第十話  竜滅姫の従者


 

 昨夜のお祭り騒ぎの影響は、翌日になって大きく現れた。

 後先考えぬ特攻は祭りの醍醐味だが、ちょっとやりすぎちゃった感は否めない。そんなわけで、今日という日を男たちは精力的に働いて過ごしていた。

「これはまぁ、何ともものすごい壊しっぷりねぇ」

 アニエースの森にて、仕掛けられていたはずの罠のほとんどが破壊の憂き目にあっているを見て、トリシャは驚きを通り越して感嘆の声をあげた。

「一体誰がここまでやったのかしら? 多くの罠はしっかり働いたようだけど……これで止まらなかったっていう覗き魔さんは大した怪物だわね」

「何を感心していらっしゃるんですか。『不死鳥の湯』の長きに渡る不敗の歴史を脅かされた可能性があるのですよ? 犯人の痕跡を何としても見つけなくてはなりません」

「は、ははっ、がんばりましょうか」

 トリシャの言葉に、心なしか張り切った言葉を紡ぐのはユースだった。ちょっと怒ったようにも見える彼女の言葉に、引きつった声をあげるしかないのはジュンタである。

 昨日におけるトーユーズとの修行の傷跡は、今日になって森の所有者であるトリシャの知るところとなった。

 森のトラップは覗き対策用。これがないとなると覗きをされてしまうかも知れない。そんなわけで昨夜露天風呂を覗きに来たという、ゴッゾを倒し、ジュンタでも勝てずに取り逃がしてしまった犯人の痕跡を探しつつ、三人はトラップを再設置しにきたのだった。

(いやぁ、俺が咄嗟についた嘘が、なんだか大きな広がりを見せてるなぁ。どうしようかなぁ?)

 メイド服を着たユースの姿に、昨夜の自分の所行を思い出してジュンタは恥じ入る。自分は何覗きなんて最低な行為に及んでしまったのか、と。 

 せめてもの罪滅ぼしとして、ジュンタは手伝いをがんばろうと決意する。

 決意したのだが…………

「さて、とりあえずこれで壊れたトラップの修復は終わりですね」

「ユースがいてくれて助かったわ。わたしだけだったら、一日時間が必要だったからねぇ」

「いえ、お役に立てたのなら幸いです。ジュンタ様もお手伝いありがとうございました」

「な、何のこれしきのこと。ま、まだまだ大丈夫。大丈夫ですよ?」

 完成した致死量トラップを前にして、和気藹々と話しているトリシャとユースに、ジュンタは近くの地面に倒れたまま笑みを向ける。その身体はボロボロだった。

 それもそのはず。テキパキとトラップを直していく二人の手伝いをしようと思ったら、直したトラップが正確に作動するかテストするテストプレイヤーになるしかなかったのだった。
 ほとんどは作動させるだけで危険はなかったのだが、中には下手を踏んで傷を負ってしまうものもあった。そもそもの原因であるために、断れないのが辛い。

(ユースさん。もしかして俺が真犯人だってこと気付いてるんじゃないだろうな?)

 治療を施してくれるし、それはないとは思いつつも、ジュンタは自分のボロボロ加減を見てそう思ってしまう。

 身体についている謎のジェル状の物体を手で払いつつ起きあがる。
 それから足下に細心の注意を向けつつ、二人の元へと近付いていった。

「それで、他に壊れたトラップはないんですよね?」

「はい。これで全部だと思います」

 九時くらいから始めて、今はちょうど十一時ほど。風の魔法使いであるユースと、さっさと罠の本体を作っていくトリシャのコンビネーションにより、思いの外早く修復作業は終わってしまった。

「それじゃあ、これから宿に戻るんですか?」

「いえ、その前に新しい罠を森に仕掛けようと思います。これまでのものでダメだったのですから、新しく強力な罠を作らなければなりません。……もしかして傷が痛みますか? でしたら、ジュンタ様は先に宿に戻られても構いませんが」

「大丈夫大丈夫。そういうことなら、最後まで付き合いますから」

 そう言ってから、それの意味することが、さらに強力になるという罠を身をもって体験することに他ならないと気付き、ジュンタは顔面を蒼白にさせる。

「別に遠慮なさらなくても大丈夫ですよ? トラップが危険ですので、私がきちんと送らせていただきますから」

「いや、本当に大丈夫です。これも一つの修行と思えば。罠を見分けられるし、脱出方法も分かってきたし、何より突然罠に引っかかっても慌てない慣れができそうだし」

「そうですか? そう言っていただけると、正直をいって助かりますので嬉しくはあるのですが」

 前向きなのか後ろ向きなのかわからないジュンタの発言に、ユースはニコリともせずに頭を下げる。いつも通りの無表情なだけで、その実ちゃんと彼女が感謝しているのはわかった。

 そんなユースを見ると頭に過ぎるのは、いつでも完璧なメイド服でメイドメイドをしているユースの胸の谷間。バスタオルで抑えられて強調された胸元は瑞々しい果実のようで…………忘れろ。忘れるんだ。最低ですよ。

