第十三話 五日目の夜 温泉旅行の最後といえる五日目の夜―― 楽しく宴会が繰り広げられているはずの食堂は静まり返り、冷めてしまった夕食だけが、ぼんやりと蝋燭の炎に照らされていた。 食堂には今回の温泉旅行に参加した面子に加え、後から仲間入りしたクレオメルンとオーケンリッターの全員が集まっていた。 意気消沈しているのは、こんな場面で率先して騒がしくさせるラッシャや、いつでも自信満々なリオン、真面目なクレオメルンなどで、難しく考え込んでいるのはゴッゾやトーユーズ、オーケンリッターなどの大人衆。 その中で、ジュンタは怒りを押し殺していた。 アニエースの森で、血だらけで倒れているユースの姿をジュンタとリオンが発見したのは、三十分ほど前のことになる。 服は破かれ、背中は血まみれ。顔色は死人のように青く、ピクリとも動かない彼女を見て、ジュンタは最初死んでいると思った。それは一緒に捜しに来ていたリオンも同じだったようで、誰よりもユースと仲がいい彼女は酷く取り乱した。 それが一種の沈静剤となったのだろう。ユースに近付いて乱暴に揺するリオンを宥めて、急いで旅館に戻ってきたのが二十分ほど前――その後、治療魔法が使えるクーとサネアツの二人にユースを任せて、他の全員が食堂に集まった。 「一体、誰がユースにあんな酷いことをしたといいますの」 ポツリと、不安と怒りを混ぜ合わせた呟きでジュンタの心の声を代弁したのはリオンだった。 ユースの治療にクーたちが取りかかってから二十分。蒼白な顔でユースの無事を祈っていたリオンもいい加減限界だったのか、あるいは少し冷静になれたのか。口火を切った内容はジュンタが怒っている原因でもあることと同じ。 「いえ、それはわかっていますわ。ヤシュー。その名を持つ男が、ユースをあんな目に遭わせた……そうですわよね? ジュンタ」 「ああ。ユースさんの背中にそう書かれていたのなら、その通りだ」 リオンに強い視線を向けられたジュンタは、強い視線を返して頷く。 倒れていたユースの背中は血まみれだった。そしてそれは、近くに転がっていたナイフで背中に文字を書かれたことが原因であった。 ユースを『不死鳥の湯』へと運ぶ中、リオンはその描かれたメッセージを解読した。 低く怒りを押し殺した声で、彼女が読み上げたのは以下の言葉―― 「ヤシューってのは、俺が前にグストの森ってところで出会ったエルフの男だ。あのベアル教のウェイトン・アリゲイに雇われてた暗殺者だと思う。約束ってのは、いつか戦うって約束だ」 リオンにも先程伝えたことを、ジュンタは食堂に集まった他の面々にも伝える。 ヤシュー――その名は忘れることはなかった。 ジュンタにとって初めて敗北の味を教えられた相手。どうにも憎めない感じがした、いつか強くなって戦うことを約束した男――その男がこの村に現れ、ユースを襲ってメッセージカード代わりにした。 「そのヤシューという男は、ジュンタ君と戦うためだけにユースを襲ったというのかい?」 怒りのあまり上手くしゃべれないリオンの代わりに、この場の代表としてゴッゾが口を開く。その声はいつもの柔和なものとは違う、硬いものだった。 「恐らくは。あいつは戦闘狂だ。きっと俺と本気で戦うためなら、何をやっても不思議じゃない」 「なるほどね。それじゃあ別に、何か大きな事件が起きたというわけではなく、あくまでもジュンタ君個人の因縁の線が強いってわけか」 「いえ、少し待って下さい。それは違うと思います」 そう言ってゴッゾの予想に異議を申し立てたのは、意外なことにクレオメルンだった。 「どういうことかな? ミス・シレ。ヤシューの犯行の目的は、ジュンタ君以外にあると?」 「その可能性があります。これは本来、一部の人間しか知らないことなのですが……」 口をそこでいったん閉じて、クレオメルンは壁に腕を組んでもたれかかる、使徒ズィールの巫女へと無言の質問をぶつけた。 コム・オーケンリッターは、クレオメルンの視線に首を縦に振る。 「仕方がないだろうな。ここに集まっている多くは、信用にたる名高い人物ばかり。クレオよ。聖神教内の機密情報を話すことを、使徒ズィール・シレ聖猊下が巫女、コム・オーケンリッターの名において許可する。責任を全て私が取ろう」 「わかりました。では、お話しさせていただきます。これから話すことは内密にお願いしたい」 オーケンリッターより許可をもらったクレオメルンは、静かに本来部外者には話せない事柄を述べ始める。 「実は少し前、聖地の東巡礼都市イースト・ラグナにあるロッケンシュリマーの大監獄において、脱走事件があったんです」 「脱走不可能とされる『神罰の監獄』で? 初耳だ。それで、一体誰が脱獄を?」 相づちをうつゴッゾに対し、一度言葉を切ってから、溜めるようにしてクレオメルンは言う。大監獄より脱走した、一人の脱獄囚の名を。 「――ウェイトン・アリゲイ。一月前に捕まえられた、ベアル教の導師だった男です」 『ウェイトン・アリゲイ!?』 