第九話  騎士勲章
 

 

 目を覚まし、まず初めに視界に映ったのは白い天井だった。

 重い身体を優しく包む、柔らかな布団。開かれた窓からは秋風が入り込んできて、カーテンをドレスの裾のように踊らせている。

 真っ白な室内――そこは一度だけジュンタも見たことがあった場所だった。

 シストラバス邸にある一室だ。医務室に隣接された病室である。

 屋敷内の案内でここに案内されたときは、案内人である騎士エルジンの思惑が計り知れなかったが、彼の思考回路をある程度理解した今なら分かる。あれはもしもの時、娘に何かをしたらお前はここに来ることになる……そういう意味合いだったのだろう。

「……どうして俺、こんなところで寝てるんだっけ?」
 
 天井を見つめながら、ジュンタは自分がこの部屋にいる理由を考える。

 寝起きのせいだけじゃない、どうしてか頭が重く、身体がだるい。体中に包帯が巻かれているし、病室にいるということは自分は怪我をしたか病気なのだろうが……いまいち記憶が不鮮明だ。
覚えている一番鮮明な記憶は、鮮やかな異世界の街並。

 商業都市ランカに住む、様々な住民たちの生の営み。店々の活気のある呼び声。自然豊かな公園と、そびえ立つ聖堂前で優しく笑っていた少女。そして……

「……そうだ、俺。ドラゴンに…………」

 順序立てて記憶を探ったところ、ジュンタは自分が病室にいる理由を思い出した。
 
 不鮮明だった記憶が急にはっきりとしてくる。
 恐るべき翠の獣ドラゴンの恐ろしさ。迫る炎の熱さ……全てを思い出す。

 おかしなことに、その時は何ともなかった身体が今になって震え始めた。

 ガタガタと身体が小刻みに震え、それに伴って身体が痛みを発する。

 どうやら肉体はそれ相応のダメージを受けているよう。
 ドラゴンにほぼ特攻と同じようなことをしたのだから、それも当然か。ドラゴンの吐く炎による火傷は、ジンジンと痛んだ。

 やがてジュンタの震えが止まった頃、病室の戸がノックされた。

 あまりにいきなりのことだったので、ジュンタは返事をすることができずに慌てた。そんなこんなでもたついているうちに、病室の戸は開かれる。

「失礼します」

 礼儀正しい声。ガチャリとドアノブを回して入ってきたのは、メイド服を着た女性だった。

 リオン付きのメイドのユースである。
 銀縁眼鏡の奥の翠眼はいつも通り無感動に輝いていて、怜悧な印象を与える雰囲気もいつも通り。

 ユースは入室してすぐ、ジュンタが目を覚ましていることに気が付いた。

「ジュンタさん、目を覚まされたんですね。お身体の方は大丈夫ですか?」

 ユースはジュンタが横になったベッドに近付いてきて、軽く体調を伺ってくる。

 身体は少し痛むが、それほど、というわけではない。

「大丈夫です。少し痛みますが、我慢できないぐらいじゃないです」

「そうですか、どうやら治癒は上手く進んでいるようですね。しかしどこか痛んだり、おかしかったりした部分があればすぐに言ってください。ジュンタさんの治療を担当させていただいているのは私ですから」

「治療? ユースさんが?」

「はい、そうです」

 ジュンタはシストラバス邸で働き始めてから、一度も医務室のお世話になったことがない。医務室にいるだろう、医師にも一度も会ったことがなかった。だけど、ちゃんとした専門の医師がいると思っていたので、自分の治療をユースが担当したことに少しだけ驚く。

 だけどよくよくユースのことを見てみれば、治療行為を知っていることに違和感がまったくない。瞼を閉じれば、彼女がテキパキと包帯を巻いている情景がすぐに思い浮かんだ。

「……どうかしましたか?」

「い、いや、別に何もないです」

「?? そうですか、それならいいんですが……」

 ユースが手に持っていた洗い立ての真っ白なタオルをベッド横のテーブルに置く。
 テーブルには水差しとグラスが置いてあり、彼女は水差しからグラスに一杯、水を注いだ。

「どうぞ。喉が渇いていると思いますので」

「あ、すいません。頂きます」

 差し出されたグラスを、身体を起こしてありがたく受け取り、ジュンタは口を付ける。カラカラだった喉に冷たい水は非常に美味で、生き返る気持ちだった。

「ありがとうございました」

「いえ、構いません。これくらいは」

 ユースはジュンタからコップを受け取り、テーブルの上に戻す。それからジュンタに向き直り、

「それではジュンタさん。包帯を代えておきたいので、少し失礼させていただきます」

「はい、ええと、お願いします」

 彼女の言葉に素直に頷く。

 ユースはベッドに乗り出すように身体を屈め、ジュンタの服を脱がせ始めた。

「ちょ、ちょっと、ユースさん何を?」

 一瞬呆然とするが、すぐに自分の服がユースの手によって脱がされていることに気が付き、ジュンタは声をあげる。それに対するユースは、当然だとばかりな返答で。

「何を、と言われましても、服を脱がしているのですが? 再開しますね」

(こ、これは治療行為。治療行為だ。何ら他の他意はないんだ)

 ユースが服を脱がしていることが、包帯を代えるためだということは分かっているので、抵抗することなくされるがままになる。

 治療行為なのだからしょうがないと言えば、しょうがないのだが……かなり恥ずかしい。なんだろう、このシチュレーションは?