「ほほっ、なるほど。うちのユースも捨てたものじゃないねぇ」

 ジュンタが自分に言い聞かせていると、トリシャから意味ありげな発言があがる。

「トリシャさん?」

 視線を向けると、そこで意味深に微笑むトリシャの姿をジュンタは見た。

「何も言わなくても大丈夫ですよ。どうです? この前は冗談でいいましたが、うちのユースなんて恋人にどうですかねぇ。きっと尽くしてくれると思うんですが」

「何を言っているのですか。そんなことを言って、またジュンタ様を困らせないでください」

「はぁ。これだから、わたしは心配なのよ」

 ちょっと瞳に真剣さを漂わせているトリシャのお願いにジュンタが言葉を詰まらせている横で、ユースが呆れた様子で話を強引に終わらせた。

 何やら恋愛事に淡泊な様子を見せるユースが気にくわないらしく、トリシャは標的を変更し、彼女に向き直って言い聞かせるように話し始めた。

「ユース。確かにリオン様の良人になるご予定のジュンタ様に話を持ちかけたのは冗談だけど、あなたに誰かいい人ができて欲しいってのは本当だよ。何なら、わたしが捜してあげようか?」

「結構です」

「そうかい。それじゃあ、早い内に子供の姿をわたしに見せてくれないかねぇ。結婚前に子供ができても、わたしは気にはしないよ。でなきゃわたしは、心おきなく夫の元へと行けないしねぇ」

「ですから、そういうことは冗談でも言わないでください」

 眉根を寄せて溜息を吐いたトリシャに、ユースが強い調子で少し怒りを露わにした。

「ユ、ユースさん?」

 いつも冷静なユースが見せたこれにはジュンタは驚いた。
 しかしトリシャに動じた様子は見られず、むしろ呆れる様子を強めるだけである。

「……ユースや。よく覚えておきなさい。変わることを恐れていたら、欲しいものは手に入らないよ」

「っ!」

 親に叱られた子供のように、少し吊り上げていた眉を、今度は逆にユースは下げる。

 さっきまでコロコロ笑っていたトリシャは、無言でユースに背中を向けると、

「さてと、新しいトラップを仕掛けるのは、『不死鳥の湯』の現所有者であるわたしの仕事さ。ユースはジュンタ様を宿に送り届けて、犯人を捜しているリオン様のお手伝いをしておあげなさい。メイドたるもの、あまり主人を放っておいてはいけないよ」

「……はい。わかりました」

 軽く顔を伏せたユースが返事するのを聞いてから、トリシャはゆっくりと森の奥に消えていく。そちらは、ジュンタの記憶では『騎士の祠』がある方だった気がする。宿とは反対方向だ。

「すみません、ジュンタ様。トリシャさんが変なことを」

 どうやら後は一人でやるつもりらしく、取り残されたジュンタは、何やら落ち込んでいる様子のユースに何を言っていいやら悩んでいると、逆に彼女の方が口を開いた。

「トリシャさんにも悪気はないのです。昔から私の子供を抱くのが夢らしく、最近は来る人皆さんに声をかけて……本当に申し訳ありません」

「いや、別に気にしてないですから。ユースさんも気にしないでください」

「ありがとうございます」
 
 頭をもう一度下げて、上げたユースの表情は、やはりいつもと同じ無表情。けれどその仮面の奥の本心では、先程のトリシャの言葉が燻っているのが簡単に見透かすことができた。

「……ユースさん。どうしてトリシャさんは最近、ユースさんのことを心配するんですか?」

「それは……」

 訊いてはいけないことなのかも知れないが、トリシャがユースを悩ますのを承知で、結婚の催促をする理由が気になってしまった。

「あ、別に話すのが嫌なら、別に言わなくても大丈夫ですけど」

 ユースの態度も気になったし、そう付け加えて、ジュンタは質問にしてみた。

 ユースはしばし困った風に押し黙ったあと、一度トリシャがいなくなった方を見て、それから宿屋の方――正確にはそこにいる誰かのことを思ってから口を開いた。

「そうですね。ジュンタ様にはお話しておいた方がいいのかも知れません。アニエース家という家の事情を。――道すがらお話します。足下に気を付けてついてきてくださいませ」

 静かに決意を固めたユースが歩いていく後を、ジュンタは言われたとおりついていく。

 少しだけ森の中を歩いたあと、トラップが少なめのエリアに入ってから、ユースは話を始めた。

「トリシャさんが私に誰かとの婚約を勧めるのは、昔からあったことでした。私はご覧の通り、あまり出来が良くはありませんので。きっと心配なのでしょう」

「いや、ユースさんで出来が悪いなんて言ったら、世の中のほとんどの人がダメ人間ってことになりますよ」

「ありがとうございます。ですがこれは謙遜でも自虐でもなく、事実なんです。
 確かに、今の私はリオン様の従者を務めることができています。これは私の誇り。ですので、今の私が有能であるということは謙遜してはいけないことなのでしょう。ですが、トリシャさんと出会ったとき、間違いなく私は出来が良くなかったのです」

「昔の話ってことですか? それはどういう……?」

「身体が弱かったんです、私は。それも十八歳――結婚ができる年齢まで生きられないだろうと医師に宣告されるくらいに」

「え?」

 初めて知らされるユースの過去に、ジュンタは素直に驚く。

 身体が弱かった――そういったユースであるが、今の彼女は健康そのものに見える。
 ずっと一緒にいるには体力が必要なリオンといつも一緒にいるし、魔法も使える。さっきまで精力的に罠を直していたのも見れば想像しろという方が無理な話だ。

「もちろん、それは昔の話です。生まれたときは医師にそういわれたそうですが、今ではご覧の通り元気になりました。ですが、私の家はしっかりと生きて、子供を産むことを責務とする家でした。ですから私は、間違いなく出来が悪かったんです」

 なるほど。と、ユースの話にジュンタは納得した。

 ユースの家であるアニエース家は、代々竜滅姫の従者を努めてきた家系なのだという。
 ならば竜滅姫が絶えてはいけなかったように、またアニエース家の従者も途絶えてはいけなかっただろう。二つは等しく、血を次代に継ぐ責務を持つ家といえる。
 