驚きの声を重ならせたのは、他でもないその異端導師の捕縛に関わったジュンタとリオンだった。 「ちょっと待って下さらない。ウェイトン・アリゲイは確かに捕まえられ、最大の警戒をもってロッケンシュリマーの大監獄に運ばれたという話ですわよ? そしてロッケンシュリマーに一度入れられれば、脱走は絶対に不可能とされているはずですわ。それなのに、本当にあの男は脱獄を果たしたといいますの?」 「ええ。多くの看守を殺し、忽然とロッケンシュリマーより姿を消しました。どうやってあの大監獄を抜け出たかなどは分かっていませんが、誰かが手引きしたのは間違いないでしょう。そしてさらに最悪なことは、アーファリム大神殿よりとある最重要物が同時期になくなったことです」 「それってまさか……?」 脱獄を果たしたというウェイトンと関わり合いが深い物として、すぐに想像がつくのはただ一つ。何度も苦しめられた悪魔の本―― 「『偉大なる書』――そう呼ばれる、人を魔獣に変える恐るべき書です」 これには、事情を知る全ての人間は押し黙った。 脱獄が至難の業のようである大監獄からの脱獄を、あのウェイトン・アリゲイが果たした。同時期に、彼が愛用していた人を反転させる『偉大なる書』が聖地より紛失している。 アーファリム大神殿にウェイトンが忍び込み、『偉大なる書』を盗むことに成功したとは俄には信じがたいが、使徒ズィールの近衛騎士隊隊長であるクレオメルンがいうのなら、それは本当なのだろう。 「ウェイトンだけじゃなく『偉大なる書』まで……管理は一体どうなってたんだ?」 「最高の体勢だったと、フェリシィール様には聞いている。アーファリム大神殿は使徒様が暮らされる、世界で最も神聖なる領域だ。あの場所にベアル教に組する罪人が入り込むことなどできるはずがない」 「なら、どうやって『偉大なる書』は盗まれたっていうんだ?」 「それは……」 ジュンタが突くと、クレオメルンは声を詰まらせた。答えは用意してあるが、口には出しづらい。そんな沈黙だった。 「可能性として一番大きいのは、アーファリム大神殿内にベアル教の協力者がいる可能性だ」 黙るクレオメルンに代わって、答えをもたらしたのはオーケンリッターであった。 「ウェイトン・アリゲイに協力者がいることは、脱獄する手引きをした人間がいることから見てもまず間違いない。ならば、その協力者が大神殿の中に潜り込んでいた。ただ、それだけの話なのだろう」 淡々と語るオーケンリッターの話を聞いて、ジュンタはなるほどと納得する。 道理でクレオメルンが押し黙るはずである。まさか聖地の中の聖域であるアーファリム大神殿内に、こともあろうにベアル教の導師であるウェイトンに与する人間がいるとは、恥以外の何ものではない。 いや、恥で終わらせることもできまい。それが外にばれれば大事だ。下手に部外者に話すことができないわけである。恐らく大神殿内の人間の中でも、知る人間はごく少数だろう。 しかし、その情報はかなり重要なものだ。これで、とある一つの可能性が浮かび上がる。 「件のヤシューを雇っていたウェイトン・アリゲイの脱獄か。だとするなら、今もまだこの二人が一緒に動いていないとは言い切れないね」 可能性に当たり前に気付き、話を進めるのはやはりゴッゾ。 「ユースはかなり強い。ヤシューという男がどれだけ強いかは知らないが、一方的に負けるなんてことはまずないはずだ。それなのにユースが負けたのなら、ヤシューの側にもっと大勢の仲間がいたのかも知れない」 「つまり、ヤシューの背後にはウェイトン・アリゲイ異端導師が――ベアル教が動いているということですの?」 「ヤシューがユースの身体にメッセージを刻んだのはジュンタ君と戦うためでも、ベアル教が何かを進めるために動いている可能性は高いといえるだろうね。ここはラバス村。ベアル教の敵である使徒――『始祖姫』様とも縁深い場所なのだから」 「そうですの。また、ベアル教ですのね」 父親の話を受けて、リオンはグッと握り拳を作る。 真紅の瞳は怒りの炎を燃やし、真紅の髪は逆立つ炎のように輝いている。 「ユースは竜滅姫である私の従者。そのユースに手を出したということは、我がシストラバス家に手を出したも同じ。お父様。もはや対決は免れませんわ。ベアル教はシストラバス家の敵です」 「そうだね。私もこのまま引き下がってはいられない」 親子二人が放つ戦意に、ゾクリとジュンタは魅入られるように背中を震わす。 大事な従者がやられて、今まさに名高き騎士の家の現当主と次期当主は怒っていた。ベアル教は今このとき、名高い不死鳥騎士団を敵に回したのだ。 もちろんベアル教は、ウェイトン・アリゲイは、ヤシューは、ジュンタも敵に回した。 ヤシューのバックにベアル教がいたとしても、それでもユースに刻まれたメッセージはなくならない。間違いなく、ヤシューという男の狙いは自分と戦うこと。ならば、戦おう。