第六話  開幕の武競祭




 王都レンジャール中に開幕のファンファーレが鳴り響く。

 さらにファンファーレの終了と共に、青空でいくつもの花火が咲き誇った。

 紅蓮に燃える魔法による花火は、日中にも関わらず鮮やかに花開いた。国をあげての一大イベントの開幕には、なるほど、確かに似付かわしい。

 王都にいる全員に開幕を告げるファンファーレと花火――そう、今こそ武競祭の開幕の時。
 広がる青空の下、王城のコロシアムで幾人もの勇壮を猛る者同士の戦いが始める…………ことはなかった。

 王都内にある時計台の針が午前十時を指した時、武競祭は開幕する。

 その情報は正しい。しかし現在時刻はすでに十時を過ぎているというのに、王城にいるのは常々と変わらぬ面々ばかり。

 それもそのはず。武競祭のルールにおいて、開幕と同時に王城間際にある王城コロシアムでは戦いは始まらない。武競祭開幕のファンファーレと共に選手同士の戦いが始まったのは、王都の各地にある十の小コロシアム――決闘場だ。

 王宮が予想した武競祭への参加者数はのべ数百人。
 国中の戦士が集まるのだから、それぐらいいても不思議ではない。王国騎士団や貴族の騎士団などには出場の制限を行えても、各地に散らばる傭兵、流れの騎士などには制限は届かない。

 しかし、そんな大人数の参加者全員を王城のコロシアムで戦わせることはできない。

 いくらコロシアムが広かろうと、一度に戦うことができるのは、騎士の決闘の掟に重んじて一対一。即ち二人のみ。参加者数百の内の二人である。一日に交代で行っても、一回戦が終わるまで何日かかるという話だ。

 よって、王城コロシアムを使うのは本戦のみとし、本戦に出場できる選手を決めるために、王都の各地にある決闘場で予選を行うこととなった。

 騎士団からの代表選手を除いた、予選から本戦に出場できる人間の数は二十人。

 十の決闘場にそれぞれ選手を分けて予選をさせるとなると、一つの決闘場で本戦に行けるのは二人――武競祭開幕から数日かけて、本戦に出場できる戦士を選別するのだ。

「予選が始まったようですわね」

 そんな予選など、すでに武競祭本戦への出場が決まっている選手には関係ない。

 リオン・シストラバスは武競祭開幕のファンファーレを耳にしても、武競祭が始まったという気持ちはあっても、戦いが始まったという感触はなかった。

 予選は五日間。予選最終日にある本戦開会式に、明くる日の休みを入れれば、実際に戦う日まではまだ六日ある。それをまだ六日もあると思うか、もう六日しかないと思うかは人それぞれだが、リオンはまだ六日もあると、そう思えてしかたがなかった。

「…………はぁ」

 武競祭が開かれることが決定され、その結果次第では自分の今後が決定すると告げられた冬の日から、ずっとずっと待っているのだ。あと少しと思えば思うほど、まだ六日もあると思えてしまう。

 特に、最近のような憂鬱な日が続けばそれも仕方のないこと。…… リオン・シストラバスは、武競祭予選には興味がなかった。

 レンジャールにある邸宅の自室で、リオンはユースの淹れてくれた紅茶を飲む。

 焼きたてのスコーンが入ったバスケットと、色とりどりのジャムの入った容器が小さなテーブルに並べられ、いい匂いを香らせている。そこに紅茶の匂いが混じった甘く深い匂いは、リオンの大好きな匂いだった。

 しかしそんな匂いも、紅茶の味わいも、こんな気分では色褪せてしまう。

「……ふぅ」

 行儀が悪いとは分かってながらも、テーブルに頬杖を付きながら、リオンは窓の向こうの景色を眺めていた。

 レンジャールにやってきた一月近く前よりも、人通りも多くなってにぎやかになった都。
 晴天にも恵まれ、国が一週間以上かけて開くお祭りの開幕は、とても楽しげに始まっていた。決闘場では、今まさに互いに全力を尽くした戦いが行われていることだろう。

 しかしリオンには分かっていた。そんな堂々たる戦いの影で、様々な悪辣極まりない政争が蠢いていることを。

「ただ正しくあろうとすることの、なんと難しいことか……世の中ままなりませんわね」

 ふぅ、と三度目の溜息をついて、紅茶を飲み干す。

 後ろで控えていたユースが、空になったカップにすかさず次の紅茶を注ぐ。
 カップをテーブルに置きながら、ユースはいつも通りの静かな声で、リオンに声をかけた。

「リオン様、大丈夫ですか?」

「ええ、もちろんですわ。体調管理に抜かりはありません」

「……私にまで、無理に笑われることはありませんよ」

 この表情がないとよく囁かれる従者の感情を読みとれるまで、リオンは長い時間を要した。
 しかし一度分かってしまえば、あとは本当に分かりやすいと思う。今のように心の底から心配してくれていることが、その雰囲気だけで読みとれる。

「ありがとう、ユース。でも、本当に大丈夫ですわ」

 頬杖を止めて、無理に返す笑みでなく、リオンは本心からの微笑をユースに向ける。

「そもそも、大丈夫も何も、私が気にしていたのは本当に些細なことですもの」

「些細なこと? ここ最近頻繁に訪れる、騎士団の代表選手たちのことですか?」

「やはりユースには分かってしまいますのね。その通りですわ。あの鬱陶しい輩ども――正確には自分の未来に不安を覚えていますの」

 ここ最近、よくレンジャールの別邸に貴族の嫡男たちがやってくる。その誰も彼もが、どこかで見覚えがある名高い家柄の貴族たちばかりである。

 彼らは此度の武競祭本戦に参加する、騎士団の代表選手たちだった。
 そんな彼らが屋敷にやってくることに、あいさつをという建前とは別の本心があることは簡単に察せられる。

「たとえ貴族がそういうものであるとしても、あそこまであからさまな『賞品』に対する態度を取られると、相手が由緒ある貴族であればあるほど嘆かずにはいられませんわ。この国の未来は、本当に大丈夫なのでしょうか、と」

 リオンが憂鬱なのは、それが原因だった。

 此度の武競祭の優勝者と自分は婚姻を結ぶことになる。
 それ自体が勅命であるのならば、グラスベルト王国の貴族であり騎士であるリオンに逆らう術はない。少なくとも、王国側の言い分にも納得できるからなおさらに。

 リオンは竜滅姫と呼ばれる、特殊な役割を担う人間である。

 竜滅姫の役割とは、それ即ちドラゴンの討滅に他ならない。
 シストラバス家は、その祖たる使徒ナレイアラの時代から、延々と竜殺しの役割を担い続けている家系なのだ。当代の竜滅姫であるリオンもまた然り。竜殺しの役割を担っていた。

 竜殺しは『不死鳥聖典』と呼ばれる使徒の聖骸聖典を用いて行われる。

 この竜殺しの力を持ったナレイアラの炎を行使できる聖典には、その力の強大さゆえに代償が伴う。行使者――つまりは竜滅姫の命という代償が。

 数十年間隔で現れるドラゴンを倒す度に、その代の竜滅姫は死ぬ。

 それがシストラバス家の竜滅姫に生まれた宿命。そのことに対する誇りはあれど、リオンには悲しみはない。覚悟もある。事実として、使命のためにこの身を捧げられるのならば本望である。

 だが、そうやって使命に殉じる前に、竜滅姫にはもう一つするべき義務があった。

 それこそが次代の竜滅姫を用意しておくこと――即ち、子をなして血を残すことだ。

 シストラバス家の血の断絶は、即ち竜滅姫の消滅を意味する。そうなれば、使徒とナレイアラの子孫にしか使えない『不死鳥聖典』は使えず、ドラゴンが現れたときの抑止力がこの世から消失することになる。あるいは、抑止力の代償が使徒様に変わってしまう。