 けれど、そんな家に生まれてしまった病弱な娘――結果的に今は元気だったとしても、生まれたばかりの彼女は長き血を途絶しかねない子供だった。それを出来が悪いというのはあれかも知れないが、少なくともユース自身はそう思っているようだった。

 昔の話――そう語って、昔を思い出したようにしばしユースは黙る。

 森の終わりが見え始めた頃に彼女が話を再開させるまで、ジュンタも何も言わず、黙って続きを待っていた。

「ジュンタ様。アニエース家は代々竜滅姫の従者を務めてきた家です。カトレーユ・シストラバスにはトリシャさん。今代の竜滅姫であるリオン様には、不肖の身ながら私が。……我々は竜滅姫様が誕生したその瞬間に、自分の仕えるべき主君が、支えるべき姫が決まるのです」

 話を再開させたユースが最初何を言いたいか、ジュンタには分からなかった。
 
 理解できたのは、次のユースの言葉を聞いてからだった。

「では、私たちが竜滅姫様の従者の義務を終え、長年続く『不死鳥の湯』を継ぐのは、一体どの時節になるのでしょうか?」

 それが、トリシャが元気になったはずのユースの結婚を心配した、ある意味での正解。
 つまりトリシャは、ユースに対して持っていた『結婚』に対する心配を、リオンというユースの主君を見て再発させてしまったのだろう。

「半年前、リオンは死ぬかも知れなかった。子供を産めず、血を絶やしそうになった」

「そしてそれは、死なないはずのものが、絶えないはずものが、ある日一瞬で終わってしまうことを教えてしまう結果になりました。トリシャさんが私を心配しているのは、私がいつ死んでもおかしくないから。恋人の一人もできたためしのない跡取りが、子供をちゃんと残してくれるかどうか心配だからなのでしょう」

 果たして本当にそうなのかとは、ユースの話に奇妙な違和感を覚えるもいえない。

 出会ったばかりのトリシャという女性が、リオンのように血を第一と考える女性でないとは決していえなかった。少なくとも、ジュンタより長い間接していたユースにはそう思えるのなら、その可能性の方が高いといえる。

「古き血の定め。リオン様が絶やしたくないと思うように、私もまた絶やしてはいけないと思っているもの……絶やしてはいけないこれには、また避けられぬ定めも付随してきます。不死鳥の従者の宿命に、またいずれ私も晒される日が来るのかも知れません」

 アニエース家にもまた宿命がある。
 それは不死鳥の従者であること。次代の竜滅姫の従者となる我が子を残すこと。

 つまり、カトレーユ・シストラバスの従者であったトリシャが『不死鳥の湯』を継いだのは、僅か十年前の話なのだろう。そしてユースが『不死鳥の湯』を継ぐのは、まだ不確定の未来のこと。決めるのはユースでもトリシャでもなく、リオンなのだ。

「ジュンタ様。私には、こんな私を育ててくれたトリシャさんのために、『不死鳥の湯』を継ぎたい気持ちがあります。けれどそれよりもずっと、未来永劫継ぎたくない気持ちもあるんです」

「それは……」

「はい、そうです。私が『不死鳥の湯』を継ぐとき、それはつまり竜滅姫――

 ユース・アニエース――竜滅姫リオン・シストラバスの従者である女性は、はっきりと告げる。

――リオン様が亡くなられた、その時になんです」

 己が宿命。不死鳥の従者の宿命を。

 それはまた竜滅姫と関わる全ての者に与えられる、避けられぬ宿命なのだった。

 


 

       ◇◆◇


 

 

「あら、早かったではありませんの。トラップの再設置はもう終わりまして?」

「はい。ジュンタ様ががんばってくれましたので。新しい罠は今トリシャさんが仕掛けています」

『不死鳥の湯』についたジュンタとユースは、すぐに覗き撲滅委員会の仮本部である、宿の食堂へと報告に赴いた。

 そこで狩りの計画を話し合っていたリオンとゴッゾへとユースは近付くと、自分がしてきたことの報告をする。ジュンタはその姿を少し離れた場所から見た。

 淡々と報告するユースと、彼女の言葉に信頼を置いて聞くリオン。従者と主君の理想的な立ち位置で、だけどとても慕しそうに二人は会話を交わしていた。

「ユースさんが『不死鳥の湯』を継ぐのは、リオンが死んだそのとき、か」

 そんな姿を見ていると、この場所に辿り着くまでに聞いたユースの話を思い出さずにはいられない。

 代々竜滅姫の従者として血を繋ぎ続けてきたアニエース家。その従者としての役目が終わるという意味。トリシャがこの『不死鳥の湯』を継いでおり、またユースがいつか継ぐことが半ば決まっていること。次代の不死鳥の従者を残す責務。

(ユースさん。それにシストラバス家の騎士たち……全てがリオンやカトレーユさんのような竜滅姫を中心に抱いて、長い間に宿命と呼べるものができているのか)

 本当に、竜滅姫というものは罪深いとジュンタは思う。

 この世を脅かす厄災――ドラゴンを滅する姫君。不死鳥の血を継ぐ紅き騎士。
 
 自身の死を受け入れて、大切な者のために祖先の背中を追う、血の宿命を是とした女たち。千年に渡って繰り返し同じことを、偉大なことを絶やすことなく受け継がせてきた、ドラゴンに対する人の希望――

