波打つ長い金髪と、若々しいのに深い貫禄と包容力を見せる微笑み。あらゆる動作が洗練され、神々しくも母親のように優しい印象を与える。この世で最も尊い色の瞳をもって、彼女――フェリシィール・ティンクと名乗った使徒はジュンタの前に現れた。 アーファリム大神殿の東神居と呼ばれる塔の談話室。 メイド服というよりはシスターが着るような服を着た女性に案内され、紅茶を目の前のテーブルに置かれて待つこと数分――ジュンタの前に現れたフェリシィールは、まず深々と頭を下げた。 自らの名と、そして自分が使徒であることを名乗ったフェリシィールは、偉い人物であることを忘れさせるほど深々と頭を下げている。 「申し訳ありません、ジュンタさん。全てはわたくしの責任です」 彼女が言うに、なんでもクーをシストラバス邸で攫ったのは彼女なのだとか。 そのことに対し、ジュンタは特に怒りを覚えることはなかった。 確かにフェリシィールがクーを攫った所為で指名手配されるは、ベアル教のアジトに乗り込むは、果てはクーをあんな状況に追い詰めた一端すらそこにはある。けど、その全てを理解して罪悪感を抱いているフェリシィールに、怒りの念を覚えることはなかった。 (この人が使徒フェリシィール・ティンク。クーのおじいさんの使徒で、クーの育ての親) むしろ仕方ないとすらジュンタには思えた。 いや、嘘である。ジュンタはフェリシィールに対して怒りも抱いていたし、恨んでもいた。 「頭を上げてください、フェリシィールさん――そんなのはどうでもいいです」 謝罪も何もかもを受け入れたジュンタは、その一言で全てを終わらせた。 「ええ、そうですね。ジュンタさん、リオンさんからクーちゃんの今の状態についてお聞きになりましたか?」 使徒の証である金色の双眸で見つめられ、ジュンタは先程クーの部屋で、ここにはいないリオンと交わした内容について思い出す。 『申し訳ありませんわ。後一歩のところで……いえ、いい訳は良ろしくありませんわね。私は結果として、クーを治すための薬を手に入れることができませんでした』 そう謝ったリオンは、右手で左手の服の裾を掴み、それでも顔だけは俯かせることなくこちらを見ていた。 リオンにとって、その失敗はどれほど痛いものだったのだろう。リオンはこんな時どんな顔をすればいいか分からないように、悲しそうな、申し訳なさそうな、悔やんでいるような顔をしていた。それは泣いている顔、と称すのが一番正しい表情であった。 『薬はウェイトン・アリゲイの手によって、『封印の地』に繋がった孔の中へと放り投げられてしまいました。薬を手に入れられなかった私はいったんあなたとクーの許へと行き、一度アジトの外に出て、そしてこの場所――使徒様の住居であるアーファリム大神殿へと移動したのですわ。 思い出す。眠ったクーの身体の胸から下を、あのウェイトンが放った黒い光が、繭のように覆っていたのを。 リオンは薬を手に入れられなかった。最高の治療でもクーを治せなかった。つまり今もまだ、クーは一人で戦い続けていると言うことだ。 誰かを責めることもできず、ジュンタは苦しそうに直された眼鏡の下で目を瞑り、膝の上で強く握り拳を握りしめた。 「クーはまだ、一人で戦い続けているんですね」 「何とか施した治療で、クーちゃんの身を苛んでいる黒い魔力の進行は一時的に食い止めることができました。一度だけですが、クーちゃんも目を覚ましました。ですがそれは一時的なもの。遠くない内に、再び発作のようにクーちゃんをアレは襲うでしょう。 「芳しくはないんですね?」 暗い表情のフェリシィールを見て、ジュンタはそう判断する。 使徒という立場にあるフェリシィールならば、それこそ世界中の薬をかき集めるえことが可能だろう。いや、もうしたに違いない。一日と半日眠っている間に、思いつく限りの治療は施されたと思っていい。けど、その結果が今のクーの状態なのだ。 「クーちゃんは抵抗し続けています。ですがウェイトン・アリゲイの言葉が正しければ、心とは裏腹にあれは反転を起こすでしょう。よしんばそうでなくても、今のままの状態が長く続けば衰弱死は免れません」 「そんなっ! 何か、何かクーを治す方法はないんですか!?」 バン、と紅茶が入ったカップが倒れるぐらいの勢いでテーブルに両手を叩き付けたジュンタがそう言っても、フェリシィールは目線を伏せるだけだった。 「くそっ……!」 ジュンタは額を抑えて、椅子の上でうなだれる。何もできない自分が不甲斐なかった。 クーは今もがんばっている。必死に戦っている。 元はといえば、ウェイトンの凶行を拒めなかった自分の責任でもある。あの時、ウェイトンがクーのことを『竜の花嫁』と呼んだとき、自分が何か声をかけてやれていれば、こんなことにはならなかったのではないか? もっと、もっと強ければ、ウェイトンのことを最初に仕留められるぐらい強かったなら、あんなことは起きなかったのではないか? 考えれば考えるほど、自分の無力さが浮き彫りになる。 (何か。何か、方法はないのか……?) 額に手をつけたまま、ジュンタはフェリシィールを無視して思考に落ちる。 (こんな俺にでも、何かやれることは――) ウェイトン・アリゲイが示した、唯一助ける手段である『薬』の存在。石の容器に入っていたと思しき液体。あれはなんだ? あれは何からできている? いや、それは考えても無駄だ。他のこと。リオンは言った。薬自体が紛失したわけではなく、孔の中に落ちたのだと。 (孔……? 確か、『封印の地』に続く孔だったよな) 一つ気になる点があって、ジュンタは顔をあげ、じっと待っていてくれたフェリシィールの方を向く。 「フェリシィールさん。質問なんですが、『封印の地』とは一体何なんですか?」 フェリシィールはその質問が来ることが分かっていたかのように、一つ頷いてから綺麗な声で話し始めた。 「『封印の地』とは、千年ほど前の『始祖姫』様の伝説に語られるところの、魔獣の大軍を封印した場所のことを指します」 「『始祖姫』の?」 「詳しい記述は残っていませんが、かなり有名な話になります。 千年ほど前、まだ聖神歴が始まっていなかった頃――ドラゴンがはびこり、魔獣が闊歩していた時代があったのだという。その時代を終わらせ、人々に使徒の在り方と共に救世を示したのが、噂に名高い『始祖姫』たちである。 リオンの家の祖先もその中には含まれていて、そんな彼女たちはとてつもなく強かったのだとか。