第五話  それは何の変哲もないお話





 猫の猫による猫のための愛を繋げる秘密機関――その名を、あなたは知っているだろうか?

 あなたが人間ならば知るはずがない。
 それは猫の中だけで知られ、半年前から囁かれ始めた秘密の機関だからだ。いや、秘密の機関というには語弊がある。今ではもう、その通称を知らないグラスベルト王国在住の猫はいない。


『多角的情報収集愛伝達網』なる正式名称は知られていないが、その通称はあまりに有名だ。


 即ち、それこそ『にゃんにゃんネットワーク』――生き神とさえ噂されている、一匹の猫を総裁と仰ぎ結成され、今ではグラスベルト国内の隅々まで情報網が行き交っていると囁かれている一大機関である。

早朝。王都レンジャール中の猫たちの中、一定地域の縄張りを管轄する名のある猛者猫たちが静かに、人の目から隠れるようにとある場所へと集結を始めていた。

そこは人の目につきにくい、路地の一角だった。

建物の下手な建設により、四方を完全に壁に囲まれてしまった中に、ぽっかりと開いた広めのスペース。入るには一つの建物の中程部分に開いた小さな隙間を通り、スペースに唯一一本だけある木を使って下りるしかなく、人間では四方いずれかの店を破壊するか、上空より下りてこない限り、決して来られない場所だ。


「さて、では集まってくれた同志諸君。ここに我らのにゃんにゃんネットワーク総会を開こうではないか」


 そこで、総帥の一声によって今開かれる。にゃんにゃんネットワーク――その秘密の総会が。






 メルメイは一年前王都へと引っ越してきた雄猫である。


 野良ではなく飼い猫。しかもご主人は相当なお金持ちで、優しい女の子。何不自由なくかわいがられていた。

 元より、生まれた場所は貴族向けのペットショップだ。その毛並みの美しさには、血統書としての輝きがある。黒毛の身体は夜の美しさを表し、尻尾の先だけ燦然と輝く白い毛こそ、この世の猫の中で最も美しき白と疑わなかった……今日のこの時までの話だが。


「秘密の総会、か」

 半年ほど前から商業都市ランカを中心に、猫同士による迅速かつ広範囲に広がる情報伝達網を繋げ、よりよい生活を営めるようにしようという運動にして機関が広まっていた。


 にゃんにゃんネットワーク――そう呼ばれている秘密機関は有名であり、飼い猫であるメルメイもその機関に一応所属していた。

 と言っても、生活に何不自由していなかったメルメイは、周りの猫たちが喜ぶような恩恵を何一つとして受けていなかった。むしろ一方的に情報だけを献上している立場に、美しい尾を持つ猫として不満さえ抱いていた。

 だけど、メルメイはまだ二歳。王都に引っ越してきて一年と、若輩者もいいところだ。

 何やら総帥に心酔しているらしい自分の暮らしている地区のボス猫に、不平をぶつけることなんてできない。が、彼女の方は察していたのだろう。朝も早くから彼女に連れられてやってきたのは、件の総帥が姿を現すにゃんにゃんネットワークの総会だった。

 ボス猫ではないメルメイに総会への出席の権利はない。

ただ、見学するだけなら構わないらしく、自分の屋敷の部屋に比べたら狭くて汚いスペースの隅で、同じように見学に来ていた猫と一緒に総帥の到着を待っていた。


「なぁ、メルメイ。お前は総帥がどんな猫か知ってるか?」

 そう言って出会ったばかりなのに親しげに話しかけてきたのは、コルテという名の雄猫。


 メルメイとは反対で、コルテは尾の先が黒く、鼻の頭にも黒いまだら模様がある白猫である。こう言ってはあれだが、メルメイとは比べものにならない毛並みの野良猫だ。

 一応猫社会には、縄張り以外にも飼い猫と野良猫とで区別と差別があるものだが、彼は一切気にせずに話しかけてきた。その性根は気に入ったので、メルメイも快く返答を返す。


「いや、知らないよ。噂だけはたくさん聞いてるけど」

「噂ってどんな? 俺も噂は知ってるけど、何かたくさんありすぎて、何が何やら分からなくなってるんだよな」


「僕もだよ。長年続いていたフリュリーゲンの、飼い猫派と野良猫派の戦争に武力介入して止めたとか、『暴君』と呼ばれていたランカのトルネオを諭し片腕として使ってるとか、最近ではエットーの猫たちを率いてとある人間の貴族の毛を略奪したとか何とか」


「そうだよ、それそれ。すっげーよな! どんな武勇伝だって話だよ。俺、聞いてて居ても立ってもいられなくてさ、無理言ってボスに連れてきてもらったんだよ!」

 興奮したようにはしゃぐコルテの様子に、メルメイは冷めた目つきで嘆息する。


「馬鹿だな。そんなのは本当に噂に過ぎないに決まってるだろ? 勝手に噂が一人歩きしたんだよ。そりゃ、にゃんにゃんネットワークを考えて本当に作るぐらいだから、ある程度の力は持ってるんだろうけど、そこまではあり得ないよ。そんなの猫じゃないし」


「だっはー! なんだよ、その冷めた発言? お前も見たことないんだし、本当かも知れないじゃなか。猫じゃない? そんな武勇を立てた猫がただの猫であってたまるかよ! きっと、歴戦の貫禄を漂わせる猛者猫に決まってるぜ!」

「どうだか。まぁ、夢見るのは勝手だけどね」


 あくまでもクールに、メルメイは総帥の到着を待つ。
 少なくとも、自分よりも綺麗な猫ではあり得ないな、と思いつつ。


「なんだ、その態度は!?」

「うっせー! テメェの方こそ何だその態度はっ!」


 そんな風にメルメイがコルテと話しながらしばらく待っていると、やがて総会に出席しにきた猫の内二匹が、何が原因かいきなり怒声をあげてにらみ合い始めた。


「んだ、やるってのか。西の?」

「そっちがその気ならいいだろう。やってやろう、東の長よ」


 メルメイやコルテより一回りも二回りも大きい、強そうな猫同士の一生即発の空気に、ざわざわとした波紋が広がる。

 喧嘩を始めた猫たちはメルメイも知っていた。王都レンジャールを統括する四大猫将軍の内、喧嘩の強さで知られる東の長と、静かな理論派としていられる西の長である。東の長は野良猫。西の長は飼い猫で、互いにそりが合わないことはよく知られていた。


