第四話  修行の始まり




 騎士の国グラスベルトには『騎士百傑』という称号をもって呼ばれる、偉大なる百人の騎士たちがいる。


 国内で最も優れた百人の騎士を選び、序列を付けて呼ぶ名こそが、この『騎士百傑』という古くからある伝統の名だ。
 席を誰かが離れれば、次の『騎士百傑』が選ばれる。そうやって建国より脈々と受け継がれてきた制度は、位が一に近ければ近いほど強いとされていた。

 そして、その序列十二位の地位を持つ騎士こそ、ジュンタの指導者を引き受けてくれた女傑――トーユーズ・ラバスなのであるという。

「つまりあたしは、『騎士』として貴族の地位にまで上り詰めた人間ってこと。おわかり?」

 王都レンジャールの傍にある、四方を林で囲まれた大きな正方形の形をした、王国騎士団御用達の修行場において、まずトーユーズが語ったのはそのことだった。


 若気の至りともいえる大会荒らしから始まり、王国騎士団に所属していた時の恋愛エピソードと、まったく退屈しない波瀾万丈な一時間だった。だがしかし、修行一日目の最も大事な第一声が、果たしてそれでいいのだろうか?

 思わず胡乱げな視線をジュンタが向けると、トーユーズは不満そうな顔をした。

「何よその視線は? 言っておくけど、今の話は全部本当の話よ。あと、その格好で見られると反射的に迎撃したくなるから、下手なことはしないように」


「う、すみません」

 トーユーズが言ったように、今のジュンタの格好は異様だった。


 いや、初修行ということで、完全武装のため漆黒の甲冑を付けてきただけなのだが、見る人が見れば嫌な気配と魔力が渦巻いているのが分かるため、強者であるトーユーズにはお気に召されなかったらしい。召されたら召されたで、それも嫌だが。


「しかし、ジュンタ君。本当にそれ着て武競祭に出場する気なの?」


 改めてマジマジと視線をトーユーズに向けられた。
 自分が付けているところでも想像したのか、彼女はブルリと肩を震わせる。


「そうですよ。素性を隠すのにもちょうどいいですし、防御力だけ見れば最高のものらしいですし」


「だからって、そんな嫌な魔力とか怨念とかが染みついてるのつけるなんて……寿命吸い取られたりしてない? まぁ、それだけジュンタ君が本気だって思わないとダメよね。リオンちゃんの隣に並び立つ自信がつくまで姿を晒せないって気持ち、尊重してあげないと」

「ありがとうございます。でも、先生こそその服でいいんですか?」

 頭を軽く下げたジュンタは、今度は逆にトーユーズの格好について尋ねてみた。


 トーユーズの服は、昨日とは柄が違うだけのチャイナドレスだ。
 腰近くまでスリットが入った、太股を大きく露出させる一品である。争い事のための服のような印象もあるチャイナドレスだが、実質的な防御力は皆無である。

「全然心配いらないわ。これはあたしの勝負服だもの」


「それ、別の勝負じゃないですか?」


「複数の意味で勝負服なの。もう、生意気よ。どうせ防御能力を気にしてるんだろうけど、あたしは先生なんだから、ジュンタ君相手なら裸でだって構わないわよ」


「いや、それは…………何でもないです」


 トーユーズは裸でも傷一つつかないということを言いたかったみたいだが、裸とかは言わないで欲しい。チャイナドレスでさえ色気たっぷりなのだから、下手なことは想像させないでください。


「それに、どうせ今日はジュンタ君の限界を測るだけだから、別にあたしに危険なんてないのよ。ちなみに、二日酔いで二時間しか寝ていないっていう、最悪のコンディションでここに立ってるわ」

「いや、そんなの威張られても。それで俺の限界を測るってどういうことですか?」


「そのままの意味よ。いわば、一番大事な部分とも言えるわ」

 トーユーズを包む空気が微かに変わったのを、ジュンタは明確に感じ取った。

 今までどこか軽さを見せていたトーユーズから、そういう遊びの気配が若干抜ける。残ったのはストイックな印象を見せる、騎士としての顔だった。


「鍛える前に今の力と限界を知るのは重要なことだからね。潜在的な能力も分かれば、育て方も決めやすいし。で、まずはこれでジュンタ君の魔力の限界値と性質を測るわ」


 そう説明してトーユーズが取り出したのは謎の水晶玉だった。
 薄紫色の表面と透明な内部を持つ、見た目は何の変哲もない水晶玉である。


「その水晶玉でどうやって魔力を測るんですか? 先生が占いをしてくれるとか?」

「占いできないことはないけど、これの用途は別のものよ。これは『干渉の魔玉』って言ってね。魔法使いが作った道具で、擬似的な[干渉]を起こす効果があるの。[干渉]――つまり共鳴反応についてジュンタ君は知ってる?」


「共鳴反応ですか? 確か……」

 ジュンタはサネアツとクーが言っていたことを思い出して、


「魔力同士の衝突で起こる、反発か融合かを起こす現象でしたよね?」


「その通り。で、その共鳴現象を故意に起こすのが[干渉]っていう魔法になるわ。この『干渉の魔玉』はね、対象に[干渉]して擬似的な共鳴反応を引き起こすことができる代物なの」


「なるほど。でも、共鳴反応を起こしてどうするんですか?」

「共鳴反応って、簡単にいうと魔力の暴発現象を起こす現象でしょ? つまり共鳴反応を起こせば、その人の持っている魔力値とか魔力性質とかをはっきりと認識することができるわけ。これなら問答無用で、残り一滴まで魔力を外へと強制排出させられるから」


「え? それってちょっと危険じゃないんですか?」

 強制っていうあたりに、ジュンタはかなりの不安を覚えた。


「…………」


「ちょっと待ってください。どうして無言で笑って水晶玉くっつけるんですか!?」

「いいじゃない。男の子は思いきりが良くないと。『いついかなる時も美しく』があたしのポリシーなら、ジュンタ君は『いついかなる時も格好良く』で行きましょう」


 グイグイと『干渉の魔玉』を押しつけてきながら、にっこりとトーユーズは笑う。

「ジュンタ君も愛の奴隷なら、ここで思い切り格好良く砕けちゃいなさいな」


「砕けちゃいけませんから! あ〜、でも一応安全は保証されてるんですよね? なら、行きます。俺だって一応は本気なんですから」

「そうこなくちゃだわ。さすがはあたしの生徒ね! 今いる修行場は、あたしが『騎士百傑』の身分を使って貸してもらった場所だから、どんなに破壊してもいいわよ。誰も来ないし、盛大にやっちゃっても賠償責任問題は発生しないわ。じゃ、行くわよ」