「少し身体の下に手を入れますね」

「あ、はい」

 唯一助かるのは、ユースの方が照れもなく、淡々と作業をしていることか。
 知り合いに服を脱がされるというのは恥ずかしいが、もしも相手も恥ずかしがったらさらに恥ずかしいだろう。その点で見れば、ユースなのは不幸中の幸いだと自分を慰める。

(…………他に治療できる人はいなかったのかなぁ〜……)

 ユースの手によって、数十秒でジュンタの着ていた服は全て脱がされた。

 ジュンタが着ていた服は見知らぬ入院着で、下着も自分で見たことがないもの。
 こんな服を着た記憶はないので、この服はユースの手によって着替えさせられたものに違いない。つまりは今までに幾度となく彼女に、身体を見られているということになる。

 ジュンタの身体に巻かれた包帯は、ほぼ全身に行き渡る。
 
 怪我の酷い、軽いはあるだろうが、ほぼ等しく包帯は巻かれている。半ミイラ状態で、特に下半身にはグルグルと包帯が巻かれている。その上から下着や服を着ていたので、服を全部脱がされても全裸にはならない。

「では、包帯を代えさせていただきます」

 ……まぁ結局、全裸になるのは変わらないのだが。

「……お願いします」

 羞恥心を抑えて、ジュンタはユースに頼む。

 取りあえず自分の身体が見目麗しい妙齢のメイドによって露わにされるという、一生に一度あるかないかのシチュエーションに興奮しないことを祈るばかり。

 目を閉じると、シュルシュルと包帯が剥がされる音がなんとも想像をたくましくさせ、肌を包帯が擦るくすぐったさに悶えてしまうため、目を開けておいた方がまだ精神的に楽だった。それでも閉じているのに比べたらの話で、恥ずかしいことには変わりない。

 ユースは手始めに、下半身の包帯を剥がしてくる。
 時折、太股の辺りに柔らかい感触が触れるが、それは極力意識しないようにして――数分後、ジュンタの身体は本当の本当に全裸を晒すことになった。

 自分の身体に対するコンプレックスはないが、じぃ〜とユースに見られるというのは、妙に気恥ずかしい。時折触診してくるため、さらに恥ずかしい。それでも目を開き続けていた結果、ジュンタは自分の身体にある、多くの火傷の痕を目の辺りにすることになった。

 大小、重傷軽傷、様々な火傷の痕が身体のいたるところにある。

 目を覆いたくなるほど酷い――そこまでの火傷は存在しない。完治をしたら、痕も残らないぐらいの火傷が、皮膚を軽くただれさせているだけ。

 火傷の様子を見ていたユースは全てを確認し終わったのか、テーブルの上から木で出来た箱――包帯や液体の入った瓶などが入っている救急セットを手に取る。

「かなり治ってきています。これなら塗り薬を塗る必要もないですね。しかし傷む可能性もありますから、治療魔法はかけておきます」

 そう言ってユースは救急セットから包帯だけを手に取り、救急セット自体はテーブルに戻す。そしてそっと手を火傷のある部分に翳すと、一言――

治療開始

 意味ある言葉を――魔法の詠唱を紡いだ。

 ユースの手の先に緑色に輝く魔法陣が浮かび上がり、弾けて柔らかな光が溢れ出す。
光はジュンタの身体を覆っていき、しばらくした後、何の違和感も残さず消え去った。

「これ、魔法……? ユースさんって魔法使いだったんですか?」

「ええ、そうですよ」

 ユースが行使したのは、[癒しの風ヒールウインド]という風の系統の治療魔法らしい。対象の傷や体調を癒す効果があるようで、ジュンタも光が消えた後、身体の痛みが和らいだのを感じていた。

「メイドで魔法使い……多芸なんですね」

 メイドとして一流なのに、治療もでき、魔法も扱える。いや、一流のメイドだから治療技術も魔法を扱えるのか。どちらにしろ、ジュンタからしてみれば尊敬に値する万能さだ。

「器用貧乏というだけですよ。包帯を巻きますから、もう少しじっとしていてください」

 謙虚に賞賛を受け止めた後、ユースはジュンタの身体に包帯を巻き始める。

 優しく、柔らかく……それでいてきちんと全ての包帯を巻き終わった後、

「これで今朝の治療は終わりました。あと、夕刻にもう一度包帯を代えさせていただきます。これを、そうですね……あと二日程度でしょうか。繰り返せば怪我は完治しますよ」

「ありがとうございます。助かります」

 内心、この羞恥心マックスの治療行為が続くことに頬を引き攣らせつつ、ジュンタは外面には出さずにお礼を言った。

 ユースは軽く頷いた後、包帯を救急セットに片付ける。

「それでは、私は仕事の方に戻らせていただきますが、もし何かあったらこの――

 ユースはテーブルの上の呼び鈴を手に取り、チリンと鳴らす。

――呼び鈴を鳴らしていただけたら、いつでも来ますので。では、お大事にしてください」

「ありがとうございました」

 深々と一礼して、ユースは部屋を去っていく。
 入室から退室まで、企業の入社面接並に完璧だった。さすがはリオンのメイド。使用人としての技能は、ジュンタでは足下にも及ばない。

