第十三話 虹竜の巫女
敵の残りは、魔法使いのグリアーとオーガ一体だけ。
グリアーは無傷で、オーガは片腕を失っている。
オーガの傷は戦力的には大幅ダウンだが、それでも満身創痍の自分よりは戦力として有効だろう。だとするなら、サネアツがグリアーと同等レベルの魔法使いに成長していたとしても、戦力は相手方有利となる。
勝利のための策を講じなければ――ジュンタは剣を持って、オーガの肩に乗ったグリアーの元まで近付いていく。
ふらり、ふらりと揺れつつ歩く姿は、あまりに弱々しい。その弱々しさが、血まみれの身体が、逆に幽鬼のように見えて見る者の恐怖を誘う。
(作戦、作戦……ああ、ダメだ。本格的に頭がぼんやりしてきた……)
戦力差を分析して、勝つための方法を模索しようとしたジュンタは、早々に白旗をあげた。
無理。不可能。勝つことがではなく、今の自分に策を練ることが、だ。
こういう作戦を講じるのは、頭の上の相棒にお任せすることにする。ジュンタは早速話し始めたサネアツの声に耳を傾けた。
「まず、狙うのはグリアーが先の方がいいかもしれんな。オーガは取りあえず、最後まで放って置いて構わない。低脳だからな。ジュンタの捨て身アタックでも、十分に倒すことは可能だろう」
「捨て身アタックってお前、もう少しまともな呼称はないのかよ? グリアーは[稲妻の切っ先]って呼んでだぞ?」
「甘いな。[稲妻の切っ先]という魔法は、正真正銘の最強必殺技という奴だ。ジュンタのはバッタモンだな。あれはただ、膨大な魔力を無駄に使って、強引に仕立て上げた攻撃でしかない。捨て身アタック、我ながら実に的を得た名称だと思うがな」
「そうかよ……いや、自分でも分かってたけどさ」
ジュンタはそう言って、自分の左手を見る。
先程クーの頭を撫でた左手。小刻みに震え、痺れて感覚というものがなくなってしまっている。これが先程の攻撃の弊害だった。
「ジュンタが動いていられる時間もそう長くはないだろう。その前に、決着を付けるぞ」
「ああ」
ジュンタと同じように左手を見たサネアツは、真剣な声で作戦の続きを話し始める。
「ジュンタはもう満足に動けないのだろう? オーガの足止め、素早いグリアーの足止めは俺が引き受けた。ジュンタは一撃で敵を行動不能にさせる攻撃を準備しておいてくれ。タイミングを合わせ、問答無用で適当に畳みかける」
「また無茶な。そうは言うが、俺に一撃で倒せる技って言ったら、捨て身アタック――[稲妻の切っ先](偽)しかないんだけど」
「それは違う。捨て身アタックほど魔力を総動員しなくても、もう少し簡単な攻撃でいいのだ。雷を剣に纏わせた状態での斬撃――これで十分、敵は倒せる」
「そういうことなら、何とかしてみる」
サネアツの指示に頷いて、ジュンタはもう一人の相棒を見る。
キラリと陽光に煌めく、飾り気のない片刃の片手剣。色々な想いが込められた旅人の剣。
「いい返事だ。――では、後は俺に任せて貰おう」
満足そうにサネアツは頷き、頭の上から地面に降りて、その小さな身体でグリアーたちにトコトコ近付いていく。
「?? 猫に一体何をやらせる気?」
まさか猫がしゃべって、魔法が使えるなんて想像だにしていないのだろう。グリアーがサネアツを見る目は、胡乱げなものだった。
勘違いしているなら、させておいた方が好都合だ。
サネアツは何も言わず、猫のように――実際猫だが――ゆっくりと近付いていく。
この状況で猫が近付いてくるという得たいの知れない状況に、グリアーは何か思ったのか。手の平をサネアツに向けると、その手の先に緑色の魔法陣を構築した。
「何をする気か知らないけど、私をがっかりさせないで欲しいわね。猫に何が――」
「――何でもできるとも」
サネアツの足下が急に光り出し、そこに茶色に輝く魔法陣が生まれる。
「魔法陣ッ!?」
猫がしゃべり、あまつさえ魔法を使うという状況に、一瞬グリアーの思考が飛ぶ。
咄嗟に魔法行使を妨害することも忘れ、魔法陣を乱れさせて、グリアーは隙を作ってしまう。その隙を付いて、サネアツの魔法が発動した。
「石の茨よ その捕縛は芸術的に」
なんというか、サネアツらしい詠唱と共に、魔法陣から石の茨が幾本も飛び出る。
茨はグリアーとオーガへと絡みつくように延び、その身体を拘束しようとする。
「猫が魔法を使った!?」
素早いグリアーは攻撃を避けたが、鈍重なオーガは咄嗟に回避行動が取れず、茨の棘に四肢を絡め取られてしまう。
オーガは足掻くも、茨は固く腕に、足に絡みついて離れない。
「風の刃は 切――」
「騙し絵」
上へと回避したグリアーが、風の刃を放ってオーガの拘束を破ろうとするが、それを許すサネアツではない。
