第十三話  その目に映る闇




「口惜しいですね。私はまたしても、この目で変貌の瞬間を見ることが叶わない」

 そう言いつつも、ウェイトンは満足気に頷く。
 彼の首にリオンは刃を突きつけ、険しい表情で睨みつけていた。

「ウェイトン・アリゲイ! あなた、クーに一体何をしましたの!?」

「これは奇っ怪な質問を。竜滅姫。あなたは以前、この『偉大なる書』の力を目にしているでしょう?」

「……クーが魔獣になるとでも言いたいようですが、そんなことは私が断じて許しませんわ!」

「許すもなにもありません。すでに彼女は祝福された。断たれたためにすぐに魔獣へと変貌することは叶いませんが、緩やかに変わっていく。彼女は以前にも祝福をされていますからね。それはどうやら変化の前に終わってしまったようですが、今回の変貌はもう誰にも止められない」

「止めなさい。他でもないあなたが!」

 リオンはウェイトンの首に切っ先を食い込ませて脅す。しかしウェイトンは恐れを見せず、満足気な視線をクーへと注ぐだけ。彼が自分の命などどうでもいいと、そう思っているのは誰の目から見ても明らかだった。

 ウェイトンの言葉が事実なら、今ここで彼を殺せば何の情報も得られなくなる。リオンはプツリとウェイトンの首の薄皮一枚を切り裂いたところで、剣を止めるしかなかった。

 ジュンタはそんな二人の光景を横目に、必死にクーの身体を抱きしめていた。

「クー! おいっ、クー! 答えてくれ!!」

 抱きしめたクーの耳元に、ジュンタは必死に呼びかける。だけどクーからは何の返答もない。視点を虚空に揺らして、唇を震わせるだけ。その身体には、どす黒いもやのようなものが立ち上っている。

 それが反転――人を魔獣へと変貌させる、悪しき呪いの具現であることは、ジュンタはそれに触れる度に感じる嫌悪感から感じ取っていた。

「しっかりしてくれっ、クー!」

 もやを晴らすように手を動かしても、もやは手をすり抜けてクーの身体を覆い尽くそうとする。クーは虚空を見つめたまま、何も語らない。意識があるのかさえ分からない。どう見ても危険な状態だった。

 ジュンタはこの地下牢へとやってきたときに見た、今のクーと同じように黒いもやを纏い、苦しんでいた少年少女たちを思い出す。

 彼らが一体どのような結末を辿ったかなんて悩むまでもなく、さらにジュンタは強くクーを抱きしめる。黒いもやから守るように、自分の虹を分け与えるように、必死にかき抱く。

「させるか! 絶対に、クーを魔獣になんて!」

 痛みを押し殺して、抱きしめ続ける。
 
 守りたい。いつも一生懸命で、ちょっと脆いけどがんばり屋で、色々と支えてくれた異世界の少女――自分の巫女だからじゃない。自分にとってクーヴェルシェンという少女は、かけがえのない大切な人にもうなっていたのだ。

「しっかりしてくれ。そんな呪いになんて負けないでくれ。俺は、まだクーと一緒にいたいよ」

 声を震わすジュンタ。しかし現実は無慈悲にクーを追い立てていく。

「ウェイトン・アリゲイ! 教えなさい! クーを助ける術が何かあるはずでしょう!?」

「あるかないかは問題ではありません。私がそれを望んでいない。彼女がドラゴンになることを望んでいる。答えるはずがないでしょう?」

 ジュンタはクーを抱きしめたまま、リオンに尋問されているウェイトンを睨む。

 許せない男。今までの人生で、これほどまでに他人に憎悪を抱いたのは初めてだった。この心の底から湧き上がる黒い感情を殺意と呼ぶのだと、ジュンタは生まれて初めて知る。

 怒りと憎悪で飽和していく思考――しかしその傍らで、ジュンタは冷静にクーを助けるための手段を模索する部分があることを感じ取っていた。

(何か方法はあるはずだ。クーの身体を包んでいるのは、ウェイトンの使っていた『偉大なる書』の効果によるもの。以前にもクーがこれと同じような黒い繭みたいな光に包まれていたことがあった。俺もだ。その時は大丈夫だったんだから、何か方法があるはず)

 グストの村で起きた事件のこと。クーが語った『偉大なる書』と反転のこと。先程ウェイトンが笑いながら宣った、一度魔獣になれば二度とは戻れないという言葉……

(そうか! 一度魔獣になれば元には戻れない。けど、まだ一度もなっていない状態なら――

「リオン! ウェイトンの懐にある薬を奪え! それがあれば、今ならまだクーを助けられる!」

 気付いた瞬間にはジュンタはリオンに叫んでいた。伝え終わる前には、リオンはウェイトンの懐に向かって手を伸ばしていた。

「くっ!」

 今まで余裕の顔だったウェイトンが初めて表情を動かす。
 首に突きつけられた剣など無視して身体を捻り、懐を両手で庇ってリオンの手から逃れる。

「逃がしませんわ!」

 リオンが腕を振るう。紅い線が空間に残像として残り、ウェイトンの片腕を切り裂いた。

 ウェイトンは深手を負った左手は無視して、思い切り地面に滑り込む。彼が飛び込んだ先にあるのは『偉大なる書』――

「させるかッ!」

 ジュンタは手に持っていた剣を思い切りウェイトン目がけて投げつけた。
 狙いも曖昧な投擲だったが、刃はウェイトンの手が届く前に『偉大なる書』に命中する。誤算だったのは、命中してなお『偉大なる書』から溢れる黒い魔力は健在だということだった。