 トーユーズから『干渉の魔玉』を受け取って、ジュンタは両手で掴む。

 ガントレット越しに、水晶の固い感触が手に伝わる。前もってトーユーズが準備を終えていたようで、共鳴反応はすぐに出始めた。

(身体から、何かが吸い取られてる感じだ)

 水晶の真ん中に不思議な黄色の光が輝き始めて、その光は強く、大きくなっていく。

 光は広がる際限を知らず、水晶玉全てを包み込み、やがてはジュンタの身体すらも呑み込み始めた。

 やがて輝きは色を虹色に変えて、爆発的に広がり始める。……その辺りまで来たところで、ジュンタは焦り始めた。

「ちょ、え? これって大丈夫なんですかトーユーズ先生!?」


 尋常じゃない光量に、真っ白になった視界の向こうへとジュンタは大声で呼びかける。


 返事はない。その代わりに、おかしいと言わんばかりの独り言が耳に届いた。


「あれ、おかしいわね? こんなになるはずないんだけ――






 ――――ドン、と音なき轟音が、そのとき王都レンジャールを襲った。







「ご主人様?」

 長蛇の列に並んだクーは、空を見上げてそう呟いた。


 今、ここ王都レンジャールの近くから、強大な魔力の波が辺り一帯へと波紋のように広がった。魔法使いにして千人分。とんでもない、神殿魔法に匹敵する魔力の波動だ。


 常人には魔力の波動など、極至近距離でなければ分からないだろう。

しかしエルフであるクーは、遠く離れた場所で起きた波動に気が付いた。いや、今回の場合は、ある程度腕のある魔法使いなら誰でも気付くレベルの魔力の波動だった。

「サネアツさんも今の魔力に気付きましたよね?」


「ああ、無論だとも」

 クーの問いに、被っている帽子の中に入り込んでいたサネアツからすぐに返答がもたらされる。


「とんでもない魔力だったものだ。クーヴェルシェンならともかくとして、俺でも感じたほどだからな。よほど辛い修行でもしているのかも知れん」

 魔力には人によって微妙な差異がある。よくよく感じ取らなければ分からないが、長く付き合った知り合いの魔力ならば、どれだけ離れていても察しがつくものだ。特にクーにとって今の魔力の波動は、魂に刻み込まれた忘れようのないものだ。


 王城に背を向けて、クーは魔力の波動が広がった中心地にいるであろう、敬愛すべき己が主のことを心配する。

「大丈夫でしょうか、ご主人様。怪我とかしてないですよね」


「修行に怪我は付きものだろう。そこは気にするべきところではないと思うが」


「そうかも知れませんが…………はい、そうですね」

 心配に思う気持ちをぐっと堪えて、クーは再び王城の方へと視線を戻す。


「私は、私のできることでご主人様をお助けしないと」


「その意気だ。ジュンタの修行については、マイステリンに任せておけばいい。あの人は間違いなく、ジュンタにとっては最高の教え手となろう」

「はい。『誉れ高き稲妻』の騎士トーユーズ。その名は有名ですからね。まさかあのような場所にいるとは思っていませんでしたけど」

「ハッハッハ。俺も姿を変える魔法をにゃんにゃんネットワークの試運転もかねて捜してみたら、あのような掛け値なしの最強に出会えるとは思っていなかったぞ。これぞ天命か。いやはや、何とも利用しがいとぶち壊しがいのある神のシナリオだ」


 サネアツの言葉の意味はよく分からなかったので、クーは少しずつ前に進んでいく列――そこに並ぶ、見るからに強そうな人たちの観察を再開させた。

 少しずつ前に進んでいく長蛇の列。そこに並ぶ人たちは敵となる。


(がんばってくださいね、ご主人様。私もがんばりますから)

 クーにとっても、ジュンタにとっても、全員が。






 いきなり間近で猛り狂った魔力の奔流が迸ったことで、リオンは思わず手から剣を取り落としそうになった。


 肌が総毛立ち、背中に冷たいものが走り抜ける。

 感覚器官があまりの魔力の大きさに狂い、自分の立っている場所があやふやになる。


 そんな一瞬の出来事を乗り越えたリオンは、目の前で自分と同じ――否、自分よりも顔色を悪くしている従者に話しかけた。


「ちょっと、ユース。あなた大丈夫ですの?」

「は、い。心配には及びません。いきなりの魔力に、少々当てられただけですから」


 メイド服に身を包んだユースはそう言うも、口元を抑えていて顔色は戻らない。言葉が本当にしろ嘘にしろ、もうこのまま鍛錬を続けることは無理だろう。

「まったく、どこの誰ですの? こんなはた迷惑な魔力を垂れ流しにしたのは?」


 王都に隣接された森を切り出して作られた修行場――自分たちがいる場所と、林を隔てて区切られた隣をリオンは睨みつける。

ある意味ではそれは虚勢だった。

その身に偉大なる使徒の血を継ぐリオンは、魔法使いでこそなかったが魔力には敏感だった。だから隣から突如吹き荒れた魔力が、自分が一度に知覚できる魔力量を超えた、桁違いの総量であったことにも気が付いていた。


(一体、どこのどんな化け物でしたら、あんな魔力を一度に放出できますのよ)

 修行場で上がったのなら、今のは修行の一環として行使された魔力だろう。


 あの規模ともなると、隣にいる自分たちにも影響があったのも不思議ではない。
 魔力以外に何の変化もないところを見ると、攻性魔法ではないようだが。得体の知れない魔力そのものに込められた『力』と呼ぶべきものを、この密度で放射されたなら、不思議な感覚を催すには十分だ。


(この時期にこの修行場を使っているとなると、もしかしたらもしかするかも知れませんわね)

 何よりリオンの戦慄を誘ったのは、そんな桁外れの魔力を見せた相手が、自分の敵であるかも知れないという一点にあった。

 この修行場は王都に一番近い大規模な修行場ということで、多くは王国騎士団の鍛錬に用いられる場所だ。それを個人的に使えるとしたら、王国の要人か、あるいはグラスベルト王国が騎士国家と言われる証明――『騎士百傑』くらいなものである。