「うわっ、西の長と東の長の喧嘩だ! どうするんだ? あの二匹を止められるの、北と南の長ぐらいだぜ?」

「他の街の猫だと、逆に侵害行為だって乱闘になるからね」


「だよな。うわぁ、総帥が来るっていうのに何やってるんだろ」


「ふんっ、仕方ないさ。あの二匹が顔を合わせて、今の今まで喧嘩が起きなかった方が不思議なぐらいだったんだ。責任があるとするなら、あの二匹を同じ場所に呼んだ総帥の方さ」

 威嚇し合うに二匹の猫は、毛を逆立たせてうなり声をあげている。

 北と南の長もお手上げだと二匹から離れ、もはや戦いは免れないと誰もが思ったその時、



――やめねぇか、二匹とも。おめぇら、ここがにゃんにゃんネットワークの総会だと知っての狼藉だろうな?」



 上から、酷くドスの効いた声が振ってきた。

「誰だぁ、俺様に文句いう奴は? 文句あるならテメェからやってやるぜ!」


「邪魔をしないでもらいたい。この野蛮猫は、ここで成敗しなければならないのです」


 無粋な横やりを入れた入り口である小さな通路から顔を出した相手に、二匹の長は威圧を込めた声を即座に返す。それは傍目で聞いてるメルメイでも毛を震わせてしまう力を持っていて、さすがは長と思うほどのものだったのだが、声の主に一切動じた様子は見られなかった。


「止めろと自分は言ったのだ。それ以上この神聖な場を汚すというなら、二人纏めて自分が相手をしてやろう」

それどころか、逆にそんな言葉を吐いて、颯爽と二匹の前に木を使わずに飛び降りた。

そこでようやく、はっきりとその猫の姿形がはっきりとなる。

「テメェは――

――まさか!?」


 二人の長が、目の前に現れた巨大なシャム猫の姿を見て目を見開く。

「初めてお目にかかるな、レンジャールの東の長と西の長よ」


 しなやかな筋肉を持つシャム猫は、鋭利な爪を見せ、片目に爪痕が刻まれた鋭い形相で長たちを睨む。

その威圧感は、周り一帯へと放つ長たちとは違う、まっすぐ研ぎ澄まされた刃のような威圧感だった。偶々直線上にいたメルメイはそのあまりの恐ろしさに自慢の尾をピンと立てたが、隣のコルテには一切反応がない。

「しかし、噂に聞くレンジャールの四大猫将軍の内二匹が、まさか場所を弁えずに喧嘩に走る若造だったとはな。かつては敵に値するかも知れないと少し期待していたものだが、どうやら戦わないで正解だったらしい。あまりにつまらん結果になっただろうからな」


 侮蔑の言葉を謎のシャム猫は長たちに投げかける。

メルメイが驚いたのは、プライド高い長二匹が、その言葉を甘んじて受け止めているところだった。恐らく威圧感で、戦わずして本能的な自分の敗北を認めてしまったのだろう。 


 しかし一瞬で長に敗北を認めさせ、なおかつ説教をするとは……果たしてあの猫は一帯何者なのだろうか?

「おい、メルメイっ。もしかしてもしかすると、あのお方が我らがにゃんにゃんネットワークの総帥じゃないのか?」


「あの猫が……?」

 興奮を隠しきれない様子のコルテに肉球攻撃を受けつつ、なるほど、とメルメイは納得する。


 あのシャム猫がにゃんにゃんネットワーク総帥ならば、長たちの態度にも納得がいく。
 確かにシャム猫の纏う貫禄は、メルメイが思い描いていた総帥の姿にも合致していた。

 密かに尊敬を向けていた自分のボス猫が心酔するのも、納得かも知れない。認めたくはないが、あの猫にはどう足掻いても勝てそうにない。


「……でも、やっぱり美しさなら僕の方が上だな」


 けれども、それはあくまでも強さの話――外見の美しさでいえば、確かにスポーティーな総帥(?)も美しいといえるが、自分に比べてしまえば粗野に過ぎた。

「やっぱりそうだ。僕より美しい猫なんていないんだな」


「うわー」とか「すげー」とか目を輝かせながらシャム猫を見ているコルテの隣で、メルメイは予想通りの結果に満足する。やはり自分こそ、この世の猫で最も美しい白を持つ猫で間違いあるまい――



「はっはっは。トルネオ、そんなに二人を叱るものじゃないぞ」



 ――そんなメルメイの幻想をたやすく打ち破ってみせたのは、シャム猫に対して親しげに声をかけた、新たな闖入者であった。

「あ」という小さな声はメルメイのもの。「おおっ」という声は総会に出席したボス猫たちのもので、「すみません」と頭を下げるとともに口にしたのは、トルネオと呼ばれたシャム猫のものだった。

「しかし、サネアツ総帥。ここは栄えあるにゃんにゃんネットワークの総会場所。そこでの狼藉は、例えこの地の長といえども許されるべきではありません」


 先程まで長たちに威圧的にしゃべっていたトルネオが、新たに入り口に現れた猫に対しては、丁寧な敬語を使っていた。

 そして彼が新しくやってきた猫に向けた『総帥』という言葉……間違いない。新しくこの場にやってきた白猫こそ、参入猫千匹ともいわれるにゃんにゃんネットワークの頂点に立つ、総帥その人なのだ。

「トルネオ。猫とは即ち、自由なるもの。遅れてきた我々にも否はあるのだ。ここは引いてもらえないだろうか?」

「あなたはそのようなことを自分に頼なくてもいいのです。出過ぎた真似をしてしまったようで、申し訳ない」

 シャム猫はするりと、状況についていけない長二匹を鋭く一瞥したあと、木を使って下りてきた総帥の隣に移動した。


「……………………総、帥」


 そこでようやくメルメイは、長く続いていた茫然自失から回復した。


 口からは畏れと驚愕の呟きが知らずもれた。それも仕方がないのか。そのとき受けた衝撃といったら、これまでの何よりも大きかったのだから。


「彼が、にゃんにゃんネットワークの総帥? サネアツ総帥……?」

 サネアツ――そうトルネオによって呼ばれたにゃんにゃんネットワーク総帥は、一言でいえばあり得ない猫だった。

 まず最初に驚くのは、総帥がまだ子猫であることだろう。


 この場に集まった誰よりも小さな身体。黒真珠のような瞳は大きく、その毛も子猫特有のふわふわとした毛だ。想像していた巨大で強い猫とはかけ離れていることに、まず驚く。


 次に驚くのは、そんな小さな猫に、あのトルネオが全幅の信頼と共に敬服している事実にだった。

 トルネオと言えば誰でも知っている、かつてその強すぎる力で多くの猫たちを力づくで従え、他の街の猫に喧嘩を引っかけては荒らすことで知られた『暴君』その猫である。
 確かに彼の貫禄は『暴君』であると言われれば納得のものだが、だからこそ、かつては畏れられた彼が小さな子猫に付き従っていることに驚かずにはいられない。