「……はっ! あまりに自然すぎて、ことの次第を聞くのを忘れた!?」

 そんなユースのペースに引き込まれていたようで、結局何一つ現状の説明を受けることはできなかった。

 気付いても今更遅くこんなことで……というわけでもないが、早速呼び鈴を鳴らすのもはばかられる。彼女なら何の不満も無く来そうだから、尚のことに。

「あー、しまったな。誰かに聞かなきゃいけないんだけど、身体を動かすのはきついし」

「ほぅ、それはつまり、今なら何をしてもジュンタは抵抗できないと、そういうことだな。それは遠回しに誘っていると、そう判断してもいいのか?」

 独り言に聞き慣れた声で返答され、ジュンタは沈黙する。

「無言は肯定とどこかの偉い奴も述べていたぞ?」

「呆れてるんだよ。まったくお前、猫になってから神出鬼没度が遥かに上がってないか?」

 ベッドに横になったまま、顔だけを部屋の入り口とは逆――開かれた窓の方に向ける。そこには案の定、白い子猫が窓の縁に立っていた。

「……サネアツ、お前がこのタイミングに現れたってことは、今までのやり取り全部見てたって考えてもいいのか?」

「オーイエス、その通りだとも。ジュンタが目を覚ましてから小動物のように震えていたのも、ユースさんと羞恥プレイを楽しんでいたのも、全て見届けていたとも。実に惜しいっ! カメラがこの世界にあったのなら、激写していたものを!」

「それで? 俺の疑問に対する答えはあるか?」

 サネアツの言葉は完全にスルーし、ジュンタは気になっていることだけを率直に聞く。ユースには遠慮しても、サネアツに遠慮することなどありえない。

 サネアツは少し不満そうな顔をするが、仕方がないとばかりに説明を始める。

「説明といっても、大したことはない。ドラゴンを倒した後気絶したジュンタは、そのまま街の異変を察知したこの家の騎士に発見、此処まで運ばれた。その後治療を受けて、ちょうど丸二日ここで眠っていた……それだけだ」

「二日か。……そうか、そんなに」
 
 思いの外、ドラゴンとの戦闘での疲労は激しいものだったらしい。
 ユースの治療魔法で治療された身体も、発見当時はもっと酷い火傷を負っていたことだろう。

「……今更だが、よく俺たちあんな怪物に勝てたよな」

「何を言う。俺たちがタッグを組んで出来なかったことなど存在しなかっただろう? 俺はあの結末を、一ミクロンも疑ってはいなかった」

 そうサネアツは言うが、それは嘘だ。

 あの時、責任感と感情の爆発からドラゴンと戦った時、二人とも、自分の命を失う可能性を考えていた。

(運が良かった……ってところか)

 結果は無事だったけれど、決して楽勝だったわけじゃない。ジュンタの中にあった不思議な力のお陰で、奇しくも勝利を掴んだに過ぎない。そう、もしかしたら今こうして話し合うことも出来なかったかもしれないのだ。

「そう言えば、もう一つ。言っておかなければいけないことがあったな」

 サネアツが思い出したと言わんばかりに、手をポンと叩く。

「何を?」

「はっはっはっ、忘れているのか。リオン・シストラバスのことだ」

 窓の縁にもたれ掛かっているとはいえ、二本足で立って手を叩く猫。シュールである。ただ、彼の口から出たことはかなり重要……思い出せば、かなり気になる話題である。

「そうだよ、リオンはどうなったんだ? 傷負ってたし、俺結局助けを呼びに行けなかったし」

「ああ、何ら心配はいらないぞ。傷はそこそこ深かったものの、命に別状はなし……ドラゴンはな、どうやら一人で倒してしまったらしい」

「一人で? うわっ、なんだよそれ。あいつってそんなに強かったのか?」

 自分も戦ったのでドラゴンの強さは身にしみて分かっている。そのドラゴンを一人で倒してしまうなんて、とてつもない剣の腕である。

 だがその驚きは、まだ序の口でしかなかった。

「……それに付け加えて一つ情報が。どうやらリオン・シストラバスの方にいたドラゴンは二匹だったそうだ。二匹とも彼女は倒してしまったらしい……やっぱり一人で」

 サネアツの追加情報に絶句する。
 そして決意する。これからは彼女をからかうのは、ほどほどにしておこう、と。

「まったくもって、恐ろしい女傑だ。異世界には怪物みたいな人間が山ほどいるようだな」

 サネアツもリオンの強さには驚いたのが、僅かに声に感嘆の念が秘められている。
 そしてさらなる追加情報。どうやら化け物みたいに強いのは、リオン一人ではないらしい。さすがは異世界。予想を遥かに超えたとんでもっぷりである

「まぁ、それらの相手には極力関わらないようにして……」

「そう言っても悉く関わってしまうのがジュンタクオリティー。まったく、先が楽しみだ」

 不吉なことを言うサネアツの言葉を真っ向から否定できないあたり、ジュンタも自覚があるらしい。口元には引き攣った笑みが浮かんでいる。

「はぁ……これ以上おかしな事態にならなきゃなんでもいいよ。元の世界に帰るまで平和にいられればそれで……ん? って、おい! 一番聞かなきゃいけないこと忘れてた! サネアツ、お前記憶が戻ったって言ってたよな?!」

 ジュンタは大事なことをようやく思い出した。それが一番重要なことだったのに。

 サネアツは『やっと思い出したか』と前置きをした後、

「そうだ。しかと思い出したぞジュンタ。俺が異世界にいる理由、そしてジュンタが異世界にいる理由をな」

「それじゃあ、元の世界に帰る方法も?」

「愚問だな。もちろん、知らないとも」

「そうだよな、知らない……って、え? 知らないのか!?」

 てっきり異世界に来た理由を知っているというので、元の世界に戻る方法も知っていると思っていたため、サネアツの意外な一言には驚きを隠せない。

「だって、あれだ? お前、事前情報があったって……それじゃあ何か? お前は帰れないことが分かっていながら、異世界に来たって言うのか? 猫になってまで?」

「その通りだ。まったくその通り。俺は全てを知った上で、この異世界に渡り、そしてジュンタの手助けをすると決めた。猫になってしまったのは予想外だが……まぁ、構わないだろう。魔法という力も手に入れたのだし、不満はそれほどない。奴はちゃんと頼みを叶えてくれたようだな」

 自分の手。かつてとは違う猫のそれである手を見つめつつ、サネアツはニヒルに笑う。
 
 異世界に来ることが出来たのなら、元の世界に帰る方法ももちろんある……そう思っていたジュンタにとって、サネアツの情報は凶報以外の何ものでもなかった。

 元の世界に帰る方法がわからない。サネアツはそう言った。それは帰る方法は存在しない……そうとも取れる言葉だ。

(元の世界には帰れない。父さんや母さんにも、学校の友人にも、もう会えない……?)

