第十六話  君が悪だと言うのなら




 クーヴェルシェンという少女がどうしても自分を許せなくて、好きになれない理由。それを直接彼女の口から聞いたジュンタは、しばらく声を発することができなかった。

 話を聞いて、クーのことを嫌いになったとか、そう言うことはない。
 ただ、それでもその過去の重さに、何も思わずにいられるのは無理だった。

 クーにとっては、この一分一秒の沈黙が酷く長くて辛いことが分かっているのに、それでもジュンタは下手なことが言えない。考えるべきことは一つだけ――それはいかにすればクーに自分の正直な想いを伝えられるかだ。

 生まれたときはベアル教にいて、その巫女であることを強制されたクー。その結果ドラゴンを知り、その手で人を殺したわけではないが、その感覚を共有してしまったクー。罪なんてない。そう、ジュンタは思う。

 けど、クーにとっては違うのだ。誰がなんと言おうと、クーにとって自分は愛すべからざる悪なのだ。

 だから――ここで口にするべきは、その現実の否定ではない。

 クーにとって全ては過去の出来事。今ある自分が過去のソレを始まりとすることを否定したくとも、それは変えることのできない過去の現実なのだ。ジュンタが否定することに意味はない。

 なら、口にするべきことは一体何なのだろうか?

 大切だから。とても大切だから。最もふさわしく、最も想いを伝えられる言葉を探して、ジュンタはじっとクーを見つめたまま黙考する。

 静かな時間を破って、小さく、震える声を上げたのはクーの方だった。

「ご主人様。私は、クーヴェルシェン・リアーシラミリィという巫女はそんな存在です。もし、ご主人様が私を巫女にふさわしくないと思われるのでしたら――

「待て。クー、お前何を言うつもりだ?」

 クーが全てを言う前に、ジュンタは先回りして言葉を止める。

「まさかとは思うけど、自分以外の巫女を探してもいいなんて言うんじゃないだろうな?」

 少し強めの視線を向けると、クーはベッドの中で視線を落とした。やっぱり、予想したこととほとんど変わらない言葉を続けようとしていたらしい。

「……本当に、馬鹿だ。クー以外の巫女を見つけるってことは、つまりクーが死ななきゃいけないってことじゃないか」

 巫女は使徒一柱につき一人。使徒が選ぶのではなく神からのお告げをもってなるもの。故に使徒がそうであるように、また巫女も止めたいときに止められるものではない。唯一の方法は、その命を絶つことぐらいのものだ。

「そんなの絶対に許さないからな。自分は死んでもいいとか、そう言うのは絶対に俺は許さない」

「ですけど、私はこんな有様です。ご主人様の足を引っ張ってばかりです……」

 沈黙に自己否定を刺激されたのか、クーはベッドの中で縮こまる。
 
「きっと私以外がご主人様の巫女に選ばれていたら、こんな無様なことにはなりませんでした。ご主人様の前の巫女だった方も、私みたいなダメダメな巫女ではなかったはずです」

「ちょっと待て。なんだ俺の前の巫女って? 俺の巫女になったのはクーが初めてだぞ?」

「え?」

 そのネガティブっぷりを指摘する前に、聞き捨てならない間違いをジュンタが指摘すると、クーは不思議そうに首を捻った。

「え? でも、ご主人様は今十七歳なんですよね?」

「そうだけど……それがなんで俺に前にも巫女がいたってことに繋がるんだ?」

「それは私に、ご主人様の巫女だという託宣があったのが、半年と少し前だったからです。私の前に、ご主人様が生まれてからその時まで巫女だった方がいたのではないんですか?」
 
 クーの説明に、ジュンタはなるほどと納得する。
 確かに、自分がクーの立場なら同じことを考えたことだろう。

 使徒は生まれながらにして使徒なのである。なら、使徒が生まれた瞬間にまたその巫女も選ばれるということ。クーが巫女となった時期が半年ほど前なら、サクラ・ジュンタという使徒には、生まれた瞬間から十数年の間の巫女がいないとおかしい計算になるのだ。

 そこは変則的に生まれた使徒であるから、本当にクーがジュンタにとっての初めての巫女なのは間違いない。だが、それは説明されなければわかるはずがない。

「私も巫女に選ばれたときには、私の使徒様となる方が生まれたのだと思いました。生まれた使徒様はすぐに聖地へと降誕なされるので、それを待っていたんですが……勘違いに気が付いたのはすぐでした」

 自分が巫女になったのと同時に新しい使徒が生まれたのではなく、すでに生まれていた使徒の巫女に選ばれたのだと、クーが気付いた理由。それは――

「『竜殺し』――一番目のオラクルが達成されたからです。そのとき初めて、すでに自分の使徒様は使徒として行動しているのだということを知りました。
 ご主人様がなぜ、生まれてすぐに聖地に訪れなかったのかは聞きません。ですが、やはり私はご主人様の巫女にはふさわしくないと思うんです」

「なんでだ? 俺にはクーが立派に努めを果たしているように見えるけど」

「本当は私、半年前にはご主人様がどこにいらっしゃったのかわかっていたんです。その時『竜殺し』というオラクルが達成されたのならば、ご主人様は間違いなく『双竜事変』があったランカの街にいる。そう、本当はわかっていたんです。
 でも、グラスベルト王国へは行きましたが、私はすぐにランカの街へと行くことができませんでした。……本音を言えば、怖かったんです私は」

 初めて語られる、クーが一人で旅をしていた頃の気持ち。クーはじっと蒼い瞳で見つめてきて、

「私には勇気がありません。私はご主人様の前の巫女様に劣っている自分が、ご主人様の巫女として選ばれないのではないかと、ずっと不安に思っていたんです。だからすぐにご主人様に会いに行けなくて、たぶんグストの村で会わなければ、ずっと…………」

