第二話  その名はアルカンシェル




 

 広々とした部屋に長いテーブルが一つ。
 
華美ながらも洗練された空気が漂う中、テーブルの上座に腰掛けた瑞々しくも麗しい少女が上品にカップを傾ける姿は、一枚の絵画のようだった。

リオン・シストラバスは現在、王都レンジャールにある別邸で優雅な食後の一時を過ごしていた。

 
紅茶を飲む仕草でその貴族の位が分かるとさえいわれているほど、紅茶文化が浸透しているグラスベルト王国だが、リオンほど美しく紅茶を飲める少女はそうはいまい。

窓から差し込む春の日差しを受けて輝く紅の髪に、どこか物憂げに細められた紅の瞳。

ほぅ、とため息に近い息を吐き出せば、毅然とした姿の中に、うっとりするような女性としての艶やかさが溢れ出す。この場に男性がいたら、思わず見ほれてしまう姿である。

しかし幸か不幸か部屋には誰もおらず、そして今ティールームに静かにやってきた人間も、また女性であった。


「リオン様、武競祭に参加する騎士団の代表選手の情報が揃え終わりました」


 一人になりたくて人払いをした部屋に入ってきたのは、理知的な空気を漂よわせる佇まいと、涼しげな翠の瞳が印象的なリオン付きのメイド――ユース・アニエースだった。

「あら、もう出ましたの。案外早かったですわね」

 リオンは憂鬱そうな表情をいつもの自信たっぷりな表情に戻し、ユースが持ってきた紙を受け取る。


「早いと申しましても、武競祭まではあと十四日しかありませんから。ある意味ではようやくといった感じでしょうか」

「まぁ、そうかも知れませんわね。さて、一体どこの騎士団の誰が代表選手として参加するのか」


 一枚一枚に詳細なデータが綴られた十枚の紙――それは此度の武競祭において、すでに本戦出場が決定している、各地の騎士団の代表選手名簿であった。シストラバス家から出場する二名をのぞいた、計十人分の今知りうる限りの情報が纏められているのである。

 上から順々にリオンは目を通していく。

一枚、二枚と紙がはねられる度に、その柳眉は顰められ、表情は不機嫌なものへと変わっていく。


「……まったくもって嘆かわしいですわね。どこの騎士団も由緒ある騎士団だというのに、代表選手として送り込んでくるのは最強の騎士ではなく跡取り息子ばかり。王国騎士団も、在籍している中で貴族としての位が高い者を選んでいますわ」


「それも仕方がないでしょう。件が件ですから。ある意味では、リオン様がとても人気があるという証明ですね」

「こんな有象無象に好かれてもまったく嬉しくありませんわ。何人か会ったことのある相手ですけど、騎士道を重んじない貴族ばかりでしたもの。伴侶としては最低……あら? どうしてこの最後の一枚だけはほぼ白紙なんですの?」

 不満気にもきちんと情報を読んでいたリオンの表情が、最後の一枚に差しかかったところで困惑に染まる。


「ああ、それですか」

 先んじて紙に目を通していたユースは、リオンが困惑した理由にすぐに察しがついた。


「ほとんどの騎士団と、その騎士団に在籍する騎士の情報は以前より集められていたのですが、その最後の騎士団はそもそも武術大会への参加が乏しく、情報が少なくなっていまして。その上、まったく知らない騎士が代表となっていますから」


「そう言えば、あそこの家はあまり噂を聞きませんでしたわね。それでも今回は出場してきますの。……あまり気に入りませんわね、そう言う不純な動機でしか動かない手合いは」


 納得顔のリオンは、紅茶のカップを持ち上げつつ、唯一分かっているその騎士団の代表選手の名を口にした。


 まったく知らない、戦うかも知れない相手の名を。


「バーノン伯爵家騎士団代表騎士――アルカンシェル、か」






       ◇◆◇







 それは陽光も燦々と降り注ぐ日中において、しかし夜の闇よりもなお暗い。

 纏うはどす黒く、毒々しい魔力。

負のオーラと言えばしっくりくる、平穏の中の特異点を生み出している漆黒の姿。

その抜群の存在感を生み出しているのは、怨念とか呪詛とか、そういった血なまぐさい戦場の闇。地獄という名の戦場を駆け抜けたことで血とともに受けてしまった、死の影という名の洗礼だった。


 つまり何がいいたいのかというと……ものすごい呪いのアイテムといった感じなんです、この甲冑。

「いやいや、これは無理。絶対無理。付けたら確実に寿命とか生気とか色々なものが吸い取られるって」


「そう言わんと、いっぺん身に付けてみ。武競祭に出るならいい装備も必要やろ」

 草原のど真ん中にドンと置かれたのは、漆黒の鈍い光沢を持つ甲冑だった。


 角々しさのない、執念なまでに磨き上げられた鏡のような表面。

一体いかなる金属で鍛えあげられたのか分からない甲冑は、輝きというものを持っていない。ひたすらに防具としての機能を突き詰めたような、そんな印象を与える。


 およそ全身をくまなく埋めるだろう、足の先から頭の先まで全てを覆う全身甲冑。その全てが黒色であり、唯一色が違うのは、兜の頂点部分から伸びた長い獣の毛だけだ。その色は血のような赤色をしていて、やはりこれまた毒々しい。

 見た目からして悪っぽく、そして雰囲気が尋常なく歪んでいる漆黒の甲冑を前にして、ジュンタは半径五メートル以内に近寄れなかった。


「嫌だ。絶対に嫌だ。これを付けて戦うなんてこと考えられない」

「安心せぇ、ジュンタ。これはものごっつうすっばらしい甲冑なんやで」


 この黒い甲冑の持ち主であり、何ら問題なく草原の上に置かれた甲冑の隣に立つラッシャは、腕を組んで甲冑にまつわる逸話を話し始めた。


「幻の名匠とまで言われた『
名無しの剣匠(ネームレス・スミス)』。彼が今際の際まで鍛えていたっちゅう品がこれなんよ。その最高の防御性能で、今まで身につけた人間は『黒騎士』って称えられるほどの活躍をしたらしいで……まぁ、もう一つ。『戦場の狂戦士』って字も付随して与えられるらしいけど」

「待て。その話のどこに安心できる要素がある?」


 あれほどまでに怨念とかが溢れているというのに、どれだけ鈍感なのか。まったく気にせず甲冑に触れているラッシャは、もしかしたら大物なのかも知れない。いや、もしかしたらこの気配の方が気のせいなのかも……


 ゴクリと息を呑んで、ジュンタは一歩漆黒の甲冑に近付く。

「……ッ!」


 足を踏み出した直後、ピリリとした寒気が全身を支配する。


 本能が危険を訴えてきて、気が付かないうちに数歩後退っていた。


「や、やっぱりそれは無理だ。最強防具というより、呪いのアイテムの類だぞ。絶対」

「えぇ〜? せっかくワイが秘蔵の品を引っ張り出してきてやったっちゅうのに、それはちょい酷いんとちゃう、自分?」


「秘蔵って、つまりは今まで買い手がつかなかった品ってことだろ? とっておきって言うから期待してみれば……というか、どうしてこんないかがわしいものを買ったんだよ?」


