第二話 巡礼者の道
[召喚魔法]という儀式魔法は、非常に繊細な制御が必要とされる魔法である。
一応これを使えるクーではあるが、魔道書や誰かのサポートなしでは成功率は五割を切る。それは実質[召喚魔法]を使えないと言ってもいい。
細心の行使が要求されるこの魔法の失敗は、単純に魔力の霧散では終わらない。
行使者と召喚対象の両方に、縁を通じて同時進行で効力を及ぼす魔法だ。即ち、失敗した場合行使者側は魔力の霧散とオーバーヒートで済んでも、召喚対象の方はそうはいかない。
相手を自分の許に喚び出すのだ。召喚対象を、現在位置から距離を隔てた場所に喚び出すのだ。
召喚対象を捉えることができないという失敗はいい。が、もし召喚対象を喚び出す手順はクリアし、その次の行使者の許に喚び出す段階で失敗したならどうなるか…………考えたくもない。
考えたくもないが、もしそうなったなら……
「ご主人様……リオンさん……」
物の少ない懐かしき自分の部屋の窓辺から外を眺めながら、クーは巻き込まれてしまった二人を思い、涙する。
[召喚魔法]の失敗は、相手をこの世のどことも分からない場所へと召喚してしまうことになる。
それが地面の近くならいいが、上空、地中の中、建物の壁の中などに無差別召喚だ。過去何人もの人間が、この失敗により突然に帰らぬ人になっているという。そしてジュンタもリオンも、そうなっている可能性があるのだ。
「ううん、大丈夫です。ご主人様とリオンさんなら、きっと」
聞いたところ、行使者の許までは運べなかったが、限りなく近くには召喚できたという。あの人は召喚師で最高と言っていい人だ。大丈夫。二人は死んでいない。大事な主は死んでいない。
死んで――
「っ!」
手のひらと接触していた窓が、凍りついて砕け散った。
ハッとなって後ろを振り返れば、半ば凍りついた自分の部屋が見て取れる。ぬいぐるみも本も、枕もシーツも何もかもが霜を被って凍りついている。どうやら魔力が制御できないほどに情緒不安定になっているようだ。こんなの、本当の久しぶりのこと。
「…………ご主人様……」
できることなら今すぐにでも探しに行きたい。召喚したい。でも、あの人は一人ではない。リオンと一緒にいるのなら、召喚することもできない。自分では二人の召喚なんて真似ひっくり返ってもできない。下手を踏めば、それこそ大惨事に繋がってしまう。
今は頼るしかない。例えそれが、こうなった原因の一端を作った人に頼ることだとしても。
クーは割れた窓の向こうに広がる蒼穹の下にある街並を、じっと凍りついた表情で思う。
白亜の都。水の都と讃えられた都。聖神教の総本山にして聖地――ラグナアーツ。
生きているに決まっている人を探しながら、クーは静かに考える。
もしも、もしも万が一にも、億が一にもあの人が死んでしまったならば…………果たして、自分はそうなった原因を許せるのだろうか、と。
◇◆◇
取りあえずジュンタは、自分が何かしらの事件に巻き込まれたら、ひとまず神様を恨むことにしている。
異世界の神様であるマザーを、もうボロクソに恨むのである。
それは精神安定剤であり、事件を解決してやる、反抗期を迎えてやるという、決意のための一種の儀式。
「……神様なんて大嫌いだ」
そんな現状の肯定を行った後、ジュンタはむくりと身体を起こす、
「つぅ!」
すると尋常じゃないレベルの筋肉痛が全身を襲ってきた。
全身がつったかのような痛みだ。涙が出るほどに痛い。咄嗟のこととはいえ、武競祭でのダメージが完全にはなくなっていないのに、あとリオンにタコ殴りされ、エルジンに稽古という名の拷問を受けた後での[稲妻の切っ先]は自殺行為に近かったか。
だけど仕方がない。クーが攫われそうになっているの見て、焦らずにいるのは無理だった。
「……一体何がなんなんだか」
エルジンと無理矢理に剣一本での鍛錬をさせられたあと部屋に戻ろうとしたとき、白いフードとローブで姿を隠した謎の変人と遭遇した。しかもクーがそいつに捕まっていて、しかもリオンは剣まで抜いて応対していた。
敵であることはすぐに分かった。敵の目的がクーにあることも、だ。
理由は分からないけれど、取りあえず最速で突っ込んでいって…………でも、助けられなかった。ジュンタの近くに、クーの姿はなかった。
「くそっ! あいたたたたッ」
思い切り握り拳を作ったことにより、筋肉が張って全身に痛みが。まったくもって情けない。本当に情けないが……ここで終わってやる道理はない。
「待ってろよ、クー。必ず助けてやるからな」
さっきはダメだった。なら次だ。勝つまで諦めなければいいだけのこと。どこの誰が何の目的でクーを攫ったのかは知らないが、自分のすることは敵を倒して、大事な女の子を助け出すだけのことだ。
ジュンタは決意して、痛む身体を堪えて起きあがる。
「さて、まずは現状把握か。ここはど〜こだ?」
両脇を広大な森に囲まれた街道らしき場所だ。きちんと道は舗装されており、小高い山の途中のよう。
そんな場所に一人だけ。異世界の地理に疎いジュンタには、ここがどこだか検討もつかない。
(あれは召喚だよな? なら、街道に落ちただけ運が良かったって思うしかないか。街道の先には街があるはずだし)
問題はどっちの道の先にクーがいるかだ。
ジュンタは両側を丹念に観察する。ある意味、ここでの選択がクーの命運を分けると言っても過言ではない。よって勘以上に頼るものはなかった。
クーは巫女。彼女との間には、何よりも深い縁の糸がある。
今は分かたれていても、きっと勘が告げる方向に彼女がいると信じている。
「よしっ、決めた」
近くに落ちていた『英雄種』の剣を手にとって、痛む身体に鞭を入れてジュンタは歩き始める。
目的地はクーの許。そして――
「で、お前もどこに行ったんだよ? リオン」
――起きたとき隣にいなかった、リオン・シストラバスも探さなければ。
リオン・シストラバスは流されていた。
どうやら敵の[召喚魔法]によって喚び出された先が、川の中だったらしい。現在、上流から下流へと流されている途中である。
かなり幅広の川のようだが、決して川の流れは速くない。
それでもリオンが泳いで脱出できないでいるのは、一重に身体がまったく動かないからだった。
(あの、女……一体どんな毒を付加させましたのよ……?)