 消え入りそうな声で話を切り、またクーは先程と同じ言葉を口にする。

「私はご主人様の巫女にふさわしくはありません。私は、ご主人様が嫌わないでいてくれると言ってくださっただけで満足です。ですから、もうここで私を――


「うん。やっぱり、予想通り気持ちいい感触だな」


 フニフニ。フニフニ。ジュンタは掴んでいた手を徐に離し、代わりに両手で掴んだクーの大事な部分を弄くって感嘆の声をあげた。

 聞きたくない台詞をまた吐こうとしたクーは、作戦通りソコに触れた瞬間、思考停止したようにおしゃべりを止めた。パクパクと口を動かして、『あれ? なんだか触られているような……?』みたいな顔をしている。

「よくピクピクって動くからな。つい、目が行ってしまうこともよくあった」

「…………あ、う……?」

「でも、人としてやっちゃいけないことだと思って、ずっと我慢してたんだ」

「………………ご、主人様……?」

「だけど、本当はずっと触ってみたいって思ってたんだ――――クーのこの耳」

「……………………………………あぅ」

 ようやく自分の耳が外側裏側根本先っぽ問わず無造作に触られまくっていることに気付いて、クーが顔を一瞬で沸騰させた。かつてないほどの沸騰といっても過言ではない。

 声も無くし、思考をぐちゃぐちゃにするほどに恥ずかしがるクーの意志に合わせ、ピクピクと耳が動く。

「あ、や……ご主人様……?」

 熱っぽい声で懇願するように呼んできても、これはオシオキなのだからとジュンタは手を止めない。むしろより一層耳に這わせる指を動かし続ける。丹念に。愛撫するように。

(しかしやばいなこの耳は。普通じゃない。肌触りといい感触といい、まるで魔性の感触だ)

「だ、……耳はダメ……です……ご主人様ぁ……」

 クーと出会った当初から、その動く長い耳を触ってみたい衝動に侵されていたわけだけど、さすがに女の子の耳を触ることなんてできないと我慢していた。けど、もう我慢しないと、これまで我慢していた分までジュンタはこの瞬間にぶつける。

「ダメ……本当に、ひゃめ、です……耳だけ、は……!」

 これはオシオキだ。クーが嫌がっているのはわかっているから、これは彼女を苛める行為だ。

 ……考えても、クーに贈るべきふさわしい言葉なんて思い浮かばなかった。

 あまりにネガティブで重くて自虐的なクーの言葉に、ふさわしい言葉なんて考えることができなかった。けど、こっちが必死に悩んでいる時間を利用して、『自分は巫女にふさわしくないから、切り捨ててくれても構わない』と言われるとは思わなかった。

「〜〜、〜〜!」

 ようやく気が付いた。どうして、クーが自分を貶すとこっちまで気分が悪くなるのか。

 クーは自分を犠牲にしようとする。自分が一番悪いことにする。それはつまり、他者の分の悪意まで受け止めることでもある。即ちクーは、人が思い抱いた感情を自分勝手に書き換えているのだ。

「無視、し過ぎなんだよ。クーは」

 耳をムンズと掴んだまま、半ばベッドの上に乗り上がるようにして、ジュンタはクーの瞳を真上からまっすぐ見下ろす。

「心配してるのに、優しくしてあげようと思ってるのに、大切にしたいのに、それを拒絶されるなんて本当に最悪だ。こっちだって考えてるんだ。どうすればクーが自分のことを好きになってくれるか、一生懸命に考えてるんだ。それなのに……最初から無理だって決めつけられたら、必死になってる俺が馬鹿みたいじゃないか」

「ご主人、様……」

 ポタリ、と涙の雫がジュンタの瞳から、クーの瞳へとこぼれ落ちる。

「起きたことは変えられない。過去は変えられない。だから自分はどうしようもなく悪だって、そう言いたいクーの気持ちは痛いほど伝わった。そのことに対してどうすればいいのか、正直俺はわからない。
 けど、だからって、そんな過去があるからってあんな言葉…………そんなにクーが自分勝手にするなら。いいさ、俺だって自分勝手にやってやる」

 クーの耳から手を離して、ジュンタはクーの頬を両側から挟み込む。
 一粒だけ落としてしまった涙の分、ジュンタはもっと自分勝手にクーと接する。

 クーは何を言っても、これだけ言っても、自分を悪だと認識するのを止めないだろう。悪であるドラゴンから全てが生まれた自分を嫌い続けるだろう。なるほど、完璧だ。死角がないくらいの完璧なるマゾヒストだ。救われる道を用意していない。

 なら、それでも救おうと思うなら、後はもう自分勝手にルールを書き換えるしかない。

 過去は変わらないと告げられたなら、そんなこと信じるかと過去を変えてみせればいい。ドラゴンから発生した真実が変えられないなら、クーにドラゴンそのものの認識を変えてやればいい。悪役にだって、格好いい悪役がいることを教えてやろう。

「クーは言ったな。ドラゴンは悪だって」

 これ以上ない真剣な顔と声で、ジュンタはクーに問い質す。
 クーもこれがこれからを決める重要な問いかけだと悟って、嘘偽りない本心で答えた。

「はい。ドラゴンは悪です」

「そのドラゴンから生まれたクーもまた、悪なんだな?」

「はい。私は悪です」

「自分が悪だから、クーは自分を嫌うんだな?」

「はい。私は私が大嫌いです。殺したいほどに憎んでいます」

「そうか……」

 一分の隙もない即答に、呆れよりもむしろ感心が先に出る。

 だからこそ言ってやろうと、ジュンタは思う。だからこの上なく苛めてやろうと、ジュンタは思う。そう、すでにクーに対する最大最悪の嫌がらせとなる切り札は用意済みなのだ。

