第三話  惑いの感情





 荘厳なオルガンの調べを受け、ひたむきな賛美歌が教会の天井をうつ。


 凛とした澄んだ美声。
 
華やかさも、聞く人の心を震わす想いもある、真摯で純粋な賛美歌。



――おお、神よ。私はあなたに感謝します。

  あなたが見守ってくれていることを、私は知っています。

  ――おお、神よ。私はあなたを愛しましょう。

 あなたが愛してくれていることを、私は知っています。


 
――おお、神よ。私はあなたの子と出会いましょう。

  あなたが我らのために使徒を地上に使わしたのだと、私は知っています。


 
――おお、神よ。私は救われるでしょう。

  あなたの子がもたらしたこの導きの道を、私は歩き始めたのですから


 繰り返される愛のリフレイン。神への祈りにして、神への賛美歌。

それは神が使わした人類の救い手であり導き手――使徒が真実、『神の使徒』であることを明確にした歌。

信じるものは救われる。故に汝、神を愛せ。その子たる使徒を信仰せよ。祈りを捧げ、愛を捧げよ。さすれば汝は導かれる。大いなる神の抱擁は、やがて世界全てを包もう。



――おお、神よ。私はあなたに感謝します。
  あなたが見守ってくれていることを、私は知っています。

  ――おお、神よ。私はあなたを愛しましょう。

 あなたが愛してくれていることを、私は知っています。


 
――おお、神よ。私はあなたの子と出会いましょう。

  あなたが我らのために使徒を地上に使わしたのだと、私は知っています。


 
――おお、神よ。私は救われるでしょう。

  あなたの子がもたらしたこの導きの道を、私は歩き始めたのですから



 価値あるかなその想い。純真でひたむきな想いは、やがては神へと届くだろう。
 汝らは祝福されている。この世に生まれたそれだけで、あなたには救われる資格がある。


――だから神は存在する。何よりも、その子たる使徒がその証であろう、か」

 どこからか響く賛美歌に目を覚ましたジュンタは、吸い寄せられるかのようにその歌い手の元へとベッドを抜け出て、部屋を出て、夢見心地のまま歩いていく。いつかどこかで聞いた、一つの返礼の句を口ずさみながら。


 ぼんやりとした頭で、それを聞いたのはいつのことだったかを思い出す。

「あれは…………そうだ。確か、前にクーがそんなことを祈ってたんだ」


 今は攫われて傍にいない少女のことを想うと、急に現実味が取り戻される。

 木の通路についた足から、全身へと強烈な痛みが走り抜けていく。それはもはや慣れたと言ってもいい、全身筋肉痛の痛みだった。


 力が足から抜けバランスを崩したジュンタは、そのまま壁に背を預けてズルズルと床に座り込む。


「そう言えば、俺は聖地につくなり気絶したんだったか。まったく、情けないよな」


 賛美歌を耳にしたジュンタが目を覚ましたのは、狭い部屋のベッドの上だった。

 

 小さな机と椅子、ベッドが置かれただけの簡素な部屋だ。そこから出て進んだ廊下もそうだったし、この建物はどうやら木造建築らしい。しかし通路の先、ちょうど大きな扉を前にしたところで急に石造りに変わっている。

 ここがどんなところかは少し歩いてみればすぐに分かった。

 教会だ。恐らく聖神教の聖神教会。聖地と言うぐらいだから、こういった教会はそれこそたくさんあるに違いない。ここはその一つなのだろう。


(リオンがここまで運んでくれたんだよな。結局、最後の最後で世話になったのは俺の方か)

 身体の痛みが抜けた後、ジュンタは壁に手をついて立ち上がり、通路を進み、 奥から賛美歌が聞こえてくる大きな扉を開いた。

 扉の向こうにあったそこは、教会で最も重要ば場所――礼拝堂であった。


 いくつかの聴衆席と説経壇、祭壇があるだけの広くない礼拝堂だ。


 塔の形をした天井の高い礼拝堂であり、見上げる天井付近の窓からは柔らかい光がステンドグラスを通り、内部を明るく照らしている。
正面の祭壇に飾られた天馬の像もさほど巨大というわけではない。数多ある聖神教会の中において、ここは大衆的な教会なのだろう。