 ドラゴンは強く人では勝てない。竜滅姫の喪失は国の滅びを招き、大勢の人を殺すことになるだろう。

 だからリオンは早めに誰かと添い遂げ、死ぬ前に子供を残さなければいけない。
 その必要性は他でもない自分が一番承知している。が、承知していてなお、血が途絶えかけた事件が半年ほど前に起きた。

 それこそが『双竜事変』――常より早い間隔での、ドラゴンの強襲である。

「あの事件――『双竜事変』と呼ばれるようになった事件は、今もまだ私に、竜滅姫としての宿命を目の前に突きつけていますわ」

「ドラゴンを滅する宿命は許容できても、婚約には反対なのですか?」

「そうではありませんわ。ありませんけど……」

 今と同じく半年前のリオンの年齢も十六歳。
 聖神教が定めた結婚可能年齢まで、後二年ほど足りないその時期にドラゴンは現れた。

 現れれば、竜殺しを行わなければならないのが竜滅姫だ。
 先代竜滅姫だった母カトレーユ・シストラバスのように、これまでの祖先のように、リオンは誇り高く死ぬことを決定した。

 ……結論だけをいえば、今こうして生きていられるように、数奇な運命により死ぬことはなかった。

 それでも『双竜事変』で、竜滅姫の血が断絶しそうになったのは事実。

(反対など、できませんわよ)

 ドラゴンという存在がこの世にあって許容されているのは、竜滅姫あってのもの。
 どれほどの恐ろしい怪物でも、あれは天災。竜滅姫という存在によって鎮められる一時の災害だ。

(竜滅姫を誰もが知っているのは、ナレイアラ様の時代より、ドラゴンに対する人々の希望だったから。ドラゴンのいる世界で人々が世界に絶望しないのは、竜滅姫がいるから。私がいるから……)

 だからこそ、竜滅姫という存在を欠けさせた世界がどうなるか、分かったものではない。

 古の時代がそうであったように、ドラゴンが厄災ではなく人々にとっての絶望に、世界にとっての猛毒になりかねない。

 このような武競祭という祭りが急遽執り行われた背景に、竜滅姫が断絶しかけたことに対する人々の不安や、いつもよりも早いドラゴンの強襲等による不安を払拭する意味合いもあったのは想像にたやすい。

(断固反対できたらどれだけ良かったか。祭りと同じように不安を払拭するため、王宮が焦って私に結婚をしろと……武競祭の優勝者と結婚をしろと、勅命を出すのも納得できない話ではありませんもの。自分の感情だけが理由で断れるはずありませんわ)

 こうなって初めてリオンは気が付いた。自分の担っている役割の重大さに。世界に対する、竜滅姫の必要性に。
 
(絶対に、絶やさせてはいけない。竜滅姫は、決していなくなってはいけませんの。千年という長い間絶えなかったのは、絶対に絶やしてはいけなかったからなんですわ)

 だがしかし、納得できるのは竜滅姫としての自分だけ。
 一人の女として、この瞬間に戦略結婚するのはリオンとしても納得し難いものがある――そんな双方の無言の言い分の結果、武競祭にシストラバス家も代表を二名出場させることが許された。

 ある意味ではおかしな決定だろう。もしリオンが代表として出場し優勝すれば、結婚話はなかったことになるのだから。

 聡明なる父親は、しかし王宮側の狙いが分かったようで、苦々しい顔で教えてくれた。

『やられたよ。これでもし負けたとき、結婚せざるをえなくなった』

 つまりはそういうこと。

 双方の合意の元になされたこととして、敗北したときのいい訳をさせない気なのだ。
 恐らくは、こんな事態に持っていくことこそが王宮側の策略。まんまと嵌められたリオンは、自分が優勝しない限り本当に結婚しないといけなくなる。

「王宮が一体どんな悪辣な手を打ってくるか……分かったものじゃありませんわね。少なくとも、騎士団の代表選手の幾人には王宮側の息がかかってると思って間違いないでしょう。あの顔を見れば、それがよく分かるというものですわ」

 そんな背景もあって、今度の武競祭は『武を競う祭』と謳っておきながら、実際は武だけではなく裏での様々な駆け引きが重要となるだろう。もしかすると、王宮から選ばれた騎士の代表に対して、秘蔵の武器やアイテムが授けられている可能性も考えられる。

「あらゆる防具、武器、魔法の使用可。加えて、あからさまに操作されただろう騎士団の選出」

「王宮の息がかかっていると思しき騎士団以外は、実績の乏しい有名無実の騎士団ばかりですからね」

 ユースの言うとおり、王宮の息がかかっていると思われる三の騎士団と王国騎士団からの代表二名。シストラバス家の二名を除いた五つの騎士団は、本来こういう戦いに選ばれないだろう、家柄は高くも騎士の錬度は低い騎士団ばかりであった。

「まったく、公平な審査が聞いて呆れますわ」

「王宮側もそれだけ本気ということですか。エルフリージ家、レストバル家、スニア家には注意を払っておかなければいけません。どれほど戦いの場以外での妨害を行ってくるか。家同士で足を引っ張り合ってくれれば助かるんですが」

「大丈夫ですわよ。何をしてきたとしても、お父様には通用しませんもの。むしろお父様はそんな行為をしてこれば、逆にそこを突っついて蹴落とせると言っていましたわ。
 私は決戦の場での勝利を掴むのみ。誰にも文句を言わせないぐらい、完璧に勝利すればいいだけの話ですわ」

 騎士らしからぬ真似をする輩は、必ずや傑物とまでいわれた父――ゴッゾ・シストラバスの裁きが下るだろう。

 リオンがするべきことは、本来の戦いの場での勝利に他ならない。

「それを考えれば、気を付ける相手は他にもいますわ」

「王宮側も考えつかなかった策を打ってきた、バーノン伯爵家の代表選手ですか?」

「そうですわ。あのアルカンシェルという男、恐らくはバーノン家とは何ら関係のない男。あの姿を隠す甲冑も、勝利した段階で他の人間と成り代わるためのもの……考えましたわね。自分の騎士団に強者がいないなら、他から持ってきて影武者として機能させるなんて」

 黒騎士アルカンシェル――十日前に起きた、王宮でも噂になった大規模な魔力を行使したバーノン伯爵家騎士団からの代表選手。

 素性不明。実力未知数。バーノン家の者に訊いても決して語らぬ、謎ばかりの騎士。

 悪しきを纏った、化け物じみた魔力量を誇る黒騎士の存在は完全なイレギュラー。王宮側も予見していなかった、どうなるか分からない不穏分子である。シストラバス家の情報網を持ってしても、何らかの妨害にあって未だほとんど情報がない。

 そしてそんな男はリオンにとっても、やはり得体の知れない感情を抱く相手だった。

「なぜかあの無礼者のことを考えると、こう、苛々しますのよ。
 ふふっ、中が誰だろうが、後で中身を入れ替えようが関係ありません。完膚無きまでに叩きのめして、大衆の前で素顔をさらけ出して差し上げますわ!」

 そう宣言し、強くまなじりに力をこめ、ぐっとリオンは握り拳を作って笑った。

「……でも、そこまで分かっていらっしゃるのに、どうしてリオン様は憂鬱そうな顔をされていたのですか?」

 今更のように気が付いたユースが尋ねてくると、リオンはまなじりから力を抜いた。

「毎日来る彼らを見ていると、こう思わずにはいられませんもの。いつか私が誰かと結婚するとき、あんな貴族の誰かと結婚しなければならないのか、と」

「ああ、なるほど。それは切実な問題ですね」

 今回は結婚を回避することが至上だが、いずれは血を絶やさぬため早めの結婚を迎える日が来るのは間違いない。その時に相手となるのは、名高い貴族のいずれかとなろう。それを考えると、情けない貴族ばかりを最近見続けれていれば、未来に不安を抱くのも無理はない。

「はぁ……私のことを本当に好いているのかは知りませんけど、結婚したいのなら、そのような回りくどい真似せずともよろしいでしょうに」

「それを言うのは酷というものでしょう。リオン様を前にして、それでもはっきりと告白できる男性はそうはいないでしょうから。現に、リオン様に対して実際に告白なされたのは、ジュ――