ジュンタが次の茶色の輝きを目にしたのは、オーガの肩の上でだった。
小柄な身体を利用し、いつのまにか一本の茨に乗って、サネアツはオーガの肩の上へと移動していた。その場から音もなくグリアーへと奇襲をかける。
「茨が踊れば観客総立ち 一人も席を立ちはしない」
踊るような詠唱の声と共に、オーガに絡みついて四肢の力を奪っていた茨が変化する。
固い石から、柔らかな土へ。
長く伸びた茨の蔓は、死角からグリアーを襲う。
「くっ!」
詠唱を中断したグリアーが、寸でのところで蔓の攻撃を避けることに成功した。
しかし茨の蔓は、射程圏内で飛んでいるグリアーを、さながら得物を狙う狩人のように狙い立てる。
オーガの背の方から伸びた茨の蔓が、グリアーの退路を断つように長く空へと伸びる。
オーガの頭から伸びた茨の蔓は、グリアーへと時折槍のように伸びて、攻撃を加える。
すでにオーガの姿は茨の中に消えてしまった。今ジュンタの目の前にいるのは、グリアーを追い続ける茨の蔓のための、巨大な花のつぼみの形をした苗床でしかない。
グリアーも回避の中、幾度となく魔法を放って蔓を断ち切るも、土の蔓は即座に地面に繋がった根のような蔓から土を補給し、再生してしまう。
敵を捕縛するためだけの魔法のように見えたが、新たな詠唱を付加することで、敵を捕縛したままで相手を攻撃する魔法と化している。それはオーガの背丈を利用し、空を舞うグリアーを執拗に追い立てている。
オーガが身動きを封じられて、その足を地面につけている状態ならば、恐らく魔力の続く限り再生をし続けるのだろう。
(サネアツの奴、魔法を使うのがかなり上手くなってる)
以前は魔法を使う度に気絶していたのだが、サネアツは幾本もの蔓を同時に操る芸当までできるようになっている。半年の時間というのものを、嫌でも感じさせられた。
だが、サネアツの姿は蔓に隠れて見えないけど、これなら大丈夫そうである。
「なら俺は、俺の役割を果たすだけだ」
意識を握る剣に集中させる。
「剣に、雷を纏わせる」
サネアツの助言通りに、ジュンタは剣へと雷を纏わせようとする。
感覚としては[稲妻の切っ先]を行使するような感じだ。ただ、[稲妻の切っ先]のように身体全てに魔力を纏わせるのではなく、あくまでも剣だけに。
虹色の魔力が身体より溢れてくる。
それを逆に溢れさせないように意識して、少しずつ剣へと流し込んでいく。
瞳を閉じ、心穏やかにして、触れた金属の感触に全神経を集中する。
心の水面に、虹色の雫が落ち、静かに波紋を打つ感覚――
腕と剣が一体化するような錯覚。鋭く尖らせるように、剣へと魔力を浸透させていく。
虹色の光が光量を増し、剣を包み込んでいく。
すぐに暴走するかのような荒々しい力強さはない。でも、そこに込められた魔力は静かに燃えたぎっていた。
意識は肉体を離れ、剣の切っ先のみに存在する。
『英雄種』という特殊な金属で鍛えられた剣は、担い手であるジュンタの魔法属性、魔力性質を学び、自己の存在を適応――変化させていく。
同調する。同期する。同化する…………剣と人間の境目を、雷の魔力で塗りつぶす。
不可視から可視へ。
虹色の魔力は虹色の雷となり、剣を取り巻いて威力を高めていく。
――瞼を開く。
ずっと止まっていた息を吐き出し、深く吸う。
目の前には魔法使いと魔法使いによる、神秘の技の競い合い。
親友が戦っていることに対する不安と、怪我から来る高揚感で集中が途切れそうになる。
(落ち着け)
ジュンタは自分に言い聞かせて心を落ち着ける。危ういバランスの上に保たれている魔力だ。一瞬でも気を逸らせば、その瞬間に暴発してしまう。今でさえこの傷だ。そうなれば、もう当分は立ち上がることは叶わないだろう。
目を再び閉じて、ジュンタは無の境地に似た集中行為を続ける。
心に思い描くのは、自分が思う、誰よりも眩しい騎士。
眼差しは真っ直ぐに敵を穿ち、剣を握った手は揺るぎなく、その姿は高潔な誇りが炎となったかのような眩い姿。
憧れた。美しいと思った、その姿――そのビジョンを心に刻みつけ、素人の自分の心に立つ荒波を鎮める。
静かに、静かに……けれど闘志は失わず、一刀にかける意味を忘れない。
(がんばってくれ、サネアツ)
ジュンタは攻撃のタイミングを計るため、そっと瞼を開いた。
◇◆◇
目の前でいくつもの蔓が舞い踊る。
魔法属性・地の系統――[大地の茨]
無骨な土でできた蔓ながら、なかなか美しくしなってみせる。
さすがは自分が創り出した魔法だと、サネアツは楽しいと感じる気持ちを押し殺せずに笑う。
(楽しい。ああ、楽しいとも。やっと、楽しい日々が帰ってきたのだからな!)
