第十七話 エルジン・ドルワートル
別にリオン様があの小僧に恋をしていたとは思っていない。
あの秋の日、リオン・シストラバスの前に突如現れた男――ジュンタ・サクラ。
主の浴室に現れて主を押し倒した男を、エルジンは最初どうしてくれようかと思っていたし、何があっても罰しなければならない存在と思っていた。
無償労働という形で罪が償われることになったジュンタだが、エルジンにしてみれば主に加え、愛すべき娘と同じ屋根の下にいることだけでも気にくわなかったのだ。
無論のこと、そこには屈辱に対する報復という正当な理由があり、別にリオン様も好きであの男の傍に寄っていったわけではない。それが分かっていたから、エルジンも見て見ぬふりをし、愛娘に近づけさせないことだけに心血を注いだのである。 その時のリオン様が見せていた表情は、怒っているようで、狼狽えているようで、悔しがっているようで、でも楽しそうだった。 アルカンシェル。素顔を覆い隠した黒騎士。……何の悪夢かという話だ。 去ったはずの人間が、どうしようもなくていなくなったはずの人間が、なぜ今になって現れるのだと。しかもリオン様と再会するという形ではなく、敵対する対戦相手の一人として姿を隠しただなんて…… 未だ、ジュンタという男は試合に負けていない。
「――リオン様に会うことなく、貴様はここで終われ! ジュンタ・サクラ!!」 左の剣を盾として、右の剣を矛とする。 奔る無骨な左の一撃を、エルジンは大剣で弾いて受け止めた。そうすることでさらにジュンタの双剣の、矛と盾の役割は逆転する。 これまでにない避け方として、エルジンは大きく下がることによってジュンタの攻撃を避ける。 ――エルジンは言った。リオンは悲しんでいる、と。そしてそれはお前の所為なのだと。 だけど責任を取るのはいいが、取るにしても、ジュンタには肝心の何の責任を取ればいいのかが分からなかった。 誰かがいなくなって悲しむ――それはよくあることだろう。 あの日、リオンに告白した夜。リオンは自分を振ったが、告白自体は嬉しいと言ってくれた。リオンにとってジュンタという男は不埒な真似をされた相手だったが、好きだと言われて悪い気はしなかったのか。少なくとも、別れの瞬間までリオンに嫌われていたということはないだろうと思うが…………それでもそこまで好かれていたとは思えない。 だけどエルジンは、リオンが悲しんでいるという――それは一体どうして? ここでは負けられない。 リオンを悲しませているなら、その理由を知って、笑ってもらわないといけない。だから絶対に、ここでは負けられない。 「何!?」 最後に放った一撃は避けられ、エルジンに改めて大きく間合いを測られる。 急な戦術の変化による動揺は、やはり経験豊かなエルジンには見られなかった。同時に、間合いをこうして測られたからには、変化による一時的な優位も消えたと思っていい。 戦略をジュンタが組み立て始めていると、徐にエルジンが言葉を放った。 グンッ、と一気にエルジンの身体が近付く。 「さぁ、俺に勝ちたいと宣う貴様の覚悟を見せてみろ。強く願えば、もしかしたら一太刀ぐらいは浴びせらえるかも知れんぞ?」 エルジンはもう何も語ることなく、きつく口をつむり、剣を左手一本で構えている。 まったく隙がない。間違いなく、彼の実力は遙か上に行っている。師トーユーズの格付けで言うならば『武人』の上の上……いや、『達人』といってもいいか。 (勝負を長期化させたらダメだ。次の一撃で倒さないと、確実に負ける) こちらの手をエルジンに完璧に読まれる前に、最大の一撃をもって下さないといけない。 それは用意した奇策の内、本当の本当の奇策を費やすことになる。 それがイメージ。サクラ・ジュンタにとっての、魔力を汲み取るイメージ。 ジュンタの身体に、剣に、虹色の光が広がって、それが膨大な魔力の波動と共に輝きを強めていく。 「これは[魔力付加]……しかも『加速』か」 両方ともをエルジンに突き出すように構えた瞬間、背中で爆発のような一際強いスパークが起き、ジュンタの身体が一気に加速する。 (大丈夫! まだいける!) それが昨日までの[加速付加]の限界だった。静止状態でのみ魔力を制御できていたのだ。加速という高速の動きの中での集中は会得しておらず、魔力は暴発霧散した。 剣を素早く戻したエルジンが攻撃を払い、攻撃を再度仕掛けてくる。 それをジュンタは左の剣で何とか逸らしつつ、渾身の右を放つために、大剣を思い切り振り上げた。 「これが俺の――」 自分でも剣を振ろうとした以上の感覚が失われるほどに、虹の雷を纏った大剣はギロチンのように落ちる。 今一度の[魔力付加]は難しい。集中の仕方のコツを掴んだと言っても、結局は感覚的なものであり、持続もしない不安定極まりないもの。 でも――それでもエルジンが倒れていないのなら、最後まで全力で戦うしかない。 身体を半身にし、ジュンタはエルジンの反応を待つ。 自分の胸部を見下ろして軽く苦笑するエルジン。驚くべきことに、彼は剣を鞘にしまう。 自らリタイアを宣言したのに、自分が勝者と宣うエルジンの言葉の意味を、ジュンタは理解できない。その間にレフリーが、声高々に勝負の終わりを宣言してしまった。 そんな中、どうしても納得できないジュンタは、去ろうとするエルジンの背に追いすがった。 ――ああ、そうだな。俺に一太刀浴びせた褒美だ。一つだけ助言をしてやろう」 「まったく。リオン様は、あのような男のどこがいいというのだ」 果たして、通路の暗がりから返答の声は届けられた。 その姿はかなり変わっていたが、十年前に別れた頃の面影はしっかりと残っている。 あまりにいきなりの再会に、エルジンは声も出せなくなる。 「…………その姿は、一体何の冗談だ?」 だから結局、そうやって口に出た言葉は、長い間音信不通だった相手にかける言葉として、エルジン本人としては不本意なものだった。 十年前と変わらぬ飄々とした態度で、トーユーズはにっこりと笑った。 ……間違いだと思ったのか? 自分の選んだ道は、俺が選んだ道に劣る、と。だから自分の選んだ騎士の道を教えるのではなく、俺にシストラバスの騎士の道を教えさせたのか?」 かつて共に在り、けれど袂を分かった理由こそ、それだった。 「ジュンタ・サクラの魔法属性・魔力性質こそ恐らく貴様と同じだが、奴の武術の才能は傑出しているというほどのものではない。トーユーズ、貴様の噂は聞いている。間違いなく、貴様は求め続けた特別以外の弟子は必要としていない。違うか?」 「なんだと?」 困惑と驚愕に揺れるトーユーズの瞳が、歓喜の炎に燃えていた。 「……貴様は、あれを選ぶんだな。本当の『竜滅紅騎士』にするための種として」 忘れているはずがない。たった、半年前のことだ。