 火蓋は切られた――――もう、後悔する暇もなく陥れてやる。

「クー、ドラゴンは悪なんだな?」

「はい。絶対に」

「それは全てのドラゴンに該当することか?」

「はい。ただ一つの例外もなく、あれは存在することすら許してはいけない悪です」

「じゃあ、ドラゴンならクーは問答無用で大っ嫌いなんだな? 俺にそう誓えるんだな?」

「はい。ご主人様の名に誓って、ドラゴンがこの世で一番大嫌いです」

「そうか――ああ、その言葉が聞きたかったんだ」

「はい。……え?」

 驚くクーに、ジュンタはニヤリと底意地の悪い悪魔の笑みを浮かべる。

「そう言えば、クーには俺のことについて言ってなかったことがあったな。俺が使徒として、どんな本質を持ってるか」

「本質……ご主人様の神獣としてのお姿のことですか?」

「確認しておくけど、使徒の本質はその神獣としての姿にあるんだよな? 今の人間としての姿は仮初めで、例えどんな神獣としての姿だろうと、使徒の本質はそっちにあるんだよな?」

「えっと、はい……そうです。使徒様は神獣として覚醒したお姿こそその本質です」

「つまり、使徒ナレイアラは人間じゃなくて不死鳥だって、そうことでいいんだな?」

「?? は、い。その通りですが……」

「なるほどな」

 質問責めのあとに、さらには確認だ。クーは律儀に答えてくれるが、さすがに不審気に――いや、不安気に思っているようだった。だが今更遅い。すでに術中に完璧に嵌っているクーは、自らの口で使徒の本質が神獣にあることを認めた時点で、罰ゲーム決定だ。

 ――さぁ、では執行しよう。

 サクラ・ジュンタにとってこれは、自分が人間でないことを自分で完膚無きまでに認めることになるが、何も気にすることはない。それぐらいやらなければ、確定した過去を覆してやることなんてできない。クーは自分を好きになれないのだ。

 過去を変えることと自分を好きになることが同じくらい難しいなんて、本当に不器用。でも、それでもジュンタはクーが大事だと思えたから、苛め抜くことを決めた。

 だって、気付いてしまった。彼女を救えるのは、他でもないクーヴェルシェン・リアーシラミリィ自身しかいないことに。

「俺は一度だけ、前に神獣としての姿になったことがあるんだ」

 ジュンタはぐっとクーの顔に自分の顔を近づけて、間近から囁く。

「それは大きくて、真っ白で、背中に虹の翼を背負った、金色の双眸を持った獣だった」

 この辺りで、賢いクーなら気が付き始めるだろう。

「その姿になったのは、他でもない。一番目のオラクルを行ってたときだ」

 半年ほど前――『双竜事変』の現場に自らの使徒がいることを知っていたクーなら、事件の詳細を知らないはずがない。故に、虹の翼を持った純白の獣を知らないはずがないのだ。

「俺はその姿になって、ドラゴンを倒した。だから俺は、一番目のオラクルを達成できた」

 ゴクリ、とクーが息を呑んだ。

「なんで同じ場所に二匹もドラゴンが現れた? 俺はどうやってドラゴンを倒した?」

 大きく目が見開かれて、長いまつげが震えている。
 きっと、ずっと気付かないよう目を逸らしていたことを、クーは直視してしまったのだろう。

 つまり、本来一匹しか現れないはずのドラゴンが二体現れ、互いに戦い合った理由。
 つまり、一番目のオラクルを達成したならドラゴンを倒していないといけないこと。
 つまり、あの時あの瞬間に『不死鳥聖典』でドラゴンを倒したのは誰かということ。

「まさ、か……ご主人様の神獣としてのお姿は……」

「ああ、そうだ。俺の神獣としての姿は――

 そして。と、ジュンタは唇を動かして、ドラゴンを悪だと断じるクーにはっきり告げる。伝える。己の存在を。


――ドラゴンだ。だから、ドラゴンこそが俺の本質だ」


 理解できない。したくない。信じられない、という顔をするクーに、ジュンタは笑みを浮かべた表情を変えずに言い続ける。

「俺はランカの街に現れた二体目の、白鱗虹翼のドラゴンの方だよ。使徒がたとえ善の象徴でも、本質が神獣にあるのなら、俺はクーの理論なら悪の象徴ってことになるな。絶対に。
 つまりクーが悪だと言うのなら、ドラゴンが悪だと言うのなら、俺だって悪だ――俺こそが悪だ」
 
 微笑みを向けてクーに同意を求める。だが、クーは固まったまま動かない。

「巫女が悪なら、またその使徒も悪ってことか。いや、待て。巫女が使徒に仕える従者なら、俺は悪であるクーのさらに悪の親玉ってことになるな、うん」

「…………………………ぇ? あ、ち、違います! ご主人様はあくまでも神獣としてのお姿がドラゴンだと言うだけで……え、本当なんですか? 本当にドラゴンがご主人様の神獣としてのお姿なんですか!?」

「本当だよ、紛れもなく俺の神獣としての姿はドラゴンだ。クーも『双竜事件』のことを調べたなら、少し考えればわかるはずだ。白いドラゴンは虹色の魔法光を操っていた。俺もだ。武競祭の時『竜の鱗鎧ドラゴンスケイル』と魔力が共鳴したのだって、俺がドラゴンだったからだ」

 ジュンタは唖然としつつも、受け入れつつあるクーの顔を見て、ベッドから降りて立ち上がる。

 右手で首の後ろに触れ、わざとらしい声をあげた。

「あ〜いや、しっかしショックだな。まさか俺、そこまでクーに嫌われてるとは思ってなかった。存在の全否定だからなぁ〜」

「なっ!?」

 聞き捨てならない言葉に、クーは反転の呪いに冒されているのも忘れ飛び起きる。

「私、嫌ってなんていません! ご主人様はこの世で一番大事な人です!!」

「いやいや、いいよ別にフォローしなくても。ドラゴンってだけで問答無用に嫌いなんだろ? この世で最も嫌いなんだろ? そう、俺は確かにクーが誓ったのをこの耳で聞いた」

