第十一話  覚悟




 まず最初に聞こえてきたのは、呻き声とすすり泣く声だった。

 地下にあるベアル教アジトの、さらに地下へと伸びる階段を下りた先は、途中とは違っていくらか明るくなっていた。壁に掛けられた松明の火は広い空間を照らし、悲痛な声をもらす者たちの姿を映し出していた。

「なんだよ、これ……?」

 細長い空間をさらに細長く見せている、両方の壁に並べられる形で作られた十を超える牢獄。その中には一つとして例外なく、捕らえられた人間の姿を見つけられることができた。

 ここが牢獄であり、彼らがベアル教によって捕まえられた人間であるのなら、何もそこまで驚くことはない。そも、ここまでやって来た理由は、攫われたと思しきクーを取り戻すためなのだ。彼女以外の被害者がいても何らおかしくはない。

 ジュンタが唇を震わし、立ち尽くすことしかできなかった理由は、彼らの様子の方にあった。

 地下室にやってきた侵入者にも気付かずに、呻き、すすり泣く彼らの姿は異様の一言に尽きた。
 年齢も性別もバラバラな彼らは、しかし等しく顔を苦悶に歪め、喉を掻きむしったり頭を抱えたり、床を転がったりして何かに苦しんでいた。

 その苦しみ方は尋常ではない。まるでこの世の全てに絶望したかのように、体中に黒いもやのようなものを纏わせながら、苦しみに喘いでいる。
 
 苦しみのオーケストラ――そんな言葉がしっくりくる悲鳴の合唱に、部屋の中央へと進み出たジュンタは、何をするでもなく周りを見渡すことしかできなかった。

「どうしてこんなにもみんな苦しんでるんだ? 待て。それじゃあ、まさかクーも……!?」

 この中にクーがいるかも知れない。他の誰かと同じように震えて、苦しんでいるかも知れない。その可能性に気付いたジュンタは急ぎ彼女を捜そうとして、

――おや? 誰かと思ったら、まさかあなたとは」

 部屋の奥から突如響いた柔和な声に双剣を構えた。

 心に響くような声なのに、なぜか生理的な嫌悪が沸く美声――そんな声を聞いて、ジュンタの中の何かが囁く。気を付けろ。目の前にいるのは危険な奴だ、と。

 さらに言えば、ジュンタは進み出てきた男のことを知っていた。

「お久しぶりですね。あなたのことは覚えていますよ。あの事件は私の中でも非常に印象深いものでしたから。確かジュンタ・サクラさん、でしたか? 今日は一体何のご用です? 私はあなたを招いた覚えはありませんが」

 長い金髪の、一見では男か女か分からない美貌。だがジュンタは彼が男であり、そしてウェイトン・アリゲイ異端導師と呼ばれている、酷く危険な男であることを知っていた。

「ウェイトン・アリゲイ……そうか、ここはベアル教のアジトだったな」

 グストの村という場所で、目の前に立ったベアル教の布教師――ウェイトン・アリゲイとジュンタは敵対したことがあった。彼は自らの教義のためなら躊躇なく人を殺す。そんな人間だ。

 彼はベアル教の人間。なら、このアジトに彼がいたところで何ら不思議はない。少しばかり、嫌な因果を感じずにはいられないが。

「お前がここにいるってことは、ここのみんなが苦しんでるのはお前の仕業か?」

「苦しんでいる? ああ、それは違います。私は彼らをあらゆる苦痛から解放してさしあげただけ。彼らが苦しんでいるのは、私の好意を無下にし、抵抗をしているからです。誓って、私の所為ではありません」

「相変わらず歪んだ野郎だな。原因がお前にあるのは何も変わりないだろうが」

 このウェイトンとは話し合いが通じないことは、件の折に嫌というほど味わっている。余計な言葉の代わりに、ジュンタは双剣の切っ先をウェイトンに対して向ける。

「一つ訊く。ここにクーはいるか?」

「クー? もしや、クーヴェルシェン・リアーシラミリィ嬢ですか? そうなのですね! あなたがここにいるということは、彼女もここにいるということなのですね!!」

 クーの名を出した途端、ウェイトンが穏やかな微笑を崩し、欲望剥き出しのぞっとした笑みを浮かべた。

「素晴らしい! 以前は邪魔が入ってしまったようですが、私は確信している。彼女ならば、誰よりも早く『偉大なる書』の力でドラゴンへと至れると!
 実験したい。もう一度、彼女の歪んだ心を表に出して差し上げたい。ええ、正直を言いますとね、色々とストレスが溜まっているのですよ私も」

「その口振りからするとハズレか……それじゃあ、クーは一体どこにいるって言うんだ」

 ウェイトンはどうやらクーに執着している様子。その偽らざる世迷い言がそれを表している。そしてもう一度会いたいという様子から、まず確実にクーはここにはいない。

 なら、一体どこにいるのか? 再び振り出しに戻ってしまった捜索に内心で舌打ちをしてから、ジュンタはその疑問を頭の隅に追いやる。

 クーのことは大事だが、今一番気にすべきは目の前で笑うウェイトンの存在だ。

 ウェイトン自体はさほど怖くない。しかし、彼が今も手に持っている黒い背表紙の本――『偉大なる書』なる魔道書の力は脅威だと、ジュンタはクーに聞いて知っていた。

『偉大なる書』――その効果はおぞましきもの。あの不気味な黒い光を発する本は、人や動物を魔獣へと変貌させる力を持つという。それに加え、変貌させた魔獣を使役する力もあるのだとか。かつてのグストの村の惨状も、この力によるものだ。

