第十二話 禁忌の感情
忘れかけていた箱の蓋が、いつの間にか開いていた。
そこから飛び出してくるのは、まだ生まれて間もなかった頃の記憶。
まだ何も知らず、まだ何も教えてもらっていない、壊れる前の記憶。
クーヴェルシェン・リアーシラミリィにとっては始まりだったその記憶を、しかしあまり覚えていない。
当時が幼かったからではない。普通とは違う生まれ方をした自分は、その当時にはすでに人並に物事を把握する知能を持っていた。だから、それでも当時の頃をよく覚えていないのは、覚えようとはしなかったからなのだろう。
あるいは、そもそも覚える、覚えないという概念すらなかったのか。
当時の自分はただそこに存在するだけの人形で、知識だけを溜めて、来るべき瞬間に備えて大事に放置されていたから。
そうであることを望まれて、何もないことを望まれた。その瞳に映す最初のものも、その意志が思う最初のことも、その心が覚える最初のことも、全ては一つのことに限定されていた。
『あなたは幸せよ。この世で一番幸せ』
そう母親は言った。
『幸せだ。お前は、誰も知らない英知を最初に知る人となる』
父親もそう言った。
『無垢なまま存在しなければならない。あなたの一生は、彼のためだけに存在するのだから』
怖い女もそう嗤って、
『我らが巫女。我らが希望。我々は、君の誕生を心から祝福している』
愚かな男が涙を流した。
その言葉は、今になってようやく思い出すことができる言葉。
きっと頭のどこかに引っかかっていたのだろう。当時はまったく覚えないように施されていたのだが、それが解けた今では理解すらできる。
『――手向けの花束よ。捧げられし花嫁よ。クーヴェルシェン。あなたはなんて幸せな巫女』
あの時あの瞬間、狂った人たちは毎日のように言っていた。口ずさんでいた。クーヴェルシェン・リアーシラミリィという存在を、そう呼んでいた。
『――――『竜の花嫁』。お前は、ドラゴンのためだけに存在するのだから』
「あ……!」
過去を思い出した拍子に、足下に気を取られてクーは転倒した。
顔面からベチンと床に打ち付けて、その痛そうな音に前を歩いていたリオンが何事だと振り返った。
「クー、なに転んでいまして? 大丈夫ですの?」
「だ、大丈夫です。ちょっと足を取られただけですから」
手を貸そうとしてくれたリオンにちょっと鼻先の赤くなった顔を向け、クーはすぐ立ち上がる。
「先を急ぎましょう。たぶんご主人様は、もうすぐ近くにいます」
「そうですの? ……まぁ、今更どうして分かるかなんて訊きませんが」
差し出した手を引っ込めたリオンは、通路の先に視線を向ける。そこは行き止まりで、左右に分かれた道になっていた。
「片方は奥へと続く道で、もう片方はさらに地下へと続く道……さて、どちらにジュンタが向かったかが問題となりますわね」
「奥へと続く道がこの神殿の祭壇へと続く道です。恐らくご主人様はそちらの方に」
リオンの疑問の声に、クーは即答する。
初めて足を踏み入れた迷路のような場所なのに、的確に行く道を選べることに、リオンは一瞬疑惑の視線を向けてきた。それはほんの一瞬のことだったが、彼女が薄々気付いていることはもう間違いない。
そう、リオンが疑っている通り、クーはこのアジトの地図が頭の中に入っていた。
(私は、ここに来たことがある)
突き当たりまで歩いていく中で、クーは押し寄せる不安の中で思い出す。
かつての記憶。幼い日の記憶。取り返しのつかない罪を犯す前の自分の記憶。
ずっとずっと引き出しの奥にしまっていたその記憶が、こうしてこの神殿に再び足を踏み入れたことによってどんどんと出てくる。
それはおぼろげな霞のような記憶だが、所々大事な記憶もある。だが、その中にただの一つとして思い出は存在していない。
その当時のことは全て記憶でしかない。思い出になるようなことなど、一つとしてなかった。
「…………ご主人様、私は……」
胸に悔恨の念が込み上げてくる。
自分の立っている場所が分からなくなるくらいの恐怖と共に、罪悪感が込み上げてくる。
怖い――そう思った自分に、クーは自嘲の笑みを浮かべる。
この恐怖は、過去の罪の意識から来る恐怖ではなかった。これは未来から来る恐怖――この場所にいるだろう大事な人に、自分の過去を知られてしまうかも知れないことに対する恐怖だった。
巫女であることを認めてもらって一緒にいる自分だが、未だジュンタに過去犯した罪について話していなかった。一番に話さなければいけないことなのにだ。
(怖い。話して、ご主人様の傍にいられなくなってしまうかも知れないことが、どうしようもなく怖い。私は、弱くなったのでしょうか?)