ぷかぷかと川の流れに身を任せて浮きながら、苦々しげな顔でリオンは空を見仰ぐ。
どこまでも広がる蒼穹。燦々と輝く太陽。キラキラと輝く水面と、そこに広がる紅の髪……そう情緒深くいってしまえばのどかな光景だが、実際水は冷たいし、下手に力を入れたらおぼれかねないし最悪だった。
リオン・シストラバスともあろうものが、まさか川に流される羽目になろうとは――痺れて指先一つ動かすのも億劫の状態でも、リオンは口端を吊り上げて引きつった笑みを浮かべる。
「許しません、わ。どこの誰だが知りませんが、私にこのような仕打ち……報復決定ですわあぶっ!」
下手に身体に力を入れたために、リオンは重心が崩れて水の中へと沈んだ。
ただでさえ体脂肪が少ない上、剣一本持っている。これで浮かび続けるのは、身体が動かない現状かなり厳しいのである。
(くっ! まさかここまで計算していたと言いますの!?)
浮かぼうとするほどに身体は沈んでいく。
このままでは溺れる。そう分かっていても、浮かばない理由である剣を手放すことはできなかった。
別にこれは母の形見であるドラゴンスレイヤーではない。シストラバスの騎士に渡される、レプリカであり別物のドラゴンスレイヤーだ。リオンの愛剣というわけではない。
だからこそ、手放せないと言っても良かった。
このドラゴンスレイヤーは、一度は他者の手に渡った代物。それを自分の一存で捨てることなどできようはずもない。
(溺死なんて無様な死に方、絶対にするものですか!)
必死に足を動かし、水底を蹴ってリオンは顔を水面に出す。
やはり川の上流だ、なかなかに水深は深い。幸いなのは水が綺麗なことか。口に入ってきても不快には感じなかった。
あっぷあっぷと空気を求めながら、リオンは流されていく。
誰かの魔法の所為だけではなく、水の冷たさで指先の感覚がなくなってくる。
剣を握る握力が弱まってきて、するりと大事な剣が手から滑り落ちてしまった。
「待っ――」
落ちた剣に慌てて手を伸ばしたリオンは、下手に身体を捻ったために、何とか水面に顔を出すことができていた足をつってしまう。
藻掻くようにリオンは今度こそ完全に溺れかけ、
「おいっ!」
剣のためにと伸ばした手は、その剣をあげたかった少年の手によって握り返された。
「ああもうっ、本当に。次から次へと!」
街道の脇の森がなくなって、代わりに川が見えたところで水を飲もうと足を向けたジュンタの視界に、想像を絶する光景が流れ込んできた。
見知った紅い髪と瞳をした誰かが、上流から流されてきたのである。
しかも溺れている…………何の冗談かと思った。
だけどリオンが溺れているのは冗談でも何でもなくて、即座にジュンタは剣を放って川に飛び込み、彼女の手を掴んだ。
「おいっ!」
「ジュ、ジュンタ……!」
「大丈夫か? 岸まで行くから暴れるなよ」
ギュッとリオンを抱き寄せて、ジュンタは水をかいて岸まで戻る。
リオンは言われたとおり暴れることはなかったが、岸まで連れて行ったとき、川の中を指差して叫んだ。
「ジュンタ! 川の中にドラゴンスレイヤーがまだ!」
「なにぃ!?」
リオンが指差して必死に言葉にしたドラゴンスレイヤーとは、彼女の母親の形見の剣である。放って置けない代物であり、ジュンタは慌てて川に戻った。
筋肉痛絶賛持続中の身体で泳ぐのは最高にきつかったが、リオンのためだと必死で前に進む。水底に沈んでいたドラゴンスレイヤーを鞘ごと掴み、這いずるように岸へとあがったときには、水分補給が必要ないくらいに水を飲むことができていた。
「ゲホッゲホッ! あ〜、死ぬかと思った」
「大丈夫ですの?」
「なんとかな。ほら、お前の剣だ。母親の形見なんだろ? もう手離すなよ」
「あ、いえ、これはお母様の形見のドラゴンスレイヤーではなくて…………っ!? は、早く渡しなさい!」
岸の砂利の上に座り込んだリオンにドラゴンスレイヤーを差し出すと、彼女は奪い取るように掴んで胸に掻き抱いた。
それは本当に大事そうにする仕草で、ジュンタは良かったとリオンの隣で息を吐き出す。
息が整ってきた辺りで、ジュンタは濡れてしまった服が肌にくっつくのを感じつつ、放り出した自分の剣を取りに行き、それから座り込んだままのリオンに意外だと声をかけた。
「しかしリオン、お前実はカナヅチだったんだな」
「なに言ってますのよ? この私が泳げないはずないでしょう?」
胸に剣を抱いたままのリオンは頬を赤らめて、
「さっきのは偶々ですわ。あのクーを攫った魔法使いが、私に身体を麻痺させる魔法を使った所為ですもの。本来ならば、このような川ぐらい逆に遡ることもできましてよ」
「クーを攫った魔法使い……そうだ。結局なにがあったんだ? クーを攫った奴は誰なんだ? 何でクーを攫ったんだ?」
「ちょ、近付いて来るのではありませんわ!」
クーの情報を求めリオンに近付くと、彼女はさらにきつく剣を掻き抱き、顔を真っ赤にして怒鳴りつけてきた。
どういうことだろう? クーのことを訊くのは当たり前だし、どうして近付いちゃいけないのか…………あれか、まだこの前のことを怒っているのだろうか? それとも今度こそ本気で嫌われちゃっているのありましょうか?