魔法で生み出した茨の蔓を操り、グリアーに攻撃を加えながらも、サネアツの考えていることは別のことだった。
あの日のことを思い出さずにはいられない。世間的にも有名となった、半年前に起きたあの事件のことを。噂に上らぬ、被害を最小限に止めた一人の英雄のことを。
その英雄は、何も特別な人間などではなかった。
だけどその英雄は、特別な人間となった。いや、なってしまった。
知らぬ内に起きた改変――気付いてはいけない、己の真実。
彼は力を手に入れた。それだけなら問題ない。力は使う場所がなければ意味をなさない。
しかし力と同時に、彼にはもう一つ手に入れてしまったものがあったのだ。それは恋。万人を変えてしまう、猛毒だ。
彼にとってそれは初恋で……つまり彼は、守りたい相手を見つけてしまったのだ。
それは本当に呪いのようなもので、昔から男は愛する女のために命をかける。
守れるだけの力を手に入れてしまったら尚更だった。ただの少年だった彼は、自分が死ぬことが分かっていながら強大な敵に挑むことを選んだ。
――大地に突き刺さった紅の剣。それは、親友の墓標にも似て……
結果として、彼が想いを寄せた少女は助かり、少年はこの世からいなくなった。
彼の終わりを知る人は、本当に少なかった。片手で数えられるだけしかなく、想いを寄せた、救われた少女すらそれを知らない。
知る人間は皆が皆、追悼の念と共に賞賛した。感謝した。それだけしかできなかった。
その中で、サネアツだけが知っていた。
(そうとも、俺は待っていた)
サネアツは誰よりもその英雄のことを知っていた。そんながんばりが報われない死に方をしていい奴じゃないと知っていた。そして、そう思った人間が他にもいたことを知っていた。
全ての元凶の一人。サネアツが異世界へと来ることになった理由を作った少女。
奇跡が起きたのだ。世界が認めた、必然の奇跡が。
前もってサネアツだけに知らされた奇跡。そしてその奇跡を今、しっかりと目の当たりにしている。
正確に言えば、彼の生きている姿を確認したのは昨日のことだが、色々と混み合っていたのでそれはなかったことにする。気絶してベッドで眠っていた彼を見つけたのなんて、サネアツが望む再会の形ではない。
そう、再会というべきは先程のが正しい。
親友のピンチに颯爽を現れるという、この熱く燃える展開にして再会――これ以上の再会があるだろうか? いや、ない。サネアツは断言できた。
親友――ジュンタがいない半年間の間度々夢見た、墓標である紅の剣が突き刺さった光景。
悪夢から覚めた今、サネアツに怖いものなどない。ましてや、クールなメイドの動物虐待じみた修行をクリアした自分が、脳が足りないオーガや色っぽい魔法使いに負けるはずがない。負けたらちょっと泣いちゃうゾ。
サネアツは指揮者のように、器用に二本足で立って手を振り回す。
指先には極小の魔力の集中が。茶色の小さな煌めきと共に、まるで生き物のように茨の蔓は動き回る。
縦横無尽に、空間を埋め尽くすように振るわれる攻撃。大地という尽きないものを使った、それは地だからこそなせる魔法だった。
しかし、グリアーにはなかなか当たらない。
攻撃に移る僅かな隙。
蔓と蔓との僅かな隙間。
その隙間を縫って、彼女は緑の風となって攻撃を避けてみせる。
……正直驚きだ。
一種のはめ攻撃であるこの攻撃を、まさかここまで避けられるとは思っていなかった。
グリアーの魔法使いとしての力量が思っていたより上だったのもあるが、それより彼女の戦闘の経験値が予想を遥かに超えていた。魔法使い、戦士と問わず戦い慣れた彼女の動きは、魔法使い暦半年のサネアツには見切ることができない動きだった。
茨で覆った僅かな空間を、支配しているのは自分だ。けれど、その中の動き回る風だけは支配することができないよう。
(……他の攻撃手段に出るしかないか)
グリアーが風の刃で、数本纏めて蔓を切り裂いたのを見て、蔓を再生しつつサネアツは考える。
このままではジリ貧である。負けもしないが、勝つこともできない。
ジュンタに約束した手前、この素早い魔法使いを捕らえなければいけないというのに。それがこの[大地の茨]の変則使用では不可能のようだ。
相手の魔力切れを待つという作戦もあるが、彼女の魔力が切れる前に自分の魔力が切れる可能性もある。
サネアツの魔力は未ださほど多くない。並の魔法使いより、ほんの少し上というぐらいだ。そして切り刻まれる度に、蔓の再生に魔力を回さなければいけないため、この魔法の維持は結構魔力を喰うのである。運に頼るやり方はベストとは言えない。
(だからといって、普通の魔法戦闘に切り替えるのも危険だな)
サネアツのような地系統の魔法使いと、グリアーのような風系統の魔法使いが戦った場合、基本的には地系統の魔法使いの方が有利と言われている。
それは両者の魔法の特性から来る確率論だ。
地系統の魔法は、一般的に防御と造形に特化した魔法だ。
固い鉱物を生みだし、変化させて違う形に変えて操り、高位の魔法使いになると城壁並みに固い防御壁を作ることもできる。それが地系統の魔法である。
逆に風系統の魔法は、移動と切断に特化した魔法だ。
大気中の風を操り、行使者の身体を包みこんでの敏捷性の上昇。さらには空を自由に移動する能力。風の刃を用いた不可視に近い攻撃は、非常に強力といえよう。
この両者の系統が戦った場合、先程までのサネアツとグリアーの戦いのように、いくら風で切断しても、補給が効く地系統の造形魔法には効果が薄い。
『必中』と呼ばれる風の疾い魔法も、再生されれば意味をなさないのだ。
故に、両者の属性を持つ魔法使いが戦った場合、地系統のサネアツが有利……属性の相性上はそうなのだが、実は微妙だったりする。
確かにグリアーの攻撃は、サネアツの魔法を崩しきれない。けれど確実に当たっている。それがサネアツには怖かった。
速度も速くて回避が難しい風の魔法は、必中と呼ばれるほどに命中率がいい。