 愕然として、ジュンタは目を見開いたまま固まる。

 サネアツはショックを受けているジュンタを困った風に見て、

「すまない。ジュンタの期待を裏切る形になってしまって。俺に手助け出来ることならなんでもするが、こればかりは――

「悪い。……少し、頭の中を整理させてくれ」

 サネアツの言葉に、額を抑えてジュンタは待ったをかける。

「ちゃんと考えないといけないみたいだ。悪いけど、少し一人にしてくれないか?」

 受けた衝撃は、あまりに大きすぎる。時間が必要だ。考える時間が。

 もし受け入れるにしても、元の世界に帰れないというのは、あまりにも受け入れがたい。

 一人になりたいというジュンタの気持ち。それが分かるからこそ、サネアツは静かに頷いた。

「分かった。では、俺はこれでお暇しよう。それじゃあなジュンタ。お大事に」

「ああ、ありがとう」

 ピョン、と窓の向こうに消えたサネアツ。

 窓から覘く青い空を見つめつつ、ジュンタは悲壮な声で呟きもらす。

「……元の世界には…………帰れない……」

 それが重い事実となって、ジュンタの心にのしかかった。

 

 


       ◇◆◇

 

 

 
 予定されていた日を一日過ぎてしまったのは、ジュンタの精神が参っていたからか。ジュンタの怪我が完治したのは、それから三日後のことだった。

 サネアツは毎日、朝昼晩と顔を出しに来た。
 ただ、本当に顔を出しに来ただけで話しかけてきたりはしない。顔を見る度、まだ話しかけるべきではないと、そう判断していたに違いない。

 ジュンタとしても話をするのは少しだけ辛かったから、その判断には感謝したい。

 元の世界に帰れない理由が決してサネアツにあるわけではなく、むしろ彼は自分のために異世界に来てくれたのだ。異世界に一人という最悪の事態を回避させてくれたのだ。感謝こそすれ、恨むことはできない。

 ……だが感情は別物として、サネアツの顔を見る度に故郷のことを思い出してしまう。

 突然に異世界へとやってくることになって、そしてもう二度と元の世界に戻ることが出来ない。そんな理不尽を認められるほど、ジュンタは大人じゃなかった。
さりとて子供というわけでもない。

 絶望的な状況に無闇に混乱したり、泣き叫んだりすることも出来なかった。

 言ってしまえば、ジュンタはどこまでも普通だったのである。

 普通の世界に生まれ、普通の生活を過ごし、そして普通の死を迎えるはずだった。
 それこそがジュンタという平凡な人間の一生であったはずで、決して異世界に来て異世界で没す……そんなことは望んじゃいなかった。

 望む、望むまいが関わらず、異世界へとやってきたのだから、そんなことを論じるのは意味がないのかもしれない。この瞬間に最もふさわしい行いは、事実を認め、この異世界で幸せに暮らすことを考えることかもしれない

 ……不可能を不可能と認められないのでは、何も始まらない。
 
 だけど……それでも、と考えてしまう。

「まったく、俺は何をやってるんだか……」

 この三日間で通算何度目かも分からない溜息を吐きつつ、ジュンタは誰かが綻びを直してくれた私服に着替える。怪我が完治した今日、ジュンタは病室から自室に戻る手はずになっていた。

 怪我の状態だけなら昨日には退院出来たのだが、ユースがそれを許してはくれなかった。有能である彼女はジュンタの精神状態に気付いたのか、一日多く病室に縛り付けた。

 他にも一人で考えられるようにと面会者をいつも追い払ってくれたりと、本当に感謝である。包帯のない元気な身体に戻ったジュンタは、本当にユースに感謝していた。もう、当分頭は上がりそうにない。色々な意味で。

 ユースから許可が出たのは昼を越えた後だったので、現在の時刻は二時。
 私服である高校の制服に着替え終わったジュンタは、病室を出て医務室を通り過ぎ、屋敷の廊下へと足を踏み入れる。

 三日ぶりの廊下。医務室から伸びる廊下に懐かしさなどはないが、自室まで来るとそれなりに感慨というものは沸く。不思議なもので、まだ僅か一週間かそこらしか使っていないというのにだ。

(こうやって、いつかこの世界にも慣れていくんだよな)

 自室の戸に手をかけたところで、頭にそんな考えを過ぎらせる。

 それは事実であろう。
 今は精神的に参っているが、それも数日、数ヶ月、数年も経てば完全に風化する。その頃にはこの異世界で喜びを見出し、それなりに幸せな生活を送っているはずだ。

(……結局の所、今は状況に流されていくしかないんだよな。何かがあるわけでもなし、全部が全部、異世界のことを分かっているわけでもない)