ジュンタと出会う前までは、すぐにでも話すつもりだった。話してから巫女になることを許してもらうつもりだった。けれど、何も言わずに巫女にしてもらって、今なお伝えていない。これでは騙しているようなものだ。
そう分かっているのに――でも怖くて伝えられない。
犯した罪の重さが、口を開かせない。自己の存在の汚れが、当然の行いを果たさせない。
もし伝えて嫌われてしまったら、きっと自分はもう立ち直れない。あの優しさと温もりを知ってしまったら、もう離れることなんてできない。それが裏切りだと知っていても、それでも……
「何て汚い、醜い女……」
「クー、何か言いました?」
「いえ、大丈夫です。何でもありません」
思わず呟きもらしたクーの声に、リオンがまた振り向いて立ち止まる。
そのまましばし誤魔化すクーの顔を見たあと、別れた二つの道の内、リオンは奥へと続く道を指指した。
「確かこちらへ行くと、このアジトの中枢に出ますのよね? では、この下に行くとどこへ出られますの?」
続いて地下を指差したリオンに、クーは静かに考え込む。そうして昔を思い出さなければ、霞がかった記憶は掘り起こせなかった。
「……たぶん、ですけど。この先は牢屋に出るはずです」
「地下に牢屋を作るのは基本ですものね。でしたら、奥へと行くよりも下に降りた方がいいかも知れませんわよ」
「どういうことですか?」
「ジュンタは恐らく、あなたを助けようとここに来ましたのよ? 私がジュンタの立場でしたら、敵の主犯格がいる場所よりも牢屋の方にクーがいると思いますわ。ですから、奥へと行く前にこちらの方を先に見たほうがいいかも知れません」
「なるほど」
クーは頷きつつ、自分の胸がポカポカと温かくなったのを感じていた。
「では、まずは地下牢へと急ぎますわよ」
「はい」
暗い階段の奥へとリオンが降りていく。後を追いながら、クーは今まであった不安を全部吹き飛ばした胸の温かさにほぅと息を吐いた。
恐怖を吹き飛ばすことができたのは、リオンの言葉のお陰だった。彼女の口にした『ジュンタは恐らく、あなたを助けようとここに来ましたのよ』という言葉が、とても嬉しかったのだ。
ジュンタがここへ来たのは、自分を捜しに来たから――面倒をかけてしまっている申し訳なさを遙かに凌駕する、この幸せな気持ち。不遜とは思いつつも、クーは胸元に手を寄せて酔いしれる。
(私は確かに弱くなったかも知れません。けれど、この先ご主人様と一緒にいれば、きっと強くなれます)
一人になると以前にも増して不安に思ってしまうが、ジュンタの隣にいればクーは大丈夫だった。何にだって勝てるように、過去の重さに負けないように、強くなれるような気がした。
これはとてもすごいことだ。本当に、自分の使徒様はすごい人だ。
そんな人に大事に思われている自分を、いつか好きになれるかも知れない。
それはずっと先のことだろうけど、きっといつか、あの人の隣にいても恥じることのない自分になれるかも知れない。
いや、なろう。時間をかけても。こんな自分に優しくしてくれる、あの人のために。
クーは静かに決意を固め、階段を下りていく。
会いたい――そう考えることができた自分を、クーは最初にジュンタに知ってもらいたかった。だから階段の終着にあった部屋にジュンタの姿が見えたとき、クーはリオンを追い抜いた。
「ご主人様!!」
呼ぶ。愛しい人を呼んで、駆け寄ろうとする。彼以外の全ては目に入らなかった。
ジュンタはこちらの声に気が付いて、振り向く。その口元には微笑みが浮かぶ。
直後――――何かに押しつぶされ、クーの視界から大好きな笑顔が消え去った。
「………………………………………………………………………………ぇ?」
長い長い沈黙のあと、クーは目の前で起きたことに対し、意味が分からないと足を止めた。
(あ、れ? ご主人様、は……?)
