第八話  戦闘開始


 

 一つの恐怖の形をとって、その魔獣は現れた。
 体長は四メートルくらい。尾を含めれば五メートル以上ある巨大な体躯。

  鈍い翠に光る鱗が全身を覆い、首は長く蜥蜴を連想させる姿だ。
瞳は鮮血のように赤く、牙の生えそろった口は人間を丸呑みできそうなほど大きい。
 
 そして背中から生えた巨大な翼は、腕と一つになっている。

(これは、このドラゴンは一体何だ?)

 突如空より飛来した魔獣を前にして、ジュンタは呆然と座りこけていた。

 ドラゴンの咆哮と共に、止まっていた思考が動き出したのはいい。
 だけど、状況を判断できる状態になって、より現状に対する混乱が出てきた。

 冷静に考えようとすればするほどに、脳裏には一瞬前の情景がリフレインする。

 少し前まで目の前にいたリオンと、彼女の手に抱かれていたサネアツ。
 二人がドラゴンの落下に巻き込まれ、砂埃の中に消えた映像が、グルグルと頭の中を回っている。

 ドラゴンの落下スピードは、恐ろしい速さだった。

 地面が揺れ、陥没するぐらいの一撃。あんなものをモロに受けたら、人間なんて確実に死んでしまう。

 死んで……

 身を襲う初めての恐怖。知り合いを目の前で亡くすという恐怖に、ジュンタは震えた。
 腰を抜かしたようにベンチに座り込んでいたが、何かをしなければと思って立ち上がる。

 疲労だけが理由じゃなく、足に力が入らない。

 情けないと思う気持ちも沸いてこない。そんな余計なことを考えられる余裕はなかった。
砂埃がゆっくりと晴れていく。

 ひび割れた地面が露わになってきて、ゴクリとジュンタは息を呑む。

 もし……もしも、あの地面が血で濡れていたのなら、一体自分はどうするのだろう?
 ドクドクと心臓の鼓動が早鐘を打っているのを感じつつ、それだけがやけにはっきりと感じるのに違和感を感じながら……

――クッ」

 笑いが込み上げてきた。
 
 地面に血の花が咲いているわけでもなく、見知った少女と猫の死体が転がっているわけでもないことに、酷く安堵したのだ。

 砂埃が晴れきった向こう。
 ドラゴンの尾の向こうに見えるリオンの姿に、心の底からの歓喜が沸いた。

 ドラゴンを挟んで向こう側。ぱっと見傷一つ無い姿で、腕にサネアツを抱きかかえたままリオンは立っている。
 
 気迫がこちらまで伝わってくるぐらいの表情は、とても凛々しい。
 
 ドラゴンの動きを見定めつつ、ジリジリと間合いを計っている姿は、紛れもなく戦士のそれ。騎士としての動きだった。

 無事だった――それがどうしようもなく嬉しい。

 リオンの無事を確認して、苛まれていた恐怖から脱したジュンタは、これからどうするかを考える。妙に思考は冷静に動き、慎重に物事を考えることが出来た。

 現状、理由は分からないが自分たちはドラゴンに襲われている。
 ドラゴンは巨大で、どう見ても強そうである。とてもじゃないがジュンタでは歯が立ちそうにない。いや、普通の人間では倒せない相手だ。

 その相手に、こともあろうに向かっていく。
 ジュンタが思考を始めた頃には、すでにリオンはそうしていた。

「ハァッ!」

 どこからともなく取り出し、リオンが右手に握ったのはジュンタも見たことがある剣だった。

 紅い刀身の剣。細かな細工が施されている儀式剣であり、この上なく実用に特化された西洋剣である。

 両手に抱いていたサネアツを離し、一歩で大きくドラゴンに接近。何の躊躇もなく、渾身の力でリオンは剣を振り切る。

 紅い輝きが一瞬宙に残り、バカみたいにすんなりドラゴンの足に叩き込まれる。
 スパンと音もなくドラゴンの足は切断され、青い血を吹き出して地面に転がった。

 その刹那の光景の一部始終を、ジュンタは瞬きをすることもなく見届けた。
 自分では、いや、人間では歯が立たないと思ったドラゴンに対し、リオンは見事に一撃を加えた。肉体を極限まで利用した最速の一振り、刃がジュンタの目には映らないほどのスピードで。

 一体どれだけの修練を積めばあんな斬撃が放てるのか?

 ジュンタが驚くしかなかった、強烈な一撃。
 振り切った後に大きくバックステップし、リオンはドラゴンと距離を取る。ドラゴンにダメージを与えたことに喜んでいるわけでもなく、表情は苦々しさで満ちあふれていた。