困った風にジュンタは首の後ろに手を触れる。そこに濡れた髪と服の襟の感触があったことで、どうしてリオンが近付いて欲しくないかを察した。
「まさか……」
先程から剣をずっと抱きしめているリオン。それは剣を大事に思っている行為のようにも見えるが…………なるほど、胸を剣で隠すためでもあったのか。
ジュンタがそうであるように、またリオンも全身を濡らしていた。しかも今日のリオンの服は白い薄着の服で、下の肌の色が分かるほどにぴったりと肌に張り付いている。
剣ごと自分の身体を抱きしめて、大事な部分だけは隠しているリオン。長い髪は彼女の額や頬、口元に張り付いて、顎の下からは雫がポタポタと落ちている。こんな姿をきっと水も滴るいい女というのだろう。
リオンは視線を恥ずかしそうに下へと向けていた。
微かに震える肩が、紅い髪が張り付いた白いうなじが、桃色に色づいた頬がなんとも色っぽい。
「これは……まずいな。ものすごく」
ゴクリ、と思わずジュンタは喉を鳴らしてしまう。
その音を聞いて、リオンは視線をジュンタへと合わせて怒ったような、恥ずかしそうな声色で訴える。
「あ、あまり見ないでもらえます?」
「わ、悪い!」
いつもとは違う少し弱々しい声音のリオンに、ジュンタは慌てて後ろを向く。
そのままの状態で、一つジュンタはどうしてもリオンの姿を見て気になったことを口にした。男として、それだけは口にしなければいけなかった。
「なぁ、リオン。一つ訊くんだけどさ」
「……何ですの?」
「お前もしかして――――下着付けてなぐわはっ!」
後ろから思い切り鞘込めの剣が飛んできて、後頭部を強襲する。
「ば、ばばば馬鹿ですかあなたは?! ななななに破廉恥なことを堂々と質問してますのよ!?」
「だ、大正解でした、か……」
ジュンタはリオンの怒りを超える羞恥の気配に、やはり自分の目は間違っていないと確信すると共に、前のめりになってその場に倒れ伏す。願うことなら瞼に焼き付いた姿を忘れないように、と祈りつつ。
◇◆◇
森で拾ってきた木の枝に何とか魔力を集中し、スパークを起こして火を付ける作業に移って五分――ようやく木々にたき火程度の火を点すことができた。
上半身裸のジュンタは集中によって掻いた額の汗を拭い、視線を向けることなく背後にいるリオンに話しかける。
「何とか火はついたから、これで服と身体を乾かしてくれ」
「わかりましたわ。…………言っておきますが、先程のように不埒な真似をしたら……」
「しない。覗かないって」
なぜならば、後頭部がもし覗いたときの末路を数百分の一の痛みとして教えてくれるから。
いや、この痛みを味わってでも男として突貫したい気持ちはあるが、それで嫌われるのはさすがに最低過ぎる嫌われ方なので遠慮しようと思う。
ジュンタはリオンに背を向けたまま火の近くを離れ、近くにあった大きめの岩に腰掛ける。
背後でゴソゴソと音がする。きっと脱いだドレスを火にかざして乾かしているのだろう。それ即ち今のリオンの格好は、渡した学生服のカッターシャツ一枚ということに……
(間違いなく、リオンは服に線が出るからとかの理由で上の下着をつけていない。つまり今のリオンは下着一枚にカッター一枚…………やめろやめろ想像するな俺っ!)
せめてリオンに渡したのがカッターシャツではなく学生服の上着だったなら、そこまでの破壊力はなかったのだろうが、如何せんいきなりの召喚だ。その前も唐突のゴッゾによる拉致だ。上着を着ていなかったし、持ってなかった。
これを考えると、実際そういう方面だけの理由ではなく、まずい。
パチパチを焼ける木の枝の中には、湿っているものもあった。つまりは昨夜雨が降って濡れたということだ。少なくとも、この場所はそれほどレンジャールとは離れていない可能性が高い。
しかし、それでも位置の特定ができないのは事実。この状態で自分の持っている物といえば剣一振り。ある意味最もありがたい所持品だが、他には一切持ち物を持っていない。お金もだ。
リオンもまた同じ。一枚のドレスと剣だけ。
今日のリオンの服装には装飾品がないために、金目の物は一切ないということになる。
(どうする? 実際問題、どうやってクーを探せばいいんだ?)