「…………美しい」


 そして最後に驚いたことは――これはあるいはメルメイだけだったのかも知れないが――そのあまりの美しさに、だ。

 見た瞬間、自分の美しさに絶対の自信を持っていたメルメイは、負けたと心の底から思った。


 全身に一本たりとも存在しない別色の毛。全身が処女雪のような純白であり、輝けるその姿は、子猫だからという理由だけでは説明できない美しさがあった。それはきっと、どんな血統でもありえない、彼だからこその美しさに違いない。


 首に真っ赤なリボンが巻かれているため、飼い猫なのだろうが、そんなことはメルメイにはどうでも良かった。自分の敗北を認め、その美しさに見惚れ、静かに忘我するしかなかった。

 けれども、不思議と悔しいとか、そういう気持ちはない。……メルメイは静かに理解した。

「本当に美しいものにはただ見惚れるだけで、余計な言葉は必要ないんだ」


 にゃんにゃんネットワーク総帥――サネアツ。


 メルメイの前に現れ、多くのボス猫たちに心酔されるあまりに偉大すぎる子猫は、正しく猫ではあり得ない猫だった。

「さて、では集まってくれた同志諸君。ここに我らのにゃんにゃんネットワーク総会を開こうではないか」


 だからこそ、メルメイは思った。

 サネアツ総帥の下に集うことが許されたボス猫たち――そんな猫に、自分もまたいつか、絶対になってやろう、と。






       ◇◆◇







 今回の総会で議論したのは、目下この王都で開かれる武競祭についてだった。


 祭の気配を感じて集まってくるのは、何も人だけではない。外部から質の悪い猫や、猫以外の獣たちだってやってくる。それらの情報と防衛策を交わし合うのは、非常に有意義だったといえよう。

 しかし総帥であるサネアツにとって最も有意義だったのは、総帥ではなく一人の人間――いや、猫か――として、総会に出席した猫たちに頼んだことの方だった。

 つまるところ、『武競祭に参加する選手の情報を揃えてくれ』という頼みである。

 これは自分本位の頼みであり、猫みんなの愛をかかげるにゃんにゃんネットワーク総帥として持ちかけるべき話ではない――そんな判断から一個人としてお願いしたのだが、返ってきた返答は快い了解の言だった。

 自分には無益だというのに、快く承諾し、張り切って総会終了と共に去っていった猫たちを見送って、サネアツはしみじみと思わずにはいられなかった。

「皆、本当に気持ちいい猛者猫ばかりだな」


「いえ。これも皆、総帥の指導力あってのこと。当然の結果でしょう」


「嬉しいことを言ってくれるではないか、トルネオ」

 サネアツはその場に残った、今では自分の右腕として活躍しているシャム猫――トルネオに笑みを向けた。


 かつては『暴君』と呼ばれるほどの殺気立った猫だった彼も、今では良き片腕としてあろうとしてくれている。あの猫の身体になってから初めて死を覚悟した戦いも、決して無駄ではなかったということだ。トルネオが前よりも楽しそうに笑っているのをよく見かける。

「しかしトルネオ。お前には色々と世話をかけさせてすまないな。この間は俺に先行させて、ジュンタの調査のためにグストの森まで行ってもらい、今回は王都にまで来てもらった。昨夜ついたばかりで、くたびれているだろう。今は休んだ方がいいのではないか?」

「何のこれしきのこと。何の不備もありません。むしろ元気が有り余っているぐらいですよ」


「ふっ、『暴君』と呼ばれた体力は変わらないと言うわけか」


 少しからかいを混ぜた言葉を贈ると、トルネオはどこか恥ずかしそうに尻尾を揺らした。


「それは言わない約束でしょう。あの頃の自分はまだ若かった。今思うと、あのように血気盛んに暴れていたのか恥ずかしい限りです」


「いや、そんな過去あってこその今の君だ。何も恥じることはない」

「ええ。今ではこうして総帥の片腕と働かせてもらってるんです。自分もまだまだ捨てたものではないと思っていますよ」


「頼りにしているぞ」

 ジュンタがラッシャという男友達を見つけたように、またサネアツもトルネオという部下兼友人と出会っていた。


 拳で語り合った時間を経て、信頼し合える関係になった。

 大事なソウルパートナーのための計画に協力してもらうのに、彼ほど頼りになる猫はいないだろう。

「しかし、これから俺はどうするか。皆快く頼みを引き受けてくれたが、ことがことだ。さすがに今晩辺りまでは情報は舞い込んでは来ないだろう」

「そうですね。総帥の飼い主様は今何をしていらっしゃるんです?」

 トルネオはジュンタのことを知っている。正確に言えば、彼は親友であり幼なじみであって飼い主ではないのだが、どうやらトルネオはジュンタのことをそう認識しているらしい。下手に否定すると、このリボンを首に巻いた方を飼い主と思いそうなので、あえて否定はしないが。

「ジュンタは今、武競祭に向けての修行中だ。マイステリンにこってり絞られていることだろう。昨日は思うようにことが運ばなかったようだからな。……ふむ、そろそろマイステリンには本気の本気になってもらうべきか」

 とある縁で知り合うことになったマイステリン――トーユーズ・ラバスは、間違いなく戦士としても教育者としても一流だ。


 しかし武競祭までは時間も少ない。ジュンタの魔力性質を感じ取ったならば、トーユーズも本気で教えようとしてくれているはずだが、それでもまだ足りない。彼女には本気の本気なってもらわなければ困る。そしてサネアツは、トーユーズをその気にさせることができる魔法の言葉を知っていた。


「時間もあるようだし、一度ジュンタの様子でも見に行ってみるか。トルネオ、お前は俺の泊まっている宿屋でしばし休息を……ん?」


 特に急いで取り組むべき仕事も今はないので、忙しくなることが予想される夜に備えさせるために、サネアツはトルネオに休息を促そうとした。が、それは結局声に出ることはなく、急ぎの用件がここに生まれてしまった。