――しかしその礼拝堂が、今日に限っては美しく、神聖な輝きに充ち満ちていた。



 ――おお、神よ。私はあなたに感謝します。

  あなたが見守ってくれていることを、私は知っています。

  ――おお、神よ。私はあなたを愛しましょう。

 あなたが愛してくれていることを、私は知っています。


 
――おお、神よ。私はあなたの子と出会いましょう。

  あなたが我らのために使徒を地上に使わしたのだと、私は知っています。


 
――おお、神よ。私は救われるでしょう。

  あなたの子がもたらしたこの導きの道を、私は歩き始めたのですから



 聞こえるのは、ずっと耳に届いていた賛美歌。

 祭壇に飾られた天馬の像の手前に置かれた、古びたオルガンが奏でる伴奏に合わせて、ひたすらに同じ句を違う抑揚で歌い続ける賛美歌が歌われている。


 歌い手は、説経壇に立ってステンドグラスの光を浴び、夕焼けのように輝く紅髪を持ったリオンだった。
目を閉じ胸の前で手を組んで、神に祈りを捧げる姿で歌っている。


 心に響く美声を聞いているのは、十数人ばかりのいずれも幼い少年と少女。

 じっとなんてしていられない年頃の彼らは、しかし聴衆席に腰掛けて、じっとリオンの賛美歌に耳を傾けている。

 ジュンタもまた彼らと同じように、後ろ手で扉を閉めた状態のまま、歌い続けるリオンの姿に心奪われたかのように耳を傾けていた。


 歌はすでに長く続いていた様子。
輝く声に彩られた礼拝堂は、神でもいるかのように神々しい輝きを漂わせていた。

 

 まさしく神に愛された者。使徒の血を継ぐ不死鳥の姫――リオン・シストラバスの歌は、やがて聴く全ての者の心に余韻を残したまま、惜しまれつつ終了した。

 果たして祈りの歌に拍手が必要なのかは分からないが、そこはまだ子供の聴衆たち。素晴らしい歌を聴いた皆は、問答無用でリオンに対し盛大な拍手を送った。

 席を立った子供たちは、わぁ、と喜びの声をあげてリオンに駆け寄っていく。

 リオンはやってきた子供たちにどうだと言わんばかりの笑顔で接して…………その視線が真横の扉からやってきたジュンタを見つけたことにより、


「ジュンタ!」


 静謐な礼拝堂の空気を、一瞬で弾けさせる大声で叫んだ。


「よう」

 ジュンタは軽く片手でリオンにあいさつする。

 リオンはこちらに来ようとしているが、周りに集まった十数人の子供たちに埋もれて身動きが取れないでいた。


「ちょ、あ、あなたたち! ちょっとどきなさい!」


 子供相手に強行突破もできないリオンは、不器用にも一人一人を説得しようと声をかけているが、そんなものが子供相手に通用するはずがない。子供に接した経験が少ないのか、まるっきり相手にされずに困り果てている。


「こらこら、みんな。彼女をあまり困らせるものではない」


 そこへ助け船を出してくれたのは、オルガンを弾いていた教会の神父らしき初老の男性だった。


 神父はジュンタの方を振り向き、にこりとした笑顔で頭を下げる。

 合わせて会釈を返し、頭を上げたときには、神父の言葉により子供にどいてもらうことができたリオンが猛スピードで走り寄ってきていた。


「ジュンタ!」


「なかなか見事な歌だったじゃないか、リオン。」


「当然ですわ。私、上級学校では歌姫とさえ呼ばれていたんですもの。『神への賛美』ほど難しい歌でも、余裕でご覧の通りですわ…………って、それはどうでもいいです。ジュンタ、あなたもう起きても大丈夫なんですの?」

 えへんと胸を張ってすぐに、リオンは掴みかかってくるかのような勢いで顔を寄せてくる。


 真紅の瞳がまっすぐにこちらを貫いてきて、ジュンタは急ぎ首を縦に振った。


「起きる程度なら大丈夫だ。元々ただの筋肉痛だし」


「そうですの……」


 ほっとしたように顔を離し、胸を撫で下ろしたリオンを見て、ジュンタは頬を緩ませる。


「ありがとな、心配してくれて。ここまで俺を運んできてくれたんだろ?」


「なっ!? な、ななな何を言ってますのよ? 違いますわ! 別に私は――


「なんだ、ここまで運んできてくれたのはお前じゃないのか?」


「そっちではありませんわ! 門を潜ったあとすぐに倒れたあなたを、この教会まで運んで差し上げたのは間違いなく私ですわよ! そうではなく、私が言いたかったのは……」

 顔を真っ赤にして怒鳴るリオンは、そこで言葉を止めて急に後ろを振り返った。


 背後からじっとリオンを見つめていたのは、先程まで彼女を囲んでいた子供たちだった。下は五歳程度から、上は十二歳前後。下の子は何やらよく分からない様子で首を傾げていて、上の子たちはニヤニヤと笑って、隣の子の耳元に囁いている。いや、声が聞こえる時点で囁きとは違うか。