世界は広い。恐らく、こうして自分とリオンがここに召喚された手前、クーが連れ去られた先もこの近くだと思われるが、そこが街ならどうやって探せというのか?
地道に探すよりかは、リオンに頼んでシストラバス家の騎士団を動かしてもらった方がいいのかも知れない。少なくとも、頼まなくてもリオンは手伝ってくれるだろうが……
「ねぇ、ジュンタ」
そうこうこれからについて考えを巡らしていると、リオンが突然話しかけてきた。
「なんだ? 火が消えたのか?」
「いえ、火が消えたのではなく……ジュンタ。あなたも濡れたのでしょう? そんなところにいないで、火の近くに寄った方がいいのではありませんの?」
「そりゃ、その方が助かるけど。お前が嫌だろ、それは」
「構いませんわよ。あなたが私の方をジロジロ見ないというのならば、許可してさしあげますわ。
そもそも、あなたが濡れた原因は私を助けたからですもの。それなのにあなたを邪険して風邪でも引かれたら、それこそ私はシストラバス家の恥さらしですわ」
「そこまで言うなら、まぁ、お言葉に甘え――」
ジュンタは岩から降りて、心を落ち着かせて火の方を――リオンがいる方を向く。
そこにあった光景に思わず回れ右をしたくなるのを我慢して、極力リオンの方が見ないようにして、火の傍に近付いた。
「…………」
無言で背中から羽織ったカッターシャツの前を掻き合わせているリオン。ジュンタとリオンの身長差は十センチほどしかなくて、無論服の裾はリオンの全てを隠せるほど長くない。
掻き合わせた胸元は見えなくても、正直、一瞬目に飛び込んできた真っ白な太股を包むガーターベルトだけで、意識が飛びかけた。あのまま背中を向けていたのと、リオンを見ないようここで火にあたるのでは、その実拷問度はこちらの方が上なのではないだろうか?
(落ち着け。落ち着けサクラ・ジュンタ。お前はラッシャとは違う。女の子相手にそんなケダモノみたいな視線は向けない奴だ。オーケー?)
スーハーと自分に言い聞かせてから深呼吸をして、ジュンタはさも意識していない風を装った。
「リオン、平気か? クーを攫った奴に何かされたとか言ってたけど、気分とか悪くないか?」
「大丈夫ですわ……と言いたいところですけど、正直結構辛いですわね。身体がだるく、動きませんし。無理して動いたために悪化させてしまったようですわ。今しばらくは動けそうにありません」
「なら横になってた方がいいんじゃないか?」
「馬鹿なこと言わないでくれます? こんな姿であなたの目の前で眠るなんて、襲ってくれと
言ってるようなものではありませんの」
視線をリオンに移すことなく、たき火の炎の揺らぎを見続けているジュンタだったが、睨みつけられているのは気配として分かった。
そして、リオンの言葉にはっきりと否と言えない自分がいた。
今の格好のままリオンに無防備に眠られたら、理性が保っていられるか甚だ不安である。少なくとも、リオンのことは決して嫌いではないがために。
「なら、しばらくここで休憩するしかないか。服が乾くまでは動けないし」
「ですけど、早くクーを救出に向かわないといけませんわ。こんなところでグズグズしている暇などありませんわよ」
代わりにそう言葉を返すと、リオンは焦ったような声を出す。
「私の目の前でみすみす攫わせてしまいましたのよ。なんとしてでも、私の手で助けださなければなりませんわ」
「俺だってそうだ。俺だってクーを助けられなかったんだから。けど、焦ったってしょうがない。今は下手に動くよりも、相手のことをここで話し合った方が賢明だ」
「それはそうかも知れませんけど……」
攫われたクーのことを思うと、リオンは居ても立ってもいられないのだろう。それはジュンタもまた同じだった。
クーは優しくてしっかりもので、でも甘えん坊で泣き虫だ。
いきなりどこかに連れて行かれて、酷い目に遭ってないだろうか? 助けてと、そう泣いてはいないだろうか?