ドラゴンすら一撃で倒すナレイアラ・シストラバスもいるのだ。並の魔獣など束になっても敵わなかったに違いない。 だからこそ解せないのは、『封印の地』の伝説が語られていること。そんなに強いのなら、封印などをする意味が分からない。 「『始祖姫』たちは強かったのに、それなのに『封印の地』なんですか?」 「ジュンタさんの疑問はごもっともです。ですが考えても見てください。古の時代では、人の数よりも魔獣の数の方が多かったと聞きます。確かに『始祖姫』様たちの御力は圧倒的でも、三柱だけ。広大な世界の中、全ての魔獣を倒そうと思ったら何十年もかかってしまうでしょう」 「それは……確かに、そうですね」 「ですから『始祖姫』様たちは、倒すのではなく封印される道を選ばれたのだと思います。それぞれ魔獣を呼び寄せ、封印する法をお使いになられ、三つの場所に『封印の地』を作られたのです」 「三つもですか?」 「はい。封印の儀の中心を担った『始祖姫』様の数だけあると言われています。故に『ナレイアラの封印の地』、『メロディアの封印の地』、『アーファリムの封印の地』と呼ばれていますね。 「ここ、聖地と言うわけですか」 察したジュンタの言葉に、フェリシィールは肯定を示した。 「ですがこれはあくまでもされたと言われているだけで、明確な記述は残っていないのです。現に『ナレイアラの封印の地』と予想されていたオルゾンノットには、『封印の地』は存在していないことが十年前の事件の折に判明しています」 「え? でも、この聖地には『封印の地』はあるんですよね?」 「ええ、それは間違いありません。下手に存在を証明してしまえば、聖地に住む皆に無用な心配をかけてしまいますから、代々『アーファリムの封印の地』を管理している聖地の使徒が故意に隠匿しているのです。ですが『封印の地』自体は間違いなく、この聖地に存在します」 「つまりフェリシィールさんは聖地の『封印の地』がどこにあって、どうなってるか……それを把握しているということですよね?」 「そうなりますね」 「それじゃあ――」 ジュンタは徐々にクーの育ての親ではなく、一人の使徒として、その気迫を見せつけてくるフェリシィールに向かって、ゴクリと息を呑んでから言葉を続ける。 「フェリシィールさん。あなたは、『封印の地』を開く方法を知っていますか?」 ここまでの話しから、ジュンタは『封印の地』というものがどれほど聖神教にとっては大きな意味合いを持っているか理解していたつもりだった。 魔獣の軍勢を封じ込めた『封印の地』――ベアル教が開いた孔は、そこへと通じる門だったのだ。無制限に門から現れた魔獣がかつて封印された魔獣たちなのだろう。今でこそ塞がっているが、あれが開き続けていたらとんでもないことになる。 だから、この『封印の地』を開く方法を問う質問は、ある意味では罪に該当するのかも知れない。けれどクーを今すぐに救う方法は、『封印の地』へと赴き、どこかに落ちているだろう薬を拾ってくる方法しかあり得ない。 じっと金色の瞳をジュンタは見つめ続ける。クーを想う気持ちと使徒としての責任がせめぎ合っているのか、フェリシィールの瞳は僅かに揺れていた。 「『封印の地』の中には、恐らくドラゴンすらいるでしょう。もし『封印の地』を開いた結果、封印そのものが崩壊したら……この聖地に生きる人々に多大な害が及びます。ジュンタ・サクラさん。あなたはそれら十万以上の人々に対して、危険を及ぼす覚悟はおありですか? それらの命に比してなお、少女一人の命の方に価値があると言い切れますか?」 「それでクーの命が救えるのなら、俺には聖地なんて関係ありません」 フェリシィールの真剣な問い掛けに、またジュンタも真剣に返した。 「言い切りました。クーの方に価値はある、と」 見つめる視線は懇願と傲慢で、見つめてくる視線には憧憬と覚悟が。 フェリシィールが一度瞳を閉じ、それから大きな胸を動かして深呼吸し、それから開く。 「それでもまたあなたも使徒。ならば『封印の地』のことを語るのは、先に聖地に降りたわたくしの役割なのでしょう。――使徒ジュンタ・サクラ。あなたのおっしゃるとおり、わたくしは『封印の地』を開く方法を知っています」 故に『封印の地』をこじ開けるには、その封印の要である神殿を完膚無きまでに破壊するか、神殿を動かすことができる、神殿と契約した術者を全て除外するしかない。 「ここからは、あなたが使徒であるから話せる内容になります。『アーファリムの封印の地』を稼働させている神殿は、このアーファリム大神殿に他なりません。神殿と契約した術者とは、即ちわたくしと使徒ズィールの二人です。スイカさんはまだ契約をしていませんので」 「ちょっと待ってください。それじゃあ、『封印の地』を解放するには、フェリシィールさんとそのズィールっていう使徒を殺さないといけないんじゃあ」 「ご冗談を。わたくしとズィールさんを殺すよりも、神殿を跡形もなく消し飛ばした方がよほど建設的ですよ」 「いや、ツッコむ場所はそこではなくて……それじゃあ、どう足掻いても『封印の地』を解放するなんてことできないんじゃないですか?」 「いえ、実はそんなことはないんです。この二つの封印方法は、あくまでも解放を企む側からしてみればの方法。封印を担う側からすれば、それほど悩む必要もありません。神殿と契約しているということは、つまり封印と繋がっているということ。ある程度の間、人が通り抜ける分の門を開けることは、決して難しいことではありません」 微笑みすら浮かべてそう語ったフェリシィールに、ちょっと痛む頭でジュンタは話を纏める。 「……つまりフェリシィールさんの協力があれば、問題なく『封印の地』には行けると?」 「その通りです。よくできました」 「いや、褒められても……と言うか、聖地の人が死ぬ危険があるとかって話はどこへいったんですか?」 やけに平和的な手段が現れて、なんとなく脱力するジュンタに対し、フェリシィールが困った風に笑いかける。 「先程のはジュンタさんのお覚悟を確かめるための方便みたいなものです。責任を背負うか否かの。すでに昨日の時点で、わたくしの方で『封印の地』の解放のための準備は開始されていますから。何でしたら、先程の言葉を今撤回してくださっても構いませんよ。その場合、もしもの場合が起きたとき、あなたが責任を負う必要はなくなりますから」 「被害ですか? それは人身の……?」 