今、確かにジュンタがいたのだ。目の前にいたのだ。こっちを見て、優しく微笑んでくれたのだ。でも、なぜか、今は、いない。
彼がいた場所には赤銅色の大きな体躯があって、その拳が地面にめり込んでいる。岩をも砕くその一撃が落ちた場所は陥没し、砂煙が立っていた。
「ジュンタ!!」
後ろで同じ光景を見たリオンが、なぜか拳がめり込んだ場所を見て血相を変えてそう叫んだ。
クーは思わずリオンに言い返そうとした。『何を言っているんですか? ここにご主人様はいませんよ』と。
言おうとしたのだ。でも、声は出なかった。代わりによく分からない感情が、さっきまで温かかった胸に湧き上がってくる。その感情の名前をクーはよく知っていて、だからこそ理解できなかった。
「はぁッ!」
疾風のようにリオンが横を走り抜け、通り道にいたゴブリンたちを切り裂き、オーガの巨大な腕を一刀両断した。
オーガの悲鳴が響いて、切り落とされた手が床に転がる。リオンはそれを蹴り飛ばして、拳が突き刺さっていた床へと腕を伸ばす。まるで誰かがそこにいて、助け出そうとしているみたいに。
(リオンさんは何をしているんでしょう? だって、そこには誰もいないのに……)
クーは焦点の合わない瞳で、リオンが片手で陥没した地面から引っ張り上げた少年を見る。
リオンはその少年を抱き上げて、一気にこちらまで戻ってくる。
助け出された少年はぐったりとしていて、ピクリとも動かなかった。
それを見てクーは認める。
(ああ、人がいたんだ。でもそれは、ご主人様じゃない……)
「■■■■!」
動かない人がいる。リオンが、その人の名前を大声で呼んでいた。何と言っているかは、なぜか分からない。
「■■■タ!」
分からない。
「■■ンタ!」
本当に、分からない。
「■ュンタ!」
分かりたくない、のに――
「ジュンタ!」
――どうして、その名前が聞こえてくるのだろう?
「ジュンタ! しっかりなさい! 死んではいけませんわ!!」
リオンが周りを警戒しながら、必死に叫んでいる。思わず驚いてしまうぐらいに怒鳴っている。
止めて欲しい。耳障りだ。そんなに大声で名前を呼んだら嫌でも理解してしまうし、それではまるで、その人が死んでしまっているみたいではないか。
クーは感情がごっそりと抜け落ちた表情で、リオンが抱き起こしている人を観察する。
珍しい黒髪に同じく黒い瞳。フレームが曲がりレンズの割れた黒縁眼鏡に、どこか異国風の顔立ち。
ずっと夢見て、そして出会った人の顔と、それは寸分違わぬ顔だった。顔色が悪くて、口元から血が出ていて、まったく笑っていないことだけが違うが、クーが見間違えるはずもない顔だった。
クーの脳裏に、安心したように笑った笑顔が何度もリピートされる。もう、認めざるをえなかった。
(ああ、どうして、なんで、ご主人様、が……? どうしてご主人様が、ここにいる?)
――クーヴェルシェン・リアーシラミリィを捜しに来たから。
(どうしてこんな優しい人が傷ついているんですか?)
――クーヴェルシェン・リアーシラミリィを捜しに来てしまったから。探しに来なかったら、彼がこんなところで傷つくことはなかった。
(どう、して……ご主人様は、動かない、んですか…………?)
――簡単だ。答えは■■■いるから。
――では、以上のことから一番悪いのは一体誰でしょう? また、その悪い人は一体どうなるべきでしょう?
「決まってます。悪いのは私……クーヴェルシェン・リアーシラミリィ。そんな悪い奴は死ぬべきでしょう」
クーはジュンタが倒れていることを受け入れると共に、力無く視線を床に注ぐ。
そこへ自分の声で、自分の意志が心の中で尋ねてきた。
(それは本当に? 本当に悪いのは、クーヴェルシェン・リアーシラミリィ?)
「それ以外に、ありません」
(本当に? 本当にそう思っているのですか? 悪いのは他にいると、本当はそう思っているのではないのですか?)