「…………」

 クーがベッドの上にへたり込み、口をパクパクと開け閉めする。自分がはめられたことにようやく気が付いたようだ……今更気が付いたところで後の祭りだが。

「少なからず俺としては好かれてる自信があったんだけどな。いやぁ、勘違いか。これは恥ずかしいな、俺。痛々しいな、俺」

 ジュンタはクーに背中を向けつつ、ゆっくりと部屋の扉へと向かう。

「俺みたいな奴がいたらクーも心が休まらないと思うから、もう行くな」

「…………待って……嫌、ですっ……それを否定されたら、私……いやっ、待ってください!」

――いや、待たないよ」

 振り返って、ジュンタはクーに無情に突きつける。
 例え今更否定しても、懇願する声で呼び止めても、一度吐いた言葉は口の中には戻らないのだと。

「俺はドラゴンで、世界で一番クーに嫌われてる。クーが変わらない限り、ドラゴンを好きにならない限り、自分のことを好きにならない限り、それは決して変わらないことだ」

 クーは言った。ドラゴンのことが嫌いなのだと。なら、もはやこれは決定したことだ。

 ジュンタ・サクラはクーヴェルシェン・リアーシラミリィに世界で一番嫌われている。その事実を前に、果たしてクーと一緒にいることなどどうしてできよう?

「クーが俺のことを大嫌いでも、俺はクーのことが大好きだからな。なら、クーの優しさには甘えられない。だから俺は待たない。もう、行くんだ」

 呆然と涙を流すクーの胸から下を包み込む、蠢く黒い呪い――それを一瞥してから、ジュンタは口端をクッと吊り上げた。

「そうだ、早く行かないと。俺は大事な奴に世界で一番嫌いってまで言われて、はいそうですかなんて言えない。そのままになんてしておけない」

 これまでとは違う言葉に、クーの視線がこちらに寄越される。その目に微笑みかけて、

「俺のことが大嫌いなら、それはそれで受け入れる。でも、そのままで終わらせることは許さない。
 今嫌われてるなら、明日には好かれてやる。今嫌いなら、数分後には好きにさせてみせる。精々ドラゴン全てが悪じゃなく、中には俺みたいないい奴もいるってことを証明して、格好いいところ見せつけて、二度と嫌いだなんて言えなくさせてやる」

 ジュンタ・サクラはクーヴェルシェン・リアーシラミリィに現在嫌われている。でも、この先ずっと嫌われ続けるなんて誰が決めた?

 決まってなんていない。現在も未来も、そして過去だって不確定だ。だから――


――大好きにさせてやる。絶対に、クーヴェルシェン・リアーシラミリィはサクラ・ジュンタを好きになる。その時はもう二度と、自分ドラゴンの全てが嫌いだなんて言わせない」


 変えられることを証明してやろう。今は大嫌いな相手を、大好きにさせることによって。過去は現在の認識の変化で変わるのだと、そう教えてやろう。

「ご主人様……」

 名前を呼んでくるクーに再び背を向け、剣を手に取り、ジュンタは最後にその言葉だけを残して部屋を後にする。

「なら、まずは好きになってもらうために命を助けさせてもらおうかな。クーにとって俺は諦められる一時の相手みたいだけど、俺にとって巫女は過去現在未来永劫、クーしかいないんだから」

 パタンと扉を閉じる。そしてジュンタは決意の声で呟いた。

「何て拒否されても関係ない。俺の自分本位な我が儘で助けてやる――絶対に。クー、お前は死なせない」






       ◇◆◇






『封印の地』の解放のときである夜まで、一瞬のことのように思えた。

 ジュンタは聖殿騎士団の方から貸し出された白銀の軽装を纏い、同じく白銀の鎧を付けたリオンと隣り合って立っていた。

 頭上に月を仰ぎ、耳に清澄なる水の音を聞くその場所は、アーファリム大神殿の神居の中央。聖地の水源である噴水を囲む、広々とした中庭であった。

 二人の他にも、その場には使徒フェリシィール・ティンク。そして彼女の部下と思しき白銀の鎧をつけた屈強な騎士たちの姿があった。

「まず、最初に言っておきます」

 噴水の前に立ったフェリシィールが、静かな声でジュンタとリオンに話しかける。

「『封印の地』へと繋げる孔を開いていられる時間は二時間ほどしかありません。それ以上は封印そのものに綻びを生じさせる恐れがあるためです。それと同じ理由で、一度使えば一週間の間は封印に孔を開けることは無理になります」

「つまり、二時間で薬を見つけて、戻ってこないといけないわけですね?」

「はい。『封印の地』の地形は、この聖地と変わらないと聞きます。薬がある場所までの距離を考慮してみれば、さほど難しいことではないと思われます。魔獣の襲撃がなければ、の話ですが」

「安心してください。遭遇したら全力で逃げますから」

 腰に吊った剣の柄を握って、ジュンタは強く頷く。

 それを呆れた風にリオンが見て、

「何を言ってますの? 『封印の地』の中は魔獣しかいませんのよ? 逃げる先逃げる先に魔獣がいるに決まってますわ。よって、力技で中央突破するのが一番ですわよ」

「一々戦ってたら、それこそ時間が足らない。強引に中央突破するよりも、出来るだけ敵を回避した方がいいだろ?」

「いいえ。私でしたら、全力で走りつつ敵を倒すことが可能です。あなたは私が切り開いた道を追っていけばいいのですわ」

「そう言えばリオンはもう、一回『封印の地』に入ったんだったな。なら、リオンの言うことに従うべきか……」

「ええ、その通りです。安心なさい。私だって、何を第一に優先するべきは分かってますもの。二度も失態は冒しませんわ」

 すでに握られたドラゴンスレイヤーを、さらに強く握ってリオンは微笑む。その頬は戦場へと向かう高揚で赤らんでいた。

「わたくしは正直、お二人が『封印の地』に向かうことは反対なのですけど……今更何を言ってもお聞きになってはくださらないようね」

 フェリシィールの言葉に、ジュンタとリオンは揃って頷く。

「わたくしは『封印の地』へと続く孔を安定させるために、一緒に中へと入って手助けすることが叶いません。ですからこれだけは言わせてください。何よりも、まずご自分の命を一番優先してください」