奇跡が起きたのは、半年前のことだ。 「分かりましたか? それもあたしが、ジュンタ君の小さな見落としを師として指摘できず、先輩を頼った理由です。 あたしは決して、それがジュンタ君のためでも、彼がリオン様のために何もしなかったとは言えませんでした。あたしは、彼が誰よりもリオン様のためにがんばったことを知ってしまいましたから、口が裂けても言えなかった」 「まだ何も知らなかった先輩なら、何の躊躇もなく、過去から託された理念を伝えられると思いました。そしてそれは正しかった。先輩は我が儘なまでに、その紅き騎士としての魂を振り絞ってくれました。 ねぇ、先輩。先輩は果たしたんですよ? その手で、その口で、その心で……先輩は『竜滅紅騎士』となったジュンタ・サクラに、シストラバスの騎士の想いを伝えたんです」 取られた手をぎゅっと握られた。 『紅き剣に騎士の名を――――我らは、真の竜滅紅騎士となる』 それはまた、トーユーズも同じ。『竜滅紅騎士』を育てるためにジュンタ・サクラを継承者に選んだのではなく、ジュンタ・サクラが『竜滅紅騎士』だったから継承者として力を伝えようと思った。そう、そういうことなのだ。 なればこそ、求められた竜滅姫を守り続ける力を、与えなければいけなかった。 なればこそ、知らなければならかった。竜滅姫を守る意味を――シストラバスの騎士の誓いを。 もう偽ることなく、悪態づくことなく認められる。 こうして、十年前も二人で涙を流した。 そうして流したあとに、立ち上がって、エルジンはトーユーズに頭を下げた。 竜滅姫様の幸福をこの手で守るという戦いは終わったのだ。 シストラバス侯爵家騎士――エルジン・ドルワートルは戦いの舞台から去っていく。その最後にリングの方を振り返り、万感の想いを込めて、 ドクンドクンと激しく鼓動する胸に両手をあて、人のいない王城コロシアムの選手入退場口へと続く通路の出口に、エリカは立つ。 そうして待つエリカの元に、舞台を後にした片腕だけのその人は、悠然と胸を張ってやってきた。 誇らしげに、一つの仕事を果たしたシストラバスの騎士として。彼はどこまでも満足げに笑っていた。 その顔をエルジンが真剣なものに変えたのは、次の瞬間だった。 娘の心底驚いた顔に、エルジンは苦笑しつ話の続きを口にする。 「奴はすでに良き師と巡り会っているようだからな。俺の出番はもうない……ん? なんだエリカ、含み笑いなどしおって?」 「ま、待て。馬鹿を言うなエリカ! 許さん! 断じてお父さんは結婚なんて許さんぞ! こればかりはあらゆる全ての事柄に対して別問題だ! えぇい、こうなったら奴を亡き者にしてくるしか――!」 「わー、冗談だから! 当分誰かとお付き合いするつもりも予定もないから、早まらないでお父さん!」 「ねぇ、お父さん」 「ああ、エリカ。――俺もお前が大好きだよ」 それは、騎士は素晴らしくてとても格好いいのだと、そう目を輝かせていたときの気持ちを思い出したエルジンが浮かべた、酷く屈託のない笑顔だった。
彼の姿を見る度に腹立たしく思ったものである。なぜ貴様がリオン様と一緒にいるのか、と。
そんな風にして、ジュンタ・サクラがシストラバス邸で無償労働し始めて一週間が過ぎた頃……屋敷内に不穏な噂が流れるようになった。
曰く、リオンお嬢様と使用人の少年が恋仲である、と。
そんなことあるものかと一笑したエルジンではあったが、その噂を流した大本が自分の娘となれば気にせずにはいられない。エリカに話を聞いたところ、元々噂はリオン様とジュンタ・サクラが楽しそうに一緒にいただけとのことらしかった。
リオン様に限って、そんなことはないと思った。
ジュンタという男は、その存在自体がリオン様にとって目障りな存在であり、ただ報復する対象として在るだけなのだと、そう思っていた。
…………けれど、エリカの言うとおりだった。
久方ぶりにリオン様と不埒な小僧が一緒にいるところを、その日エルジンは見た。
つまりはそう言うことらしい。
ジュンタ・サクラという男は、いつの間にかリオン様の日常の中にズカズカと入り込んで、異性の友人というポジションを獲得していたのだ。毎日いつも表情豊かに楽しそうにしていたリオン様の姿が、それを如実に物語っていた。
その後は、特に語るべくもない。
ジュンタはシストラバスの騎士となり、しかしその後現れたドラゴンの事件に巻き込まれ、結果的に彼はシストラバス家を去ったというだけの話。
そのことでしばらくリオン様は落ち込んでいたが、それもまたいつかは時間が解決してくれると思っていた。やがてあの男はリオン様の中で過去となり、消え行くものだと思っていた。
そう、エルジンはずっと思っていた。
――――娘エリカと一緒にいたジュンタ・サクラが、アルカンシェルの正体だと知るまでは。
帰ってこなければ良かったのだと思う。
もう会うこともなく、まったく関係ない場所で平々と暮らしていれば良かったのだと。
そうすればリオン様はその気配に惑うことなく、その手で武競祭優勝という自由を掴み、何ら問題なく、この忌むべき結婚騒動は終わるはずだった。それは同時に、あの『双竜事変』一連の事件ときっぱりお別れできるということだ。
リオン様も偶々巡り会っただけの男のことなど忘れてしまうことだろう。それで万事解決だ……と言うのに、よりにもよってジュンタ・サクラは最悪の形で現れた。
未だ、リオン様はその男のことを忘れておらず、
それを悟ったとき、エルジンはシストラバスの騎士として役目を果たさなければいけなくなった。過去現在未来の騎士の誓いに則って、リオン様をあらゆる意味で守らなければならなくなった。
そのことに戸惑いはない。むしろ、自分がその役割を担えるのならば光栄だ。
リオン様が憂鬱そうにしていることを知らず現れ、再会することで日常のピースとして戻ってくるではなく、姿を隠して現れた敵。
エリカを助けてくれたこととは別次元の問題として許せない。許してはいけない――この試合において、エルジンが剣を振るう理由はただそれだけにあった。
バランスを崩したジュンタに、エルジンは鋭い突きを放つ。
殺すつもりはない。だが、当分は動けなくなるだろう深手を与える一撃。
エルジンの言葉に惑ったままのジュンタはそれを右手の大剣で受けること叶わず、完全に自分が受ける攻撃を目で追っていた。
「――終われるかぁッ!」
なればこそ、腰の後ろに回した左手でもう一本の剣を抜いて、それを盾として攻撃を阻んだのは驚きに値することだった。
「何!?」
虹色の線を僅かに残し、絡みつく蛇のようにジュンタの左手の刃が閃く。
真っ直ぐの突きを横に逸らす防御の刃。渾身の突き出しは僅かに急所から逸れ、ジュンタの横腹を抉ったに終わった。
(見てから反応して防いだ、だと!)