(今、ウェイトンの奴の周りに魔獣はいない)

 ジュンタは冷静に分析する。

 周りを見ても、ウェイトンが従えていると思しき魔獣の姿はない。彼によって捕らえられた哀れな被害者たちが、鉄格子の牢の中で苦しんでいるだけだ。

(あいつを倒して、ここにいる人たちを救おうと思うのなら、速攻で倒すしかない)

 手にする剣にこれまで以上の魔力を流し込んでいく。

「このような、その辺りにいる愚民では到底ドラゴンには至れない。私は彼女が欲しい。ジュンタさん、是非彼女が今どこにいるかを教えていただきたいのですが。無論、お礼はいたします」

「そんなの――――俺の方が聞きたいぐらいだッ!」

 なおも続くウェイトンの世迷い言に対し、ジュンタは斬りかかることで答える。

「ほぅ!」

 ウェイトンは突如斬りかかられたことに対し、『偉大なる書』を少し持ち上げつつ、横へと跳んで攻撃を避けた。案外素早い動きだ。しかし――

「遅いっ!」

「ぐっ!」

 最速の騎士を師に仰ぐジュンタの対応スピードは、ウェイトンの動きを上回っていた。
 攻撃を避けたウェイトンにすぐさま近付き、剣の腹で思い切り殴り飛ばす。彼は悲鳴をもらして、鉄格子に背中を強かに打ち付けた。

「くぅ……なるほど。以前よりも遙かに強くなっているようですね。少々油断をしました」

 首筋に突きつけられた切っ先に対し、ウェイトンは口端から血を一線垂らしながら笑う。

 ジュンタは右のドラゴンスレイヤーを揺らさずに突きつけたまま、思い切りウェイトンの微笑を睨みつける。

「悪いが、お前がその本を使うスピードよりも、俺が斬りかかる方が早い。あきらめろ。そうすれば命までは取らない」

「動けば命を取ると?」

「……それがお前の選んだ選択なら」

 本音を悟られないように努めて冷酷な声を向けると、ウェイトンはさらにその笑みを深くした。

「その覚悟がおありなら、あなたは初撃で私を殺すべきだった」

「今からでも十分間に合う。お前の切り札の『偉大なる書』で、この場にいる誰かを魔獣に変えて使役しようとしたら、その瞬間お前の首が身体と泣き別れするだけだ」

「残念ながらその通り。今から人を反転させるとなれば、その間に切り伏せられるのは必死でしょう。ええ、これから反転させようとするならば、ね」

「なに?」

 奇妙な言い回しに疑問を持ち、すぐに苦しむ人たちが纏う黒いもやの存在を思い出したジュンタが動くよりも早く、ウェイトンは背後の牢にいる三人の少年に向かって優しく囁き、その背中を押した。

「何を我慢するのです? その衝動に任せなさい。それが、あなたたちの救いなのだから」

「!!」

 ウェイトンの意識を刈り取ろうと振り上げた左の刃は、いきなり鉄格子をぶち破って飛び出した硬い赤銅色の手によって弾かれてしまう。

 気絶させる程度に手加減した攻撃では、傷一つつけられない硬い皮膚。
 爛々と輝く鮮血の瞳が牢の向こうで三体――それぞれオーガ、ゴブリンという名前を持った魔獣の顔の上で輝いていた。 

「まさか、この人たち全員もうすでに――!」

 のっそりと牢の中から出てくるオーガの巨体と、その足下の小さなゴブリン二匹から距離を取りつつ、ジュンタは周りの牢屋全てを見回す。

 そこにいるのは、今目の前で魔獣に変貌した少年たちと同じように苦しんでいる人たち。彼らが一体何に怯え、恐怖し、苦しんでいるのか、ようやく理解が及ぶ。

「ウェイトン、お前!」

 ウェイトンが彼らに対し何をしたかに気付き、ジュンタは手加減一切なく意識を奪いにかかる。しかし刃が余裕の表情のウェイトンへと到達する前に、オーガの身体がそれを防いでしまった。

「何をそれほど憤っているのです? 一緒に祝おうではありませんか。矮小なる人より進化を果たした、彼ら新たなる魔獣たちを」

「ふざけるな!」

「ふざけてなどいません。千里の道も一歩から。彼らは王たるドラゴンの足下にも及ばないとはいえ、弱き人よりも強い。ならば私のしたことは褒められるべきことのはずでしょう?」

 黒い光を絶えず放つ『偉大なる書』を片手に、本気でそう思っている風な口振りの異端導師に、ジュンタはオーガと交戦しながら言葉を向ける。

「勝手にやっておいて、それで感謝しろっていうお前は何様だ?」

「私ですか? 私は導師。ベアル教の導師ウェイトン・アリゲイです」

「ああ、そうかよっ!」

 誇らしげにそう言い放ったウェイトンへと、ジュンタは双剣を円を描くように動かし、オーガをかわして向かう。

 間違いなくこの牢屋にいる人たちは皆、ウェイトンによって『偉大なる書』の餌食となっている。ウェイトンの言葉一つで、魔獣に変貌してしまうと考えていい。なら、これ以上どうにかなってしまう前にウェイトンを倒さなくては。

 オーガの巨体では、狭くて低い天井の地下室では、その機動力を大幅に削られざるをえない。それを利用してジュンタは、オーガの攻撃を振り切ってウェイトンに攻撃を仕掛ける。

