第四話 聖地ラグナアーツ
「ななななぁっ!?」
いきなり至近距離からそんな大声を浴びせられたあとに感じた、一瞬の無重力――ジュンタは思い切り床に叩き付けられて、微睡む暇もなく完全に覚醒した。
「な、なんだ一体……?」
眠っていたところを思い切り突き飛ばされたジュンタは、床に打ち付けた顔面を押さえながらベッドの方を振り返る。
まだ太陽も完全には上りきっていない早朝も早朝。
教会の鐘よりも響く声を発し、ジュンタを叩き落としたのは、昨日一緒のベッドで眠ったリオンその人だった。
彼女はベッドの上で壁に背をつけ、こちらを指差しながら、プルプルと大口開けて震えていた。その手は必死にタオルケットをかき集め、自分の身体を隠している。
「あ、ああああなた?! ど、どうして私のベッドで眠ってますのよ!?」
「はぁ? 何言ってるんだ。ベッドに引きずり込んだのはリオンの方だろ?」
「なんですっふぇ!?」
愕然とした表情でリオンは完全に硬直する。
おかしい反応だ。寝ぼけてでもいるのか、昨日のことを覚えていないっぽい。寝起きに自分が誰かと一緒に眠っているを見て、つい殴り飛ばしたと見える。
リオンは青ざめた顔で自分の身体をかき抱いて、うわごとのようにぶつぶつ言っている。
「う、嘘、嘘ですわ。私に限ってそんなはしたない真似するはずありませんもの……そうですわね、これは悪夢ですのね」
のろのろとベッドの中に戻ったリオンは、そのまま頭までブランケットを被り、再び眠りについた。
寝ぼけてぶっ飛ばされた方にしてみれば、なんだそれという行動だが、下手に安らかな眠りを妨げると先程の二の舞になりかねない。衝撃で完全に目を覚ましてしまったジュンタは、静かに部屋を後にした。
「まったく、朝から忙しない奴だな」
昨日から現時刻まで延々眠っていたらしい。体の調子は捜索どころか戦闘も行けそうなくらい回復していた。
「まだ朝の六時前だし、子供たちは起きてないかな」
まだ子供たちが起きていないために静かな教会の中をジュンタは適当に進む。すると足は特に深い意味はないが礼拝堂へと向かった。
「ん?」
「…………それでは……」
「ああ、そうだ」
誰もいない場所でのんびりしてようと思って選んだのだが、礼拝堂には朝も早いというのに人がいた。しかも二人。一人は教会の神父で、もう一人は……どちら様でしょう?
何やら仮面で素顔を隠すという、怪しいこと極まりない長身の男である。
二人は何やらもめており、やがて神父の方がジュンタの存在に気が付いた。
「人か? ……仕方がない。またいずれここに寄ろう」
釣られて仮面の男からも視線を向けられる。しかし彼は神父に何かを告げると、そそくさと礼拝堂を後にしてしまった。
残った神父は深々と息を吐き出した後、近づいてくる。目の前にやってきたときにはすでに、彼はいつも通りの彼だった。と言っても出会ったばかりなのだが。神父はとても柔和な笑顔を浮かべていて、それを見てジュンタは先程のことは触れるべきではないと察する。
「神父さん、おはようございます」
「ええ、おはようございます。お早いお目覚めですね。疲れの方は取れましたかな?」
「はい。もう元気なものですよ」
「そうですか、それは良かった。ああ、申し訳ありません。朝食の方ですが、もう少々お待ちいただけますか?」
「あ、気にしないでください。どうせリオンも寝てますし」
「そうですか。そう言っていただけると助かります」
こっちは突然に教会にやってきた身だというのに、神父は何ら気にしていないように気を遣ってくれる。恐縮してしまうのはジュンタの方だった。
宿を貸してくれて、さらには食事まで面倒を見てくれる代わりに何かできないかと、ジュンタは神父の姿を盗み見た。
一人でこの教会を切り盛りしているのか、もう初老といった感じの彼だが、細身で穏やかな物腰からは考えられないほどに生気が溢れている。今も掃除をしている最中にあの怪しい男が訪れたのか、手には雑巾が握られていた。しかし掃除はもう止めるようで、彼はさっさと雑巾を持っていたバケツの中に放り込んでしまう。
手伝うべき事柄が思い浮かばず、二人並んで特に言葉もなく見上げるのは礼拝堂の正面に飾られた天馬のレリーフ。
聖神教のシンボルである天馬――それを見つめる神父に、ジュンタは一つ訊いてみた。
「神父さんはずっとこの聖地で暮らしているんですか?」
「はい。二十の時にこちらにやってきてから四十年間、ここで暮らしております。生まれはジェンルド帝国の方ですが」
「ジェンルド帝国……確か、大陸の北の方にある国でしたよね?」
「ええ、聖地の北巡礼都市ノース・ラグナの向こう側に広がる大国です」
穏やかな眼差しの中に、微かな懐かしさと寂しさを秘めて神父は天馬を見つめる。
「まぁ、あそこの国は代々戦争が大好きでしてね。生活があまりに苦しくなって、それで逃げてきたという訳です。あの頃は今ほどジェンルド帝国からの亡命は難しくなかったので。運良く、こうして一つの教会で働けもしていますからな。運が良かったのでしょう」
「……やっぱり、争っている国もあるんですね」
神父の言葉に、改めてジュンタはこの世界が戦国の世であることを思い知る。
滞在していた国――グラスベルト王国が特殊だったのだろう。騎士、魔法使い、魔獣云々、貴族平民はあれど、あの国はとても平和で豊かだった。
「ジェンルド帝国という国はあれですからな。ですがまぁ、今やこの神聖大陸エンシェルトに残った国はジェンルド帝国とエチルア王国、そしてグラスベルト王国の三つだけです。もうこの大陸で起こる戦争は、ジェンルド帝国の内乱くらいなものでしょう」
「他二国で戦争が起きないのは、聖地との結びつきが強いから、でしたっけ?」
かつてクリスナに言われたことを思い出しつつ、ジュンタは相づちを打つ。
「そうですね。エチルア王国はメロディア様の故国。グラスベルト王国はナレイアラ様の故国。そして聖地はアーファリム様の故郷。『始祖姫』様方の盟約により、この三つの結びつきは決して破れはしませんから」