「はい。その御言葉、しっかりとこの胸に刻ませてもらいます」

「絶対に薬は持って帰りますから」

 しっかりと言葉を受け止めたリオンに続いて、少しだけぼかしてジュンタも頷く。

 頷き返したフェリシィールは、次にその場に揃っていた騎士隊――使徒フェリシィール聖猊下近衛騎士隊の皆に声をかける。

「皆さんもよろしくお願いします。お二方が戻られるまで、しっかりと孔を守っていてください」

「はっ、この命に代えましても!」

 隊長である男性騎士が、胸のシンボルに手を当てる礼をして、己が主に誓いを立てる。

 傍目から見ても強そうな近衛騎士隊の彼らも、一緒に『封印の地』へと突入する。しかし彼らも一緒に薬を探すわけではない。

 大人数で行動を共にした場合、『封印の地』の中でかなり目立つことだろう。戦力的にはあがるが、下手をしたら最悪の敵を招きかねない恐れがある。そのために、実際に薬を探すのはジュンタとリオンの二人だけ。少人数で敵に見つからないように行くことになっている。

 近衛騎士隊に課せられた任務は、向こう側で孔付近を死守すること。薬を手に入れて帰ってきても、元の世界に戻るための孔の周りにうじゃうじゃと敵がいたら堪らない。それに加え孔を死守することは、孔の通じてこちらに魔獣が侵入するのを防ぐことにも繋がる。

 これは一応秘密裏の作戦だ。

 フェリシィール曰く、現在神居には色々と決まりに口うるさい使徒ズィールはおらず、半ば無理矢理に西神居の中に押し込められているらしいスイカは黙認しているという。だから大丈夫と言えば大丈夫なのだが、穏便に済むならそれに越したことはない。

「さて、それではそろそろ始めましょうか――あら?」

 噴水へと身体を向き直ったフェリシィール。戦場へと続く門が開かれる噴水をジュンタとリオンの二人は見て、しかしフェリシィールが突如上げた声に、視線を彼女が視線を向ける方角へと向き直した。

 そこには突然現れたかのように見えた、ローブ姿の男性の姿があった。

「主」

 フェリシィールのことをそう呼んだ男性は、見たことのない金髪碧眼の男だった。
 年齢は二十代前後ほどにも見えるし、ともすればそれよりも若く見える。しかしその放つ雰囲気は老成した人間のソレであり、なおかつ声には深みが感じられた。

 右目を隠すように撫でつけられた前髪。髪の色は金髪でかなり整った容姿をしており、フェリシィールと同じく人とは思えないほどに神秘的な印象を受ける。その特徴的な耳の形に気付くのは、一頻りその容姿に目を奪われてからだった。

「あ、この人エルフだ」

 男性の長い耳に気付いたジュンタが呟きをもらすと、間髪いれずに横からリオンのひじうちが襲ってきた。

「なに、するんだよ?」

「失礼ですわよ。あの方はルドーレンクティカ・リアーシラミリィ様。つまりはフェリシィール聖猊下の巫女でいらっしゃりますわ。口のきき方には気を付けなさい」

「あの人がルドールさん? つまり、クーのおじいさんか」

「そう言えば、そうですわね」

 戦いに行く前から一撃もらってしまったジュンタは、横腹を押さえつつリオンと一緒にエルフの男性――ルドーレンクティカ・リアーシラミリィことルドール老を見る。

「ルドール。あなた、具合は大丈夫なの?」

「ええ、もうほとんど問題ありません。いえ、あったとしても、孫の危機にこれ以上黙って眠ってはいられませぬ」

 フェリシィールの許へと歩み寄ったルドールは、クーの祖父と聞けば納得できて、納得できない相手だった。

 そう知ってから見てみると、異様に若々しい。雰囲気は老人のソレに見えるも、その風貌はおじいちゃんと呼ばれる相手とは思えない。もっとも、エルフは長命という話。若く見える彼も、その口調と雰囲気に見合った年齢の可能性は十二分に考えられるが。

 二三、使徒と巫女の間で言葉が交わされ、その後ルドールはジュンタへと近付いていく。

 近くで見ると、その長身と雰囲気から圧倒されるが、ジュンタはそれよりも、彼は[召喚魔法]で縁あるフェリシィール以外をたくさん喚び出した所為で倒れていると聞いていたので、突然姿を現したルドールの思惑の方が気になった。

「失礼。ジュンタ・サクラ聖げ……殿ですな?」

「はい。俺がジュンタです。ルドールさんですよね? クーの祖父の」

「ええ、そうです。儂の名前はルドール――ルドーレンクティカ・リアーシラミリィと申します。孫がお世話になっております」

 さん付けでルドール老を呼んだことに、リオンが隣からきつい視線を送ってきたが、それは気にしない方向で。一応敬語は使っているが、やっぱり様付けは厳しい。
 ルドールも気にしてはいないようなので……むしろなんだか、向こうの方が様付けで呼びたそうに見える。さすがはクーの祖父。礼儀正しいお方のようだ。

「ジュンタ殿、そしてリオン殿。まずはお二方に謝罪を。儂の力不足により[召喚魔法]で多大なご迷惑をおかけしてしまったことを深く謝らせていただきます。申し訳ない」

「そんな、お気になさらずルドール様。私は気にしていませんし、この不埒者に至っては謝罪する必要すらありませんから」

「待て。何を勝手に人の――

「うるさいですわよ! さぁ、ルドール様、お顔をあげてください。ご安心を。あなた様のお孫さんにかけられた呪いは、私が必ず解呪しますので。あなたは自分の身体をご自愛ください」

 なんだか憧憬の眼差しでリオンはルドール老を見る。

 ……これはあれか。使徒ズィールの時もそうだったが、リオンは下手に高い位にあるから、自分よりも上の地位にいる男性に憧れていたりするのか。使徒のズィールはともかく、ルドール老は位でいけばリオンと同じぐらいだが、そこは年齢差だろう。