 もしかしたら、彼女たちと関わる人間はまず、その宿命を受け入れなければならないのかも知れない。

 竜滅姫はやがて死ぬ。彼女たちはそれを望み、貫き通そうとする。誰の言葉にも首を横へ振らずに、ただその生き様で魅せ続ける……尊い生き様であるそれは、しかし残されゆく人間からすれば悲しいこと。

(竜滅姫と接することは、つまり目の前の少女がいつか死ぬと覚悟すること。シストラバスの騎士たちはそれを拒もうと想いを託し続け、アニエース家は支えようと血を絶やさぬことをその身に課した。……それはつまり竜滅姫が死ぬ運命にあることを覚悟して、だけど抗おうと、だから傍にいようとしているってことなのか)

 死ぬことが決まっている人の傍に一緒にいる。それはとても辛く、大変で、すごいこと。

 竜滅姫と一緒にいる人たちは、リオンの傍にいる人たちは、そんなすごい人たちばかりなのだ。改めて、ジュンタはその事実に気が付いた。同時に、自分はどうなのかと思う。

(俺はどうなんだ? 俺はリオンが死ぬことが許せなかった。拒もうとした。その歴史を否定して、我が儘だと憤って……それは紅き剣の夢とは、同じようで違うんじゃないか?)

 理解しているふりをしていただけで、現実にはリオンが死ぬ運命にあることを受け入れていない自分に気が付いた。

 自分はリオンの代わりに死ぬことができる人間だから、他の人には該当する覚悟も必要ないのかも知れない。だけど……

 リオンの笑顔を見たジュンタは、そのままそんな娘の姿を微笑ましそうに見つめるゴッゾへと視線を移す。

 竜滅姫の良人となった男性――ジュンタがなりたくて、なろうとした立場にいる人。

(不死鳥の騎士たちがドラゴンを倒す覚悟をしたように、不死鳥の従者が傍に居続けることを覚悟したように、不死鳥の番になる相手にも、覚悟が必要だったのかも知れないな。
 俺はそれを知らなかった。気付くことができなかった。まだ、俺は竜滅姫のことを、リオンのことを理解していなかったのか)

 ゴッゾが何を考えてカトレーユと結婚したかは分からない。けれど、リオンを死なすまいとした彼は、カトレーユという最愛の人の死を経験しているのだ。

 その最愛の人を失う辛さが、娘がいつか死ぬ運命にあるという苦しみが、もしかしたら竜滅姫の良人になる人に課せられてきた宿命なのかも知れない。それを覚悟せずに竜滅姫の隣に立とうなんて、片腹痛いと言えよう。

「リオンは根っからの竜滅姫だった。なら、俺はまずそれを理解するべきだった。……なんだ。結局、最初から断られるのは決まってたようなものじゃないか。何も理解せずに恋人になろうなんて、調子がいいにも程が過ぎたんだ」

 ああ、だけど。きっとあの告白がなかったら、告白したことは後悔するべきものじゃないと知った夜がなかったら、このことには気付くことができなかっただろう。

 なら、気付くことができた今、もっともっと悩めばいい。

 時間はある。道は続いている。見果てぬ世界には、まだまだチャンスが溢れている。
 何を選ぶかまだ分からないけれど、選んだ道を後悔しないように、今知ったことは胸に刻んで決して忘れないようにしよう。

 例え何があっても、どんな関係でも――きっとサクラ・ジュンタはこれからも、リオン・シストラバスと一緒にいるだろうから。

 


 

       ◇◆◇


 

 

 トリシャ・アニエースが不穏な気配を感じ取ったのは、罠も仕掛け終わり、空が夕焼けに染まる頃のことだった。

 魔力の流れや収束を阻害する森には、元より普通の場所とは違う空気が流れている。それでもおかしいと思えたのは、帰り道、ユースが直したはずの罠の一部がなぜか壊されて発見されたからだった。

「罠が壊されている……どういうことかしら。また、例の覗き魔がやってきたのかねぇ」

 母親から老舗旅館である『不死鳥の湯』を継いだトリシャは、その責任者として覗き魔を捕まえなくてはならない。

 今旅館で犯人探しをリオンたちがしている。一人で行くのは危険だがどうするべきか?
 少し悩むトリシャだったが、その悩みを意味のないものにするように、敵は向こうからやってきた。

「ようやく見つけたわよ」

 ガサリと木々を揺らして目の前に下りた相手に、トリシャは軽く目を見開く。

「おやまぁ、意外なこと。覗き魔が女性だったなんて。しかも、まさかこのわたしをご所望だとは。いい趣味してるねぇ」

「覗き魔? ……まぁ、いい。私があんたをご所望しているのは事実だしね」

 十メートルほどの位置でローブをはためかせる相手を、ピンと伸びた背筋をさらに伸ばして、トリシャは注意深く観察する。長く生きていた勘が語っていた。目の前の女は自分の敵であるのだと。

 現れた女性は年齢二十代前半ほどながら、年齢に似合わぬ妖艶とした雰囲気を持った女だった。

 ジェンルド帝国の方に多い褐色の肌をしていて、薄紫色の髪をアップにして纏めている。目鼻立ちがはっきりとした彫りの深い顔で、ローブの下には露出の激しい薄手の服。かつてのラバス村のような秘境の女呪術師といった風貌の魔法使いである。