「『始祖姫』……千年前に活躍した始まりの使徒、か。良く聞く名前ですけど、実はあんまり詳しくないんですよね。知ってるのはナレイアラの伝説くらいなものです」
「ほぉ、珍しいですな。しかし、確かに多くの伝説逸話が入り交じってますからな。
おお、そうです。もしよろしければ、この老骨に説明させてはもらえませんか?」
「確かに知りたいことではありますけど、いいんですか?」
「ええ。私ども聖地の人間は、こういった話を誰かにするのが好きで好きでたまらんのですよ」
「そうなんですか。それじゃあ、お願いしてもいいですか?」
「分かりました。と言っても、もう少しでお腹を空かせた子供たちが起きてくる頃です。掻い摘んでお話することに致しましょう」
期せずして他の使徒――しかも伝説の使徒の話を聞けるとは幸いだと、ジュンタは聴衆席に腰掛けた神父の隣に腰を下ろす。
「今から約千年前。この世は今のように国と国、人と人とが争う時代ではなかったのです。いえ、そんな余裕はなかった、と言った方が正しいでしょう。千年前の世界は、恐るべき悪魔によって滅亡寸前まで追いつめられていたのですから」
「悪魔……ドラゴンですか?」
「そうです。かの終わりの魔獣が何体も何体も現れ、しかし人では倒すことができず、加速度的に世界は死滅に向かっていたという話です。故に古の時代は、『地獄』の時代などと呼ばれていますね。
しかし神は決して我ら人を見捨てることはありませんでした。御身が御子たる神の獣を、この世に使わしたのです。それこそが使徒。『地獄』の時代において、最初に現れ人と世界を救った使徒様たち三柱を、『始祖姫』様と呼んでおります」
「ナレイアラ・シストラバス。アーファリム・ラグナアーツ。メロディア・ホワイトグレイルの三柱でしたよね?」
「ええ、その通りです」
異世界歴が短いジュンタだが、さすがにその三人の名前だけは知っていた。
特に内一人はリオンの家の祖先であるし、やっぱり常識を知らないのは異端と見られる可能性もある。ある程度の常識は、やってきてからの一月程度で覚えていた。
「人々がドラゴンに追い詰められていたときに生まれになった三柱の使徒様は、期せず同時期に世界の情勢を憂い、この聖地にて集われたと伝えられています。以後『始祖姫』様たちは行動を共にし、世界各地を巡られたのです。これが世間で知られるところの、所謂『救世序詞』ですね」
今はグラスベルト王国と呼ばれる地で生まれた、ナレイアラ・シストラバス。
今は魔法大国エチルアと呼ばれる地で生まれた、メロディア・ホワイトグレイル。
二人は聖地となったこの地で生まれたアーファリム・ラグナアーツと出会い、その後に世界を救世する巡礼が始まる。
「絶望に打ちのめされていた人々の前に『始祖姫』様方は現れ、これを救われました。
『不死鳥の使徒』ナレイアラ様が人を襲うドラゴンを滅し、『聖獣の使徒』メロディア様が朽ちた大地でも生き抜くための力――魔法をもたらし、そして『天馬の使徒』アーファリム様が、人々に希望のよすがとなる聖神教を広めていったのです」
恐らくは聖神教が世界の九割以上を信徒としている理由は、そこにあるのだろう。
聖神教は預言者云々が神はいると語って広めた宗教ではなく、真実世界が滅びかけ、人が絶望していた時代に、救いとして広まった宗教なのだ。
広めた相手が、決して倒せぬドラゴンを滅し、魔法という当時では考えられない技術をもたらし、自らを神の使徒と名乗る正真正銘の救い手だったのだ。
絶望の淵で見た『始祖姫』たちの姿は、当時の人たちにとっては本当に神の使徒であり、救世主だったのだろう。彼らの存在が神の存在を証明し、偉業と共に世に示していったのだ。
『――おお、神よ。私はあなたに感謝します。
あなたが見守ってくれていることを、私は知っています。
――おお、神よ。私はあなたを愛しましょう。
あなたが愛してくれていることを、私は知っています。
――おお、神よ。私はあなたの子と出会いましょう。
あなたが我らのために使徒を地上に使わしたのだと、私は知っています。
――おお、神よ。私は救われるでしょう。
あなたの子がもたらしたこの導きの道を、私は歩き始めたのですから 』
それこそがリオンも歌っていた賛美歌。神は存在する。神を信じよ。神に祈れ。その願いは必ずや届くだろう。あなたは生まれただけで、救われる資格があるのだから。――使徒の存在が、その証明だろう。
目の前で神獣としての力を見せつけられたら、神の存在を、アーファリムの言葉を信じずにはいられなかったに違いない。神がいるかいないかは論争するようなことじゃない。信じるものだけが救われるのではない。あやふやでもない。使徒の存在が神――超越存在を証明していた。
当時にもあっただろう、神は存在すると誰かが言った宗教よりも、聖神教の方がよっぽど信憑性があったのだ。混沌の時代でなら、世界全てを包み込むのも無理はない。
「やがてドラゴン全てを駆逐した後、アーファリム様が聖地を開闢され、新たなる世界が始まったのです」
「それが聖神歴ゼロ年ですか」
「ええ。他の『始祖姫』様もまた、価値あるものを後世に残してくださいました。
メロディア様はエチルアにて、魔法研究の総本山である『満月の塔』をお作りになられ、魔法による発展のために尽力なされたそうです。そしてナレイアラ様はグラスベルト王国建国に関わり、代々竜殺しの担い手として竜滅姫様が……これは私が語るまでもありませんね」
聖神教のシンボルとして使徒が存在し続ける限り、人は聖神教を信じ続けるだろう。
『始祖姫』が果たして、本当に最初に生まれた使徒かは定かではない。
有名にならなかっただけで、彼女たちの前にも使徒はいたのかも知れない。が、彼女たち三人が使徒の存在理由を、人々に聖神教の教えと共に明確にしたのは間違いない。
「千年経った今でも聖地は、ナレイアラ様の直系の子孫であるシストラバス家、メロディア様と血を同じくするホワイトグレイル家がある限り、それぞれグラスベルト王国とエチルア王国と深く結びついているわけです。グラスベルト王国とエチルア王国も同盟国ですしね」