「それは頼もしい。儂はせめて、主のお手伝いをしようと思っています。――どうか、クーヴェルシェンのことをよろしくお願い致します」

 きっとそのためにこの場所に来たに違いない。
 頭を下げたルドール老の言葉には、万感の想いが込められていた。

 少しはしゃいでいたリオンは、そのルドール老の気持ちを察して、静かに頷く。

「はい、お任せを」

「必ずクーのことは助けて見せます」

 ルドール老は頭をあげて、じっとジュンタを見た。

「……あの子は、本当に素晴らしい人と巡り会えたようだ。ジュンタ殿。末永く、あの子を使ってやってください」

「はい。俺はそのつもりです。もちろん、一緒に楽しむ方向で」

 ルドールに対し頷いて、そしてリオンに顔を向ける。
 互いに頷き合って、フェリシィールへと視線を送った。

「ルドールが手助けしてくださるなら、開いた門付近の魔獣はわたくしが一掃しておきましょう。――準備はよろしいですね? お二方」

「はい」

「いつでも」

「それでは――始めます」

 噴水へと歩み出たルドールと共に、フェリシィールは『封印の地』へと開く孔を穿つための詠唱を始めた。

「これは……?」

 澄んだ歌声が耳から入り、脳内を揺さぶっていく。それは魔法の詠唱を聞いて起きた、初めての感覚だった。

 フェリシィールの詠唱の声は、綺麗な歌声であること以外は耳に残らない。
 見ればそれはリオンも同じようで、半ば放心したようにフェリシィールの歌声を聞いていた。

 恐らくこれは、フェリシィールの放つ強大な魔力の所為なのだろう。
 大きな魔力は共鳴をしやすいのだという。使徒という規格外の魔力を操るフェリシィールの魔力が、知らずこちらの魔力に刺激を与えているのだ。

「すごいですわ。これがフェリシィール様のお力……」

「使徒の持つ並はずれた魔力。その、完全に制御された形か」

 フェリシィールが手を伸ばした噴水の水面が、ゆらゆらと光り輝きながら波紋を打っている。それは湧き出る水の中に、彼女の声が魔力と共に混ざり込んでいくような感覚。それに加え、フェリシィールとは反対方向から噴水へと手をかざすルドールにより、痛いほどに圧迫感を与えてくる魔力は、静かに統率されていく。

 二人が二人とも、肌で重さすら感じられるほどの魔力を、難なく制御している。両者ともが凄腕の魔法使いであることは、疑う余地なくジュンタには理解できた。

「ジュンタ。『封印の地』への孔が開きますわよ。突入する準備はよろしくて?」

 リオンのその言葉の通り、噴水の水は聖地の各地へと続く水路に流れ出ることなく、その場でどんどんと水位をあげていく。それは噴水の限界を超えてなお、高く伸び、水の柱となって天高く伸びていった。

 水の柱が頭上高くにあった、四つの塔から伸びる空中通路の合流地点である部屋へと到達する。

 直後――フェリシィールとルドールの詠唱すら掻き消す、耳障りな音が響き渡った。

「『封印の地』へと、孔が開く」

 それは空間が裂ける音。閉じたものを強引にこじ開ける音。
 断末魔に似た響きがあがると共に、水の柱が真ん中から二つに裂けていく。完全に裂かれた柱は噴水と天井だけで繋がり、正円に近い輪の形へと流動する。

 本来は向こう側が見えるはずの輪の中――そこには向こう側の風景の代わりに、永遠と続く荒野の姿と、夥しい量の魔獣の姿が垣間見られた。

愛すべき生命の水よ あらゆる万物の浄化を果たせ
 
 その魔獣が、次の瞬間フェリシィールが放った水属性の魔法により一瞬で洗い流される。

 境界面を見つめるフェリシィールの金色の瞳が怪しく光ったと思ったら、鉄砲水のような聖水の濁流は『封印の地』に叩き込まれ、魔獣を呑み込んでいた。一体どこから生じたのか、瞬間的にフェリシィールが生み出した水の量は、小さな湖一つ分の貯水量に匹敵していたように見えた。

 感心すべきは、それがあくまでも解放の術式を支える片手間に近い行使であったことか。
 すぐに噴水に向かって、ルドールと共に魔力を注ぎ込み続ける作業に戻ったフェリシィールは、一蹴した孔付近の様子を見て、指示を飛ばす。

「総員突入!」

「総員突入!!」

 前もって命じられていた通り、フェリシィールの近衛騎士隊が呼応の声を出して、躊躇することなく出来上がった門を潜り抜ける。

 まず彼らが入り口付近と薬への道を死守してから、ジュンタとリオンは飛び込む手はずになっている。そしてそのタイミングは、ついに来た。

「行きますわよ、ジュンタ!」

「ああ!」

 先に飛び出したリオンに僅か遅れる形で、ジュンタは『封印の地』へと繋がった門に向かって駆ける。耳に、フェリシィールの声が届いた。

「御武運を。必ずお戻りください」

 その言葉に背中を押される形でジュンタは孔を潜り、『封印の地』へと着地を果たす。

 クーを救うため――ジュンタはリオンと共に、立ち止まることなく走り出した。






「ジュンタ・サクラ聖猊下……どうやらクーヴェルシェンは、良き主に巡り会えたようですな」

「ええ、本当に」

 開いた孔を、それ以上開かず閉じずに固定する。それに全神経のほとんどを費やしつつ、フェリシィールは噴水の反対側で自分と同じ状態の――しかし自分よりも余裕そうな――己の巫女ルドールと言葉を交わす。

(どうやらルドールには、わたくしの強がりがお見通しだったようですね)