「あり得ません。私が、私が全部……」
(本当に? 本当に? 本当に? クーヴェルシェン。あなたは本当に自分が全て悪いと思っている? それならあなたは、ここにいる汚らしい獣には、大切なご主人様を傷つけた獣たちには何の罪もないと、そう思っていると言うのですか?)
「そ、れは……」
(それこそがありえない。ご主人様を傷つけたのは彼らです。許してはいけない。罪がないわけがない。彼らこそ、本当に罪を償うべきだ)
「罪を……私ではなくて……?」
(罪人では罪人は裁けない。あなたは何も悪くない。あなたは怒っていい。あなたは憎んでいい。あなたは恨んでいい。わたしが、その罪を裁いていい)
「裁く? でも、私は……」
(裁いていい。我慢する必要はない。悪いのは向こうだ。私は何も悪くない。悪くないなら怒るのは当然だ。そう思うのは当然だ。さぁ――■■う)
「……ダ、メ……私はもう、それは思わないと、決めたんです……」
(その感情でないと、この許されない罪は裁けない。さぁ、さぁ、さぁ――■そう)
「何をしているのですか? クー! あなた治癒魔法が使えるのならジュンタを! まだ、ジュンタは――」
ジュンタを抱き上げていたリオンが、こちらを振り向いた。
その涙で潤む真紅の瞳を見て、クーは沸き上がった感情の名を思い知った。
それは昔に一度だけ抱いた、許されない想い。真紅の瞳によって裁かれた、禁忌の想い。
悲哀でも、憎悪でも、敵意でも、歓喜でもない感情。クーヴェルシェン・リアーシラミリィがずっと禁忌としていた感情……
(私はもう、繰り返さないって。でも…………私は……許せ、ない。この気持ちを抱くことを、ご主人様は、許してくれます、か……?)
クーは気が付かなかった。すでに声と想いが逆転していることに。
クーはぼんやりと身体を輝かせながら、冷たい瞳で魔獣たちを睨んだ。そして明確に言葉にする。――禁忌を。
「――――さぁ、殺そう。許された殺意は、ここに在る」
刹那、蒼い瞳が鮮血に割れる――――クーの世界が、『侵蝕』を始めた。
◇◆◇
一体何が起こったのだろう――リオンは訳が分からず、その始まって一瞬ででき上がった惨状を見て、息を呑む。
落ち着こうと吐き出した息が、真っ白になって現れる。
寒い。先程までは普通の気温だったそこは、極寒の冬にも負けない冷たさを持っていた。
ベアル教のアジトの地下牢だった部屋。そこにいた魔獣たちの群。
オーガに押しつぶされたジュンタを抱き留める自分以外のもの全てが、クー一人によって無惨な姿を晒していた。
部屋は床天井壁問わず、全てが凍りついている。それはクーの部屋に行ったときと同じような、しかしあの時よりもさらに冷たい輝きを放つ氷の棺。
完全に凍りついた部屋の至る所からは、巨大なつららが幾本も伸びていた。四方八方から生まれた氷の切断刀は部屋を壊し、魔獣たちを串刺しにし、その緑色の血を辺り一面にぶちまけている。
断末魔すら凍える、苛烈なまでの氷の魔法による惨殺――その冷たい刃から逃れることができたものは一体もおらず、恐ろしいことに、クーの魔法はオーガですら一撃で両断してみせた。
それは単独の魔法ではかなり難しい領域。恐らく一瞬で部屋を凍りつかせ、斬殺の刃を具現したクーの魔法は儀式魔法に該当している。が、儀式魔法は儀式場か『魔道書』あっての魔法だ。クーはそんなものは持っていない。
いや――
「クー、あなたは一体……?」
手には持っていないが、その身に纏うのは何だ?