「いえ、お金です」 「………………へ?」 笑顔できっぱりと『マネー』と言い放ったフェリシィールに、ジュンタは呆気に取られる。 「そんなに不思議そうな顔をしないでください。使徒とは即ち聖神教と聖地の運営者。ズィールさんはこの手の話に疎くて、経済的な勘定は全てわたくしの仕事なのです。 「え? あ、えっと……」 「神殿に溜められていた魔力の消費量と、孔を開けている間魔獣を食い止めるための騎士にあてる特別手当。一時的に水の供給量が下がるため、そこから繋がる一時的な経済効果の低下……」 ジュンタには笑顔で眉根を寄せるフェリシィールの後ろに、かわいらしい顔に似合わぬ速度で、そろばんを目まぐるしい勢いで叩いている彼女の姿が幻視できた。 「秘密裏に行わなければならないので、根回しにかかる費用。治療のために使ったお薬の代金も必要になりますね。あららまぁまぁ、なかなかに難問ですよ」 「いえ、あの確かにお金は大事ですけど、お金を気にしている場合ではないんじゃ……」 他でもないクーの命がかかっているのだから、少々どうかと思うその金勘定――しかしフェリシィールの方が遙かにクーと一緒にいた時間は長いということか、彼女はクーを助けることだけではなく、その後のことも考えていたのだ。 「もちろんクーちゃんの命に比べれば、国家財産ぐらい食い潰しても惜しくはありませんし、必要ならそうします。ですが全てが解決したあと、まず確実にクーちゃんがこういうことが予想されます………………必要経費、自分が全てお返します、と」 「あ〜、それは絶対言いそうですね。いや、むしろ絶対言いますね」 「はい、絶対に言います。クーちゃんに何年もお小遣い無しのただ働きの借金漬けをさせるなんてかわいそうですし、助かったというのに心の底から喜べないなんて嘘だと思うんです。成功値が変動しない範囲でできるだけ必要経費は抑えないといけません。あの子を助けるということは、普通よりも大変なんですよ」 ほぅ、と息を吐いて、再び頭の中でのそろばん打ちを再開させたフェリシィールを見、ジュンタはあまり良くない展開が続いた中、久しぶりに笑った気がした。 使徒フェリシィール・ティンク――色々な意味で、あまりに所帯じみたこの使徒は、本当の本当にクーのことを愛しているのだろう。 子供の心配をしない親はいないということか。何を言っていても、誰に何を言っても、彼女の中での優先順位の最初に今クーを助けることがある。聖神教の使徒としてはどうかと思うが、ジュンタとしては好意を抱いてしまうことだった。 (大丈夫。大丈夫だ、クー。この人がいれば、この人たちがいれば、お前を絶対に助けることはできる。必ず、必ず) フェリシィールの姿に光明を見出したジュンタは、自分ができることを精一杯やろうと、まず最初にそう言った。 「必要経費、クーと俺とで折半にしておいてください。二人で必ず完済しますから」 「いえ、全部わたくしがへそくりから出しておきます。だってわたくしも、クーちゃんの家族なのですから」 どうやら塔の形をしているらしいこの東神居。談話室は下の方にあり、クーのいる部屋は上の方にあった。螺旋状の階段を数階上がって、見覚えのある彫刻が置かれた、その前の部屋の扉を開け放つ。 眠っているクーを起こさないように部屋に入る。 扉が開いたことに視線を寄越してきたリオンに小さく頷いて、ジュンタはクーへと近寄る。 今は苦しそうな顔を見せず、クーは安らかな寝顔を見せていた。 「ジュンタ。手を握るのを代わりなさい。私よりあなたの方がいいはずですわ」 「ああ」 代わってクーの手を握ったジュンタは、しばしその寝顔を見つめたあと、フェリシィールと話していた間、ずっとここにいてくれたリオンに話しかける。 「何か変化はあったか?」 「いえ、何もありませんでしたわ。何でもないように、ただ眠っているだけでした」 「そっか……」 静かに眠っているように見えて、でも実際は夢の中で戦い続けているクーの姿に、リオンはいつもの元気さをなくしていた。いや、きっと薬を手に入れなかった瞬間から、彼女は一度だって元気な姿を見せていないに違いない。 「フェリシィールさんから話は聞いた。お前も『封印の地』に潜るらしいな?」 「お前も、と言うことはあなたも行くつもりですのね?」 「もちろんだ。俺が行かないで、他に誰が行くって言うんだよ」 リオンは先んじてフェリシィールと『封印の地』について話をしていたらしく、その中で、何が何でも『封印の地』に自分が入ることを主張して色々と困らせたらしい。 聖神教だけではなく、グラスベルト王国にとっても、世界にとっても、リオン・シストラバスという少女は大きな存在だ。 『封印の地』の中はとても危険。何ていったって魔獣の軍勢と、さらにはドラゴンすらいるのだから、その危険度はこの世のどの地域よりも上だろう。そこへとリオンを行かせるなんて…………フェリシィールが困って当然である。 斯くいうジュンタも、実際はフェリシィールに『封印の地』に行くことを一度は止められていた。 使徒であるジュンタが、危険な目に遭うことを看過することはできないのもあるだろうが、それよりもフェリシィールは他のことを気にした上でそう言っていた。 「あなたが行かなくても、『封印の地』へは私が行きますのよ。薬は絶対に手に入れて帰ってきますわ。あなたはクーをここで見ていた方がよろしいのではなくて?」 つまり今リオンが気にしたように、自らの主である使徒を失ったクーが、反転に抵抗するのを止めてしまう危険性だった。 「元はといえば、薬を手に入れることができなかった私の責任。ここは私の名誉挽回のためにも、やはりジュンタは残るべきですわ」 「それ、フェリシィールさんにも言われたよ。でも、これだけは譲れない」 だけど、それでもジュンタは行くと言い放った。 「俺が行かないでどうする。例え危険でも、クーががんばってるんだ。クーにとっての主である俺ががんばらないでどうするんだよ。いや、それだけじゃない。俺は――俺がこの手でクーを救ってやりたいんだ」 頑なな態度を貫き通した結果、先に折れたのはフェリシィールの方だった。たぶん、リオンもそんな感じでフェリシィールに言い含めたに違いない。 「……そこまで言われたら、私には止められませんわね。精々足を引っ張らないようにしなさい」 「そっちこそ。クーは俺に任せて、お前は一回休んで来いよ。フェリシィールさんに聞いたぞ。お前、ろくに眠ってないんだろ?」 