――お黙りなさい」

 ユースが口にしようとした名前を、冷えた声でリオンが遮る。

 鋭い眼差しで一瞥されたユースは素直に口を閉じ、それを見てリオンはバツの悪い顔になる。

「申し訳ありませんわ。別に、怒っているわけではありませんわよ」

「はい。リオン様のお気持ちは察しております。こちらこそ無神経でした。申し訳ありません」

 綺麗なお辞儀をされてしまえば、それ以上リオンは何も言えなかった。

 紅茶を飲むことで場の空気をかき回して変えることしか……


――――――俺は、リオンのことが好きだよ――


 唐突に思い出す。真摯な、嘘なんてあり得ない真っ直ぐな言葉を、リオンは思い出してしまう。

 ゴクリ、と飲み干した紅茶に味を感じなかった。
 口に残る後味すら、どこか苦々しく思えて仕方がない。

(……腹立たしいですわ。どうして消えたあとも、あなたは私の生活を乱しますのよ)

 紅茶の表面に浮かぶ波紋を見ながら、リオンは隠しようもない、憂鬱な気持ちの最大の原因を自覚する。

 家にやってくる貴族たち。その態度は、今までだって何度も見てきたものだ。
 それでも今回に限って気にくわないと感じてしまうのは、あの夜を経て今があるからだろう。

 知らなければ気にもしなかった。けど、リオンは知ってしまった。本当に好きなら、どうやって想いを伝え、伝えられるのか……それを知ってしまったから、それ以外の好意の向けられ方が苛立ってしょうがなかった。

 そんな態度で、言葉で、笑顔で、愛情なんて語るなと怒鳴ってやりたくてしょうがなかった。そんな言動を向けられることが、あの夜を汚しているように思えてしょうがなかった。

 そして何より――言われる度に、もう彼が自分の隣にいないことを突きつけられているかのようで空しかった。

(…………私のこと…………言った癖に)

 昨日リオンは知ってしまった。この憂鬱な武競祭で唯一と言っていいほど、期待を寄せていたこと。……それが無惨にも、本当に期待でしかなかったという事実を。

 紅茶のカップが置かれた横に、分厚い紙の束が置かれている。
 何度も目を通したソレは、武競祭予選に参加する、ほとんどの選手の情報が載せられた報告書の束だった。

 リオン・シストラバスは、開幕した武競祭予選にはもはや何の興味もない。始まる前に、興味は尽きた。

「…………ジュンタのバカ。私のこと好きって言った癖に、どうして参加してませんのよ」

 参加者の名前だけは全部集められた情報――そこに、リオンが参加の期待を寄せていた名前は、ない。






(もう少し考えてから情報は渡すべきでしたね。まさかリオン様が、参加者にジュンタ様がいることを期待しているとは気付けませんでした)

 顔を俯かせた主の物憂げな様子と、微かな呟きを耳にしたユースは、どうにかしようと無表情で考える。

(私の失態ですね。本来捜し人ならば『秘密騎士団』の議題にでも上げ、情報集めをするのですが……)

 ジュンタ・サクラという人間がかつて、リオンの隣にいた。

 異国の顔立ちをした、特に特別なところはなかった少年。けれど彼はリオンの日常に入り込んで、いつの間にかリオンにとっての特別な場所に居座るようになっていた。

 そしてそれはリオンだけの話ではない。ユースにとっても、彼という人間は特別と言えた。否、彼は誰にとっても、世界にとっても特別だったのだ。使徒という、真実特別な神獣――救世主だったのだから。

(情報を集めても……死人の情報を集めても、何の意味はない。元より、ジュンタ様も情報は、サネアツさんが話してくれた少しだけのものでしかないわけですが……)

 だけど、彼は今リオンの隣にいない。いや、もうこの世界のどこにもいない。

 リオンのことを大事に思っていた彼は、だからいなくなってしまった。リオンを救って、そして竜滅の火に抱かれて死んでしまった。そのときの光景を、ユースは未だしっかりと覚えている。

 ジュンタが死んだという事実は、もう変えようがない。

 彼を失ったリオンは、しばらく元気がなかった。
 それがいつしか憂鬱なものへと変わり、再会することが願望へと変わっていたようだ。

 だから、ユースはどうしていいか分からなかった。……そう、リオンはジュンタが自分を守って死んだことを、未だ知らない。

『双竜事変』と呼ばれるようになった事件の結末が、ドラゴン同士の相打ちで竜滅姫は無事であると、少し情報操作されて故意に噂として広げられているように、またあの日事件を直視していたリオンにも――いや、リオンだから、本当の功労者が誰かは知らされていない。あまりにも心に大きな割合を占めている少年が、自分を助けて死んだなどとは、決して言えない。

 あの事件の結末がドラゴン同士の戦い以外にあるとリオンも疑ってはいるようだが、それでもまさかジュンタとは結びつけられまい。
 
 リオンにとってはジュンタはいきなり浴室に現れた不埒者で、今強く彼女が後悔しているように、何の情報もない粗野な平民でしかないのだから。ジュンタはリオンに告白して振られたから街をいなくなった。リオンはいずれまた巡り会えるものと、そう信じているのかも知れない。

(ジュンタ様、申し訳ありません)

 全てを語るには、せめてもう少し時間が必要だ。
 リオンがジュンタという少年のことを、思い出として忘れられるぐらいの時間が。

 それがジュンタという少年に対する最低の行いと知りつつも、それでもリオンの父が出した決定はそれだった。今日までもこれからも、彼は全力を尽くして、あの日の真実を隠し続けることだろう。

(この問題だけには根本的解決が望めません。ならば、せめて元気を出していただくしか……)

 ユースは無表情の下に様々な感情を隠して、物憂げな主を元気にする方法を模索する。

 大抵の策は昨日で全て使い切ってしまったが、報告書の束を見て深々と溜息を吐き、窓から誰かを捜すように見ては深々と溜息を吐く主を見て、必死にユースは何かないかと考える。

 そこで昨夜自棄食いに付き合った友人のメイドが用意していた、とあるお菓子の存在を思い出す。それは父親に怒り心頭だった彼女の怒りすら和らげた、実際食べたユースも驚いた味を持つお菓子だった。

 これしかない、とユースの直感が告げていた。

「そう言えばリオン様、ご存じでしょうか? 今、街でおいしいと評判のお菓子があるんですが」

「お菓子? さぁ、知りませんわね。でも私、大抵のお菓子なら食べ尽くしているという自負がありましてよ。庶民のお菓子など今更ではなくて?」

「いえ、それがなんでもロスクム大陸のミサヤという異国のお菓子なのだとか。家のメイドの中にも食べた者がいるのですが、今までに食べたことのないおいしさだとか」

「へぇ、それは興味がありますわね」

 おいしいお菓子と聞けば、リオンも女であるからして、興味は大きく引かれた様子。
 最近馬鹿貴族の応対応対で、街へ遊びにもいけないリオンだ。息抜きも含めたお出かけに誘うのはいい考えかも知れない。

「それで、それはどこの何というお菓子ですの?」

「はい。『鬼の宿り火亭』というお店で――

 ユースはほっとして、はっきりと、その異国のお菓子が食べられるお店の名を口にした。

――お菓子の名前は『ショコラ』と言うそうですよ」






       ◇◆◇






 鋭い切っ先は、あらがいようのない死を連想させる。

 大気を焼き焦がし切り裂いて奔る双剣を、それでも何とか打ち返そうと思うと、まず向かってくる双剣が木でできていることに驚かずにはいられない。

 いわゆる木剣というものだ。木を削って作られただけの、殺傷性のない武器――否、たとえ木でできていようと、使う者によっては十二分に殺傷性のある武器になる。これを振るう目の前の双剣使いも、紛れもなくその一人だった。

「ぐっ!」

 雷を纏った双剣が、それぞれ違う動きをして襲いかかってくる。

 右の剣は上から首を狙い、左の剣は下から上半身を狙ってくる。
 そのどちらもが霞むようなスピード。一刀では防げない。防ぐのならば、相手と同じ双剣でなければならない。

 右の剣には左の剣を。左の剣には右の剣を。それぞれ当てて、これをガードする。

 だが、雷を纏った剣は、ただガードするだけでは完全には威力を防ぎきれない。
 まるですり抜けてくるように、剣から伸びた雷撃の穂先が、容赦なく狙った箇所を襲う。

(故にガードではなく、攻撃を逸らさなければこの攻撃は防ぎきれない、か!)