「一応確認しておくわよ。アンタ、トリシャ・アニエースで間違いないわね?」

「ええ。間違いなく、わたしがトリシャ・アニエースよ。そちらの名前もうかがっていいかしらね?」

「グリアー」

 素っ気ない名乗りの言葉。騎士が己の名を誇るような名乗りではない、ただ記号としての呼び名を教えるだけの名乗りだった。

 魔法使いの女――グリアーは厚い唇を軽く舐めて、ローブの下からナイフを取り出す。

「おやおや、前口上なくいきなりかい? 風情がないねぇ」

「生憎と、私は獲物を前にすると我慢が効かなくなるタチでね。老婆なのが少し気に入らないけど、その血をここにぶちまけてもらうよ」

「本当に失礼な人だこと。老婆だなんて、わたしはまだ十分に若いのに」

「言うね!」

 両手に握ったナイフを逆手に持ち替え、グリアーが襲いかかってくる。

 直線にして十歩程度の距離――しかしナイフがトリシャの元に到達したのは、僅か数歩の後のことだった。

「シっ!」

 大気がうねるような魔力の流れと共に、グリアーの身体は疾走の途中で加速した。
 緑の輝きは確かにトリシャの目に映り込んで、グリアーが風の魔法を使ったことは容易く見破ることができた。

 トン、とグリアーの攻撃を軽やかに避けたトリシャは、重さを感じさせない動きで宙返りしたあと地面に着地する。

 着地の瞬間、僅かに足下で起きた風もまた魔法によるものだった。

 一瞬の攻防を経て、また再び十メートルの距離を取って二人は対峙する。

「あなたが魔法使いだってことには気付いていたけど、そうなの、あなたも風の魔法使いなのね」

「そうよ。そして、もちろんあんたも。竜滅の炎を燃え上がらせる、風のアニエース家。見事な風の操りね」

「ありがとう。あなたもまだ若いのに、なかなかのものだわ。ちょっと血生臭い風なのが欠点だけど」

「それはごめんなさい、ね!」

 言葉の最後の瞬間に、グリアーが手より投擲したのはナイフだった。

 一直線に顔面めがけて突き進むナイフを見て、トリシャは素早く避けると共に理解する。何の躊躇もなく急所を狙ってきたことといい、血生臭い匂いを纏っていることといい、グリアーという女はただの覗き魔なんかではないことを。

「やれやれだわ。有名税っていう奴かしら」

 避けた先を先読みして放たれた二つ目のナイフを、トリシャは避けることなく自然体で迎え入れる。

 ローブから新たな二本のナイフを取り出したグリアーは、傷一つないトリシャを見て舌打ちし、今度はその手に魔法を放つ気配を通わせながら口を開いた。

「風で加速させたナイフを素手で受け止めるなんてね。ただの老婆扱いしたことは撤回させてもらう。厄介なババア、って呼ぶべきだわ」

「酷い言い草ねぇ。こんなか弱い乙女に対して」

 トリシャは人差し指と中指だけで受け止めたナイフに視線を注ぎ、その後小さく溜息を吐いて手のひらで柄を握りしめた。

「毒を塗ったナイフねぇ。あなた、暗殺者かしら? 生憎と人のいいトリシャ婆やとして通ってるものだから、誰かに恨みをかった覚えはないのだけれど」

 ナイフの刃には致死性の毒が塗られていた。この程度なら皮膚に付着する前に分解してしまえるが、普通の人間ならかすっただけで重傷となることだろう。

 間違いない。笑って人を殺せ、紛れもない凶器を使うグリアーは、職業として人を殺す暗殺者だ。一体誰の差し金か。グスト村で隠居生活を送っているトリシャには、とんと覚えがなかった。

「暗殺者っていうのは当たりよ。だから悪いけど、依頼主については言えないわね。ただ、別に怨恨が理由じゃない、とだけ教えておいてあげるわ」

「これはこれは、どうもありがとうね。怨恨じゃないと聞いて一安心したわ。生い先短いのに、誰かに殺したいほどに恨まれているなんて冗談じゃないもの。
 だから、いいことを教えてくれたあなたに、老婆心から一つ教えてあげるわ。――本当の本当に一流の暗殺者はね、どんな些細なことでも任務について語らないものよ」

「言ってくれるわね。人が折角、これから死ぬあんたに冥土のみやげをプレゼントしてあげたっていうのに」

「殺せなかったときの可能性を考えるべき、ということだわね。もしもあなたがわたしをここで殺せなかったら、あなたが語った情報は然るべきところに伝わることになるもの」

「……大事なことは何も話してないわ。問題はない」

 そんなことはない。先の発言だけでわかることは多い。

 不快気に顔を歪めているグリアーに殺しの依頼をした人間は、恐らく自分が会ったことのない相手であろう。怨恨ではない、という辺りからこのことがわかる。間接的に人の恨みをかっていたとしても、殺されたいほどに思われているなら情報は入ってくる。

 そして怨恨ではないとなると、狙われた理由は別のところにある。つまりは、何かをするのに邪魔だから、あるいは死んでくれた方が都合がいいから殺されようとしているのだ。

 あんまりといえばあんまりな理由だが、そう考えればトリシャにも狙われる理由に覚えがないことはない。

 これでもシストラバス家と縁深い、アニエース家の現当主だ。いなくなることによってシストラバス家に損害を与えたりと、様々なうまみはあろう。

(けど、わたしの死が結果的に生むものが目的なら、何もリオン様やゴッゾ様がいるときに仕掛けては来ないでしょうねぇ。名前を知ってるなら下調べもしたでしょうし……何か急いでわたしを殺さなければいけない理由が、ある?)