それは武の才能をのぞかせない彼には、あり得ないはずの反応速度――見てから動くのにかかる所要時間の短さだった。
(しかも、双剣か……!)
双剣使い――ジュンタ・サクラの本当の攻撃スタイルがそれだと知るとともに、エルジンは右から襲いかかってくる大剣を感じ取った。
「っ!」
今ので試合が終わったと思っていたエルジンは、大剣の攻撃に反応を一つ遅らせる。だが、そんな攻撃を受けるほどにエルジンは弱くはない。
咄嗟に剣を戻し、大剣の攻撃を受ける。相変わらず威力だけはあるジュンタの大剣の一撃を受けたところで、ちっ、とエルジンは舌打ちした。
右の剣を盾として、左の剣を矛とする。
先程とは逆。ジュンタは左に握った刀身の短い片刃の剣を奔らせる。双剣の使い道として一番王道であるのが、その片方を矛とし、もう片方を盾とする使い方。ただ、剣と盾とでも行えるそれを剣だけで行う双剣の利点として、矛と盾の役割を交代できることがある。
今度は左の剣をエルジンの剣を押さえる盾とし、右の剣をジュンタは振るった。
右の剣が防がれれば左の剣を振るう。絶えず嫌な角度から迫ってくる双剣両方を受け切るのは、片手しか使えないエルジンには難しい。ただでさえこれまでの攻撃とはまったく違うのだ。
「それが貴様の本気の剣か!」
「そうです!」
ジュンタは気合いの叫びと共に、左の剣で応対し、右の剣を後ろに体を反らして振り上げ、一気に半円を描いて叩き降ろしてきた。
勢いがこれまでより増した大剣の一撃は、まるでオーガの持つ棍棒の一撃のよう。
岩をも砕くとされたその一撃を、さすがにエルジンでも左手一本で受けきるのは無理だった。
間合いを取り、エルジンは荒く息を吐くジュンタを見て、覚悟する。
(やはり、こうなるか……本当に憎たらしい。貴様がそうであるから、俺は俺の勝負に勝ってしまうのだ)
シストラバスの騎士として、やはり、エルジン・ドルワートルは惑わなかった。
一瞬だけ、その言葉を受けてジュンタは躊躇した。
良かれと思って、あの時あの瞬間『不死鳥聖典』を使ってリオンの前から消えた。それが最善だと、そう思った。それしかなかった、と言い換えてもいい。
他の誰かに言われても、サクラ・ジュンタという人間は、あの時あの瞬間の選択を何度だって繰り返すだろう。でもそれが今リオンを苦しめているのと言うのなら…………やはり責任を取るべきも自分しかいない。
そもそも、リオンの前から自分が消えたことで彼女が悲しんだ――それは一体どうしてなのか?エルジンは日常が欠けたことを悲しんでいると言ったが、果たして本当にそれだけなのか?
だけどそれは、自分にとっての大事な人がいなくなったから悲しむのだ。例えば恋人や、そこまでは行かなくても好きな人。そんな人が自分の前から去ったら、そりゃ悲しい。
けれど自分とリオンの関係はそんなものではなかったはず。
確かにあの時ジュンタという少年はリオンのことが好きで、彼女といることを望んで、一緒にいた時間を幸せと感じていた。だけどその逆はどうなのだろう?
分からない。分からない…………だからこそ、ジュンタは倒れないことにした。
(そうだ。こんなところで何も解決しないまま――)
「――終われるかぁッ!」
腰にくくっておいたもう一本の剣を半ば反射的に引き抜いたジュンタは、エルジンの攻撃をそれで弾いて防ぐ。
今一度エルジンから話を。意識を切り替えて、ジュンタは双剣を振るう。
習っていない一刀とは違って、双剣はトーユーズに習った剣術だ。その剣捌きも、鋭さも、狙いの悪辣さも比較にならないはず。これこそが自分の戦闘者としての形なのだから、先程よりも自分の攻撃は強いという自信がジュンタにはあった。
だけど、全ての攻撃はエルジンの防御の前に通用しなかった。
(さぁ、ここからどうやって勝つ?)
「終われない、か。こうして貴様が戦っていることこそが、リオン様にとっての苦しみに繋がるとしてもか?」
それは先程の話の続き。
ジュンタは右の剣を下に、左の剣を横に構えたまま、しばしの沈黙のあとに返答を返す。
「それがどうしてあいつの苦しみに繋がるのか、それを知るまで俺は負ける気なんてありません」
「教えろと言うことか? それはあまりに虫がいい。それに――」
「――それは自分で気付かなければ意味のないことだッ!」
咄嗟にジュンタは双剣をクロスさせて、エルジンの鋭い突きを受け止めていた。
両手に走る痺れと共に、あまりの突きの鋭さと重さに後ろへと身体が傾く。
剣を使って受け止めていなかったら、そのままのど元を貫いていたかも知れない突きだった。
それは、エルジンからはもう何も話すつもりはないという意思表示だった。
それはつまり、やり方次第でも勝てない相手ということだ。けれど、だからといって諦めきれるはずがない。
(勝つ。勝って知るためにも、まだ俺は戦う)
次の対戦相手はリオン本人だ。エルジンが語ろうとしないことにも、彼女との戦いの中で気付けるかも知れない。
勝ちたい――何よりも強くジュンタはそう思う。
無論リオンのことだけではなく、鍛えてくれたトーユーズ。情報を集めてくれたサネアツ。武器を用意してくれたラッシャ。そして傷を負ってまでがんばってくれたクーのためにも、負けたくない。
(だけどここで全てを使って、次のリオンに勝てるのか……?)