 防いだ刹那、雷撃が伸びてくる前に握った双剣を僅かに傾け、攻撃の勢いを横へと流す。

 成功――雷撃が首筋を霞め、横腹を霞め、しかし鎧を付けた自分にはまったく傷を付けずに背後の地面に亀裂を作った。

 何度目かは分からない、幾重にも行った双剣による防御。今初めて覚える確かな手応えを感じ、ジュンタは死神の鎌を避けることに成功した。

「よしっ!」

 何度も失敗し続けたことだ。ここにようやくの成功にいたって、喜んでしまうのもしょうがないことだろう。だが、今は一瞬の集中が命取りとなる剣の修行。僅かな高揚が、再びの死神の鎌を生み出す。

「甘い!」

「っ!」

 完璧に避けた二つの同時攻撃は、また次の攻撃への布石でもある。

 横へと逸らした右の剣が、鞭のようにしなる腕に操られ、先程よりも鋭さを増して降ってくる。これを咄嗟に左右両方の剣で受けてしまった時、ジュンタは自分の敗北を悟った。

 一の太刀が二の太刀への布石のように、右の剣は左の剣の布石であり、左の剣は右の剣の布石である。流れる流水のような攻撃の手数こそが、双剣の持つ強み。それを身をもって学べといわんばかりに、左の剣が吸い込まれるようにジュンタの後頭部へと叩き付けられた。

「はい。それじゃあ、十分休憩のための気絶ね」

「それ、は、休憩とは呼ばない、です……」

 もう何度目かは分からないが、武競祭が開幕したその日。やはり本戦出場が決まっているジュンタはいつもと変わりなく、師トーユーズの華麗なる双剣の前に敗れ去り、地べたに這い蹲って昏倒した。






 夕刻となり、『鬼の宿り火亭』は開店の最終段階へと入っていた。

 その頃にはすでに店の前には長蛇の列が。老若男女。数日前までは存在しなかった光景である。

 そも、大量の食品を売ることを面に出した店ではない『鬼の宿り火亭』が、ここまで繁盛するのは異常だった。ただ、仕方がないというのが大方の意見である。なぜならば、人は未知の美味を求める生き物であるからして。

 開店数時間前から長蛇の列を作ってまで客が求めているのは、『鬼の宿り火亭』が武競祭開幕期間限定で発売している『ショコラ』というお菓子であった。

 このショコラ。いわゆるチョコレートケーキである。

 チョコレートとつくと、どうしても苦いものを大衆が思い浮かべてしまうために、異国のお菓子としてショコラという名前をつけて売っているのである。

 口に含めばとろける甘さ。何ともいえない口当たりは、まるで幸せがそのまま食べ物になったよう――そんな噂が発売当初から口利きに広がり、今では本来酒場である『鬼の宿り火亭』が誇る、一番の売れ筋商品となっていた。

「ショコラの箱詰めは?」

「完了してます!」

「誰かテーブル拭きした?」

「さっきクーちゃんがやってたわよ」

「我らがショコラ職人の状態は?」

「狂気の笑みを浮かべながら、それでも製造自体は順調そのものです」

「よしっ、完璧ね。それじゃあ、最終準備よんっ! ナンバーワン目指して売って売って売りまくるわよぉ!」

 集まる客の騒がしさを耳に、店の中では大忙しで開店の準備が進んでいた。

 あまりの売れ行きに、急遽店の一角にショコラ販売専門の場所を作って、店員を増やして販売を行っているのだが、ショコラを求める客の増加に合わせ本業の方の集客率も上がっていたため、開店前から店内では忙しいと悲鳴が飛び交っていた。嬉しい悲鳴という奴である。

 そんな中、調理場の一角を陣取り、巨大なアイスボックスを背に、手を止める暇もなくショコラを作っているジュンタだけは、嬉しくない悲鳴をあげていた。

「ぐぅ、どうしてこうなる……?」

 昼間みっちりとトーユーズによってしごかれた際の疲れと傷を抱えながら、夕刻になるとジュンタは『鬼の宿り火亭』の調理場で働いていた。

 昼は鍛錬。夜は店の手伝いという二重生活で、すでに疲労困憊。ボロボロである。

 それでもショコラを作ることができるのは、基本ジュンタだけ。
 武競祭期間中は売ると決めてしまったのだから、今更それを反故にすることもできない。

 そもそも、ショコラが店頭に並ぶ原因となったのは、最初作ったときにトーユーズに食べさせてしまったからである。

 店のオーナーである彼女は、すぐにチョコレートケーキ――ショコラが売れると考え、店頭に並べることを検討した。特段断る理由もなし。ここまで売れるとはさすがに誰も考えてもいなかったので、ショコラはすぐに売り出された。

 そして現状がこれである。

 客は日増しに倍加して、それに合わせて作る量も倍増して、ジュンタの負担もうなぎ登りに増加していた。

 延々とチョコレートを作り、生クリームと合わせ、スポンジ生地に塗ってアイスボックスで冷やす。これを延々延々繰り返し続ける。やはり止めることなどできない修行の疲れを背負ったまま、ただひたすらに。

「あ〜くそ、作るの止めたい。お菓子作りが趣味とは言っても、ここまではきつい。でも止められない。止めたら死ぬ。殺される……ふ、ふふふっ」

 なんでも武競祭期間中、王都の店ナンバーワンを決める大会があるらしく、それに『鬼の宿り火亭』も参加しているらしい。つまり今作るのを止めると、店の評判が悪くなるだけではなく、期待してくれているオーナーと店長に殺されてしまうわけなのです。

「ふっ、ふふふふ、ふふふふっ」

「邪魔をする」

 機械的に、しかし丹精込めてショコラを作り続けていると、調理場にはふさわしくない毛むくじゃらが近付いてくるのにジュンタは気付き、狂気混じりの笑みを止めた。

「ジュンタ。店長が、開店前に休憩しておけと言っていたぞ」

 やってきたサネアツは子猫だが、忙しい今では猫の手も借りたいのである。
 清潔にも気を付けているという本人の弁もあって、トーユーズにより調理場への侵入許可は出ていた。

「と言っても、開店まで三十分もないがな」

「それでもいい。こっちは修行の後、水被ってそのまま延々と作り続けてるんだ。少しでも休めれば恩の字だ」

 忙しなく動かしていた手を止めて、ジュンタは調理場の隅に置かれた椅子に腰掛ける。

「座るとどっと疲れが出る……チョコレートケーキなんて作るんじゃなかった」

「今更だな。しかしさすがは異世界、何がどうなるか分からないものだな。俺たちの世界には当然のようにあったチョコレートケーキが、ここまで売れるのだからな」

「実際、俺が作ったチョコレートケーキなんか、今ある材料で何とか間に合わせた粗悪品だぞ? 作った本人として、美味しいっていわせる自負はあるけど……まったく早まった」

 焼き菓子しかない異世界で、ないなら自分で、と思い立ったのが裏目に出た。
 それはつまりこの世界では初の試みになるわけで、甘党のジュンタが欲しがったものなら、多少の味覚の感じ方が違うとはいえ、異世界にも多いだろう甘党に受けるのは当たり前である。

「チョコレートケーキなんて作らなければ、もう少しゆったりとした修行生活が送れてただろうに……って、ほんと今更だなぁ。まぁ、忙しくなったお陰で、女装しなくても良くなったんだけど。それが唯一と言っていいくらいの救いだな」