 当初の予定では自分一人で、この『封印の地』への孔を安定させるはずだった。それはジュンタたちに説明した話よりも、実を言えばもっと難しいことだった。

 元より、精密な魔力の調整が苦手な使徒である。
 あまりにその身に内封する魔力が膨大のため、小手先の微調整をするのには向いていないのである。逆に、大放出の大破壊が使徒というのは得意なのだ。

 開かず閉じず、決して揺るがない『門』の固定――この魔力制御の極みともいえる作業を、ジュンタとリオンが戻ってくるまで安定させ続けないといけない。これは並の高位の魔法使いでも不可能に近い芸当で、使徒の中ではエルフであり魔力の調整が上手なフェリシィールといえど、困難極まりない作業だった。

 それでも他でもない娘にも等しき少女のため、そんな少女を助けてくれる優しい少年少女たちのため、がんばると決めた。二時間やり遂げる自信はあった。

 そこにはちょっとの強がりが含まれていたわけで、それは他の誰かは騙せても、百年以上も一緒に在った巫女はどうやら騙せなかったらしい。

「ありがとう、ルドール」

 孔を開く術式の中でも、難しい部分を補ってくれている最高の相棒に、フェリシィールは信頼と愛情を込めた微笑みを向ける。

 それに美貌の老人は片目を閉じて答える。

「お気になさらず、我が主よ。元よりこの身はこうすることこそが本領でありますからな」

「ふふっ、あなたらしいお返事ね」

 顔色一つ変えず、額に汗一粒浮かべることなく魔法を制御するのは、さすがは魔法の制御に関しては最高難度と言われた魔法――[召喚魔法]の権威とされる魔法使いである。やはり自分よりも、遙か高みにおいて魔法を操っている。

「さぁ、では二時間、あの方たちを信じてわたくしたちのするべきことをいたしましょうか」

「クーヴェルシェンの奴は、ジュンタ様たちに任せるしかありません。あの方にできないのでしたら、他の誰にもできないでしょうな。縁とはそう言うもの。使徒フェリシィール聖猊下には、少々気にくわないお話かも知れませんが」

「あら、もう醜い嫉妬などしていませんよ。わたくし、使徒と巫女との関係になることと、わたくしの娘がお嫁に行ってしまうのでは、まったくの別問題だと思うことにしましたから」

「よい心がけです。どちらにせよ、そう変わらぬ話ではありますが。
 さて、では次は、ジュンタ様方にご迷惑をかけたことに対する誠意を見せる方法を考えるべきですな」

「確かにそれは重要ですが、少々気が早すぎるのではないでしょうか? それよりも武運を祈っていた方がよろしいのでは?」

「何をおっしゃられますか。ご自分でもわかっていらっしゃるのでしょう? 彼らは絶対に、無事に帰ってくると。予言とは別の、若者に見る可能性という形で」

 見た目は非常に若いルドールが、そんな孫に期待する老人のような言葉をいうのが少しだけおかしかった。実際彼には孫がいて、年齢的にいえば全然不自然ではない言葉なのだが。ただちょっとアレなのは、こちらまで年老い扱いしたことか。

「わたくしまであなたと一緒にされたのはこの際置いておいて、そうですね、必ず帰ってくるジュンタさん方に謝る方法は考えておくべきかも知れませんね」

 何せ元々の発端は自分にある。特にジュンタに与えた肉体的・精神的苦痛はかなりのものだ。謝って済むような話ではないが、それでも謝る以外に方法がないのも事実。必ず彼らが無事に帰還するものと信じて、謝罪の形を考えてみようか。

「とはいえ、どうやったらわたくしがしたことを少しでも謝罪の形にできますでしょうか? 恥ずかしながら、わたくしには自分のしたことに比する謝罪の在り方に見当がつきません」

「ふむ、そうですな。妥当な線でいえば、ジュンタ様を聖地に招くことを保留することですかな」

「聖地に招くことを、保留……?」

 困った主の様子に答えた従者は、深く頷く。

「どうやらジュンタ様は、使徒としてこの聖地で生きることを躊躇われている様子。使徒であるならこの地に降誕せねばならない決まりですが……主以外の使徒様はジュンタ様が使徒である事実を知りませぬ。ここは彼の意志を尊重し、主が黙っていれば大丈夫でしょう。まぁ、となるとクーヴェルシェンの奴も聖地からずっと離れることになりましょうが、そこは我慢ですぞ。主」

「そんなっ!? クーちゃんとまたずっと別れて暮らすだなんて……これが、神がわたくしに与えたもうた試練なのでしょうか?」

「そんなオラクルは、儂は知りませんが」

「冗談です。ですが、そうですね。ジュンタさんがそうしたいとおっしゃられるなら、わたくしは何も見なかったことにするとしましょう。彼は真実、クーちゃんを導いてくれる使徒であったようですから」

 どうしようもなく我が儘で自分勝手な使徒とは思えないほどに、彼は自分の巫女を大事にしていた。まるで『神の座』を諦めた使徒のように。

「では、これで許されるとは思いませんが、これからはせめてジュンタさんが自由に生きられるように取りはからいましょう。そうした方が、クーちゃんがジュンタさんと結ばれるのも簡単かも知れませんしね」

「こんな時に、またそのようなご冗談を」

「あらあら、冗談ではありませんよ。あなたはまだ、ジュンタさんとクーちゃんの二人の様子を直に見ていないからわからないかも知れませんが、あれは本物です」

「ですが、主も先程、主従の関係とそう言った関係は別物であると――

「別物ですよ。あの二人は、使徒と巫女だからああなったとはいえません。それは切欠に過ぎず、ああなったのは二人の性格故になのでしょう。ですから別物であると同時に、きっとそんな熱々な関係なんですわ。素晴らしいことに」