「…………」
吹雪く竜巻が奏でる音が、まるでクーの悲鳴のように聞こえた。
際限のない魔力を放つクーの身体は、ぼんやりと輝きを放っている。足の先から頭の天辺まで、白く輝く線が紋様を描いて光を放っているのだ。
服の上からでも分かる輝きに、露出した肌に刻まれた光の線。それはクーの身体だけに留まらず、身体の周りにも及んでいた。
クーの魔力が紋様となって、彼女の身体と周りを囲んでいる。
それは徐々に徐々にと広がっていき、周りの空間をクーのモノへと変えてしまっているようだった。
様々なことを学んでいるリオンでも分からない、そのクーの身に起こった異常。本来はあり得ない、儀式魔法を一呼吸で無造作に行った、その規格外の力。
リオンは前にもその力の発露を見たことがあった。その一端を味わったことがあった。それでも、クーの身に何が起きたのかはさっぱり分からない。分かっているのは、感じるものがあるのは、彼女が放っているその冷たい魔力の質だけ。
そこにあるだけで他者を侵す魔力。ただそこにあるだけで恐怖を伝染させる魔力。
それは本来人にはあり得ざる魔力性質。他者を蝕むことによって最強を誇る、恐ろしき魔獣の王――ドラゴンのみが持つ『侵蝕』の魔力性質に他ならなかった。
「なぜ、クーがその魔力性質を? いえ、クーだけではありませんでしたわね」
リオンは視線を、自分の胸の中で拙い呼吸を繰り返しているジュンタに向ける。
「あなたも以前、似たような魔力を放ってましたわね。本当に、あなたたちは一体……」
思い出すのは武競祭のとき。ジュンタが放った魔力もまた、クーと同じような『侵蝕』を孕んだ魔力であった。
『始祖姫』メロディアしか持たないはずの虹色の魔法光といい、ベアル教のアジトを知っていることといい、全くもって不思議な二人だ。とんでもない主従だ。
「――ですけど、それが一体どうしたと言うのです」
だけど、そんなもの関係ないリオンにとっては、ジュンタは友人で、クーもまた大切な友人だ。出会って間もないから二人のことは知らなくても、それだけは変わらない。
リオンはジュンタを抱き起こし、混乱しているクーを呼ぶ。
「クー! 落ち着きなさい! それ以上魔法を使ったら、あなたまで倒れてしまいますわ!」
大声で呼ぶと、クーの顔がこちらを向いた。
感情を凍てつかせた鮮血の瞳が、じっとこちらを見据える。否――見ているのは腕の中にいるジュンタだけだった。
「あ、ああ……」
カチカチカチ、と止まない吹雪の中で、クーが歯をかち合わせる。
自分の身体を抱きしめるようにかき抱いて、絶望に目の色を曇らし、声にならない絶叫を上げる。
「くっ!」
尋常じゃない冷気がリオンの身を襲う。
暴走状態のクーには、すでにこちらのことが目に入っていないよう。
「これ以上は冗談ではすみませんわよ、クー!」
リオンは温めるように、冷えたジュンタの身体を抱きしめ、声を張り上げる。
「まだ、ジュンタは死んでいませんわ! 生きています! だから落ち着きなさい!」
精一杯の声を張り上げても、クーには届かない。
クーの放つ魔力が周りを侵蝕し、紋様が空間に刻まれていく。それが広がるほどに魔力の密度が増し、部屋を壊していく。すでに天井は崩れ落ち、上の回廊がのぞいていた。
「止めなさい! クーヴェルシェン・リアーシラミリィ!!」
名前を呼んでも、クーは魔法を行使するのを止めない。
頬を涙で濡らして、辺りを氷の棺へと変貌させていく。それはエルフと言えども、一人が放つにはあまりに膨大な魔力量。
(このままでは、ジュンタだけでなくクーまで倒れてしまいますわ)
魔力とは生命力だ。あまり使い過ぎれば昏倒してしまう。それは一種のセーフティーでもあり、魔力の使いすぎで行使者が死なないようにするために、生存本能が勝手に引き起こすものだ。
だが、その行使者本人であるクーが、リオンにはまるで死にたがっているように見えた。
生存を放棄している。あれではセーフティーも働かない。このままでは、いずれ全ての魔力を吐き出してクーは死んでしまう。
「クー、止めなさい! あなた、ふざけるのではありませんわよ!」
どんな言葉を投げかけても、クーは止まらない。
自分の声では届かないのだと、そうリオンが理解するのには十分だった。
今の彼女に届くとしたら、それは……
「――止め、ろ、クー。止めるんだ」
突如響いた声に、何も映していなかったクーの瞳に光が僅かに戻った。
「ジュンタ!」
リオンは声を出した胸の中の少年を見る。
苦しげに吐息を吐き、顔色を真っ白にしたジュンタは、その弱々しい視線をクーに向けていた。