「ジュンタ無事か!?」

 ジュンタの足下に白い子猫が駆け寄ってきた。
 サネアツは見る間に肩に乗り、黒いつぶらな瞳を向けてくる。

「サネアツ、これは一体?」

 幼なじみの無事な姿を確認すると共に、ジュンタは彼にことの次第を尋ねてみる。もちろん彼の口からは『分からない』と、そう返答が返ってくるものだと思っていた。

 いくらサネアツが自分より異世界について詳しくとも、この状況は説明できまい。少なくとも、ジュンタはそう思い、そしてそれは間違いだった。

「思い出したことがある。ジュンタ、俺は思い出したぞ」

「一体何をだ?」

 嬉しそうな、しかし辛そうな表情で、じっとサネアツは見つめてくる。
 
 一体何を思い出したのか、それを訊く前にサネアツは言葉を続ける。

「以前、俺はジュンタに言ったな。俺は事前情報があって、そしてジュンタを助けるために異世界に来たと。その道を選んだと……その理由を思い出したのだ」

「それはつまり、サネアツが異世界にいる理由が分かったってことか? でも、それはこんな状況で――

 視線をサネアツから、リオンの方へと移す。

 一刀にてドラゴンの足を切断した騎士。
 彼女は今も手に剣を構え、ドラゴンの様子を伺っている。翼を大きく広げて、片足にも限らず上手くバランスを取っているドラゴンと、脅威は未だ健在だ。

 確かにサネアツが思い出したことは、とても重要なことだ。なんといっても、二人の一番の問題である『異世界に来た理由』が分かるということなのだから。

 でも話をするには、時間も状況もふさわしくない。

「それは後で話し合おう。今は、どうにかリオンを助けて逃げ――

「それはダメだ。ジュンタ、逃げても無駄だ。あれは追いかけてくるぞ」

 ジュンタの提案をサネアツが遮る。
 瞳には強い意志の光が見え、言葉には真剣な響きがこもっていた。

「追いかけてくる? ……まさか、あのドラゴンの目的は俺なのか?」

「そうだ。そして俺が思い出したこと。それもあのドラゴンが関係している」

 サネアツがドラゴンと呼ぶのは、もちろん目の前にいる翠の獣だ。

「こんな状況だから簡潔に説明する。信じられないかも知れないが、俺が思い出した限りでは真実の話だ。だから真剣に訊いてくれ」

 ジュンタはリオンを一瞥し、強く拳を握り、

「……分かった。教えてくれ」

 今、自分にできることはないと、悔やみながらサネアツに乞うた。
 
「ああ。まず俺が異世界に来た理由、それは簡単だ。以前にも言ったとおり、俺はジュンタを手助けするためにこっちの世界に来た。つまり俺が異世界に来た理由は、ジュンタが異世界に来たからだ。
 そしてジュンタが異世界に来た理由。冗談でも嘘でもない、お前はこの世界の救世主となるためにやって来たのだ」

「……ゴメン。なんだって?」

「だから救世主だ。救世主。メシア。
 ジュンタ、信じられないかも知れないが、お前にはそうなる資格があり、その資格を求められてお前はこの世界に連れてこられたのだ」

「…………」

 冗談にしてはあまりにサネアツの言葉は真剣で、冗談にしてはあまりに場の状況が悪辣すぎる。

 だけど――それを信じろと言うのだろうか?

「信じる。だから続きを話してくれ」

 信じられる。取りあえず問題としない。信じられないが信じよう。そう出来る程度には、ジュンタはサネアツのことを信じていた。

「ありがたい。ならもう一つ――ドラゴンのことだ。いいか、ジュンタ。救世主に選ばれたといっても、それはそうなる可能性があるだけに過ぎない。本当の救世主になるには、いくつもの条件が必要だ。そしてその条件を満たして行くには、途方もなく険しい試練をクリアしなくてはならない」

 そこまで言われて、ジュンタにはなんだか結論が予想ついた。

「あ〜、それってつまり、まさかこの状況が……」

「試練だ。十のオラクルの一番目。『竜殺し』だ」

「正気か?」

「いたって、マジだ」

 ジュンタにとって、あらゆる意味でサネアツの話は理解しがたかった。

 恐らく彼は、この危機的状況でも分かるように簡略に、理解しやすい言葉で説明してくれたのだろう。だからことの次第はもっと複雑なはずだ。全てをきちんと説明されたなら、救世主云々も信じられるかもしれない。

 だが今は無理。不可能だ。理解できない。いきなりすぎる。

「だけど、一つだけ分かったことがある」

 いきなりすぎて、全てを受け入れることはできない。
 だけど一つ。たった一つだけ、どうしても事実なら寛容できない事柄があった。

 空気が震え、ドラゴンの巨体が動く。
 ようやく反応を見せたドラゴンに合わせ、剣を構えたリオンも動く。

 リオンの険しい表情に油断はなく、そして余裕も存在しない。

 先程までは怒って、笑って、感情豊かに話していた少女。
 彼女を自分が原因で、今、危険な怪物の前に立たせている。それだけがジュンタにも分かった。そしてそれは、とてもじゃないが許せないことだった。