 今のジュンタの格好は、貸し出された男子の制服である。決してフリフリヒラヒラのエプロン姿ではない。

 ここまで忙しいことにはさすがに悪いと思ってくれたのか、あれほど強制してきた女装を止めてもいいと言ってくれたのだ。ウィッグなどはすぐ近くに付けろと言わんばかり置いてあるが、断固無視。スルーである。

「俺はもう絶対にあれは着ない。つけない。冷静に着なくてもいい身分になると、どれだけ自分が恥ずかしいことをしてたかよく分かったからな」

「うむぅ、残念だな。脳内激写アルバムのトップを飾るにふさわしい一品だったのだが」

 ピョンと傍らのカウンターの上に乗ったサネアツが、心底残念そうに髭を垂らす。

「お前も実際着せ替え人形になったら、そんな言葉は言えなくなるぞ。
 そう言えばお前、最近あんまり見ないけど、昼間とかは何やってるんだ?」

「俺か? 俺は色々と工さ……情報収集をしている」

「情報収集。それって武競祭参加者の?」

「ああ、本戦まで出場しそうな選手、本戦出場が決まっている騎士たち。そう言った輩の情報を集めているのだ」

「それは素直にありがたい。俺が勝とうと思ったら、少しでも相手を研究しないといけないからな」

「あまり修行は芳しくないのか?」

「先生には上達の早い方だとは言われてるけど、自分でも分かる。このままじゃあ、武競祭で優勝はできない」

 トーユーズを師と仰ぎ、剣術を習い始めてから今日で約十日。 
 初日以降、これといったハプニングにも見舞われず、修行自体は順調そのもの。師がいいのもあって、かなりの速度で強くなっている感触がジュンタにはあった。

 しかし、如何せん時間が足りなさすぎる。実際に戦うことになる武競祭の本戦までは、あと六日しかない。そんな一月に満たない時間で、長年腕を磨いていた相手に勝つなど、どれほど才能があっても無理に近い。

「先生が言うには、『竜の鱗鎧ドラゴンスケイル』がなければ初戦で負けるらしい」

 遠回しに勝利は難しいことをサネアツに伝えると、彼はうむむと眉を顰めた。

「いくら本気のマイステリンだとしても、さすがに十数日でジュンタを鍛え抜くのは不可能だったか」

「正直、先生が騎士としても教師としてもすごいのは戦えば戦うほど感じるけど、やっぱり時間が絶対的に足りなさ過ぎる。本戦まであと六日。最終的に、先生の教える剣術の初歩の初歩――魔力付加エンチャント]が会得できればいい方らしいな」

「そうか。ならば、あとは小手先の技術で何とかしていく他あるまい」

「先生もそう言ってた。いや、むしろそれが先生流の戦い方らしいな。勝てば官軍を地で行ってるよ。騎士なのに」

『騎士百傑』なんて呼ばれるほどの騎士であるのに、トーユーズという騎士はまったく騎士らしくない。正々堂々なんてクソ食らえ。勝つためならなんでもやれ。美しく勝利を飾れば全てが許されるなんて、本気でそう思っている節がある。

「まぁ、騎士道より、俺にはその方があってるんだけどな。とにかくトーユーズ先生が言うには、人間を強さ別に分けると三つに分けられるらしい」

「ほぅ、それはどのようにだ?」

 サネアツもトーユーズから何かしらのことを学んでいるようだが、戦闘については一切学んでいないようだ。ジュンタはトーユーズから学んだことを、サネアツに教えてあげる。

「武術なんて知らないような人間から、少し囓った人間。学び始めた人間――『素人』
 ある程度武術を収めた人間から、戦闘を生業としていけるレベルの人間――『武人』
 そしてトーユーズ先生みたく、戦闘者として何かしら一つを極めた人間――『達人』
 この三つに分けられた枠組みにおいて、下位の者は上位の相手には基本勝てないらしい」

「ちなみにジュンタは、武競祭本戦時でどのレベルまでいけると言われているのだ?」

「何とかがんばって、『武人』レベルの下の下。だけど、武競祭の参加者も大抵が『武人』レベルらしいからな。それで先生がいうには、枠組みの中でも上中下とあるけど、戦い方次第で同じレベルの枠組みの相手なら、倒すことは何とか可能って話だ」

 つまり後六日で『武人』レベルにまで達せられれば、あとは戦い方次第で――難しいのは変わりないが――武競祭優勝も何とか手の届く範囲までいけるとのことである。

「相手の情報を調べて、言葉でも何でもいいから相手を煽って、そうやってどうにかして勝ちを拾う。卑怯かも知れないけど、それが俺の今の精一杯なら、優勝のためにそれを行えばいい。元々素性隠して、反則じみた甲冑つけてるんだしな」

 実力的に圧倒的不利なのは自覚がある。だからこそ、格下なりのやり方で、武競祭本戦に集う格上を打破しなければならない。そうしなければ優勝することは不可能だ。

 ギュッとジュンタは強く手を握る。

 一週間前より確かに力がついた。体力もついた。不安定だった剣筋にいくらか型もできた。そして何より、強くなりたいという思いがふくらみ続けている。

 身体は疲れているが、とてもしんどいが、それでもジュンタは立ち上がった。

「さて、そろそろ開店の時間か。店の手伝いはきついけど、持久力とか判断力とかは結構鍛えられるらしいし、がんばるか……まぁ、武競祭に合わせて王都のお店ナンバーワンも決められるわけだから、先生にいい用に騙されている気がしないでもないけど」

「マイステリンなら平気でやりそうだから怖いな」

 ふっとニヒルにサネアツは笑って、尻尾を揺らして床へと飛び降りた。

「それでは俺も行くとしようか。調理場にいても邪魔なだけだからな。せめて店に来た客から、情報でも仕入れてくることにしよう」

「よろしく頼むな。お前の集めてくる情報、頼りにさせてもらう」

 それが当たり前であるように、自分に協力してくれるサネアツに感謝しつつ見送ってから、ジュンタは自分の持ち場に戻る。

 鼻につく甘いチョコレートの匂い。
 これに誘われて何十人、下手をしたら百人以上の客が来る。その一人にでも多く幸せな味というものを知ってもらうために、ジュンタは再びチョコレートケーキを作り始めた。

 なんだかんだ言いつつも、お菓子を作るのはやっぱり好きなのである。






       ◇◆◇






『鬼の宿り火亭』は本当に忙しい。
 きっとグラスベルト王国で一番忙しいお店ではないかと、密かにクーはそう思っている。

 酒場の客としてやってくる客足は途絶えることはないし、ショコラを求めに来るお客の列もいつまで経っても減らない。並んでいる人は女性が比較的多いが、それでも男性も老人も子供もいる。すでに空が薄暗くなり始めているのにも関わらずに、だ。

「すみません、ショコラはお一人様二つまでとなっております。はい、お一つ銅貨五十枚です。二つですか? 銀貨一枚になります。はい、ちょうどですね。ありがとうございました」

 それも仕方がないことか、とクーはこの間店の中に急遽作られた、ショコラ販売専用の販売所でショコラを売りながら思った。

 なぜならば、このショコラというケーキの一種、とてつもなくおいしいからである。

 これまでになかった味と舌触りで、初めて食べたとき、思わずとろけそうになった。
 キャッチフレーズの通り、幸せをそのまま食べ物にしたような味である。お客には内緒だが、原料があの苦いチョコレートである事実が、作る行程を見ても未だ信じられない。

 きっと、美味しくなる不思議な魔法がかかっているに違いない。そんな風にすら思う。作っているのがとっても素晴らしい使徒様なのでなおさらに。

 「いらっしゃいませ。お待たせしました。お二つですね。はい、ありがとうございました」

 また一人、長く待っていた若い男女のお客がショコラを買って帰っていった。
 きっとあの二人は、家に帰って一緒に食べるのだろう。そして幸せになるのだ――そう考えると、思わず口がほころんでしまう。