 王国騎士団が、武競祭を控えたこの時期に鍛錬を行うとは考えにくい。

現在王国騎士団は、一大イベントを前に賑わい続ける街の治安維持と、外部から入ってくる人間の審査、イベント自体への準備に追われているはずだ。

だとするなら、考えられるのは個人的に修行場を借り受けた要人。それもこの時期なら、武競祭の参加者である可能性が高い。このような修行場を使う人間と考えたら、自分のように、すでに本戦出場が決まっている騎士団の代表か。

そんな可能性の一端のそこまでを一瞬で考えたリオンは、ゴクリと息を呑む。


「リオン様?」


 顔色も元に戻り、いつもの無表情に戻ったユースが心配そうにリオンの名前を呼ぶ。


 そのことに我を取り戻し、リオンは笑ってみせた。


「大丈夫ですわ、ユース。相手がどんな化け物であろうと、私に敗北はありませんから。むしろ手応えのない敵ばかりと思っていた武競祭、どうやら楽しめそうで何よりですわ」


 リオンは愛用の剣を一振りし、指輪の形に戻す。

 

「ですが、私の従者に不躾な真似をした相手の顔くらいは確かめたいものですわね」


「隣へ行かれるんですか? ですが相手が誰であれ、定められた修行の場で行われた行為ならば、不問にするというのがこの修行場の暗黙の掟では?」


「それには他所へと影響を与えない範囲で、という前口上がついてますのよ……たぶんですけど」

 ユースの疑問に、甘いと言わんばかりにリオンは首を振って、

「魔力だけとはいえ、あれは明らかに他所へと影響を与えるレベル。いえ、もしかしたら私が隣にいると分かって、故意に行った可能性も否定できませんわ。つまり私を挑発してますのよ、舐められていますのよ! 断じて黙ってなどいられませんわ!!」

 ダンと大きく前に足を踏み出し、リオンは拳を握る。
 その綺麗な真紅の瞳は、おもしろいと言わんばかりに激しく燃えていた。


 そんなリオンを見て、ユースはボソリと呟く。


「また、そんな取って付けた言いがかりで…………ご自分がストレス発散されたいだけでは?」


「何かいいましたか、ユース?」


「いえ、何でもありません」


「そうですの。ならよろしいですわ。――さぁ、では行きますわよユース! 私に喧嘩を売った不届き者の元へと!」

 楽しげに笑い、悠然とした足取りでリオンは隣の修行場を目指す。


 そんな主の背中を見つめつつ、ユースは先程感じた魔力の気配について考えを巡らせた。

 それはありえないこと。気のせいに決まっていること。

 先程の強大な魔力は、以前ユースがその身で感じたことのある、とある魔力に酷似していたように感じられた。


「…………まさか、ですね。殺された死人は甦らないのですから」

 
 しかし、だけどそれはあり得ない――
以前味わった、その優しくも戦慄を招く魔力の主は、もうこの世にはいないのだから。






       ◇◆◇







 地面に落ちた『干渉の魔玉』が、砂の塊が崩れ落ちるように、粒子になって溶け消える。


 それを目で追ったトーユーズが、半ば睨むような視線を質問と共にジュンタへとぶつけた。


「…………これ、どういうことよ?」


「あ、あの、それはですね」


 吹き荒れた魔力は、間違いなく自分ものだったとジュンタには分かっていた。魔力がいきなり暴走した理由も、トーユーズから手渡された『干渉の魔玉』が原因であることは明白だった。


 だからトーユーズが訊きたいのはそう言うことでなく、『どうしてあんな膨大な魔力が吹き荒れて、尚かつまだお前は平然と立っているのか?』ということなのだろう。

 いきなり保有魔力の半分近くを奪われたジュンタは、若干の疲労を感じながらもどう答えるべきかを悩む。悩んで、突き刺すような視線を向けてくるトーユーズの迫力に負け、正直に自分が真実だと思う理由を述べた。

「これ、他の人には内緒にしてくださいね。――実は俺って使徒らしいんです」


「はぃ?」

 口をあんぐりと開けるトーユーズは、きっと珍しいに違いない。


 だが、それも仕方がないのか。使徒とはこの世界における、生まれながらにして偉大なる者。
 そんな誰にとっても地位だけを見れば格上の相手の名前を耳にして、それが目の前の少年と知って、驚かずにはいられまい。


「使徒? ジュンタ君が、使徒?」

「はい、一応。自覚もなければ、使徒として生きる気もないですけど。取りあえず使徒が持ってるっていう魔力量はあるっぽいです」

「なるほどね。道理で『干渉の魔玉』が容量の限界を超えて壊れるわけよ。もう、まったく」


 うふふ、とトーユーズは色っぽく笑って、拳を握った……拳?

「そういうことは――


 握られた拳にジュンタの視線が行った直後、目の前に立っていたトーユーズの姿が消えた。代わりとして残像のみが残る。

――最初に言っておきなさいッ!」


 ジュンタが消えたトーユーズの姿を見つけられたのは、彼女の拳を腹に受けて、思い切り空中へと殴り飛ばされたあとだった。

「ぐふっ」

 背中からジュンタは地面に落ち、口から息が吐き出る。しかし痛みはない。
 それもそのはず、痛覚はすでに麻痺しているからだ。恐らくはただ殴っただけではなく、手に雷を纏わせて殴ったのだろう。でなければ甲冑をつけた自分を殴って吹っ飛ばせるはずがない。


「もう、使徒なら使徒だと、そうと最初に言っておきなさい! ジュンタ君が使徒だってこと分かってたら、こんな常人用の道具なんて使わないわよ! どうしてくれるの、これ結構高いんだから!」

 

「す、すみません……」

ツカツカと近付いてきたトーユーズが、腰に手を当てて怒る。結構怖い。身体の周りに火花が散っているところや、生徒が使徒であることを容易く信じても、何ら変わらずに死にそうな攻撃を仕掛けてきそうなところが、特に怖い。


「まったくもう。『干渉の魔玉』の代金は、店の手伝いで払ってもらうから覚悟しておくように。それじゃあ、測定に戻りま――

 そこでトーユーズは言葉を止めて、何やら考え込んでから、恐る恐るジュンタに尋ねた。


「まさかとは思うけど、実は調べなくても自分の魔力性質とか分かってたりして?」

「あはは、そんなまさか………………すみませぐふはっ!」

 この答えを返せばまた殴られることは分かっていたが、嘘を言うとさらに怖いので正直に述べたところ、殴られはしなかったが思い切り蹴り飛ばされたジュンタは、再び空中を飛んで地面に落ちる。