 他の何かが原因でドラゴンが現れたのなら、ジュンタはただ巻き込まれただけの一般人でいられた。自分の身と大事な人の身だけを心配し、逃げることが出来た。

 だけど自分が原因でドラゴンが現れたというのなら……自分が救世主になるためというくだらない理由で、ドラゴンという試練が現れたというのなら……

 ――自分は逃げることなく、ドラゴンを倒さなければならない。

「俺が原因……あのドラゴンが現れたのは、俺が原因なんだな?」

 ジュンタはサネアツに確認の意味を込めて尋ねる。
 嘘は許さないというその声に、サネアツは正直に事実を口にした。

「そうだ。全てが全てお前の所為ではないが、少なくともリオン・シストラバスが戦っているのは、ジュンタのせいだろうな。もっとも――

 サネアツは悔やむように、言葉を続ける。

「先程の奇襲、あいつは俺を守って傷を負った。俺にも責任がある」

「!!」

 サネアツの言葉にジュンタは焦り顔でリオンを見る。

 ぱっと見では無傷のようだった彼女だが、よくよく見ると、彼女の白いドレスの横腹の部分には赤い色が滲んでいた。

 ギリッと歯を食いしばって、ドラゴンを睨む。
 
 翠の魔獣は視線をリオンに向けたまま、微動だにしない。
 片足を切られたというのに、まったく動じていない姿は、どこをどうみても化け物だ。

「サネアツ。お前、俺が救世主になる可能性があるって言ったよな?」

「言ったとも。ジュンタ、お前には素質があるらしい。俺は俺に与えられた役割を果たし、お前が試練を越える手助けをする。協力は惜しまんぞ?」

 記憶を取り戻したというサネアツは、自信たっぷりに断言した。

 ジュンタはサネアツの言葉を受けて、自分の手の平を見る。緊張で汗が張り付いた手の平。どうしてか不思議な違和感を……感じたりとか、そんな素敵展開はない。

 ジュンタは手を見つめたまま項垂れ、サネアツに渇いた笑みを向ける。

「ところでもう一つ質問なんだがサネアツ。俺に素質があるというけれど、それって具体的にどんな力があるっていうことなんでしょうか?」

「それはもちろん。とんでもなくて、すっばらしい力に決まっていよう。ドラゴンなんか目じゃないぜ!」

「……それならその力は一体、どのようにして使うのでしょうか?」

「そ、それはもちろん、救世主パワーだ、救世主パワー。危機的状況になると、いつの間にか使えるようになっているのだ」

「……本当か?」

「…………いや、悪い。その点については役に立ちそうもない」

 サネアツが自分の不甲斐なさを嘆いた瞬間――ジュンタは突然吹き荒れた、強烈な突風に足下をすくわれた。

 声を上げる暇もなく、身体は暴風に煽られる。
 目の前で渦巻くように巻き起こったその風は、ドラゴンが翼を羽ばたかせただけで起きたらしい。

 巻き込まれるように、渦を巻く突風の力でドラゴンの方へと身体が寄っていく。服に 吹き飛ばされまいと必死に掴まるサネアツの身体を抑えつつ、暴風によってジュンタは軽々と吹き飛ばされた。

 数メートル――渦巻くように乱回転して、ジュンタは地面に落ちた。

 背中から思い切り地面に叩き付けられ、数回バウンドしてようやく止まる。

 そこはドラゴンを挟んで向こう側にいたリオンの足下であり、視線を少し横にずらせば彼女のスカートの中が覗けそうな位置だった。というか普通に、リオンの風によって膨らんだスカートの中が、ガーターベルトと白い下着が見えた。

 状況が状況なだけに感動も興奮もないが、ジュンタは反射的に顔を背ける。

「ちょっと、あなた! どうしてさっさと逃げませんのよ!?」

 そのジュンタの後頭部に向かって、風に負けないよう大声でリオンが叫んだ。どうしてか、その足は思い切り背中を踏んづけにきている。

 逃げないんですの、と訊く辺り、リオンは逃げて欲しかったのだろう。
 だが背中を踏んづけているところを見るに、もしかしたら逃げずにいて欲しかったのかも知れない。とても矛盾している。

「逃げるって、逃げられるはずないだろ! というか背中を思い切り踏みつけるな!!」

 ドラゴンが翼を動かす度に巻き起こる暴風に晒されながら、ジュンタも負けじとリオンに怒鳴る。

「どうしてですの!? あなたは役に立たないんですから、さっさと逃げればよかったんですわ! そうすれば、私があなたを飛ばないようにする手間も省けましたのに!!」

「……あーなるほど、だから背中を踏んづけ、いや、押さえてくれてるわけか……」

「分かったのならさっさとお逃げなさい! しっかりと地面に掴まって逃げるなら、この風にも吹き飛ばされないはずですわ! いいですか、絶対に逃げ切りなさい! 私はこの街を統治するシストラバス家の騎士として、あなたを逃がす責務がありますわ!!」

 そう叫んだリオンに視線を向けると、彼女は真剣な表情でこちらを見ていた。

 彼女は何を思ったか、手に持った剣を目の前に突き立てる。

「持って行きなさい。私のお母様――カトレーユ・シストラバスの形見の剣。最上級の竜殺しであるドラゴンスレイヤー竜滅剣ですわ。もしもの時はこれで自分の身と、シャルロッテの身を守りなさい」

「バ、バカ言うな! これを俺が持って行ったら、お前はどうするんだよ?!」

 徒手空手になったリオンを見て、ふざけるなとジュンタは叫ぶ。

「問題ありませんわ。騎士は常に剣を持ち歩くもの。それはお母様の形見の剣で愛用の剣ですが、もしもの時のためにもう一本、ちゃんと剣は持ち歩いていますわ」

 それに対するリオンの返答は、そんなおかしなものだった。

 もう一本剣を持っている。リオンはそう言ったが、一体どこに剣を持っているというのだろうか?