「クーは必ず助け出す。それは絶対だ。だからこそ、今は冷静にならないと」
リオンに言っているようで、それは自分に対する言葉。
クーのことを考えるとはらわたが煮えくりかえるぐらい、犯人が憎たらしく思えてくる。
そんな状態では、いい考えなど浮かぶはずもない。努めて意識をクールダウンさせなければならなかった。
「まずはリオン、お前が知ってることを教えてくれるか?」
「と言っても、私にもなにが何だがさっぱりですわ。クーと一緒に屋敷の庭にいたら、突然あの怪しい女が現れてクーを拘束しましたのよ。恐らく、今の私と同じような状態にクーもされていたのでしょうね。激しく暴れることもできなかったようでしたわ」
「敵は女だったのか。それで、どうしてクーを攫ったのかとか、そう言うのは分からなかったか?」
「分かりませんわね。あの女がクーを最初から狙っていたのはまず間違いないですけど、理由は推測もできませんわ。クーが攫われる理由でしたら、私より彼女と長くいたあなたの方が知っているのではなくて?」
「クーが攫われる理由か……」
正直、そう言われてもこれだという考えは浮かんでこない。
クーを攫った相手は奇襲とはいえ、二人を圧倒した魔法使いであるらしい。
実質まだ二月ほどしかクーと一緒にいないジュンタには、そんな相手から彼女が狙われる理由に見当がつかなかった。
「……悪い。俺にも分からない」
「どうしてです? クーの家族関係などから少しぐらい推測できませんの? あなたたち、ずっと一緒にいたのではありませんの?」
「いや、クーと出会ったのは一月とちょっと前だ。それから今日までの一月ぐらいの間ずっと一緒にいたけど、詳しい素性とかは聞いてない。クーはエルフで魔法使いで、聖地に住んでいて、おじいさんが聖神教の偉い人で……後は優しくて危なっかしい奴ってことくらいか」
「そう。クーとあなたは、昔からの知り合いというわけではありませんでしたのね」
そう呟いたリオンが、どこか安堵していたように見えたのは気のせいか――微妙に横道に逸れ始めた話をジュンタは戻す。
「クーを攫った奴が使ったのは、俺が思うに[召喚魔法]だと思うんだけど……」
「ええ、それは間違いありませんわ。クーもそう言っていましたし。どうやら私たちは、あの女を召喚しようとした誰かの[召喚魔法]に、付随物としてここまで連れてこられたようですわね」
「俺が聞いた話だと、召喚できるのは行使者に最も縁深い一人だけって話だけど?」
「私もそこまで知っているわけではありませんけど、常識的に考えて、何も相手を召喚したからといって、その相手は全裸で召喚されるわけではないのでしょう? 着ている物、持っている物、それらも一緒に召喚されるはずですわ。
でしたら、それら付随物に近くにいた人間が該当してもおかしな話ではありませんわ。もちろん、縁のない相手を喚び出すんですもの。私たちがクーと別々に召喚されたように、召喚師の許に全員召喚するのは難しいようですけど」
「……それってつまり、俺らは地中の中とか、上空とかに召喚された可能性もあったってことじゃないか?」
「運が良かったのですわ。感謝なさい。あなたがこうして生き長らえているのは、幸運な私が傍にいたお陰でしてよ」
「まぁ、感謝はしとくよ。俺が幸運か不幸かはさておいて、召喚された先でまた裸の誰かを押し倒してたら冗談じゃないからな」
何かとトラブルに遭遇するのは、ある意味運がいいのではないか? 悪運とか、そっち方面に多大な効力を発揮する運だろうけど。
「まぁ、それは置いといて。とにかくクーが俺らの近くにいないなら、クーはその召喚した奴のところにいると思って間違いないな」
「まず間違いありませんわね。そしてその召喚師は、恐らく私たちともそれほど離れていない場所にいるはずですわ。ちょうど街道ですし、近くには街があるはず。敵もクーもそこにいると考えていいでしょう」
「それじゃあ後は、どっちの方角に進めばいいかってことだな。リオンはここがどこだか分かるのか?」
「愚問ですわね。伊達に川に流されていたわけではなくてよ。流された間見た景観から考えるに、ここは――」
リオンはその名を教えることが誇らしいことのように、その都の名を呼ぶ。
「――聖地ラグナアーツ。その近くの街道である『巡礼者の道』に間違いありません。ならば向かうは川の下流ということになりますわね」
聖地ラグナアーツ――その名をジュンタも聞いたことがあった。
「聖地ラグナアーツ。聖神教の総本山か……」
「そうですわ。使徒様が住まう世界の中心地。白亜の都、水の都と讃えられし美しい都ですわ」
(使徒。俺以外の使徒がいる都か……)
ジュンタは眼鏡の奥の、黒いカラーコンタクトで隠している金色の瞳のことを考える。
使徒とは聖神教のトップであり、この世界で最も高い地位にある神獣だ。
聖地ラグナアーツは使徒たちが集い、そして人を導く行いをする中心地なのである。
そこにクーがいる。そのことにジュンタは薄ら寒い運命を感じずにはいられない。