そうなれば、あと二戦がきつくなるのは必死だ。だけど思い出すのは一回戦、何か切り札を用意しつつも出し渋り、結果的に披露することなく消えたウィミニス……
「温存して、それで負けたらどうにもならないか。次のことは次に考える!」
ジュンタは覚悟し、昨夜掴んだその感触を、深く深呼吸することによって心の中に描こうとする。
――心の水面に一滴の虹色の雫が落ちる。水面に落ちた雫は、幾重にも虹色の波紋を作って広がっていく。
「むっ?」
ふいに溢れ出た魔力が火花を散らす。
それはまるで水面が波紋を幾重にも打つように――ジュンタを中心に雷が荒れ狂った。
そう、エルジンが気付いた通り、魔力を迸らせているこれこそが[魔力付加]だ。
魔力に属性をプラスし、魔力の持つ性質を具現化する魔法にして技法。ジュンタの持つ二つの性質『加速』と『侵蝕』の内、特に『加速』の特色が強く見られる力は、現在の身体能力を超えた恩恵を与えてくれる。
([加速付加]――それが与えてくれる力は『加速』の力!)
雷気を纏った大剣と、刀身が霞むほどの虹色の閃光を迸らせる片刃の剣。
「ぬくっ!?」
ギン、と虹色のスパークが重なり合ったジュンタとエルジンの刃の間で炸裂する。
エルジンとの距離を一瞬で詰め、膂力だけでは望むべくもない剣速を出す、これこそが『加速』の魔力性質の恩恵。
速度の『加速』。剣速の『加速』。あらゆる事柄を『加速』させたジュンタのスピードは、これまでの比ではなかった。
スピードは威力をも高める。猛スピードで繰り出された二本の切っ先を受けたエルジンは、背後へとたまらず重心を崩す。普通ならこれでノックアウトだが、さすがはエルジン・ドルワートル。シストラバスの騎士。易々とは勝たせてくれない。
「大した魔力だ! だが、あまりに素直すぎる攻撃だぞ!」
エルジンは立ち直るのも早かった。背後に重心を崩したと思ったら、次の瞬間には斬撃を放ってくる。
その攻撃を、ジュンタは左の剣で払うことによって応対する。
昨日までの自分なら、この時点でエルジンの返礼に返すことはできなかっただろう。
現に昨日のクリスナとの戦いの最後では、結局その魔力の暴発による迸りで倒したようなものだ。統制を無くした雷の一条が、運良く力を使い果たし、盾を失ったクリスナを捉えただけに過ぎない。
しかし今日のジュンタは違った。
昨夜『動きの中の集中』を学び取り、不安定ではあるが、確かに制御は失われていなかった。
「速くなれ! 全てが解決できる一瞬に、一刻も早く辿り着けるように!」
ジュンタはエルジンの剣を払った左の剣を、そのまま返して突き出す。
ついに受け止めきれなかったエルジンの剣が、そのままジュンタの身体に突き刺さる。だが、急所だけは逸らすことができた。この一撃に全力を尽くすことは可能だ。
ジュンタは痛みすら麻痺させる雷気を振り絞り、渾身の力をさらに加速させ、
「――あなたから学んだものへの答えだ!」
剣を盾にしようと動かすエルジンが、剣を盾として機能させる刹那に――
「ぁあああああァッ!!」
「…………ふんっ、どこまでも気にいらん奴だ」
――ジュンタの刃の切っ先は、ついにエルジンの身体まで届いた。
◇◆◇
そうして二人の戦いは終着を迎えた。
荒く息をつき、纏っていた虹を霧散させたジュンタと、血を流しながらも問題なく立つエルジン。両者健在。だけど、もう勝敗は決していた。
(くそっ、浅かったか!)
倒れないエルジンを見て、ジュンタは剣を構え直してジリジリと間合いを測る。
「よもや、本当に俺の身体に攻撃を届かせるとは……貫いて見せたか、己の意志を」
「…………エルジン、さん……?」
「エルジンさん、どうして剣を?」
まさか居合い切りでもするつもりじゃあ、と内心ジュンタが戦慄していると、エルジンは静かな口調で語り出した。
「これまで語った俺の話は、シストラバスの騎士の理念を除き、全ては俺がそうだと思う騎士の姿に過ぎない。俺と貴様はまったく違う別個の存在。ならば、俺が語った言葉が貴様にとっては、何ら意味のないこともあり得るだろう」
「え?」
「故に、俺はリオン様がどのような理由で悲しんでいるか貴様には説明できん。それは貴様がその目で確かめるべきことであり、知るべきことであり……貴様には、リオン様が悲しんでいるのではなく、違う風に見えるのかもしれんからな」
クルリ、とエルジンは背中を向ける。
そしてリングの外で戦いを見守るレフリーに向かって、声を張り上げた。
「レフリー! この試合、俺の負けだ!」
「――――は?」
自らリタイアを宣言したエルジンを、ジュンタは驚きの眼で見る。
「な、何を言ってるんですか? まだ勝負はついてないのに!」
「決着は着いた。勝負が終わっていないというのは貴様から見たものであり、俺からすれば勝負はもう終わったのだ。俺の勝ちでな」
「準々決勝第四試合。勝者、アルカンシェル選手ッ!!」
リングでの話など聞こえていない観客が、レフリーの声に拍手と怒号を巻き起こす。
「待ってください! こんな終わりで、俺に納得しろって言うんですか!?」
「納得するも何もない。俺はシストラバスの騎士として、最も良かれと思ったことをしたまでだ。
確かに試合に勝つことも重要かもしれんが、それ以上に大事なものが我らにはある。試合に負けて勝負に勝つ。俺はシストラバス家の騎士として、間違いなく勝利した」
背中を見せたまま、エルジンは口端を吊り上げた。
エルジンの語るシストラバスの騎士としての勝利とは何か?