「せやかて、相場が金貨四百とか、五百枚とかする『
名無しの剣匠(ネームレス・スミス)』の品なのに、金貨十枚でいいって言われたんやで? こんな掘り出しもん、買わへん方がおかしいやないか」


 サネアツの話によると、この世界の通貨は聖地ラグナアーツが発行している銅貨・銀貨・金貨で成り立っているらしい。


 銅貨一枚が日本円で十円ほど。銅貨百枚で銀貨一枚、銀貨五十枚で金貨一枚となる。

 つまり、金貨一枚は日本円計算で五万円ほどになるわけだ。
 物価そのものが違うだろうが、単純計算で金貨五百枚は二千五百万円。金貨十枚が五十万になるから、掘り出しものといえば掘り出し物か。


(だけどバッタモンくさい。剣匠なのに甲冑なところが特に)


 そう内心でジュンタは思って、スススーと甲冑から離れる。


「せっかくエットーの街を出発したのに、まさかこんな問題が発生するとはな」

 今ジュンタたちがいる場所は、エットーの街から少し街道を進んだ先の草原の真っ只中だった。

 

 今日の早朝、バーノン伯爵家の騎士団が武競祭に参加できる騎士団に選ばれて、その代表選手として本戦に出られることが決まったジュンタ――武競祭の開幕まで時間がないため、終わっていた出発の準備を整えて、一路王都レンジャール目指して、速やかに移動を開始したのである。

 馬車はラッシャが用意したもので、便乗する形でクーとサネアツとともに乗り込んだ。

 午前十時ほどに出発して、約二時間ほどのんびりと移動し、現在はとある問題により一時休憩と相成っているのだった。


 そして、そのとある問題というのが、目の前にある漆黒の甲冑である。

 商人であるラッシャの馬車の荷台には、彼の揃えた商品がたくさん乗せられていた。
 その装飾品やら書物やらの商品と同席することはまったく気にならなかったが、その商品の目玉として、ドンとこの漆黒の甲冑が置かれているとなると話は別だ。


 馬車に乗るときからずっと、毒々しい魔力を放つ甲冑と接近していたのだ。

 ラッシャはまったく気にしていないようだったが、ジュンタは相当居心地が悪かった。サネアツみたいな動物にはさらにダメらしいようで……


(サネアツじゃないが、俺もあと数時間この甲冑と一緒にいたら、気分悪くしてたな)

 現在サネアツは気分を悪くし、甲冑から遠く離れた草原の中で日光浴をしている。馬車酔いではなく、原因が甲冑にあるのはいうまでもない。

 魔法使いのクーもやはり気分が悪そうにしていたが、馬車を停めて甲冑から離れると元気になった。今では昼食を少し離れた場所で作っている。


 そしてジュンタに二人から無言で任されたのは、どうにかしてこの先甲冑と同席しないといけない状況を打破するという使命だった。

 と言っても、何をどうするなんて思いつかないため、唯一元気なラッシャと話し合っているわけである。いつのまにか、何やら甲冑の装備と購入を勧められている運びになっているが。


「ラッシャ。悪いことはいわないから、それここに置いていかないか?」

「何いうてんねん。そんなことできるわけないやろ? ただでさえ新しい馬と馬車の購入で、今までコツコツと貯めてきた貯金がスッカラカンなんやから」
 

「そうは言ってもなぁ。ここから王都までは三日近くかかるんだろ? その間その甲冑の隣にいたら、確実にサネアツとクーが病気になる。いや、多分俺も」


 そうなったら、きっとサネアツやクーあたりが甲冑の破壊に乗り出すに違いない。前者は自分のために。後者は他の誰かのために。

 しかしラッシャの言うことも、また分かる。お金は大事。自分の物を捨てろと言われて、捨てられるような奴はそうそういない。鍋で何やら調理しているクーを見るラッシャは、一応は悩んでくれている様子だが無理だろう。

「……仕方ない。こうなったらラッシャ、物々交換といこうじゃないか」

「物々交換?」


「ああ、ちょっと待っててくれ」


 ジュンタは少し考えてから、仕方ないと決断して、馬車へと自分の荷物を取りに歩いていく。

 馬車の中はずっと甲冑が置かれていたからだろう、どことなく空気が澱んでいる気がする。その中から元の世界から持ってきたリュックを引っ張り出し、それを手にラッシャのところまで戻る。


「お金は全然持ってないけどな、取りあえず金目になりそうなものは持ってる。だからそれと、その甲冑を物々交換するってのはどうだ?」


「それで交換して自分の物になった暁には、この場に置いて行くっちゅうわけか。それならワイにも損はないし、ジュンタたちも助かるっちゅうわけやな。よっしゃ、その話乗らせてもらうわ」

 商人としての血が騒ぐのか、うきうきとした感じでジュンタの申し出をラッシャは承諾した。


「よし、それじゃあ取り出すからちょっと待っててくれ」

 ジュンタはリュックの中から、適当に金目になりそうなものを取り出し始める。

 さて、それでは精々足下を見られないようにしようか。






 ――その数分後、取引は円滑に終了した。

「へぇ〜、こんなちっこいのが『時計』かぁ。砂時計はもちろん、貴族がつこてる懐中時計よりもちっこいくせになぁ」


「公転周期は違うっぽいけど自転周期は同じっぽいし。文字盤が読めないだろうけど、上が十二時。下が六時って覚えておいて、売る時に説明すれば大丈夫だろ」

 ジュンタが漆黒の甲冑の代わりにラッシャに渡した品は、何の変哲もない腕時計だった。

 しかしここは異世界であり、腕時計は元の世界の品物。たとえ一個数千円ほどのソーラー電池式の腕時計でも、この世界での換金価値は計り知れないものがある。

この世界の時計は砂時計か日時計。金持ちの貴族でも少し大きめの懐中時計なのだから、正直金貨十枚以上の価値はあると思われる。

まぁ、相手がラッシャだし、馬車に乗せてもらっているのもある。それにグストの村の一件での感謝の念も合わせれば、別にもったいないとは思わない取引だった。向こうの実篤も換金価値を理解して、たくさん揃えておいてくれたようで、十数個まだ残っていた。

「さて――


 しきりに感心して腕時計を眺めるラッシャから、ジュンタは視線を甲冑へと移す。

 名実ともに自分の物になった、呪われた甲冑。
 当初はここに置いていけばいいと思ったが、後々何か事件を巻き起こしてしまう可能性大である。


 ここは破壊をしておくべきか――そう考えて、ジュンタは腰に括り付けた鞘から片刃の剣を抜く。


「それじゃあ、ご飯ができるまで、剣の試し切りにでも使うかな」

 防御力だけを見れば一級品であるというのなら、剣の試し切りには最適ではないか。


 正眼に剣を構えて、ジュンタは漆黒の甲冑相手に訓練することを決めた。武競祭までに、少しでも強くなっておかなければならない。

 手に吸い付くような、『英雄種(ヤドリギ)』の剣へと虹色の光を通していく。

魔獣たちの戦いを通して、この虹の力を使う感覚にも慣れたものだった。

 元から軽かった剣から重さというものが消失し、まるで腕の延長であるかのように錯覚する。いや、錯覚ではない。振るおうと思えば、真実腕の延長のように動いた。


「では――――はぁッ!」

気合いを入れて、ジュンタは正眼から一気に剣を振り上げ、甲冑めがけて振り下ろす。

自分だけが見える虹色の光が円を描いて、滑らかな動きで甲冑に叩き付けられる。その結果――


「え?」

 バチリと虹色の光がスパークし、それに呼応するように甲冑の毒々しい魔力が膨れあがった。

 それは互いに相乗効果を起こして、何倍にも魔力の規模を高めていく。

 甲冑へと打ち込んだジュンタを中心に、直後魔力の風が激しく吹き荒れた。


「おわっ、なんやなんや! うぎゃぁー!」

 近くにいたラッシャが魔力の風に足下を掬われ、思い切り吹き飛ばされた。
 地面に激突して気絶するも、それでも商品となった腕時計だけは絶対離さない。ラッシャは根っからの商人なのである。