 いや、それを言ったら、リオンはジュンタに渡した剣をどこから取り出したというのか?
 一緒に街で買い物をしていたとき、彼女は剣など持っていなかった。服に隠し持つには、刀身があまりにも長すぎる。

 そんなジュンタの疑問に答えるように、リオンは自分の指から美しい紅色の指輪を抜いた。

 そして一言、

「騎士剣よ」

 紡いだ瞬間――紅色の指輪はリオンの手の中で、美しい紅い刀身の剣と変わった。

「あなたには馴染みがないと思いますけど、竜殺しのための剣には特殊な施しがされていますの。魔法を用いれば、非常にコンパクトに持ち運びができるのですわ。……さぁ、これで安心したでしょう? さっさとお逃げなさい」

 力強く新たな剣を構え、リオンはジュンタの背から足をどけた。
 開放された途端、吹き荒れる暴風に身体を取られそうになったが、これを必死に堪える。

(分かってる。ここに残った方が、リオンには迷惑になることは……)

 だけど、だからと言ってこのまま逃げ出して良いのだろうか? 

 元はと言えば自分のせい。自分がリオンと一緒にいた所為で彼女を巻き込んでしまった。

 本来なら、義務に乗っ取ってドラゴンを倒すべきなのは自分の方だ。それこそ命がけで、他人を巻き込んだ責任を果たさなければならない。だが責任を果たす力はなく、この場で取るべき最良の選択は、リオンの言うとおり逃げること。

 だけど責任感が、義務感が、この場から立ち去ることを認められない。

 刻一刻と、ドラゴンの飛翔の時が迫っている現状――

「分かりましたわ。なら、あなたに主人として命令を差し上げましょう。
 ジュンタ・サクラ。一刻も早く我が屋敷に戻り、我が精鋭たちをこの場に案内なさい!」

 それは澄み渡った声。力強く、絶対的な、現状を打破するリオンの優しさだった。

 手にはリオンの母の形見だという、竜殺しのドラゴンスレイヤー。気付けばこの剣を持ち、ジュンタは立ち上がって走っていた。

 今自分にできることを成すために。全速力でシストラバス邸を目指して。


 

 

「まったく、男というものは女に守られるのが、どうしてそう嫌なのでしょう?」

 はぁ……と溜息を吐いて、リオンは軽く呆れ声を出す。

 いなくなった黒髪の少年。自分の使用人である少年。不埒者だとか、情けないなどと言ったはいいが、結局彼も一人の男だったということか。女を置いて自分だけが助かれない、プライド高い、シストラバス家の騎士と同じだったということ。

 男ではなく女として生まれた瞬間に、リオンはそんなことはどうでもいいと切り捨てた。
 男は女を守らなければいけないとか、そういうことは一切合切無視。シストラバス家の次期後継者として、また不死鳥の騎士として、己の騎士道を貫き通す決意をした。

 彼のような男を蔑んだり、女扱いされることを不満に思ったりする気は毛頭無い。むしろ好ましいと思っている人種だ。今の時代、あまりああいう人種は多くないのだから。

 だから、彼がそんな男だったと知り、思わず呆れてしまったのには他の理由からだった。

「まったく、そういうのは大事な人にするものですのに」

 はぁ……ともう一度呆れて溜息。

 何を思ったのか、嫌がらせをしている――自覚はある――嫌な女を守るために、彼はこの場に残ろうとした。そういう男らしさを発揮する場面は、他にあるだろうに。まったく、その馬鹿さ加減にはほとほと呆れ果てる。

 ジュンタ・サクラ――バカで、礼儀知らずで、不埒な男の名前。

「もう、名前は額を床に擦り付けて泣いて詫びた時に、初めて呼ぶと決めていましたのに。まさかリオン・シストラバスともあろう者が、名乗られてもないのに名前を呼ぶなどという不作法をしてしまうなんて……少し、あの不埒者に感化されてしまったようですわね」

 リオンは剣を強く握りしめ、左手を後ろに、魔獣に対し半身で構える。

 無駄に陥ってしまった思考は終わり。
 足に力をこめ、決して吹き荒ぶ風に負けないよう大地を踏みしめる。

 これより先は騎士として、ランカの街を守る竜滅騎士として、目の前の魔獣――魔翼の魔獣ワイバーン』を倒すためだけに思考する。

 気配は鋭く、まなじりに力をこめ、これよりワイバーンが見せるだろう隙を狙い、断つ。

 何度も翼を羽ばたかせているワイバーンの行動は読める。
 足を失って機動力をなくした敵は、それを補って余りあるために空を飛ぼうとするだろう。そうなれば地を駆ける人間に手の出しようは……少なくともリオンにはなくなる。

(その前に決めますわ!)