「何でも他人任せな男は嫌いよ、あたし」


「ほんと、すみませんでした……」

 二度にわたる強烈な打撃に、トーユーズの実力の一端を体感しながら、ジュンタは地面の上で身動き取れないまま謝罪を口にした。


「まぁ、最初に聞いておかなかったあたしも悪いんだし、
貴重な時間を減らすことで苦労するのはジュンタ君だから、あたしは別にいいけだけど。ちなみに最初に言っておいてあげるけど、訓練が滞った場合、修行内容がどんどんと恐ろしくなるからね。さて、それじゃあ気も済んだことだし、そろそろするわね」

「する? 修行の続きをですか?」

 ピリピリする身体を、何とかゆっくりとながらも立ち上がらせることに成功したジュンタは、気を取り直したトーユーズの言葉を聞いて、そう返した。


 だが、それはどうやら違ったようで、首を横に振ったトーユーズは、自分がこれから何をするかを綺麗に笑って述べた。

「いいえ、違うわ。さっきからずっと我慢してたんだけど、もういい加減限界なの。二日酔いの寝不足にはきつかったようね。だからあたし、今から――


 即ち、今まで我慢していたことを止める、と。

――気絶するわね。あ、起こすときはお酒でよろしく」

「え?」


 言われたことが咄嗟に理解できなかったジュンタを無視して、トーユーズは宣言通りにぷつりと意識の糸を断った。


「せ、先生!?」


 前のめりに倒れてくるトーユーズを慌てて抱き留めて、地面に寝かせて様子を確認する。

 驚いたことに、完璧に寝入っていた。大きな胸のふくらみが規則正しい呼吸を刻んでいる。

「まさかさっきの俺の所為か? と言うか、それしかないよなぁ〜」

 どうやら先程の魔力の波動には、トーユーズですら気絶に追い込む何かがあったらしい。あと、きっと寝不足とかが色々とたたったようである。

「理由を聞くまでは倒れるのを我慢してたのか。……
しかし、どうするよ?」

その根性にはある種の尊敬を向けつつ、自分が起こしてしまった結末にジュンタは頭を悩ませる。


 大事はないようだが、これでは修行は無理だろう。

 武競祭まであと十日しかない現状、一日がどれほど貴重であるかは言うまでもないが、それでも師を無理させてまで強くなることはできない。師が不在でも、それは同様だ。

(仕方ない。取りあえず一度店に戻るか。修行のことは、先生が目を覚ました後に考えればいいや)


 あっさりと葛藤を中断したジュンタは、トーユーズの身体を抱き上げ、甲冑越しに伝わる体温と柔らかな女性の肌に赤面しつつ、一路『鬼の宿り火亭』へと進路を取ろうとする。


――お待ちなさい、そこの下郎ッ!」


 そこへ時代劇の台詞のような、そんな鋭い一喝が向けられた。

 その凛とした声にジュンタは聞き覚えがあって、止まらないわけにはいかなくなってしまった。


 兜に包まれた首を錆びた玩具のように動かして、背後を振り向く。

 果たして、そこには忘れようもない騎士の姿があった。華麗に燃える、真紅の宝石があった。


「…………リオン。ユースさん」

 リオン・シストラバスと、その斜め後ろに立つメイド服の女性――ユース・アニエースの姿を見咎めて、ジュンタは二人の名前を口にした。


 それは小さな声で、二人には聞こえようもなかったため、独り言に反応するようにリオンが歩み寄ってきたのは偶然だろう。

 約五メートルばかりの間を取ったところで足を止めて、リオンは腕を組んだ。


「あなた確か、バーノン伯爵家の代表でしたわね?」


「登録された名前はアルカンシェルですよ、リオン様」

「そんなことは無論覚えてますわ」

 

 後ろにやってきたユースにそう言って、リオンはつり目がちな瞳でジュンタを睨みつけた。

「どうやら先程の魔力はあなたの仕業のようですわね。それで、ユースに嫌がらせをしただけでは飽きたらず、今度はその女性に何をしようといいますの?」


「…………」

「無言は肯定。どこかの偉い賢人もそう言っていましたわね」


 無茶苦茶な理由でリオンはそう決めつけてくる。早く訂正を入れなければ、そのまま彼女の中で決定されてしまいそうだ。


 そう分かっているのに、しかしジュンタは声を出すことができない。

 いきなりのリオンの登場に、まだ心と思考が正常稼働を始めていなかった。


(お、落ち着け俺。リオンは別に俺が『サクラ・ジュンタ』だってことは分かってなくて、あくまでもアルカンシェルっていう武競祭に参加する一選手だって思ってるんだ。落ち着け、落ち着け俺!)

 すぅ〜と二人に気付かれないように深呼吸を数回繰り返したところで、ようやくジュンタの頭に冷静さが戻る。


 表情が相手に伝わらない兜を付けていて助かった――リオンの質問から三十秒近く経ってから、ようやくジュンタは答えを返すことができた。

「誤解だ。俺にこの人をどうこうするつもりはない」


 声から正体がバレても嫌なので、ちょっと低めにし、少し無愛想気味に返答を口にする。

 嬉しいのか悲しいのか分からないが、ピクリと眉を上げたリオンは、まったくこちらの正体に気付いていないよう。


「……それでは、その女性をあなたはどこへと運んで、一体どうすると言いますの?」

「もちろん、家に運んで介抱するに決まっているだろ?」


「なっ!? やっぱりいやらしいことをするんじゃありませんの。最低ですわ!」


「どうしてそうなるっ!?」

 どこをどう妄想すればそうなるのか、根本的にこちらを変態だと思っているリオンには、よほど悪く取らないと至らない考え方がデフォルトらしい。思わず素でツッコミを返してしまったジュンタは、落ち着けと自分に再度言い聞かしてから、なおも誤解だと訴える。

「俺にこの人をどうこうするつもりはないって言っただろ? 気絶させたのだって故意じゃない」


「そう言われても信じられませんわね。あんな強大な魔力を極至近距離でぶつけたのでしょう? それが重度のアルコール摂取のような結果になるのは、予測できて然るべきだったはずです。そうですわよね? ユース」