「行きなさい」

 ウェイトンは余裕の笑みを絶やさずに、ゴブリン二匹を自分の前に立たせた。
 問題ない。オーガならともかく、ゴブリン相手なら右の剣で二匹を倒し、左の剣でウェイトンの意識を刈ることは可能だった。

 ジュンタは走り寄るスピードを弛めず、まず右の剣でゴブリン二匹を倒そうと振りかぶり、

「よろしいのですか? その魔獣は、つい先程までただの人間だったのですよ?」

 そのウェイトンの一言に、振るった刃がゴブリンに到達する少し前で、剣を止めた。

「やれ」

 急激に攻撃を止めたために崩れたバランスを見逃さず、ウェイトンはゴブリンとオーガに攻撃の指示を出す。

 ジュンタは襲ってくるゴブリン二匹に対し、一匹は足で、もう一匹は剣の腹で応対し、その後拳を叩き付けてくるオーガの攻撃から逃れるために、オーガの股下を潜って部屋の中央へと転がり出た。

 何とか避けられた――そう安堵する暇もなく、さらに追撃が仕掛けられる。

 攻撃は予想外の背後から。ジュンタは咄嗟に左の剣で攻撃を逸らし、右の剣の突きで反撃しようとして、そこにいた名の知らぬ異形の姿に、攻撃が命中する手前で急制止させた。

「くそっ!」

 悪態付きながら、ジュンタは一気に部屋の中央へと移動する。

 そこで改めて確認した、自分の周り三百六十度の光景は、嘆きたいほどに悲しかった。

「どうです、壮観でしょう? あなたのお陰で決心がついたのです。ここにいる全ての人間をさっさと魔獣に変え、それらを引き連れてミス・リアーシラミリィを捜すという決心が」

「そんなことは俺がさせない。絶対に」

「ならば、どうぞご自由に抵抗を。私は彼らの進化を促しただけ。その先は私の預かり知れぬところです。あなたがどれだけ殺したとしても、私はあなたを恨みませんとも」

 芝居がかった動きで、ウェイトンは両手を上げる。

 彼の背後、前、両脇にぞろぞろと血色の瞳を輝かせた魔獣が群をなしていた。
 それらはこの場にいなかったもの。いや、いた人間から変貌した魔獣たち。つい数十秒前までは人間だった者たちのなれの果てだった。

 彼らは『偉大なる書』の力により反転し、牢屋をぶち破り、今やウェイトンの守護者たらんとジュンタの周りをグルリと囲んでいた。

 ギチギチと歯をならすゴブリンが一番多いが、オーガも二体、名前の知らない魔獣の姿も多くある。その数総勢三十四――個人で敵対する魔獣の数と質をいえば、絶望的な数値。だが、さらに問題な点は別にあった。即ち、彼らが人間だった姿をこの目で見ていることだ。

 オーガはともかくとして、ゴブリンはさほど強くない。五匹程度なら、一度に戦っても勝てる自信はある。しかし彼らは人だったのだ。何の罪もない、ただウェイトンによって変貌させられただけの被害者なのだ。そんな彼らを、例え人の姿を奪われて魔獣の身になったとしても、ジュンタは殺すことを躊躇する。

 これが、彼らが人から変貌したことを知らなかったら、きっと何も戸惑うことなく、生き残るために全力で剣を振るっただろう。

 だけど見てしまった。彼らが魔獣に変貌する最後の引き金を、自分が引いてしまった。それなのに、どうして彼らをこの手で殺せよう?
 
「……ウェイトン、一つ聞かせろ。この魔獣になった人たちは、人の姿に戻れるのか?」

「あなたにお教えする義理はありませんが、いいでしょう。教えて差し上げましょうか」

 ウェイトンは『偉大なる書』を持つのとは逆の手で、懐から封がされた白い石の容器を取り出した。

「これが何か分かりますか?」

「……この人たちを元に戻すための薬か?」

「半分正解で半分ハズレです。確かにこれは、反転しようとする人間を元に戻すための薬で間違いありません。ですが――

 容器を懐に戻しつつ、ウェイトンは半ば笑った声で説明の続きを話す。

――これはあくまでも、反転しかけている人間を救うための薬です。一度でも反転をし、魔獣に姿を変えた人間にはまったく効果がありません」

「つまり、もうこの人たちは……」

「人間などには戻ることはない、と言うことです。素晴らしいことですね」

「ぐっ!」

 心底楽しそうなウェイトンの声を聞き、ジュンタはなりふり構わず彼に斬りかかりたい衝動に駆られた。しかし、そうするには魔獣たちを――人の身を奪われ、戻ることが叶わない哀れな彼らを切り伏せるしかない。それは感情、戦力差の両方から無理な話だった。

 双剣を握る指を痛いほど強くして、ジュンタはウェイトンを睨みつける。

「……本当に、方法はないんだな?」

「ええ、ありません。ですので、彼らを哀れと思われるのでしたら、どうぞあなたの手で葬って差し上げてはどうでしょうか? もしかしたらそれが救いになるのかも知れませんよ?」