 タイミングを見計らい、刹那の時を狙ってワイバーンに向かい、駆ける。

 風を巻き起こし、浮力を得たワイバーンは飛翔を始める。
 飛翔可能となってから、実際に宙に浮かぶまでの一瞬――それこそが絶好の隙となる。

 一歩。深く、鋭く、風を切り裂く紅い風に、リオンはなる。

 少し浮かんだワイバーンの腹に潜り込み、思い切り跳躍。同時に左手を使って遠心力を操り、勢い強く右手に握った剣を叩き込む。

 細腕から繰り出されたとは思えない、重い一撃。
 ワイバーンの腹に一筋の剣閃が走り、勢いよく切り裂かれて血が噴き出した。

 その血が瞳に入らないことだけに気を遣いながら着地し、リオンはバランスを崩したワイバーンの首目掛け、鋭い剣戟を再びの跳躍と共に――

「はぁッ!」

 一閃。
 
 ワイバーンの太い首は、鋭い太刀筋に物の見事に切断された。

 ドサリとワイバーンの巨体が地面に崩れ落ちる。

 僅か三撃にて恐るべき魔獣ワイバーンを倒したリオンは、余韻もなく横腹を押さえ、苦悶の表情を浮かべる。

 どうやら今の動きで、横腹の傷が広がってしまったようだ。

「参りましたわ。少し、気を抜きすぎていたようですわね。まったく、最近の私は少々情けなさ過ぎですわ」 

 久方ぶりの痛みを堪えながら、ワイバーンの死体から離れようとするリオンは、寒気を感じて、その場から全速力で離脱を計った。

 転がるように、天から落ちてきた炎の礫を回避する。
 爆発炎上するワイバーンの死体。爆風を利用しつつ、直ぐさまリオンは起きあがり、剣を構えて空を睨む。

 そして、そこにいた二匹目のワイバーンの姿に今度こそ絶句した。

「嘘でしょう? 一年でも数えるだけしか確認されないワイバーンが、一度に二体も?」

 驚くべき、それこそ数十年に一回の確率だ。天然のワイバーンは獰猛で気性も荒いが、だからこそ街に現れることは少ない。その前に発見され次第退治されているからだ。

 それなのに一体のみならず二体も。これは明らかに異常である。

「人為的なものか、それとも……いえ、今は関係ありませんわね。私はただ、倒すのみ」

 空を飛べぬリオンは、空を飛翔するワイバーンを睨み付ける。

 思考はただ、敵を倒すことに注がれる。その刹那の前――

(酷い傷ですわ。もしかしたら、傷が残ってしまうかも知れませんわね。今までどうにかこうにか、肌に傷だけは残さぬようにやってきましたのに……)

 なんて乙女のようなことを考えて、

(その場合、責任は取って貰わねばなりませんわよね。あの男、それなりに義理堅いようですから、一生こき使ってやれるかもしれませんわ)

 戦場に似合わぬ楽しい考えに、クスリと笑った。


 

 

       ◇◆◇

 

 


 レス・ティオーナ聖堂前の自然公園は、かなり広い公園である。

 端と端では互いに互い、何が起きているかまったく分からないくらいには広い。
 今もそれこそ聖堂に近い方ではリオンが戦っているというのに、今ジュンタがいるこの場所では戦闘の音は聞こえてこない。どうなったのか、その不気味な静けさが不安を掻き立てる。

 だからジュンタにできることは、リオンを信じて早く助けを呼びに行くことだけだった。

「大丈夫だジュンタ。俺の見立てでは、あいつはかなり強い。十分でも二十分でも、それこそ一時間でも耐えていられるはずだ。もしかしたらドラゴンを倒してしまうかも知れない」

「そうだな。心配をするだけ、リオンに失礼だってことだな」

「そうとも。……だからジュンタ、今は俺たちの心配をしようではないか。この状況、どうやって切り抜けるか。さて、中々に難問だな」

 サネアツはジュンタの肩の上、目の前に座する翼のある魔獣を観察する。

 翠の鱗に覆われた巨大な体躯。尾があって首が長くて牙が鋭い。そして手と同化した翼。
 大きさも、姿形も、先程見たドラゴンと寸分変わらぬ、紛れもない、今目の前に空より落ちてきた翠の獣も……

「ドラゴン。まさか二体いるとはな」

「サネアツ。この試練、普通に致死量超えてないか?」

 あまりの急展開に緊張が付いていかない。

 恐怖とか、驚きとか、そういう感情が著しく鈍っている。ドラゴンの巨体を前にして、踵を返して逃げることができなかったぐらいには、混乱しているらしい。

 そんな風にもたついている間に、状況は悪化してしまった。
 剣を片手に呆然としていると、ドラゴンはその鮮血の瞳で睨んできた。索敵→ロックオン→デリートな展開を予感させる雰囲気である。

「これは逃げられそうもないな」

 先程のドラゴンから逃げられたのは、高い剣の腕を持っていたリオンの助けが大きかった。ドラゴンがリオンを最優先に警戒する相手と見ていたお陰で、その隙に逃げることができたのだ。でなければ、あの怪物からは逃げられなかった可能性が非常に高い。