使徒である自分が、巫女を追って聖地に足を踏み入れる。それが偶然など、誰が一体考えられようか。ちょうど三番目のオラクルを終了させた段階だ。四番目は未だ聞いていないが、それがこの件に関係していないとは決して言い切れない。
(俺だけならともかく、クーやリオンまで巻き込んで……)
マザー――異世界の神に、ジュンタはさらなる恨み辛みをぶつける。
「どうしましたの? ジュンタ。そんな怖い顔をして」
「いや、別に。なんでもない」
「そうですの。では、それでは目的地も決まったことですし、さっさと向かうとしますわよ!」
「おわっ!」
いきなり立ち上がったリオンを見て、ジュンタは慌てて背中を向ける。
彼我の関係上、座った自分から立ったリオンは決して見てはならない。セーフ。セーフだった悲しいが。
「きゃっ! ……み、見てませんわよね? 見てたらその目潰させていただきますけど?」
「ワンテンポ遅れてるな、おい。そして怖いから、その笑顔は止めろ。見てないから。……でも、出発するにもまだ服も乾いてないんじゃないか?」
「ある程度乾いたなら問題ありませんわよ。一番大事なものを前にして些事を気にするほど、私は器は小さくありませんわ。そのまま背を向けてなさい。すぐに着替えますから」
そう言われたあとすぐ、パサリと今までリオンが着ていたカッターシャツが頭の上に被せられる。少しだけ湿ったそれは、しかし炎の暖かさかリオンの人肌の温かさか、ある程度乾いていた。
ジュンタはカッターシャツをリオンに背中を向けたまま着る。
聞こえてくる布切れの音は聞こえない振りをして、リオンから許しが出るまでそのまま待つ。
「もうこちらを見てもよろしいですわよ」
「了解」
やがて許しを得て、ジュンタも立ち上がって振り返った。
しっとりと髪こそ濡れているも、リオンの服は肌が透けない程度には乾いていた。ちょっと残念だなんて思っていない。直視できるようになって万々歳だ……残念じゃない。ないったらない。
「なに寂しそうな顔してますのよ? さっさと行きますわよ」
リオンはあれほどがんばって付けた火を豪快に足で踏み消すと、さっさと街道へと出て、川の下流目指して歩き出してしまう。こちらが付いてくることを確信した、振り返ることのない足取りで。
「元気だな、あいつは」
その後をジュンタは半年前のように少し遅れて追う。
……思えば、リオンとこうして歩くことを、自分は夢見てこの世界にやってきたのだった。
そのことを思い出し、リオンに気付かれないように小さく笑い、ジュンタは痛む身体に活を入れ、リオンに追いつくために駆け足となった。
◇◆◇
勇んで歩き始めたのはいいが、少し見通しが甘かったよう。
聖地ラグナアーツへの道のりである『巡礼者の道』が、険しい道で知られていることを実際味わうことで思い出しながら、リオンはそれでも平気な振りをして歩いていた。
ラグナアーツは神聖大陸エンシェルトのちょうど大きくえぐれた中央に位置している。
北西南の三方を山々に囲まれ、東には海があり、さらには河川の集合場所に存在している都だ。
聖地ラグナアーツは国ではなく、聖地と呼ばれる土地の名称である。
しかし、ある意味では使徒を王とする国と言っても間違いではない。そう考えれば、聖地ラグナアーツの街は五つあることになる。
元々街らしい街は聖地の中央であるラグナアーツしかなかったが、そこへと赴く巡礼者たちが集って、それぞれ聖地までの道の手前に街を建設したのである。東西南北に建設された聖神教の信者たちの街を、それぞれこう呼んでいる。
北巡礼都市ノース・ラグナ。
東巡礼都市イースト・ラグナ。
西巡礼都市ウエスト・ラグナ。
南巡礼都市サウス・ラグナ。
これら四つの巡礼都市は、聖地の外部にあって聖地ではなく、しかしこれら四つと中央のラグナアーツそのものを含めて、人は聖地と呼ぶ。
真の総本山であるラグナアーツも、それぞれの巡礼都市に住む人から少しばかりとはいえ税を取っている。これは建前はどうあれ、四つの巡礼都市を聖神教が容認していることに他ならない。
恐らく、今自分たちがいる場所は、四つの巡礼都市のどれかからラグナアーツまでを結ぶ『巡礼者の道』のいずれかだとリオンは考えていた。
本来なら巡礼都市から山一つを超えなければラグナアーツにはいけない。海から回る方法も川を下っていく方法もあるのだが、聖地への巡礼者が一番多く取る道は、やはり山越えの道である。
現在位置は山道の下り坂の途中だ。ならばラグナアーツにも近いだろうと思ったのだが……それでも遠い。
いや、実際には歩き始めて一時間も経っていない。この程度の道程で、騎士リオン・シストラバスが疲れるはずないのだが……それでも疲れてしまっているのは、クーを連れ去った魔法使いの残した魔法の影響が残っているからだった。
(身体を動かせる程度には回復したと思ってましたけど、動かしたら動かしたで辛いですわね)
荒い息を極力隠して、リオンは長い下り坂を歩いていく。
いつもと違って身体が恐ろしく怠く感じる。持ったドラゴンスレイヤーが、とても重く感じる。
辛い――一言で言ってしまえば、リオンの状態はそれだった。
(あとどれくらいで、ラグナアーツに着きますの?)