 今まで黙って状況の推移を伺っていたメイドさんは「はい」と頷いて、主の言葉に補足説明を入れた。


「正確に言えば、過剰魔力を浴びたことのよる一時的な魔力の飽和ですね。魔力は生命力ですから、身に余る量を浴びれば昏睡するのは当然の帰結と言えます」

「ほら見なさい! つまりあなたはこうなることが分かっていて魔力を使ったのでしょう? 正直に認めなさい!」


「だから、どうしてそうなるんだ」


 ユースの理屈とやけに説得力のあるリオンの決めつけを受けて、ジュンタは呆れ半分感心半分の吐息を吐き出しつつ、思う。

(……リオンと会うのに緊張してた俺が馬鹿みたいじゃないか)


 いや、馬鹿みたいじゃなくて馬鹿だ。自分自身でそう思うと、思わず苦笑が口に現れた。


 そんな口角を少し上げるだけの苦笑を、相対するリオンは自分に対する失笑と受け取ったらしい。


「な、何がおかしいんですのよ!」


 むっとした顔になって、組んでいた腕をほどいてリオンは睨みつけてくる。


――クッ」


 怒っていても綺麗なリオンの顔を見て、ジュンタは再びの笑みを零す。

それは自分への苦笑と、まるで変わっていないリオンに対する苦笑が半々の笑みだった。

「……やっぱりあなた、私に喧嘩売ってますのね。そうですのね? 買いますわよ、その喧嘩。手袋を受けとる覚悟はありまして?」

 やはり浮かべた笑みを自分に向けられた失笑と勘違いしたリオンが、目をより尖らせて、手に付けていた白い手袋を取ろうとする。決闘の申し込みとして、手袋でも投げつけようとしているようだ。


 さすがにここでリオンと決闘なんて真似はできない。そんなことをしなくても、やがては武競祭で必ずリオンとは一戦ある。出場するならリオンは負けないだろうし、自分も誰にも負ける気などない。ならば激突は必死だ。


「いや、手袋は受け取れないな」

 手袋を投げ付けられる。これ即ち絶交宣言であるから、誤解だとしても嫌だ――そんな日本人の考えから断りを告げて、ジュンタはリオンに背を向けた。


「ちょっと、どこへ行きますのよ?」

「言っただろ。この人を介抱しないといけないんだ。俺にとって大事な先生だからな」


「先生?」

 背後であがるリオンの困惑の呟きを耳に、再び『鬼の宿り火亭』へ戻ろうとジュンタは歩き始める。


「お待ちなさい! まだ話は終わって――


「終わった、でいいだろ? 今はもう俺から話すことなんてない」

 リオンの言葉に被せて、歩みを止めずにジュンタは述べる。


「今日よく分かった。俺はやっぱり、武競祭で優勝したい」

 リオンは変わらず、綺麗で格好いい少女のままだ。そして自分もまた、半年前のあのときから変わっていない。

リオンはそれでいいが、自分はそれではダメなのだ。変わらないと、強くならないといけない。
 リオンと一緒にいても恥じない自分になるために。並び立てるような強さを手に入れるまでは、会うことなんてできないのだろう。

(今はまだ、『サクラ・ジュンタ』として会うべきときじゃない。今は『アルカンシェル』って名前の、一人の対戦相手としてのみ接するべきなんだ)

ギャーギャー騒ぐリオンを放って、ジュンタは笑ってその場を立ち去る。

強くなろうという、強い想いを胸にして。






 

「何なんですのよ、あの失礼極まりない男は!」


 去っていった黒い背中を見送って、リオンは憮然とした表情でそう口にした。


 魔力を放っただろう黒騎士――アルカンシェル。

 予想通り、此度の武競祭に参加する男は、失礼な言動ばかりを取ってきた。それはもう、怒れんばかりの態度だった。


「騎士にあるまじき男ですわ。きっと甲冑の中だって、失礼が服を着て歩いているような無礼者に決まっています!」


 勝手にタメ口で接してくるわ、お前には負けないと小馬鹿にしたことを言うわで、やりたい放題言いたい放題だ。まったく、同じ由緒在る騎士として恥ずかしい限りである。

 そんな風に腹を立てていたリオンに対し、後方に下がっていたユースが徐に話しかけた。


「珍しいですね。リオン様がそこまで気にする相手と言うのも」


「気にするも何も、ユースだってあの男の態度には目に余るものがあったでしょう? ああ、思い返しただけでも腹立たしいですわ!」


「いえ、私は特に思うところはありませんでしたが? 特段、問題ある態度などではありませんでしたし」

 淡々と述べるユースに、リオンは信じられないと言った顔を向ける。


「それ、本気で言っていますの? あんな嫌な魔力を発してますし、見た目怪しいですし、気絶した女性を抱き上げて、しかもお姫様抱っこなんですのよ!? まったく、何を考えてますのよ!!」

「はぁ、なぜお姫様抱っこのところで一番腹を立てていらっしゃるのかは分かりませんが、言われてみればおかしいですね」


「そうでしょう、そうでしょう。ようやくユースもあの男の苛立つ部分が理解できましたのね」

「いえ、そうではなく。私が言いたいのは、先程の魔力とあのアルカンシェルという騎士の魔力が、似ているようで少し違っていたという点です」


「魔力……ですの?」


 そう言われても、リオンは魔法使いではない。魔力には敏感だが、そうそう細かな差異が分かるはずもない。


「言われてみれば、先程のは澄んだ魔力でしたけど、実際にあの無礼者が纏っていた魔力は毒々しかったような気がしないでもありませんわね。まぁ、魔力とは別種の怨念じみたものが渦巻いていましたから、それが原因なのかも知れませんけど」


「ええ、それも実は気になります。あんな甲冑を帯びた人間が、まともでいられるはずがありませんから。それを言うのならば、先程の魔力量も普通ならあり得ないということになりますが……考えても分からないことですね」