 そして今現在。被害が他者に及ばなくて喜ぶべきか、それとも助けてくれる人がいないと悲しむべきか……人っ子一人周りにはいない。

 唯一助けになってくれそうなのは、身体能力に乏しい白い子猫のサネアツだけである。

 彼もそれが分かっているのか、安心させるように力強い声で、

「何、問題ない。俺の身体は小さいからな。ジュンタが囮となってくれたなら、確実に屋敷まで戻れるだろう。緊急事態だ。しゃべれることを世間にバラすことも厭わん」

「待て! どうして俺が囮になることが決定済みなんだ! お前だって魔法が使えるんだから、囮できるだろ。それにいきなり猫がしゃべったら逆に退治されるわ! それなら顔が分かっている俺が言った方が!」

「何を馬鹿な! こんなにも愛くるしい小動物に、ジュンタは死ねというのか! なんてことだ、俺は悲しいぞ。お前がそんな動物愛護協会に非難ゴーゴーされる奴だとは思っていなかった! 幼なじみとして非常に悲しい!」

「だぁ、エセ猫が何を言うんだよ! そもそもお前、俺を手助けするためにわざわざ異世界まで来たなら、その役目を果たせよ! 今がその時だろ! かっこよく散れるよ? 俺は幼なじみとしてお前を誇りに思って生きていけるよ? お得意の魔法を見せてみろよ!!」

 ギャーギャーと冗談か本気が分からない言い争いをするジュンタとサネアツ。

 二人とも、良い感じに錯乱しているらしい。
 もし冷静なら敵の目の前で言い争うなどという愚行を行ったりはしなかっただろう。そんなことをすれば、敵に攻撃する大きな隙を与えることが分かりきっているからだ。

 視界の隅、何かが赤く揺らめいたことに気付き、子猫と本気で言い争っていたジュンタは視線をそっちへとずらす。

「な?! あいつ火を噴こうとしてるぞ?!」

「危ないジュンタ! 逃げろ、左だ!」

 サネアツの指示通りに左に全速力で走り出す。

 それと時同じくして、ドラゴンの口から紅蓮の塊が吐き出された。

 炎の礫は恐るべきスピードで一直線にジュンタへと迫る。

 凄まじい熱が横から近付いてくることを感じ、ジュンタはまずいと思う。逃げ切れない。視認する余裕もなかったので確認はできなかったが、それは確信だった。

 このままでは逃げ切れず、あの炎に焼かれて死ぬ。

 二秒先に迫った死に、ジュンタは賭けに出る。

 前へと滑るように飛び込む。要はヘッドスライディングを実行したのだ。
 
 ……だが、それでも足りなかった。

 一秒。地面を滑るジュンタの目に、大気の水分を蒸発させつつ迫る炎の塊が映る。その瞬間にジュンタは自分の死を覚悟して、それでも瞼は閉じなくて、

大地の守りよ 聳え立て」 

 そんな詠唱に、もう一度立ち上がって走り出す道を選ぶ。
 見れば肩に捕まっていたサネアツが、炎の塊に向かってその指を突き出していた。

 指先には歪んだ円。茶色に輝く魔法陣。

 魔法系統・地の属性――大地の盾アースシールド

 サネアツの知る唯一の守りの魔法が、詠唱によって具象する。
 サネアツの前の地面から、ジュンタを守るように分厚い土の壁がそびえ立つ。
 
 それは巨大な炎の礫を覆い隠すほど高く、かなりの強度を誇る土の盾だった。

 炎の礫が土の壁にぶつかり、轟音を立てて連続的に爆発。その数秒後――土すらも溶解させ、炎の礫は大地に激突した。

 しかしその数秒は、ジュンタが礫の有効攻撃範囲外に逃げ出すには十分な時間だった。

「うわっ!」

 背後で巨大な爆発が起きる。その爆風に吹き飛び、大地を滑っていく。体中が地面に擦れて痛むが、それでもジュンタは生きていた。

 ジュンタ一人では間に合わなかった。サネアツ一人でも間に合わなかった。二人だったから回避できた、焼死という結末。

 その事実に驚きはない。当たり前だ。出来ないはずがなかった。決まり切った結末だ。だからこそ覚悟を決め、握りしめたままのドラゴンスレイヤーをジュンタは構えた。

 逃げるのではなく、戦う。
 足止めするのではなく、倒す。

 この場では最もふさわしい。それが絶対だと信じて、ジュンタは声に出して宣言した。

「サネアツ、ドラゴンを倒すぞ!」

 翠の魔獣と相対し、ジュンタは紅に輝く剣の切っ先を、恐るべき魔獣に向けた。
 武器はこのドラゴンを倒すために作られた竜殺し。その最上級であるドラゴンスレイヤーと、自身の肩にいる子猫の姿をした魔法使いだけである。

 その魔法使いの子猫は、親友の決定にニヒルに笑った。

「もちろんだ。俺たちが力を合わせれば、ドラゴンなど一捻りだ」

 あくまでも本気。軽い乗りで緊張と恐怖を振り払い、二人は戦うことを決意した。
敵であるドラゴンは、現在遠く離れた広場に座していた。

 広場は炎により焼かれ、木こそ大して燃えていないが地面はグチャグチャになっている。
 
 現在の状況を見、先に竜殺しの計画を立案したのはサネアツの方だった。

「ジュンタ。いいか、作戦はこうだ。まずどうにかしてドラゴンに近付く。そして絶命させる。どうだ? 簡単だろう?」

「まったく、簡単すぎて泣けてくるね。作戦っぽくない作戦ってところがまたいい……フォローは頼むぞサネアツ」

「まかせろ。俺の魔法の力、今こそ見せてやる。ちょうどいい的もあることだしな」

 いつも通りの軽口を叩き合ったあと、ジュンタは一歩――渾身の覚悟を持って前に踏み出した。サネアツの計画は無謀とも言えて、されど彼の言葉は自信に満ち溢れていた。

 サネアツがそう計画を立てたなら、そうできる方法があるということ。自信があるということ。そのことを付き合いから察し、恐る恐る踏み出した一歩。刻んだら、後はもうやけくそだった。