 ネガティブにならざるを得ない状況でも、それなりに自分は前向きにいけるようで、そのことがジュンタには少しだけ嬉しかった。
 
「さて。じゃあ、今日のところはのんびりとして、いつか元気に働けるよう、に……?」

 悩みを振り払うように扉を勢いよく開け、声を出して元気よく行こうと思った矢先、扉の向こうの自室である部屋に、どうしてか見知らぬ男性がいたことに言葉を失った。

「やぁ、お邪魔をしているよ」

 金髪をオールバックにした、三十代ぐらいの男性だ。
 柔和な顔にはしみ出るような気品が漂っていて、見るからに高貴な生まれであることが分かる。静かに紅茶を傾ける仕草は堂に入っていた。

 理知的に輝く翠眼は細められ、扉を開け放ったままの格好で固まっているジュンタを見ている。酷く楽しそうで、愉快そうである。

 ビシッとスーツのような貴族の服装を着た男性は、恐らく屋敷の関係者。
 騎士団を抱えるシストラバス邸に侵入者が侵入し、部屋で紅茶を飲んでいるというのは、あまりに突飛すぎて考えられない。

 ようやく再起動を果たしたジュンタは、後ろ手で扉を閉め、椅子に腰掛けている男性に言葉を投げかけてみた。

「ええと、その、どちら様でしょうか?」

「私かい? ふむ、名乗るのはまったく構わないが、君も紳士であるのなら、人に名前を訊く前に自分の名を名乗った方がいい。それが礼儀というものだよ」

 質問に朗らかに答えてくれた男性は貴族のようだが、性格はリオンに比べて遥かにマシのようである。いや、見知らぬ人に礼儀を説く紳士というのが、果たして普通なのかは甚だ疑問だが。

 どっちにしろ彼の言っていることも分からないでもないので、ジュンタは少し思案した後、名乗ることにした。

「ジュンタ・サクラです。一応、この屋敷の使用人です」

「ジュンタ君、ね。不思議な響きの名前だ。どこの出身だい? と、すまないね。名乗られたのに名乗り返さないなんて、偉そうに言っておいてあまりに不作法だった」

 ハハハと笑う男性。

 その姿にジュンタは少し違和感を、いや、違和感というよりは疑問を抱く。

 自然体で柔和に話す男性は、お世辞ではなく優しい貴族という感じである。
しかし、どうしてか彼に対する疑念が発生していた。その理由は彼があまりにも優しいからである。自然体に見えるが、ジュンタの目には少し不自然に映ったのだ。

 そしてそれは正しかった。

 ジュンタの心の中を見透かしたように、男性は今までとは違う、ニヤリとした笑みを浮かべる。どちからが地、というわけではなく両方が地なのだろうが、こちらの方が感じる違和感は少ない。
「なるほど。ユースの言うとおり、確かにおもしろい人材だね」

 そう言って男性は紅茶のカップを置き、立ち上がる。

 身長はジュンタを越え、百八十前後といったところ。足は長くスラリとしている。第一印象で感じた気品が少し目減りしているが、観察してくるように眺めている姿には、油断できない性格を感じさせた。

「なんでも君、ワイバーンをたった一人で倒してしまったそうじゃないか。リオンのドラゴンスレイヤーの力を借りたとしても、君は魔法使いという話。これはかなり凄いことだよ」

「どうしてそのことを? いや、ユースさんに聞いたんですか?」

「そうだよ。ふむ、中々の観察眼だね。素晴らしい。秘書として雇ったら相当有能な秘書になるだろう。執事がいけないというわけではないが……その才覚は少しばかり惜しい。どうだねジュンタ君、秘書になる気はないかい?」

「はぁ……取りあえずお断りしておきます」
 
 あくまでマイペースに話を続ける男性。その正体を、ジュンタはあらかた予想できた。

 事件のことを知り、ユースのことを知り、なによりリオンを呼び捨てで呼ぶ貴族の男性。これらのことを考えてみれば、大抵の人間はその結論に辿り着く。

「そうだね、そろそろ私も自己紹介をしようか」

 ジュンタの内心をまたも機敏に察知したように、男性はスッと右腕を差し出してきて、

「私はゴッゾ、ゴッゾ・シストラバスだ。一応シストラバス家の現当主で、リオンの父親だ。以後お見知りおきを、ジュンタ君」

 そう名乗り、強引にジュンタの手を握った。

 ゴッゾ・シストラバス――それが男性の名前。

 名門シストラバス家の現当主であり、ランカの街の実質的支配者であり、最高権力者。
商才に関しては右に出る者はいないと言われるほどの手腕で、ランカの街をここまで発展させた傑物。そしてリオンの父親である。

 そんな大人物がどうして自分の部屋に?

 そう思ったジュンタに、ゴッゾは説明する。もちろんジュンタは疑問を声に出していない。さすがというか、恐るべき思考把握能力である。

「私が君のところまで来たのは、まずは君という人間を見極めたかったからだ。なんでも娘の湯浴みを覗いたとかという話を聞かされたからね」

「うっ、そ、それはですね……」

 半ば忘れかけていたことを言われ、ジュンタは怯む。
 誤解と言えたら楽だろうが、生憎と誤解ではない。いや、故意にしたわけではないが、結果を見るに事実としか言えない。

 覗いた相手の父親を前にして、ジュンタはバツが悪くなって黙り込む。

「いや、別に君を責めているわけではないよ。もちろん、嫁入り前の娘の肌を見られたことに対する怒りの念がないわけじゃない。けれど、君が故意で覗いたわけではないことは分かっているからね」