「見ろよ。俺の言った通りだろ? あいつがあの兄ちゃんを気絶させたんだって。必死で許して欲しいって迫ってるぜ」


「凄いね。あれが恋人同士の修羅場って奴だよね」


「そこっ、何を誤解してますの! だ、誰がいつこのような野蛮な不埒者と恋人同士なんかになりましたか?!」


 ガーと目を吊り上げて怒るリオンが、子供たちに向かって突っ走っていく。


 鬼ごっこでも始まったと思ったのか、子供たちは皆、キャーと声をあげて笑顔で逃げ始めた。


「待ちなさい! この私に対する数々の暴言! 例えそれが子供だとは言え、もう許しませんわよ!」


「うわぁ、大人気ないなぁ」


 礼拝堂の扉を開けて外へ逃げていく子供を追いかけて、リオンも礼拝堂を出て行ってしまう。精神レベルが同じというか、からかわれて完璧に鬼ごっこの鬼になっている。


「……というか、何の説明もなしに俺を放置して行くなよ」


「では彼女の代わりに、私がご説明いたしましょう」


 置いて行かれて困っていたジュンタに助け船を出してくれたのは神父だった。


 にこにこと笑う彼は近付いてきて、それから子供とリオンが消えた扉を見て話し出す。

「この教会は北巡礼都市ノース・ラグナからの巡礼者の道に続く、門の近くにある教会です。昨夜、あなたを背負われた彼女が教会を訪ねてこられたんですよ」


「リオンが?」


「ええ、必死なご様子であなたを休ませて欲しい。と、そう言われましてね。それで教会の一室を用意させていただいた、それだけのことです」


「それは……ありがとうございました」


 事情を知り、改めて頭を下げるジュンタに、神父は笑って首を横に振る。


「私は神と、神が使わした使徒様に全てを捧げた身です。困った人を助けるのは当然のこと。お礼は必要ありません」


「ですけど――


「お礼でしたら、あなたを一晩中看病していた、あなたの恋人の方にしてあげて下さい」


「恋び……い、いや、俺とリオンはそんな関係じゃなくてですね」


「リオン? ……ああ、やはり。彼女はかの名高い騎士の王国の竜滅姫。リオン・シストラバス様だったのですか……」


 ジュンタの態度ではなく、リオンという名前に神父は驚いた顔となり、神妙な顔で納得する。


 それを見て、しまったことをしたかとジュンタは思った。

 どうやらリオンは自分の素性を神父には告げていなかった様子だ。紅髪紅眼と、あからさまな格好だが。


 だが別に、それは神父に思うところがあっての隠蔽ではなかったらしい。


「昨夜は忙しくてお互い名乗る時間などありませんでしたからな。あの髪と瞳に、あの立ち振る舞いでしょう? 薄々感じてはおったのですが、これではっきりしました」


 しばらく神父は、出て行ったリオンを思うように礼拝堂の扉を見たあと、


「何やら訳ありのご様子。深くはお聞きしません。さぁ、もうすぐ昼食の時間です。子供たちもすぐにお腹を空かせて戻ってくるのでしょう。どうぞ、あなたも談話室の方へといらしてください」


「……はい、ありがとうございます」


 神父の心遣いに、今度は謝罪ではなく感謝の念から頭を下がる。


 彼は穏やかに笑って、教会内部へと戻る扉を開く。

 後にジュンタも続いて、それから気になっていたことを神父に尋ねた。


「でも、どうしてリオンが歌を歌っていたんですか?」


「ああ、それはですね。今朝になってあなたの容態が落ち着いた頃、改めて私にあいさつをしようとしてくださったあの方を、子供たちが少しばかりからかったようでして。よくは私にも分からないのですが、何やらあのように歌われることになったご様子です」


「なるほど。あいつ負けず嫌いだからなぁ」


 と言うか、その計算だとリオンは眠っていないことになるのだが。


 徹夜のテンション時にからかわれて、自分でも分からないうちに歌うことになってしまったに違いない。本当に単純というか…………羨ましい思考回路をしている。


(まぁ、あとで改めてちゃんとお礼は言っておかないとな)


 神父の後をついて通路を進みながら、ジュンタは思い出す。


 リオンが賛美歌を歌っていた、その姿。礼拝堂を包み込んでいた、その歌声。

 あれほどの歌をこれまで聞いたことはなかった。間違いなく、リオンの歌声は素晴らしいものだった。

 とてもじゃないが、自分では真似のできない芸当である――昔のことを思い出しかけて、ジュンタは考えるのを止める。


 そう、考えるべきは違うこと。

「聖地に到着したんだ。ここからだ。……待ってろよ、クー」


 聖地までやってきた。なら次は、クーを助けることを第一に考えないといけない。







      ◇◆◇







 昼食を子供たちと騒々しく終えたあと、神父の用意してくれた部屋の中で、ジュンタとリオンはこれからについて相談を交わしていた。


「さて、私たちは聖地ラグナアーツへとやってきたわけですが、これからどう動くかを決めますわよ」 


 まず先に口火を切ったのは、腕を組んで部屋中央に仁王立ちしているリオンだった。

 
ジュンタは強引にベッドに腰掛けさせられており、やはりクー捜索において指導権を握っているのはリオンの方らしい。少なくとも、リオンの奴はそう思っているようだ。


「現状、クーを攫った輩も分からなければ、この街のどこにクーがいるかも分からない状況です。まずは情報収集するしかありませんけど、その方法には二つありますわ」


「情報収集する方法が?」


「そうですわ。一つは私たち二人が足を使って情報収集する方法。もう一つは、我がシストラバス家の騎士たちを正式に聖地へと招いて、情報収集させる方法ですわ」


 リオンの家はグラスベルト王国という、聖地の南にある王国の大貴族の家なのである。
 
そこの騎士団の助力が借りられるのならば、これ以上に心強い味方もいないだろう。が、それ以外にも選択肢が上げられたというのなら、それにも問題はあると言うことだ。


「あなたも分かっていると思いますが、敵の素性が一切知れないというのならば、下手に我が騎士団を介入させるのも問題があるかも知れません」


「さすがにシストラバス家の騎士団が動けば、噂にならないはずがないか」


「下手に知名度が高いことが災いしますわね。敵がどうであれ、屋敷にいたときにクーを攫ったのですから、シストラバス家が動いている理由を察するのは至極容易のはずですわ。それに騎士たちにクーを探させるとなると、聖地のトップ――つまりは使徒様に話を通さなければなりませんから、捜索開始までに時間がかかりますわね」