「ぼ、ボス! トルネオさん!」


「なんだ? 騒々しいぞ、リト」


 ひょっこりと誰もいなくなった入り口に顔を出したのは、見知った猫だった。
 灰色の毛並みとカールした前髪を持つひょうきんな猫――リーデンリットことリトである。


 リトは木を伝って下りてくると、トルネオの注意を半ば無視して、慌てた声で用件をサネアツに伝えた。

「た、大変なんすよボス! ボスの飼い主のところに怪しい奴らが!」


「何、どういうことだ? 時期が時期だ。飼い主様には、二十四時間態勢で側近の猫が警護としてついているだろう?」

 ジュンタの周りに怪しい奴らが現れたと報告したリトは、いわば連絡係だ。

彼他数匹の猫は、武競祭に参加するジュンタの情報を、自分たちがそうしているように選手の情報を集めんとしている他組織から守るために行動しているはずだった。


 彼らは人間の事情をよく知る、にゃんにゃんネットワークでも凄腕の猫ばかりだ。一対一では敵わなくても、力を合わせれば屈強な男すら打倒してみせる。

「つまりは皆――『シストラバス家の騎士猫団』でも敵わぬような相手というわけか。急ぎジュンタの元へと向かった方が良さそうだな」

「お、お願いしますっ。正直、オレらだけじゃどうしようもないっす」

詳しい話は道すがらに聞けばいいと判断を下し、サネアツはリトに頷いて見せる。

それからトルネオへと振り向くと、


「どうやら、まだお前を休ませるわけにはいかないらしい。すまないが、援護を頼むぞ」

「了解です、総帥」


 爪を光らせて獰猛に笑うトルネオは、やはり『暴君』だった頃の気迫そのままに了承をした。
 その姿に若干リトが怯えるも、彼もまた『暴君』だった頃からトルネオを知る猫であり、飼い主の激しい修練を見ている身である。すぐに落ち着いてみせた。


「それでは、行くぞ。今の我らはジュンタの勝利のために動いている。にゃんにゃんネットワークの力を謎の敵に見せてやるときだ。して、リト。敵は一体どのような奴なのだ?」


「あ〜、それはっすね。怪しいと言ったわけですが、実際は相手が誰だか分かってたり、でも一応飼い猫として認めたくはなかったり……」

「どういうことだ? さっさと言え」

「は、はいっす」


 トルネオに睨まれて、話す言葉を決めているように口ごもっていたリトは、ジュンタに近付く怪しい奴の名を口にした。


 正確に言えば、敵がどのような怪しい姿をしていたかを。


「あれっすね。あれ、シストラバス家の秘密騎士団に間違いないっすよ。あんなけったいな被り物をしたメイドや騎士は、それしかあり得ないっすから」






       ◇◆◇







 リトの案内で現場に急げば、そこではすでに裏方としての戦いが繰り広げられていた。


 実際にジュンタが修行している場所から少しだけ離れたそこは、王都を囲む城壁のすぐ傍、陽光のあまり届かぬ薄暗い路地。

 人の身では潜むことのできない屋根の物陰に隠れた三匹は、視線の先にいる相手に気付かれないよう、猫の言語で会話を交わす。

「ね? ボス、オレの言った通りだったでしょ? あの格好はどう考えてもシストラバス家の人間っすよ」


「確かにその通りだ。間違いないだろう」


 視線の先の物陰には、コソコソと怪しい動きを見せる紅い鎧姿の男がいた。


 暗がりになってその容貌は分からない。けれどその輝く紅の甲冑を見れば、彼がシストラバス家に属する騎士であることは一目瞭然だ。こんなところでコソコソ隠れて何かをやっているということは、現在の彼は表だって動くことのできない秘密騎士団員として動いているに違いない。


「うわぁ〜、何というか、シストラバス家で飼われてる猫にしてみたらちょっと恥ずかしい光景っすよね。ボスもそう思いません?」

「俺は別にシストラバス家に飼われているわけではないがな。しかし、同意はしよう。こちらが猫であるという固定観念に囚われ、敵であることに気付いていないとは」

「それも仕方ないでしょう。確かに自分たち猫は、人間が思ってるより人間の情報に聡いですが、あくまでもそれは猫の間でしか交わせぬ情報。総帥のような特別な人語を介す猫がいない限り、猫に注意を払う隠密はいないでしょうよ」


「まぁ、普通ボスみたいな猫がいるとは思わないっすからね」


 トルネオとリトに言われ、改めてサネアツは自らの身の利点を自覚する。

 なぜか異世界にやってきた時点で猫の姿になってしまった自分だが、慣れてみるとそうこの身体も悪くない。のんびりまったりできるし、人の視点とは違った視点から物事を見ることが可能なのは素晴らしい。


 ただ、ちょっとジュンタの手助けをするには問題あるかと思ったが……今はある意味、人間の姿よりも行動しやすくなったと言えるかも知れなかった。

「人の言語と猫の言語を同時に操るということは、即ち両者の架け橋となれるということだからな」

 人間は猫には注意を払わない存在には気付くが、その前で秘密を話すことを厭わない。

 それもそうだろう。まさか猫が他の人間に、秘密を暴露するなどとは誰も思わない。思えない。
 それはあり得ないことであり、そのあり得ないことを現実のものにしてみせたのが、人語と猫語を操るトンデモキャット――サネアツ様その猫なのである。

(猫の言語を理解できるようになったのは、この身体になって一月ほど経った頃だったか……)

 元人間であるサネアツは、猫の身体になった当初、猫の言語というものを理解することができなかった。しかし一月ほど経ったある日、何となく分かるかもと思った瞬間、いきなり普通に理解することが可能になったのだ。


 言ってしまえば、周波数が合うようになったといったところか。

 今まで人間への周波数しか合わなかった耳が、猫の言語も受信できるようになった。人間は知らないだけで、周波数こそ合えば、あらゆる動物とはしゃべることが可能になるのである。


(まぁ、身体が猫であるから猫の言語を会得できたわけだな。猫の中には犬や鳥などの言語を理解するものもいるが、俺には人と猫の言語しか理解できないようだが)

 何はともあれ、この愛らしさをもって敵地に潜入し、知らない内に相手から情報を盗むということを、この猫の身体ならたやすく遂行することができた。さらには普通の猫たちともしゃべれるので、他の猫から色々な情報を仕入れることもできる。


 その最たる機関がにゃんにゃんネットワークであり、いずれは猫による情報網で、この世で手に入らない情報をなくすのがちょっと夢だったりする。

「ふっ、きっとジュンタがこの野望を耳にしたら、最悪の能力を最悪の男が手に入れたとか言うのだろうな」

「あれ? 何か言いました、ボス?」

「いや、何でもない。それでリト。あの秘密騎士団員は一体ここで何をやっているのだ? それに他の猫たちは何をしている?」

 陥った思考を中断して、改めてサネアツはリトにことの次第を尋ねる。


「他の猫たちは、あの騎士団員とは違う騎士団員に張り付いてるっす。彼らボスの飼い主のこと、どうやら遠目から観察してるみたいっすよ。今のところは情報がもれるようなことは起きてないっすけど、このままでは時間の問題っす」