「…………嫌と言うほど理解した。お前は、俺がこれまで見てきた誰よりも最低で、何ものよりも気に入らない」

 一斉に襲いかかってくる魔獣たちの中、怒りはウェイトン・アリゲイ異端導師ただ一人に向けられたまま、ジュンタの地下牢での戦いは始まった。






       ◇◆◇






 ベアル教の本部へと足を踏み入れたリオンとクーが、先に入ったジュンタたちが通ったルートを、この迷宮のようなアジトの中で知ることはそれほど難しいことではなかった。

 最初こそ迷ったものの、途中からは迷う必要がない。ジュンタの通ったルートを探るならば、途中通路で見つかった、ベアル教の信徒の死体を追っていけばいい話なのだから。

「……見事に心臓を射抜かれて死んでますわね」

 また見つけた死体を見下ろしてから、リオンは用心のために剣を手に持ったままクーに視線を向ける。

「クー、あなたはこれをジュンタがやったと思います?」

「いえ。恐らくは、ご主人様と一緒にいるという方によるものでしょう。ご主人様は、きっと人を殺すことを良しとしない方ですから」

「まぁ、そうですわね。弱い癖に、殺すことを否定してしまうなんて、なんて危ない」

 クーはそわそわと落ち着きなく、痕跡からどちらの方にジュンタたちが向かったかを探っている。このベアル教のアジトで迷いなく進めているもう一つの要因が、このクーにあった。

(ここまで来たら、もう偶然とは言えませんわよね)

 何かを思い出すように、分かれ道で瞼を閉じるクーの姿を、リオンは何とも言えない思いで見つめていた。

 ここに来るまで、確かにベアル教の信徒の死体を追ってこれば良かったのだが、何も見える範囲に次の死体が転がっているわけではない。何の手がかりもない分かれ道などは、勘で選ぶしかないと覚悟していたのだが……なぜか。クーが先導をしている。

 どうしてかは分からないが、クーは自信なさそうに、しかしこっちの方に行ったと思う旨をはっきりと伝えてきたのだ。

 根拠のないその理由。どうせどちらに行っても勘なのだからと、リオンはクーの勘を信用した。

 最初に次の死体がある場所までたどり着いたときは、偶然だと思った。
 二度目も、一度も間違えずに死体がある方に行けたときは、幸運だと思った。
 三度目では、ジュンタとクーの間に互いを惹きつけ合う運命があるのかと邪推し、今回の四度目ではさすがに疑念を抱いた。

「…………たぶん、ご主人様はこちらに向かいました」

 瞼を開いたクーが、分かれ道の右を指差した。その瞳は不安そうに揺れているが、一度指した方向に、もう悩む様子は見られない。

 リオンはクーへと近付いて、何の手がかりの痕跡もない廊下を眺める。

「……クー。どうしてあなた、こっちにジュンタたちが向かったと分かりますの?」

 少し言い淀んだあと、クーは胸の前で手を組んで、リオンを上目遣いで見つめた。

「ご主人様たちはきっと奥へ奥へと進んだはずです。でしたら、奥へと続く道を選べば、いつかは追いつけるのではと」

「ですから、なぜあなたは初めて来たこのような迷路みたいな道で、奥へと続く道が分かりますのよ?」

「それは…………たぶん、この侵入者避けの迷宮が一体どういった造りになっているのか、私の頭に入っているからだと思います」

「頭に入っているなんて、そんなことあるはずがないでしょう? だって神父様の話では、ここは長年隠され続けてきたベアル教のアジトですのよ?」

 クーの言っていることはおかしい。頭に入っているということは、設計図を見たか、あるいは実際に以前このアジトに足を運んだことがある。それくらいの理由でしかあり得ないことだ。

 だけど、リオンがクーの言うとおりに進んだ先で目にしたのは、またもや倒れ伏したベアル教徒の死体であった。

 正解が五度続いた。これはもう偶然とは絶対に考えられない。

 不安そうに瞳を揺らしているクーを、リオンは半ば睨むように見る。
 小柄な身体の震えに、ジュンタがいないことに対する以外にも原因があるように思えた。

(こうまで迅速に来られたなら、あながち先程のクーの言葉も嘘ではないかも知れませんわね)

 リオンは思う。とある一つの可能性を当てはめれば、先程の彼女の言葉は決しておかしなことではなくなるのだ。聖神教に属し、巫女の孫であるクーのことを考えてみれば、それはあり得ないことだけれど……

「クー。あなた、もしかして――

 ビクン、とクーが小さな肩を跳ね上がらせた。

 リオンは自分が、クーの中の何か踏み込んではいけないところに踏み込みかけていることに気付き、この場ではそれ以上問い質すことを止める。

「……いえ、なんでもありませんわ。先を急ぎますわよ」

「は……はいっ」

 クーの顔を見ないようにして、リオンは前に出る。

 なんであれ、クーというガイドがいるのだから、自分たちはジュンタよりも遙かに速いスピードで先に進めていることだろう。ならばジュンタに追いつくのも時間の問題だ。

(ジュンタ、クー……あなたたち二人には、私が知らないことが多すぎですわ)

 ちょっとだけ寂寥感と疎外感を感じてリオンは下唇を噛み、歩みを再開させた。






 スイカとヒズミが向かった先には、これまでよりも多くのベアル教の信徒がいた。

 それは近くに最高導師であるビデルがいることを端的に示している。二人は何ら躊躇もなく、出会った相手から問答無用で無効化し、血塗れた通路を切り開いていく。

 戦闘スタイルから自然と前方を歩く形になっていたスイカは、別れた、一時とはいえ仲間である少年のことを思う。

 ジュンタ・サクラ――彼は人の死を見て怯えていた。人が人を殺すことに恐怖していた。

 それは人としては当然のことだ。ヒズミが彼に対して言ったことも正しいとは思うけど、本当に正しいのはジュンタの反応の方だったと、スイカは思う。それは自分たちがいつかに置き忘れてきてしまった感覚。初めて人を殺めた瞬間にきっと忘れてしまった……