よく見ないと分からないが、リオンの目の下には隈ができていた。 リオンは恥じるようにそっぽを向いて、 「眠れるはずありませんわ。名誉挽回のチャンスが与えられなければ、自決ものの失態ですもの」 「相変わらずだな、おい。そんなことしてたら、それこそクーの奴は心が折れる。例え無様でも、俺らが戦い続けないでどうする」 「あなたに言われなくても承知しています。この手で約束は必ず果たしてみせますわ」 リオンは座っていた椅子から立ち上がり、部屋を後にしようとする。自分でも、戦いに備えて休息は取っておかなければいけないことを理解はしているらしい。 「あっと、そうだ。ちょっと待ってくれ、リオン。一応了解を取っておきたいんだけど」 だから少しだけ呼び止めるのに躊躇したが、結局ジュンタは呼び止めることにした。 「なんですの?」 「いや、あの剣なんだけどさ」 振り返ったリオンの視線を、ジュンタは指差すことによってテーブルの上に置かれた二本の剣に誘導する。 「あのドラゴンスレイヤー、もう少しの間貸しておいてくれないか? 正直、あれは右の剣としてかなり使いやすいから」 クレオメルンに襲われたときにリオンから渡されたドラゴンスレイヤー。その少し長めな刃渡りといい、双剣の右としてはかなり使いやすかった。それだけではなく、なんとも手に馴染むのだ。やはり一時とはいえ持っていた剣だからか。 「いっぺん返して置きながらあれだけど、今回だけでいい。クーのためにも貸しておいてくれ」 「…………言いたいことはそれだけですの?」 「え?」 剣へと視線を注いでいたリオンが、口元をひくつかせ、鋭い視線を向けてきた。そのままこっちへと近寄ってくると、グイッと襟首を持たれて引っ張り寄せられる。 目と鼻の先にリオンの顔があって、本来なら赤面する場面なのに、ジュンタはその鋭い視線に顔を青くした。 (しまった。やっぱり一度返したものを貸せってのは、騎士のリオンにとっては逆鱗ポイントだったか。……無断で借り続けておけばよかった) そう思いつつ、視線をそろりと逸らしたジュンタに、リオンは口を開く。 「あ、あああ、あれはあなたに差し上げますわ!」 「いや、気持ちは分かる。分かります。だけどここは何とぞクーのために……って、え?」 速攻で拝み倒しに訴えようとしていたジュンタは、リオンの言った言葉の意味に気付き、マジマジと目の前の紅い瞳を見返した。 よく見ると、リオンは確かに怒りの形相をしているが、その割には頬が真っ赤だった。 「えぇと……もらっていいって、どういうこと?」 「で、ですから、あの剣はあなたに差し上げると、そう言うことですわよ。 怒濤の如くそこまで言い放ったリオンは、そこでようやく鼻があと少しでくっつくぐらいに、顔を接近させていたことに気が付いたらしい。ぱっと掴んでいた襟首を離すと、赤らんだ顔で腕を組み、コホンと咳払いをする。 ジュンタは乱れた襟を直さぬまま、「ど、どうですのよ? もちろん嫌とは言いませんわよね」とチラチラ見てくるリオンを見ていた。 (そう言えば、よくよく考えてみれば、リオンがあの剣を持ってたこと自体がおかしな話なんだよな) フェリシィール曰く、クーのおじいさんの魔法でいきなり召喚されたのだ。どうして都合よくリオンが、あの以前使っていた剣を持っていたのかという話になる。 それを踏まえて考えてみれば、つまりはそういうことなのだろう。 「な、何笑っていますの? 隣にクーがいますのよ? 不謹慎ですわ!」 「笑わせた張本人にそう言われてもな。――ちょっとゴメンな、クー」 ジュンタは一度クーの手を離して、テーブルに置かれたドラゴンスレイヤーを持ってくる。鞘から紅い刀身の剣を抜きはなって、その刀身にリオンの姿を映し出した。 「?? 一体何をするつもりです?」 訝しげな視線を向けてくるリオンの前で、ジュンタは脳裏に以前騎士エルジンから教わったことを思い出す。この紅き剣にこめられた、忘れてはいけない騎士の誓いを。 すぅっと息を吸うと、ジュンタは騎士の誓いを静かに謳い上げる。 「それ、どうしてあなたが?」 「以前エルジンさんに聞いたんだ。このドラゴンスレイヤーを手に取る理由。シストラバス家の騎士の意義。俺はこれを受け取っても、シストラバスの騎士になるわけじゃない。でも、これを受け取るならこれだけは誓わないと。いや――」 ジュンタは剣を下ろし、まっすぐにリオンを見て、そして告げた。 「リオンを守りたいって気持ちはずっとあった。たとえ俺の方が弱くても、俺はお前を守りたい」 「ジュンタ……」 「だから誓う。この紅き剣に。俺が、リオンを守るから。もう、大切な人が傷ついた姿を見るのは嫌だから」 好きとか嫌いとかは別問題で、ジュンタの心の中に息づくその気持ちを伝えると…………リオンはパクパクと口を開け閉めし始めた。 これは自分への誓いであり、リオンからの返答は欲していない――剣を鞘に戻したジュンタは、そんなリオンの様子に首を捻って一歩近付く。 「おい、リオン。お前どう――」 「はにゅぃ!」 一歩足を踏み出した途端、リオンが真っ赤な顔で部屋の壁まで後退った。かつてないスピードで。 「わ、わわわわたくっ、私は少々眠たいので眠ってきますわねクーのことちゃんと見ていますのよいいですわねあと絶対不埒な真似をしてはいけませんわよっ!!」 異様な早口と行動にジュンタが呆気にとられているうちに、壁伝いに移動し、扉を開け放ってリオンは部屋を出て行ってしまった。 まるで照れているような行動だったが、さすがに人として、あそこまで照れる人間がいるとは思えない。バシンと開かれて閉じられた扉に伸ばしていた手をジュンタは引っ込めて、首の後ろへと持っていく。 「……あの奇行を理解できる日が、いつか来るんだろうか」 「はい、ご主人様ならすぐにでも」 後ろから響いた弱々しくも楽しげな声にジュンタは振り返る。 (リオンの奴が盛大に出て行ったからか。まったく) 眠っていたクーを起こしたリオンに悪態をつきつつ、ジュンタはベッドに近寄る。 「大丈夫か、クー? 起きてるのは辛くないか?」 質問してから、ジュンタは自分を馬鹿かと思った。 「悪い、変なこと聞いたな。かけるべきは、がんばってくれ、の方が正しいか」 「どちらもご主人様の優しさを感じられて、私は嬉しいです。気にしないでください」 「クーがそう言うなら」 寂しそうなクーの手にジュンタは左手で触れ、右手に持っていた剣を置いてから、右手もその手に寄せた。 