「なら、お前らだけで追い払えないのは、単純に敵の数が多いからか?」


 トルネオの言葉にリトは頷いてみせる。


「それもあるっすけど、ある程度の騎士団員なら情報集めを妨害することぐらいは可能なんす。けど、一人厄介な相手がいまして……」

「厄介な相手とは、一体誰のことだ?」

「オレらにいつもエサをくれる、あの優しいメイドっすよ。彼女、魔法で遠距離から情報が探れるみたいで、さすがにこれにはオレらどうしていいか……」


「なるほどな」

 情報を集めようとしている騎士たちを妨害する役目にいるリトが嘆くのも無理はない。


 近付いてきた相手を追っ払うぐらいは彼らにもできても、さすがに魔法を使われて遠距離から狙われたらどうしようもない。特にリトが言った彼女のような、風の魔法使いが相手では分が悪すぎる。


「よし、分かった。彼女は俺とトルネオで面倒をみよう。リトは引き続きこの場に残って、あの団員が情報を得そうになったら、それを妨害してくれ」


「はいっす。あ、でも、オレあのメイド好きっすから、あんまり酷いことは止めて欲しいんすけど……」


 何ともリトらしい言葉に、トルネオは呆れた様子を見せ、サネアツは心配ないと笑った。


「ああ、もちろんだとも。彼女は俺の魔法の師でもあるからな。酷いことをするというより、されないように気を付けるので精一杯だ。心配はない。それでは、行ってくるとしよう」

「しっかり役目を果たせよ」

 その場をリトに任せて、サネアツとトルネオの二匹は城壁の上へと飛び移る。


 そのまま軽くカーブを描いたそこを走っていき、城壁の外の修行場に一番近いエリアへと足を踏み入れたところで、スピードを落として足音を消す。


 ――果たして、そこに彼女はいた。

(さて、引き受けたはいいがどうするか。ジュンタの情報を今シストラバス家に渡すのは、俺の計画にも、ジュンタにも都合が悪い。かといって、相手が彼女では二人がかりでも勝ち目は薄い)

 暗がりに紛れ込むように、城壁のすぐ傍で魔法行使を行っている視線の先の魔法使いを、サネアツは細目で見る。

 地面に巨大な陣を描き、手に緑の魔法陣を輝かせている魔法使い。
 彼女の背後にはもう一人男性が立っていて、彼女は彼の指示で動いているようだった。


 そして状況としてはかなり最悪なことに、彼女が立っている陣は儀式場に他ならなかった。
 恐らく今行使されている魔法は、離れた場所の状況を遠距離から探る、風の探査儀式魔法に間違いあるまい。

「この場所が突き止められたということは、昨日何かがあったということか」


「どうします総帥? このままだと、飼い主様の正体がばれかねませんと思いますが」


「『
竜の鱗鎧(ドラゴンスケイル)を身につけているため、早々正体は判明しないと思うが……如何せん、相手はジュンタが使徒であることを知っている二人だからな。その魔力だけで判別される可能性も否定できない」


 サネアツはじっと魔法を行使している女性と、その背後に立つ男性を見やる。


 二人とも、その容姿こそいつもと異なっているが、サネアツには二人が誰であるかが分かっていた。いや、分からないはずもないが、取りあえずは一応自分も『秘密騎士団』の一員ではあるので、礼儀としてその名は口には出さない。

「……やむを得ないな。儀式場を破壊する。その後反射的な反撃が予想されるかもしれんが、トルネオ、その時は頼むぞ」

「了解しました。総帥には傷一つつけさせません」


 人間二人にはにゃーとしか聞こえない返答をトルネオからもらって、サネアツは即座に魔法陣を構築する。

 イメージするのは、世界の中の自分にして、世界を塗り替える自分。

奇跡執行(マホウツカイ)――そんな特異能力を誇った少女がもたらした、新しき理にして、新たなる芸術を生み出しうる可能性のあるもの。

 ただ、勘違いはいけない。讃えるべきは彼女ではなく、起こりうる『美』そのもの――
 

もぐら叩きのもぐらが叩く それはつまり自由への飛翔


――っ!」

 魔法陣が茶色の輝きを放った瞬間、向こうもこちらの存在と魔法行使に気付き、即座に狙いを悟って儀式場より飛び退いた。

その直後――サネアツの放った地系統の魔法が、儀式場が描かれた地面の下からもぐらの頭のような石柱を勢いよく射出する。

 石の直撃を受けた風の儀式場は破壊され、溜められていた魔力は霧散した。

「……一応礼儀なので尋ねます。一体どちら様でしょうか?」

女性は男性を庇うように前に立って、着ているメイド服のスカートの裾を片手で持ち上げ、もう片方を服の袖の中へと入れる。

城壁の暗がりから離れたことで、その姿がサネアツたちの前に露わになった。


 見事なプロポーションを示す赤と白のメイド服。それはシストラバス家のメイド服であり、彼女は紛れもなくシストラバス家のメイドさんだった…………狐の被り物を被った。

 デフォルメされたかわいらしい狐の被り物を被った彼女こそ、まさしくシストラバス家の秘密騎士団員――狐仮面その人である。眼鏡でクールビューティーな姿を連想させる雰囲気を纏っているが、それでも彼女は狐仮面なのである。中の人などいないのである。

「狐仮面。一体誰なんだい?」

 魔力からこちらの正体に気付いた狐仮面とは違い、男性の方――秘密騎士団の首領である、高級なスーツ姿に、これまたデフォルメされた鳥の被り物を被った鳥仮面の方は、こちらの正体に気付いていないよう。


「鳥仮面様、ご安心を。相手は危険な相手ではありませんから。最高レベルの教育的指導を十年ほど費やせば、きっと良い子になってくれる人物です。……悪ガキ程度には、ですが」


「ほぅ、言ってくれるではないか。毎回敗北を喫していると思ったら大間違いだと言っておこう」

 今更隠れていても意味無いと、サネアツは城壁の上から二人の怪しい仮面人間たちの前に飛び出る。


 狐仮面はやっぱりという感じに、スカートを摘み上げていた手を放し、袖から手を取り出し、鳥仮面の斜め後ろに控えるように下がった。

鳥仮面の方もようやくこちらの正体に気付いたようで、興味深そうにくちばしの下に手を当てた。ちょうど顎に手を当てるような感じである。


「……サネアツさん。あなたは一体こんなところで何をしているんですか?」


「ちょっとした人間観察とでも言っておこうか。何やら怪しい二人組が覗きをしていたので、正義の子猫さんとしてちょっぴり妨害に来ただけさ」


 狐仮面の呆れ混じりの問い掛けに、サネアツはにゃんにゃんと笑って答える。

 それで何かしらのことに気付いたのか、鳥仮面はくちばしの下から手を離した。


「妨害、か。もしかしてサネアツ君は、あのアルカンシェルという選手について何か知っているのかい?」


「アルカンシェル? はて、一体何のことか、俺にはさっぱり分かりませんな」

 鳥仮面の質問を適当にぼかして、サネアツはあくまでも通りすがりの振りを貫き通した。


「とにかく、覗きとはあまりいい趣味とは言えませんね。そんなことをしていると、謎のキャット・ザ・正義の味方が現れてしまうというものです」


「ふむ。最近姿を見ないと思っていたら、何やら裏で色々と動いていたようだね。狐仮面の話では、アルカンシェルという選手が一番の曲者と見たが……はてさて、君が絡んでいるのなら、特に我らの活動上問題はないのかも知れないね」