「え? そうなんですか? 初耳なんですけど」

「ああ、リオンは知らないが、私はユースから教えて貰ったんだ。我が家は侯爵家だ。屋敷には騎士団と魔法使いによる何重にも渡る警備網が敷かれている。これに引っ掛かることなく越えることは、それこそ使徒様にだって不可能に近いだろうね」

『使徒』という人物は、確か聖神教の教皇的存在である人物の称号だったはずだ。

 偉いのは当然だが、その使徒がどれだけ強いかジュンタは知らない。だが、例に挙げるぐらいだからとんでもなく強いと推測できる。

 ――そんな人物でも不可能な警備網を、誰にも気付かれることなく越えたジュンタ。

「だから当然、突然魔法光と共に浴場に現れた君は、普通の方法で侵入したということじゃなくなる。無論、魔法を使ったのなら誰かが気付く。そう考えたところ、ユースはとある可能性に思い至った」

 ユース・アニエースは魔法使いである。故に、その一つの可能性に気が付いた。

「[召喚魔法]――君が浴場に現れた現象はこれで説明が付くらしい。[召喚魔法]とは魔法の一種だが、使い手は限りなく少ない最高位の魔法だ。これを用いれば、我が家の警備網を気付かれず越えることも可能かも知れないということだ」

「[召喚魔法]ですか?」

「ああ。その名の通り、対象を自分の身元に召喚するというとんでもない魔法でね。もちろん色々な制約はあるらしいが……私は魔法使いではないから、その辺りは詳しくない。しかし、なんでも相手の同意も必要なく強制的に召喚できるようでね」

「その魔法で俺が召喚された、そうゴッゾさんは考えているんですか? でもそれじゃあ[召喚魔法]を使ったのはリオンってことになるんじゃ……」

[召喚魔法]を使った魔法使いの元に召喚されるのなら、ジュンタが召喚された時に目の前にいたリオンこそが、その魔法使いと言うことになる。

 しかしリオンは騎士。魔法使いじゃない。

「その辺りの絡繰りが、君が故意にリオンの裸を覗いたんじゃないという証明になるらしいんだがね。すまないが、その辺りは秘伝とされているらしくて生憎と私も知らないんだ。
 だがユースは君に罪はないと言っている。なら、信じるのが主というものだろう?」

「そう、ユースさんが……」

 まったく、これでは本当に彼女に頭が上がりそうにない。

 ジュンタはユースに心の中で大感謝しながら、

「それでしたら、俺の見極め以外にゴッゾさんが来た理由は何なんですか?」

「ん? ああ、そうだったね。見極め、という点は合格だよ。君はユースが言うとおり、悪い人間ではなかった。むしろとても有益な人材だと私は見るね。これでも人を見る目は鍛えている方だから、自信はあるよ」

「きょ、恐縮です」

 ストレートな意見に、ジュンタは気恥ずかしくなって軽く俯く。

 大人にこうまで褒められた経験は、これまでになかった。

 ゴッゾはジュンタの反応に気分をよくし、滑らかに回る口を開いて、

「そして次が部屋に来た本題なんだがね。ジュンタ君。君に対して勲章を渡したいと、そう思っていることを伝えにやってきた次第だよ」

「勲章……ですか? そんなものを受け取る理由に心当たりはないんですが……」

「何を言っているんだい? 君はワイバーンを倒したのだろう? それに対する勲章さ」

「えぇ!? あれですか? でも、あれは……」

 ワイバーン――恐らくはドラゴンのことを指しているのだろう――を倒したのは、あくまでも自分が元凶だったからだ。それは自分が放火したから、自分で消火した。そんなことでしかない。褒められる謂われも、もちろん勲章を貰う謂われも発生しない。

(俺の場合、むしろリオンに怪我をさせたし、叱られる方が相応しいと思うんだけど……)

 ただ、そのことはサネアツ以外誰も知らない。

 自分が放火したことがバレなければ、消火をした人間はヒーローである。勲章を貰うに値すると見られても不思議はないが……

「あの、俺、勲章なんて受け取れません。俺にそれを受け取る資格なんか――」

 ない、とそう続けようとしたジュンタの声に被り、困ったよな、笑みを堪えるようなゴッゾの言葉が部屋に響く。

「それは困ったな。もう、勲章授与式の準備は万全なんだよ……というか私は今日屋敷に帰ってきたんだが、その時にはもう準備が整っていてね。あとは君が来れば始まり、という段階になっているんだ。無理です、と今さら言われる方が困るんだけどね」

 自分の留守中に起きた出来事に困惑を覚えたのではなく、おもしろみをゴッゾは覚えたのか、話をする彼の口調は楽しくて仕方がないという風である。

「それにもし受け取らないなんて言ったら、準備をがんばった娘に殺されてしまうよ?
 私が今日連絡もなく帰ってきたら、リオン相当慌ててね。勲章の授与はもちろん当主である私の役目なんだが、留守中はリオンの役目だからね。きっと私が帰ってきて、君に勲章を渡せなくなったと思って慌てたんだろうね。ああ、無論君に渡すのはリオンだよ」

「え? それってどういう……」

「あんなリオンを見たのは本当に久しぶりだ。私が留守の間に、こんなおもしろいことが起きていたなんてね。
 さて、ジュンタ君。そう言うわけだ。君が勲章の受け取りを拒否しようと、事態はそれを許さない。なに、ほんの数分間のことだ。覚悟を決めてくれ」