 そこで考えても分からないことは考えるのを止めて、ユースは現時点で分かっていることを考え出したよう。

 なにやら難しそうな顔をすると、

「……リオン様。私の記憶が正しければ、あの騎士アルカンシェルが先生と呼んだ女性」

「あら、ユースも気が付いていましたのね。私ももしやと思いましたけど、やっぱりそうでしたの」

 リオンは先程の、気絶していた赤茶色の髪を三つ編みにした、必要以上の胸を有する女性の姿を脳裏に思い浮かべる。

 目元のほくろが印象的な、色香を纏った女性――眠っていても分かるその気配は、紛れもなく強者のもの。


 そしてリオンは、その強者の名を知っていた。

「久しぶりにお会いしましたけど、変わりないようでしたわね」

『騎士百傑』不動の序列百位。永久欠番。ある意味では一位を超える騎士の中の騎士――『不死鳥の誇り』シストラバス。

 責務を果たした竜滅姫を讃えるその地位に、いずれ祖先や母と同じく席を置くリオン・シストラバスは、当然のこととして『騎士百傑』全員の素性は既知だった。

「名高い百――いえ、実質的には九十九人の騎士の中において、最強の騎士は王国騎士団団長が代々名乗る序列一位、『騎士団長』グラハム・ノトフォーリア殿と言われてますけど、今の『騎士百傑』においては違いますのよね?」

「と、言われていますね。一位と比べても実力的には遜色なくとも、要職に就きたくはないからと十位以内には決して入らない変わり者の騎士」

「『神童』のトーユーズ。国土の安定のため、各地を旅していると聞いていた『誉れ高き稲妻』が、まさか王都であの男の師をしているなんて思ってませんでしたわ」

 世界最強という名は、誰もが求め、そして恰好の話題として世界中で囁かれるものである。

 そう言った中には、各地で名を馳せている人間の名とあがるものであり、実質的な世界最強ではない。しかし、真実世界最強の候補として囁かれる、世界最強候補ならある程度認められているのだ。

 リオンが生まれた頃は、『魔女』ミリティエ・ホワイトグレイルと『鬼神』コム・オーケンリッターがその候補に挙がっていたが、今は違う。先代ホワイトグレイル家当主ミリティエは病気で亡くなり、巫女であるオーケンリッターは老いにより力を衰えさせた。

 そこで台頭してきたのか、グラスベルト王国の歴史上、最も才ある王国騎士団長と呼ばれたグラハムであり、その対抗馬として同じように名をあげられた『神童』トーユーズである。

「トーユーズ・ラバス。今の私ではまったく歯が立たない相手を師に仰ぐ騎士。それがあの男」

 リオンも自分の恵まれた才には自覚があるが、如何せん年期が違う。

 トーユーズは、僅か二十才で『騎士百傑』に入った掛け値なしの天才。
 多くの二つ名が物語るように、かの騎士の華麗さは多くの騎士の憧憬を集めている。他でもない、リオンだって尊敬を向ける相手だ。

 そんな相手と、まさかあのような姿で、こんな場所で再会するとは思っていなかった。

「騎士トーユーズ本人が王国騎士団の代表として参加していたら、さすがに私といえど負けの可能性があることを認めるしかありませんけど、その弟子ならば話は別ですわ。問題などありません。この私に失礼な口をきいた報い、百倍にして叩き返してさしあげましてよ!」

 高笑いするリオンに、ユースが難しい顔になっていた表情を元に戻す。

 気持ちよく響いていた笑い声が止むのを待ってから、ユースはリオンに話しかけた。

「それでリオン様、これからどうしますか? また修行に戻りますか?」


「当然ですわ! あの無礼者に会って、ストレス発散どころか倍増ですもの!

 考えても見なさい? 万が一。いえ、億が一でもあり得ないことですけど、もしも私があの無礼者に負けたなら、あの男と結婚などをしなければいけませんのよ?」

 リオンの脳裏にそんな万が一にもあり得ない未来が描かれる。


「最悪ですわ! そうなったら私はあんな男のために料理を作ったり、食べさせて差し上げたり、膝枕をして耳かきして差し上げたりしないといけませんのよ? 冗談ではありませんわ!」

「…………やけにかわいい想像ですね」


「うなっ!」


 ボソリとユースに言われて、リオンは自分の顔が真っ赤に染まっていくのが分かった。


「う、うるさいですわよっ! 私だって、人並みに結婚生活に願望ぐらいあります!」


 照れ隠しに開き直って、リオンはズンズンと自分が確保した修行場の方へと戻っていく。


 その背中には、アルカンシェルという騎士との遭遇によって芽吹いた、確かな戦いへの鋭い気配が見え隠れしていた。


「アルカンシェル……」


 リオンは歩きながら、その名を呟く。


 全身を漆黒の甲冑で隠した、毒々しい魔力を纏った男。

魔力だけ見れば、恐らく自分を遙かに超えるだろう男。
 そして、最強にして最高の騎士を師匠に仰いでいる男。


 リオンは好敵手になり得るかも知れない存在を前にして、


「武競祭――優勝するのはこの私ですわ」


 しかし変わらぬ勝利への求めと共に右手を振って、紅き剣を強く握った。






      ◇◆◇







『鬼の宿り火亭』は今日も絶賛好評営業中である。


 一体そのどこが王都の住人の琴線に触れたのかは分からないが、流行ること流行ること。

夕方の営業開始からすぐに席は満席となり、その後もひっきりなしにお客がやって来ては、料理やお酒を摘んで、従業員と楽しげに会話をして帰っていく。


 お店で昨日から手伝いを始めたジュンタが驚いたのは、お客が男性ではなく女性ばかりであるという点だ。

イメージ的に言えば、どちらかと言うと男性がやってくるイメージがあったのだが、やってくる客のほとんどが女性である。下は十代、上は五十代近くまで、全席女性のお客ばかりが埋め尽くしていた。

そんな女性ばかりが来る理由は、どうやら従業員にあるらしい。

客と一緒に従業員がテーブルを囲んで、盛り上げるというこの店。

店側の本来の目的が何かはさておき、店員を目の保養とする店ではなく、一種の相談所として機能しているようだった。

なんて言ったって、従業員のほとんどが女に憧れ、女を学び、女として磨き抜いた男であるからして、乙女の悩み相談には持ってこいなのである。


 と言うわけで、いくら女の格好をしても心は乙女ではないジュンタが手伝えることといったら、料理を運んだりテーブルを片付けたりといったことぐらいであり、手伝い初日である昨日は、目まぐるしく店の中を動き回っていた。

しかし今日ジュンタにあてがわれた仕事は、ホールの仕事ではなく調理場だった。

……一言で言えば、調理場はホール以上の地獄だった。


 完全防音の調理場。そこで動き回るフリフリエプロン姿の男数名。飛び交う言葉はオネェ言葉であり、怠ければ包丁片手ににっこりと微笑みかけられる……これを一体何地獄と呼べばいいのか、ジュンタにはついぞ分からなかった。