「我らの『偉大なる書』がその程度で傷つくと思いましたか!」

 一回前転してから、書を手に起きあがったウェイトンへと、リオンが剣を片手に駆け寄る。魔法を切り裂くドラゴンスレイヤーの一撃に対し、ウェイトンは『偉大なる書』を無事な右手だけで掴み応対した。

「そんな馬鹿なっ!?」

 ギチリ、とリオンの刃が、『偉大なる書』の表紙によって受け止められる。
 リオンは驚愕に瞳を見開いたまま、一時消失したあと、すぐ爆発するように広がった黒い光に後ろへと大きく弾き飛ばされる。

 その隙にウェイトンが走っていったのは部屋の奥の方――逃げる場所などない、出口の反対方向だった。

 受け身を取って即座に起きあがったリオンは、逃げ場所を自ら放棄したウェイトンへ、再び剣の切っ先を向ける。

「さぁ、もうどこにも逃げ道はありませんわよ。クーを元に戻すための薬を渡しなさい」

「渡すはずがありませんね。それに逃げ場所がどこにもないだなんて、一体誰が決めました?」

「なんですって?」

 リオンは訝しげに眉を顰め、ウェイトンの周りへと視線を向けた。

 クーの魔法の影響で凍てついた部屋には、上へと続く階段以外には出口などなかった。天井が崩れて上の通路がのぞいているが、そこへはウェイトンの足ではどうがんばっても跳躍できない。壁の出っ張りに足をかけようにも、ツルツル滑って不可能だろう。

 どこをどう見ても逃げ場所などない――リオンにもジュンタにもそう見えたのだが、ウェイトンは余裕の笑みで出口を示す。

「今にしてみれば、最高導師にも感謝をしなければなりません。『封印の地』を開くことでドラゴンを招く大事な秘術を、このようなタイミングで使われたのは甚だ遺憾ですが、『竜の花嫁ドラゴンブーケ』の反転という新たなるドラゴン誕生の一端を担うのならば、それもまた良し。――ああ、我々は本当に運がいい。まさにこれぞ天命。神に愛されている」

「戯れ言を。『封印の地』を開くですって? そんなことが可能のはずないでしょう?」

「いえ、すでに入り口は開いているのですよ。未だ繋がっていないだけ。ほんの隣にあるそれへと手を触れれば、すぐに『封印の地』は開かれる。もっとも、完全に開くまでにはあと十年は必要でしたから、不完全なものになってしまってはいますが」

 そう言って、ウェイトンは手を横へと伸ばす。

 瞬間――何もないように見えたその場所から、弾けるように氷が剥がれ落ちる。後に現れたのは大きな孔。向こう側に魔獣の鮮血の瞳をのぞかせる、暗い孔だった。

 それはジュンタがオーガにやられる前まで、ウェイトンの背後にあった孔。どうやらクーの魔法によって、入り口が見えなくなる形で塞がれていたらしい。しかし氷は脆かったのか、ウェイトンが持つ『偉大なる書』が触れただけで再び姿を現してしまった。
 それだけではない。孔の表面には薄い膜のようなものがあって、それが孔の向こうの魔獣たちを食い止めていたようだったが、それすらウェイトンの一突きで泡が割れるように消え去ってしまった。

「ご静聴あれ! あなたの祖先たちが生み出した牢獄に、追放されていた魔獣たちの嘆きを!」

 後に残ったのは醜悪な臭いと、魔獣たちの立てる歯の音。そして、ウェイトンの狂笑であった。

 リオンが孔からまろび落ちてくる魔獣たちを見て、強く歯を食いしばる。

「本当に『封印の地』を開くだなんて……正気ですの? そこに封印されているのは、『始祖姫』様たちが封じた魔獣の軍勢ですのよ? あなたたちベアル教では、到底従えさせることの叶わない規模の魔獣たちですわ」

 ジュンタには分からない単語をよく理解しているリオンは、額から汗を垂らしていた。リオンですら恐怖せずにはいられない何かが、あの孔にはあるに違いない。

「確かに、魔獣を操る私の『偉大なる書』と言えども、反転させて生まれたわけではない魔獣は操れません。ですが――

 孔からは絶えず新しい魔獣が一体、また一体と出てくる。
 出てきた魔獣は久しぶりの外に歓喜するように奇声をあげる。そして獲物を物色する獰猛な視線でジュンタとリオンを睨んだ。