 スイカは自分の手に吸い付くように存在を示す、変幻自在の武器『深淵水源リン=カイエ』に視線を落とす。

 これは魔法武装と呼ばれる武器の中でも最高位――英雄種ヤドリギ』と呼ばれる代物だ。

 かつての使徒が扱い、その使徒の力を宿して名を得たこの武器は、武器としては最高峰の力を有している。使徒フェリシィール・ティンクより自衛のためにと渡された物で、当初は武器を持つこと自体嫌っていたのだけど……今では血の刃を持ったこれを、何の違和感もなく受け入れている自分がいる。自分の両手としてさらに血を吸い上げている自分がいる。

(一体、いつからこうなったのだろう……?)

 自分も弟も変わってしまった。昔はジュンタと同じように人の死に恐怖し、人を殺すことに何十日もうなされたのに。

 二人で何とか乗り越えた。仕方がなかった、やりたくてやったことではないと、人を殺したことを自分の中で消化した。それが続く内に慣れが来て、今では人を殺すことに戸惑いすらわかない。

(強い目的は、罪の意識すらも霞ませてしまのうか……悲しいな)

 だけど、それを改めて自覚してなお、歩みを止められない自分がいる。

 変えられない。もう後戻りはできない。進むだけだ。進むしかないのだ。いつか目的を果たすその日まで、刃を振り下ろすことを戸惑いはしない。後悔は、その後にしよう。

「姉さん」

「ああ、今度こそ当たりだといいな」

 前方に見える大きな空間を持つ部屋までの僅かな道。ジュンタ・サクラという少年の存在で揺らいだ決意を改めて固め直し、スイカは両手で薙刀と化した『深淵水源リン=カイエ』を構える。

 ヒズミも同じく『英雄種ヤドリギ』の弓――黒弦イヴァーデ』に、魔力で作り上げた炎の矢をつがえる。

「さぁ、手に入れようか。わたしたちの大事な大事な、現実回帰へのピースを」

「ああ、手に入れよう。『始祖姫』メロディア・ホワイトグレイルの、聖骸聖典を」

 そして二人は対峙する。ベアル教『純血派』の最高導師――ビデルに。






       ◇◆◇






「最高導師ビデルだな?」

 すでに侵入者がいることを耳にしていたビデルは、その侵入者がすでに自分の目の前まで辿り着いていたことに、玉座から腰を浮かせ、額に脂汗を滲ませる。

 まさかこの迷宮を越え、多くの信徒たちを倒してくる者がいようとは。いや、それ以前にこの神殿の場所を見つけ出す相手がいようとは、一体ウェイトンの奴は何をしているのか?

(だから、私は嫌だったのだ! このような堕ちた宗教団体の長をやるのはっ!)

 殺気立った周りの信徒たちの手前、口には出せないがビデルは心の中でそう思っていた。
 
 ビデルは決して信心深いベアルの教徒ではない。他の信徒のように、示された力への道にも興味は薄く、ドラゴンに心酔もしていない。ただ、生まれてすぐに思想を父親である開祖ベアルに教え込まれ、こうなる以外に道が存在していなかっただけだ。 

 本音を言えば、父親たちが死に一度ベアル教が没落したとき、そのまま雲隠れをしようとさえ思っていた。

 それをあの女に誑かされてしまって、ここにいる。あの憎きディスバリエ・クインシュ――逆らえぬ深淵をのぞかせる魔女に騙され、こんな場所にいる。こんな場所にいたら、いつか殺されてしまうことが分かっていたというのに。

 ついに敵はやって来てしまった。目の前まで。死神の鎌で、自分ののど元を貫ける近くにまで。

 ビデルは信念とか矜持よりも、何よりもまず自分の命を優先した。

「貴様らは何者だ? 何の目的でここに来た?」

「初めまして、最高導師ビデル。わたしはスイカ。黒曜の使徒。二つ名はまだないけど、一応は使徒の一柱を名乗っているものだ」

「使徒、だとぉっ!?」

 二人の侵入者の内、女の方がもたらした最悪な返答にビデルは愕然と玉座の背にもたれかかる。

 使徒――聖神教のトップにして、ベアル教にとっては唾棄すべき敵。
 それはよしんば話し合いで見逃してもらおうとしていたビデルに、それが無理だと言うことを認識させるには十分な答えだった。

「使徒スイカ…………そうか、ついに使徒が乗り込んできたのか……」

 臆病なビデルにとって使徒の登場は、その決断をさせるのには十二分なことであった。

 スイカの名乗りには、さすがに信徒たちにも動揺が隠せないよう。その中で、ビデルは常からは想像もできない落ち着き方でスイカに対し話しかける。

「それで? この場所に使徒が一体何用だ? この私を捕まえに来たのか?」

「それもある。けど、それよりもわたしたちには欲しているものがあるんだ」

「それを渡せば、そのまま何もせずに帰ると?」

「冗談だろ? そんなはずない。お前らは全員、ここで死んでもらわなくちゃ困るんだ」

 スイカとビデルの会話に割り込んで、残酷な台詞を燃えさかる矢の先をもって示した少年が、酷薄な笑みを顔に張り付けて言う。

「面倒くさい。こいつら全員を殺して、その後に探せばいいんだ。その方が建設的だ」

「野蛮なやり方だな。だけど、それが一番簡単か。向こうもどうやらそのつもりのようだし」

 そう決めて、侵入者はそれぞれの得物を構える。

 殺気立った信徒たちが、彼らに襲いかかったのは直後のこと。
 神殿の中核であるこの場所は、すぐに戦場へと早変わりした。

 その中で、ビデルは不気味な沈黙を保ち、一歩も動くことなく玉座に座り続けていた。――否、そうしているように見せかけて、使徒を殺す最終手段の準備を進めていた。

(仕方あるまい。もはや私にベアル教は不必要。父が後世に託した遺産だろうが、私の命の方が何倍も大事だ!)