 表情を苛立たしげにして、リオンは指で組んだ腕を叩く。

「一刻を争うかも知れないこの状況においては、家に連絡し、許可を取り、出動させるのはあまり建設的とは言えませんわ。その選択を選んだとしても、結局はしばらく二人で動かなければなりませんし」


「結局はまず俺たちだけで情報収集するしかないのか。敵の素性が知れない限り、下手に目立つこともできないってわけだな」


「相手を追い詰めてクーの身にもしものことがあったら問題ですもの。取りあえず、ここ最近聖地で何か事件が起きてないか調べますわよ。同時期に何か事件が起きていたならば、二つの事件に関連性がある可能性も十分あり得る話ですから」


「じゃあそれで決まりだな。とりあえずは情報収集だ…………で、お前はどうなんだ? 身体の調子は取り戻したのか?」


 ベッドから立ち上がったジュンタは、リオンの調子を尋ねる。


 リオンは当然だと言わんばかりに大仰に頷き、


「例え並の人間では解呪に一日必要となる魔法でも、私に限ってはさほど効きませんわ。今朝には綺麗さっぱり身体の痺れは抜けています。私には何の問題もありません。むしろ問題があるのはジュンタ、あなたの方ではなくて?」


 逆にジト目で睨みつけてきた。

 総身から人を震わす紅の瞳に、ジュンタは全身の筋肉痛が疼くのを感じた。だが、そんなことを気にしている時間はない。


「いや、俺は別に……」


「昨日確かあなた、辛かったら言うべきだとか何とかこの私に向かって言いましたわよね? その癖に自分が辛いのを隠したりなんかしたら……切り飛ばしますわよ?」


「な、何をだよ?」


「もちろん、嘘つきは斬首ですわ」


「こわっ――って、ぐぬぅ……!」


 ニコリと綺麗に笑って告げられた言葉に、思わずツッコんでしまったジュンタは、身体を素早く動かしたことにより筋肉痛で悶える。

 何度もやってしまった自分の身を顧みない特攻で、使徒になってからあがったと思しき身体の回復でも、未だ全快にはほど遠い。筋肉の震えは動くだけで苦痛になるほどだった。


 額に脂汗を浮かべるジュンタに、呆れたような眼をリオンは向ける。


「その有様でよくそんなに虚勢が張れますわね……クーが大事なのは分かりますけど、少しは自分の身体のことも考えなさい。私たちはクーを探すだけではなく、攫った相手を倒す必要もありますのよ? そんな様では足手まといもいいところですわ。違いまして?」


「…………いや、違わない」


 まったくもってリオンの言うとおりだ。昨日リオンが無茶をしたら怒ったのに、それで自分が無茶しようとするのを見逃してもらおうなんて、甘かった。リオンは正論に黙ると共に、正論で黙らせてくるのだ。


「今日のところはあなたはこの部屋で待機ですわ。今日無茶するよりも、今日休んで明日から精力的に働いてもらった方が、よっぽど結果に繋がりますもの」


「そう、だな。今日は休ませてもらう。それと、ありがとな。昨夜看病してくれたって聞いた。それに、足手まといでゴメン」


「ふんっ、まったくですわ」

 うなだれるジュンタに、リオンは辛辣な言葉をかける。


「この私に迷惑をかけたあげくに看病までさせるなんて、あなた何様のつもりという話ですわ。自分の体調管理は騎士として必要不可欠なスキルですわよ」

「悪い」


「反省しているなら別に構いませんわ。それに……」


 そこでリオンは一度言葉を止め、そっぽを向いたまま言った。


「私もあなたのこと言えませんし……何より、そんなあなたに助けられたのは間違いありませんから。そんなに自分を責めなくても大丈夫ですわよ」


「リオン。お前……」


「か、勘違いしないでいただけます?! 私はただ、クーを助けるためにあなたが必要だからそう言ったのであって……い、いえ、別にクーを助けるのにもあなたの力など借りなくても大丈夫ですけれど。手と足にする小間使いは必要ですもの!」