エルジンは語った。リオンを守ることこそがシストラバスの騎士の本懐だ、と。
ならばエルジンはこの試合に負けることによって、リオンのためになることをしたということになる。
「まさか、俺をリオンと戦わせようと初めから……」
エルジンが試合に負けることによってリオンのためになること――考えれば、それは一つしかない。即ち、リオンと自分が直接顔を合わせて戦うことか。
それに気が付いたとき、ジュンタはようやく左の剣を鞘に収め、大剣を降ろすことができた。
「……初めから、俺に試合では負けるつもりだったんですか?」
「まさか。貴様が俺の言うことだけを真に受けて、自分の真実を得る前に諦めるような輩なら、全力をもって潰していた。が、貴様は最後の最後にようやく自分のためではなく、リオン様のために勝つことを決断した。ならば…………いや、この先は言うまい」
試合の敗者になっても、リオンによりためになることを選んだ騎士は、ゆっくりと勝者の貫禄をもって選手入退場口へと歩き出す。
「貴様自身がリオン様を見、そして知ることだ。貴様がリオン様と再びお会いしたとき、本当はどうするべきだったのかを。
「助言?」
止まることなくエルジンは去っていく。入退場口の消える前に、一つの助言だけを残して。
「仮面を外せ、ジュンタ・サクラ。リオン様の素直な気持ちを知りたいのなら、自分もまた素顔でぶつかるべきだ」
その言葉を最後に、エルジン・ドルワートルの紅い背中は見えなくなる。
「仮面……」
仮面――エルジンが指し示したそれは、ジュンタのつけた『アルカンシェル』という仮面に他ならなかった。
……思えば、どうして自分は自分の正体を隠しているのだろうか?
簡単だ。それはリオンとの再会の瞬間を、自分の理想の形で作りたいからだ。そう、ただそれだけの理由に過ぎない。ただ、それだけの……
「この仮面はつけることにどれだけの価値があって、つけないことにどれだけの価値があったんだ?」
かつて状況に流されるままに受け取った、シストラバス家の騎士勲章。意味がないとさえいえたあの儀の中、それでも一つだけ胸に残ったものは確かにあった。
ジュンタはあの日初めて名乗ったのだ。リオン・シストラバスに、己が名前を。名乗って、覚えていて欲しいと思ったのだ。
だから、名乗った。だから、リオンは自分を忘れていない。
「紅き剣に騎士の名を――――我らは、真の竜滅紅騎士となる、か」
ジュンタは小さく呟いて、そして辿り着いたことを知る。その答えもまた出る場所に。
準決勝――リオン・シストラバスとの、試合まで。
やるべきことは終わった。この後どうなるかはジュンタ次第である――静かに戦いの場を後にしたエルジンは、振り返ることなく選手入場口へと歩いていく。これが最後の試合になったかも知れないとは思うが、それでも振り返るような後悔はなかった。
決して、自分の全てをぶつけられるような戦いではなかったけれど、シストラバス家の騎士エルジン・ドルワートルとしては、きっとふさわしい試合だったのだろう。
なんだかんだで満足していることに負け惜しみを言うように、エルジンは独り言をもらす。
「あら? あたしは結構お似合いの二人だと思いますけど」
聞いた覚えのない声だった。
女性の声だ。どこか艶っぽさの中に凛とした響きのある声。
その声をエルジンは知らなかったけれど、そんな風に響く声には覚えがあった。
「まさか。貴様なのか、トーユーズ……?」
「ええ。ご無沙汰してます、エルジン先輩」
暗がりから声の主が姿を現す。
印象的な左目の下の泣きぼくろ――間違いない。そこに立っていたのは、トーユーズと呼ばれたエルジンのかつての後輩だった。
突然いなくなったかと思えば、国のあちらこちらで噂だけは聞いていたトーユーズに言いたいことはたくさんあったはずなのに、いざ再会したら上手く言葉にできなかった。
「冗談なんて、酷いですわ。自分でいうのもなんですけど、十年前とほとんど美しさは変わってないと思うんですけど。もっとも、胸はこの通り大きく成長しましたし、色香には磨きがかかってますが」
「なるほどな。あの噂は本当だったということか。確かに、貴様はほとんど変わっていないようだ。『騎士百傑』に選ばれ、『誉れ高き稲妻』などと呼ばれていてもな。それで、一体何の用だ? 今更俺の前に姿を晒すとは」
再会の戸惑いを消化して、エルジンは軽くトーユーズを睨みつける。
「少々お礼が言いたかっただけですわ。先輩と戦ったお陰で、あたしのかわいい生徒は大事なことを学べたでしょうから。師として、心よりお礼を申し上げます」
「なに?」
お辞儀をしたトーユーズの吐いた言葉に、盛大にエルジンは眉を顰める。
「……そう言うことか。道理でジュンタ・サクラの剣筋の中に、貴様のいやらしい剣筋が見え隠れしていたわけだ。あいつを鍛えた化け物が、まさか貴様だったとはな。トーユーズ」
「まぁ、あたしのような可憐な女を捉まえて化け物だなんて、酷くありません先輩?」
「ふんっ、知るか。それでトーユーズ、貴様はなぜジュンタ・サクラの師などをしている? それに貴様の弟子ならば、もう少し他にやりようがあっただろう? あのようにリオン様のことを考えず、悲しませても自分を優先するやり方以外に導くことは」
「そうですね。リオンちゃんの様子を教えてくれた子はいましたし、自分なりにあの二人の関係がなんであるかは推測できましたし、ジュンタ君に気付かせることはできたでしょうね」
相も変わらず、飄々とした言葉の中に、自分への疑うことのない自信が込められていた。そしてその自信に見合った実力を十年前の当時にはすでに持っていた、紛れもない天才中の天才――それがトーユーズ・ラバスという騎士だった。
「ならば、なぜそれをしなかった? 貴様ならば正しく、我らがシストラバスの理念を伝えられただろう? 俺などが出しゃばらずともな」
「それは無理ですわ。だって、もうあたしにはあの聖句を口にする資格はありませんから。誰かが許しても、あたし自身がそれを許せないんです」
それは他でもないトーユーズの矜持だった。
それは師としての矜持――他の人間に、大事な戦う意味を弟子に教える役割を譲るということをしても、守られなくてはいけなかった誓いなのだろう。
「あの日、同じ場所に立っていたあたしとあなた。あなたは残って、あたしは去った。先輩。ジュンタ君に大事なあの言葉を伝える役目は、あなたしかいないと思いました」
「だからと言って、教育者の責務を忘れるのは感心せんな。それならそうと、一言俺に告げるべきだった。それに、ドラゴンスレイヤーの特性なども教えずに試合に送り出すなど……本当に貴様が奴を大事にしているのか分からんというものだ」
トーユーズの言いたいことは分かった。だが、なぜか違和感が残る。
なるほど。確かにトーユーズがあの日のことを未だ心の中に秘めているなら、決してあの聖句を語ることはしないだろう。シストラバスの騎士の理念を伝えようと思うなら、あの聖句を語れないことは致命的だ。
(なるほどな。道理でおかしいと思った)
考えて、エルジンは違和感の正体に気が付いた。
「訊くが、なぜジュンタ・サクラに伝えるべき騎士の在り方をシストラバスの騎士の在り方にした? 貴様はそうではない道を選び、去ったのだろう?