「…………疲れた……」


 そんな地獄も通り過ぎた閉店時間――ホールへと料理を渡すカウンター前に置かれた椅子に座って、ジュンタはベタリとカウンターに倒れ伏す。

 黒い縦ロールのウィッグに、チャイナドレスだけは勘弁してもらって深緑色のワンピース。
 その上に、赤いリボンにヒラヒラフリルという恐ろしいエプロンを纏った今の格好は、抱腹絶倒青色吐息ものだったが、とにかく今は身体を休める方が大事だった。


 営業開始から、真夜中の今までこんな格好で延々と働き続けていたのだ。
今更店で働いている人に見られたって恥ずかしくもない。そう開き直れるくらいには、もう色々と諦めている。

 そうジュンタは自分では思いこんでいたのだが、どうやら本当は違ったらしい。

 

 それが嬉しいことかはよく分からないが、取りあえずは近くにあった木のコップを、思い切り後ろにいる変態目がけて投げつけることにする。

「後ろの阿呆はどの阿呆だ?」


「あがっ!」

 見事命中――痛そうな悲鳴を上げたラッシャが、額を抑えて悶え出す。

 ジュンタは背後を振り返り、自分と同じだけ働いていたのに、まだまだ元気そうなラッシャを呆れた目で見つめた。


「ラッシャ。お前はどうしてそう元気なんだよ?」


「慣れや慣れ。というかジュンタが疲れてるのは、昼間に剣の修行してたからやない?」

「いや、結局修行は今日できなかったし、
俺が疲れている理由は精神的なもんだ」


 自分の着ているエプロンとウィッグを摘み上げて、ジュンタはアンニュイに溜息を吐く。


「……はぁはぁ」


「おい、どうしてお前は息を荒くしてるんだ?」


「はっ! ち、違うんや! ワイは、ワイはそないなところまで守備範囲を開拓してへん!」

 調理場の壁にゴンゴンと頭をぶつけるラッシャは、自分とは違って至ってまともな男の制服をつけている。羨ましい限りだ。一体どんな裏取引があったのか……自分の格好に荒い息になるからじゃないといいな。もしそうだったら、友達付き合いを改めないといけなくなるので。


「は〜は〜危なかったぁ。もう少しでワイ、変態になるところやったわ」

「もう現時点で十分変態だけどな」


 思わずジュンタがツッコミ返すと、ラッシャは目を見開いて黙り込む。その数十秒後、はぁはぁと荒い息をつき始めた。


「な、なんやろこの気持ち? ジュンタが男だって分かっとるんやけど、女にしか見えへん姿で、そんな害虫を見るような視線を向けられると、背筋が震えあぎゅっ!」

「ゴメンナサイ。今すぐ死んでください」


 アホなことを抜かすラッシャを殴り飛ばして、ジュンタは近くにあった布巾で手を拭う。


「ひ、酷い。けどなんだか快感?」


「踏むぞコラ」


 呆れ眼を床の上で悶えるラッシャに向けて、はぁ、と一つ溜息。

 ジュンタが『鬼の宿り火亭』を手伝うことになったあと、結局クーとラッシャの二人までもが手伝うことになった。


 クーは『ご主人様が働かれるなら私も一緒に働きます』と言って、ラッシャは『あの麗しきオーナーにお近づきになりたい!』と言って手伝いを始めた。ラッシャの場合は、お金が欲しかったのもあるみたいだが。


 クーはホールで、ラッシャはジュンタと同じく調理場で働き始めた。
 酒場なのでそこまで手の込んだ料理はほとんどなく、素人でも担当できるのである。


「なぁ、自分。下着はどうなってふがっ!」

「しかし今日は疲れたな。さっさと眠らないと明日に差し支えるなぁ。ほんと、さっさと生ゴミ捨ててこないといけないのに、でかいな触りたくないなぁ、この生ゴミ野郎」


 ゲシゲシと床からスカートの中身を見ようとしてくるラッシャの後頭部を踏みつけながら、ジュンタは軽く首をゴキゴキと鳴らす。ちなみにスカートの中は…………キカナイデ。

「ほんと、この格好さえなければなぁ。店的に仕方ないのは分かってるつもりだけど」


 体力が回復してくるとともに甦る羞恥心。さっさと着替えようとジュンタが思い立ったところへ、恐ろしい回復力で起きあがったラッシャが尋ねてきた。


「そう言えば自分。仕込みのとき何かゴソゴソしとったみたいやけど、アレなんやったん?」


「仕込み? そうだった、忘れてた!」

 ラッシャに言われるまでジュンタはすっかり忘れていた。

 着替えるのを後回しにして、ジュンタは調理場の隅に置かれたアイスボックスに近寄る。


 アイスボックスは、冷蔵庫なんて存在しない世界のため急遽クーに頼んで作ってもらった、まんま氷でできた箱である。テレビ台の大きさで、中には昨日から試行錯誤し、今日手伝いを始める前に作っておいた取って置きの物が入っている。


 それは異世界に対する、今のところ唯一と言っていい不満に対する挑戦状だった。


「ん? なんやそれ?」


「実は俺は前から、焼き菓子しかないこの世界の甘味に文句があったんだ」


 後ろからラッシャが不思議そうな顔で覗き込んでくる。それに弾んだ笑みで返して、ジュンタはアイスボックスの中から茶色の円錐形状の食べ物を取り出した。

「で、なら自分で作ろうと思い立って、キッチンも貸してもらえるっていうから、試作品を作ってみたわけだ」


 白いお皿の上に乗ったそれは、スポンジ生地の上や間に丁寧にチョコレートクリームが飾られた、見事なチョコレートケーキだった。メニューにあったパウンドケーキに一手間加えた品である。

 
 それがチョコレートケーキなのは誰が見ても明らかだが、それはジュンタからしてみればの感性。取り出されたチョコレートケーキを見ても、まだラッシャは首を傾げたままだった。


「それケーキみたいやけど、何のケーキなんや? ものごっつう甘い匂いするんやけど……なんやったかな? どこかで嗅いだような匂いの気がするんやけど……」


「見て分からないのか? これはチョコレートケーキだよ」


「チョコレート? チョコレートってあの、ドロッとしたすごい苦い飲み物やろ? 薬としても使われとる。確かにちょい前から大衆でも買えるくらいの値段になって、一部の好事家が好きこのんで飲んでるっちゅうのは知っとったけど、ジュンタもそうやったんか」