「おっしゃっている意味は分かりかねますが、俺は今回はこちら側です、とだけ言っておきましょうか」


「そうか。君が我々の敵側につくということは、恐らくアルカンシェルは『彼』の関係者なのだろうね。しかし、それでも今回は君が選んだ相手でも譲れないな。……残念だ。君が味方にいてくれれば、非常に頼もしかったんだがね」


「俺としても、あなただけは敵には回したくなかった。いや、何のことかさっぱり分かりませんが、腕がなるというものです」


 やはり、さすがは鳥仮面ということか。
 僅かな会話とこちらの動きだけで、たやすくアルカンシェルという選手の概要を掴んでしまった。

 しかし、それでもアルカンシェルとジュンタがイコールで結ばれることは、彼や狐仮面の中ではありえないだろう。


 彼らは竜滅姫の役割を誰よりもが知るが故に、『不死鳥聖典』を行使した人間がどうなるかを知っているが故に、決してジュンタ生存の可能性は考えてはいまい。その可能性を考えるということは、つまり十年前に死んだという、カトレーユ・シストラバス生存の可能性を考えるも同然なのだから。

 想像できて、ジュンタの知り合いが限度といったところか。隠し通すのは十分可能とサネアツは見た…
…もっとも、それはあくまでも彼らの情報の手が、これ以上『アルカンシェル』に伸ばされなければ、の話ではあるが。

「それでは、今日のところは撤退するとしようか。そろそろお姫様が眼を覚ます頃だしね」

「はい。他の団員にも撤退の旨を伝達しておきます」

 背中の後ろで手を組んだ鳥仮面の言葉に、静かに狐仮面が頷き、付き従う。


「では、サネアツ君。お互い最善を尽くそうじゃないか。それぞれの大切な者のためにね」


「もちろんですとも。俺は何事にも全力投球完全燃焼爆笑必須を心がけていますので」


 味方にするとこれ以上ないくらい頼もしい彼を敵に回し、即座に分かるその恐ろしさ――今日は自分に免じて見逃してくれたが、明日からは壮絶な情報戦を仕掛けてくるのは間違いあるまい。何か対策を考えておかなければ、すぐにアルカンシェルの情報が奪われてしまう。

「サネアツさん」

 去っていく鳥仮面の斜め後ろを歩いていた狐仮面が、思い出したという感じでサネアツを振り返った。


「先程の魔法ですが、少々魔法陣構築から発動までのタイムラグが長すぎます。奇襲ならともかく、真っ向切っての戦闘では使用は控えた方がよろしいかと。それと、ああいう場合は儀式場に攻撃を仕掛けるのではなく、すでに発動した魔力の流れを阻害する方が正体も露見しませんので効果的です」


「なるほど、その手があったか。いや、やはり奥が深い。半年程度ではあまり応用が利かないようだ」

「いえ、その感性にはいつも驚かされます。基礎を押さえた上で以後も試行錯誤を繰り返せば、誰にも真似できない新たな魔法理論すら生み出せることでしょう。それでは、私もこれで」

「さらばだ」

 お辞儀をして、狐仮面もまた路地裏から姿を消す。


 そこで控えていたトルネオが姿を現し、ひょいと軽々と城壁から飛び降りてサネアツの隣にやってきた。


「どうやら今回は交戦はなかったようですね。あのメイドが、袖の下から得物をいつ取り出すかとヒヤヒヤしていましたが」


「残念そうだな、トルネオ。だが安心するといい。今夜あたりから、すこぶる忙しい日々が送れそうだぞ」

 もしも狐仮面がいっていた通りに、その魔法行使を混乱させる形で妨害していたならば、向こうに何の情報も与えずにすんだだろう。が、下手を打って少々のヒントを与えてしまった。これ以後、彼らが猫にも警戒を払う可能性は捨てきれない。


――実に、俺好みにおもしろくなってきたではないか」


 だからこそサネアツは心躍らせる。この駆け引きこそ舞台裏の醍醐味だ。

 互いに最大の敵が誰であるかは理解した。秘密騎士団はアルカンシェルの情報を探ろうとし、にゃんにゃんネットワークはそれを守る。それが今回の闘争の形。サネアツとゴッゾ・シストラバスの、それぞれの大切な人を優勝へと導くための戦いだ。


「ついでだ。ここまで来たのだから、我々の主役の様子でも見てくるとしようか」

愉悦も確かに、トルネオと共に再び城壁を上ったサネアツは、そのまま向こう側へと下りる。


 そのまま林を進んでしばらく進んでいくと、ジュンタがトーユーズと共に修行をしてい
る場所に出た。周りを林で囲み、許可を取った人間以外は近付いてはいけない、秘密訓練にはもってこいの修行場である。

トーユーズほどの実力者がいる限り、誰も至近距離までは近づけない。

猫であるサネアツらも、最後の林を抜けて、修行場を視界におさめる位置までが限界で……


「………………見事な飛びっぷりだな、ジュンタ」


 それでもそこから、大空へと羽ばたくジュンタの姿を、生で見ることができたのだった。


 トーユーズに思い切り蹴られた甲冑姿のジュンタは、二十メートル近く吹っ飛んでいる。

驚くべきは、そのトーユーズの脚力か。一体その足のどこにそんな力があるのか? 果たしてそこまでする必要があるのか? ……甚だ疑問だが、一度任せた手前、これはサネアツが口出しする問題ではなかった。

 ただ、ベチリと地面に激突したジュンタの痙攣具合は、少々やばいのではないかと思う。

「……あれは何の修行ですか? いえ、修行という名目での虐めですか?」

「確か今日は、昨日できなかった身体能力を測ると言っていたな。恐らくあれは、ジュンタの耐久力を調べているのだろう」


「総帥。総帥の飼い主様、あれ死にかけていませんか?」


「大丈夫だろう。ジュンタは耐久力と回復力だけはすでにトップレベルだ。見るがいい。マイステリンがあんなに喜々として蹴り飛ばせたのも、ジュンタの耐久力あってのこと。ジュンタの痙攣も今はすでに止まり………………完全に動かなくなったな」


 地上で痙攣していたジュンタが、気絶したように動かなくなった。いや、あれは本当に気絶だろうか? ショック死とかしてないだろーか? なんて、ちょっぴりお茶目なことを考えてしまう今日この頃、ジュンタ様、あなたはどうお過ごしでしょうか?