「うぉおおおおおおおお!」

 思い切りよく、ジュンタはドラゴン目掛けて走り始める。

 傍目からはただの突撃。自殺者の行動だ。それを見逃すドラゴンではない。
 先程と同じように、ドラゴンの口内に焔が灯る。紅蓮に燃え盛る礫はドラゴンの体内で生まれ、口の中で膨れあがり、そして外界に吐き出される。

 ゴォオオオ、と音を立てて礫は迫ってくる。

 ドラゴンとの距離は約二百。これだけ遠ければ、避けることはそう難しくない。あくまでも炎は直線的にしか向かってこないからだ。それならば、ドラゴンの口をよく見て吐き出されない方に動けば当たることはない。ただし紙一重。少しの火傷は覚悟して進むしかない。

 そうして都合二回。ジグザグに走って、ジュンタは炎の礫を避けることに成功した。その結果服は焼けて破け、肌も赤くなってしまったが。
 
 ……痛い。どうして自分はこうやって戦おうとしているのか、分からない。

 なんとか火の礫を避けられるなら、逃げればよかったのに……心の底からそう思う。

「ジュンタ! 右に走れ! 来るぞ!」

「っ!!」

 確認することなく、サネアツの言葉を信じて右に走る。

 ほぼ真横に移動して数秒後、先程まで走っていた場所が爆発炎上した。
 冗談ではない。あんな攻撃を受けたら一撃でお陀仏だ。骨すら残らず焼け死んでしまう。今からでも遅くない、逃げよう。

 自分が原因だなんて、それがなんだ。

 自分は何も知らなかったんだ。罪はない。逃げたって、誰も責めはしない。

「左!」

「くそっ!」

 ドラゴンとの距離が近付くにつれ、攻撃の間隔が小さくなってきている。
 着弾地点が近付いたのだから当たり前なのだが、避けることが難しくなってくる。

 前を向いて全力疾走。やけどを堪えながら、必死で全力疾走。

 転んだらその時点で終わり。速度を弛めたらその時点で終わり。
 とんでもないことだ。ほんの少し失敗したら死亡という、とんでもルール。しかも勝利したところで何か益があるわけでもない。やるだけ損ときたもんだ。

 だけど、自分でも気付いていなかったけれど、どうやら自分は責任感というものが強かったらしい。

(まったく、損な性格だよな)

 誰かの所為で誰かが傷つくのは構わない。

 だけど誰かの所為で自分に関係ある人が傷つくのは許せない。自分のせいで大事な誰かが傷つくのはもっと許せない。

 ――つまりはそういうこと。

 今、爆発しそうな心臓を我慢して走っているのは、自分で撒いた種を回収している、ただそれだけのことなのだ。

 正義とか、そういう気持ちではない。
 当然だからやらなきゃいけない。それだけの責任感で、命を晒して馬鹿みたい。

「まったく馬鹿で、愚かで、ダメだな俺は!」

「まったくだ、付き合わされる方の身にもなって欲しいぞ。だが、後悔はしていないのだろう? ――左だ!」

 耳に響く相棒の声を頼りに、全速力で左に避ける。

「当然。後悔するのは死の縁に立ったときだけ、もう本当にどうしようもない時だけって決めてるんだ。まだ未来がある今、後悔するなんてこと出来ない。だって、未来に幸せな結末があったらどうするっていう話だからな」

「至言だ。違いない。生きている限り、後悔は思い出に変わるのだよ! 行くぞジュンタ! 敵は目の前! 炎は真正面! そのまま走れ!」

「おうっ!」

 ガタガタな身体に残った力を振り絞り、ジュンタは剣を上段に振り上げる。

 目の前には翠のドラゴン。ジュンタに対し大口は開かれ、炎は吹き出される。

 礫という形を取っていない炎は速度も威力も格段に劣る。
 だが、それでも人間を焼死させるには十分で、利点として攻撃範囲が大きい。
 
 振るえば紙一重で、斬撃が届かない距離にいるジュンタは、左右どちらに避けても炎を避けきれない。防御魔法で避けようにも、範囲の大きさは防御範囲の広さを凌駕する。

 戦いはドラゴンの勝利に終わる……それがこの戦いの結末であり、そうドラゴンは信じて疑わなかっただろう。

 だからこそ――その瞬間こそが唯一の勝機。

 侮られなければ絶対に負ける戦いにおいて、唯一の勝機はこの瞬間だけだった。
 ドラゴンの口から炎が吹き出たと時を同じくして、その朗々たる詠唱が場に響く。

高く聳えるもの 其は強く固き強固な柱

 魔法の詠唱とは、それ即ち自己暗示によるイメージである。

 魔法陣と呼ばれる魔法の発動媒体が完璧ならば、詠唱はなくとも魔法は発動する。
 だがタイミング、威力、制御の大切な三つをきちんと行うには、自己暗示による詠唱が必要不可欠である。