「ご主人様っ!」

 昼食を作っていたクーが、いきなりの異変に慌てて駆け寄ってくるのが見えた。


「くそっ! 何が起きたんだよっ!」


 雷気を孕んだ風のただ中でジュンタは焦っていた。

 剣が甲冑から離れないのである。
 まるで強力な磁石によってくっついているみたいに、甲冑から離れない。もしかしたら本当に、磁力ではなく魔力同士が引き合って磁石のように離れないのかも知れない。

 混じり合うジュンタの魔力と、甲冑が纏っていた魔力。


 吹き荒れる魔力の風の色が無色から虹色へと変化していったが、やがてスパーク現象もおさまり、風も規模を小さくしていった。

 風は草原を吹き抜ける風のように小さくなり、ついには消え失せる。

 その時には、剣を甲冑から離すことができた。今までが嘘のようにすっぱりと。

 ジュンタは尻餅をつくように地面の上にへたり込み、未だ微かに虹色の輝きを見せる飾り気のない自分の剣を見る。


「……一体何だったんだ、今のは?」

「ご主人様、大丈夫ですか! 怪我はありませんか!?」


 風のせいで近寄れなかったクーが滑り込むように隣に座り込んで、オロオロとジュンタの全身を確認する。一通り確認して、クーは怪我がないことに安堵の吐息をついた。

「怪我はされてないようで良かったです。……でも今のは一体何だったんですか? ご主人様の魔力が吹き荒れたようでしたが?」

「いや、俺にも何が何だか……」

 魔法使いらしく、魔力に機敏に反応したクーが尋ねてくるも、その答えが聞きたいのはこちらの方である。

 立ち上がり、クーを助け起こしてから、ジュンタは甲冑を改めて観察する。

 剣の一撃に傷一つ負っていない、無骨な輝きを放つ甲冑。

 不思議なことに、手が届く範囲に近寄っても、さっきまであった嫌悪感はほとんど感じられなかった。以前と変わらず、毒々しい魔力は健在であるのに、だ。

「……ご主人様、あまりこの甲冑の傍には寄らない方がいいですよ。この甲冑は、その、とても気持ちが悪いですので」

 ただクーなどは、変わらず甲冑の近くにいるのは苦しいらしい。

 口元を抑えて、しきりにクーはジュンタを甲冑から離そうとしていた。


「ジュンタ! 今のはなんだ!?」

 不思議な現象を訝しんで、クーと二人でもの申さぬ黒い甲冑を観察していると、草原の向こうから今度はサネアツがやってきた。

「サネアツ。いや、俺にもさっぱりだ。俺がこの甲冑で試し切りしたら、いきなりあれだ」


「そうなのか? ……ふむ。共鳴現象に近かったように俺には思えたのだが」

「共鳴現象?」


 肩の上に乗ってきて、サネアツはジロジロと甲冑を観察するのに忙しいようだった。だから代わりに、クーがジュンタの質問に答えた。


「共鳴現象とは、強大な魔力の衝突で起こることがある現象です。強大な魔力が相手の魔力に反発や融合を起こし、魔力の暴走を引き起こしたり、爆発を起こしたり、相手の魔力を吸収したりする現象ですね。魔法同士がぶつかり合うと爆発することがあるのはこれが原因なんですが、滅多に共鳴反応なんて起こらないはずなんですけど……」

「相反する魔力同士なら反発を、似た魔力同士なら融合を引き起こすが、様々な条件が合致しないと起きるものではないからな。さっきの共鳴現象は融合による魔力の暴走。恐らくはこの甲冑の魔力とジュンタの魔力の性質が非常に似通っていて、尚かつ互いに干渉しあった所為で起きたのだろうな」

「俺の魔力と、この呪いのアイテムの魔力が……なんか嫌だな」


 毒々しくて、怨念じみた呪詛の魔力と自分の持つ魔力が同じ。悲しくなる真実である。


「しかし、ジュンタはかなりレアな魔力性質だぞ。それなのに連鎖反応を起こすとは……いや、まさか」

「サネアツ?」


 ぶつぶつと何かしらを耳元で呟き始め、サネアツはニヤリと笑みを作った。


「なるほどな。そう言うことか。ジュンタ、この甲冑は思わぬ掘り出し物かも知れんぞ」


「どういうことだよ? ラッシャは確か、『
名無しの剣匠(ネームレス・スミス)』の最後の作品って説明してたけど」


「五大名匠の一人、『
名無しの剣匠(ネームレス・スミス)』か。納得した。彼ならばこの素材を手に入れていてもおかしくはない」


「素材?」


「ああ、そうとも。よく見ろジュンタ。この甲冑の表面、確かによく磨かれていて金属のように見えるが、よく見てみると金属ではないぞ」


 肉球で目の前の甲冑を指差すサネアツの指示に従って、ジュンタは顔を甲冑の表面に近づける。

 摩擦係数がどれだけ低いのかと思われる甲冑の表面を、今は特に嫌悪はないために指でなぞってみる。ツルリとした感触は金属に近く、軽く叩いても鳴るのは金属音だ。

「……分からないな。金属じゃないんだったら、一体なんだって言うんだ?」

「分からないか。これはな、魔獣の鱗から作られた甲冑だ。それも並の魔獣ではない。厄災と恐れられた、恐るべき魔獣のな」

「それってまさかドラゴンですか!?」


 ジュンタに代わって驚きの声をあげたのはクーだった。


 終わりの魔獣(ドラゴン)――それはこの異世界における最強の生物。悪の象徴たる魔獣の王。

 思い返してみれば、確かにドラゴンの鱗はこの世のどんな物よりも堅いという話だし、黒かった。あれを丹念に磨けば、このように金属と似た感じになるかも知れない。

「『竜の鱗鎧(ドラゴンスケイル)――おおよそ、この世の防具の中で最も頑丈で、凶悪な力を持つ防具の一つだよ、これは。呪いのような魔力にもこれで説明がつく」


「え? でも、そんなドラゴンの魔力を持つ鎧と、どうしてご主人様の魔力が共鳴したんですか? 使徒様の魔力がドラゴンなどと一緒なはずがありませんし……あ、先程のは反発したことによる共鳴現象だったんですね。それなら納得です」

(そういや、クーには俺の神獣の姿がドラゴンだって教えてなかったっけ)

 使徒と呼ばれる存在の本質は、獣の姿――神獣である。

 