 グリアーの発言からそこまでを考えたトリシャは、そこで一端思考を打ち切る。

 何か自分が大きな事件に巻き込まれていることは理解できたが、これ以上は今のところわからない。一つの大事なことだけを理解できたのだから、後はもういいだろう。

 つまり――

「アニエース家を狙うなら、ユースも狙っているのかねぇ? だとするなら――許してはあげないよ!」

 グリアーの驚きが夕陽に染まる森に伝播する。

 穏やかな空気を消して、闇に溶け消える暗殺者のように姿を見えなくさせたトリシャに、グリアーは行使しようとしていた魔法の目標を失って一瞬の隙を作る。

 その時には凄まじい速度で背後に回っていたトリシャは、魔法陣の構築を終えていた。

風よ 戒めの鎖となれ

「後ろに!?」

 トリシャの手より至近距離から、蜘蛛の巣のような風の封鎖がグリアー目がけて放たれる。

風よ

 攻撃のために収束させていた魔力を、束縛の魔法を回避するためにグリアーは使う。
 囲い込むようにして身体を捕まえようとしてきた風の封鎖より、間一髪グリアーは抜け出た。彼女が羽織っていたローブだけがはぎ取られ、きつく封鎖に捕らえられる。

 大きく距離を取ったグリアーは、色香を放つ肉体を惜しげもなく晒し、いきなりの攻撃に出たトリシャを睨みつける。

「一体どんな動きなのよ。こっちはこの気持ち悪い森の中では魔法を使うのも一苦労だっていうのに。私よりも暗殺者らしい動きだったわ」

「当然。メイドは主を守る最終防衛ライン。忍び寄る暗殺者を迎え撃つために、暗殺者の技能は一通り会得済みだよ。さて――悪いけどお話はこれで終わり。あなたには色々と吐いてもらうわ」

「何を世迷い言を。楽しくなってきたばかりじゃない。本当の戦いはこれからよ」

 グリアーは楽しくてしょうがない――殺し合うのが楽しくてしょうがないと言った顔をする。それは淫靡な、女が閨で魅せる顔によく似ていた。

 実力の一端を見せた今、もはやグリアーに手加減はないだろう。風の魔法使い同士、暗殺技能を持つ者同士、魔法のぶつけ合い、背後の取り合いが行われるのは想像に容易い。

 そう、ここがアニエースの森と呼ばれる、トリシャのホームグラウンドでなければ。

「いいや、もう詰みなのよねぇ。あなたが立っているそこは、さっき仕掛けたばかりの罠があるところなのよ」

「なにっ!」

 トリシャの笑みを見て、グリアーが咄嗟に横へと避ける。

「馬鹿なババアね! 自分から教えるのは二流じゃなかったの!」

「その通り。自分から教えてしまうのは二流で――

 その瞬間、グリアーは本当に詰まれたのだ。

――それすらも利用するのが、超一流というものさ」

 声もなく、隣の地面に着地したグリアーが泥状に変化した地面に沈む。
 落とし穴ではなくアリ地獄のように、ずぶずぶとグリアーの身体を足から飲み込んでいく泥は沼に近かった。

「これはっ!?」

「動きを封鎖して、なおかつ魔力の流れをせき止める罠だよ。魔法使いにとっては天敵さ」

 胸元まで沈んだグリアーへと、トリシャは近付いて見下ろす。

 筋は良かったがまだまだ若い。いと高きシストラバス家の竜滅姫の従者を務めていたトリシャには、敵うはずもない若さだった。

 それは余裕と呼ぶべきもので――同時に油断にも繋がった。

 次の瞬間、泥より抜け出たグリアーのナイフが、トリシャの肩を深々と突き刺していた。

「むぅ!?」

 予想外の反撃に戸惑うのを最小限に抑え、トリシャは肩に刺さったナイフを引き抜き、片手に持っていたナイフと合わせてグリアーに向かって投擲した。が、それは木々の合間を駆ける彼女には当たらずに木の幹へと突き刺さってしまう。

(ぐっ、油断したわねぇ)

 ナイフが刺さった肩に手を触れ、即座にトリシャは魔法陣を構築する。

解読された毒の血よ 我が血は汝の汚れを拒絶する

 それは応急手当でしかない治癒魔法だった。ホームグラウンドであるが、魔力の収束を阻害する森では、中和の術式を挟んでいない咄嗟の魔法は使いづらい。何とか毒が全身に回ることは防げたが、毒が直接入った左手は使い物にならなくなってしまった。

「……驚いたねぇ。まさか魔力封じの罠が効かないなんて」

「驚いたという台詞はこっちの台詞よ。勉強になるわ。今回は偶々、一月ほど前に牢屋暮らしを体験してね。そこに行く原因になった戦いから学習して、同じ敵と戦うかも知れない今回、拘束から逃れる魔法を前もって自分に施しておいたのさ」

 運が良かっただけ――そう語るグリアーだが、紛れもなくそれは強さだ。窮地から脱出したのみならず、相手の腕一本を奪ったのだから。

(失態だねぇ。やだやだ。いくら誤魔化そうとしても、老化による衰えは誤魔化せないってことかしらね。[解毒アンチトード]の魔法を使うのに、これほどの詠唱と時間が必要になるなんてねぇ)

 とにかく、これで本当に魔法戦と肉弾戦を目の前の女と繰り広げられなくなってしまった。

 罠はまだまだある。けれど、今の衰えた体力と魔力量で勝てるか――否、そんな考えでは勝てる戦いも勝てまい。

「さて。それじゃあ改めて、楽しい戦いを始めましょうか。精々、鮮やかな血を見せてちょうだい」

「悪いけれど、負けるわけにはいかないのよ。大事なわたしのお姫様たちの花嫁姿を見るまでは」
 
 トリシャは服の裾からナイフを一本取り出して、じっとグリアーのグリーンの瞳を睨む。

「竜滅姫カトレーユ・シストラバスが従者トリシャ・アニエース。まだまだ若い者には負けないよ!」

 陽が沈む。暗闇に閉ざされる森に、風の輝きが幾重にも舞い上がった。

 