 クーとしては、一人でも多くの人にショコラを味わって欲しかった。自分の主はこんなすごいお菓子を作れて、人を幸せにできるのだとそう思えるし、みんなにそのことを知って欲しいからだ。

 一人でも多くの人に、謎のパティシエ『サクラ』謹製のショコラを。

 この仕事をしている間のクーは、顔が満面の笑顔のままだった。これほどに幸せな仕事はないと、そう思っていた。偶に来る我が儘な貴族の人をトーユーズがいい笑顔で処理したり、作っている人がもの凄い嬉しい悲鳴を上げているのが、少しだけ気がかりではあるが。たぶん大丈夫だと思うが。トーユーズは今日は留守にしているし、ジュンタも楽しそうに笑っているし。

「ありがとうございました」

 銀貨一枚と引き替えに、クーはショコラの八分の一カット二つが入った箱を渡す。

「クー嬢ちゃん。ちょいええか」

「あ、はい。ラッシャさん。ルイ店長の用事って何だったんですか?」

 次のお客が進むまでの僅かなタイミングに、隣でケーキを切ったり、箱に入れたりして手伝ってくれていたラッシャが、呼ばれて向かった店の奥から戻ってきて、耳元でボソリと囁いた。

「ルイ店長から聞いて来たんやけど、さすがにジュンタが限界やって。やから、ショコラは今ここにある分で終わりや」

「あ、はい。分かりました」

 限界だというジュンタのことを心配しつつ、クーは背後の、自分が魔法で作ったアイスボックスの中に入っていたショコラの数を思い出す。

(ホールで七つ。ピースで五十六。一人が二つずつですから、あと二十八人の方だけですか)

 視線をアイスボックスから、まだ並んでいる人たちに移す。

 どう見ても、並んでいる人は二十八人以上いる。後の人たちには、とても申し訳ないが帰ってもらう他ないだろう。クーは毎日必ず訪れるこの瞬間が嫌いだった。

「すみませ〜ん! ショコラ。残り五十六ピースです〜!」

 ラッシャが並んでいる客目がけて大声でそう叫ぶ。

 並んでいた人たちから悲鳴に似た声があがる。前の方の安全圏にいた人はほっと自分の幸運を喜び、後ろの方の人は自分まで回らないことが分かって、諦めて列を離れる。そして自分の番まで保つか微妙な人が、自分の前に並んでいる人たちを凝視し始めた。

 一人、一人と残ったケーキを、クーはお客に渡していく。

 ありがとう、と言って帰っていく人にありがとうと返して…………そうして最後の一つを最後のお客に渡したところで、本日のクーのお仕事は終了となった。

「ありがとうございました」

 いつもならば、の話なのだが。

 最後のお客が去っていくと同時に、その後ろの不思議な姿の客――頭の先からすっぽり被るタイプのシルクのフードを被った二人組のお客が、クーの目の前まで進み出た。

「私の分は残ってますの!?」

「すみません。本日のショコラは、今のお客様の分が最後でして……」

「そ、そんな……二時間も並びましたのに…………」

 フード姿のお客の一人が、ガクリとその場に崩れ落ちる。自分の一つ前の人が買えただけに、相当ショックなのだろう。声が少し涙声である。どうやら女性のようだ。

「……期待して……たくさん並んでますから期待して、姿を隠してまで並んで……私の前が買えて私が買えない……私、運は良かったはずですのに……」

「お嬢様。元気を出してください」

 ふ、ふふふ、と乾いた笑みを浮かべる女性の肩を、もう一人のフード姿のお客――こちらも女性のよう――が、ポンと叩いて慰める。だけど反応はない。

 よほどショコラに期待をしていたのだろう。乾いた笑い声は悲哀を深く感じさせる。
 クーはどうしようかとオロオロして申し訳なく思い、商人のラッシャは商人らしい考えを小声でもらした。

「店の入り口でしゃがみこまられると、商売の邪魔なんやけどなぁ」

「ラ、ラッシャさん!」

 特に意識したようではなく、思わず口に出てしまったという感じだったが、その言い方はあんまりだとクーは非難の声を発す。

 しかしその先の注意には繋がらなかった。なぜならば、クーの代わりに――

「なんですって? それが哀れな私に対する店員の対応ですの? 信じられませんわ!」

 ――しゃがみこんでいた女性が勢いよく立ち上がって、ラッシャを怒鳴ったからだ。

「ひぃ! す、すんまへ……ん…………」

 もの凄い彼女の気迫に、ラッシャは怯えて慌てて謝ろうとする。その謝罪の言葉が、尻つぼみに小さくなっていった。

 それは勢いよく立ち上がったせいでフードがずり落ち、素顔が露わになったお客の姿をラッシャが見てしまったから。女性というよりかは少女といった方が正しい彼女は、言葉を無くすぐらい美しい少女だった。

 闇夜を照らす眩い真紅の髪。そしてそれと同色の瞳。
 シルクのフード付きマントを羽織った姿は、どこか神聖な印象を受ける。凛とした力強い美貌であるから、その印象に加えて気高い戦士の印象も受ける。

「なんですのよ? あなた、まともに謝ることもできませんの?」

 むっとして紅髪紅眼の少女は腕を組む。その仕草や声、全てが気品に満ちあふれていた。

 ラッシャが彼女を見て言葉を失うのも無理はない。
 隣で見たクーも同じく声が出なかった。いや、むしろクーの方が驚きとして大きかった。


 思い出す――かつて惨劇の夜を照らし終わらせた、炎のように鮮烈な真紅の姫の姿を。


「お嬢……リオン様、フードが取れてしまってますよ」

「え? あら、いつのまに」

 隣の従者に指摘され、フードで顔を隠そうとして、今更だと止めた少女の名を知らぬものなどいまい。

 紅髪紅眼の、その身に不死鳥の使徒の血を引く偉大なる者。いと高きシストラバス家。その今代の竜滅姫――

「リオン・シストラバス、様……」

 忘我のまま、クーはお客としてやってきた少女の名を口にした。






「サクラちゃんサクラちゃんサクラちゃんっ!」

 そっちの方がかわいいからという理由だけで、名前ではなく名字の方を呼ぶ人間は大勢いても、この渋いような高いような奇声を間違えたりはしない。大声でそれを連呼しながら調理場に入ってきたのは、やはりルイ店長だった。

「サクラちゃぁ〜ん!!」

「うおっ!」

 ショコラを限界が来るまで作り続け、ぐったりと椅子の上で白くなっていたジュンタは、いきなりの大声と厚い胸板を見て腰を浮かして驚いた。

「ど、どうしたんですかルイ店長……いつにも増して、その……デンジャラスな魅力に溢れてますけど。何か俺に用事ですか?」

「そうなのよ!」 

 涙と鼻水を垂らした姿を当たり障りのない言葉で指摘しながら、ジュンタはルイ店長に、慌てて調理場に入ってきた理由を尋ねる。すると彼はいやんいやんと身体を振って、感激を表すように、グッと天井に向けて握り拳を作って話し始めた。

「サクラちゃんは、わたしがこの『鬼の宿り火亭』をオーナーと一緒に開いたときからの夢を知ってるわよね?」

「確か、王都の人気ナンバーワンの店になって、ハーレムを作るって夢ですよね…………男の、男によるハーレムを」

「そう! その通りよ! そんな長年の夢を果たすために開いたのよぅ!
 でも世間の風は冷たかったわ。やれオカマの店だとか言われ続けて、ようやく理解を得られ、ちょっと予想とは違うけど経営が軌道に乗り始めたのが二年前」

「はぁ、さぞや苦労したんでしょうね」

 いきなり熱く語り始めたルイ店長を前に、ジュンタびびりっぱなし。引きっぱなし。

「そう苦労したの。けどね、いつか必ず王都の人気ナンバーワンの店になるって、そうがんばってきたの。そしてその夢が叶うかも知れない希望を、サクラちゃんがプレゼントしてくれたの。幸せのショコラによって!」