「千年間の『始祖姫』の絆が、今でも確かに息づいているわけですね。どれだけジェンルド帝国が強くても、残った大陸の他の国に矛を向ければ、その国だけじゃなくて聖地や聖神教を崇める国をも敵に回す。だからもう戦争は起こらないと」
「そう言うわけです。ジェンルド帝国に生まれた人間としてはあれかも知れませんが、やはり戦争はないのが一番ですからな」
「そうですね」
頷き合う二人の耳に、そのとき向こうの方から子供のギャーギャーと騒ぐ声が聞こえてきた。
それを聞いた神父は慌てて立ち上がる。
「こりゃいかんです。子供たちが起きてきてしまいました。早く朝食を作らないと」
「あ、俺も手伝います」
ジュンタも立ち上がって神父にそう言うが、彼は申し訳なさそうに断ろうとする。その前に、
「お世話になったお礼と、あとお話を聞かせてくれたお礼です。俺の生まれた国では、一宿一飯の恩義は生涯の恩義とせよって言われているぐらいですから」
「そうですか……それではお願いしてもよろしいですか?」
「任せてください。結構家事は手伝ってましたから」
神父の後をついて、ジュンタも調理場の方へと歩いていく。早くご飯を作らないと、お腹を空かせた子供たちが暴れ出してしまう。こんなことで恩を返せるとは思わないが、これくらいしないと罰が当たるというもの。
その後十五分程度で、何とか皆がやってくる前に朝食は完成させることができた。
ちなみに、一番最後に起きてきたのがリオンだったことを、ここに明記しておく。
◇◆◇
聖地ラグナアーツは、この地に生まれた『始祖姫』――アーファリム・ラグナアーツの名を得て生まれた地である。
約千年前の開祖アーファリムの時代から、聖神教の総本山として、世界で最も重要な場所として在り続けていた。即ち、人類の救い手であり導き手である使徒の居住地として、だ。
海と山とに囲まれた美しい白亜の都であるラグナアーツの中央に、その使徒が住まう世界で最も神聖なる場所――アーファリム大神殿はある。
アーファリム大神殿を中心とし、ラグナアーツは円を描いて広がった都だ。
水脈のようにも見える水路が幾本も都中には走っており、都の要所要所には多くの神殿や聖堂、教会が建設されていた。
白亜の都にして水の都と讃えられし美しき都は、なるほど、確かに見る者を圧巻させる厳かな輝きを放っていた。
まっすぐに整えられた石畳の通りを歩くのは聖神教の敬虔なる信徒たち。多くが白い服を好んで着ており、それが何とも街の景観にマッチしている。まさしく聖なる都に住む清き住人たちだ。
だが、全てが全てそう言うわけではない――リオンが誇らしげに語った聖地の説明にはなくとも、それは簡単に気付ける話だった。
商人や旅人がいるということではない。そういうことではなく、この街の中には人攫いをするような人間がいるということだ。
「普通の街なら聞き込みとかは酒場がセオリーだけど」
「…………」
「何というか、やっぱり聖地だけあって、昼間から酒を飲んでるような人たちは少ないみたいだな。教会とか回った方が情報収集はやりやすいかも知れない」
「…………」
「…………はぁ」
周りを見ながら美しい通りを進んでいたジュンタは溜息をついて立ち止まり、背後から無言かつものすごい目つきで睨みつけてくるリオンを、呆れ眼で見やった。
「なぁ、いい加減睨みつけるの止めろよな。俺を睨んだってしょうがないだろ?」
「仕方がないものですか! 私にこのような格好を強制したのは、あなたではありませんの!?」
目尻を吊り上げて怒るリオンの格好は、いつものドレス姿ではなかった。
リオンが長い紅髪を後ろで纏め上げ、露出の少ない聖神教の修道女が着ているような服を身につけていた。それだけならリオンとて怒らない。リオンが怒っている理由は、纏め上げている紅髪の上に、さらに髪を隠すようにかぶったフードの所為だった。
「どうして私がこのような変装をして、コソコソと敵から姿を隠すような真似をしなければいけませんのよ!」
「そりゃあれだ。お前はいい意味でも悪い意味でも目立つからだ。紅髪だけ、紅眼だけなら少ないけど世の中にはいるって話だけど、紅髪紅眼っていったらシストラバス家の竜滅姫様ですって証明してるようなものだろ?」
「いかにも、その通りですわ。この燃えさかる不死鳥の炎のような紅髪紅眼こそが竜滅姫の証。私がお母様から受け継いだ、唯一無二の始祖ナレイアラ様の直系たる証です!」
「それがダメなんだよ。お前も理解してると思うけど、クーの攫った奴が誰だか分からないなら、下手に注目は浴びるべきじゃない。どこに敵の仲間が潜んでるか分からないんだから」
「それは承知していますわよ」
「なら、俺の言いたいことも察してくれ。ここは聖地で、お前は聖神教の信者が奉り崇める『始祖姫』ナレイアラの直系なんだから。紅髪紅眼を晒して歩いたら、大騒ぎになるだろうが」
クーを探すために教会を出発したとき、まずジュンタが問題視したのがリオンのその強烈に目を引く存在感だった。
紅髪紅眼は、竜滅姫という世界を股にかけて有名な不死鳥の血を引く証である。
リオン曰く、決して他に紅髪紅眼はいないわけではないらしいが、自分ほどの鮮やかさとなれば不死鳥の血統以外では存在しないらしい。つまりリオンの髪を露わにしたままだと、注目を浴びるということだ。それもここは聖地。半端ない注目度だろう。いきなり道端で遭遇した相手に、その場で拝まれる可能性も否定できない。
だから神父に申し訳なくも服とフードを貸してもらったのだが、リオンにはそれが酷くお気に召さないようだった。
「理屈は分かりますけど、私のこの髪と瞳は誇りであり、決して隠すべきものではありませんわ」
「前にお前、その髪隠してなかったか?」
「秘すのと隠すのでは意味合いが全く違いますわ! それなのに被らなければ外には出さないなんて、あなた一体何様ですのよ?」
フードの下に隠れる紅の瞳に怒りの炎を燃やし、リオンはジュンタを睨みつける。
教会前で行われた押し問答の末にリオンは被ったのだから、そう言いつつも内心ではそれが必要なことだと理解しているのだろう。だが理解と感情は別というわけか。