「いいえ、それは違います。あたしは自分の道が間違いではないと信じています。
千年近くかけてなお届かないなら、違う形での伝承こそが真の道――特別な天才こそが、到達できる唯一である。……その考えは今でも変わっていません」
エルジンは古から受け継がれ続けた意志に託すことを是として、トーユーズは新たなる絶大な力を、才能ある特別な者のみに託し昇華させることを是とした。
それはある意味、シストラバスの騎士の在り方そのものを否定した、けれど最終到達点は同じ考え――未だその考えが変わっていないのなら、なおさらジュンタ・サクラにシストラバス家の紅き剣の誓いを伝えるのは間違っていると考えよう。
「どういうつもりだったのだ? トーユーズ。なぜ、自分が信じるべき道を伝えない? ……まさか、貴様」
そこでエルジンは思い出す。トーユーズという『騎士百傑』が、今までの弟子を最終的にどうしていたかを。
トーユーズ・ラバスは謳に聞こえし騎士であり、その教育者としての腕も素晴らしい。が、未だに最後まで面倒こそ見れども、トーユーズ自身が鍛え上げた弟子というのは存在しない。
これまで取った弟子のことごとくが、やがて他の師へとトーユーズの推薦で移動したのだとか。自分が教えるよりも、より強くなれる師は他にいるという理由で。そこで言葉通りトーユーズの弟子だった者は大成したが、それでもそこには一つの結果が残る。
即ち、トーユーズにとって真実の弟子とは、自分の全てを継承できる一人だけであり、中途半端な弟子は必要ないのだという結果が。
「トーユーズ。貴様、まさかジュンタ・サクラを切り捨てるつもりか?」
今までの話から統合してみて、そんな予想を立てたエルジンは低い声を出す。
「どうして、そう思われます?」
「違いません。あたしにとって、本当の弟子は一人だけでいい。可能性を見つめるために取りはしても、継承者として最後まで手元に置くのは一人だけです」
そのトーユーズという一人の騎士としては正しくて、教育者としては認められない肯定の言葉に、酷くエルジンは落胆を受けた。そうだと分かっていても、受けずにはいられなかった。
「それは、教育者としては間違っている。新しい師を斡旋をし、最後まで面倒を見たとしても」
「重々承知しています。それでもこれがあたしの選んだ騎士の道。最高に美しい勝利を飾る以外に価値を求めない、『誉れ高き稲妻』の騎士道。――ええ、そうですね。そんな騎士道を彼に、ついに巡り会った継承者のジュンタ君に伝えるのは、少々気が引けたわけです」
きっぱりと、胸さえ張って頷いたトーユーズが続けた言葉に、エルジンは思わず素っ頓狂な声を出してしまった。
トーユーズはそんな堅物の先輩の顔を見て笑い、ネタ晴らしをするように嬉しそうな顔となる。
「そういうことです、先輩。確かにあたしは教育者として間違っています。だから、ジュンタ君にだけは間違うわけにはいかないんですよ。だって、ジュンタ君はあたしがついに巡り会った、本当の本当に特別な男の子ですから」
「待て、どういうことだ。あれが貴様の探し求めた継承者だと? ……馬鹿な。あれが非凡なのは、その成長速度だけだろう。あれには貴様に必須の才能がない。天性の才能をほとんど持ち合わせていない。精々あって、その反応速度の良さぐらいなものだろう」
トーユーズ・ラバスの継承者として、ジュンタはふさわしくないようにエルジンには見えた。逸材とは見るも、トーユーズの求めた一億分の一の特別ではないのではないかと、そう思う。
「さすがは先輩ですね。よく見抜いてます。その通り、今ジュンタ君にある天賦の才は反応速度の良さぐらい。……そう、あるんですよ、今一つだけは。確かにあたしが出会ったときは、何一つとして才能がなかったはずなのに」
それを見てエルジンは確信する。トーユーズにとって、本当にジュンタ・サクラこそが真の継承者なのだ、と。
「はい。そして、いいえ。あたしは敬意をもって、求められたものを彼に伝えるんです。本当の『竜滅紅騎士』になった、一人の男の子のために」
――その、聞き過ごしておけない言い回しに、エルジンは声を失った。
「奴が『竜滅紅騎士』になった、だと? なるのではなく、なったと……貴様は今、そう言ったのか?」
「そうです。それがまだ何の才能も無かったジュンタ君を、あたしが継承者にしようと思った理由です。いえ、選ばずにはいられなかった理由です」
「馬鹿な! ありえん!」
穏やかな微笑を口元の浮かべるトーユーズとは対照的に、エルジンは大きな声で怒鳴っていた。
「あれが『竜滅紅騎士』だと、『竜滅紅騎士』だと、我々の願いを成就させた者だと、そう貴様は言ったのだぞ? …………馬鹿な、そんなことはありえん」
「なぜ否定するんです? 先輩もずっと望んでいたのでしょう?
そのために残った。なら、素直に認めてしまえばいいんです。あたしが認めたように、先輩も」
あまりに穏やかで、幸せそうなトーユーズの姿に、エルジンは見惚れるように口を噤む。
どうして気付かなかったのか? トーユーズの態度こそ、その信じられないことへの唯一の証明だ。少なくともトーユーズは本当にそう思っている。ジュンタ・サクラが『竜滅紅騎士』なのだと。
…………そう。絶対という言葉をつけて否定できないのには理由があった。
「半年前に奇跡があった。先輩。それが神様の起こした奇跡ではなく、一人の男の子が起こした奇跡だったとしたらどうします?」
『双竜事変』――そう呼ばれた事件において、竜滅姫であるリオン・シストラバスは奇跡の果てに生き延びた。そこに『竜滅紅騎士』こそいなくとも、喜ばしいことだと涙を流したのは、一体いつのことだったか?