そしてサネアツは、小さな小猫の身体故に、非常に身体が脆い。個人としての相性は、実は風の魔法使いが一番苦手なのであった。
(一度でも魔法を受けたら、その時点で俺は負ける。いくら魔力で強化しても、成人男子ほどの防御能力もない。あのスピードでは防御魔法も間に合わないか……[大地の茨]を解除するのはやはり問題があるな)
相手に自分の存在を気取られてもいけないので、サネアツは無言で考える。
サネアツが立っている場所は、オーガの背中に絡んだ蔓の中だった。
ぎりぎり頭上の様子が見通せる場所で、オーガの身体があるために攻撃を受けにくい場所。そこが、サネアツが選んだ指揮者台だった。
(かといって、このままでは結局運の勝負になる。そうなっても、ジュンタがいる俺の方が有利だが、オーガのこともある)
いっそ先にオーガを倒してしまう手もあるが、それだと空を舞うグリアーを囲むことができなくなる。
[大地の茨]は対象に茨を巻き付ける魔法であり、決してその茨を操って鞭にする魔法ではない。それを現在のように使えているのは、サネアツが少し改良して使っているからだ。
本来なら拘束魔法である[大地の茨]の変則使用。
敵密集地に放って、伸ばした蔓で周りの敵をなぎ払うというこの魔法は、茨を伸ばすための源がいる。つまりは苗床である。オーガを基点にして、大地に固定することで何とか操れているのだ。オーガが倒れたら、バランスが崩れて囲うような器用な操作はできなくなる。
すでに発生させた魔法の操作というのは、非常に難しいのである。
サネアツはさらなる改良が必要だと考えつつ、次なる策を練る。が、その前に、今まで逃げていただけの敵が、茨からの脱出方法を見つけてしまった。
「見つけた! そこっ!」
「ぬっ!?」
ピクリと髭が動いたのを確認して、サネアツは咄嗟にオーガの背中から飛び降りた。
その後すぐに、潜んでいた場所に風の弾丸がいくつも突き刺さる光景が、視界に入ってくる。
(俺の位置を見破った? ああ、そうか。風の魔法使いは探知が得意だったな。あまりに『切断』の印象が強くて忘れていた……やはり風の魔法使いは手強い)
クルリと空中で一回転をして、サネアツは地面に降り立つ。
サネアツが離れたことで動きを鈍くした蔓を潜り抜け、風の刃で切り裂かれた空間からグリアーが抜け出る。
サネアツが着地をし、上空を見仰いだのと同時に、グリアーは魔法陣を完成させていた。
「風刃の嵐 惨き傷跡を残すもの」
いつもよりも長い詠唱――突風が巻き込むように起きて、瞬く間に小規模の竜巻となる。
竜巻は鋭く移動し、拘束していた茨ごと、オーガの身体を切り刻む。
オーガの身体は鋼鉄のように硬い。風の刃と言えども、僅かに傷を付けるだけに終わる。だが、石の茨は切断され、土となっていた部分は風圧に飛ばされ、地面に落ちてしまう。
「オォオオオオオオオオ!」
解放されたオーガが、残った片腕で思いきり棍棒を振り上げた。
ずっと動きを封じられていたストレスをぶつけるように、オーガはその棍棒をサネアツめがけて振り下ろす。
「小さく愛らしい小動物に向けるには、あまりに無骨だな!」
魔法陣を形成し、即座にサネアツは防御魔法を放ち、オーガの攻撃の盾とする。
小さな身体を覆うようにして創り出された、強固な石の壁と天井。
しかしオーガの腕力をこれで防ぎ切れるとは思っていない。これはあくまでも時間稼ぎ。拮抗している間に、サネアツは地面を掘って地中に逃げ込んだ。
土を魔法で軟らかくして、泥にする。その泥の中を泳ぐようにして逃げる。
棍棒の衝撃が伝わらない位置まで逃げ込んで、サネアツは一気に地上へと飛び出した。
(……状況は芳しくない。任せておけと大口を叩いておきながら、この様とは)
地上に出て、小さな身体を活かしてオーガに目標を定まらせないようにしながら、サネアツは自分に怒りを覚える。
例え魔法使いとオーガという強力な相手に対してでも、勝つ自信はあった。なければ任せておけなどとは言わない。
だが、その自信が油断に繋がったのだろう。
敵の戦力を見誤り、一瞬のミスでオーガの拘束まで解けてしまった。大失敗である。
無論――このまま終わるつもりはない。だが、ジュンタはどう思っただろうか?
久しぶりの再会にはしゃいでいた気持ちが、一気に冷める。
情けない自分の姿に落胆していないだろうか? そう不安が過ぎり、サネアツはジュンタを見た。
「――何をしている、ミヤタ・サネアツ。お前は半年で弱くなったというのか?」
ギシリ、と小さな猫の牙をサネアツは噛み合わせる。
情けない。情けなかった。どうやら自分は、ジュンタのいない半年間で彼のことをバカにしてしまっていたようだ。ジュンタはただ、じっと待っていてくれているというのに……
「弱くなったのではない。そう、俺は強くなったのだ」
ジュンタの姿からは、自分に対する信頼が見て取れた。
心配していない。お前なら必ずやってくれると、そう信じて、オーガの解放にも動じずに剣を構えていた。
その期待に応えなくて、何が親友だというのか?
ジュンタは変わった。会わなかった時間の中で、確かに変化していた。
きっと覚悟をしているのだろう、以前とは――きっと自分では気付いていないだろうが――どこか別人のようだ。雰囲気が違う。少し、大人になったように思われる。
だけど、変わっていない。半年の時間は、彼と自分との関係までは変えなかった。
不安に思うことなどない。一度や二度の失敗で、後悔することはない。その後悔は、結果が出たときはすでに思い出に変わっているのだ。
「そうとも。思い出に変わるまで、何度でも失敗を繰り返せばいい。ジュンタはいつだって、そうなるまで一緒にいてくれたのだからな。だが――」
サネアツはグリアーとオーガを睨み付け、
「――俺はもう、失敗するつもりはないぞ?」
言い切って、そしてジュンタを確認した際に、一緒に見つけた彼女へと目線を送る。
同じようにジュンタに信頼を向ける者として、声にせず想いを確認しあう。
(いけるのか?)