 彼らは獣だ。彼らに人の世のしがらみは関係ない。つまり、相手が人なら手当たり次第に襲うのだ。が、なぜか一番近くにいる人間のウェイトンには、彼らは目もくれない。

 いや、違う。ジュンタは気が付いた。
 魔獣たちはウェイトンを故意に襲わないようにしているのではなく、単純に見えていないのだ。

「分かりますか? ここは魔獣の王たるドラゴンを崇める、我らベアル教の神殿です。神殿と契約している私とビデル最高導師は、この神殿内においては魔獣に襲われることがない。見えていないのですよ、彼らには。
 そして始祖ベアルが『封印の地』を開こうとした理由は、こんなちっぽけな魔獣のためではない。始祖ベアルが『封印の地』に求めたのは、遙か古に封じられたドラゴンのみ!」

「……なるほど。あなた方は今も変わらず、ドラゴンの生態を調べようとしていますのね」

「然り。ただ、これを使うまでもなく、オルゾンノットの地にドラゴンは光臨した。これはあくまでも未来のための保険だったのですが……もう今更ですね」

 ウェイトンはその身を、開いた孔へと向ける。孔から出てくる魔獣の間を抜け、ウェイトンはその孔へと入ろうとしていた。

「リオン!」

「分かってますわ!」

 逃がしてはいけない――ジュンタがそんな意味を込めて叫ぶと、リオンがウェイトンに向かって走り寄る。

 しかしその最中に、孔より生じた魔獣の妨害にあってしまう。

「くっ! お退きなさい!」

「命令しても無駄ですよ。彼らは千年近くも封じられ、その血を猛らせている。餓えているのですよ。倒す以外に道を開く方法はありません。では、ごきげんよう。『竜の花嫁ドラゴンブーケ』がドラゴンになることを、どこかで応援しています」

「ウェイトン・アリゲイ――ッ!」

 孔へと消えたウェイトンを、リオンは魔獣たちを切り裂き払って追おうとする。しかし孔の前で躊躇し、足を止めた。

 リオンは一度振り向いた。
 それだけでジュンタは、リオンが足を止めた理由を悟った。

(リオンがウェイトンを追えば、開いたままの孔から出てくる魔獣を、俺が相手しないといけなくなるってことか)

 身体はボロボロでクーを抱きしめているだけでも辛いのに、これ以上魔獣と戦うのは無理……だなんて、弱音を吐くつもりはない。

「頼む、リオン! 薬を手に入れてきてくれ!」

 ジュンタは頷いて、自分は大丈夫だとリオンに告げる。

 リオンは頷き返し、

「クーをしっかりと守りますのよ、ジュンタ!」

 その激励を最後に、孔へとその身を躍らせた。

 暗い孔の中にリオンの鮮やかな姿が溶け込んでいく。外にいるジュンタに、中の様子を見ることはできない。でも、リオンの話し通りなら、あの中は魔獣がたくさんいるはずだ。そこへと飛び込むのに自分ではなく残していくこっちの心配をするなんて、本当にリオンらしい。

「ああ、そうだよな。弱音なんて吐いてられるか」

 ジュンタはもう一度、虚空を見据えるクーを抱きしめた。

「……ごめん、守れなくて。でも、絶対に助けるから」

 クーの身体を優しく地面に横たわらせたあと、リオンが稼いでくれた時間の中で、ジュンタは二振りの剣を拾い直し、その輝きを見やる。

 片方は紅いドラゴンスレイヤー。竜滅姫――即ち、リオンを守るための剣。
 もう片方は『英雄種ヤドリギ』の剣。クーを守ると誓い、果たせず、名誉挽回のチャンスを狙う剣。

 両方の刃に虹色の光が伝っていく。生命力である魔力はほんの少しだけ、身体の痛みを遠くに追いやってくれた。

 それでも右手はほとんど使い物にならない。戦うのなら左の剣を上手く使わなければいけない。片腕のハンデは大きいが、だけど大丈夫。虹色の輝きを強く激しく刀身に纏わせる相棒は、守るべき女の子を守るためなら、死にものぐるいで敵を切り裂いてくれるはずだ。

「さて、攻撃してくるなら覚悟しろ」

 ジュンタは左の剣を前に、右の剣を後ろに構える。
 孔から次々に落ちてくる魔獣たちを睨み、背にクーを庇って口角を吊り上げて宣言した。

――クーを背にした俺は、さっきの百倍は強いぞ?」






 やけに騒がしいと、ソレは瞼を開いて思った。

 一体いつぶりに瞼を開いたか忘れるほどの長い年月、死んだように眠っていた自分を起こした騒がしい気配に、何だと半ば本能的に考える。

 この世界は停滞している。故に千年前も一年前も、昨日も一秒前も変わらないはずなのに、今この瞬間だけがなぜか騒がしい。澱んだ空気に何か異物が紛れ込み、灰色の世界の住人である獣どもをかき立てている。