「ああ、そっか。こっちだとチョコレートって言うと、そういう認識なのか」


 この世界にもカカオのような物はあり、それを粉末にして香辛料などと混ぜて飲む飲料を、この世界では『チョコレート』と称している。地球における、固形のチョコレートが生まれるずっと前の、チョコレートの始まりの辺りと同じ感じである。


 チョコレートは苦い飲み物であり、一部の好事家以外には、一種の薬のような感じで飲まれているだけなのが異世界の現状だ。砂糖を混ぜるという概念すらまだない。


「これは確かにチョコレートだけど、ラッシャが思ってるようなチョコレートじゃないぞ。ミルクとか砂糖とかを混ぜて作ったものだ。さすがに設備も時間もなしで固形チョコは無理だったけど、チョコレートクリームは何とか作れた……って言っても分からないか」


「まったく分からんな!」

 ラッシャが分からないのも無理はないのか。

 この世界のデザートと言えば、スコーンやクッキーなどの焼き菓子が一般的だ。

ケーキもスポンジケーキばかりで、冷やして固めるというケーキは存在しない。生クリームはあるが、チョコレートクリームはないなど、まだ現代の甘味文化にはほど遠い。


「仕方ない。口で説明しても分からないだろうから、実際に食べてみろ」

「うぇぇ? い、いや、ワイはちょっとチョコレートは苦手で……」

 ホールケーキを切り取って、一片をラッシャに差し出しても、まったく口を開けようとしない。この断固拒否の態度は、作った人間としてかなり腹立たしい。


「食え」


「嫌や」


「絶対おいしいから」


「ひ、人の味覚は人それぞれなんやって! って、なんでそんなにジュンタ強引なん!?」


 グイグイとフォークの先についたチョコレートケーキをラッシャに押しつける。
 甘いスウィーツを断るなんて、それは人間の所行ではない。色々と常人は止めているラッシャだが、一応まだ人間は止めてないっぽいので、断ってはいけないのである。


「ご主人様。ホールの掃除が終わりました」

そんなやりとりをジュンタがラッシャとやっていると、ホールの掃除を終えたクーが、一緒に帰るために調理場へとやってきた。


「あれ? ご主人様。ラッシャさんと何をなされているんですか?」


 何も知らずに小さく小首を傾げるクー――ラッシャを狙っていたジュンタの目がキランと輝き、ターゲットが変更された。


「よしっ。突然だけど、今日も一日がんばってくれたクーにご褒美をあげよう」

「え? 本当ですか?」

 ご褒美と聞いて、クーの長い耳が嬉しそうにピクピク動く。


 ラッシャの口に押しつけていたのは横に置いて、新しいフォークでチョコレートケーキを切り取り、フォークの先に刺してクーに差し出す。


「本当本当。これとってもおいしいケーキ。一口食べれば幸せになれること間違いないヨロシ」


「わぁ、素敵ですね。ありがとうございます」


「クー嬢ちゃんに魔の手が伸びてることは分かっとるのに、かわいい女の子が見た目女の子に餌付けされるっちゅう素敵な場面を邪魔できへん! くっ、すまんクー嬢ちゃん!」

 頭の抱えて苦悩するラッシャを視界から排除して、ジュンタはクーの小さな口にチョコレートケーキを近づける。


「はい、あ〜ん」


「あ、あ〜んです」


「ああ!?」


 パクリとクーがチョコレートケーキを口に含んだ瞬間、ラッシャが叫びを上げる。


 さらにラッシャは咀嚼し始めたクーが目を見開いたことにより、さらにのけぞって凶行を止められなかった自分を責め立てる。しかし――


「お、美味しすぎますっ!」

 実際に食べたクーは――――とろけた。

「凄く甘くてとてもおいしいです! 食べたことのない風味ですが、なんと言いますか、幸せが食べ物になったらこんな味じゃないかと思いました!」


「そうだろそうだろ。さすがはクーだ。いい子いい子」

「え? 嘘ん」

 おいしいというクーの賞賛にラッシャが信じられないと言う顔をする。


「う、うぅ…………いい男には度胸があるもんや! そしてワイはいい男や!」

 しばし悩んだあと、ラッシャは先程自分の口へと押し込まれようとしていたチョコレートケーキの切れ端を口に放り込んだ。そして咀嚼――すぐに顔は驚きのものへと変わった。


「なんやコレ?! 全然チョコレートやあらへんやんけ!?」


「いやいや、チョコレートですよ、チョコレートケーキ。まぁ、言ってしまえば、どんな食材でも作る人の腕次第でおいしくなるってことだな。俺が考えついたものじゃないけど」


 ジュンタの場合、お菓子限定だが結構のものを作る自信があった。

料理も作れないわけではないが、自信を持って出せるのは煮込みハンバーグぐらいのもの。共働きの両親だったために仕方なく料理を作っていたが、特に作ることが好きだったいうわけではなく、料理自体も得意というわけではなかった。

しかし好きこそ物の上手なれか、お菓子だけは大抵の種類が作れたりする。

むしろ夕食の代わりにケーキを作って食べる方が好きだったので、お菓子作りは趣味といっても過言ではない。


「ああ。労働後のスイーツの、何ておいしいことか。やっぱり疲れたときは甘い物に限るよなぁ〜」


 自分の分のチョコレートケーキを摘んで、ジュンタは至福の笑みを浮かべる。


「凄いです。これご主人様が作られたんですか?」


「これは……うぅむ。大量生産できたら大儲けできそうやな」


 クーとラッシャが感心する中、ジュンタはチョコレートケーキを切り分けて、それから紅茶の準備を始める。

「それじゃあ、トーユーズ先生とか誘ってみんなで食べますか」


「あ、私手伝います」


 自分だけで食べるより、みんなで食べた方が作り手としても嬉しいものだ。

 
おいしくて甘い物は皆で分け与える物……完成間近の二個目は、これから辛い修行に挑む自分へのご褒美として、あとで大事にこっそりと食べるとしよう。


「いつかは固形チョコレートにも手を出したい。いや、この手でいずれは、地球と同レベルの甘味文化を」

 明日からの修行をがんばろうと用意した甘いもの。

……この判断が、後々にあんな事態を招くことになろうとは、このときのジュンタは塵ほどにも考えていなかったのだった。









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