彼女――クーヴェルシェン・リアーシラミリィは、大きく、力強く頷いた。
口元に笑みが生まれる。
まったく感じられないぐらい、全然魔力なんて残っていなかったはずなのに、クーヴェルシェンは気合いと根性で勝利への軌跡を創りあげてくれた。
地面に飛び散ったジュンタの血――使徒の血を触媒に、自分の命すら削って創りあげた舞台。そこに、クーヴェルシェンは視線だけでサネアツを誘った。
それは、淡い白の輝きを発す儀式場。
使徒の血は、ドラゴンの血と同じ最大級の魔法触媒の一つだ。
そして触媒のレベルが高ければ高いほど、短時間で質のいい陣を敷ける。咄嗟の思いつきとしては最高だ。
サネアツはクーヴェルシェンが創り出したそこに向かって、敵に気付かれないうちにと走り寄る。
「『儀式場』だって!?」
地を疾走するサネアツの姿に気付き、そして今まで戦闘に参加していなかった少女が創った儀式場にもグリアーは気付くも、もう遅い。
棍棒を無意味に振り回すオーガの横を通り抜け、
剣を構えるジュンタの横を通り抜け、
膝から地面に倒れ込むクーヴェルシェンの元まで、サネアツは辿り着く。
「よくやった。後は俺に任せておけ!」
「はい。よろしくお願いします」
足先が氷の儀式場の中に入り込むと、他者が生み出した儀式場は、儀式行使者としてお前はふさわしくないと輝きを弱めた。
儀式場は作成者の思惑通りの形に整えられるもの。
氷の魔法属性で、[召喚魔法]を使えることから、恐らく『結合』の魔力性質を持つと思われるクーヴェルシェンの作った儀式場は、地の魔法属性で、『造形』の魔力性質を持つサネアツとは多々合わない。
基本的に他者が作った儀式場は、時間をかけて調整しないと使えないものなのだ。……だがそれは、あくまでもクーヴェルシェンが自分用にと作った場合の話である。
彼女は非常に知識も深く、洞察眼も鋭い魔法使いだ。
目の前の戦闘で使われていた魔法を見て、その属性と性質を見極めることは、そう難しくはなかっただろう。
属性も性質も違う。だから、彼女は限りなく誰でも使えるようにと儀式場を作ったみせた。
「さすがだな、クーヴェルシェン・リアーシラミリィ!」
身体を包みこむ拒絶感は、他者が作った儀式場とは思えないぐらい小さい。
他者の属性と性質に傾倒していなければいないだけ、調整は素早く終わる。
「構造同調 属性同調 性質同調」
クーヴェルシェンの構築した魔法陣に介入し、その精密極まりない式に割り込みをかける。
――オーガが、地響きを立てながら突進してくる。
「構造変化 属性変化 性質変化」
ありったけの魔力を儀式場に注ぎ込んで、一気に儀式場の儀式行使者としての権限を奪い取る。
――グリアーが、最速で風の弾丸を手から放つ。
「構造調整 属性調整 性質調整 儀式場再構成」
魔力が正常に動いていた式を乱し、改変し、白から茶色の魔法陣へと姿を変える。
――オーガの動きを、グリアーの攻撃を、クーヴェルシェンが倒れたまま妨害する。
「こっちだ! デカブツ!」
横を通り抜けて、小さな氷の矢が二本飛ぶ。
一本は向かってきた風の弾丸にぶつかり、もう一本はオーガの足下に突き刺さる。さらにオーガへは、咄嗟にジュンタが刃の矛先を自分に向けようと注意を引いた。
サネアツは再構成した儀式場の上に立ち、決定打となる魔法の詠唱を開始する。
「汝は鉱山の巨人 来る敵を歓迎する者」
詠唱の声に合わせ、魔法陣が強い光を発し始める。
サネアツは敵の位置を確認し、心の中で呟いた。
(巨人の腕を、避けられるものなら避けてみるがいい!)
グリアーはいつでも回避に移れるように、身構えながら宙に浮かんでいる。オーガは、その足下にいつの間にか誘き寄せられている。狙いは一カ所で十分効果は発揮される。
胸に去来するのは、何もできなかった半年前。助けることができなかった、無力な自分。
友を助けられる喜びと、信頼に応えられる充足感で胸を満たし、今サネアツは最後の詠唱を紡ぐ。
「左腕は 故にこその束縛を」
瞬間、儀式場は弾け消え、儀式魔法――[岩の巨人の左腕]が発動した。
「ジュンタ! 今だ!!」
大地に亀裂を生みだして、巨人の左腕は具現化する。
地面が盛り上がり、突如としてオーガの巨体を越える岩の腕が現れた。
岩の腕は人間の肘から先だけのもの。
手の平を一杯に広げ、叩きつぶすようにグリアーとオーガへと振り下ろされる。
「くっ、こいつは!」
「アァガァアアアアアアアアアアッ!!」
宙に浮かぶグリアーの上を行き、回避場所全てを等しく叩きつぶす岩の巨人の腕。何とか逃れようとするも、これは儀式魔法――対隊魔法だ。範囲外に出る前にグリアーの身体は岩に触れてしまう。
「ぐぅっ!」
上からのしかかる巨大な質量に、一度捕まったら逃れられるはずもなく、グリアーはそのまま地面へと叩きつぶされようと落ちる。
そしてその地面に立ち、上を見上げるのは赤銅色の魔獣もまた、自分よりも巨大な巨人の手を見上げ、呆然と突っ立ったまま、巨人の腕に呑み込まれる。巨人の腕は地響きをあげて地面に激突した。
巨大な岩の腕を、塔を立てるごとく生み出し、それを一気に対象に向かって倒すだけ。
単調な魔法かのように見えた[岩の巨人の左腕]は、地面に激突してからさらなる効力を発揮する。
地面に激突し、敵を押しつぶしている最中に、岩の腕はどんどんと泥状に変化していく。