「そう言われましてもですね。俺は――

 例えそう言われようとも、リオンに怒られようが、勲章などは受け取れない。

 断固として断ろうと口を開いたジュンタは、またもや台詞の途中でゴッゾに遮られることになる。確実にゴッゾは故意にやっている……目が笑っているし。

「ははっ、私も少しばかり、楽しいことには参加したいんだよ。というわけでジュンタ君。君を強制連行させて貰うよ」

「へ?」

 その時ジュンタの背後の扉が開き、紅の鎧の騎士たちが雪崩のように部屋に入ってきた。

 彼らに対し、ゴッゾは柔和に笑って指示を飛ばす。

「連行してくれ」

『はっ!』

 ゴッゾの指示に完璧に声を揃え、六人の騎士たちはジュンタの身体をむんずと掴んだ。

「ちょ、ちょっと待って! 連行って、まさか!?」

「そのまさかさ。ジュンタ君、貴族を舐めてはいけないよ?」

「なんじゃそりゃっ!? くっ、やっぱりあんたはリオンの父親だ」

「最高の褒め言葉だ。リオンは私の自慢の娘だよ」

 身体中を掴まれ、ジュンタは騎士たちに抱えられることになる。

 足掻こうにも数の差と力の差は歴然としている。敵いっこない。
 精一杯の皮肉をゴッゾに口にしても、大人の反応で返されてしまったし、経験の差と年の差は果てしなくこのとんでも紳士との間に距離を作っている。

 勝ち目はない。リオンとは違った意味で、彼は自分の天敵だ。

「さぁ、では行ってくれ。お姫様が新たな騎士の到着を今か今かと待ち詫びているからね。紳士たるもの、レディを待たせてはいけないよ」

「紳士は人を強制連行したりしないぃぃぃいやぁぎゃぁあああ!!」

 軽快に走り出す騎士たち。
 ジュンタの悲鳴が間延びになって、ゴッゾの耳に残る。

 ゴッゾは一人、テーブルの上の紅茶に手をのばし、残った分を飲み干して一言――

「さて、これからどうなるか。……せめて幸せになって欲しいものだな」

 


 

       ◇◆◇

 

 


 シストラバス家の敷地内の中央にあり、屋敷に隣接する大きな白亜の建物。

 一言で外見を言い表すならば教会。もしくは聖堂といった感じの建物。

 玄関は大きな木の扉で、そこへ辿り着くまでの屋敷からの通路には、両端に白い柱が立ち並んでいる。建物の屋根の四方は四角錐型の塔の形になっており、中央は一際高い塔としてそびえ立っていた。

 玄関の真上、正面の壁には聖神教会のシンボルたる天馬のレリーフが飾られている。そしてその天馬の隣には犬のような姿のレリーフが飾られ、天馬のレリーフの上には一番目立つ、雄々しく翼を広げる不死鳥のレリーフが刻まれている。

 建物は大陸宗教であり、グラスベルト王国の国教である聖神教――その教会に間違いあるまい。ただ、ジュンタが見たことのあるレス・ティオーナ聖堂とは雰囲気を若干異ならせている。犬と不死鳥のレリーフは、確か存在しなかった。

 不死鳥のレリーフは、シストラバス邸内ではよく見かける。恐らく、家系のシンボル的な生き物なのだろうが……犬もなんらかの宗教的シンボルなのだろうか?

 まぁ、つまりはこの聖堂はシストラバス家専用の聖堂ということなる。

 敷地内にこんな立派な聖堂が建てられているなんて、さすがは大貴族だと感心する。

「それで……ここで俺は勲章の授与をされるんですか?」

 聖堂の正面玄関まで騎士たちに強制連行されたジュンタは、途中で寄った衣装部屋で無理矢理着替えさせられた白いタキシードのような服を弄くりつつ、目の前に立つ鎧姿の男性――騎士エルジンに尋ねた。

 ジュンタが最も苦手とする親バカ騎士は、不機嫌な表情を隠そうともせず、むしろ威圧するような眼差しをこちらに向けてきていて、詳しい説明を聞けるような相手じゃないのだが、彼以外に訊けそうな相手がいないのだから仕方ない。

「……そうだ」 

 エルジンの返答を待っていると、彼はしばらくの空白の後、答えを返してきた。

 予想通りの返答に、ジュンタは軽く肩を落とし、気を揉みつつ溜息を吐く。

(はぁ……俺としては、勲章はあんまり受け取りたくないんだけどなぁ……だけどとても断れそうな雰囲気じゃないし……)

 チラリと目の前の玄関扉を見て、ジュンタはそう判断する。

 ゴッゾの登場といい、強制連行といい、勲章授与はもう始まっているも同じ。

(ほら、扉も開き始めたし、覚悟を決めるしかないか……)

 思わずゴクリと息を呑んだジュンタに、前に立つエルジンから忠告が投げかけられる。

「背筋を伸ばし、胸を張れジュンタ・サクラ。今日の主役は貴様なのだからな。
 この聖堂はシストラバスに連なる騎士にとって最も神聖なる場所。粗相は絶対に許されん。我らが誇りを汚すのなら、己の命が犠牲になると思え。
 自分の命が惜しいのなら、我らの誇りを汚したくないと思うなら――精々、賞賛を受け取るに値する自分の行いを誇っていろ」

 果たして、それは本当に忠告だったのか……エルジンの意外すぎる言葉に驚く時間もなく戸は開かれ、その神聖なる世界はジュンタの目の前にさらけ出された。


 ――その聖殿は、神がいるかのように神々しくて。


 天井は高く、壁には美しいステンドグラス。
 太陽の光はステンドグラスを通り、虹色に輝いて聖殿の内部を照らしている。

 玄関より長く、真っ直ぐに正面へと続く道には赤い絨毯が敷かれ、その両脇に立ち並ぶのは屈強な紅鎧の騎士たち。その列の中にエルジンが入り、他の騎士と同じように剣を抜き放って、正面に掲げた。