 

       ◇◆◇


 

 

「くっ、現在ラバス村にいる怪しい人間の昨夜のアリバイは完璧でしたわ」

「それは残念だな。うん、あれだ。もしかして覗き魔はすでに村を後にしたんじゃないか?」

 歯がゆそうにテーブルに手をついてうなだれるリオンを、ジュンタは若干引きつった笑顔で励ます。

 言えない。今更もう言えない。自分が、自分たちが犯人だなんて。

「たとえそうだとしても、この村に犯人がいる可能性がある限り、私は諦めませんわ。いえ、もし犯人が村の外にいたとしても、必ず見つけ出して八つ裂きにしてくれます!」

「八つ裂きはさすがにやばいんじゃないかと、第三者の倫理的な方面から指摘してみる」

「馬鹿も休み休みに言ってくださらない? 乙女の柔肌を汚した不埒者に手向けられる倫理はなく、私こそが絶対正義! ふふっ、安心なさい。あなたにも犯人の哀れな姿ぐらいは見せて差し上げましてよ」

「いやぁ、すっごく嬉しくない」

 右手中指にはめた指輪を愛おしげにさすりつつ、青筋を浮かべるリオンは超恐い。
 
 感情の起伏が激しいリオンだが、今日は一段とすごい。
 本当に覗き魔が目の前に現れたら、即刻首チョンパに走りそうなくらいである。

 まぁ、かつてジュンタもリオンの湯浴みを覗いたことはあるわけで、そのときもかなり怒っていたが。あの時は色々あって何とか無償奉仕で許してもらえた……のかは定かではないが、一応終わったことにできたのだが、此度の犯人はそれで終わりそうにはない。

 青ざめた顔でジュンタは笑うリオンを眺め、ぶるりと肩を震わせた。こんな時ほど、猫の振りをしているサネアツが羨ましく思える瞬間はない。

「……気に入りませんわ。なんですのジュンタ、あなたのそのやる気のなさは?」

「ん?」

 ここに犯人はいるが見つかっていないため、リオンの怒りの矛先はジュンタに向かう。不機嫌そうに腕を組んだリオンが、ジロリと半眼で睨みつけてきた。

「分かってますの? 不埒なる輩にこの私とクー、ユースやクレオメルンさんの裸を見られたかも知れませんのよ? だというのに、そのやる気のなさはあり得ませんわ。ここは男として、死にものぐるいで犯人を見つけ出そうとするのが正しい反応ではありません?」

「まぁ、そうだな。確かにクーの裸を誰かに見られたなら、プチッと潰さないといけないな」

「……クー限定ですの?」

「下手に突くな。まだ二日しか経っていないのに、お前は俺にどんな言葉を期待してるんだよ?」

「そ……そ、そんなのどうでもいいことですっ!」

 狼狽えつつリオンはそっぽを向く。お互いに何でもないように接しているが、やっぱり告白の影響はそこそこ残っているのである。

 リオンは自分の在り方を見つめ直すことで、ジュンタはそれなりに振られた理由を受け入れたことにより自然体でいられるが、それでもその話題を突けば場に満ちるのは何ともいえない空気だった。

「……下手に女々しくされるよりはマシですわね。よろしい。先程の発言は聞かなかったことにして差し上げます」

「それは光栄ですお姫様。それで、この後は一体どうするんだ? もうすぐ夕食の時間だし、まさか夕食後も犯人探しを続ける気…………に決まってるよな。お前に限っては」

「当然ですわ! 明日帰らなければいけない私たちには、あまり時間は残されていません! 何としてでも今日中に怨敵の詳細を突き止めなければ、ランカに帰ったとしても健やかな毎日を過ごせませんもの!」

「お前、報復が大好きだからな。……これはばらすタイミングを見計らっておいた方がいいかもなぁ。まずはクーから籠絡するか」

「今何かいいまして?」

「いや、なんでも」

 意気込みを新たにするリオンに対し、ジュンタはどうしたものかと、男のみでの話し合いが必要であることを認識する。
 
 とにかく隠すにしろばらすにしろ、リオンの怒りがおさまるときを見計らう必要がある。タイミングを間違えればそのままデッドエンドだ。告白の玉砕に続いての軽蔑の視線は、さすがのジュンタでもきつかった。

 そんなこんなで、覗き魔滅殺計画本部だった食堂は、一時の間だけ元の食堂に戻る。

 村に散り散りになっているみんなももうすぐ帰ってくることだろう。
 それまでの間、ジュンタはリオンを少しでも宥めようと、話すべきことを考えるのだった。


 

 

 夕陽が沈んだ頃、ユースはのんびりと『不死鳥の湯』の縁側で涼んでいた。

 お風呂を覗いた怨敵をサーチ&デストロイする計画を練っていたリオンの相手は、今はジュンタがしてくれている。告白によるギクシャクした部分をすぐに和らげて接せられる二人は、本当にすごいと思う。
 
 犯人探しはいまいち進展を見せないが、明日明後日あたりには見つかることだろう。シストラバス家が本気を出したなら、この一帯からは誰も逃げられない。すぐにでもリオンらによる粛正が行われることだろう。