巨大な質量が一気に泥になったものだから、下にいる対象は泥の中に消えていくことになる。例え先程のプレスを耐え切れても、この足止め効果からは抜けきれない。
そう、そもそもサネアツの役割は敵を倒すことではない。
彼が約束したのは、敵の足止めだけ。信頼を向け、止めを刺す役に選ばれたのは、他でもない自分だ。
「ここまでやってくれたんだ。ここで終わらせる!」
ジュンタはこの瞬間にタイミングを見出し、全集中を費やした剣を持って、泥沼と化したそこへと走り寄る。
泥の下に藻掻く巨体の影が見えた。虹色の雷光を纏った剣を、腰だめに構える。
切っ先に意識を。動きは、美しい騎士の模倣を行う。
「おぉおおおッ!!」
徐々にバインド効果を失っていく泥を見て、ジュンタは泥から抜け出た二人のうち、先に出た大きい方――オーガへと詰め寄った。
ボロボロになりながらも立ち上がる巨体に、止めの一撃を叩き込む。
大気を切り裂く虹色の閃光。強く地面を蹴って、ジュンタはオーガの心臓目掛けて切っ先を突き出した。
「オォオオオオオオオオッォオッ!!」
「貫けぇ!!」
固い皮膚を焼いて削りながら、切っ先は僅かな時で心臓の奥へと辿り着く。
肉を裂く、嫌な感触。
肉が焼き焦げる、嫌な臭い。
湧き上がる罪悪感を堪えて、ジュンタは最後に思いきり剣を押し込んだ。
オーガの巨体を挟んで、向こう側に一筋の虹の光を見た。身体を突き破って、刃はオーガの命を奪ったのだ。
剣を引き抜くと同時に、ドプリと緑の血が溢れ出てくる。
ジュンタは意識からオーガを切り離すと、即座に泥沼を睨む。
敵はもう一人、残っている――倒れていくオーガの上に乗るように、決して泥には触れないようにしながら、泥の上で足掻く風の魔法使いへと剣を振りかぶる。
その瞬間、泥の中から風を纏ったグリアーが大空へと飛び出した。
「っ! 泥が!?」
しかし泥がまとわりつき、満足に飛行ができていない。
「終わりだっ!」
ジュンタは剣を振りかぶって、高く跳び上がる。
「風よ」
グリアーは振り返って手の平を向け、風の弾丸を放つが、弱い。
雷光を纏った剣風の弾丸を寄せ付けず、振り下ろされた剣の面での一撃はグリアーの肩へと命中し、彼女はオーガの上へと叩き付けられた。
「俺たちの勝ちだ。抵抗を止めて大人しくしろ。そうすれば、命までは取らない」
グリアーの隣に着地したジュンタは、彼女に剣の切っ先を突きつける。ギロリと強く睨み付けて、本当の心内を悟られないようにしながら。
ジュンタの言葉。正確には命は取らないのではなく、取れないが正解だった。
オーガならというのもあれだが、自分と同じ言語を介し、姿をしているグリアーは殺せない。
だが、これ以上抵抗するなら…………決意はある。しかし、決心はできない。
戦場において、この甘さは敵に付け込まれる弱点となる。だからジュンタは本音がバレないように、抵抗すれば容赦なく殺すと思わせようと表情を消す。
「……分かったわよ。降参するわ」
血まみれの形相が功を奏してか、しばらくの間睨み付けてきていたグリアーが、軽く項垂れるようにして両手を挙げた。
「まったく、本当にあんたたち何者? しゃべる猫に凄腕エルフ、動く死体も同然の坊や。やれやれ、この仕事はハズレね」
「俺たちが何者か、か……」
別に答えを期待して口にしたわけではないのだろうが、そのグリアーの質問には思うところがあった。
ジュンタも、クーも、サネアツも、何かを求めて歩く存在。そう、自分たちは……
「――――俺たちは旅人さ」
だから、ジュンタは答えた。きっと、この答えこそが相応しいと胸に抱いて。
◇◆◇
身体が鉛のように重い。身体が炎に包まれているかのように熱い。
クーは限界などとうに突破し、限界の限界を踏破し、ついには限界の境地をも攻略した自分の身体のズタボロさに、妙な愛しさを感じていた。
自分に愛しさを感じるなんて、初めてのことだ。
これも皆、全ては気付くことができたからに違いない。
(自分が何者かではなく、何がしたいか……それが重要なんですね。きっと)
気分は見上げる蒼穹のように、清々しく晴れ渡っている。
終わった戦いの場から、剣を引きずるようにして歩いてくる人を見て、思わず透明な涙が零れた。
「自分が何をしたいか。私は……」
ゴクリと緊張から息を呑む。やはり、自分のしたいことはただ一つだけ。
もう一度だけ、最後にもう一度だけ挑戦してみよう――クーは過去の闇からほんの少しだけ抜け出て、前に歩を刻んだ。
グリアーをサネアツに任せて、ジュンタはクーの許へとやって来ていた。
最後に、まだ一つだけやらないといけないことがあるのだ。
身体はボロボロで痛いけど、それでもこれだけは今果たしておかなければならない。
ジュンタは横の地面に剣を突き刺して、まっすぐにクーと向かい合う。
クーの蒼天の色を持つ瞳が見上げてくる。先に口を開いたのはクーの方だった。
「ご迷惑なのは分かっています。でも、お願いします。私を――」
決意に揺れる瞳。緊張で震える睫毛。
不安を押し殺すように握られた手を組み直し、クーは一生で一度のお願いをする。
それは切実な、純真な、願い……ある意味は我が儘とも言えるもの。
クーはそう分かっていながら、ずっと願ってきた夢であるために、諦めきれずに口にする。
「――――私を、あなたの『巫女』にしてください!」
透き通るような声がグストの森に響き渡る。
お願いを口にし、返答を震えながら待つクーを見て、ジュンタはやはりと思った。
(巫女……ああ、やっぱりそうだったんだ。クーは、俺の巫女だった)