自分の血筋に誇りを。母親から受け継いだ髪と瞳を大切にしているリオンだから、やはりそれを敵から逃れるための目的で隠すやり方が気にくわないのだろう。リオンの気持ちも分かるからジュンタもバツが悪そうな顔になって、だけど視線は逸らさない。
「お前の気持ちも分かるつもりだ。だけど、それでも被っててくれ」
ストレートに言うと、リオンは言葉に詰まったように黙り込み、視線を逸らす。
隠さないといけない理由を一番理解しているリオンだから、それ以上何も言わず、
「……分かりましたわよ。この怒りは、クーを攫った輩にぶつけることにしますわ」
「悪い」
「いいんですのよ。今一番優先するべきはクーの救出でしょう? これは我慢すればそれで済むことですもの。我慢しますわよ」
目深にフードを被り直すと片手に鞘に入った剣を持ち、リオンは先程とは打って変わって悠然と先行し始める。その姿からは、フードと服では隠しきれない気品と存在感が溢れていた。道行く人々の多くが、惹かれるようにリオンへと視線を注いでいく。
「……やっぱり、お前は目立つな」
「当然ですわ。まぁ、それが今こうして弊害となっているのですから、やはり私の美しさは罪のようですわね」
「まったくだ。髪と瞳の色もそうだけど、そもそもお前は美人だからな。目立つなって言う方が無理な話か」
「ふふぃぇ――!?」
自信満々に胸を張っていたリオンが、いきなり奇声と共に足を止めた。
思わずぶつかりそうになったジュンタは慌てて足を止め、何だという顔をしてリオンの顔を後ろから覗き込む。
「いきなり止まるなよ……って、どうして顔を赤くして、エサをねだる雛みたいに口をパクパクさせてるんだ?」
リオンの顔が見る間に赤くなっていく。どうして赤くなっているのか分からないが、相当赤い。
「リオン?」
「う、ううううるさいですわっ! 私が美しいのは自然の理であり、神が定めた絶対の法則ですわ! あなたに言われずとも分かっています!!」
「あ、おい……!」
いきなり立ち止まったかと思ったら、今度は早足でリオンは歩き始めた。しかもナルシスト発言と共にだ。
「……慎重に行かないといけないのに、訳分からない奴だな」
ジュンタは一度首を傾げてから、周りなどまったく見ずに突っ走っていくリオンの後を追いかけ始めるのだった。リオンが綺麗だってことは今更言われずとも当たり前のことなのに、どうして改めて宣言するのか? とか思いつつ。
「申し訳ありません。残念ながら、私は存じ上げません」
「そうですか……すみません。ありがとうございました」
「いえ、お気になさらず。あなたが探し人に会えるよう、使徒様に祈らせていただきますね」
目を閉じ、胸の前で手を組んで、祈りを捧げながら見送ってくれたシスターにお辞儀をして、ジュンタは十七軒目の教会を後にする。
聖地のどの部分にあるか分からないほどたくさんある教会の一つに、クーの姿は見ていないか、あるいは何か最近事件が起きていないかと尋ねたところ、返ってきたのは芳しくない答えだった。ジュンタは教会の前の水路にかかる橋の、その途中で待っていたリオンの前まで小走りで戻る。
「どうでしたの? 何か手がかりは見つかりまして?」
「いや、クーのことは見てないし、最近は特に事件らしい事件も起きてないらしい。これで十六軒連続で同じ返答だ」
「そうですの。何か事件でも起きていたら、そっちの方面から情報を集められますのに。歯がゆいですわね」
フードの下の端整な顔を苛立たしそうにして、リオンは橋の手すりから聖地の街並を見やる。
「教会、大きな商店、それと水路を行く船頭……片っ端から尋ねてみましたけど、誰もかもが返答は同じ。事件は起きていない。起きているとしても、定期的に起きているベアル教の事件だけ……こうなったら、やはり騎士団を派遣させるしかないかも知れませんわね」
「まだ朝から五、六時間ぐらいしか探してないし、しかも今日は初日だ。そう簡単に情報が集まるわけないし、焦りすぎだろ?」
「あなたは焦ら無さ過ぎですわ!」
いい加減事態が進展しないことに我慢の限界が近付いていたのか、リオンは声を荒げる。
「まぁまぁ、落ち着け。どうどう」
「これが落ち着いてなどいられますか! 今こうしている瞬間にも、クーの身に何が起きているか分かりませんのよ!?」
「それはそうだけど……焦ったってしょうがないだろ? 俺だって、焦ったらクーが見つかるなら、そりゃ焦るさ。でもそうじゃないだろ? 冷静に行かないと。少しの見落としもしないように」
この半日近くで、何もまったく手がかりがなかったわけじゃない。
確かにクーの居場所を突き止められるほどの情報こそなかったが、それでも現在のラグナアーツの情勢はだいぶ分かった。決して徒労ではない。
特にベアル教――異端宗教として、聖神教に攻撃を加えている彼らの情報は大きかった。
「やっぱり、この聖地で犯罪を犯すとしたら、みんな口を揃えてベアル教関係者だって言うな。なら、もしかしたらクーのことだってベアル教が関係してるかも知れない」
ジュンタは冷静に、今までの情報を統合・分析して述べる。
リオンとしてはそんな態度こそが気に入らないらしい。
「だから、どうしてあなたはそんなに冷静でいられますのよ!? あなたの予想が正しければ、クーを捕らえているのはあの外道の集団ですのよ? 彼女がどんな目に遭ってるか、あなた心配ではありませんの? クーはあなたの大切な人なのでしょう?」
怒っているような、困惑しているような、悲しんでいるような声と表情でリオンは言う。
この責任感の強い騎士の少女は、自分の目の前でクーが攫われたことを酷く気にしているようだった。手がかりのない現状に対する怒りも、根底にあるのは自分への無力感なのだろう。
だが、それはジュンタも同じだった。無論クーのことを心配していないわけがない。
誘拐された相手の思惑が分からないのだ。誘拐されたクーがどんな目に遭っているのか、それすらも不鮮明で、つまりはどんなことをされていてもおかしくないということ。考えれば考えるほど、正直をいえば不安や怒りで目の前が真っ白になりそうになる。でも……