 立ち並ぶ騎士の数は数十名にものぼる。

 ジュンタから見て真正面。聖殿の奥へと進む道を、彼らは彩っていた。

 そして騎士たちの列の先に立つのは、美しい聖衣を着込んだ紅き騎士姫。
 
 神聖なる場所。そうエルジンが言ったのも頷ける。そこは紛れもなく、彼らシストラバスに属する騎士たちにとって、この上なく最重要な聖域。一般人などが足を踏み入れるなど言語道断。いや、この空気の前、迎え入れられていない者など一歩たりとも足を前には踏み出せまい。

 されどこの時この瞬間、ジュンタは確かに彼らに歓迎されていた。

「こちらへ」

 聖殿の奥より、白と紅の聖衣を着たリオンが手招く。

 その一言に、まるで催眠術にでもかかったみたいにジュンタは一歩前に足を出す。そしてそのまま、騎士たちが並ぶ路へと進めていく。

 並ぶ騎士たちはただ前を真っ直ぐ見、今日の主役を迎え入れている。
 声はない。だが無言であるが故に、より悠然に歓迎の意思が伝わってくる。この路を進んで良いと言われているようで、ジュンタは熱に浮かされたように歩き続けた。

 道の半ばまで歩み出たジュンタは、聖殿内を満たす空気に自然と背筋を伸ばし、胸を張っていた。その心の中に、勲章を貰うことへと罪悪感はもうなかった。
 
 ただ、誇らしい。この場所に立つことが許されたのが、ただ誇らしかった。
 
 そうして騎士の道を通り抜け、リオンの目の前まで進み出る。

 騎士の道より、一段上にある紅の下地に金で細工が施された舞台。
 真っ直ぐに天井より差し込む光が、まるでスポットライトのように照らしている。

 この勲章授与式が突然であったがため、ジュンタにこの式の中でどう行動を取って良いか、そんなことは教わっていない。それでもスッと差し出されたリオンの手の甲が意味するところは、知識として知っていた。

 ジュンタは一瞬の躊躇の後、その場に立て膝を付いてリオンの手に自分の手を添える。

 しみ一つないリオンの手の甲。そこにジュンタは、忠誠を誓う騎士のように口付けた。
 ジュンタは自然と自分がしてしまったことに軽く頬を染めつつ、リオンから手を離す。その行動と同時に、今まで黙っていたリオンが口を開いた。

「汝、栄誉たる行いを成した者。
 汝、賞賛されるべき行いを遂げた者。
 其の名をここに、高らかに告げることを許しましょう」

 その朗々たる言の葉の意味するところが、すんなりとジュンタには気付くことができた。リオンは名前を述べろと、そう言ったのだ。
 
 荘厳なる紅い姫に、自分の名を名乗る。

 この時ほど名乗ることに心の震えを感じることなど、恐らく後にも先にもないだろう。
 ただこの時のために名は存在し、この先の名乗りという喜びを感じるために名は存在する。そうとすら思えるほどに、歓喜が身を焦がす。

「俺の名前は、ジュンタ。ジュンタ・サクラ」

 ジュンタは高揚を胸に、しっかりとリオンに名を告げた。

 思えばこれが彼女に対する、初めての名乗りだ。
 初対面の時からゴタゴタが続き、こうして名乗ることをしていなかった。それを今、ようやく果たした。

 聖堂内にジュンタの声は響き渡り、その場にいた全ての人間に己が名を刻ませる。

 リオンは一つ頷く。

「ここは善行を名誉と讃える場所。
 汝、ジュンタ・サクラ。古き竜滅の使徒、ナレイアラ・シストラバスが血族リオン・シストラバスの名において、汝が行いに相応しき賞賛を与えます」

 そう言って、リオンは朱塗りの鞘に入った剣を手に取る。

「我らが守るべき民を救い、許されざるまれびとを倒した名誉ある行い。この剣を賞賛の形とし、汝に与えん。
 これは騎士の任命。汝が善行の報いとし、我らと剣を並べることを許しましょう」

 いつもとは違う、怖いくらいに美しい雰囲気を纏ったリオンは、ジュンタの目の前で鞘から剣を抜き放った。

 光を反射させながら、美しい紅い刀身がさらけ出される。
 その剣は一度リオンの手によって聖堂の正面――不死鳥の像へと捧げられた後、鞘に戻されジュンタに差し出される。

 反射的に、ジュンタはその剣を受け取る。両の手にずっしりとかかる重み。それは騎士の誇りの重さであった。

 ……無意識に受け取っておいてなんだが、これ受け取っちゃ不味かったんじゃないだろうか? 

 手にかかる重みに、ほんの少しだけジュンタの意識が元に戻る。
 いけない。完全に状況に飲み込まれているようだ。なにがまずいのかそこまで考えが至らない。だけどまずい。酷くまずい。それだけは確かだ。 

 そうこうジュンタが葛藤している内に、短くも、意味の大きな儀は終了へと辿り着く。

「勲章は汝が手に。その行いは神が見届け、不死鳥の血が永遠に記憶する。
 ――素晴らしき行いでした。変わらぬ誇りを胸に、これからの活躍に期待します」

 終わってしまった。

 結局、最後までジュンタは思考をどこかに飛ばしたまま、その儀を終えたのだった。

 ……後に困った事態に陥るのは、まぁ、決まり切ったことだった。

 

 

 

 

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