とは何の関係もないんだよね? 昔、結婚の約束を交わした幼なじみだとか、実は前世では悲恋になった勇者と魔王だとか、そういうのじゃないんだよね?」
「う〜そっかー、残念。私、リオン様があんな風に男の子とじゃれあってるところ見たことないから、てっきりそうだと思ったんだけど……」
誰もいない空間に向けて言い訳をしていたジュンタが振り返ったとき、真向かいの席には誰の姿もなかった。
視線の端の方に、パタパタと駆けていくエリカの後ろ姿が見える。
ジュンタの休日の過ごし方は、今朝思い描いた通りのものになった。
休日に家でゴロゴロするサラリーマンのように、ジュンタは最高のゴロゴロ状態を満喫していた。世のお父様方のように、どこかに連れて行って欲しいとねだる子供もいない。
最高だー、と約半日、誰にもはばかれることなくのんびりしていた。
ジュンタはついに眠ることが出来なくなってしまった。
これ以上は眠れない。目が非常に冴えきってしまっていて、寝ようとするのが逆に辛い。
しばらくはそれでもベッドの上でだらけていたジュンタだったが、さすがに退屈をもてあましてきた。
それで結局、現在――
眠りすぎで軽く怠いのを、新鮮な空気を吸うことで気分転換を図ろうと、外に出た次第である。
屋敷は一週間丸々稼働している。だから使用人たちに決まった休日の日というのは存在しない。彼らは個人個人、ローテーションを組んで休みを与えられるのである。
ということなので、こちらの世界に来てからできた知り合いと談笑しようと思っても、彼らは皆仕事中である。さすがに暇つぶしで邪魔するわけにはいかない。
仕事をしていないサネアツも、今日は朝から見ていない。
ジュンタとしても手伝うべき、手伝ってやりたいのは山々だが、如何せん、日々の労働が忙しすぎる。
なら休みにはと思ったのだが、それは昨日の内にサネアツより、
折角の休日まで、彼女と関わり合いになるのは勘弁願いたい。従って、こうやってのんびり散歩するのが一番いいだろう。
空は綺麗に晴れ渡り、美しいまでに澄んでいる。
雲一つ無い陽気に誘われて外に出てきたのだ。こうして歩いているだけでも、十分に心が洗われる。
一週間屋敷で働いていても、まだ全ての場所を確認できていない。シストラバス邸はきちんと全てを見るにはあまりに広すぎる。だからこれから夕刻までに少しでも見て回るのもいいかもしれない。
異世界の大貴族の屋敷という名の城。不思議な物も何かあるかも知れない。ジュンタはそう思い、しばらくあてもなく歩き続けた。
石で築き上げられた塀は城壁とも呼べて、見る者を圧倒させる威圧感を放っている。
こんな塀が屋敷の周りをグルリと一周囲んでいるのである。正門を閉じてしまえば外からの侵入は容易ではないだろう。
だが、それはまた逆も言える。内側からの脱出も、決して容易でないということだ。
ジュンタは塀の向こうに広がる、ランカの街並に思いを馳せつつ、小さく呟きもらす。
「ジュンタさん。どうかしましたか?」
屋敷内でも比較的ジュンタと面識のある彼女が、いつも通りの無表情でそこに立っていた。
まさかそんなことを訊かれるとは思っていなかったジュンタは、少し考えてから首を縦に振る。
なんといっても異世界の街だ。きっと、色々と珍しいものがあるに違いない。見ることができるのなら、是非に見たい。
それは決して嘘ではない。それなりに毎日楽しくやっている。
ユースという女性はあまりしゃべらない。
そんな彼女と二人きり。リオンが平気なように、慣れてしまえばどうってことない空気だろうけど、騒がしい友人といつも一緒だったジュンタには少しきつい。
そんなジュンタの内心に気付いているのか、いないのか……ユースは静寂を破り、
冷たそうな双眸には、だけど確かな温かさが見えた。
変人の巣窟であるシストラバス邸で、アルゴー執事長の他に、こんないい人がいたではないか。
確かに少しクール過ぎるが、それは問題にならない。
心はこんなに優しい人なのだ。人を外見だけで判断してはいけない。そんな簡単なことに、今まで気付けなかった。
ジュンタは自分の失態を悔やむと共に、一つの懸念を思い浮かべる。
彼女の優しさは嬉しいが、そのために彼女に迷惑がかかることは認められない。
『ジュンタさんは今日が休日ですが、使いに行かせるということで働かせる』などと言えば、きっとリオン様なら二つ返事で了承してくれるはずです」
なんて素晴らしい女性なんだと、思わず惚れかけてしまうほどである。
「分かりました」
でもその無表情の顔が優しく笑っているように、ジュンタには見えた。
「さぁ、では行きますわよ! さっさと付いて来なさい!」
「俺もジュンタが行けないために我慢していたからな。異世界の街ランカか……ふっ、一体どんな物があるか、非常に楽しみだな」
彼女は非常に申し訳なさそうに見える無表情で、深々と頭を下げた。
それだけの仕草で、どうしてこうなってしまったのか分かってしまった。
きっと、ユースがリオンに事情を話した時――
『それなら、私が一緒に行き、ボロくずになるまでこき使って差し上げますわ!』
ジュンタが街に行くと聞いて、居ても立ってもいられなくなって引っ付いてきたのだろう。
……そっぽを向かれてしまった。
「……ショックだ。俺はまた裏切られた……」
肩を大きく落とすジュンタ。
リオンによって強引に引っ張られていくジュンタの姿は、ユースには売られていく仔牛のように見えたと言う――ドナドナ。