 それは血と肉の臭い。千年前に感じたきりの、人間と言う名の矮小な生物の臭い。

 感じる。確かに感じる。間違いない、近くに人間がいる……だが、それがどうしたと獣は嗤う。

 人間などどうでもいい。千年前は殺すことに躍起になっていたが、今ではその衝動すら刹那にして無限の時間の中で摩耗した。凪いだように穏やかな停滞の中、あえて楽しくもない虐殺を行う理由も意味もない。

 ずっと眠っていればいい――そう思って、ソレは再び鮮血の瞳を閉じた。






       ◇◆◇






 最高導師の間では、すでに乱戦のような戦いが始まっていた。

 開かれた孔から途切れることなく涌いて出てくる魔獣たちの群――それこそ無尽蔵であるように、倒しても倒しても次が現れる。

「くそっ、きりがない!」

 長くしなる血の刃はゴブリンを、虫型のワームを、魔獣の中では中堅であるガルムですら容易く切り裂いていく。その切り裂いた魔獣たちの血を吸ってさらに肥大化した刃で、スイカは自分の手元に戻す最中に同数以上の魔獣を切り裂いていく。

 鞭のように振るわれるスイカの『深淵水源リン=カイエ』は、一度に多くの敵を切り裂くことができる。さらにそれに加え――

「姉さん、危ない!」

 後ろからかかったヒズミの声に、スイカはしゃがみこんだ。
 直後に背後から炎の矢が飛んできて、上から狙ってきていた魔獣――雄鶏に蜥蜴を合わせたような相手である、コカトリスを焼き貫く。

「すまない!」

 援護射撃をしてくれたヒズミに礼を言いつつ、長距離戦闘を行う彼を守るために、スイカは一時的に後方に下がる。

 多くを切り裂くスイカの『深淵水源リン=カイエ』に加え、ヒズミの『黒弦イヴァーデ』による矢の番える必要のない連射――この二つは数秒で数体を仕留めるほどの働きを見せている。それなのに、視界の中で蠢く魔獣は、数も種類も増えていく一方だった。

「くっ、まさかこんな奥の手を用意しているとは。『純血派』と油断していたようだ」

「仕方ないさ。まさか秘術であるはずの[聖地陥落ホーリー・ホロウ]を、侵入者撃退のためだけに使うだなんて、誰も予想できないからね」

「それでも万全を期すために、予想して然るべきだった。あの最高導師ビデルの小者さを」

 ヒズミと会話するスイカは、部屋の玉座に座り、増えていく魔獣たちを頼もしげに見ているビデルを睨む。

聖地陥落ホーリー・ホロウ――それこそが最高導師ビデルが行使した、神殿魔法の名である。

 神殿魔法は、多くの魔力を溜めた霊的建造物との契約により、ようやく行使できる儀式魔法よりも上位の魔法である。本来神殿との契約者と、大勢の魔法使いで行う神殿魔法をただ一人で行使したビデルは、自分の背後に巨大な孔を穿った。

 今なお肥大化し続け、魔獣を招いている孔。それはこことは違う、遙か古に『始祖姫』たちによって作られた『封印の地』と、この世界とを繋ぐ門なのだ。

 暗く赤い瞳をのぞかせる孔の向こうは、一万とも十万とも語られている、魔獣の軍勢を封じている異相のずれた大地が広がっているはず。今こうしてこの世に出てきた魔獣は、かつて世に災いをもたらしたために封印された魔獣たちなのである。

(話だけは聞いていたけど、まだ残っていたなんて!)

 最初、一般的な魔獣であるゴブリンや、ワームなどが出てきたときは大したことないとスイカは思った。

 いきなりビデルが魔法を使ったときは驚いたものだが、現れた魔獣は生きていたベアル教の教徒たちにも襲いかかった。自滅するのだと、そう思いながら自衛のためにしばらく戦った。

 最高導師ビデルの魔法――聖地陥落ホーリー・ホロウ]の脅威に気が付いたのは、ゴブリンやワームよりも高位の魔獣が現れ、そしてその中でもビデルが生きていたのを見たときだった。

 オーガやワイバーンほどとは言えないが、今では大勢のゴブリンやワームの中に、顔と後頭部に二つずつ瞳を持つ狼の姿をしたガルム。空こそ飛べないが高く跳躍することができ、さらに爪に毒がある、魔獣の中では相当厄介といえるコカトリスの姿が見つけられた。

 現れた魔獣は例外なく餓えており、問答無用で襲いかかってきた。全てに応戦するのは、さすがのスイカとヒズミといえどもかなり厳しかった。

 だからこそ異常なのだ。何の力もないビデルが、未だ魔獣に襲われずに生きていることが。

「これは、魔獣はビデルを襲わないと考えていいようだな」

「使徒を差し違えても倒そうっていう、狂信者じみた足掻きじゃなかったってことだね。まぁ、門を繋げた瞬間に殺されるような三流魔法、一応は優秀だった開祖ベアルと、あの『狂賢者』が用意しておくわけないか」