 使徒それぞれに自分だけの神獣の姿があり、使徒であるジュンタの神獣としての姿は、他でもないドラゴンだった。以前一度だけ変身したことがあり、それを考えると、ドラゴンと同じ魔力を持つという漆黒の甲冑――竜の鱗鎧(ドラゴンスケイル)』と共鳴反応を起こしたのも頷けるというものだ。

勘違いして一人納得しているクーには、また暇を見つけて自分とドラゴンとの関係を話すとして、

「サネアツ。つまりこの甲冑は、甲冑としては最高峰の物だってことでいいんだよな?」


 今はこの甲冑のことだろう。

「そういうことになるな。『竜の鱗鎧(ドラゴンスケイル)』はその強固さに加え、ドラゴンの『侵蝕』の魔力性質を有している。対魔法防御、物理防御、耐火耐水耐冷とすこぶる完璧なのだ。
 
武競祭に出る際の防具として、これ以上の物は探しても見つからないだろうな。完全に姿を隠せるところも俺の秘密計か……ゲフンゲフン。戦略的にも良さ気だ」

「ちょ、ちょっと待ってくださいサネアツさん! こんな危険な甲冑を、ご主人様に身につけてもらうっていうんですか? 無茶です無理です不可能です! ご主人様の繊細な肌がアレルギーを起こしてしまいますよっ!」


「いやクーよ。さすがにそれはないからね。……しかし、武競祭の防具にこれを、ねぇ」

 反対するクーの気持ちもジュンタにはよく分かった。


 今でこそ拒否反応はないが、この呪われた甲冑を身につけるには勇気が必要だ。あと何か犠牲も。

 しかし、ただでさえ力不足の自分が武競祭で勝ち抜くには、いい武器と防具に頼らざるがえないのも事実。重さは『虹』があるから何とかなるし、甲冑の大きさも結構合っているから、装着できないことはないだろう。


「ドラゴンなんて野蛮で最悪な害虫だったものから作った鎧なんて、ご主人様にふさわしくありません! ご主人様にはもっとこう、輝くような白い甲冑とかがお似合いなんですっ」


「しかし『竜の鱗鎧(ドラゴンスケイル)』を、特に何のペナルティもなくつけられるのはジュンタを置いて他にはいないだろう。まさにこれこそ運命的な出会い。俺としても白よりも黒の方が展開的におもしろくなりそうな予感がするしな。
 よ〜く想像してみるがいい、クーヴェルシェン。ひとまず魔力のことは置いておいて、この黒い甲冑を身に纏った、雄々しいジュンタの姿を」

「それは…………た、確かにいいかも知れませんね。い、いえ! でもドラゴンなんて、やっぱりご主人様にはふさわしくありません!」


 肩の上に乗り続けているサネアツめがけて、反対反対とクーが言う。

 彼女の言葉を理解した上で、サネアツはジュンタに決断を託した。


「そうクーヴェルシェンは言っているが、どうするジュンタ? どちらにしろ防具は揃えるつもりだったのだ。ならば、ここで最高の防具を手に入れた方が俺はいいと思うが?」

「最高の防具、か。俺は……」

幻の刀匠が、その生涯を賭して作ったという『竜の鱗鎧(ドラゴンスケイル)

 ジュンタは静かに佇む漆黒の甲冑を見て――――そして決断した。






       ◇◆◇







 休憩を繰り返しながら、約三日の行程を費やして、ようやく馬車は王都レンジャールのすぐ近くまで辿り着いた。


 御者席に座って、先程から歌を大熱唱しているのはラッシャだ。
 二頭のちょっとバテ気味の馬を労りながら手綱を握っている。その歌唱力はジュンタに比べてみればそこそこうまい。

他の面々は商品とともに荷台にいるのだが、荷台の中は静まりかえっていた。

その理由は簡単で、クーヴェルシェンが瞼を閉じ、お昼寝の真っ最中だからだ。

クーヴェルシェンを起こさないよう小さな声で、サネアツはジュンタと会話していた。


「しかし、結局慣れるもんなんだな」

 ジュンタは自分の太股を枕にして、あどけない寝顔を見せているクーヴェルシェンの長い金髪を指ですきながら、少し前に座ったこちらに話しかけてくる。

「クーヴェルシェンに言わせてみれば、『たとえどれほど嫌悪すべき物でも、中身がご主人様ならとっても素晴らしいものになるのです』とのことだがな」


「それで実際誤魔化せてるんだからすごいよな、ほんと」

 ジュンタは苦笑して、クーヴェルシェンを撫でる方とは逆の手をマジマジと見やった。


 そこにあるのは、竜の鱗から作られた漆黒のガントレット。

指先まで覆う形で作られた手甲は、サネアツには見えないが淡い虹色の光に包まれ、金属質でありながらも滑らかに動くらしい。重さも感じられないのだとか。

それは他の箇所も同じ。全身鎧の甲冑は、ジュンタの指先から足先まで全てを覆い隠しており、兜も口元と目だけを外にのぞかせているだけで、正体を知らぬ第三者では、彼がジュンタであることはまず分からないだろう。


「『
竜の鱗鎧(ドラゴンスケイル)』はどうやら、嫌味なまでにジュンタの身体に馴染んでいるようだな」

「結局、最高の防御を誇る鎧を見逃せるはずもないからな。クーの反対を押し切ってまでつけたんだ。馴染んでくれないと困るってもんだけど、何か微妙な心境だ」

ジュンタが馬車の中でも甲冑を身につけているのは、外していると自分やクーヴェルシェンの気分が悪くなるからだった。

 彼が付けていると――正確には『虹』で甲冑を覆っていると魔力が混ざり気分を害することはないので、付けていてもらうしかないのである。現にサネアツは初日以降、調子を悪くしてはいなかった。

実際に装着してみたら、反対していたクーヴェルシェンにも好評で――彼女に好評でないわけがないが――膝枕なんかをしても起きないぐらい馴染まれている。


「不思議な感覚だよなぁ。最初見たときは気持ち悪い感覚だったのに、今は服よりもしっくり来る」

「使徒の本質は神獣の姿。今でこそ人の形だが、ジュンタはやはりドラゴンなのだ。

甲冑に姿を変えたとはいえ、元々はドラゴンの身体の一部。馴染むのも当然だろう。魔力が同調しているというのもあるだろうが」

 ジュンタの疑問にサネアツは説明を入れると同時に、訊いておくべきことを思い出した。

「ジュンタ。お前は確か、今は神獣の姿にはなれないのだったな?」


「ああ。そもそもどうやればなれるのかが分からないからな。最初になったときも無我夢中で、よく覚えてないし……ピンチに陥った時は多々あっても、その全てでドラゴンになるなんてことはなかった。何か特殊な方法が必要なんじゃないかって結論が、すでに俺の中では出てる」


「そうか……しかしそれでも、魔力量は使徒のものであり、性質はドラゴンのものの用だな。俺もこの世界にいる間色々と調べてみたのだが、ジュンタの『虹』の力。それはどうやら、ドラゴンのみが持つという『侵蝕』の魔力性質による作用のようだ」