「俺だってもちろんクーのことは心配だ。リオンの言うとおり、クーは大切な奴だから」
「でしたら――」
「だから、こんなところで不毛な会話をしている暇なんてない。ほら、行くぞ。文句を付けるのは歩きながらでもできるだろ? リオンが起きてくるのが遅かったから、少しでも足を使わないとな」
「あ、あなたって人間は、それをここで言いますの? この、卑怯者!」
「そりゃどうも」
地団駄を踏むリオンを放って、ジュンタは橋を越える。
後ろから圧力と共にリオンが追いかけてくる。
文句の言い足そうなのをぐっと堪えて、所々から怒りを滲ませる声で彼女は訊いてきた。
「それで、次は一体どうしますの? ベアル教が云々と言ってましたけど、何か探すあてでも見出せまして?」
「いや。だけど俺の聞いた限りじゃ、ベアル教は聖地で毎週のように事件を起こしてたらしいんだ。けど、それがここ最近では起きてない。もう一月の間、連中の姿は目撃されてないらしい」
「何かベアル教が暗躍している可能性があるということですの? 何か大規模な事件を起こす準備でも? ですけど、それはあくまでも推測の域を出ていませんわよね?」
「まぁな。けど、他にあてがないのも事実だ。少しの可能性でも、とりあえず情報収集の方向性を決めるのは間違ってないと俺は思うけど。……実際、俺よりもこういう経験はお前の方が上だろ? お前はどう思うんだ?」
いつの間にかリオンではなくジュンタが行動を取り仕切っていたのだが、そのことに彼女は気付いていなかったようで、リーダーから助言を受けた隊員として顎に手を当て、考える。
「そうですわね……可能性としてはあくまでも低いですけど、やってみる価値はありますわね。どちらにしろ、いずれベアル教は駆逐するべき対象でもありますし。少なくともコソコソしている彼らでしたら、色々と情報は持っていそうですもの」
「それじゃあ決まりだ。ひとまずベアル教の情報を集めることに集中して……ん?」
相談しながら道を歩き、曲がり角を曲がったところでジュンタは眉を顰める。
曲がった先の大通りには、なぜか大勢の人たちが集まっていた。道の真ん中を開けて、両脇に野次馬のように集まっている。
「なんですの、この人混みは?」
「俺に訊くなよ。でも、両脇にどいて真ん中を開けるってことは、誰か偉い人でも通るのか?」
よくよく観察してみれば、群衆の列は真っ直ぐ伸びた向こうまでずっと続いていた。さらに一体何か分からない内に、ジュンタとリオンがいる場所もやがては人混みの列の一角と変わる。
「ちょっ、今背中を押したのは誰です?! この私を一体誰だと思っていますの!?」
常は人々に見られる立場であり、こうして人が溢れる中にいたことがないのだろう。突然生まれた人混みに、リオンは川で溺れていた時のように慌てている。
人の流れに流されていきそうなリオンを掴まえようと、ジュンタは声を上げる彼女に手を伸ばした。
「落ち着けリオン。自分の場所をキープしろ」
「きゃっ! あ、あなた! 今私の胸に触りましたわね!?」
「不可抗力だ不可抗力! ほら、こっちに来い」
「むぅ……」
胸元を隠すリオンの腰を持って、ジュンタは自分の前――道路の最前列に引っ張り込む。その後自分の身体をガードにして、リオンが苦しくないようにスペースを確保することに専念した。
「ぐっ、一体なんだって言うんだ突然」
ぎゅうぎゅうと、とてつもない圧力が四方八方からかかってくる。もう大通りは人で溢れかえっていた。その癖みんな決して誰かが通るらしき通りの真ん中には出ないのだから、聖地らしさが感じられるといえばいいのか、それとも聖地らしくないといえばいいのか。
足場を確認するために周りに視線を注いでいたジュンタは、やがて動きを停滞させた群衆にほっと一息ついて、改めて前方を向く。するとそこにはリオンの顔がドアップであった。
「…………どうしてお前は、こっちを向いてるんだ?」
リオンがそこにいるのは当然として、背中が押されているのだから至近距離なのは当然として、どうして吐息の熱が分かってしまうのか? それは本来見るべき通りの中央ではなく、リオンの顔がこっちを向いているからだった。
フードを被っているとはいえ、やはり至近距離から見ればリオンの美しい紅眼がよく分かる。燃えさかる強い意志が見られるそれは、見れば吸い込まれそうなくらい綺麗で……
思わず見とれてしまったジュンタが顔を背ける前に、先に顔を背けたのはリオンの方だった。
「ふ、ふんっ! 少々面食らっていただけですわ。別にあなたの顔など、見たくもありませんでしたわよ」
「それはとても失礼だな、この野郎」
身体はこちらに向けたまま、リオンは視線を群衆が一心不乱に視線を向ける方――恐らくは聖地ラグナアーツの門がある方へと変えた。
「それで結局、一体何なんですの? この人混みは。一体誰が通ると言いますのよ?」
「分からないけど、こんなに集まってるんだ。それこそ超有名人なんじゃないか? ここは聖地だし、有名人って言うと……」
「もしかして使徒様ですの!?」
その時リオンの表情が変化した。
不機嫌だった表情を喜色満面に変え、興味津々と他の人たちと同じように通りの向こうを見つめ始める。
「それで、一体どの使徒様が通りますの? フェリシィール様? ズィール様? それとももしかしてスイカ様ですの?」
口にはしたが、別にリオンは返答など求めていないようだった。誰であろうと使徒ならいいのか、アイドルの出待ちをするファンのように目を輝かせている。
一方で、ジュンタは静かにリオンの口にした名前を脳裏に刻んでいた。
(フェリシィール、ズィール、それにスイカ……それが今いる使徒の名前か)
使徒――人類の救い手である導き手であることを求められた、救世主候補者。
不思議な能力を有し、故に神獣の肉体を持って生まれた、新人類になることを神に求められし者たち。その一柱であるジュンタは、自分以外の同じ時を生きる使徒の一人が目の前を通る可能性があるかも知れないと、リオンほどではないが興味深く目を凝らす。