 さすがは敵地で使徒とはっきりと名乗るだけのことはある。数で勝っていた信徒たちは、瞬く間に彼女たちの攻撃の前に、その命を散らしていく。消えていく魂すら飲み込むように、神殿は正常に稼働を始めていた。

「大した相手じゃなかったな」

「落ち目の『純血派』じゃ、この程度ってことさ。さぁ、覚悟はいいよな? ビデル」

「……ッ!」

 男の方に矢を向けられたビデルは、小さく息を呑む。

 呑んでから――ヒステリックに歪んだ笑みを浮かべた。

「クッ、クカカカカっ! 私をあまり見くびらないでもらおうか小僧! いいだろう。見せてやろうではないか。『純血派』が『純血派』と呼ばれる由縁を! 我が父ベアルが遺した、その力をなァ!!」

「何だと?」

 訝しげに眉を顰めた彼らの表情が、瞬く間に驚愕に転じる。
 それを愉快気に見ながら、ビデルは開祖であるベアルと『狂賢者』がこの神殿に施した、禁忌の術を解放する。

 それはこの場所に神殿を作らなければいけなかった理由。聖地に近くなければ、意味のない解放と解呪の術式。神殿と呼ばれる、ただ一つのことのために魔力をかき集める霊的建造物と契約して使う、ベアルの血を継ぐ自分にだけ許された魔法――

「神殿魔法[ 聖地陥落 ホーリー・ホロウ――今ここに、『封印の地』が解放されるのだッ!!」

 ビデルの叫びに合わせ、今、長きに渡る封印に孔が穿たれた。






 双剣は攻撃よりも防御の方を得意としている。
 それでも、四方八方から同時に繰り出される攻撃の嵐を、全て避けきることはジュンタにはできなかった。

 ゴブリンたちの鋭い爪での攻撃に、次々と身体に裂傷ができていく。その中でオーガの攻撃を受けないことだけ気にかけて、なんとか首の皮一枚のところを凌いでいくのが精一杯だ。

 運が良かったのは、この地下ではオーガの動きが鈍いこと。慎重に観察すれば、オーガの豪腕の攻撃を避けるのは決して難しくなかった。ただ、このままではジリ貧だ。いずれは確実にやられる。いや、むしろ今の時点で倒れていないのは、一重にウェイトンが遊んでいるからに過ぎない。

(く、そっ!)

 右の剣で、左の剣で、攻撃を受け流す。弱いゴブリンの一撃は甘んじて受けて、それ以外の全てを受け流す。

 回る。回る。回る――回転する視界と身体。間合いの中には一歩も入らせない。

 そんなジュンタの様子を、戦いが届かぬ外からウェイトンは観察して、あざ笑いながら声をかける。

「なるほど、よくがんばります。ですがどうして攻撃をしないのです?」

(うるさい!)

 声を出す余裕はなく、ジュンタはウェイトンの問い掛けに心の中で怒鳴り返す。

(そんなのは、俺が一番疑問に思ってるんだよ!)

 回転の途中、刃の先がゴブリンの身体を浅く切り裂く。もう少し刃を押し込めば、そのまま倒すこともできるが、ジュンタはそれをしない。

 倒せなかった。脳裏には、まだ苦しんでいた人たちの姿がちらついている。目の前の魔獣たちを、ただの倒すべき敵とは認識できなかった。

「何を躊躇する必要があるのですか? 彼らはもはや、あなたたちが日夜倒している魔獣と変わりました。もう人間にも戻れません。然からば、殺すことは罪ではないでしょう」

 自分の手は一切汚さず、ウェイトンはしゃべるという攻撃を仕掛けてくる。
 なんて耳障りな雑音。その口での攻撃は、ジュンタの心を的確にえぐった。

「さぁ、生き残りたいのなら殺しなさい。私の神はそれを許すでしょう。きっとあなたの神もそれを許すでしょう。戸惑うことはない。嘆くことはない。それは醜悪なまでに正義なのですから」

――いずれお前にだって選択するときが、覚悟する時がくる。
大事なものを守るには、力が必要なんだ。誰かを殺す覚悟が必要なんだ。きれい事だけじゃ前には進めない。譲れないものを奪われるだけだ――

 ウェイトンの言葉に続き、脳裏にヒズミの言葉が甦る。
 直後、一瞬できた隙をつかれ、身体にいくつもの裂傷が生まれた。

「くっ!」

 ジュンタは足を使って、迫ってきたゴブリンたちを蹴り飛ばす。
 再び間合いを確保して双剣を構える。息はすでにかなりあがっていた。

(どうやら、選択するときが早々にやってきたみたいだな)