 確定されている結果を導き出すに、術者がもっとも相応しいと思う自己暗示の言葉。
 それこそが魔法の詠唱であり発動条件――それならば、詠唱に魔法の結果が記されているのは必然である。

 故に、サネアツの詠唱の言葉が意味するところは、その結果をも意味する。

 魔法系統・地の属性――石柱ロックタワー

 石の柱がジュンタの足下より、炎が到達するスピードより速くそびえ出て、天高く直立せんとする。が、ドラゴンの放った炎は、石の柱が完全にそびえ立つ前にぶつかり、溶解し叩き折る。

 足場となった石の柱を叩き折られたジュンタは、そのまま当然、ドラゴンの方へと投げ出され、

 一閃。

 がむしゃらに振り下ろされた刃は、ドラゴンの翼を根本から叩き切った。

 一撃でドラゴンに傷を付けることが出来たのは驚くべきことではあったが、それは望んだ結果ではなかった。

 ジュンタが望んだのは、今の一撃によるドラゴンの絶命だ。

 ドラゴンの首を叩き切り、勝負を終わらせることだったのだ。
 だが結果は翼を一つ、叩き切っただけ……翼を広げてバランスを取るドラゴンは、そのまま地面に倒れていくが、死んではいない。

 地面に転がるように落ちるジュンタの目の前で、ドラゴンの口が再び開かれた。
 ドラゴンは地面に横たわったまま炎を吐き出そうとしている。この状態で炎を吐き出されれば、避けることは叶わない。

「くっ!」

「ジュンタ!」

 咄嗟にサネアツの小さな身体を、手だけの力で思い切り遠くに投げ飛ばしていた。サネアツの小さな身体は、遠くの地面に見事に落ちた。

 サネアツはそのことに非難の叫びを上げるが、言われてもどうしようもない。だって身体は勝手に動いていたんだから。全て自分が原因なら、死ぬのは自分一人――そんな偽善じみた考えを、身体が勝手に行っていたんだから。

「ああ、ついてないな……」

 目の前で膨れあがる紅蓮の塊を見て、ジュンタは意外な形で訪れようとする自分の最後に苦笑する。でも、不思議と恐怖はなかった。

 幸せな人生だった……そう、胸を張って言えはしないのに、どうしてこんなにも安らかな気持ちになれるのだろうか?

 その答えはすぐ、ジュンタの目の前で煌めいた。


 ――雷光に似た虹色の煌めきが、その瞬間ドラゴンの身体を走り抜けた。


 ドラゴンが悲鳴をあげ、地面の上で悶え、暴れる。
 口は苦痛により塞がれ、吐き出されようとしていた炎は煙を上げて消え去った。

 見れば、ドラゴンの身体の表面が焼けこげている。まるで本当に落雷にあったかのように、だ。

 突然ドラゴンの身に起き、自分の命を救った現象を疑問に思う前に、ジュンタの身体は剣を握って動いていた。

 宙に円を描くように残る、虹色の線。
 
 透き通るような紅の刀身を、薄く虹色の光が包んでいる。

 それは剣を握っているジュンタの右手も同じ、いつの間にか虹色の膜に包まれていた。
 なるほど、とジュンタは自覚のなかった、ある不思議なことに気が付いた――その瞬間に、ドラゴンの首は音もなく断たれた。

 その瞬間に戦いの勝者が決まった。
 勝者はジュンタ。いや、ジュンタとサネアツだった。

「やったな、ジュンタ!」

 サネアツが綺麗な白い毛並みを泥だらけにして、走り寄ってくる。先の愚行に対する不満は、取りあえず勝利の喜びの前に消え伏せているようだ。

 全てが終わって気が抜けたのか、身体から力が一気に抜けた。すると不思議なことに、虹の光も一瞬で消失した。

 それと同時に、片手で握っていたリオンの剣が一気に重くなる。

 ジュンタは思わず取りこぼしそうになった剣を必死で握りしめ、保つ。
 リオンに渡されたドラゴンスレイヤーの重さは、大体にして一、二キロ程度だろうか。片手で、それも剣の柄を持って持ち上げるには、鍛えないと些か重すぎる重さである。

 よくリオンの細腕でこんなものがあんな恐ろしい速さで振り回せるものだと思いつつ、ジュンタはそのままその場に倒れ込んだ。

「ジュンタ?!」

「つか、れ……た…………」

 そしてよくも今まであんな重い物を持って走って、振り回せたものだと、ジュンタは不思議に思い――そしてようやく休むことができた。

 目を閉じると、そのまま意識が遠退いていく。
 サネアツが駆け寄ってきた時には、ジュンタはもう眠っていた。

「眠っただけか。まったく……よくやったなジュンタ。これで一番目のオラクルは……ん?」

 苦労と、必然の終わりを迎えた少年に労りの言葉を贈り、それからサネアツはふとこの終幕に疑問を覚えた。

 何かが間違っている。違う、と。









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