「『侵蝕』の魔力性質? ……いや、そもそも魔力性質って何だ?」


「そこから説明しなければならなかったか。良かろう、教えてやろうではないか」

「どうやら新しい知識を得たのに、話せる相手もいなくてフラストレーションが溜まってたみたいだな。仕方ない、聞いてやる」

 さすがはジュンタ。こちらの言葉を見事翻訳して、教えてもらう立場なのに対等になっている。
 図星なので下手に反論もできない。あと見た目が真っ黒なので、妙に悪っぽいのが非常に後々の期待を膨らませる。

「まぁ、聞いて損はない話で、何とも心をくすぐる話でもあるからな。
 では説明だ。
魔力性質とは個々人における、魔力の属性のことをいう。本来魔力とは無色であり、魔法とはそこに火、水、地、風、雷、氷の、属性という名の色をつけたもののことを指す」


 魔法については素人なジュンタに、サネアツは嬉々として説明する。


「それぞれ火なら赤、水なら青、地は茶で風は緑。稀少属性の雷は黄で、氷は白という色を持っている。現在ではこの六色の魔法の属性を『魔法属性』。あるいは『魔法系統』と呼んでいる」


「六つの色か……じゃあ、俺の虹色は何なんだ?」

「俺にもそれが分からんのだ。感じからするとジュンタが『雷』の魔法属性なのは間違いないが、それなら黄色の魔法光が出るはずだ。それなのに虹色……聞けば本来無色であるはずの魔力そのものが、ジュンタの場合は虹色をしているというではないか」


「俺自身はよく分かんないんだけど、確かクーはそう言ってた気がする。なぁ、俺の他に六つの色以外の魔法光を持つ奴っていないのか? 他の使徒とかさ」

 そう訊かれて、サネアツはちょっとドキリとした。


 実際問題、サネアツは知っていた。ジュンタ以外に虹色の魔力を有する、使徒の存在を。だが、言わない。繋がりの確証もないまま、これは言うべき事柄ではない。

「……どうだろうな。過去、そう言うことがあったという話は聞くが、実際のところは分かっていない。まぁ、特に気にする必要はあるまい。
 
説明に戻るぞ。魔法属性は操れる魔法の属性であり、そして魔力性質とは、色が付く前の無色の状態の時点ですでに備わっている、根元的な魔力の性質のことを指す」

魔法を使うために必要な生命力である『魔力』――これは魔法のための属性へと変換されない場合、無色の状態、つまりは不可視なのである。

ジュンタの場合はこれが虹色であるが、魔力そのものを運用している状態では、ジュンタ以外の目には不可視なので、ある意味では無色と言えなくもない。

「魔力は人それぞれで微妙に異なっている。これは魔力性質が人それぞれで異なっているからだ。大別的に分けているため、同じ性質と呼ぶことこそあれ、完全に同一のものは存在しないとされる。魔力性質は個々の存在を分ける、まぁ、言ってしまえば魂の形か」


「それが俺の場合は『侵蝕』の魔力性質なのか?」

「そうだ。ただ、どうやらジュンタは『二重性質』――先天的な性質に加え、後天的に二つ目の魔力性質を得た魔力性質持ちであるようだがな。佐倉純太という人間に元々あった『加速』の魔力性質に加え、使徒になった時に『侵蝕』の魔力性質を得たのだろう」


「あ〜、纏めると俺は雷の魔法属性で、『加速』と『侵蝕』の魔力性質ってことになるのか。

……それは分かったけど、それが一体どういう意味合いを持っているのかが、俺には分からん」

 半年みっちり学んだ自分とは違い、ジュンタは魔法の魔の字を知ったのがこの間のこと。難しいことをいきなり言われても理解しづらいか。


「そうだな。つまり魔法は魔法属性で大別的に六つに分けられ、その中でも魔力性質ごとに微妙に異なる変化を生む。魔法属性と魔力性質によって魔法が決定される、と言えば分かるか?」


「つまりは俺の『虹』――攻撃を軽減したり、魔法を解呪したり、質量を感じなくなる力は魔法の一種だってことか? これ、使徒が持ってるっていう特異能力――俺の特異能力の恩恵じゃなかったんだな。てっきり俺はそうだと考えてたんだけど」

「違うな。ジュンタの魂の力ではなく、ドラゴンの使徒であるが故の力だ。

ドラゴンを人が倒せない要因になっている『侵蝕』の魔力は、高密度の魔力を体内と体外に流して、他者へと干渉をし、他者からの干渉を阻む力がある。ジュンタの虹は、それを弱体化させたものなのだろう。正しくそれはドラゴンの力だ」

 本来のドラゴンの『侵蝕』は、質量の消失だけではなく、そもそも攻撃の消失や概念の消失まで行うが、人間の状態では、ジュンタは完全には使えていないようである。甲冑を軽量化するために常時使っている『侵蝕の虹』を見ながらも、ジュンタはいまいち実感が沸かないようだった。

「言っておくが――


 サネアツが自覚を促すために呆れを視線に乗せ、


――常時、俺命名『侵蝕の虹』を使っていても平気なのも、また使徒としての法外な魔力量のお陰なのだぞ?」


「そうなのか? そっちは少し実感あるが」

「普通の人間を一として、普通の魔法使いの魔力量が百ぐらい。高位の魔法使いは千で、魔法に長けたエルフの凄腕は万の魔力を持つ。そして使徒やドラゴンの魔力量は常人の百万倍だ」

「そ、そんなになのか?」

 さすがにジュンタも、この情報には驚いたようだった。

 魔法に長けたエルフにはクーヴェルシェンが該当する。ジュンタは彼女の魔法行使の凄まじさをその眼で見ているので、自分の魔力量の多さには実感が沸いたのだろう。


「使徒、ね。色々とすごいのは分かった。でも、この『虹』が俺の特異能力じゃないなら、俺の特異能力ってなんなんだ? それが全ての原因なわけで……なぁ、サネアツ。お前は知ってるか?」

「ジュンタの特異能力か……」

 サネアツは知っていた。ジュンタ・サクラという少年の持つ特異能力――全てに至る才(オールジーニアス)】のあまりの異常さを。


(ジュンタは使徒に特異能力があることは知っていても、自分の特異能力を知らない。それはつまり、向こうの俺もリトルマザーも教えなかったということ。俺はともかくリトルマザーが教えなかった理由は謎だが、まぁいい。どちらにしろ、知らないのならこれだけは教えるべきではないことだ)

 力とは知らなければ、十全の力を発揮しないものだ。
 特にジュンタの特異能力は、無自覚と自覚があるのでは、その効力に雲泥の差がある。自覚があるからと言って自由に使えるようなものではないが。


 ともかく、サネアツには教えることができなかった。強すぎる才能とは、未来すら決めてしまう。自分はジュンタの自由な未来に惚れ込んでいるのだ。そんな真似はできるはずもない。

「……すまないな、ジュンタ。俺も詳しいことは知らないのだよ」

「そっか。いや、気にするな。俺が本当に持ってるなら、いつかきっと分かるだろうし、これまでなくてもやってこれたんだから。これからだって、なくたって平気だろ」

「そうとも。ジュンタには俺がいる。クーヴェルシェンも力を貸してくれることだろう。何の問題もない。我々こそが最強だ」

「最強だってことは今回のオラクルもクリアしちゃうってことだけどな。第三のオラクル『雌雄決す場にて頂きに立つ』……一つこっちにも疑問があるんだけど、サネアツは俺の第二のオラクル『陸空の王への名乗り』についてどう思う?」