 つい先程話していたことが、今もう襲いかかってきたことにジュンタは気持ち悪さを覚える。

 このままでは遅かれ早かれ自分は、かつて人間だった魔獣たちにやられるだろう。そうならないためには、この魔獣たち全てを倒すか、この場から逃げ去るしかない。

 この数、しかもオーガまで含めた魔獣全てを倒すのは無理に近い。よって取るべきは離脱なのだが、これも難しい。現状、魔獣に囲まれている中を突っ切ることは不可能。突っ切るには、少なくとも半分近くに魔獣の数を減らす必要がある。
 
 それは魔獣を殺すということだ。かつて人だった彼らを殺すということだ。
 
―― だから覚悟だ」

 ジュンタは双剣を注意深く構えながら、そう呟く。

「覚悟がいるんだ。殺す覚悟が、生き残るためには」

 こんな場所で死にたくない。こんな場所じゃ死ねない。まだ、自分にはやるべきことが残っている。笑ってなんて死んでやれない。

 なら、何としても生き残らないといけない。敵を蹴散らし、無様に背中を晒しても、この場所から逃げ去らないといけない。そのために彼らを殺す必要があるのなら、その覚悟をしなければいけない。

 殺さなければ守れないのならば、
 殺さなければ蹂躙されるのならば、
 殺さなければ殺されるというのならば、
 殺される前に、殺す覚悟をしなければ。


「だけど――――それでも俺は、殺せなかった」


 ジュンタはくしゃりと顔を歪める。

 守りたいものがあった。蹂躙されることを許せないものがあった。殺されるよりも酷い否定があって、否定されないためには殺す必要があった。

 それは故郷で迫られた一つの選択。大事な日常を取り戻すためには、もう一人の自分を殺すしかないという選択肢があった。大事なものを守るためなら、殺さなければならなかった。殺さないと取り戻せないものがあった。

 そう、あのとき自分はやろうと思えばできたのだ。人を殺し、幸福な日常に戻ることが。

 だけど、しなかった。こうしてこの異世界にサクラ・ジュンタはいる。大切なもののためとはいえ、殺すことを否定して、そうして旅立ったのだ。

「なら、人を殺すことはできない。それはこの状況が、俺の輝いていた日常を失ったことよりも辛いってことになるから。俺の過去が、こんな状況よりも大切じゃないってことになるから」

 牙を剥いて睨みつけてくる魔獣たちの鮮血の瞳が、なぜか泣いているように見えて仕方がなかった。ウェイトンの言うように殺すことが救いになるかも知れない。だけど、二度と人間に戻れない彼らは、それでも死にたくないと訴えてきているようだった。

 だから始めよう。凌ぐための戦いじゃない、誰も殺さずに生き残るための戦いを。

「あの選択を後悔しないために、正しかったと思うために、俺は人を殺さない。これくらいのピンチ、あのときの喪失感に比べたら全然大したことないんだから」

 つまりはそういうことだ。サクラ・ジュンタは自分を殺せなかった。だから、人を殺すことで自分を殺さない。誰かをもし殺すとしたら、それは自分の大切だった過去の日常に比してなお、大切と思うモノのためじゃないといけない。

「自分を殺さぬ不殺の誓い。ああ、そうだな。それはなんて、醜悪なまでに自分勝手な正義なんだ」

「ほぅ、殺さないで生き抜くおつもりですか? それは非常に険しい道ですよ?」

「無駄だ。俺はもう、その覚悟を」

「ああ、なるほど。では、ここから先は血生臭い殺人を」

「生き残るのは俺――

「死ぬのはあなた――

 互いに睨み合い、無言のまま、再びの戦いの幕はあがる。






 ―――― 聖地陥落 ホーリー・ホロウ]による、無制限の混沌の戦いが。






 ギィイイァァアアアアァアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!

 その時響いたのは、まるで断末魔の悲鳴のよう。

 それは空間が上げた悲鳴。ウェイトンの背後――そこにあった空間がいきなり真横に裂けたために響いた音だった。

「空間が、割れた……?」

 魔獣たちをジュンタにけしかけようとしていたウェイトンは、突如生まれた孔を見て、心底驚いた顔をする。

「なぜ、『封印の地』に穴が穿たれている? どうして[ 聖地陥落 ホーリー・ホロウ]が……?」

 ブツブツと呟いたのちウェイトンは、今までに見せたことがないくらい顔を失望と憤怒に歪めた。

「なんと言うことを! 開祖ベアルの二十年の悲願を、なぜこのようなタイミングで起動させた! まだ、まだ時は満ちてはいないというのに!!」

 ウェイトンは『偉大なる書』を持たざる左手で、自分の顔を押さえる。
 
 指の間からのぞいた瞳が、孔からジュンタへと移る。

「そう……そうか。あなた以外にも侵入者はいたということですか。あの矮小な最高導師は、人間などを恐れて秘術を使ったということですか! ああ、なるほど! 納得だ!」

 クククククッ、と狂ったように笑い始めたウェイトンは、ニンマリと口元に笑みを浮かべる。

「一体、どうしたっていうんだ?」

 ジュンタは変貌したウェイトンの様子に眉を顰める。
 彼の背後に生まれた孔から、何か獣の咆哮が聞こえてくる。そこに一体何が潜んでいるのかは分からない。だが危険だと、本能が警告をしてきていた。

(何か、よくないことが起きている)

 何が起きているのかは分からない。しかし、今何かが起きようとしている。それは個人の問題ではなく、ベアル教自体が起こしている何か。この聖地全てを巻き込みかねない大事件になる何かだ。