「感心している場合じゃないだろう? このままではジリ貧だ。ビデルからさっさと聖骸聖典の在処を吐かせて脱出しなければ。あるいはあの孔を塞ぐでもしないと」

「どちらも結構厳しいけど、それ以外に選択肢はないか。なら、少しだけ溜めて撃つかな」

 そう言ったヒズミは弓の弦を引く。引いた傍から、自動的に炎の矢が番えられる。

「姉さんはとりあえず、今まで通りに僕を守ってくれよ?」

「分かった。それで、今の魔力量で何発いける?」

「そうだね、五発ぐらいってとこかな」

「十分だ。一発目でビデルが座っている椅子を壊してくれ。わたしが脅しに行く。あとは脱出のために使おう」

「了解」

 姉弟は一度頷き合って、再び戦いに戻る。

 スイカは一度『深淵水源リン=カイエ』を薙刀の形に戻し、背中にヒズミを庇うようにして立つ。

 襲いかかってくる魔獣たちを切り裂き、ヒズミに攻撃が加わらないようにするためだ。
 鞭のように攻撃すれば一度にたくさん倒せるが、あれは自分も動いていないと大きな隙ができてしまう。誰かを守るのには向いていない。

 先程までは敵を減らす攻撃。そして今はヒズミを守る攻撃。
 それは見る人が見ればすぐに分かる策だったが、生憎と魔獣たちの数と強さに酔いしれていたビデルには見抜けなかったらしい。

「全くもって救いがたい。どうしてあなたは、そこまで無様なんだ」

 信徒を捨て駒にし、親の悲願を自分の命を守るためだけに使い、何もせずに玉座にふんぞり返る『純血派』の最高導師に、スイカは同情の眼差しを向けることしかできなかった。

「姉さん!」

 ヒズミの言葉を耳にし、スイカは横へとステップを踏んで移動する。
 
 直後――これまでとは桁が違う、巨大な炎の閃光が最高導師の間を駆け抜けた。

 魔力を矢にして放つ『黒弦イヴァーデより放たれたそれも、また炎の矢。矢一つ分を作る以上の魔力を注ぎ込み、弓と矢を肥大化させ、儀式魔法と同等の炎を撃ち出す[ 巨大弓バリスタ――大気ごと魔獣の群を貫いて奔る閃光は、一瞬でビデルへと迫る。

「ひぃ!」

 ビデルは悲鳴をあげて慌てて玉座から逃げようとするも、しっかりと椅子の奥まで腰掛けていた彼が咄嗟に逃げられるはずもなく、炎の閃光はその玉座を貫く。

 ドタン、とビデルが爆風に吹き飛ばされ、床に転がった。

「あ、ぐ、おのれ……!」

 爆風がビデルの視界を覆う。彼は癇癪をあげる子供のような形相で、視界が晴れたあと、弓を自分に向けるヒズミを睨んだ。

「ま、魔獣たちよ! 奴を殺せェ!!」

 顔を屈辱で青ざめさせたビデルが、床に倒れたまま声を張り上げる。

「まさか魔獣を操れるのか?」

 ヒズミが警戒の声をあげるが、ビデルの必死の叫びに反して、魔獣たちが彼の命令通りに動くことはなかった。

「どうやら魔獣に攻撃対象にならないだけで、別に操れるわけではないようだな」

 そして、そのときにはすでに、ビデルの命運はスイカの手の中にあった。

「なっ! 馬鹿な、いつの間に!?」

 背後からかけられた言葉に、ビデルは驚いて振り向こうとする。

「動いても別に構わないけど、そのときは死を覚悟して欲しい」

 その首が途中で止まらざるを得なかったのは、そのまま振り向いていたら、彼の首が落ちていたからだった。

「あ、ああ……」

 首が浅く切り裂かれたのを見たビデルは、そこでようやく自分の状態を認識するに至った。

 首に取り付けられたのは、鋭利な刃を内に向けた血の首輪。両側には無数の棘が僅かな身じろぎすら許さぬ距離でそびえ、天井にはいつでも身体を二枚に卸せるギロチンが。

 唯一血色以外が見える前方には、背後から回って顔をのぞかせたスイカが現れる。

「ほら、前に来てあげたから。安心してくれるといい。動かなければ死にはしないから」

「姉さん。もう少し離しておいた方がいいんじゃない? そいつ、震えているだけでもう死にそうだし」

「あ、そうか。う〜ん、やっぱり血だと微調整が難しい」

 全身を凶器で覆い尽くされたビデルは、泡を口から出して震えている。まったく動かなければ傷一つ付かないようセッティングした『深淵水源リン=カイエ』だが、彼が震えすぎているためにもう傷だらけだ。このまま死なれると困るので、スイカは少しだけ刃を遠ざける。

 それで何とか正気だけは取り戻したビデルは、自分の置かれた状況に顔に、やっと声を出して怯えることができた。

「ば、ばばば馬鹿、な。後ろには魔獣たちしかいなかったというのに……!」

「うん、いなかったな。だけど、もしかしたら新種の魔獣が一匹混ざっていたのかも知れないけど。魔獣の血だけはたくさんあったから」

「どどど、どういう意味、だ!?」

「あ、知らなかったのか、わたしの特異能力を。それじゃあご愁傷様だ。でも、結構有名なんだけどな。わたしが自分で呼んでいるのとは違う、全然嬉しくない呼び名で、だけど」