いつもは馬車を使っている上、坂道の途中に放り出されたのだ。あまり風景も変わらず、実際どれくらいかかるまでは分からなかった。遙か下の方にそれらしき影が見えないこともないが……分からない。巡礼都市からなら、坂を上るので一日。下るので一日ほどかかるのだが。
もしも、あと数時間も歩くというのなら。それは今のリオンには不可能に近かった。
どうしようと思いつつ、リオンは後ろを歩くジュンタを一瞥する。
手に剣を持った彼は特に問題なく歩いている。そんな彼の手前、弱音など吐けるはずもなかった。
「なぁ、リオン。お前、もしかして疲れてるか?」
だからいきなりそんなことをジュンタから尋ねられ、リオンはガクリと膝をやってしまった。
「おっと!」
転ぶ、と思った瞬間には、リオンはジュンタに後ろから抱きかかえられていた。
川で助けてもらったときのように後ろから抱き留められて、そのまま立ち上がらせられる。ありがとう――そう言う前にリオンは困り果てる。
(どうしますの? 私が疲れていること、これでは誤魔化せないではありませんの)
膝をガクリとやって転びそうになるなんて、足を動かすのも難しいほど疲れているということだ。それを目の前でやってしまった手前、疲れていることを隠し通すのは難しい。リオンはじっと見つめてくるジュンタの顔を見返すことができなかった
「馬鹿だな、まったく」
ジュンタの一声は、そんなちょっと怒った声。
呆れられた、とリオンは落ち込みかける。格好悪いところを見られた、と自分を情けなく思う。
「馬鹿。どうして辛いなら辛いって言わなかったんだ?」
「え?」
顔を上げると、まっすぐに瞳を向けて怒っている、ジュンタの顔を見ることができた。彼は怒っていた。だけどそれ以上に心配しているようだった。
ジュンタはスタスタと目の前まで歩いてくると、背中を向けてその場でしゃがみ込む。
「ほら」
なんてことを言う彼が一体何を望んでいるかは一目瞭然だった。
「だ、大丈夫ですわ! おんぶなどされなくても問題ありません! 私、何時間でも歩けますわよ!」
「それ、お前のその剣に誓って真実だって言えるか?」
「うっ……!」
痛いところをついてくる。騎士たる者、剣に対して嘘はつけない。
背中を向けてしゃがみこんだまま、ジュンタは顔だけ振り向いて苦笑を浮かべた。
「別にお前が弱いわけじゃない。今日は偶々あんなことがあって調子が悪いんだ。そんなときに誰かを頼らなくて、一体いつ頼るんだよ? ほら、乗れって。誰にも言わないでおいてやるから」
「う、うぅ〜」
ジュンタの言うことは全てが全て至極真っ当のことで。しばしリオンはためらった後、
「…………………………重いとか抜かしたら承知しませんわよ」
そう一言悔し紛れの言葉を言い残したあと、ゆっくりとジュンタの背中に触れた。
「了解。あ、悪いけど剣持っててくれるか?」
「分かりましたわ」
リオンはジュンタから剣を渡され、それを持っていたドラゴンスレイヤーと束ねて持って、もう片方の手で肩に捕まる。
こうして実際に触れてみると、やはりジュンタも男だ。比較的華奢だが背中が広い。
そこに自分の身体を――しかも胸をつけるのはとても恥ずかしいが、これ以上迷惑をかけるのは竜滅姫の沽券に関わるため我慢する。
(せめて下着をつける服にしてこれば良かったですわ)
ギュッとジュンタの背中に負ぶさったリオンは、顔を真っ赤にしたまま持ち上げられた。
「それじゃあ行くぞ。しっかりと掴まってろよ」
「そっちこそ、途中でへばったりなどはゴメンですわよ?」
「……善処する」
リオンが照れくささを誤魔化すために激励すると、ゆっくりとジュンタは歩き出す。
太股へと回された両手の感触に、リオンはふいに思い出した。
そう言えば以前、ジュンタにお姫様抱っこをされたことがありましたわね、と。
身体がきついのを我慢していたリオンを強引におんぶする形となったジュンタは、悶えていた。
別にリオンが重いわけではない。
持ち上げたばかりの今でこそ少しの重みを感じるも、徐々にリオンへと不可視の虹が侵蝕し始めている。これがリオンの身体全てを覆えば、その体重は感じなくなる。
なら何に悶えているのかと言うと、正直に申してしまえばリオンはノーブラなのである。
おんぶだと無論背中に胸が当たるわけで……薄い生地一枚越しにそれの感触が分かってしまう。
決して大きいとはいえないリオンの胸だけど、やはり信じられないくらい柔らかい。
胸だけではなく身体全体が柔らかくて、しかも首元にかかる息づかいが妙にくすぐったくてどうしよう?
後ろに回して彼女の身体を支える手は、張りのいい太股をドレス越しに触れているし……なんだか先程から拷問の連続である。
だけど、今更降ろすことなどできない。
(がんばれ、俺。負けるな、俺。きっと聖地は俺を待っていてくれるから!)
だって言われてしまった。途中でへばったら怒られてしまう。
正直全身筋肉痛に加え、魔力を微量とはいえ使うのは堪える。さっきまでだって歩くだけでかなり辛かったのだ。
だけど男の子ですから、ジュンタは弱音なんて吐けなかった。
体力的には三時間も歩けたら万々歳だろう。だけど、気力で言うならば永遠にだってリオンを負ぶって歩いてみせる。
(さて、がんばりますか)
ジュンタはそう誓って、上り坂と同じくらいきつい下り坂を下っていく。
あとどれほどあるか分からない――聖地ラグナアーツへの道程を。
◇◆◇
西の方へと徐々に太陽がかげっていく。
二度の休憩を挟んで約四時間近く歩いているのに、森に阻まれ聖地の姿は見つけられない。延々と続く川のお陰で喉こそ渇かなかったが、なかなか辿り着かない。
でもジュンタの背に掴まるリオンは、聖地に着かなくてもいいかもですわ、なんて思っていたりした。