腕を失ったことよりも悔しかった、リオン様の最後の瞬間に立ち会えなかった事実と共に、それをエルジンは覚えている。
視界がぐらつく。エルジンは、そう、知っていた。
「あたしからは詳しいことは言えません。ですけど、きっとあなたの団長様に訊けば、半年前の真実を教えてくれるでしょう」
トーユーズという騎士は、決してこのことだけには嘘はつかない――それを先輩として理解していたからこそ、エルジンは無言で立ち尽くすしかなかった。
「…………貴様は、何て酷い後輩だ……貴様の言っていることが正しければ、俺は許し難い言葉をジュンタ・サクラにぶつけてしまったではないか……」
試合でジュンタにぶつけた言葉をエルジンは思い出す。
リオン様を悲しませている事実は消えなくても、もしも半年前奴が消えた理由が『竜殺し』に関係あるのだとしたら、決してシストラバスの騎士である自分は責めてはいけなかっだ。むしろ讃えるべきだったろう。
「何も知らなかったとはいえ、口にした言葉はもう戻らん。くそっ、俺は……」
エルジンはトーユーズが叱れなかった理由を知り、軽くよろめく。
残った左手で自分の額を押さえると、心底から後悔しているという声を発した。
「いや、ジュンタ・サクラが真実『竜滅紅騎士』ならば……俺たちは間違っていたのか? 新しい息吹にこそ可能性を見た、トーユーズ、貴様が正しかったのか……?」
嬉しいが故の喪失感に、声が震えた。
それはまたトーユーズもかつて味わった喪失感なのか、彼女はゆっくりと首を横に振る。
「いいえ、先輩。先輩は間違ってはいません。そして、きっとあたしも間違ってはいなかった。
どちらも正しかったんです。だってジュンタ君がドラゴンを倒したのは、リオン様のため――まさに『竜滅紅騎士』を目指す、シストラバス家の騎士の誓いと同じ理由だったんですから。
だから、知るべきだと思いました。選ぶのはジュンタ君でも、それでも知って欲しかった。あなたのしたことは、とてもとても素晴らしいことだったっていうことを。……どうやら、唯一と思っていたあたしの道は、唯一ではなかったみたいです」
そう笑ったトーユーズは、エルジンに近付いてその手を取った。
それは感謝の表すための行為であり、彼女の目には涙が浮かんでいた。
その涙と微笑みを見て、『ああ、そうか』と、エルジンは理解した。ただ、順序が逆になっていただけなのだ、と。
その聖句を伝えた少年がドラゴンを倒し『竜滅紅騎士』になったのではなく、ドラゴンを倒し『竜滅紅騎士』となった少年に聖句を伝えたということ。
今ならば、トーユーズの思惑の全てが理解できる。
この先、間違いなくジュンタ・サクラはリオン・シストラバスの隣にいよう。それがどんな形であっても。
トーユーズは前者を与えられた。けど、後者を与えることはできなかった。だから何も語らずに、この試合に生徒を送り出したのだ。
「ジュンタ君はあたしの宝物です。過去現在未来のシストラバスの騎士にとっても、また宝物です。先輩。あたしたちはきっと、どちらも間違ってはいなかった。そこに竜滅姫様への純粋な愛は、確かにあったんですから」
「ならば、教えなければいけなかった。奇跡を続けるために。
そうか……貴様は、俺に夢を叶える瞬間を見せてくれたのか」
気が付けば、エルジンは涙を流していた。
先の試合こそ、シストラバス家の歴史で最も価値ある試合であり、紅き剣の騎士たちの夢が叶った瞬間であり、エルジン・ドルワートルの最後にとってこれ以上ない試合だったのだと。
「そうか。俺は、俺たちは間違っていなかったのか」
守れずに。大切な主君を守れずに、騎士であることに絶望して涙を流したことがあった。
ドラゴンのあまりの恐ろしさに、『竜滅紅騎士』の存在は無理ではないかとすら疑った。けれど、それでも許せなくて自分は騎士団に残り、自分の無力さを初めて知った後輩は騎士団を出た。
それでも互いに変わらずに、心の奥底では望んでいたのだ。
『紅き剣に騎士の名を――――我らは、真の竜滅紅騎士となる』
それを信じて剣を執り、それを誇って戦って、それを誓って託し続けた。
間違っていなかった。誰も間違えてはいなかった。
シストラバスの騎士の悲願は、ここに純粋に竜滅姫を愛した少年によって叶えられたのだ。
今はただ、エルジンは涙する。十年前と同じようにトーユーズと共に、けれど歓喜と幸福の涙を。
「俺に心残りは何もない。最後に俺は、竜滅紅騎士に想いを託すという夢を果たせた。
トーユーズ。あとのことは、お前に託す。俺だけではない、俺が託された全てを、貴様に託す」
「はい。この世の全てが見惚れるぐらい、いついかなる時も格好いい騎士にすることを約束します」
「そうか……ああ、そうか」
しっかりと頷いたトーユーズに満足して、エルジンはリングにもう一度背を向けて歩き出す。
夢は次代に託された。夢を叶えてくれた次代の少年に。
なら、もうエルジン・ドルワートルの戦いは終わったのだ。
だから――――そろそろ新しい戦いを始めよう。
――ただ、深々と頭を下げた。
エリカは待っていた。試合には負けてしまったけれど、本当の勝負には勝った人を。
他の誰かは気付かないけれど、自分だけは気付いている。
だから、せめて自分だけでも勝利を祝ってあげなければ、あまりにも彼が報われない。
「――お父さん」
「エリカ」
五メートルほどの距離を開け、エリカとエルジンは向かい合う。
親子の距離としては少し遠いその場所で、厳つい顔をエルジンは少しだけ恥ずかしそうに緩めた。
「すまないな。折角お前の反対を押し切って出場したというのに、リオン様ではない相手との試合で負けてしまった。馬鹿な父親と思ってくれても構わない」
「そんなことない!」
それこそ馬鹿なことを宣う父親の言葉をエリカは遮り、その胸に飛び込んで叫ぶ。
「そんなことないっ! お父さんは、お父さんは勝ったんだから! 負けてなんてない! 馬鹿なんかじゃない! とってもとっても、とっても格好良かったよ!!」