「どう思うとはどういうことだ?」

 少しだけスリットの奥の瞳を不安げに揺らしたジュンタが、じっと見つめてきた。

「俺の最初のオラクル『竜殺し』は、俺でも分かる最悪な試練だった。なのに、第二のオラクルの難易度はそれよりも下だ。いや、それでも難しいのには変わりないけど。……普通は最初より、二番目の方が難易度はあがるもんだろ? オラクルを考えてるのがマザーなら、お前は一体あいつが何を考えているんだと思う?」


「そう言うことか。当事者だ。気にせずにはいられないだろうな」

 これもまた、ジュンタの【全てに至る才(オールジーニアス)】から鑑みれば、分かりやすいほどに当然と言えるのだが、もちろんジュンタはそれを知らない。知ってはいけない。

「十のオラクルを以て新人類へとシフトする使徒。オラクルとはな、肉体的精神的の試練ではあるが、それより何より『魂の試練』なのだ」


「魂の試練? 魂を鍛えることに何の意味があるの……特異能力か」

「その通りだ。オラクルの達成はそのまま、使徒の持つ特異能力のアップに繋がる。そして魂の成長とは在り方の成長であり、試練内容での肉体と精神への負荷の大小では、魂への負荷は測れない。

情報によるとこれまでの使徒のオラクルは、一番目と五番目、八番目と最後の十番目がクリアしにくく、後は段階的にクリアすることが可能となっているようだ」

 あまりオラクルのことさえ知られていないのに、この情報を集めるのには苦労した。にゃんにゃんネットワークの面目躍如というところである。

「並の使徒は大抵が七番目のオラクルまでで終わる。『始祖姫』は九番目まで達成したと言われているな。オラクルの内容は使徒個々人によって違うが、この難しいと言われている段階に達したときのクリアのしにくさは同様のようだ」

「つまり二番目より一番目の方が難しいのは当然だってことか?」

「と言うよりは、何事にも段階があるということだな。
 ジュンタの魂に根付くモノ――本質と言い換えてもいいものはドラゴンだ。オラクルの一番最初に必要なのは、つまりは本質の自覚にあるのだと俺は思う。ドラゴンという本質を見つめさせるのならば、なるほど、一番簡単なのはドラゴンを敵としてぶつけることだろうよ」


「それじゃあ、二番目のオラクルは?」

「これもまた本質の自覚か。一番目がドラゴンそのものを知ることならば、二番目はドラゴンの在り方を知ることといえよう」

 サネアツは自分でも少し考えてみた仮説をあげる。

「ドラゴンこそが魔獣の王。二番目のオラクル『陸空の王への名乗り』ということは、つまるところ、自分こそが本当の王であるという名乗りに他ならない。ジュンタに、我は凡百の魔獣などよりも遙かに強いドラゴンである、という自覚を強めさせるための試練だったのかもしれん」

 説明を進めるたびに、ジュンタの顔色が悪くなっていく。

 それも仕方がないか。一番目はともかく、二番目は無自覚の上で達成していたのだ。まるでマザーの筋書きに踊っているようで気持ちが悪いに違いない。


「……なら三番目は、俺に勝者の愉悦を覚えさせるため、とか?」


「あるいは単純に強くさせること、勝利への欲求を持たせることこそがその理由かもしれんな。
 もっとも、これまでの説明は全て俺の仮説でしかない。俺がアドバイスとするのは、『そんなことは深く考えずに、自分の好きなようにやれ』ということか」

 心からのその考えを伝えると、ジュンタはどこか呆れたように苦笑した。

「なんだそれ。マザーの筋書きとかは考えるなってことか?」


「小説を自分で書いてみれば分かる。登場人物は勝手に動くのだ。作者は書いているようで、実は登場人物に書かされているだけなのかも知れない。つまりは盛大に暴れて、物語をジュンタ色に染め上げてしまえ、ということだな」

 そう、全ては考えるだけ無駄なこと。ここで生きる自分たちは、この自分たちが抱く目の前への望みを、ただ叶えるために前へと進むだけなのだ。


 ジュンタは呆れたような納得したような、何とも言えない笑みを口元に浮かべて、「そっか」と一言だけ呟いた。

 

(ふ〜む。ジュンタの奴も、やはり故郷で色々あったということか。前のような行き当たりばったりなのが、少しだけ考える方へと変わっているようだな)


 この考えをサネアツが学んだのは、そもそもジュンタの生き方を見たからである。

 いつだって考えず、準備せずに歩いていく。突き当たった問題にはその場その場で考えて、そしていつの間にか色々なものを巻き込んで突破する。それがサネアツの幼なじみだった。


(さてさて、これでリオンの奴と再会したら、ジュンタはさらにおもしろいことになりそうだな)

 
 クククと含み笑いをしてから、サネアツは話を武競祭のことに戻す。


「まぁ、今一番に考えるべきは武競祭のことだな。現状でのジュンタの武器は、どんな武器や防具を身につけても重さがないように動けることと、膨大な魔力を使った捨て身アタックだけなのだからな。勝つためには、少しくらいは自分の力について理解をしておかねばいけないだろう」


「理解しても使えなきゃ意味ないけどな。はぁ……なんだか武競祭で優勝できるような気になったような、できないような気になったような」

 色々と策を講じても、結局、最後は剣の腕を競うことになる。


 最高の甲冑と希有な剣を揃えてはいるが、使っているのがド素人では、どこまで食らいついていけるか。やはり、あと十数日でどれだけジュンタが強くなれるかが、勝負の鍵となるのは間違いない。


「サネアツ。レンジャールに剣術を教えてくれそうな知り合いがいるって言ってたけど、大丈夫なんだろうな?」

 剣の腕を鍛えるには、強い剣士の師匠が必要だ。
 サネアツはジュンタが教えをこうべき素晴らしく強き騎士と、この半年の間で既知の仲になっていた。


「安心しろ。とびきりの先生を紹介すると確約しよう」

「その安心が怖い。お前のとびきりは、いつだっておかしな方向にもとびきりだからな」

「失敬な。この俺の類友だ。それがとびきりナチュラルなワンダフルでないわけがなかろう?」

 恐らくジュンタも、出会った瞬間に理解することだろう。リオン・シストラバスよりも遙かな高みに身を置く、あの女傑の強さの片鱗を。

「その前についたらまず、宿の確保と武競祭への登録が先だな。師匠の紹介は明日にでもするとしよう」


 ピョンと、サネアツはジュンタの肩の上から飛び降りる。
 そして馬車から、ラッシャがいる御者席へと小さな身体を活かして出て行った。


「クー。ほら起きろ。どうやら着くみたいだぞ」


「ん、ふぁ? …………もう、着いたんですか……?」

こちらの行動の意味を悟り、ジュンタはクーを起こしたようだった。


「おう、サネっち。もうすぐ我らがグラスベルト王国の王都――レンジャールに到着やで」


「うにゃ〜」


 吹く風にそよそよと髭を揺らしながら、サネアツはじっと前を見つめる。あるいは、空の夕焼け色よりも鮮やかな髪と瞳を持つ、そこにいるだろう少女のことを考える。

(さて、俺と同じく半年待っていたのだ。ある程度の再会の舞台は演出してやろうか。ということは、今回も俺は舞台裏が基本だな)