 髪をかき上げて、なにも言ってないのに否定を並べるリオンの言葉が、照れ隠しであることはもはや疑うまでもなかった。


 リオンという奴は素直じゃなくて、だけど嘘とかは苦手で――ああ、こんな奴だった。素顔で接して、そうジュンタは苦笑する。


「……何笑っていますのよ?」


「いや、別に」

「ふんっ! どんなあり得ない妄想をしているか知りませんけど、精々勘違いしてるがいいですわ。思うだけなら自由ですもの。それでは私は行ってきますわね」


「あ、ちょっと待て」


 憮然とした顔つきになって部屋を出て行こうとするリオンに、ジュンタは待ったをかける。


 扉の取っ手に手をかけた状態で、リオンは何だと顔だけで振り返った。


「一つ質問するけど、ここの神父さんにお前、いくつ部屋を借りた?」

「?? この部屋だけですわ。ここには子供たちがたくさんいますから、客室は一つしかありませんもの。何ですの? もしかして、この部屋に文句があるとか抜かすのではありませんわよね?」

「いや、そう言うことじゃなくて……」


 怪訝顔のリオンに顔を向けたまま、ジュンタはベッドを指差す。


「ベッドが一つしかないならしょうがない。リオン、お前がベッドで寝ろ」


「はぁ? いきなり何を言ってますのよ、あなた、私はこれから情報集めに行くと行っているでしょう?」


「それは無しだ。言ったよなお前、辛かったら言葉にしろって。知ってるんだぞ、お前が今日寝てないのは。俺は今日一日身体を休める。だからお前も今日は休め」


「うっ、そ、それは……」


 バツが悪そうに黙り込むリオン。

 甘い。まだまだ甘々だ。あれでこっちを言いくるめたつもりだったのだろうが、そう言ったからには、逆に指摘されれば言いくるめられずにはいられないということだ。


 徹夜をしてまで看病してくれたっていうなら、リオンは一睡もしていないことになる。そして調子が戻ったのは今朝という話。つまりは看病してくれた間はずっとリオンも調子が悪かったということだ。

 慣れているかどうかは関係なく、病状での徹夜はかなりきつい。それなのに休むことなく出かけるなんて、見逃せるはずがない。


「徹夜明けの作業の効率は悪いの一言なんだろ? 今日一日休んで、明日から二人で探すのが一番効率的だと俺は思うけど。違うか?」


「………………ち、違いませんわね」


「よしっ、なら寝ろ」


 悔しそうにうなだれるリオンを見て、ジュンタはいい笑顔で満足げに頷く。


「……分かりましたわ。眠るのはこの際諦めましたけど、私がベッドを占領したら、あなたはどこで眠りますのよ?」


「俺は床でいい。ずっとベッドで眠ってたんだから」


 そう言い返しながら、ジュンタはリオンがそれなりに眠たいと言うことがはっきりと分かった。そもそもベッドに誰が眠るかという問題ではなく、根本的に一緒の部屋に眠るのがダメなのだが、リオンはそこまで気が回っていないよう。

 そしてあまり上手く働かないリオンの頭は、ジュンタの言葉に断固とした反対意見を弾き出す。


「そんなのは許しませんわ。風邪でも引かれたらどうしますのよ? ……仕方在りませんから、私が床で寝ます。あなたがベッドを使いなさい」


「いや、それこそダメだろ? それじゃあ疲れが取れないし、俺は筋肉痛を和らげるんだから床でいい。お前がベッドで寝ろ」

「私に命令しないでいただけます? いいからあなたがベッドをお使いなさい。これは命令ですわ!」

「そっちこそなんで命令してるんだよ? 俺がお前の使用人だったのはもう半年前のことなんだよ、この馬鹿」


「馬鹿?! あなた、この私にまた馬鹿と言いましたわね!? 私が馬鹿でしたら、あなたは大馬鹿者の不埒者の無礼者の人類最底辺ではありませんの!」

「……いや、ごめん。馬鹿に馬鹿といって何が悪いのか、今日の俺にはわからないものですからお嬢様」


 ギャーギャーと互いに言い争う二人。

 やがて互いにこのままでは平行線となり、いつまで立っても休めないと気付き、互いに妥協点を模索することに。

「…………後悔するのではありませんわよ」

 やがてリオンが髪につけていた白いリボンを外しながら、ベッドの中に意味深な発言と共に潜り込んだ。


 ようやく諦めてくれたかとジュンタは思い、自分も休もうとベッドから離れた壁に近づこうとしたところで、


「ぐおっ!?」

 

 思い切り後ろから襟首を引っ張られ、首を締め上げられた。


 ドスン、とそのまま尻餅尽くようにベッドの上にジュンタは座り込む。
 
一瞬締まった喉から空気を取り入れつつ、いきなり引っ張ってきたリオンに振り返って文句を言おうと試みる。しかしリオンはベッドに入ったまま、枕に頭を押しつけ、背中を向けていた。

 服を引っ張ったのはリオンに間違いなくて、ならばこの状態が意味するのはまさか……


「……何やってますのよ? 早くベッドに入らないと、私が冷えてしまいますわ。こんな粗末な寝具で私を寝かそうなんて言うのですから、暖くらいにはなりなさい」

 顔を見せないリオンは、つまるところ一緒にベッドで寝ろと言っているのだ。確かにそれなら二人の主張の妥協点ではある。だけど同じ部屋で眠るだけでもあれなのに、一緒のベッドなんて……

「………………いいのか?」


「構いませんわ。あなた程度、隣で眠ろうがどうでもいいことですし、よしんば襲いかかられても私の方が強いですもの」


 確認に対して、リオンは肯定を返してくる。


(そう言われても……なぁ?)