「お役に立てて幸いです。それで、結局は何が言いたいんですか?」

「もう一つ、最高に最高な最高のショコラを作って欲しいのよ!」

「なんでですか? 無理ですよ。体力的にも、材料的にも、あと時間的にも」

 ガシリと両肩を掴まれ、その濃い顔を近づけられたジュンタは、そう言って強引にルイ店長を引き離す。

「なんで作らないといけないんですか? 取りあえず今日の分は全部作りましたよ?」

「分かる! その気持ちはよ〜く分かるわ! けどね、後一人。絶対にショコラを食べて欲しいお客様が来たのよ!」

「客? 買えなかったお客に、特別にショコラを渡すんですか? それはずるいんじゃあ……」

「いいの! あのお客様だけはいいの! ああもうっ、じれったいわぁ! サクラちゃんもどんな素晴らしいお客様が来られたかを見れば、わたしの気持ちが絶対に分かるわ!」

「へ? あ、ちょっと!」

 ルイ店長に手を掴まれ、ジュンタは調理場とホールを繋ぐ扉の前へと連れて行かれる。

「さぁ、見なさい! そして最高のショコラを作ってちょうだい! あの方を満足させられたなら、王都ナンバーワンになるのもすぐそこよ!」

「どんな有名な客が来たかは知りませんけど、俺が見たって――

 分かりません―― 異世界に来たばかりのジュンタはそう言葉を続けようとしたのだが、少し開かれた扉の向こうにいた、ルイ店長がなんとしてもショコラを食べさせたいというお客を見て、言葉を失った。

 なぜならば、現在店総出でもてなそうとしている相手は……

「リ、リオン!?」

「そう、あの名高いリオン・シストラバス様その人よ! ショコラが食べたくて、お忍びで来てくださったのよ!」

 リオン・シストラバス――ルイ店長がそう甲高い声で呼んだことにより、席についていたリオンの視線が調理場の方を向いた。そしてそこにいたジュンタと視線があう。

「や、やばっ!」

 慌てて扉の前から離れ、爆発しそうな胸を押さえて状況を整理する。

(大丈夫。大丈夫だ。隙間は少しだったし、ばれてない。ばれて――

 ドン、といきなりで思い切り、ジュンタはルイ店長に背中を押し飛ばされた。

「きゃぁ! どうしよう! リオン様がこちらに来たわ!!」

「ふにっ!?」

 何をするんだとルイ店長に怒鳴ろうとした声が、意味不明な叫びに変わる。

  リオンが調理場にやってくる? なにその最悪の展開、と急いで起きあがったジュンタは、頬を抑えてクネクネしているルイ店長と同じようにパニックに陥る。

「どうする? やばいやばいやばいっ!」

 どうにかリオンに、ここにいることがばれないようにしないといけない。

(身を隠す? ダメだ。絶対にルイ店長に引っ張り出される。名前を言われた時点でアウトだ。ルイ店長の代わりにリオンに対応しないと。けど、どうやって?)

 ほんの僅かな時間の中で、パニクった頭などでは良策が考えつくはずがない。

 しかしジュンタには、全ての事情を知る、頼りになる仲間が店の中にいた。

「ジュンタ。仕方がない、ああ、仕方がなかろうな」

「サネアツ!?」

 その時颯爽と現れたのはサネアツだった。その口元には満面の笑みが。

「ふふ、ジュンタ。なんだろうなこの素敵展開は?」

「素敵じゃない! ああ、叫んでる暇ももうない。それで、俺はどうすればいいんだ?」

 サネアツはアクシデント歓迎と言う口振りだが、本当に困っていることは分かってくれているので、助けてくれるはずだ。そう長年のつき合いからジュンタは察し、期待を託す。

「なに、簡単なことだ。リオンの前に出ても正体がばれない格好になればいいだけのこと」

「っ! そ、それってまさか……?」

 果たして、思った通りサネアツは逃げ道を用意してくれていた。

 サネアツの白い肉球は、調理場の置かれていた黒いウィッグと、フリフリヒラヒラの白いエプロンを指していた。それが意味することで、確かにこの事態の回避は可能だが……

「さぁ、ジュンタよ。今大いなる飛翔を遂げるとき! 自分から、その手で、俺の脳内激写アルバムのトップページを飾る自分へと生まれ変わるのだ!!」

 ひくり、とジュンタの頬が盛大に引きつった。






「失礼しますわよ」

 そう言ってリオンは、調理場の中に悠然と入ってきた。

 その時点で、感動でルイ店長は卒倒した。
 リオンはルイ店長を見てぎょっとした後、努めて視界から排除し、ジュンタを見やった。

 リオンの紅い瞳とジュンタの黒い瞳が交差する。
 完膚無きまでのご対面。この距離で見られれば、間違いなく正体はバレる。『サクラ・ジュンタ』であることは一目瞭然だ。

「あなたが噂のショコラを作るパティシエかしら?」

 だがしかし、リオンはまったく気付いた素振りを見せない。ちょっと眉を顰めて小首を傾げたが、すぐに普通に話しかけてきた。

(良かった。バレなかったか…………代償は大きいが)

 内心でそう思い、ほっと胸をなで下ろす。その際に、胸にふにょんとした感触が伝わる。

 そう、サネアツが示したリオンへの正体露見回避の方法とは、女装に他ならなかった。

 十日前までしていたように、黒い縦ロールのウィッグを被って、フリフリヒラヒラの白いエプロンを身につけ、顔全体に視線がいかないように、化粧代わりに少し残っていたチョコレートを頬につけて、さらには胸にサネアツを入れて誤魔化しているのである。
 
 まさか修行の最初の成果が、電光石火の女装スピードに発揮されるとは思っていなかった。悲しすぎる。それは同時に、初めて自分からしてしまった女装でもあるわけで……ジュンタは自分の中で何か大切なものが失われたのを感じつつ、いつもより声を高く作って、笑顔でリオンに応対した。

「はい。私が当店でパティシエをさせて頂いております、サクラと申します」

 サネアツが落ちないよう胸に手を当てて、一礼する。

 女言葉を女の格好で使っている事実に涙が出そうになるが、我慢する。リオンに女装を見られたのだ。あとはもう、ただ突っ走るのみである。

 完全にこちらが『サクラ・ジュンタ』であるとは思ってもみない――当たり前、思っていられたらショックだが――リオンは近付いてきて、微笑を見せた。

「確かに、あなたからは甘いいい匂いがしますわね。店の前で並んでいたときにした匂いと同じですわ」

「え? あ、その……ありがとうございます」

 微笑と共にいい匂いと言われて、ジュンタは自分の顔が赤くなったのが分かった。
 やばい。恥ずかしい。アルカンシェルの仮面無き今、リオンと接するのは途方もなく恥ずかしかった。……いや、この格好なのが一番の羞恥の原因だが。

 胸の前で組んだ手を居心地悪げに動かして、ジュンタはそろりとリオンを見やる。

「あの、それでリオン様はショコラをお求めになってらっしゃるんですよね? すみませんが、新しく作るとなるとかなりの時間がかかってしまうんですが……」

「ああ、そのことですの。大丈夫。問題ありませんわ」

「え? 大丈夫とは?」

 暗に帰れという意味を込めた言葉だったので、問題ないと言われたら困ってしまう。
 どれだけ待ってもいいから作ってくれなんて言われたら、誰かから正体が露見してしまうかも知れない。女装までしたのだ。今ここでバレたら死ねる。むしろ死のうと思う。

「で、でも、リオン様ともあろうお方を待たせるなんて、恐れ多いです!」

 だから勘弁してください、という風に声を大きくすると、リオンは不思議そうに目を丸くし、それから納得したと言わんばかりに頷いた。

「違いますわ。問題ないというのは、いつまでも待っていられるという意味ではなく、食べませんから作らなくても大丈夫という意味ですわ」

「食べない、ですか……?」

「ああ、勘違いしないでください。別にあなたのショコラが食べたくないわけではありませんわ。いえ、むしろとても食べたいのですけど……それでは他の食べたいとずっと並んでいた人たちに悪いですし、ずるいですもの。だから今日は大人しく諦めますわ」