「どうやら驚いているご様子ですね。それも無理はありません。私も驚いています。まさか、まさか『封印の地』をこのようなタイミングで開こうとは」

「『封印の地』?」

「ご存じないのですか? 『封印の地』、なかなかに有名な『始祖姫』の伝説なのですが……まぁ、あえて説明する必要もありませんか」

 ウェイトンの背後の孔に、赤い灯りがいくつも灯る。否、それは灯りではない。

 それは瞳――夥しい数の魔獣たちの、その血の色の瞳だった。

 おぞましい孔の内部を一瞥してから、ウェイトンは『偉大なる書』からこれまで以上に黒い光をもらし、世の中上手くいかないとばかりに苦笑する。

「残念だ。あなたもなかなかに興味深かったのですが、弱らせ、魔獣に変えるために費やせる時間はなさそうです。あなたに執着しているヤシュー君には悪いですが、まぁ、今はグリアー君を助けるのに手一杯のようですし、諦めてもらいましょうか」

「何を、言いたい?」

「遊んでいる時間はなくなった、ということです」

 口元に微笑みを浮かべたまま、ウェイトンは左手をあげる。するとそれに統制されるように、無秩序だった魔獣たちが整列を始める。

 それは異様な光景だった。本来人に従わないはずの魔獣たちが、ウェイトンの招集に応じ、その足を揃えている。

「ジュンタ・サクラさん。あなたはなぜ肉体面で劣っている人が、魔獣に滅ぼされることがないかご存じですか?」

 整列し、なおも堅固に自分を囲む魔獣たちに警戒するジュンタは、ウェイトンの言葉に返事をする余裕はなかった。ウェイトンも返事を期待していなかったのか、自分勝手に話を進める。

「数の差、ということではありません。魔獣が人間に負けてしまう理由、それはその知能の低さにあります。魔獣は獣――人の戦略の前に、脆く崩れ去ってしまうのです。戦略すら意味無きほどに強大な魔獣も存在しますが、ゴブリンなどは一蹴されてしまう。
 故に、魔獣の力に人の戦略が合わさったとき、真に無敵の軍団が誕生する。分かりますか? 私が率い、私が統しこの軍団は、人の軍団の遙か高みに存在するのですよ」

 ジリジリと間合いを縮めてくる魔獣たち。
 これまでのように突進してくるわけではなく、ただ追い詰めてくる。

 ゴブリンが隙間無く退路を塞ぎ、オーガが攻撃のために前に出る。ジュンタはゴクリと息を呑んだ。

 そこへ、魔軍の指揮者であるウェイトン・アリゲイ異端導師より開戦の命が下される。


「さぁ、ではお待たせしました。始めるとしましょう――――一方的な、虐殺を!」


『『オォオオォオオオオ!!』』

 魔獣たちが吼え、一斉に襲いかかってくる。

 ジュンタは意識をこれまで以上に研ぎ澄ます。殺さないとか、覚悟とか、そう言うのを抜きにして、全力で立ち向かわないと本当に生き残れない。

 ウェイトンによって操られた魔獣たちの動きは、コンビネーションすら取れていた。

 本能が通用するのは防御のみ。攻撃は理性で行わなければならない。師であるトーユーズはそう言っていた。魔獣たちのこれまでの攻撃はあくまでも本能によるものだった。止めまでの道筋を組み立てられてない攻撃は、必殺までは届かない。

 しかし此度の魔獣たちの攻撃は、間違いなく必殺への軌跡を紡いでいる。

「ぁあああッ!」

 ジュンタは吼え、剣を振るう。

 がむしゃらに、本能的に、圧倒的物量で攻め立ててくる攻撃から逃れるために、必死に剣を振るう。

 肩が抉られる。太股が蹴られる。腕が殴られる。背中が刻まれる。

 これまで実際に陥ったことのなかった、多対一の攻防。先程までのように、あくまでも切り結ぶ瞬間においては一対一ではない、たくさんの相手の攻撃が一度にやってくる恐怖。

 肩から血が出る。太股の肉が削がれる。腕の骨が悲鳴をあげる。背中が痛みを発す。

 避けても、受け止めても、逸らしても、終わりの見えない暴力の嵐。
 それでも致命傷だけは防ごうと、ジュンタは周りの視界全てが魔獣で覆われるという絶望の中、懸命に剣を振るい続ける。

 しかし剣は二振りしかない。一度に多角的に攻撃されれば傷だけが増えていき、ついに敵の攻撃の中――ジュンタは見る羽目になってしまった。

――――ぁ」

 両手を左右の敵の攻撃を捌こうと動かした瞬間、巨大な拳が前方に現れる。

 赤銅色の拳は、一撃で岩をも砕く一撃――腕を思い切り振り上げたオーガが目の前に迫っていて、ジュンタはその攻撃を避けられないことを静かに悟った。

 オーガの拳が振り下ろされる。

 まるで時が止まったかのような錯覚。だけど、時が止まったような中、動かない自分の身体。

 やれたことといえば、突如部屋の入り口から響いた見知った声の方を振り向いて――

「ご主人様!!」

(クー? ああ、良かった。無事だったのか……)

 ――嬉しそうな声と、笑顔を浮かべて階段を下りてきたクーの姿に、安堵から微笑みを浮かべることぐらいのものだった。

 時は止まることなく、規則正しい時間を刻む。
 探していた笑顔が掻き消えて、ジュンタの視界は真っ白に染まる。

 痛みを感じたのは、一瞬のことだった。









 戻る / 進む

inserted by FC2 system