 心の中でジュンタは誰ともなしに話しかけた。

 
ここで一緒に眠るのを断っても結局先の平行線に戻るだけなのは間違いないし、何よりここで断るのはリオンを拒絶しているような感じにとられかねない。

正直なところ、ベッドでは眠りたいし、リオンが隣にいるのは緊張するが嫌ではない。全然嫌ではない。リオンが構わないというのなら、むしろ望むところではある。

 

だけどジュンタは男でリオンは女である。
 
襲ったりなんかしない。そんな気は毛頭無い。だけど男である自覚はあって、リオンが女である自覚ももちろんあって、何かの弾みで理性がなくなる可能性もないとは言えないわけで…………どうしろと?


 ベッドに座り込んだまま、ジュンタはしばし硬直し続ける。

 その間、リオンはひたすらに無言を貫いて、背中を向けたまま待っていた。


 ……やがて、ジュンタは決めた。


「お邪魔します」


 リオンに背中を向けた状態でベッドに横になり、ブランケットを手に掴む。
 リオンの肩がちゃんと隠れるようにブランケットをかぶせて、心なしかベッドの端へと寄る。


(やっぱりリオンの珍しい心遣いを無下にするのはよくないよな、うん)


 心の中で言い訳しつつ、ジュンタはがんばって煩悩を追い払い、眠ろうとすることに努める。


 リオンは静かだ。先程ピクリと肩が震えたのが分かった距離ではあるも、もう動いたりしない。
 もしかしたら本当にリオンは同じベッドに眠ることを、特に気にしていないのかも知れない――そんなことを考えたジュンタは、こっそりと溜息を吐いて目を閉じる。

(何を考えてるんだ、俺は。今は身体を休めることだけ考えて、明日からのクーの捜索に全力を出せるようにするべきだろ。もうこれ以上、リオンの足手まといはまっぴらゴメンなんだから)


 そう考えたら、身体の疲れも相成ってすぐに眠気が襲ってくる。

 抗うことなくジュンタは受け入れて、そして静かに寝息を立て始めた。







「…………あり得ませんわ。普通、一分足らずで眠ります?」


 背後から聞こえてくる寝息を聞いて、リオンは盛大にこめかみに青筋を浮かべた。


 背中を向けたままでもわかる。間違いなく、同じベッドで眠る選択をしたジュンタは眠っている。もうこれでもかというぐらい完全に熟睡体勢に入っている。


 隣に――ほんの僅かに身動くだけで背中同士がくっつくぐらい至近距離に魅力的な異性がいるというのに、襲うか襲わないかを葛藤することなく、何らドギマギして寝付けないこともなく、速攻で熟睡するとは何事か。

 不敬罪も不敬罪。淑女に恥をかかせるなど言語道断だ…………いや、別に襲ってきて欲しかったわけではないが。


 色々と自分にも責任があるので、同じベッドで眠ることは山より高く海より広い心で譲歩したわけだが、だからと言ってそれ以上の行為を許すつもりは毛頭無い。当たり前だ。リオン・シストラバスを何だと思っている。

 確かに、あまりに魅力的過ぎる相手が同じベッドにいるのだ。
 
襲いたいと思う気持ちを分からないでもない。男としてはそれが正常かも知れない。

しかし実際に行動に移ったら、調子が悪いとかそういう話を一切合切無視し、部屋から蹴り出すつもりだった。そんなことをする相手と隣で一緒に眠るのは、その、やはり、相手がジュンタだろうが良くないし、何よりはしたない。


 なんてことを考えて緊張していたのに……………眠っている。完膚無きまでに奴は眠っている。
リオンの女としてのプライドは、もうズタズタのズタズタだった。

 一瞬も迷わず眠ったということは、それ即ちジュンタは自分を何ら女として意識していないということになる。これほどまでに魅力的なのに、だ。


(おかしいですわ。おかしすぎですわ。男として、絶対にそれ間違っていますわ!)

 何度も言うが、別に襲われたかったわけではない。だけど何もされないのも、それはそれで乙女心は傷つくのである。

ゴソゴソとベッドの上で身動いで、リオンは背後を振り向く。

目の前にあるのは、当然ジュンタの背中。この聖地まで運んできてくれた、力強い男の背中だ……ふいにリオンは怒りとか全て忘れて、恥ずかしくなった。


(私、一体何を考えてましたの?)