 炎の閃光にたじろいでいた魔獣たちが再び向かって来るのを、ヒズミが食い止めてくれている最中、スイカは無邪気な笑みをビデルに向ける。

「ひっ、あ、そう、か!」

 ビデルは心底から震え上がったことのにより、未だ二つ名無き使徒の一柱が、裏社会ではどんな呼び名で呼ばれているかを思い出したよう。

――吸血鬼バンパイア』!」

「そう、残念だけどそれが正解。さて、それじゃあさよならだ。来世では素晴らしい未来があることを祈っている、ビデル最高導師」

「ま、待て! 待て殺すな! 私を殺すなぁッ!」

「そうは言うけど、生憎とわたしたちにも手心を加えられる余裕がないんだ。こうも魔獣たちに攻撃されていたら、やがては力尽きてやられてしまう。だから早々にあなたを殺し、神殿から立ち去らないといけない。……もっとも、あの孔を塞いでくれるというのなら話は別だけど」

「む、無理だ。あれはこの神殿を破壊するか、行使者である私が死なない限りは消えな――い、いや待て! 今のは嘘だ! ある、あるとも。消す方法はあるから殺さないでくれ!」

 怯え、失禁すらして後退るビデル。彼の瞳は徐々に迫ってくる血の拷問器具を捉えており、必死になって懇願を発する。

「助けてくれ! 私を生かしてくれれば、ベアル教の情報がたくさん入るぞ! なんでもしゃべろう。父がしようとしたこと。ディスバリエ・クインシュの動向。『改革派』の盟主のことだって教えてやる! だから命だけは助けてくれ!」

「『改革派』の盟主……?」

 グッと腰を落として、スイカは真一文字に残った『深淵水源リン=カイエ』の柄の部分を振るう。
 ビデルを囲む血の刃から放射状に伸びた棘が近くにいた魔獣たちを突き刺し、さらにその血を蓄える。

「……ベアル教の情報、か。それを持ち帰れば、フェリシィール女史も無断行動を許してくれるかな?」

「なに本気で悩んでるんだよ姉さん。気持ちはものすっごくわかるけど」

「冗談だ。そもそも、本当にその情報を持っているのかすら怪しい。
 行方不明の『狂賢者』に、聖殿騎士団が必死に探しているのに名前すら分からない『改革派』の盟主……例えあなたが『純血派』の最高導師でも、本当は知らないのでは?」

「そんなことはない! ディスバリエ・クインシュとは今も密に連絡を取っている! 奴は帝国に戻っているんだ! 本当だ。信じてくれ!」

「ジェンルド帝国……可能性としてはあり得る話か」

 ヒズミが鼻を鳴らしてそう言うと、ビデルは鼻水を垂らして首を縦に何度も振った。必死な様には悪いが、正直気持ち悪いとスイカは思った。

「助けてくれ! 私はディスバリエに唆されていただけなのだ! あいつが、あいつが本当は悪いのだ!」

「確かに神殿の構築など、彼女ぐらい高名な魔法使いでないと無理だとは思うけど。……そうか、彼女は『純血派』と通じていたのか」

 スイカは視線をビデルに合わせ、これまで以上に低い脅す声で言う。

「では、あなたは知っている? 『狂賢者』ディスバリエ・クインシュが探していたという、『聖獣』の聖骸――メロディア・ホワイトグレイルの聖骸聖典の在処を」

「メロディアの聖骸聖典……? 『始祖姫』の聖骸聖典は、ナレイアラ以外のものは全て行方不明のはずだろう?」

 そのベアルの返答に、スイカとヒズミは明らかな落胆を見せる。

 この状況で彼が嘘をつくとは思えない。つまり、ここには探している品はない。今回もまた空振りだったと言うことだ。

「困ったな。これではあてが本当にディスバリエ・クインシュだけになってしまった。また地道に探す日々に逆戻りするのか……いや、帝国と通じているのなら、ある程度は行動を予測できるかな。会うことも不可能じゃないかも知れない……」

 ぶつぶつと考え込むスイカに、ビデルが恐る恐る声をかける。

「そ、それで私の命は助けていただけるのですか?」

「あ、うん、そうだったな。すまない、忘れていた――

 スイカはビデルの存在を思い出したかのように笑って、

――それじゃあ、死んでくれ」

 一気に血の刃を殺到させた。

 棘の壁が迫る。血の首輪が締め上げる。ギロチンが落ちる。血をぶちまけようと。

 ビデルは自分に向かう狂気に悲鳴すら忘れて見入り、


――ああ、あなたもまた素晴らしい。深く、深く、堕ちなさい」


 突如横手から響いた声を聞き、その身体から黒い魔力を立ち上らせた。

「なんだ?」

 ビデルが断末魔の代わりに放った黒い光を見て、スイカは『深淵水源リン=カイエ』を元に戻し、ヒズミの下まで下がる。そこで、部屋へと孔の中から魔獣と一緒に現れた男を見て、目を見開いた。