 むしろ今どこへ旅立っているのかを尋ねたい。
 きっと、綺麗なお花畑が見えるよ〜との返答をもらえそうである。

 サネアツの視界の先では、慌ててジュンタに近寄ったトーユーズが両手に雷を纏わせ、ジュンタの心臓あたりに思い切り電気ショックを喰らわせている。その顔は、ちょっとやりすぎちゃったようね、という感じだ。


 数分後――ジュンタは眠りから覚めるように、健やかに眼を覚ました。あれは旅立つ前数分の記憶がない顔に間違いない。

「……本当に守るべきは、こちらの方ではないでしょうか?」

「いや、マイステリンならきっと大丈夫……のはずだ。生かすも壊すも甦らせるのでさえ自由自在だからな」


 やがて再び修行に戻った二人を見て、サネアツはそう言い切った。

ちょっぴりエキセントリックな女傑だが、それでも指導者としては一流だ。あんなこと早々あるわけが……


「今度は地面を陥没させる勢いでかかと落としを。また、飼い主様は痙攣して動かなくなりましたが?」

「いや、あれは恐らく超ダメージを前もって経験させておくことで、以後大ダメージ程度では冷静さを失わせなくさせたり、対応を早くさせるための修行だろう」

「その割には、記憶を失っているようですが……放っておいてもよろしいんですか?」


「さぁ、トルネオ! そろそろ宿に戻るとしようか。これ以上この場所を見ていると、覗きカッコワルイと注意した手前、示しがつかないからな!」

 HAHAHAHAと笑ったサネアツは、トルネオと共に修行場を後にする。

 強く生きろよジュンタ――そう心の中で呟きつつ、やはり今日の夜にでもトーユーズにあの魔法の言葉を伝えようと強く思ったのだった。

 やっぱり、ほら。ね? 本気になるのと大切にしてくれるようになるのは、きっと同義だろうし。






       ◇◆◇






 王都レンジャールの夜に蠢くのは、光の当たらぬ場所で繰り広げられる闘争。

 開幕まで十日を切った武競祭により、街は祭の騒がしさを加速させ、その騒ぎに紛れて多くの前哨戦は始まっている。


 であるなら、これもまた勝利のための前哨戦か。

 営業時間が終わった深夜の『鬼の宿り火亭』――薄暗がりの中、ろうそくの灯りだけを頼りにして何やらホールで考え込んでいるのは、夜の似合う美女であった。


「あら? サネアツちゃん、まだ起きてたの?」

 帳簿のようなものを前にしてトントンとテーブルを指で叩いていたトーユーズは、さすがというか、サネアツがやってきたことにすぐ気が付いた。


 トコトコと歩いてテーブルまで近付いたサネアツは、テーブルの上へと跳び乗る。


「どうかした? 何やら神妙なかわいい顔だけど?」


「はい。実はマイステリンに一つ話しておくべきことがありまして」

「話? このタイミングだと、ジュンタ君のことかしら?」


「その通りです」


 常人にはわかりにくいだろうこちらの表情に気付くことといい、この察しの良さという、やはり並とは一線を画したものを彼女は持っている。トーユーズにジュンタのことを任せたのは間違ってはいなかったと不安を払拭させつつ、サネアツは彼女と目を合わせた。


「マイステリン。ジュンタの修行はどうにかなりそうですか?」

「武競祭で優勝できるかってこと? だとしたら、答えはノーね。たった十日程度じゃ、いくらあたしでも基礎と初歩を教えてあげることしかできないし。あとはジュンタ君が今持ってる力を伸ばしてあげられもするでしょうけど、それでも武競祭は甘くないわ」


 ジュンタに話したときは違う、あくまでも現実的な話をトーユーズは口にする。このあたりの正直さが、サネアツが言わずに望んだものであった。

「今回の武競祭。確かに不死鳥祭での武術大会より、格段に選手のレベルは落ちるわ。
 騎士団は最強を選出せず、一般参加者は貴族の手回しの前に勝者になれず。けど、それでも本物の強者が少なくとも二人は出場してる」

「シストラバス家の代表二人ですね」


「そ。リオン・シストラバスは不死鳥祭の武術大会でも、十分優勝を狙える実力を持ってるわ。もう一人の代表が誰かはわからないけど、ことがことだものね。まず確実にリオンちゃん以外では負けないだろう強者を選出してくるでしょう」


「……もう一人のシストラバス家の代表、すでに判明しています。マイステリン、あなたのかつての先輩だった人ですよ」

「え?」


 そのトーユーズの驚きの声は、サネアツがすでにシストラバス家のもう一人の代表を知っていたことに対するものか。それとも代表が自分の知り合いの彼であったことか。あるいは出るとは思っていなかった彼が出るからか。

「……それ、本当なの? いえ、嘘は言わないか……だとしたら最悪ね。『達人級』が相手じゃ、最強装備を調えても今のジュンタ君では勝ちようがないわ。ただでさえあそこの武装は、ジュンタ君の用意した武装の天敵なのに」

 組んでいた足を組み替えたトーユーズは、難しそうに眉を顰める。

「あたしだって約束したんだもの、優勝できるプランは考えてるつもりよ。ジュンタ君が元々持ってる力は色々と奇策に応用が利きやすいし、せっかくの武装自由で『竜の鱗鎧(ドラゴンスケイル)』まで用意してるんだもの。機動要塞みたいにして戦えば、決して優勝が狙えないわけじゃないと思ってたけど……」


「戦いは始まったときにはすでに決まっている。情報戦や準備は、恐らくこれ以上ないくらい上手くいくでしょう。あとはどれだけマイステリンが、ジュンタを鍛え上げられるかで勝率は決まります。対戦の組み合わせは恐らく操作され、確実に強い選手同士が当たるようになってると予想されますので、頼れませんから」