そうして緊張と興味が二人を包んだ頃、向こうの方から、決して不躾な大声ではないが、ざわめきが波紋のように広がり始めた。
「どうやら来たようですわね」
「みたいだな」
リオンの言うとおり、通りの向こうの方から馬が蹄を鳴らす音、石畳の上を騎士が行進する音が聞こえてくる。
いよいよ使徒の登場かとジュンタは待ちかまえる――その最中、ふいに背後から小さな悲鳴が聞こえて、何とも得難い感覚を感じて、思わず振り返った。……なぜだが、胸が詰まるような懐かしい匂いを感じた気がしたのだ
「すまない。急いでいたんだ」
振り返った先には、群衆の中をどうにか通り抜けようとがんばっているフードで姿を隠した女性らしき人を見つけることができた。彼女は肩を当ててしまったらしい男性に謝ったあと、何とか人混みをかき分け、薄暗い細道に身を滑り込ませることに成功する。
立ち止まって一度大きく息を吐いた彼女は、フードを直してから再び歩き出そうとする。しかしその前に自分を見る視線に気付いたのか、顔をジュンタの方に向けた。
――――見つめてきたその瞳の色は、美しい金色。
ジュンタはあり得ないタイミングでの出会いに、呆然と呟きをもらす。
「使、徒……」
この世界において、金色の瞳を持つのは使徒以外には存在しない。
果たして、金色の瞳を見開いて驚いている彼女は、まさしく使徒以外の何者でもなかった。
偶然に出会った使徒と使徒はしばし見つめ合う――そこでジュンタはおかしなことに気付く。
(待て。どうして向こうも驚いてるんだ? 俺が驚いたのは当たり前だけど、向こうが驚くなんて……だって俺はカラーコンタクトで金色の瞳を隠してるから、向こうからしてみれば俺が使徒だってことは分からないはずだ)
それなのに、偶然に出会った彼女は酷く驚いている。
さらに彼女は猛然と再び人混みの中に突っ込んできたかと思うと、今度はぶつかった誰にも謝ることをせず、一息に目の前までやってきた。
「君! すまない、ちょっとこっちに来てくれ!」
「あ、え? おい、ちょっと!」
強引に腕を取られ、ジュンタは使徒の少女に引っ張られる。
抵抗しようにも、周りの圧力がポンプの中を行く空気のように押し出してきた。
リオンは通りに視線を注いでいて、まったくこちらに気付いていない。ジュンタは結局、手を引っ張られるままに薄暗い横道までやって来てしまった。
横道を奥まで歩いていったところで、ようやく彼女は手を離してくれる。
「突然すまない。けど君の姿を見て、居ても立ってもいられなかったんだ」
クルリと向き直った少女は、まず謝罪の言葉から入った。
それから彼女はじっと顔を見つめてきて、その上でガバリと伸ばした手で顔に触れてきた。
「お、おい……! 何を……?」
いきなり呼び出されたかと思ったら、いきなり顔を掴まれて至近距離から顔を覗き込まれるという状況に、ジュンタはさすがに困惑の声を出す。ツツツと頬を撫でていく指がどうにもくすぐったかった。
「やっぱりだ。その肌の色、瞳の色、髪の色。そして……」
少女は自分がどれほど傍目から見ると怪しい行動をしているか、まったく気付いていないようだった。息を呑んで、感動を露わにして、それからうんうんと嬉しそうに頷いてみせる。今これ以外の方法で、この状況を受け入れる方法がないとでも物語るかのように。何度も。何度も。
そうしていつしか自分の中で消化できたのか、ふわりと女性らしい柔らかな笑みを少女は形作った。
「こんにちは。もしよければ、わたしに君の名前を教えてはくれないだろうか?」
「いや、それより先に。何より先に。この愛おしげに撫でてくる手を離してくれると嬉しいんだけど」
「あ、度々すまない。つい」
自分が何をしているか冷静に判断できたらしく、彼女は顔を掴んでいた手を離してくれる。
「改めて謝罪しよう。すまなかった。少し興奮してしまっていたようだ。あ、だからといって勘違いしないで欲しい。わたしは別に君に危害を加えようとか、そう言うことはこれっぽっちも思ってないから」
「いきなり暗がりに引っ張り込んできて、それを信じろと?」
「わたしなら信じられないな。けど、誓って言える。本当にわたしには、君に危害を加える意志はないんだ。ああ、そうだ。これで信じてもらえるとは思ってないけど、せめて名前を名乗らせる前に、こちらに名乗らせて欲しい」
どことなくはしゃいだ様子の彼女は、パサリと被っていたフードを自らはぎ取った。
「――――あ、れ?」
フードをはいだ彼女を見て、まずジュンタが思ったのは大和撫子という言葉だった。
フードに押さえられていた長い黒髪は太股近くまで伸びており、その毛先の辺りを白いリボンでひとまとめに束ねている。前髪は少し揃えられており、どこか日本人形のようだ。
しかしここは異世界であり、彼女が日本人であるはずがない。
確かに髪の色は黒だが、容姿はどことなく外国風の容貌である。かなり整った容姿の中、美しい金色が強くその存在感を示していて、全体的にどこか浮世離れした容姿を生み出していた。
「もしかしたら君も聞いたことがあるかも知れないけど、わたしの名前はスイカと言うんだ」
「スイカ。やっぱり、さっきリオンが言ってた使徒の名前だな……」
先程リオンが出した三人の使徒。その内の一人『スイカ』が、目の前の彼女であるらしい。間違いなく、これで彼女が聖地の使徒であることが確定したというわけだ。
「それで、その使徒の人が俺に何の用なんだ?」
「やっぱり君も知っていたんだ。あ、そんなけんか腰にならないでくれ。お願いだから。
その、もし良かったら……いや、できれば、君の名前も教えて欲しいんだけど…………ダメだろうか?」
「そもそも、どうして名前を尋ねようと思ったのか、それを教えてもらわないことには答えようがない質問だな」
「そうか……」
疑いの眼差しを向けると、しゅんとスイカはうなだれる。背も高く大人っぽい彼女ではあるが、そのどことなく子供っぽさを感じさせる仕草はなぜかよく似合っていた。