もちろんクーは救いたいし、迷惑をかけないようにというならば、早く聖地には着いて欲しい。しかしそれは、こうしてジュンタに背負われていることが終わってしまうということでもある。
あれから四時間――未だ身体の調子は万全とはいえない。
この様子だと恐らく一日ほどは不調にするほどの魔法だったのだろう。
最初こそそのことに心痛めて、ジュンタの背におぶさることに罪の意識を感じていたのだが、それを越えるとある感情が今では心の大多数を占めていた。
大きな背中。温かな肌の温度。吹く風に赤く染まった炎のような夕陽――なんてロマンティックなんですの、とリオンは思う。
辺りに人気は全くない。これまでにも誰かとすれ違うことはなかった。
そこから考えるならば、この道は聖地の北巡礼都市ノース・ラグナからラグナアーツへと続く『巡礼者の道』なのだろう。ジェンルド帝国と面するノース・ラグナからは、あまり巡礼者が訪れないと聞いている。
(人のいない道に二人だけ……)
どちらともなく無言でいる中、重なった影を見てリオンはクスリと笑う。
なんだかとっても幸せ。なぜかは…………うん、知らないが。
いつまでも続いて欲しいと思ってしまう。ゆっくりと歩き続けるジュンタも、また自分と同じことを思っているのかも知れない――なんてことをリオンは考えて、緩みそうになる口端を必死で我慢する。
――そんな風に考えて、そう考えた自分を蹴り飛ばしたいほどリオンが後悔したのは、それから三十分ほど後のことだった。
最初にリオンがジュンタの変調に気が付いたのは、一時間近く彼が無言を貫いたことに対して疑問を抱いたからだった。
(……さすがにおかしいですわね)
てっきり自分と同じように無言でいることを楽しんでいるかと思っていたが、さすがに一時間近く無言なのはおかしい。ここまでの道程で、何かとしゃべりかけてきた彼だけに、さすがにここまでの無言はおかしい。
そう思ってジュンタを観察してみると、その息づかいもかなり激しいのが分かる。ぽたり、ぽたり、と頬を伝って顎を落ちていくのは、大粒の汗だった。
「……ねぇ、ジュンタ。あなたもしかして疲れてますの?」
「ん? ああ、さすがにここまで歩いてきたら、そりゃ疲れるさ。まぁ、病人を歩かせるほど辛くないから、お前は気にするな。きっともうすぐだろうしな」
話しかけると、そんな言葉が苦笑と共に返ってきた。
考えてみれば当たり前の話。人一人を負ぶって四時間も下り坂を歩いているのだ。屈強な肉体をしているわけじゃないジュンタが、疲れていないはずがない。
だけど…………この発汗量は尋常じゃない。
「ジュンタ。私降りますわよ。身体の調子も大分良くなってきましたし」
「なに言ってるんだよ? ここまで来たのに降ろしてくれなんて狡いだろ? お前は俺におんぶされたまま、聖地に足を踏み入れるって決まってるんだから」
どうだ、恥ずかしいだろ? と笑うジュンタ。その笑顔が無理をしていることは、彼の顔色を見れば誰がどう見ても明らかだった。
リオンは考える。どうして彼はそこまで辛そうなのか。
考えて、気が付いて、全身に走った衝撃にリオンは絶句する。自分の馬鹿さ加減に言葉が出なかった。
確かに自分は病人だ。魔法使いにやられて満足に動けない……だけど果たして、身体に変調を来していたのは自分だけだったのだろうか?
――否、違う。思い返してみれば、その事実に今の今まで気付かなかったことが愚かだった。
自分が魔法使いよって変調を来したように、彼は自分が原因で調子が悪くなったのだから。他の誰かが気付かなくても、リオン・シストラバスだけは気付かなくていけなかった。
ジュンタは武競祭で自分の身体を顧みない攻撃を行った。それで筋肉痛となり、ベッドから出られない状態だったのだ。それが回復しきらない内に彼は修行なんてして、さらにはクーを助けるために再び[稲妻の切っ先]を使った。その上で彼は川に飛び込んで助けてくれて、そして今は自分を背負ってくれている。
辛くないはずがない。身体が痛くないはずがない。きっと気を抜けば今すぐにでも倒れてしまいそうに違いない…………その辛さ、魔法で変調を来した自分と、果たしてどちらが上なのか?
もしかしたらジュンタの方が辛いかも知れない。少なくとも、背負われていて楽な自分よりも辛いことは間違いなかった。
(馬鹿、ですわよ。辛いなら言えって言ったのは、あなたの方だったではありませんの)
自分も辛い癖に、それを隠して背負ってくれるなんて、なんて馬鹿。でもそれ以上に、
(その辛さに気付けなかった私はなんて馬鹿なんですの! 何が、ずっとこのままでもいいかも知れませんわね、ですわよ。ジュンタがこんなにがんばってましたのに……!)
三十分前まで自分が考えていたことの愚かさに、初めてリオンは気が付いた。
浮かれていた自分が恥ずかしい。今の今まで気付けなかった自分が情けない。そして――――それでも、降りられない自分が悔しすぎた。
降りられるはずがない。あんな風に無理して笑って、ここまで歩いてきてくれた人は、もう何を言っても降ろしてはくれないだろう。そんな人に今更降ろしてなんて言えるはずもない。
今自分にできることは、一刻も早くラグナアーツに到着してくれることを祈るだけ――荒い息を吐きながらも、それでも足を止めないジュンタの背で、リオンは遠く眼下を眺める。
「……ねぇ、ジュンタ。あなたはこのまま背負われて聖地に足を踏み入れるのは恥ずかしいことだと言いましたけど、それは違うと私は思いますわ」
「…………」
返事はない。ただ、ジュンタはひたすらに聖地目指して歩くだけ。
ジュンタの背中に頬を預け、耳元に唇を近づけて、リオンは困ったような微笑みと共に囁く。
「私は、こうやって聖地に入れることは誇らしいことだと、そう思います」
川の下流――視界を塞いでいた木々が消え、大河川に囲まれた白磁の色が垣間見える。