 ユースも女であるからして、覗かれた可能性がある事実に憤りがないわけでもなかった。けれど、彼女たちほど熱くはなれないのもまた事実。熱くなってがんばったら、あまり芳しくない真実を見つけてしまいそうなので、今回は大人しくすることに決めていた。

 そんなわけで、夕食の席が用意されるまでのんびりとしていた。

 ゴッゾも暇ではないため、犯人が捕まろうが捕まるまいが、明日の昼には此処を立つことになる。そうなれば懐かしきこの旅館ともしばしのお別れだ。最後の夜くらい、のんびりしても罰は当たるまいというか休めと言われてしまった。

「……暇ですねぇ」

 屋敷ならリオンやらエリカやら、色々とやることがあって暇などほとんどないが、リオンの相手をジュンタが努めてくれている今、ユースは本気で暇だった。

 ある意味では最後の最後でようやく、温泉旅行らしいムードになったと言ったところか――自分が働きすぎるきらいがあるのは自覚しているが、リオンたちのために働くのが楽しくて仕方がないのだからしょうがない。

「温泉にはきっと後でリオン様と一緒に入ることになるでしょうし……そういえば、屋敷の動物のお世話、ちゃんとエリカはしてくれていますかね」

 暇をもてあましていると、浮かんでくるのは屋敷でのことばかり。しかも仕事に関係することばかりだ。

(トリシャさんが心配するのも当たり前という感じですか。婚期間近の女が考えることが、仕事のことだけだなんて)

 銀縁眼鏡の奥の瞳をちょっと細めて、ほぅ、とユースは溜息を吐く。

 最近とりわけ多くなってきたトリシャからの結婚の催促。
 迷惑とはいえない。このままだといつまで経っても何の色恋もなさそうなことには自覚がある。ユースだって結婚願望がないわけじゃない。

 ただ、仕方がないのだ。好きになる相手がいないのだから。

「恋、か」

 ユースにとってそれは未知も同じもの。

 確かに初恋と呼べるものは経験したが、あれは自覚した瞬間には何もかもが終わっていた。
 恋というよりは失恋。恋するという感覚は一切わからず、わかるのは失恋の痛みくらいのもの。

 いや、そもそもあれを恋と呼んでいいものか……考えれば考えるほどに、自分の未来が不安になってきた。

(私もいつか恋をして、誰かと結婚することがあるのでしょうか?)

 あるかも知れないし、ないかも知れない。否定できないところが悲しいが、このまま独り身で人生を終える可能性は十分考えられた。

(とにかく、すぐには無理でしょう。少なくとも、リオン様が結婚されるまでは、私はきっと恋などには出会えない)

 出会えないというより、出会おうとしないと言うべきか。ジュンタとリオン。あの二人の道程を見守るのは楽しすぎて、行く末を見届けることが楽しみに過ぎる。途中で焦らされたままでは、恋などには手が出せない。

 トリシャなら、自分の恋より他人の恋に興味があるという時点で溜息をつきそうなものだが、性分なのだから諦めてもらおう。とてもとても大きな恩を感じている彼女を早く安心させてあげたい気持ちはあるが、こればっかりは、ね。

「ええ。これでは、あなたをあの名で呼ぶ日はまだまだ遠そうです、トリシャさん」

 感じる愛情に胸を張って想いを返せる日を願いつつも、今はもう少しだけ待ってもらおう――ある意味では甘えだ。そう、ユースはトリシャに甘えていた。ずっとずっと彼女は見守っていてくれたから、今もまだ甘えているのだ。

「……ずっとずっと、この日常が変わらないものでありますように。トリシャさん。私の花嫁姿を見るまで、子供を抱くまで、死んでしまってはいけませんからね」

 リオンという誇れる主が傍にいて、トリシャという家で待ってくれる人がいて、それに初恋らしきものを抱いた相手も近くにいるわけで……願ってもない。明日死ぬかも知れない恐怖に怯えていた頃では考えられないくらい、幸せな日常だ。

 だから、この日常を永遠に――ユース・アニエースにとって何よりも大切な日常風景。それが誰にも汚されないように。それが何者にも壊されないように。

(そうですよね。明日帰ってしまうのですから、少しくらい孝行してもいいでしょう。トリシャさんまだ帰っていないようですし、迎えに行くとしましょうか)

 ユースはトリシャを迎えに行くために立ち上がる。

 ――そのとき、ふいに強い風が吹いた。

 森から吹いた突風に、翻るメイド服のロングスカートをユースはおさえる。

 何やら森が騒々しいように思われる。何か、嫌な、予感が、した。

「……急ぎましょうか」

 胸の奥でざわつく感覚に、ユースは大浴場である露天風呂を目指すことにする。あの場所は覗き防止のために崖を上がりにくくしてあるが、逆の場合は都合がいい森へのショートカットになる。

 多少の危険はあるが、今は一分一秒でも早く森に――トリシャの元へと急ぎたかった。

 ……そう、ユースは知っている。日常はある日唐突に、何の前触れもなく手よりこぼれ落ちるものであることを。

 だから日常を愛するのなら、続けたいと思うなら、当たり前だと思わないで守ることが必要なのだ。守らなければ、日常はいともたやすく瓦解する。あの日、新たな日常を手に入れた代わりに、それまであった全ての日常を捨てなければいけなかったように。

 けれど、それで良かった。あの時あの瞬間は、何度でも同じ選択をするだろう。

 だから――今の日常だけは絶対に譲れない。

――トリシャさん」
 
 吹き付ける嫌な風に抗い、何でもない日常を愛す魔法使いは飛ぶ。

 輝く緑の光で、夜の闇を切り裂きながら。









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