「うん、だけど考えてみれば当然だな。こちらの好きなことばかりを強引に訊こうとしたわたしの姿勢が間違っていた」
「いや、そこで晴れやかに自分の否を認められるも困るんですけど……」
ジュンタは困った風にスイカを見る。
何ともやりづらい相手である。独特の世界観を持っていると言うか、あまりにマイペース過ぎてどう接していいやら掴みにくい。
いきなりこっちを暗がりに引っ張り込んだ上、スイカは使徒だ。つまりは異世界における三人――正確には四人だし、五人といってもいいが――だけの世界最高権力者である。
そんな彼女と普通に道端で出会うことがおかしいし、なぜか異様に興味を持たれているのも不気味だ。疑うべき部分はたくさんあるのだが……どうしてだろう。別にさっさと名前を名乗ってもいい気もする。それはやはり、スイカがどこか日本的なイメージを抱かせるからか。
「なら、ちゃんとした説明を聞いてくれるだろうか? どうしてわたしが君をここまで連れてきたかの説明だ。少し長くなってしまうんだけど、何か急ぎの用件とかは……?」
「いや、急いでいると言えばものすごく急いでるんだけど……」
クーを探さないといけないし、リオンもあの場に残してきたままだ。
同じ使徒であるスイカの話は興味深いが、それは今聞くべきことではない気がする。
「その話は今じゃないとダメなのか?」
「そう言うわけじゃないけど……」
「なら悪い。またいつか今度会ったときにしてくれ」
きっとまたスイカとはいつかどこかで会う気がする。確信もない予感でしかないが、それはたぶん正しいと思う。だからジュンタは特に心残りなくリオンの元に戻ろうとして、
「ちょ、ちょっと待ってくれ! わ、きゃっ――!?」
背中に思い切り頭突きを喰らった上に、両膝の裏を手で掴んで押され、一人バックドロップするように倒れる運びとなった。
「のわっ!」
視界に青空が見え、自分が倒れていることに気付き、ジュンタは遮二無二地面に手をつく。
「なんのっ!」
バックドロップと見せかけてブリッジへと移行……しようとしたが、やはり突然のことで身体が反応についていかなかった。そのままジュンタは地面に倒れ込んでしまう。ついた手にこそ堅い地面の感触があったか、背中と後頭部にはなぜか柔らかい感触があった。
そこで自分がどんな感じに転んだのかに察しがついて……
「ん……ちょっと、苦しい……」
「わ、悪い!」
自分の背中の下からスイカのそんな声が消えてきたので、慌ててジュンタはどこうとする。
不可抗力ではあるのだが、こうなったらどこをどう見ても男が悪い。それがこの世の常識だ。悲しいことに。
まずジュンタは体勢を入れ替える。横へと転がるように降りて仰向けに……なったところで、どうしてか今度はスイカが身体の上に乗ってきた。
「…………あの、どうして身体の上に乗ってくるんですかスイカさん?」
「スイカでいい。それとその質問の返答だけど、君を逃げられなくするためだ。でも、やっぱり勘違いをしないで欲しい。ちょっと誤解されかねない格好だけど、別にわたしにそんなつもりはなくて…………馬鹿、君は一体何を言わせるんだ」
「色々とツッコミたくなる台詞をどうもありがとう」
両腕を掴まれ、膝で足の動きを封じられてしまった。
一瞬で動きを封じたスイカは、何かしらの武術を学んでいるよう。これで表情が頬を赤く染めた照れた顔でなかったら、問答無用で頭突きしたあと逃げるのだが。
色々と無理な感じがするのを受け止めたジュンタは、身体から力を抜いてスイカを見上げる。
「それで、結局お前は何がしたいんだ? 偉い偉い使徒様が俺みたいな極々一般的な庶民に何用でしょうか?」
「別にわたし自身は偉くない。偶々わたしが金色の瞳を持っていた、ただそれだけのことだから。そういう風に言われるのは、あまり好きじゃないんだ」
「俺はこうやって押し倒されるのが好きじゃないんだけど?」
「そうだね。普通わたしと君との位置は反対だろうと、わたしもそう思う」
「だな。よしっ、それじゃあ入れ替わるか」
「うん…………って、ちょっと待って欲しい」
「ゴメン。無理」
スイカに全体重をかけて押し倒されている両腕に力を入れ直すと、簡単にジュンタの身体は起きあがった。そのまま、軽々とスイカの身体を地面に押し倒すと、今度は逆に組み伏せる。
いきなり組み伏せられたスイカは目を瞬かせて、
「驚いた。完璧に押さえつけたと思ってたのに……君は見かけによらず力が強いんだな」
「まぁ、一応男ですから」
実際は反則を使ったのだが。触れている時間によって相手を侵蝕し、その体重の働きを無くさせる魔力の恩恵である。
「さて、これでようやく正しい位置関係になれたわけだけど……お願いだ。俺はこのまま立ち去りたい。だからこれ以上何もしないって約束してくれ」
「……もし断ったら?」
「断らないだろ、スイカは」
「うん。さすがに女としては、こう組み伏せられたら敗北かな、と思う」
ニコリと笑ったスイカを見て、これでようやく訳の分からないことから解放されるとジュンタも笑みを返す。
しかし運命の神様は皮肉屋ならしく、そんな願いをことごとく無視してくれるのだった。
「――そこの貴様! 一体何をしている!?」
突如上がった声は、これまた年若い女性の声だった
怒声を響かせる声は、通りの方から聞こえてきた。声の主は何を思ったか、ものすごい殺気と敵意をぶつけてくる。いや、傍目から見てこの体勢がどう見えるが、それを考えれば仕方のないことなのだが。
「大ピンチだ。ここは一つ、女らしく悲鳴をあげるべきだろうか?」
「勘弁してくださいスイカ様」
そこにやってきた誰かは見ていないが、その迫力だけは見ずとも分かった。ジュンタは溜息を吐いて、ゆっくりと両手を上げながら立ち上がる。
「よし、そのままゆっくりとこちらを向け」
スイカがゆっくりと立ち上がるのを視界に収めつつ、現れた第三者の声に従い、両手を上げたまま後ろを振り向く。
そこでようやく観察することができた相手は、何とも凛々しい騎士だった。
翡翠色の長髪をポニーテールにしており、瞳は鮮やかなブルー。