「またプレッシャーを。そっか。でも、倒すべき相手がわかってるのは嬉しいわ。わざわざ教えてくれてありがとね。ドラゴンスレイヤー対策とか、最善は尽くすわ」

 頭の中で教育プランの組み替えでもしたのが、どこか覚えた技を試したがっている子供のようにトーユーズは笑う。

 いや、実際に彼女は今楽しいのだろう。


 サネアツがトーユーズに教師を頼んだ理由は、また彼女にしてみても、ジュンタの教育が楽しいものになる理由でもあるはずだった。

 ――
即ち、弟子が才覚溢れているという教育者の愉悦である。


「楽しそうですね、マイステリン」

「ん? ええ、まぁね。思っていたよりも、ジュンタ君は特別だったから」

トーユーズに本当の教育者の愉悦を感じさせるには、ただ単に弟子が武の才能を持っているだけでは足りない。トーユーズほどの実力者ともなれば、天才を弟子にとろうと思えば簡単にできよう。けれど、並の天才ではトーユーズに愉悦を感じさせることはできない。

 師が弟子に求めるのは自身の武の伝承だ。これを考えれば、弟子は最低でもトーユーズと同程度の天才でなければならない。

トーユーズ・ラバス――彼女は紛れもない天才の中の天才だ。
 
 そして極めて稀な属性と魔力性質を持ち、彼女独自の戦い方はその性質あってのもの。
 例え天才であっても、彼女独自の戦い方を継承できる性質を持っていなければ意味はない。

「あんまりにもあたしが天才過ぎたから、今までたくさんの子を見てきたけど、結局あたしの伝承者となる弟子はいなかった。天才はいても、あたしの伝承者になる特別はいなかったわけ」


「けれどジュンタは違う。ジュンタは『誉れ高き稲妻』の伝承者としてふさわしい、稀な属性と魔力性質を持っている」

「雷の属性は魔法使い百人に一人。その雷の属性の中で『加速』の魔力性質を持つ者は、また百人に一人。なおかつ、豊富な魔力量を持ってあたしの剣術を伝承できる者は、その中でも百人に一人程度。ジュンタ君は百万分の一の特別――初めてよ、そこまで揃った弟子を取ったのは。それだけで、あたしが本気になる価値はあるわね」


 もっとも、とトーユーズは残念そうな顔で続ける。

「残念だけど、もう百分の一の武の才能は持っていなかったようね。一億分の一の奇跡。正真正銘のあたしの全てを受け継がせられる伝承者かと期待したんだけど、ちょっと足りなかったわ」


「ジュンタに武術の才能はありませんか?」

「呑み込みは早いし、回復力はあるし、耐久力も抜群。まぁ、魔力がたくさんあるからね。ある意味では才能としては十分よ。けど、多くの使徒が戦う術として魔法を選んだように、才能をいえば魔法使いの方に才能があるわね、ジュンタ君は」


 豊富な魔力量は、それだけで魔法使いとしては最強の手札となる。


 魔法を極めた使徒は、まさに人の形をした大量破壊兵器だ。現に現代に生きるジュンタを含めた四人の使徒の内二人は、魔法使いという話である。


「しかしながら、生憎とジュンタが選んだのは剣の道のようです」

「リオンちゃんと肩を並べたいっていうんだもの、それなら剣を執るしかないわね。大丈夫よ。あたしが望んだ、あたしの全てを継承して、なおかつ昇華させる騎士にはなれなくても、ジュンタ君は間違いなく最強クラスの実力は持てるわ」


 使徒は長い年月を、『覚醒』――神獣に初めてなった瞬間から老化せずに生きる。

 純粋に使徒は、エルフと同じように、長くその強靱な肉体を保てるが故に強いのだ。


 最終的にジュンタは強くなる。ああ、トーユーズほどの師がつけば、間違いなくそうなろう。しかし一つだけ、トーユーズは大切な間違いを犯している。

それはジュンタが、真実トーユーズが望んだ奇跡――否、この世界で唯一無二の、十億分の一以上の特別であることに気付いていないこと。ジュンタこそ、長年トーユーズが待ち望んだ宝物と未だに知らないことだ。


「さて、マイステリン。どうやら勘違いしているようですが、今日自分が話しにきた本題は、シストラバス家のもう一人の代表のことではありません」


 だから、そろそろ気付いてもらってもいい頃合いだ。多くの人が知らない真実に――夢が叶う瞬間に。

「どういうこと、サネアツちゃん? 本題って何?」

「簡単なことです。『加速』のみならず、ジュンタが『侵蝕』の魔力性質をも持つ理由ですよ」


『侵蝕』――知る人が聞けば、即座にアレを連想させる単語に、トーユーズが纏う空気が変質する。


 穏やかさと艶やかさが消え、冷たい炎が燃え上がる。

 抱えた過去に無断で踏み込こもうとしている相手に対する、それは糾弾の焔が秘められた視線だった。


「……シストラバス家の代表を知ってるんだもの。あたしの過去を知ってることには今更驚かないけど、ジュンタ君が『侵蝕』持ちってのはどういうこと?」

 その視線の威圧感の、何という重さか。何というか恐ろしさか。

これほどの『本気』を持っているのだから。やはり、全然トーユーズは本気ではなかったのだ。

では、この否が応にも期待を刺激する本気をジュンタにも発揮してもらうために、一つのお話を語るとしよう。

「使徒とは是即ち、神獣こそが本性である。使徒が持つ魔力性質とは、魂が持つ形と、その神獣が持つ力の形とが表す、二重性質に他なりません」


 ――あるところに、極々普通に人生を楽しんでいた少年がいました。


「っ! ちょっと待ちなさいよ。ジュンタ君が『侵蝕』を持ってるってことは、まさかジュンタ君の神獣の姿って……?」



 ――あるところに、誰もが憧れるような紅い騎士のお姫様がいました。



「察しが早くて助かります。ええ、その通り。白い身体に虹の翼が映える、まさに美しい純白虹翼のドラゴンでしたよ」


 ――二人は出会い、そして少年はお姫様に恋をしてしまったのです。


「純白、虹翼……」



 ――だから、怖い怪物への生け贄となるお姫様を助けるために、少年はがんばりました。



「それってまさか、半年前の『双竜事変』で現れたっていう……!」



 ――それは少年にとって初めてだらけの、とってもとっても大変なことでした。



「……竜滅姫様がドラゴンを前にして生き残った…………でも、それはそういう奇跡だって……」



 ――それでも一生懸命がんばって、ついにはお姫様の背負った運命を破り、助けてみせたのです。


「そうです。それは奇跡のお話――偶然に起こった奇跡ではなく、それは一人の少年ががんばって起こした、そんな奇跡のお話」




 ――そう、それはそんなお話。それは多くの人が望んだ、お姫様が救われるお話です。





「では、聞いてください。そんな奇跡を待っていたあなたに贈る――

 サクラ・ジュンタがリオン・シストラバスのために紡いだ、お伽噺みたいな本当のお話。



――――これは何の変哲もない、ただの愛の物語です」










 戻る / 進む

inserted by FC2 system