リオンは同じベッドにジュンタが眠っているということに、今更ながら羞恥心を催す。


 徹夜明けの上に、子供たちにジュンタと恋人だとか、男殺しとかからかわれて、自分の清廉潔白さを証明するためになぜか歌を歌って、さらには子供たちを追いかけ回し、昼食はあり得ないぐらい騒がしい中で、どうやら自分の思考は結構疲れていたらしい。


 今になって思えば、根本的な問題として、襲われなかったとか意識されなかったとかそう言うことの前に、異性と一緒の部屋で、しかも同じベッドで眠っていることがおかしすぎる。


 だって一緒のベッドで眠る異性同士といえば、それは夫婦か家族、あるいは恋人同士と相場が決まっている。つまりそれぐらい密接な関係でなければ、同衾など許されないのである。


 よくよく考えてみれば、こうして誰かと一緒に眠るなんて、幼い頃両親と眠ったのが最後だった。二人以外と一緒に眠るのは、ユースを除けばこれが初めてのことだ。


 初めての家族ではない異性との同衾だと言うのに……リオンはジュンタがベッドに入る前のことを思い出す。

 平行線となった二人の譲り合いの折衷案として、二人でベッドの上で眠るのを出したこと。それは自分の高潔さを思えば、千歩ほど譲って認められることだ。


 だが、誘ってしまった。あれはダメだ。最悪だ。


(他の場所で眠ろうとしたジュンタを引っ張って、強引にベッドに引きずり込むなんて……それは、それは……!)


 ジュンタの目には、あの瞬間の自分がどう映っていたか、リオンは考えてみる。


 考えてみて、一瞬で結論はそこに達する。つまりは男をベッドに誘う自分の絵図だ。
 
はしたない、淑女としてはありえないその行為――もしかしてジュンタが襲ってこなかったのは、そんな風に男を誘う女だと誤解されたからだろうか?

(違いますわ。ジュンタはそんなこと考えませんし、よしんば考えたとしても、それで誰かを嫌うような人間ではありませんわ)


 ――否、それは違う。と、リオンは自分で考えた結論を速攻で否定する。


(そ、それでは、どうしてジュンタは何の反応も示しませんでしたの? 半年前は私のことが好きだと言っていたんですもの。少なくとも、嫌われてなどいないはずですのに……)


 あの時のジュンタの気持ちは間違いなく本当だったと、今もはっきりと言える。リオンの人生において、あれほどに真剣な異性の顔は見たことがなかった。

交際を断られて、半年の空白があって、どれほど熱が下がったかは定かではないが、少なくとも嫌悪の対象にはなっていないはずだ……と思う。

だが、それだとやはりおかしい。好意を寄せている相手と同衾して、手を出さないなんて――リオンはジュンタの性格を鑑みて、その理由を考えてみる。そこがはっきりとしない限り眠れるはずもなかった。

 しかし、考えても分からない。どのような流れでいっても、結論として、自分が隣にいれば手を出すということになる。その程度には、リオンは自分が魅力的な女性であることを自覚していた。

「…………どうして襲いませんのよ、馬鹿」


 ついにはそうジュンタの背中に向かって悪態尽くことによって、リオンはこの疑問の答えを出すことを諦めた。


 きっと、ジュンタは疲れていたのだろう。襲う気満々だったのに、タイミングを見計らっている内に疲れから眠ってしまったのだ。一分で眠るとは相当疲れていたに違いないが、きっと次に目を覚ました時、自分の不甲斐なさに臍を噛むに違いない。きっとそうだ。


「寝ましょう。今から明日まで眠れば、疲れもなくなりますわ」


 自分のその考えを結論として、リオンは眠ることにした。

 

 明日からはクーを捜すためにがんばらなければならない。そのために、今日という貴重な一日を休息に使うのだ。さっさと眠らなければならない。やけに心臓の鼓動がうるさいが眠らないと……



 ――そうしてリオンは、自分が襲われないとある考えに辿り着いた。



 閉じていた瞳を開いて、リオンは目の前の背中を愕然と見つめる。


 睡眠へと落ちようとしていた意識が、一瞬で浮上してしまった。それほどに、その予想でしかない考えは衝撃的だった。


 自分が襲われない理由。クーのことを考えて、思いついたその考え……


 言ってしまえば発想の転換だった。
ジュンタが自分を襲わなかったのは、リオン・シストラバスが云々という理由ではなく、ただ、別にところに理由があったのではないかという。


(ジュンタが私を襲わなかったのは、誰かに悪いと思ったから。襲ったら、誰かを裏切ることになるから…………この半年で、ジュンタには他に好きな人ができた?)


 ジュンタが好意を寄せる相手として十二分に考えられる愛らしい少女を、リオンは知っていた。


 クーヴェルシェン・リアーシラミリィ――
優しくて、素直で、愛らしくて、何よりストレートにジュンタが好きだと言うオーラを出しているエルフの少女。美男美女の貴族の知り合いが多いリオンでも、飛び抜けてかわいいと、魅力的で輝いていると思った少女。

彼女とジュンタがどんな風に出会って、どんな経緯で今のような主従関係に至ったかは知らない。でも間違いなく、クーはジュンタが大好きだとわかる。間違いなく、ジュンタはクーを大事にしているとわかる。

わからないものか――だって実際に、ジュンタは自分の身体を犠牲にしてまでクーを助けようとしたではないか。今こうして聖地にいるのは、一体誰のためだと思っている。

(ジュンタの性格ですと、好きな人がいたら、裏切ると思って他の女性には手を出しませんわよね……)