「止めろ、クー。それ以上自分を苛めるな。約束……しただろ?」
「ご主人、さ……ま…………?」
クーがジュンタの小さな声に反応を見せた。
広がり続けていた紋様が止まり、氷雪の嵐が止む。
クーは身体にぼんやりとした光を残したまま、まつげを震わせてジュンタに視点を合わせる。
「悪い、リオン。肩貸してくれるか?」
そう言ったジュンタに、
「もちろんです。さぁ、男なのですから、気張りなさい」
リオンは当然の笑顔で応えた。
寒くて、寒くて、寒くて、これ以上下手に眠ったら死ぬなぁ〜とでも本能が思ったのだろう。気が付いたら目を覚ましていた。
まず、目を覚まして驚いた。いきなり周り一面が冬景色になっていたら、そりゃ驚くというものだ。でも、それ以上に驚いたのはリオンに抱きしめられていることで、それ以上に心を揺さぶったのは、聞こえてくるクーの悲鳴だった。
声にならないクーの悲鳴を聞いて、ジュンタはムッとなる。
(また自分を苛めてるのか。本当に、クーはそれが好きだな)
もう自分を苛めないって約束したのに、また自分を苛めているクーに腹が立つ。これは怒らないといけない。約束を破られたんだから、こっちは絶対に守らないといけない。
『止めろ』――それだけ言うのに、とんでもない労力を必要とした。
オーガに思い切り殴られたために、かなり身体がイカレている。死ななかった自分を偉いと褒めてやりたいくらいの有様かも知れない。いや、痛い所為でどこがどうなってるかわからないが。
だけど、それでもまた声を振り絞る。
なんだかちょっと潤んだ瞳で抱きしめてくれるリオンに肩を貸してもらって、立ち上がる。
奇妙な魔法陣っぽい紋様が浮かぶ中、自分の身体にも光り輝く紋様を浮かばせているクーに、ジュンタは近付いた。
「ありがとな」
クーへと辿りつく最後の一歩――ジュンタは自分だけで刻むために、リオンの肩から手を離す。
支えを失った身体はよろめき、倒れそうになるが、それを男の矜持で堪えた。
そしてジュンタは最後の一歩を刻み、クーの頭へと手を伸ばし、
「こらっ!」
ポカッ、と全力で拳を落とした。
「……?」
無言で顔を床へと向けることになったクーは、自分の頭を手で押さえ、信じられないものでも見るかのような視線をジュンタに向ける。
それを真っ向から受け止め、全力で殴ったのにしょぼい威力しかでなかった自分の身体を情けないと思いつつ、ジュンタはクーを睨みつけた。
「頭を撫でてもらえると思ったら大間違いだぞ? 馬鹿なことをした奴には、ちゃんと怒ってやるのが優しさってもんだからな。と言うわけでもう一丁」
「…………」
今度はチョップをクーの頭に落とす。何度も落とす。
クーはそれを無言無表情で受ける。何度も受け止める。
「何また自分を苛めてるんだ? 約束しただろ。自分を苛めるな。苛めたかったら、俺が代わりに苛めてやるって」
受けるたびに、クーの身体を包んでいた紋様が光を失い、消えていく。
「それとも、まさか俺が死んだとでも思ったのか? 心外だな。自慢じゃないが、俺は打たれ強い。サネアツほどじゃないけど十分しぶといんだから、心配なんてしなくてもいいんだよ」
ぼんやりとクーの身体を伝う光の線が消えていき、
「だから――ほら、泣き止め。クー」
「ご主人、様、ぁ……!」
やがて全てが消えて、小さな身体がジュンタの胸の中に飛び込んできた。
思い切り胸に頭突きを喰らって、ものすごい痛かったが我慢我慢。ここで弱音を吐こうものなら、後ろのリオンに殺されてしまうし、さすがにそれはヘタレ過ぎる。
ジュンタはクーの身体を抱き寄せる。ちょっと骨がいかれた右手がやばい感じで痛いので、左手でその背中をポンポンと叩いてやる。
「心配かけてごめんな。また会えて嬉しいよ、クー」
「ご主人様! 私、わた、し、ご主人様が死んじゃったと思って……ご主人様っ!」
「よしよし、泣け泣け。もう、こんな感動的な場面で一生分泣いとけ。悲しいとき、涙を流さなくて済むように。泣いちゃいけないんだぞ?」
痛みで朦朧とする中、支離滅裂なことを言いつつ、ジュンタはクーをぎゅっと抱きしめる。小さな身体は冷え切っていたから、自分の体温を分け与えてやるように、強く、優しく。
「……ご主人、様……」
やがて泣きやんだクーが腕の中、潤んだ瞳で手を伸ばしてくる。
そこにちゃんとジュンタがいることを確かめるように、クーは伸ばした手で、何度も頬を撫でた。
「生きているんですよね? 死んでなんて、いないですよね?」
「もちろん」