巫女とは使徒一人につき一人絶対にいる、神のお告げ――試練の神託を使徒に告げる役目を担った、使徒の相棒のような存在のことなのだと。最初はそれがサネアツかと思っていたが、クーが先程別れ際に放った言葉を聞いて、ジュンタは自分の勘違いに気付いていた。
(サネアツはあくまで巫女のようなもの。俺のことを手助けしてくれるけど、巫女じゃない。……俺の本当の巫女は他にいた。それが、クーって女の子だったんだ)
つまりクーの願いとはそういうこと。
使徒と呼ばれる存在に付随して、必ず現れる巫女という役職。
オラクルの内容を神のお告げとして聞き、使徒に伝える役割を持ち、また従者として共にオラクルに挑む者。それになりたいというのが、クーの心からの願いだったのだ。
(クーが俺の巫女……ああ、そうだな。なんとなく、そうだって今なら分かる)
使徒と巫女とは、互いに互い両者がそうであると分かるもの。縁があるということか。ジュンタには、クーが正しく自分の巫女だという不思議な確信があった。
それと同時に今までのクーの言動の真実にも考えが及んだ。
探し人が見つからないと嘆いていた、寂しそうな姿。
ジュンタが使徒だと知ると、とても取り乱していた姿。
ごめんなさいと言われて、絶望したように謝り続けた姿。
その全てが自分の責任。秋のあの日から彼女を待たせ、悲しませ続けていたのは、他でもない自分だったのだ。
以前、クーが探している相手に吐いた想いが、時間をかけてジュンタの胸に去来してくる。
謙虚なクーが願った求め。それに対する答えは、決まり切っていた。
「クー」
「は、はひはひゃいっ!」
名前を呼ぶと、クーの肩が思いきり跳ね上がった。
クーの小さな肩を、ボロボロの身体を見て、慈しむようにジュンタは彼女の頭に手を置いた。
自分に益なんてないのに、一生懸命がんばっていた少女がいた。
傷付いても、疲れ果てても、何度でも立ち上がった少女がいた。
そしてそんな少女を守りたいと、助けたいと思った少年がいた。
使徒と巫女――その関係の深い意味はまだ分かっていない。理解していない。けれど、自分が求めに応じることでクーが報われるなら、ずっとがんばってきた彼女の報酬となるのなら、応えてやりたいと思う。一緒にいてもっと守ってやりたいと思う。そう、ジュンタは思う。
(クーは褒められるべきなんだ。手を握られて、頭を撫でられるべきなんだ。その相手に俺が選ばれたなら、俺はただ、そんなクーに報いてやれる主になれればいい)
優しく、髪の毛一本一本をなぞるように、想いが伝わるようにクーの頭を撫でる。
目を細くして、気持ち良さそうにするクーに、ジュンタはその想いを伝えた。
「俺で、いいのか?」
言葉と共に、頭を撫でる動作にさらなる想いを込める。
それが通じたのか、クーは強く頷いた。
「あなたじゃないと、嫌です」
「そっか。それじゃあ、俺から改めて言おう――」
選んでくれた少女に笑みを見せ、ジュンタは自分から頼み込む。
「――クー。俺の、巫女になってくれますか?」
クーの瞳から涙がポロリとこぼれ落ちた。
感極まったように顔をぐしゃぐしゃにして、クーは涙を流す。それはとてもとても綺麗な、透明な涙だった。
だって、それは感激の涙だ。悲しくて泣いたわけではない、嬉しいから出た涙だ。それが綺麗な透明でないはずがない。
「私、わた、しは……」
クーは感激に声がしばらく出せず、目を擦って、何とかがんばろうと、声を上擦らせながらも精一杯に口にした。
「は、い……はい。はいっ。私、巫女に、あなたの巫女になりたいです……!」
もうその後は声にならなかった。
抱きついてきたかと思うと、クーはわんわんと泣き始める。
「……よくがんばったな。クー。本当に、お前は偉いよ」
ジュンタは右手で頭を撫でたまま、その小さくてもがんばってきた肩を強く抱きしめた。
小さな小さな身体。ジュンタはここに思い描く。
この少女のがんばりに報いてやりたいと。がんばった分だけ褒めてやりたいと。そう、強く。強く。
「どうやら、ここにまた一組の主従が誕生したようだな」
やがて泣きやんだクーが、少し恥ずかしそうに身体を離したとき、グリアーを拘束していたサネアツがやってきて、目を赤くしたクーを見て笑った。
珍しいことにそれは優しい笑みだった。サネアツもずっと待っていたクーには何か思うところがあるらしく、だからこそ次の彼の提案はあったのだろう。
「では、この場所でやるのがふさわしいだろう。誓約の儀はな」
「誓約の儀?」
「そうだ。簡単に言ってしまえば、神の名を元に自分の巫女を使徒が認める儀式だ。どうだ、クーヴェルシェン。やりたいだろう?」
「それは……はい。是非にお願いしたいです」
クーにしては珍しく、はっきりと頷いて見せた。そう言われてしまえば、ジュンタに断る理由はない。
サネアツがジュンタの肩に飛び乗る。それで全ての準備は整った。
「言葉は俺が教えてやる。そう、ただ最後に巫女として認めさえすればいいだけだ」
「分かった。それじゃあ、いいか? クー」
「はい」
そしてクーがその場にかしずいたとき――神聖にして絶対の儀式は始まった。
「この血この肉この魂の欠片まで、全てを主に捧げん」
蒼天の下に、確かにそのとき光が差した。それはまるで、この瞬間を祝福するような柔らかな光。
煌々と輝く金糸の髪。蒼い瞳を閉じた少女は、光の下で静かに誓う。
「救世の道を辿り、神託を賜る我こそ、唯一使徒の従者を許された者なり」