「エリカ…………そうか、それなら良かった」
背中に大きな手が回され、ギュッと力強く抱きしめられる。大きな胸板には血がついていたけど、そんなことエリカはちっとも気にしなかった。涙を流しながら、ギュッと自分からも強く抱きつく。
「ゴメンね、お父さん。私が悪かったよ。私が間違えてた。お父さんは私のことなんてどうでもいいなんて思ってない。自分のことなんてどうでもいいなんて思ってない。一度誓ったことを果たそうと、ただ、がんばってただけだったのに……私、わたし……ごめんね。本当にごめんね」
「謝ることはない。エリカに心配をかけていることを知っていたのは事実だからな」
喧嘩の原因となっていたことを謝ると、そんないつもとは違う優しい声が返ってきた。
胸に埋めていた顔を離し、エルジンの顔をエリカは見る。そこには娘に申し訳ないと謝る父親の姿があった。
「右腕を失ってからエリカには色々と世話にかけたのに、俺がお前にしたことは心配をかけさせることだけだった。エリカが怒るのも無理はない。すまなかった。俺の方こそ謝ろう」
「お父さん…………うん、それじゃあ喧嘩両成敗だね」
「ああ、そうだな。そうしておこうか」
他の誰かでは見つけられない、自分だけが見つけられる、骨の髄まで騎士であるエルジンの父親としての顔。それを見て、エルジンの気持ちを察してエリカは朗らかに笑った。
とても柔らかい元気な笑顔――見る人を自然に微笑ませる笑顔を見て、エルジンもまた小さく笑う。
「俺の武競祭はこれで終わった。そして、俺の一つの大きな戦いも終わりを告げた。だからエリカ。俺がこれから進みたい道を、進む道を、家族であるお前にまず最初に聞いて欲しい」
「うん、もちろんだよ。私、全力で応援するから」
「ありがとう、エリカ。なら、聞いてくれ。
俺はシストラバスの騎士として、過去より継がれた騎士の意志を継いでいる。その意志を継ぐには、剣を振るうことしかない」
「うん」
「だがな、俺はもう十分に剣を振ったとも、また思う。そして何より、俺はすでに想いを託した。だから俺は、これからは次代を担う騎士たちの教育に回ろうと思う」
「うん………………って、えぇ?! それ本当お父さん!?」
エルジンの言葉に、エリカは驚きの声をもらす。
「エリカは俺を戦闘狂のようにでも思っているのか? 何も俺は、戦っているときがこの世で最も楽しい時間とは思っていない。俺が楽しいと感じるのは、自分が鍛えた剣を、教えを、誇りを、他の誰かに伝えることにこそある」
エルジンは自分が後にした武競祭の会場の方を振り返り、楽しそうな笑みを浮かべる。
それが誰を見ての笑みか、今のが誰に対しての言葉か、エリカは分かってしまった。
「お父さん。もしかして本当は、できればジュンタ君に自分の剣を教えたかったの?」
「むっ? そういうわけではないが……奴が一度騎士となったとき、俺が剣を教える手はずになっていた。ただ、それだけだ。それなのに、奴は何一つとして学ぶことなく……」
どこか拗ねたように悪態尽く父親が、エリカには子供のように見えてしまった。
「べ〜つ〜に〜。なるほど、お父さんってばねぇ。へ〜。ほ〜」
ニヤニヤと笑って、エリカは父親から踊るように離れる。
無言で威圧するようにジュンタを見ていたエルジンだが、その実内心では認め、期待していたということか。今の戦い。もしかしたら自分以外の師を見つけたジュンタに対する恨みも、少しだけ混じっていたのかも知れない。
騎士とはいえ、やはり人間なのだとエリカはクスクス笑う。…………ついでに、ちょっとだけ妄想を。だってこんなに父親がかわいいと思ったことなど、ほとんどない。
「いやぁ、それじゃあお父さん残念だね。ジュンタ君の先生が誰かは知らないけど、お父さんが認めるほどの人じゃ、奪えないかぁ。あ、でもでもいい方法があるかも」
「方法?」
「そっ、方法」
エリカは父親の腕を取り、下から見上げるように囁く。
「私がジュンタ君と結婚なんかしちゃったりにしたら、ほら、やっぱり息子になったジュンタ君を鍛えるのはお父さんの仕事でしょ?」
「なにぃ!?」
「ね、いい考えでしょ? お父さん。自分を超える騎士でなければ結婚は絶対認めないって言ってたけど、その点、ジュンタ君はお父さんもなんだか高くかってるみたいだし。それにジュンタ君優しいしおもしろいし結構強いし…………あ、なんだかとってもいい考えかもって、自分でも思えてきたかも」
割と本気で再びリングへと向かっていこうとしたエルジンを、エリカは涙すら浮かべた笑顔で引き留める。
ちょっと前までの、父親にどうでもいいと思われているなんて馬鹿なことを思っていたエリカ・ドルワートルを、思い切りはたき倒したくなる。
だってエリカ・ドルワートルの父は――偉大なるシストラバスの騎士エルジン・ドルワートルは、こんなにも娘思いの良き父親なのだから。自分のことをどうでもいいなんて、思っているはずがないのだから。
「なんだエリカ? 安心しろ。俺が本気を出せば、あの程度の奴など片手でひねれる」
ギュッと、いつだって大きかった背中のありがたさを今日も確かめて、エリカは笑った。そして何よりも大切な家族に、ごめんなさいよりもふさわしい言葉を贈った。
「お父さん――――大好きだよっ!」
ご苦労様という意味合いも込めて、家族だから贈れる、それは娘であるエリカ・ドルワートルだけの言葉。
エルジンはきょとんとした珍しい顔になって、それからもっと珍しいことに、少年のような表情を浮かべた。
――何の決意もなく、ただ憧れた。
子供だった頃、少年だった頃、それが自分の夢そのものだった。
あの日の胸の高鳴りは、輝きは、未だ色褪せていない。
だから誓おう。今また此処に。
騎士に憧れて騎士になったエルジン・ドルワートルが。
だって間違ってはいなかった。
紅き騎士たちの夢は、理想は、此処に果たされたのだから。