クーははにかむと、 「ご主人様の手、とても温かいです」 幸せそうに手に頬を寄せた。 手に寄せられた唇からかかる吐息は酷く熱い。時折苦悶の吐息が桃色の唇からもれて、こうして起きていながら、それでもクーが悪夢を見ていることがジュンタには察せられた。 「がんばれ。がんばれ、クー。負けるなよ、そんな悪夢なんかに」 「はい。私は負けません。こんな悪夢なんかに、私は負けたりなんてしません。私は勝ちます。絶対に勝ちますから…………だから、ご主人様、どうか謝らせてください」 「謝る? 何をだ?」 「あの時、ウェイトン・アリゲイに過去の呼び名を――『竜の花嫁』の名で呼ばれたとき、ご主人様を疑ってしまったことを。どうか謝らせてください。 「クー……そっか。ああ、分かった。ちゃんと謝ってくれたからな。許す」 「ありがとうございます。とっても、嬉しいです」 重なる視線。かつて交わした約束――それがあったから、クーは静かに語り始めた。 「聞いてください、ご主人様。私がかつて犯した罪を。『竜の花嫁』と呼ばれる謂われを。 「それが約束だからな。教えてくれるか? クーの口で」 「はい。全てを」 クーは顔を向けたまま一度瞼を閉じ、そして開く。その真実と一緒に。 「――――私はかつて、ベアル教の巫女でした」 一人は開祖ベアル。ベアル教の始まりの盟主であり、ドラゴンを信仰した男。 そしてクーは、このアンジェロとターナティアというエルフの夫妻が、他でもない自分の両親なのだと最初に語った。 「ドラゴンに信仰を持っていたベアルは、新たなる宗教を広めようといつしか思い始めたようです。そしてその彼がまず最初に誘ったのが、信仰こそありませんでしたが、ドラゴンを研究することに取り憑かれていた私のお父さんとお母さんでした」 ドラゴンの研究をしていたというクーの両親は、当時ドラゴンを研究するにあたって問題を抱えていた。それは研究する対象に関する研究材料が、手に入らないという問題。 「ドラゴンの研究はとても難しいです。ドラゴンは強く、恐ろしくて、だからリオンさんの家――竜滅姫様たちが、跡形もなく消し飛ばしてしまうからです。そのことは当然であり正しいのですが、研究者たちからすれば研究材料が手に入らない問題に繋がるんです」 「研究対象が跡形もなく消し飛ばされたら、そりゃ、研究材料は手に入らないよな」 「ドラゴン研究者はその中で何とか研究をするのですが……お父さんとお母さんは、それでは我慢できなかったようです。より深くドラゴンを研究するためにベアルの誘いに乗ってしまい、そこへ当時ジェンルド帝国を追放されたという『狂賢者』が加わって、ベアル教は誕生しました」 クーは辛そうに、そこでいったん言葉を止める。 ジュンタは思わず話を止めたくなるが、それはきっとダメなのだと、そう思って何も言わなかった。 「『ドラゴンこそが神である。そして我々もまた、神へと辿り着こうではないか。そうして神として、この世に変革をもたらそう』――開祖ベアルが口癖のように言っていた文句です。ベアルはそれを本気で目指し、実行しようとしました。そんな彼がまず一番に始めたことは、ドラゴンを知ることでした」 それは以前スイカにも聞いた話だった。 ドラゴンのことはほとんど分かっていない。どうやって生まれるのか、どうして生まれるのか、そのほとんどが不明のままだという。だから、ベアルはドラゴンを研究することにした。いつかドラゴンへと至るために、その存在を深く理解しようとしたのだ。そのために、きっとクーの両親を誘ったに違いない。 「当時、フェリシィール様のご存在により、数百年近く停滞していたドラゴンの生態が一歩前に進んだことをご主人様はご存じですか?」 「フェリシィールさんが? いや、知らないけど」 いきなり出てきた使徒の名前に、ジュンタは首を横に振る。 「フェリシィール様には、使徒として神様から与えられた力――使徒様方が特異能力と呼んでいらっしゃる力があるんです。それは自然に限定した【未来予知】なのだそうで」 「特異能力か」 使徒が持っている力――いや、使徒になったから持ったのではない。持っていたから使徒になることになった、生まれながらに持っている歪みの力。超能力と読んでもいい、使徒ならば必ず有している特異能力。 「自然に限定した事象の予知……それがフェリシィールさんの特異能力か」 「特異能力については私より同じ使徒様であるご主人様の方がお詳しいかも知れませんが、フェリシィール様は火山の噴火や大津波、地震などの厄災について予知することができるんです。そして、その中で最大の自然の厄災とされているのがドラゴンなのだと」 「フェリシィールさんはドラゴンの誕生を予知できるっていうのか?」 「はい。ですからフェリシィール様の存在で、ドラゴンが自然現象の一端なのではないかという仮設が生まれました。そこで止まってしまったのですが、どうやら私の両親はその仮設が真実であると認識していたようです。 「つまり、ベアル教が一番最初にしようとしたのは、ドラゴンの思考や行動原理を知ることだったんだな」 「その通りです」 やはりそれには、ドラゴンの存在が必要不可欠になる。研究こそが一番と認識していたクーの両親は、ドラゴンを捕まえられない表の研究機関ではなく、ベアル教に行くことでその方法を実行に移したかったのだろう。 スイカの話を思い出し、ジュンタはベアル教が発足した時期を考える。 (確かベアル教発足は二十年前ぐらい。なら、当時まだクーは生まれていないのか) 最初に自分はベアル教の巫女――つまり偉い立場にいたと口にしたクー。どうやってクーがそこの立場に収まったのか、ジュンタには少しだけ予想ができた。当時まだクーが生まれていないのなら、その両親が要因と考えるのが妥当であろう。 「おじいちゃんから聞いた話ですが、私の両親はある意味では生粋の研究者だったという話です。 研究の成果を出すためなら、多少の犠牲は仕方がないと言っていたこともあったそうです。 「悪魔の研究?」 「『狂賢者』ディスバリエ・クインシュが、ジェンルド帝国を追放された原因と言われている生態兵器の研究です。つまり、あの人たちは人間を材料にした道具を作り出そうとしたんです」 およそ両親に向けるものではない苦々しさを声に潜めて、クーは悲しそうな表情で物語る。 ジュンタもまた、クーと同じように苦々しい声で答えた。 「生態兵器。