 ジュンタも楽しむのだから、精々自分も楽しもう。この誰にとっても特別になるだろうお祭りを。

(だとするなら、ゴッゾ・シストラバス率いる『秘密騎士団』が相手か……相手にとって不足はない。にゃんにゃんネットワークフル回転だ)

 馬車の先。エットーの街とも全然違う、大きなお城と城壁に囲まれた城下町。


 武競祭の開幕場所――グラスベルト王国王都レンジャールが、そこにはあった。







      ◇◆◇







 清澄な空気が支配する、夜のフェニキアス城。


 古城として霊的な意味でも、建造的な意味でも強固なる城であるグラスベルト王国の王城には、今宵も特別な席が用意されていた。

 その席こそ、武競祭本戦への出場権に他ならない。


 予選を経らなければ埋まらない二十の席とは別に存在する、特例な十二の椅子――
その席はすでに、今日まで城にやって来た各騎士団の選手により十までが埋まっており、残る席はあと二つ。

 受付終了は武競祭が開催される十日前まで。まだ日にち的に時間こそあるものの、今宵受付係として詰めていた騎士には期待感があった。


 およそ質素倹約に努めるべき騎士を出迎えるにはふさわしくない、華美な装飾が施された内装を誇る一室。机も無駄に豪華であり、製紙技術が発達しているというのに、使われている受付の紙は羊皮紙だ。

 それも仕方がないか。出迎える相手はみんな、名門騎士団の代表で、貴族ばかりである。王城前に現在作られている、一般参加の受付に比べたら天と地ほどの差もあるのは当然といえよう。

 しかしその華美さも、今日だけは足りないと思えてしまうから不思議だった。


 名高い騎士の姫君を出迎えるべきなのは、玉座の間ぐらいはないといけないとさえ思えてしまう。遠目から見たことがあるだけの騎士でもそう思えるくらい、今夜受け付けをしにやってくると思しき相手は、貴き御方なのだ。

 ――シストラバス家の代表選手の一人が、昼間登録をしにやってきた。


 今日の昼間に受付に詰めていた騎士は、興奮しながらそう教えてくれた。
 さらにその騎士は、やってきた赤い鎧の男性騎士から頼まれて、『今夜もう一人のシストラバス家の代表選手も来る』という伝言も伝えてくれた。

 
 武競祭に参加するシストラバス家の代表選手は、王国騎士団の同じく二名だ。


 そして昼間やってきた選手が男性ならば、残った選手は必然的に噂のあの人ということになる。騎士の一人として、緊張するな、期待するなという方が無理な話だ。


 でも、ちょっとだけ緊張と期待に混じらせて、受付係の騎士は不安も覚えていた。

「まだかなぁ。もうすぐ俺の受付時間終わっちゃうよ」


 暇な受付の任務時間は、一人四時間までと良心的な時間設定になっている。

 今日だけはその優しさが辛い。騎士はすでに三時間と三十分ほど、誰も来ない受付で一人寂しく待っていた。


 残り三十分。その時間の間に来るか来ないかで、明日自慢できる立場かされる立場かが変わる。

「使徒様。どうか私の願いを神へとお伝えください」


 とっても会いたいんです、憧れなんです――そんな気持ちを込めて、静かな部屋で騎士は祈る。

 果たして、その願いは叶うことになった。


 目を閉じることで鋭敏になった聴覚が、まだ交代時間ではないのに、部屋に近付いてくる足音を捉えた。

 思わず歓喜に叫びたくなる衝動を抑え、兜から出る前髪を調え、背筋をピシャンと伸ばして騎士は客を歓迎する姿勢を取る。

「……っ!」

 扉のない入り口の向こうの廊下は、松明と月明かりだけがぼんやりと照らす薄暗い廊下だ。

 その廊下に、まるで炎かと思わんばかりの鮮烈な立ち姿が現れる。

 月光を受けて光輝く髪は、まるで燃えているかのような真紅。

 凛々しい眉の下にある、長いまつげで縁取られた眼の色も、また真紅。

 

 鮮やかな髪と瞳に反して肌は処女雪のように白く、その対比が眩しいほどに輝きを放つ。
 紅く[
竜滅付加(エンチャント)]された鎧を纏い、腰に誇りである剣を携えた、偉大なる不死鳥の血を受け継ぐ騎士の中の騎士。


「こちらが武競祭の受付でよろしいのかしら?」

 可憐な声は、透き通る凛とした美しさをもって脳髄まで響き渡る。


 シストラバス侯爵家騎士団代表騎士――リオン・シストラバス。

彼女を間近で見てしまった騎士は、それが当然であるかのごとく、見惚れて硬直してしまった。






「は、はいっ! そうであります!」


 呆然としていた王国騎士団の鎧を纏った若い騎士が、顔を真っ赤にして慌てて礼式を取る。


「そうですの。では、私の武競祭受付をお願いしてもよろしいかしら?」

 リオンは長い髪をかき上げて、優雅に微笑む。

「も、ももももちろんです! どうぞこちらの机をお使いください!」


 それで若い騎士は身も心も蕩けきってしまったのか、首もとまで真っ赤にして机の上の羊皮紙を手に取った。

「ここここちらの方に名前と家印をお願いしますっ」


「分かりましたわ。もしよろしければ、ペンをお貸しいただいてもよろしいかしら?」

 机の上に置かれていた羽ペンを指先で取り、リオンは騎士に尋ねる。騎士はもう一杯一杯の状態で、返事すら返すことができずにコクコクと勢いよく頷いた。


(まだまだ若いですわね)

 自分より年齢は上だろうが、まだまだ精神修行が足りない相手を見て、内心でそうリオンは思う。


 サラサラと羊皮紙の上に名前を書き、用意されていた蝋を一滴垂らす。そこに指にはめてきた、家紋が刻まれている指輪を押しつければ完成だ。

「これでよろしいですの?」


 羊皮紙を騎士に渡す。彼は少し羊皮紙に目を通したあと、大きく頷いた。

「あ、はい。だ、大丈夫です。シストラバス侯爵家騎士団代表選手、リオン・シストラバス様。確かに武競祭出場の登録をしていただきました。――試合、がんばってください」


「ええ、ありがとう」

 本来なら王国騎士たるもの、一人の選手を応援すべきではないだろうが、その心遣いは受け取っておく。


(無論、そのつもりですわ)

 試合をがんばるという話ではなく、絶対に優勝しなければならない。


(負けたらその時点で……そんな結末は最悪ですもの)