 あんなに真っ直ぐに誰かを好きだと言える人が、何人もの女性に粉をかけるはずがない。

 ジュンタの好きな相手がこの半年の間で、自分から他の誰かに変わっていないとも決して言い切れないのだ。

 あの時、ジュンタの告白を自分が受けていたら、心変わりはなかっただろう。だけどあの時ジュンタの告白を断った。振ったのだ。


 世の中には振った相手でもずっと思い続ける人間がいるらしいが、それがジュンタにも当てはまるかは分からない。振られた相手のことは吹っ切って、他の魅力的な異性に心奪われることはあり得ない話ではない。


(そうですわよね。半年……半年あったんですもの。例え私がずっとジュンタのことを忘れなかったとしても、ジュンタが私のことをずっと忘れなかったとは言い切れませんわよね。そうですわ。その間にクーみたいないい子に出会ったら、心変わりだって……)


 ジュンタとクー。二人並んだ姿を脳裏に描いて、リオンはお似合いだと思った。

 自分には優しくないが、クーには優しいジュンタ。純粋にジュンタを慕うクー。完全無欠のカップルの誕生だ。誰もがきっと祝福するカップルだ。


(……私はジュンタを振ったのですから、別にジュンタが次に誰を好きになろうと問題ありませんわ。強制する権利もありませんし。むしろ、ずっと想われていても、私がジュンタを恋愛対象として見ることはないのですから、その方が私にとっても、ジュンタにとってもいいことですわね)


 以上、結論。手を出されない根拠ある理由も出たことだし、これですっきりと眠れるというものですわ――リオンはそう考えて、目を閉じる。


 …………だけど、眠れない。

やけに大きな心臓の音がうるさい。まるで大事な何かを無くしてしまったかのように、ぽっかりと空いた心の空洞が痛い。そして何より――今自分が出した考えを必死に否定しようとして、でも否定できないのが悔しくて眠れない。


 しっくりするのだ。ジュンタが手を出さない理由を、クーに結びつけると、これでもかというぐらい納得いくのだ。だけどリオン・シストラバスは、それが悔しい。

 別にリオンは自分の心に鈍いわけではなかった。

それらがどうして来る感情であるかは、すでにわかっていた。

……正直に言ってしまえば、ショックだったのだ。


 ずっと変わらないと思っていた。自分がそうであったように、ジュンタも半年の間、ずっと自分のことを考えてくれているものと思っていた。

――半年の月日を経ても、ジュンタはまだ自分のことが好きだと思っていた。

 
だってあれほど真摯に、真っ直ぐに、好きだと言ってくれたのだ。
 それが半年で変わってしまう程度の想いだったのだと、リオンは信じたくはなかった。

 
それはジュンタの隣にクーがいたことに気付いたときから、ずっと訴えてきていた悔しさの感情。リオンがジュンタという一時いただけの少年のことを、ずっと忘れられなかった理由を、そんな風に否定されるのが悔しかった。

万物は変化する。だけど、あの日あの瞬間の胸の高鳴りは、永遠だと信じていたかった。

無論、現実は分からないジュンタの気持ちは、未だ他の誰にも向いていないのかも知れない。

昨日あんな風にがんばってくれたのは、もしかしたらまだ好意を抱いてくれているからかも知れない。武競祭に出場したのはまだ好きだから……だけどそれと同じぐらいの確率で、ジュンタの恋慕が他の誰かに向けられている可能性も、またあった。

リオンは目の前の背中を見る。

頼もしかった背中。だけど今は、何も語らぬその背中が何よりも怖かった。


(……私は、傲慢ですわね)


 自分は好きにならないのに、相手にはずっと好きでいろと言う。その自分の醜さが、リオンには傲慢に思えた。


 リオンは惑う。自覚してしまうほどに、自分の中で大きくなっているジュンタ・サクラという少年への感情に、当てはめるべき感情の名が見つからない。


 異性の友人のようで、でもだいぶ違う。
 
親友のようで、でも少し違う。

 喧嘩友達ともかなり違う。

 戦友・盟友とも少し違う。

 家族とも違い、無論恋慕でもあり得ないだろう。


 ただ大きくて、大切にしたくて、でも揺れて、怖くて、分からない感情――リオン・シストラバスがジュンタ・サクラに告白されてから、ずっと抱いている感情の正体が、リオンは自分自身で分からなかった。

 悩めば悩むほどに大きくなって、接すれば接するほど揺れていく感情が、心地良くて気持ち悪い。

「…………あなたは、どうして……」

 ポツリと無意識に呟いていた自分の言葉の真意も、やはり分からない。


 眠ろう、とリオンは思う。今は忘れよう、とリオンは思う。


 いつかこの感情に当てはめるべき名前が分かるときが必ず来る。自分自身の感情が、いつまでも自分で分からないはずがないのだ。
だから答えを見つけるのはその時でいい。納得するのはその時でいい。今はただ、明日のために眠ろう。


 コツン、と目を閉じたまま、リオンは額を目の前の自分を惑わす少年の背中につけた。


「…………馬鹿。あなたなんて、大嫌いですわ」


 だけどリオン・シストラバスは、決してジュンタとの出会いを後悔していない。









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