「そうですか…………それなら、良かったです……」
ふっ、とクーは笑みを零す。
もう大丈夫だとジュンタはそう思って釣られるように笑みを零し、そろそろ倒れてもいいかなぁと思ったところで、倒れるわけにはいかない声を耳にする。
「――素晴らしい!」
響いた男の声は、部屋の奥の方から届いた。
「誰です!?」
リオンとクーの視線がそちらへ向き、またジュンタも視線を向けて思い出す。この部屋には魔獣以外に、もっと恐ろしい外道がいたことを。
「あなたは、ウェイトン・アリゲイ異端導師!」
リオンが即座に剣を構え、ジュンタとクーを背に庇うように前に出る。
ゆらりと紅い刃が揺れ、凍てついた世界の中傷一つなく、右手に『偉大なる書』を持って狂笑を浮かべる男に切っ先を合わせる。
間合いは離れている。だが、リオンの剣の腕をウェイトンとて知らないわけではないだろう。向けられた切っ先がすぐに自分の首を貫いても、何の不思議もないことは察しているはずだ。なのに、それでもウェイトンはリオンを見ていなかった。
「素晴らしい素晴らしい素晴らしい! やはり私は間違っていなかった! あなたこそ、あなたこそ反転するにふさわしい人だ、クーヴェルシェン・リアーシラミリィ!!」
ウェイトンのおぞましい視線は、クーただ一人にだけ向けられていた。
濁った視線を向けられ、生理的に肩を震わせたクーをジュンタは守るため、朦朧とする意識を繋ぎ止めるために、床に転がっていた自分の剣を拾った。
拾って無事な左手で構えた剣は、クーからもらい、彼女を守ることを誓った片刃の剣――しっかりと守るべきものの重さを確かめながら、ジュンタはウェイトンを睨む。
「お前が惚れるには過ぎた女の子だぞ、クーは」
「まさかとは思っていましたが、そうなのですね? 私はこの出会いに感謝しましょう。我らが神へと祈りましょう。ああ、私が憧れたあなたは、真実神だった!」
陶酔の視線をクーにだけ向けるウェイトンには、声は届かなかった。彼は熱狂の声を狂ったように吐き出し続けるだけ。
その様子にリオンが眉を顰めつつも、騎士として行動に移る。
「ベアル教の導師ウェイトン・アリゲイ。あなたには広域指名手配がされています。大人しくお縄につくのでしたら、命までは取りませんわ。しかし抵抗すると言うのなら、その命がないものと思いなさい」
「『儀式紋』に、世界を侵蝕するその魔力性質――」
「……もう一度言いますわ。大人しくお縄に着きなさい。そうすれば悪いようには…………まったく聞こえていないようですわね」
剣を突きつけたリオンの方が困惑するぐらい、ウェイトンは笑い続けている。
それは長年憧れていた人にようやく会えた子供のような無邪気さと、血に酔った殺人鬼のような悪辣さが滲んだ、聞く者の背筋を寒くさせる笑い声だった。
そして、その声を聞いたクーは尋常じゃないほどに震えていた。
「大丈夫だ、クー。怖がらなくても俺がいる。リオンもいる。例えウェイトンにだって負けたりしない」
安心させるようにジュンタはクーに声をかける。だがクーは震えを止めるどころか大きくして、怯えるように胸へと額を押しつけてきた。
「そしてリアーシラミリィの森名を持つエルフであるのなら、もうあなたしかいない。もう死んでいたと思っていましたが、まさかこのような場所でこのように縁が繋がっていようとは!」
クーの震えは、ウェイトンが言葉を続ける度に大きくなっていく。ようやくジュンタはそれを見て、ウェイトンが話題に上げている相手が誰であるかに気が付いた。そして、クーが小さな声で何かを呟いていることにも。
「クー……お前、何て……?」
ジュンタは耳を澄ませる。その結果、クーが小さな声で『止めて』と言っていることに気が付いて、
「『竜の花嫁』――我らがベアルの巫女よ! 是非、我らが悲願への礎とおなりください!!」
ウェイトンが他ならぬその呼び名を口にしたとき、これを最初に聞くべきは、クーの口からであったことを悟った。
『竜の花嫁』――そうウェイトンが呼んだクーの呼び名の意味をジュンタは知らなかった。だが、それと一緒にウェイトンが口にした『ベアルの巫女』という言葉に、少しだけことを察する。
「『竜の花嫁』、ですって?」
ジュンタと同じくウェイトンの言葉を聞いたリオンが、驚いた顔でクーを見た。
「クーが『竜の花嫁』? 本当に? ですけど『竜の花嫁』はお母様が滅したはずでは……」
「いえ、いえいえ間違いありません! 彼女こそ、クーヴェルシェン・リアーシラミリィこそが紛れもなく我らがベアルの巫女――『竜の花嫁』に相違ありません!