 今度の武競祭は、これまでに出場してきた武術大会とは訳が違う。一戦一戦が重要で、敗北はそれ即ち身の破滅に直結する。何があろうと、優勝をしなければ。

 武競祭の出場登録も完了し、来るべき戦いの日まではそう遠くない。

決意も新たに颯爽と身を翻し、直立不動で礼を取る騎士に背を向け、リオンは元来た廊下を振り返った。


「?? ……なんですの、この気配?」


 人気がない、夜ともなると薄暗い廊下。

 そこから何か良くないモノが来ることを、そのときリオンは感じた魔力で察した。


「嫌な魔力ですわね」


 薄暗い廊下の向こうから、カツカツという金属の足音が聞こえてくる。


 最初に目に入ったのは、ゆらゆらと揺れる赤い灯火。
 


 それ事態に熱はなく、ただ松明の光に反射しているだけの鮮烈な赤色。

それはこの武競祭の受付へと近付いてきた、一騎の人形(ひとがた)の兜から伸び、吹き込む風に揺れる赤い獣の毛であった。

 薄暗い闇から生じたように現れたのは、頭の先から足の先まで甲冑で覆った騎士だ。


 光のない黒い甲冑で隙間なく身を覆っており、唯一見えるのは口元と目元の部分だけ。瞳の色も黒のため、全身が闇で磨かれた宝石のように見える。


 そして何よりもリオンの興味と嫌悪を誘ったのは、その身が纏う怨念じみた禍々しい魔力だった。

 戦場で散った命の怨嗟。血まみれの屍が呼ぶ呪詛の風。

 鍛冶師の執念が垣間見える甲冑には、見る者を震撼させる何かがあった。歩くごとに場を侵蝕する、負の威圧感があった。

 紛う事なきその異容――黒騎士と言うよりも、狂戦士と言った方がしっくりくる印象を与える騎士は、リオンのすぐ目の前で立ち止まる。

――――


 見える唇が、どこか震えているように見えた。

 ただ、それは気のせいか。すぐに彼(?)の口元には、嘲りとも取れる引きつったような笑みが浮かんだ。

(なんですの、この男? もしかして、私を見て嗤いましたの?)

 気にくわないと、直感的にリオンはそう思った。


 目の前で威圧感を漂わせる彼に負けじと、腰に手を当て、少しだけ背丈の高い彼を睨みつける。ここに来たということは、彼はどこかの騎士団の代表選手――つまりは戦うかも知れない敵だ。愛想良くする必要など欠片もない。

「ごきげんよう。ミスタ……でよろしいのかしら?」

だからといって、礼節を欠くのは騎士としてはあるまじきこと。リオンは黒騎士に対して、礼儀としてあいさつを交わす。


「……」

礼節を向けられ礼節を返す場面でありながら、黒騎士は何の反応も示さなかった。

 じっとスリットの下の黒い瞳で、観察するようにこちらを見てくる彼。

 不躾ではあるがいやらしくはない視線ではあったが、やはり男性と思しき相手から全身を凝視されるのは貴婦人には耐え難いものがある。だから逆に堂々の胸を張り、リオンは告げる。


「初めましてでよろしいかと思います。私はリオン――リオン・シストラバス。どうぞ以後お見知りおきを」

「…………………………ああ」


 長い長い沈黙のあとに、一言だけの返事が返ってきた。どもったような、掠れた声だ。


 それ以上は何も語らない黒騎士は、視線を横へと逸らし、ツカツカとリオンを無視して歩みを再開させる。

(名乗ったのに名乗り返さない気ですの?)


 無言で横を通り抜け、受付の騎士のところへと行く黒騎士の背を、リオンはむっとした表情で見つめる。

 騎士であることを誇りとするシストラバス家の騎士として、あのような騎士でありながら、騎士らしからぬことをする相手は許し難い。これがシストラバスの系譜に連なる者なら、速攻誰かから教育の激が飛ぶところである。


(礼儀がなっていませんわね。一体どこの騎士団の代表です?)


 顔さえ見れば、大抵は今回の参加者は分かるリオンだったが、ああも完全に顔と身体を隠されたら判別はつかない。

魔力にあてられて冷や汗を流している係の騎士の前で、彼は羊皮紙に名前と家紋を押している。それを見れば一目瞭然なのだが、覗き込むなんて真似ができるはずもない。

やがて突きつけるように騎士に羊皮紙を受け渡した黒騎士は、そのままリオンを無視し、再び横をすり抜けて帰ろうとする。

――お待ちなさい」


 ピタリ、と黒騎士の足が止まる。

確かにこちらに会釈はおろか、一瞥すらなく無言で帰ろうとする無礼者に思うところがあったのは事実だ。だが、わざわざその程度で腹を立てることもない。身内ならともかく、相手は敵だ。無礼なら無礼で、それこそ叩き甲斐があるというもの。


 だから呼び止めてしまったのは、リオン本人にもよく分からない反射的な行為だった。

「なんの、用だ?」


 呼び止めてしまって、しかし用件を語らない。いや、語れずにいると、当然呼び止められた黒騎士の方から用件を尋ねられた。


「え? え、えぇとですわね」

 腰に手を当てたまま、リオンは困る。


 どうして呼び止めたかが分からないのだから、用件などすぐに出てくるわけがない。モゴモゴとリオンらしからぬことに言葉を濁してしまう。


 そうしていると、黒騎士の方が反応を示した。


――クッ」


 それは小さな含み笑いだった。

 馬鹿にされたと思って、リオンは頬に朱を入れる。


「な、何がおかしいんですのよ? 言いたいことがあるなら口で言ったらいかがです!」

「いや、特に言いたいことはない。そっちもないなら、俺はもう行く」


「お、お待ちなさい!」


 歩みを再開させようとする背中を再び呼び止めるも、やはり何を問うべきかが分からない。分からないので、取りあえずの疑問をぶつけてみた。


「あなたの名前を教えなさい。私の名を聞いておきながら、名乗らないのは失礼ですわ」


「勝手に名乗って、あげくに名乗りを強制するのか?」


「なっ!? 何を言ってますのよ! 騎士たるもの、名乗りに名乗り返すのは当然の礼節でしょう?」

 本当に騎士とは思えない黒騎士の言い草に、他の誰かに言われるのよりも強い怒りをリオンは覚えた。不思議なことに、初対面の相手のはずなのに、だ。


(何なんですのよ、この無性に腹の立つ無礼者は!)


 鬱憤を大きなものにしていくリオンは、思わず怒鳴ろうと口を開き、足を一歩前に踏み出す。


「……え?」


 カツンと自分が立てた足音と同時に、小さな声が響いた。
 その響きは背中を向ける黒騎士の声で、そして人の名前のようだった。


(え? 今この男、名乗りましたの?)


 小さすぎて足音で分からなくなってしまったが、確かに黒騎士は今名乗った。

名乗れと言っておきながら、自分は彼の名乗りを聞き逃し、あまつさえ結果的に遮ったというのか?

これでは再び名前を問うこともできないというもの。おかしなほどに落胆する気持ちとともに、リオンは顔を僅かに下に向けた。

そこへ――



――アルカンシェルだ」



 ――再びの、黒騎士からの名乗りが届いた。

 バッと顔をあげて視線を前に向ける。

遠ざかっていく重い足音。リオンが顔を上げたときにはすでに、漆黒の騎士は薄暗い廊下の向こうへと姿を消そうとしていた。


 その背が完全に見えなくなるまでリオンは見送りつつ、そこでようやく自分が彼に本当に尋ねたかったことが何か、気が付いた。

「アルカンシェル…………あなた、私とどこかで会ったことがありませんでした?」


 今更気付いても遅く、呼び止めようにも、もう黒い背中は闇に紛れて見えない。


 バーノン伯爵家騎士団代表騎士――アルカンシェル。

 その名をリオンが胸に刻んだのと同じくして、今宵、武競祭本戦の十二の席が埋まりきった。


 

 また一日が終わる――――武競祭開幕まで、あと十一日。










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