「つまりは……いえ、憶測に過ぎないのでしたら、これ以上は口にしないでおきましょう」

「まぁまぁ、うふふっ」

 ちょっと祖父として複雑な気分になったようなルドールを見て、フェリシィールは笑い声が零れるのを我慢できなかった。

「……何を笑われておるのです? 笑い事ではありませんよ?」

 憮然とした表情となったルドールが、その時口元に少し意地悪な笑みをたたえた。そして、まったく予想もしていない台詞を口にする。

「もしもクーヴェルシェンがそうなったら、我が聖猊下は娘に先を越されてしまうことになるのですからな」

「…………」

 ルドールの言葉に一度きょとんとし、その後フェリシィールは無言でサーと顔から血の気を引かせる。

 聖母のような顔を、父親のような相手からの一言で、傷ついた曇り顔へと変えた。

「そ、それは言わない約束ではありませんか!? わ、わたくしだって好きで独り身なのではありません! ええ、いいご縁がありましたら今からでも全然遅くは…………なんでしょう? その目は。例え齢百を超えているとしても、わたくしはエルフにしてみればまだまだ小娘もいいところです! わたくしがまだウェディングドレスを着たいと思っていてはいけないと言うのですか!?」

「くっくっく、いやはや、未だに乙女ですな主。クーヴェルシェンに負けぬよう、この老骨に二人目の孫の顔を見せていただきたいものです」

「でしたら、使徒の名に怖じ気づかない益荒男を連れてきてください。あなたが探してくるお見合いの相手は、誰も彼もがわたくしを化け物のように見るんですから」

 ぷいっと他の誰かには見せない、他の誰かがいたら見せられない子供のような仕草で、フェリシィールはルドールから顔を背ける。

 噴水の向こうから笑い声で聞こえて、ぷくぅとフェリシィールは頬を膨らまし、視線を少し空へと向ける。


「あ」


 そこでフェリシィールは、今まさに西神居の塔からダイブしようとしている使徒スイカと視線が合った。

 一瞬思考が停止する。だって、まさか神聖なる神居の塔の壁に紐を結びつけて、ターザンロープの要領で地上に降りようとしているなんて…………数秒経って、彼女が何をしようとしているか理解してなお、呆然としてしまう。

「し、しまった! ヒズミ、フェリシィール女史に見つかってしまった!」

「何やってるんだよ姉さん! ああもうっ、だから僕は止めようって言ったんだ!」

「今更喚いても仕方ない。昨日に引き続き、説教を帰ったら甘んじて受けよう。さぁ、跳ぶぞ!」

「うぎゃー! だから僕は跳びたくないぃィイ!」

「あ! こらっ、何をしているのですか?!」

 大声で言い争いをするスイカが、己が巫女ヒズミを脇に抱えて、思い切り塔の出っ張った部分の上を、ロープを持ったまま走っていく。

 フェリシィールは慌てて制止の声を投げかけるも、スイカは無視して走っていく。

 そしてジャンプ――

「ひぃいいいいいぃい!」

 ヒズミの悲鳴が響き渡る中、神居の外側にある礼拝殿の方へと大きく跳躍したスイカの身体が、塔に結ばれたロープによって、ある一定の場所まで行った後グルンと逆方向へと移動を始める。

 最初は無断行動をした罰として謹慎を命じた――無論同じ使徒なので命令ではなくお願いと言った方が正しいのだがオホホ――ため、脱走しようと試みているのかと思ったが、フェリシィールはすごい勢いで自分のいる方へと迫ってくる二人を見、彼女たちの目的が何にあるかにすぐ気付く。

「いけません! 戻りなさい使徒スイカ! 巫女ヒズミ!」

「残念ですけど――

 ロープの端から手を離したスイカが、ロープを使って、本来なら届かない塔から神居の中央までのジャンプを成功させる。

 手に『深淵水源リン=カイエ』を構えたスイカは、ヒズミから手を離し、彼と一緒に噴水へと飛び込む放物線を描き、

――わたしだって、責任の一端を感じているんです」

『封印の地』へと、二人一緒に飛び込んで行ってしまった。






       ◇◆◇






 やけに気分が悪いと、そう思ってソレは再び瞼を開けた。

 前に瞳を開いたときからどれくらい経ったか分からないが、それほど経ってはいないだろう。世界を満たす騒がしい空気は、今なお獣たちが騒ぎ立てる空気を孕んでいる。

 ただ、前と少し違うのは、世界を変質させる空気の中にどこか見知った空気があることか。

 その空気――自分とどこか似ていて、だけどまったく違う。
 
 それがなんであったか……千年前に置いてきて、今はもうよく思い出せない。
 分かっていることは一つだけ。ソレを思うと、どうしようもなく気分が悪いということだけ。

 殺せ。

 ころせ。

 コロセ。

 頭に響くのは、本能が響かせる殺意の衝動。己の証明である、殺意を許可する獣の雄叫び。

 自由になりたいのならソレを殺せ。
 やり直しを欲するのならソレをころせ。
 我が身の運命を呪うのならソレをコロセ。

 今更自由もやり直しもどうでもいい。我が身など呪われ過ぎて嗤いすら込み上げる。もはやかつての激情は胸になく、空虚だけがそこには詰まっている。

 ……ああ、だけど。少しだけ興味があった。

 殺すべき相手が、殺したかった相手が、一体なんであったか。忘れているなら思い出したい。

 あるいは忘れていると思いこんでいるだけで、本能はソレの下へと向かう理由を、殺したい理由を覚えているのかも知れない。だからこの身は実行しようとしているのか。

 ずっと横になったままだった身体を起こし、折りたたんでいた翼を広げ、漆黒の魔力で世界を侵し、鮮血の瞳を憎悪で染める。それの何と心地良いことか。何もかもを忘れ去り、一匹の獣として蠢くことのなんと甘美なことか。

――久しく忘れていた感覚だ。その名、果たして一体なんと言ったか』

 気が付けば、どこかに取りこぼしていたはずの言葉が口からもれていた。

 どうやら自分は、人の言葉ではないがしゃべることができたらしい――それに千年近く気付かなかった自分を嘲り嗤って、今、終わりの魔獣は漆黒の雄叫びを灰色の空へと放つ。









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