人間を使った研究か。ドラゴンの思考を知るために、それが必要だったんだな」 「ドラゴンの思考を知る上で、両親と『狂賢者』が打ち立てた方法は、思考の同調だったんです。 用意した思考分析装置とドラゴンの思考を同調させ、分析装置の方を分析することによって、ドラゴンが何を考えているのかを知るという方法です。そして――その思考分析装置として用意されたのが、他でもない人だったんです」 「他人の思考を分析するには、最低でも高い知能を有してないとダメだからな。だから人……当たり前だけど、最悪な発想だな」 「私もそう思います。確かに他者の思考を分析し、理解するには人以外にいないでしょう。 視線を握った手に向けて、クーは言った。 「その人形の名は、ドラゴンに捧げられる花嫁という存在意義を込めて、『竜の花嫁』と呼ばれることになりました」 淡々とそう語ったクーが、その実震えていたことを、ジュンタは繋いだ手から理解していた。『竜の花嫁』――それは他でもなく、今震えている少女が呼ばれた名前だったから…… 「それじゃあ、クーは?」 「はい。私こそ『竜の花嫁』――ドラゴンとその思考を同調させるためだけに生み出された、人の姿をした道具です」 ベアル教にとって最大の計画の、その要を担うことになったがための巫女か。 「私という完成品を作るために、まずはドラゴンの魔力に耐えうる器の実験として、『狂賢者』が持っていた生態改造技術である『儀式紋』の実験が行われました。 「けど、その研究をしていたディスバリエ・クインシュは帝国を追放された」 「『儀式紋』を安定させるための実験が、あまりにも非人道的だったからです。 『――どうやってドラゴンの情報を得ようとしたかは分からないけど、それには高い魔力資質が必要だったらしい。後から発見されたベアル教の研究施設は、それはもう凄惨な光景だったという噂だ』 ジュンタの脳裏にスイカの言葉が甦る。 非道な人体実験。安定しない新しい技術『儀式紋』――果たして、一体どれだけの命がその研究のために消えていったのか? 「施術の成功率は一割を切っていたそうです。一割以下の成功者も、完成体である『竜の花嫁』のために、より『儀式紋』を安定させるための実験体として出力実験や魔法の制御の実験。同時進行して作られていた、ドラゴンと同調させる魔法の実験体として命を落としました。たぶん、『儀式紋』の施術を行われた人で生き残りはいないと思います」 「クー……」 ドラゴンと同調させるのは一人だけ。その完成体の完成度を高くするために、消えていった命たち。その命の重さと無念は、狂気に走った研究者ではなく、『竜の花嫁』と呼ばれた少女の胸に影を落としていた。 自分のために消えていった命。使われていった命。 「『竜の花嫁』として選ばれたのは、アンジェロ、ターナティアの夫妻の間にできた子供でした。 その子供は完成度を上げた『儀式紋』の処置を、母親の胎内にいる間に施され、生まれる過程の中で『儀式紋』を体組織の一部として組み込みました。ご主人様も見られました、ベアルの神殿で私の身体が光っていたアレ――アレが『儀式紋』と呼ばれるものです」 ベアルの神殿で、魔獣たちを圧倒的な力で下したクーの身体に輝いていた紋章。あれが単独魔法を儀式魔法にまで底上げする、身体そのものに刻み込まれた魔法的な処置――『儀式紋』だったのかと、ジュンタは理解する。 「『儀式紋』は儀式場と同じで、本来は自分の手で組み立てるべき魔法陣や術式を、元からそこへ組み込んでおくことで大部分を補い、工程をショートカットして、単独魔法を儀式魔法まで昇華させることができます。そうやってある程度の式を前もって準備しておくことにより、ドラゴンの神秘的な部分の分析を高速化・多様化しようとしたんです」 ドラゴンが何か分からないのだから、『竜の花嫁』にはありったけの前準備を施しておかなければならなかった。それが『儀式紋』であり―― 「その他に私は『儀式紋』と一緒に、ディスバリエ・クインシュによって生まれる前に多くの施術を施されたんです。そうやって生まれ落ちた私は、生後半年後には年齢にして八歳前後の肉体と、知識を持つまでに成長していました」 ――多くの、人の営みを無視した改造だったのだ。 「その所為か、私の成長はかなり不安定です。身体の発育も遅いです。私は十四歳になりますが、肉体的な年齢はたぶん十歳から十二歳ほどしかないと思います」 年齢よりも大人びた様子と、それに相反する小さな身体を持っていたのは、そこに理由があったのか。ジュンタは納得すると共に、そうしたディスバリエやクーの両親に怒りを覚える。 「もしかしたら、一生大人になることはないかも知れません。逆に半年ほどで老人になるかも知れません。私は、そういう異常な身体なんです。 「それはどういう意味だ……?」 自嘲を声音に含めたクーに、ジュンタが改めて尋ねると、彼女は静かに語りを再開させた。 「ドラゴンと同調するために、私は何も感じないように育てられました。善悪という当たり前の意識から感情の類まで、何も与えられませんでした。与えられたのは、ドラゴンを知るための魔法の理論と知識だけ。幼い頃の思い出なんてありません。お父さんとお母さんの顔もほとんど覚えていません。 生まれてから死ぬまでを、ただドラゴンのためだけに存在する『竜の花嫁』――その役割を担って生まれた少女は、その人の尊厳を奪われて誕生した時点で、人ではなく道具だったのだ。 ――ただ、無垢であるように。 白痴ではなく無垢。ドラゴンの思考を分析できる知識は持ち合わせていても、同調したときに何の混ざり気のない思考を、感情を、ドラゴンから与えられ得られるようにと。 つまりクーはドラゴンになることを強制された。ドラゴンの思考を自分の思考とし、ドラゴンの感情を自分の感情とし、ドラゴンの知識を自分の知識とするように。そうすることでようやく、人形だったソレは一人の存在として羽ばたくことになる。 それが『竜の花嫁』クーヴェルシェン・リアーシラミリィを巫女とし、神であるドラゴンを知ろうとしたベアル教の計画の真相だった。 「生まれてから四年後――今から十年前、ついにその計画が実行に移される瞬間が来ました」 「十年前……『オルゾンノットの魔竜事変』か」 「お察しの通り。