「あいつは確か――異端導師ウェイトン・アリゲイ」

 ヒズミが孔から悠々と現れた金髪の男を見て、その名を呼ぶ。
 スイカもまた、そのウェイトンという男を知っていた。知らないはずがなかった。

「申し訳ない、最高導師殿。少々立て込んでいて助けに入るのが遅れてしまいました。いや、ですが間に合って良かった。あなたを醜い人の骸に変えずにすみましたから」

 ウェイトン・アリゲイ――ベアル教『純血派』の導師で、最高導師ビデルの片腕とも呼べる男。

 彼がグラスベルト王国のランカの街で起こした事件において発覚した、その特異なる外道の術のことは、誰かからの報告で聖地の方にも届いていた。

 曰く、人を魔獣へと変える男。

 悪名高き異端導師ウェイトン・アリゲイはその異常性から、危険度は最高レベルとして指名手配されている。その事実を思い出し、スイカははっとなって炎に呑まれたビデルを見る。

 果たして、彼は確かにウェイトンの言うとおり、人の骸とはなっていなかった。

 炎のあとにあったビデルは、すでに人の姿を保っていなかった。黒い繭から孵るように現れたビデルの姿は、普通のガルムより一回りほど小さいガルム。

 人が魔獣に変わる瞬間を間近で見て、さらに自分の仰ぐべき主を戸惑いなく変貌させたウェイトンに、スイカはヒズミと一緒に嫌悪の眼差しを向ける。

「ガルム、ですか? 残念です。せめてオーガかワイバーンになっていただけたなら、その生誕を心から祝福できるのですが……しかし人として死なず、魔獣に進化できたことは喜ばしい。我が主――あなたの新生を心から祝福いたしましょう」

「狂ってる。噂以上だ、こいつ」

 小さくなったガルムは、甘えるようにウェイトンへと駆け寄り、その足下に頬をすり寄せる。そのかつて主だったものを愛おしげに微笑むウェイトンを見て、ヒズミがそう吐き捨てた。

「さて」

 一頻りビデルを見、周りに満ちる魔獣たちを見てから、ウェイトンは視線をスイカに向けた。

「お噂はかねがね。黒曜の使徒スイカ・アントネッリ。最も新しき使徒よ」

「それは光栄だ。フルネームで覚えられていることは、あまり少ないんだけど」

 ウェイトンに向けて『深淵水源リン=カイエ』を構えるスイカ。
 その後ろで、ヒズミもまた次の攻撃の準備を始める。

 そんな二人を楽しそうに見ながら、ウェイトンは孔から離れていく。彼の後ろを、ビデルだったガルムがついていった。その無防備な姿は先程のビデルと同じ愚かなようだが、ウェイトン・アリゲイがビデルとは違い、その実まったく隙がないことをスイカは見抜いていた。

 そう、現状はかなりまずい状況といえた。

 敵はウェイトンだけではない。もっと脅威なのは、現在進行形で数を増やし、襲いかかってくる魔獣たちだ。際限なく部屋を満たしていく彼らに、すでにスイカたちは周りを囲まれてしまっていた。

「……無駄に話をし過ぎたようだ。それがウェイトン・アリゲイ異端導師の恐ろしさか」

「どうする? 姉さん。聞きたいことは聞いた。道を作って撤退するのがベストだと思うけど?」

「そうだな。ただ、ウェイトン・アリゲイがそれをみすみす許してくれるかどうか……」

「もちろん許しませんとも。あなたは使徒――倒すべき悪だ。開祖ベアルが遺した遺産である秘術。精々有効的に使わなければ、私はベアル教の導師を名乗る資格がありません」

「だ、そうだ。厄介だな。助けにもなるけど、やっぱりこの使徒の称号は障害にもなるようだ」

 スイカとヒズミは背中合わせにして、間合いを詰めてくる魔獣たちを見据える。

 せめてこの囲みを抜け出さなければ、逃げることすら難しい。しかし、この数は少々絶望的だ。

「オーガやワイバーンがいないだけ、まだマシと思うしかないな」

「こんな場所で死んでたまるか。いざとなったらアレを使えばいいしさ」

 殺気立つ魔獣たちが、地面を蹴って一気に襲いかかってくる。
 二人は壁際で観客を気取るウェイトンに一睨み送ってから、応対に移ろうとし――


――ようやく見つけましたわ!」


 孔から吹き付けてきた一筋の紅い烈風に、目を奪われた。

 孔の近くにいた魔獣たちを一振りごとに蹴散らしていく、その鮮烈なる紅い立ち姿。
 紅の髪を揺らし、強い眼差しを紅い瞳に秘め、燃えさかるような魔力を纏う紅騎士――それは絶望を簡単に蹴散らす、なんて尊い騎士の姿か。
 