 ああ、忘れていた。そう、リオンという少女はこういう少女だった。

(そうだ。リオンは自分だけルールを破ったりしない、眩しいくらいに高潔な奴だった)

 諦めると笑ったリオンに、ジュンタはぼうっと見とれた。

「そういうわけですので、今日のところは帰らせていただきますわ。明日から忙しくなりますから、もう食べには来られないのが残念ですが……これで我慢することにします」

「はぇ?」

 見とれるジュンタにリオンは指を指し出す。その指は頬についていたチョコレートクリームをぬぐいさり、

「あなたも女性でしたら、いついかなる時でも身だしなみに気をつけてないとダメですわよ。まぁ、これほど忙しければ仕方がないことかも知れませんけど」

 ぬぐったチョコレートクリームを、徐に自分の口元へと寄せた。

「ん……とっても甘い。やっぱり、期待通りの味でしたわ。残念。それでは、失礼」

 やっぱり心のどこかでは諦め切れていなかったのか、チョコレートクリームを舐め取ったリオンは、最後まで初対面の相手にする対応をして、完璧なお嬢様のままで去っていく。

 その背を見て、ジュンタは真っ赤な顔をわなわなと震わす。

 なんだ、その、今のは? あり得ないんじゃないか? ぬぐうのはともかくとして、普通それを舐めるか? むしろ…………ジュンタの顔は、リオンが調理場から消えても戻ることはなかった。

 戻ったのは、リオンと入れ替わりになって調理場に入ってきた女性に話しかけられたときだった。

「失礼。ミス・サクラ。少々お話よろしいでしょうか?」

「……はい…………ぃい!?」

 コクン、とジュンタはユースの問いに反射的に頷いて答えてから、目の前の女性が、自分もかつてお世話になった相手だと気付いてのけぞった。

「な、ななな、なんでしょうか! 何か私、そう、かわいくていかにも女の子な私に何かご用でしょーか!?」

「はい、少々お時間をいただきたいのですが……」

 リオンよりも数段曲者で切れるユースの登場に、正体がバレると焦ったジュンタの姿を見て、ふいに彼女は言葉を意味深な部分で止めた。

 何やら頭の先からつま先まで観察するように見てくると、

「……あの、唐突で申し訳ありませんが、もしやあなたのサクラというのは、ファミリーネームではないでしょうか?」

 淡々とぶつけられた質問に、ジュンタは全身を槍で貫かれたかのような錯覚を覚える。

(チョコレートもリオンにぬぐわれたし、完璧に疑われてる!?)

 どうしようと、ユースをどうやって誤魔化そうかとあたふたして、手を思わず口元にやったその時、

――はい、そうですよ」

 なんて返答が、ジュンタの声で調理場中に響いた。

 この返答にはユースも目を大きく見開いて驚く。
 同時にジュンタは衝撃のあまり気絶しそうになって、自分の胸元を涙目で見下ろした。

(さ、サネアツ! お前、人の声真似するのはともかく、なに事態を悪化させる方向に展開させてるんだよっ!?)

 先程発した声は自分のものではなく、胸代わりに入ったサネアツが声真似で発したものだった。
 ちょうど口元を隠すように手を動かしたときに響いたので、どうやらユースには自分が言ったと思われたらしい。最初から少し作った声だったのも信じた理由にありそうだ。

「あの、本当にサクラ様、なんですか? あの、ではあなたはもしや……?」

「あ、う、うぅぅ」

 とにかく最悪だ。先程ならまだ誤魔化しようがあったが、この時点で無理。何やらサネアツが任せておけと言わんばかりに胸元を肉球でペタペタしてくるが、さすがにもう無理だろう。

(ああ、もう知らないぞ俺は!)

 なので、もうやけくそ気味にジュンタは、自分の口を軽く右手で押さえた。
 そこでジュンタは次のサネアツの声真似を聞き、どのように彼が誤魔化そうとしているのかを察するのだった。

――あの、もしかしてあなたは、兄を知っているんですか?」

 そのとんでもない言葉を聞いて、ジュンタもユースも同じように息を呑んだ。

 ジュンタはなるほど、と。ユースは、

(肉親設定! その手があったか……って、あれ? ――――ぇ?)

 ジュンタはよくやったとサネアツを内心で褒める。
 そして、その瞬間に見てしまったユースの泣く一歩手前のような顔に呆然となった。

「私には兄がいるんです。かなり前に離ればなれになって、兄を捜してここまで来たんですが……もしかして何か知っていらっしゃるんですか?」

 止めろ。と、そうサネアツに言えたらどれだけ良かったか。

 すぐに仮面を被るようにしてユースの顔は無表情なものに変わったが、それでも一瞬浮かんだ表情は脳裏から消えず、胸を締め付ける。

「あ、でも、そんな偶然あるはずないですよね。それで用件は一体何なのでしょうか?」

「あ、そうですね。…………はい」

 自分から臭わし、下手に会話は増やさず、ユースの姿を見ることが叶わなかったサネアツの誤魔化しは、見事なまでに上手くいった。

 ただ、本当にユースが目の前の少女を、彼女が知る一人の死んだはずの少年の妹と認識したなら、それは真実を知る彼女をきっと強く傷つけたことだろう。

 それでも、ジュンタは何も言えなかった。

 自分の想いのために。傷つけても、今はただユースの話に耳を傾けることしか、できなかった。

「サクラ様、実はあなたに折り入って頼みがあるのです。
 どうか是非、五日後に開かれるシストラバス家でのパーティーに出席して欲しいのですが。さらにいえば、どうかパーティーでショコラを作ってはいただけないでしょうか?」

「シストラバス家のパーティーでショコラを、ですか……?」

「はい。こちらがその招待状になります」

 いきなり予想外の誘いを受けて、困惑のまま、黙ったサネアツの代わりに自分で話すことを再開させて、ジュンタは赤い上質紙でできた招待状を受け取った。

「パーティーは武競祭本戦の前夜祭のようなものです。そこで、噂名高いショコラを作っていただきたいのです。どうかお願いできないでしょうか?」

「い、いきなりそう言われましても……」

 リオンとの接点を作るのが怖い。ショコラを作るということは、必然的に女装の必要があるからして――そう思って断ろうとすると、ユースが翠眼で見つめてきて、さらにお願いを重ねてきた。

「お願いします。今すぐにお返事をくださいとは言いません。その招待状を当日持ってきていただければ、屋敷には入れるようになっていますから。それまでに考えていただければ」

「でも……」

 珍しく思えるユースのどこか必死なお願いに、ジュンタは不思議に思う。
 確かに美味しいという自負はあるが、そこまで頼むようなことなのだろうか?

「あの、どうしてそんなにショコラにこだわるんですか?」

「美味しくて珍しいと評判なのと、食べれば幸せな気持ちになれるという話を聞きましたから。実は私も食べたのですが、確かにその通りだったと」

 無表情を少し曇らせながら、ユースは本心を吐露した。

「だから、私はリオン様に食べさせて差し上げたいのです。最近嫌なことばかりで、お苦労が多いリオン様に、せめて小さな幸せでもプレゼントして差し上げられたなら、と」

 なるほど合点がいった。道理でユースが必死になるはずである。彼女は主であるリオンが大好きだから、こうも必死にお願いをしてくるのだ。

(そう言われたら、リオンが苦しんでるって言われたら、助けないわけにはいかないじゃないか。それに騙した手前、せめてこれくらいは……)

 リスクを考えても余りあるやらなければならない理由を得て、ジュンタは返答を返す。

「分かりました。パーティーでショコラを作らせていただきます。いえ、作らせてください!」

 一人の男であること。お菓子好きでショコラを作れる人間であること―― それを含めて、『鬼の宿り火亭』のパティシエであるサクラとして、ジュンタはユースの誘いを受ける。

 それがジュンタの、武競祭開幕の日にできた、武競祭に関係のない約束だった。









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