これまで幾度となく響いただろう巫女の詩。
それはあまねく全ての使徒に対し、巫女が紡ぐ同じ聖句であり、だけど一人一人違う詩。
巫女にとって、かしずく使徒は唯一一人。だから、この時この瞬間の詩は、この美しい一瞬だけに存在する、ただ一人の巫女だけの詩だった。
「――忠誠こそ我が名誉。我が名誉は永劫にあなたの傍に。
使徒ジュンタ・サクラ聖猊下が巫女――クーヴェルシェン・リアーシラミリィ」
ジュンタはクーに対して手の甲を向ける。いつか、リオンが自分にしたように。それが全てを認めるという意味だった。
クーがジュンタの手を持って、恭しく甲に口づけする。
「我が巫女――クーヴェルシェン・リアーシラミリィ。これから共に、救世の道を征く者よ。使徒ジュンタ・サクラの名の下に、汝が誓約を認めよう」
それで、ジュンタの巫女となった、クーヴェルシェン・リアーシラミリィの未来を決定づけた儀式は終わり。
ジュンタはクーの手を持って立ち上がらせると、そっと笑いかけた。
「クー。これからもよろしくな」
クーは僅かに上気した顔で、じわりと再び瞳を潤ませた。
儀式を経て実感が湧いたのか、だからこそ、クーは涙よりもこの時を彩るべきものを見つけて、涙の代わりに笑顔を浮かべた。
それはとても綺麗な、見る方が暖かくなる日溜まりの笑顔。
最も彼女にふさわしいその笑顔を浮かべたまま、クーはジュンタに答える。
「はい。よろしくお願いします――――――ご主人様」
そんな致命的かつ、非常に問題のある発言を。
神聖な空気が一瞬で消えた。
柔らかな光がなぜかジュンタには眩しく思えた。
ピシリとその場の空気が完全硬直。ジュンタはクーの頭に再び手を乗せ、撫で始める。
クーは気持ちが良さそうにされるがままになって…………うん。今のはやっぱり、その、気のせいに違いない。
こんなタイミングで空耳なんて血を流しすぎたかなぁ〜、と失笑しつつ、ジュンタはもう一度先程の言葉を繰り返す。今度こそ空耳は聞かないぞ、と思いながら。
「じゃあ、これからもよろしくな。クー」
「はいっ! こちらこそ、不束者ですがよろしくお願いします。ご主人様」
再び世界は凍り付く。眩しい笑顔で言い放ったクーが、ジュンタには眩しすぎた。
「…………………………き、気のせいじゃなかったかぁ。そっかぁ……」
「ジュ〜ン〜タ〜く〜ん」
耳元から、ものすっごい楽しそうな幼なじみの声が聞こえてきた。
ギギギギギと、ブリキの木こりでもこんなに錆び付いてないと思える動きで、ジュンタはサネアツの方を向く。
そこにはニヤニヤと笑う悪魔の姿が。クーの発言は問題だが、それ以上に問題なのが、その発言を聞いたのが自分以外にもいて、それがサネアツであることの方が問題なのである。
「ご主人様、ねぇ。久しぶりに会った幼なじみは、どうやらとてつもない趣味の変化を遂げていたらしい。さすがにこれは、サネアツさんも仰天だ」
「いや、これはな。ちょ、ちょっとした偶然の産物。そう、奇跡なんだよ! クー! そんな大それた呼び方じゃなくて、前みたいにジュンタさんでいいから! むしろそっちでお願いします!」
響いた奇跡の呼称に慌てふためくジュンタがそう言うと、クーが絶望しましたという顔になる。
「ダ、ダメなんですか? …………ずっとこう呼ぶことが夢でしたが、ご主人様がそうおっしゃられるなら、私……わたし……」
「ごめっ、いいよ。ご主人様って呼んでいいよ。本当ダヨ。嬉しいヨ?」
潤んだクーの瞳を見て、ジュンタはすぐに先程の言葉を撤回する。するしかなかった。
「まさか一度惚れた女に振られたからと言って、そんなちょっと人としてどうかと思う性癖に目覚めるとは……俺は悲しい。やはりこれはあの悪女、リトルマザーの陰謀なのだろうか?」
サネアツがアホなことを宣っているが、無視する。
クーが悲しむ姿を見るくらいなら、あえてサネアツの玩具になる決意である。
「なんで、こう最後まで決まらないかなぁ」
幸せそうにはにかむクーを見て、ニヤニヤと笑うサネアツを見て、それからジュンタは自分たちが守ったグストの森を見る。
旅の途中での寄り道のはずが、とんでもない事件に巻き込まれてしまった場所。そして、クーと出会った場所。
これはマザーの策略だろうか? だけどそうなら、今回ばかりは感謝したい気分だった。
晴れ渡った青空。遠く広がる森の緑。かすかに香る、春の空気。
「ジュンタも徐々におかしくなっていくな。ふっ、これからが楽しみだ」
「ご主人様。私、粉骨砕身の想いでがんばっていきますね……って、あれ? ご主人様? ご主人様っ!?」
旅はこれからもまだまだ続く…………だがまぁ、出発の前に少しだけ休ませて欲しい。今回はちょっと、疲れた……
ジュンタは楽しそうな笑みを口元に浮かべたまま、立った状態で意識を手放す。
「ご主人様……ゆっくり、おやすみなさいませ」
静かに倒れ込もうとした身体を抱き留め、その手をぎゅっと握り、優しい瞳でクーは眠りに落ちる傷だらけの少年を見た。
「私はもう幸せな夢を見ていますから。だから、今度は――」
愛しい主。その人と歩む、これからの楽しい旅に思いを馳せながら、クーはジュンタの頬に自分の頬をすり寄せ、そして寄り添いながら眠りに落ちる。
「今度は、どうかあなたが幸せな夢を――――我が愛しき聖猊下」
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