同年代ぐらいの少女で、暗がりでもよく分かる白銀の甲冑を身につけており、手にはやはり白銀に輝く美しい槍が握られていた。そしてここが重要なのだが、槍の穂先はまっすぐジュンタに向けられていた。
「まずいな。クレオか……」
ジュンタが彼女の姿を見たとき、同時にスイカも彼女の姿を見て、何やら顔見知りらしい発言をした。
「すまない。君には悪いけど、今日のところはこれで退散させてもらうから。それじゃあ、また会おうね」
スイカはいきなりそんなことを言って、フードを被り直した。
「はっはっは、ちょっと待ってください勘弁してください。この状態で逃げられたら、俺どんな風に扱われるか完璧予想できるじゃないか」
「あ、待て!」
両手を上げたまま引きつった笑みを共にジュンタは懇願するも、スイカが背後から消え、向こうの方へと去っていく足音は無情に響いた。
翡翠の髪の騎士もスイカを呼び止めようとしたが、一人だけなのでこの場を離れることができず、泣く泣く彼女を取り逃がす。まぁ、目の前の騎士にしてみれば、スイカは押し倒されていた女の子なので特に問題はないということなのだろう。
そう、問題があるのは押し倒していた男の方であるからして。
「まぁ、いい。いきなり暗がりで押し倒された恐怖が爆発したのだろう。同情こそすれ、責める筋合いはない」
「あ〜、やっぱりそう来るか……」
案の定、騎士さんの敵意はこっちオンリーでやってくる。
第三者としてこの場にやってきた彼女からすれば、自分は暗がりで女性を押し倒していた男に見えるわけだ。しかもその後、逃げるように押し倒されていた女は去っていった。最悪である。最悪以外の言葉が思いつかない。
ギラリ、と槍の穂先と共に瞳を鋭く輝かせる騎士は、まるでドブネズミや害虫でも見るかのような視線をジュンタに向けた。
「この女の敵め。何か申し開きがあれば聞いてやろう」
「誤解です。完全に誤解です。俺は何もやっていませんし、やるつもりもありませんでした!」
申し開きと言われ、実際に申し開いてみると、突きつけられた槍の穂先をさらに近づけられた。くそぅ、ひっかけか。信用してくれないなら初めから言わないで欲しい。
「見下げ果てた奴だな。現場を私に見られた上で、よくそのような妄言が吐けたものだ。素直に認めて謝罪をすれば、まだ情状酌量の余地はあったものを」
「妄言じゃなくて、正真正銘の本当のことです……って、これじゃあ、罪を犯した犯人の常套文句だな」
「どうやら自分の罪を認めたようだな。では、婦女暴行未遂の容疑で貴様を捕縛する」
「ちょっ、本当に待ってくれ! 本当に俺は何もやってない! 何かをしようともしてない! 信じてくれ!!」
「まだ言うか! 貴様、最後くらい男らしく縄につけ!!」
「つけるか! 無罪の罪で一般市民を捕まえるのが、あんたのやり方なのか!?」
「なっ!? 言うに事欠いて我ら聖殿騎士団を侮辱するとは。私を使徒ズィール聖猊下近衛騎士隊隊長クレオメルン・シレと知っての言葉か!」
聖殿騎士クレオメルンは、冷静そうな聖地の騎士としての仮面をかなぐり捨てて、怒気の中に殺気すら滲ませて槍をさらに突きつけてくる。
ジュンタはこの状況を何とか打破するため、臆さずにクレオメルンの碧眼を見た。
「知らないな。あんたが誰だろうと関係ない。誰が相手でも関係ない。俺は何もしていない。それが事実なら、何も恥じることはないつもりだ」
「……今ならまだ間に合うぞ。今すぐに自分の罪を認め、その上で先の侮辱を撤回しろ」
「やってないことには謝れない。そっちこそ、自分が清廉潔癖な聖地の騎士、しかも使徒の近衛騎士隊長だって言うなら、何の罪も犯していない一般市民に槍を向けるようなことは止めてくれ」
「…………」
あくまでも自分は無罪だと主張した上で、クレオメルンこそ間違っていると認識させる。
クレオメルンは見るからに怯んだように押し黙ると、やがて槍の穂先を揺らしながら、毅然とした声でジュンタに尋ねた。その眼差しには少しだけ嫌疑以外の感情が浮かんでいた。恐らく、彼女は正義感が強いだけの優しい少女なのだろう。
「……その言葉、神と使徒様の名において誓えるか?」
「誓える。俺は詫びないといけないことなんて、何もしていない」
当然だ。本当に何もしていないし、するつもりもなかったのだから、神様にだって何にだって誓えるに決まっている。使徒にだってもちろん誓える。
「そうか――――承知した」
嘘は何も言っていない。だからクレオメルンも観念したように槍を降ろした。
彼女は純白のマントを翻し、背中を向ける。
「その言葉を今回だけは信じよう。だが、次に私の目の前で貴様が何か罪を犯したのならば、クレオメルン・シレの名と槍に置いて、貴様の罪を決して赦しはしない。然るべき断罪を行わせてもらう。努そのことを忘れるな」
そうだけを宣言してから、クレオメルンは颯爽と大通りの方へと去っていった。
彼女が使徒の近衛騎士隊隊長なら、先程の通りから裏道での様子を見つけたということか。まったく、ものすごい観察力だ。少し間違えれば御用されていた。
「ふぅ、焦ったぁ。しかし、まさかこんなことになるなんてな。つくづく俺って奴は、運がいいのか悪いのか……」
誰もいなくなった道の中、ジュンタは疲れたと大きく息を吐き出す。
まさか使徒と出会って、さらには騎士隊長に槍まで向けられるとは、本当に聖地ラグナアーツでの幸先が不安になる。
「――って、しまった。リオンのこと放ったままだった!」
さらに不安なことに、現在自分は何より恐ろしい紅いお姫様を待たしているのだ。
急いでジュンタは大通りに戻ろうとする。その胸には、様々なことに対する不安の炎が渦を巻いてくすぶっていて。……思うのは、感じるのは、胸に過ぎる一つの感情。スイカという少女を見たときから懐いている、それは――
「スイカ、か……おかしいな。そんなことあるはずないのに、前にどこかで会った気がしたなんて」
――旅立った故郷に対する、愛郷の念であった。
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