「さぁ、薬を渡しなさい。その後で、精々私に喧嘩を売ったことを嘆くがいいですわ」

 リオン・シストラバス――悪人に対する美しい死神が、戦いの舞台へと舞い降りる。






      ◇◆◇






 無垢な人形であることを強制された少女は、やがてその役割を完遂させる瞬間へと至った。

 それは予想よりも遙かに早い瞬間だった。
 まだ少女は幼く、準備だって万全ではない。だけど、これを逃せば次がいつになるか分からない――そう思って、彼らは計画を実行に移すことを決めた。

 その結果、何も知らなかった少女は様々なことを知ることとなった。
 知ることを望まれて、その通りに厄災を――この世の悪を知ることになった。

 ただ、一つだけ誤算だったのは、その厄災を人では理解することができなかったこと。

『 殺せ殺して殺せ殺して殺せ殺して殺して殺して殺せ殺して殺せ殺して殺せ殺せ殺して殺せ殺して殺せ殺して殺して殺せ殺して殺せ殺して殺せ殺せ殺して殺せ殺して殺して殺せ殺して殺せ殺して殺せ殺せ殺して殺せ殺して殺せ殺せ殺して殺せ殺せ殺して殺せ殺して―― 』

 そこにあったのはこの世の歪みだった。理解できない、されない、そういった世界の歪みだった。

 結果として、本来知ってはいけない歪みを直視し、その何もない無垢な心で受け止めてしまった少女は狂ってしまった。道具として生まれ育てられたのに、人並みの感情を得て『殺して欲しい』と願ってしまったのなら、それは致命的な狂いといえよう。

 厄災と同調したまま、その歪みを見続けた少女は、やがて知る。

 終わりの魔獣ドラゴン――そう呼ばれるものの全ては悪でできていることを。悪こそがドラゴンであることを。そして、そのドラゴンを倒した尊い力こそが善。善こそ使徒なのだと。


 ――そしてクーヴェルシェン・リアーシラミリィは出会った。その正義である使徒、ジュンタ・サクラと。


 それからは幸せな日々だった。

 出会ったその人は想像していたよりもとても優しくて、強くて、本当にすごい人だった。そんな人の巫女になれたことが誇らしくてならなかった。

 だからこそ、なのだろう。不安を覚えたのは。

 思い返せば、自分はずっと楽な道を歩んできた。
 かつて罪を犯してから、自分がどうしようもなく嫌いだった。憎んですらいた。でも、だからこそ他人からの悪評にも耐えることができたのだろう。

『死んで当然の存在』

『生まれてきてはいけなかった子供』

『オルゾンノットの罪人』

『禁忌の竜の花嫁ドラゴンブーケ

 自分は罪深いから、汚いから、他人からそう言われるのは当然なのだと、そう思っていた。

 でも、それは保険でもあった。実際に知られる前にそう思っておくことで、嫌われたときのダメージを減らすための保険。自分を好きにならなければ幸せなことはないけれど、同時に不幸なこともなかったから……

 幸福は不幸があるから成り立っているし、不幸は幸福があるから存在する。

 クーヴェルシェン・リアーシラミリィにはどちらもなかった。それはとても楽な道だ。

 だけど、それではダメなのだと、幸福に憧れる自分がいて、そしてジュンタ・サクラと出会うことによって幸福を見出してしまった。
 同時に不幸になる可能性も得たことになるけれど、これまでは怖いことなんて何もなかった。その人と一緒にいて、不幸になんてなるはずがないと思って安心していた。

 だから、その人がいなくなることに禁忌の感情を呼び起こして、今は嫌われたことに絶望している。

 なんて醜いのだろう。なんて愚かなんだろう。
 救いがたい醜悪さだ。これでは嫌われて当然だろう。

 いつかの地獄が瞼の裏に甦ってくる。殺せと世界から命令される感覚と、殺してと世界に祈る感覚が甦ってくる。忘れようとしても忘れられない罪の記憶――絶望しろと、今更世界全てが罵ってくる。

(私は、どうしたら……?)

 ぐちゃぐちゃでぐにゃぐにゃだ。何も分からないし、何も考えたくない。
 幸福と不幸を知ってしまった自分ができる、辛いことから目を逸らす行為は、もはや何も考えないことしかなかった。

(私は…………私、は……?)

 クーヴェルシェンは夢を見る。

 泡沫の幸福。永劫の不幸。
 正義なる人の笑顔。悪なる獣の咆哮。

(私は……ご主人、様…………)

 世界が裏返っていく。存在が反転していく。

 目の前に広がるのは、ただ、一寸の光も見出せない漆黒の闇――あの日自分が殺し尽くした人たちが群がってきて、耳元で贖罪の方法を囁いてきていた。

(わた、しは……どうして、呪われるために、生まれて…………生まれてはいけなかった子供は、どうしたら、許されるんですか……?)

 クーヴェルシェン・リアーシラミリィは為す術もなく歪んでいく。

 それが唯一の贖罪の術なのだとしたら、抗う方法など存在しなかった。

  







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