ええ、私は知っている。知っていますとも! 『儀式紋』の処置を施されたリアーシラミリィのエルフは存在しても、『侵蝕』の魔力性質を持つに至ったエルフは、『狂賢者の落とし子』たる巫女を除いて他にはいないことを! ああ、私は歓喜している! この上なくです!!」
リオンの呟きに、ウェイトンが誇らしげに語った。
ジュンタはウェイトンへと向けていた視線を、下へと降ろす。そこで、こちらを見上げていたクーと視線が合った。
(なんなんだ『竜の花嫁』って? 俺は一体、こんな顔をしているクーに何て言ってあげればいい?)
クーは見開いた瞳から涙を零し、口を開け閉めしていた。
それは何かを伝えたいようにも、何も言いたくないようにも見えた。
『竜の花嫁』――クーのことを呼ぶ称号らしき名の意味が、ジュンタには分からない。
だから、クーにどんな言葉をかけてやれば安心してくれるのかもわからなかった。安心して欲しいという気持ちは大きくても、何も言えなかった。クーのその絶望したような顔を見ると、下手な言葉をかけることは躊躇われた。
沈黙の中、クーが縋るようにもう一度額をすり寄せてきた。
それがオーガにやられた傷に触れて、ジュンタはビクリと身体を震わす。
「あ……」
果たして、その人として仕方がなかった震えを、クーはどう受け取ったのか。顔を離し、身体を離し、いやいやと首を横に振った。
「クー?」
「あ、わた、し……違うんです。ご主人様、私は……」
「何を違うと言うのです。あなたは紛れもなく『竜の花嫁』ではないですか。今のこの部屋の惨状がその証。あなたは『儀式紋』の力で、ここに居た魔獣たちを虐殺したではないですか」
「そ、れは……」
ジュンタから後退るクーに対し、ウェイトンがニタァと嫌らしい笑みを浮かべて言い放つ。
ウェイトンの目的とクーの態度を見て、ジュンタはこのままではまずいと思い、口を開く。
「ああ、そう言えば――」
だがその前に、全ては計画通りとウェイトンが告げた。
「――先程の魔獣を、あなたが主と呼ばう彼は殺すことができなかったのですよ? それなのに、あなたは何ら戸惑いもなく惨殺した。彼らは何の罪もない、数刻前まではただの人間だったと言うのに。酷いことですね。惨い話です」
「黙れ、ウェイトン!」
「お黙りなさい!」
ウェイトンの言葉にクーが息を呑む。それを見たジュンタはクーを抱き寄せようと手を伸ばし、リオンはウェイトンに向かって走り寄った。
二つの手が届く前に、ウェイトンは狂った振りをして稼いだ時間の、その総仕上げの言葉を詠い上げる。
「あなたが殺した人たちが呼んでますよ『竜の花嫁』! あなたもまた魔獣に――ドラゴンになれと!」
リオンが咄嗟にウェイトンへと向けた剣を、彼の持っている『偉大なる書』へと直感のままに振り下ろす。しかし神秘を抉る斬撃が届く僅か前に、『偉大なる書』が発する光の一条が、まっすぐクーに向かって伸びた。
「私、は……ご主人様……私は……」
「クー!」
ジュンタは呆然とするクーを守るために、剣を振る。
しかし剣が光を切り裂くよりも僅かに早く――
「私は――――
『悪』?」
――――黒い反転の光は、クーの胸へと無慈悲に突き刺さった。
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