あの事件で現れたドラゴンを、ベアル教は『竜の花嫁』の同調対象として選んだんです」 リオンの母親が死んだ事件であり、一つの都が滅んだ事件であり、そしてベアル教が暗躍した事件、『オルゾンノットの魔竜事変』――ジュンタも知識として知るそれに現れた魔竜と、ついにクーは同調することになった。 「ベアルはまずドラゴンが滅せられないように、当時の竜滅姫様だったリオンさんのお母様――カトレーユ・シストラバス様を誘拐しました。それが成功してしまった結果、ドラゴンはオルゾンノットの街を破壊することになったんです。 クーの声に震えが混じる。それはまるで地獄を思い出したかのように。 「結果をいえば、ドラゴンと同調なんてできるはずもなかったんです。あれは人が理解できるものではありませんでした。同調した瞬間、何もなかった私を満たした全ては――」 クーの声が震える。それはまるで地獄が目の前にあるように。 「真っ黒でした。理解できない歪みが、悪意が、全身を侵蝕してきて、人形だった私は壊れました。その瞬間に私は人になって思ったんです。怖い、怖い、怖い、って。 ドラゴンの思考を知ってしまった唯一の少女は身体を震わす。まるで今なお地獄に自分がいるかのように。 ジュンタには、クーがどんなものをドラゴンと合わさったときに見たのか想像もつかなかった。 自分もまたドラゴンであるのだが、きっと根本的な誕生理由が違うのだろう。歪んだ悪意を持つという、人形だったそれを人へと壊してしまった恐怖は想像できない。 しばらく喘ぐように荒い息を吐いていたクーは、爪を突き立てるぐらい強く手を握りしめていた。そうしなければ悪意に溶けてしまうとでも言いたいように、強く、強く。それを握り返すことぐらいしか、ジュンタにはできなかった。 やがて落ち着きを取り戻したクーは、少しだけ手の力を緩める。 「ドラゴンと意志を同調した私は、自分を見失ってしまいました。時同じくして、ドラゴンを拘束してた『狂賢者』の魔法は崩壊し、その結果、ドラゴンは私と同調したまま暴れ出すことになりました」 「ということは、まさか……」 暴れた――それはつまりオルゾンノットの街を破壊したとき、クーはドラゴンとまだ意識を同調していたということになる。 ジュンタは少し考えてから、その恐怖の予想を青ざめた顔で口にする。 「その同調ってのは、どれくらいの同調だったんだ。まさか感覚も――」 「同調していました。全てを。……だから私は、この手で全てを体験したんです。 「…………」 「オルゾンノットの街にいた何百人、何千人という人が死んだ感触を、殺した感触を、私はこの手で覚えているんです。それだけじゃありません。私は、私はその中で喜んでいたんです。人を殺すことを、快楽として笑っていたんです!」 「それは――!」 思わずジュンタは声を張り上げていた。 「それはクーじゃなくてドラゴンの意志だろ? クーが殺したかったわけでも、クーが人を殺したことを喜んでいたわけじゃないんだろ?」 「いいえ、それは違います。私はドラゴンと重なる前には何もありはしなかったんです。だから、たくさんの人を殺したことが、人を殺したことを喜んだ自分が、私の全ての始まりだったんです! 今の私も、これからの私も、遡ればその瞬間から発生した私なんです!」 皮肉のような、自嘲のような、絶望にまみれた返答がクーの口から吐き出された。 「ドラゴンは悪です。私はドラゴンと重なって、それを知りました。そして、やがて同調が解除されたときに私は確かに見ました。神々しい不死鳥が悪であるドラゴンを滅ぼす様を。綺麗だって、なんて綺麗なんだろうって思いました。あれがこの世の正義――悪を滅ぼす善なんだって、そう知りました。 そこから先の言葉を予想できてしまって、ジュンタは聞きたくなんてなかった。 血塗られた上に生まれ、産声は殺戮と共にあった。 『竜の花嫁』クーヴェルシェン・リアーシラミリィ――ドラゴンに捧げられ、そして人の姿をした悪として生まれた少女。
第十五話 告解
その女性は金色の髪と金色の瞳を持っていた。
炎の灯らぬ暖炉と遠くまで見渡せる窓。中央にテーブルを中心として向かい合ったソファーが置かれており、かなりファンシーなインテリアが目に止まる大きな部屋である。
理由は子供のようにかわいがっているクーを任せられる器か、ジュンタを試すために。あるいは嫉妬から来た行動……何の偽りもなく語って、フェリシィールはまた頭を下げた。
目の前の使徒はクーを小さな頃から面倒を見ていた育て親と言っていい人ならば、いきなり現れた自分は娘を横から攫っていった悪漢みたいなものだ。
クーがああなってしまったのは彼女の所為というよりは、様々な要因が重なった所為。そして他でもない、ウェイトン・アリゲイの仕業なのである。彼女を恨むのは筋違いというものだろう。
ただ言ってしまえば、それでも怒ったりしなかったのは、フェリシィールの話よりも気にするべきことがあって、それが大きすぎてそれどころじゃなかったから。
ある意味では最も酷い仕打ちに近いそれを、ただフェリシィールは受け入れ、頭をあげてジュンタの真向かいの席に腰を下ろした。
スイカ様とフェリシィール様のご好意で、クーとジュンタにはありったけの治癒魔法が施されましたが、クーは今も……』
呪い、に近いようです。それも桁外れに強力な。捕まえたウェイトン・アリゲイに治療方法を尋問して尋ね、また『偉大なる書』なるものを調べてはいますが……」
「ウェイトン・アリゲイは頑なに口を割らず、ただ、『どんなに拒もうとも、三日もすれば反転は起きる』とだけ。『偉大なる書』の方も依然として不明のままです。治すことが叶うという薬の正体も、今もって判明していません」
無知なことは罪でなくても、弱いことは罪でなくても、何もできないことは罪なのだ。苦しんでいる女の子を救えないのは格好悪いのだ。
クーを助ける方法。無力で不甲斐ない自分にでも、何かやれることはあるのではないか。それがどんなに難しくても、危険でも、奇跡と呼ばれるようなものでも、存在するなら探し出せ。
その昔、まだこの世界がドラゴンに蹂躙され、人が滅びの淵に立っていた時代。立ち上がった三柱の使徒様は、その圧倒的な力をもってこの世に平和をもたらしました。それはもう魔獣など一蹴するほどの力を持っていたとか」
これらはそれぞれの『始祖姫』様と縁の深い土地にあると伝えられています。つまり『ナレイアラの封印の地』は、かの使徒様が眠られたオルゾンノット。『メロディアの封印の地』ならば『満月の塔』。そして『アーファリムの封印の地』は――」
「言い切りましたね? その聖地を守る使徒の前で、使徒であるあなたが関係ない、と」
同じ使徒でありながら、その背に背負うものの違い。クーだけを選べることが羨ましいと、そう金色の瞳が物語っていた。
『封印の地』と呼ばれるものは、それぞれ神殿によって、今なおその封印を維持し続けている。
あるいはベアル教がしたように、封印無力化の神殿魔法を数十年単位で溜める方法もある。完全解放は難しくとも、これでも数十分の間は孔を開けることができるのだとか。
「もしもの場合なんて考えていませんよ。それはフェリシィールさんもじゃないんですか?」
「もしものことは考えていませんが、必ず起こりうる事態については考えていますよ。先程の言葉、何も全てが全て嘘というわけではありません。確かに『封印の地』を一定解放する自体は難しいことではありませんが、決して何の被害も出ないわけではありませんので」
もし『封印の地』を解放した場合、制御の失敗における封印そのものの崩壊の心配より、ある意味必ず起こるこちらの方が現実的で大変なのですよ」
それでフェリシィールは、最後にそう言った。
◇◆◇
『封印の地』の解放は今夜行われる――そう伝えられたジュンタは、クーの部屋を目指して東神居内を歩いていた。
そこには未だ眠り続けるクーの姿と、その手を傍らで握っているリオンの姿が見つけられた。
それでも、布団の下にはやはりウェイトンの放った反転の呪いが存在している。
それが剣の宿命とはいえ、あなたの使っていた剣を折ってしまったのは私ですし、それにあれは一度ではありますけどあなたに授与した剣ですわ。返されたところで他の騎士に差し上げることなどできませんもの。
飾りになっておくよりかは、あなたのような不埒な輩の手でも剣としての本懐を遂げさせてあげることが、それ即ち竜滅姫の私に課せられた責務であり作り手たちの想いを守る術なのですわ。も、もちろん、それ以外の意図はありませんわ。本当ですわよ?」
リオンは最初からあの剣をくれるつもりで、そのタイミングを見計らうために持ち歩いていたわけだ。…………不器用だなぁ、とジュンタは苦笑するしかなかった。
「紅き剣に騎士の名を――――我らは、真の竜滅紅騎士となる」
シストラバスの騎士の誓いを聞いたリオンが、驚いた顔へと早変わりした。
「あ、いや、おい! ……って、行っちゃったし」
声をあげたクーはベッドの上で、首だけをこちらに向けていた。
ちょっと疲れているが、それでもクーは笑顔を浮かべている。だけど、辛くないはずがない。
ご主人様は約束してくれました。この先何があっても、どんなことがあっても、私を嫌わないでいてくれるって。だから私にも信じろと。ご主人様が好きな私は、きっと素敵な女の子なんだって…………でも、私はあのときご主人様を信じられませんでした。疑ってしまいました。だから、ごめんなさい、です」
自分を苛めたくて、叱りたくて、嫌悪したくてしょうがない私の代わりに、私にオシオキしてください。――私のこと、苛めてください」
◇◆◇
ベアル教の創設者は四人存在する。
一人はディスバリエ・クインシュ。『狂賢者』の名を欲しいがままにした、異端の天才。
もう二人は、共にドラゴン研究の第一人者であったエルフ――アンジェロ・リアーシラミリィと、ターナティア・リアーシラミリィ。
ドラゴンを研究するには、自然の延長である彼らが何を思っているのか、何を考えて行動しているのか、それを知るのが一番の方法なのだと、そう昔提唱していたとおじいちゃんに聞きました」
だからでしょうか。あの人たちは研究のために、ベアル教で悪魔の研究に手を出してしまったんです」
ですが、相手はただの人ではなくドラゴンです。常人ではその思考を理解できない、と言うのが大方の考えでした。
よってベアル教が用意したのは、ドラゴンと同調できるほどの肉体的な器を有し、なおかつ分析に余分な見解をいれかねない私的な思考の介入や、拒絶や拒否をする意志を有していない人の形をした道具だったんです」
クーの真実を知って、だけどジュンタは何も言わない。まだクーの話は続いていた。
『儀式紋』とは、本来儀式場が存在しなければ使えない儀式魔法を、魔法使いの身体そのものに永久的な儀式場を刻み込むことによって、単独で使えるようにするための処置らしいです。本来これは軍の戦力増強策として、ジェンルド帝国が研究していたものなのだとか」
ベアル教は施術に耐えうる実験体として、魔法使いとして高い適正を持っていた子供や、種族的に高い資質を持つエルフの子供を何人も攫い、人体実験を施しました。特にエルフの子供は一つの一族にとって致命的なほどに失わてしまいました。『嘆きのリアーシラミリィ』……子供を攫われて滅びかけているエルフの一族は、現在そう呼ばれています」
そうした血まみれた悪魔の実験の最後として生まれた命が『竜の花嫁』――即ち、二人のドラゴン研究者の娘である、クーヴェルシェン・リアーシラミリィという命。
……いえ、実際は身体なんて大した問題じゃありません。私が犯した罪――それはこの身体よりも、存在自体にあるんですから」
ただ、無垢であるように。一番最初に知ることも、一番最初に感じることも、ただドラゴンのためだけに限定された道具。……私は人ではなく、人形として育てられました」
私がオルゾンノットの魔竜と意識を同調したのは、ドラゴンが街を破壊する少し前のことでした」
私は知りました。感情や知識とは別の次元で、ドラゴンは存在すべきではない悪なのだと。まるでこの世の全てに否定されたかのようなあの恐怖を、私はまだ覚えています」
人を踏みつぶした感触。人を切り裂いた時の柔らかさ。炎によって焼ける肉の臭い。そして喰らった人の味すら全部……」
使徒様が善なんです。使徒様が善。ドラゴンが悪。そして私の全ては、ドラゴンから生まれました。だから私は――」
だけどクーは何の戸惑いもなく、それが絶対だと信じて、そしてはっきりと明言した。
「――私は悪なんです。ドラゴン、なんですよ。ご主人様。私は、クーヴェルシェン・リアーシラミリィは、この世で最も許されない罪そのものなんです……!」
それが今なお少女が自分を嫌い、憎む理由。自分の全ての始まりにあったドラゴンという存在が、悪と断じる存在が、クーが自分を罪人と罵る理由だった。
どれだけ否定しても、悪くないといっても、クーが心の底からそう思っている限り、それは決して消えない名前……