ユースを傷つけた報いは、与えてやらなければ気が済まない。 そうやって、徐々に食堂内が敵の在処を見出そうとしていた頃、ガチャリと入り口の扉が開き、ユースの治療にあたっていたクーが入ってきた。 「クー! ユースの容体はどうですの!?」 ユースの調子をクーに飛びつくようにして尋ねたのは、一番心配していたリオン。彼女は不安そうな顔で、クーの小さな肩を掴んで揺する。 「もちろん大丈夫でしたわよね? すぐに元気になるのでしょう!?」 「わ、きゃっ、リ、リオンさん!」 「止さないか、リオン。それでは語れる言葉も語れない」 押し隠していた不安を爆発させるようにクーを揺さぶったリオンを、ゴッゾが嗜める。 リオンははっとなってクーの両肩から手を離し、胸に合わせて寄せた。 「申し訳ありませんわ」 「いえ、お気になさらず。それでユースさんのご様子なのですが……」 乱れた髪の毛を直すことなく、その小さな肩にかかっている命の重みに顔を曇らせ、だけど言わなければならないことだとクーははっきりと口を開いた。 「ひとまず出血は止まりました。背中の傷には治療魔法を施し、痕も残らないでしょう」 「そう、ですの。良かった」 クーの言葉にほっと胸を撫で下ろしたのはリオンだけで、他の面々はこの報告だけではクーの曇り顔の理由にならないため、これだけでは言葉が終わらないことに気付いて口を噤んだままだった。 やがて、静かな沈黙と咲くことのないクーの笑顔を見て、リオンもまたそのことに気付く。 そのタイミングで、クーは話の続きを口にした。 「ですが、ユースさんは目覚めませんでした。恐らくこのままでは、今晩が峠になるでしょう」 「今晩が峠って、どういうことですのよ?! 怪我は治ったのではなくて!?」 「怪我は治りました。ですが、ユースさんの魔力がまったく回復しないんです」 「魔力が?」 血相を変えるリオンにユースの容体を詳しく説明するクーに、ジュンタが口を挟む。 「魔力が回復しないとまずいのか? 底をつけば命を落とすこともあるって話だけど、そうなることは滅多になくて、そこまで行く前に自然にストッパーがかかるんじゃなかったのか?」 「それが普通で間違いないです。ですが、ユースさんの魔力はほぼ完全に底をついている状態なんです。限界の限界まで使う、というのは感情や何かでどうなるものではないはずなんですが、まるで誰かに全ての魔力を奪われたみたいに、完全に空っぽになっているんです。 「そ、んな……ユースが……死ぬ……?」 「リオン!」 その場で崩れ落ちそうになるリオンを、ジュンタは横から手を伸ばして支える。 「何か、何かユースを助ける方法はありませんの? 私にできることでしたらなんでも……そう、そうですわ! 魔力がないのなら、私の魔力をユースに分け与えればいいのですわ! 確かそのような儀式魔法が存在するのではなくて?! クー、あなたには使えませんの!?」 「いえ、私にも魔力を分け与えるラインを繋ぐ儀式魔法は使えます。確かにそれを用いてリオンさんからユースさんに魔力を分け与えることができたなら、ユースさんの命は助かるでしょう」 「でしたら、すぐにでも! クー、準備を…………クー?」 ユースを助ける方法を学んだ魔法の知識の中から見つけ出したリオンが、身体の震えを止めてクーを見る。だが、リオンが気付けたような方法を、前もってクーが気付けないはずがないのだ。 クーは未だ曇った表情で、だけどリオンから視線を逸らしたりはしなかった。 「…………無理、なんですの? その方法は……?」 「この魔法によってラインを繋ぐ場合、最初の段階でラインを繋がれる両者から魔力を吸い取るんです。その魔力を用いてラインを繋げるのですが……ユースさんの魔力をこれ以上少しでも奪おうものなら、その段階で命は尽きてしまいます」 今度こそ、リオンはクーからの真実の突きつけに打ちのめされた。 紅い瞳から頬へと涙が伝う。無情な世界を嘆くように、リオンはジュンタの胸に顔を埋めた。 ジュンタは涙するリオンの肩を優しく抱く。 だけど、リオンがユースと過ごした時間はジュンタよりも遙に長い。その思い出が大きいほどに悲しみが膨らんだ彼女を前にして、自分が涙するわけにはいかなかった。 「本当に、方法はないのかい?」 そんな思いを抱いたのは他にもいたのか。リオンに代わってクーの前へと足を踏み出したゴッゾは、静かな口調で確認する。 「お金ならいくらでもかかって構わない。集めるべきものがあるなら、すぐにでも手配しよう。ユースはリオンにとっても私にとっても、大事な家族の一員みたいなものなんだ」 「…………方法がないわけでは、ありません」 『え?』と、驚きの声をあげたのは果たして誰だったか。あるいは重なって響いた複数の声だったのかも知れない。少なくとも、ジュンタの胸の中ですすり泣いていたリオンは声をあげていた。 ゴッゾもまさかこの状況でクーがそう答えるとは思わなかったのか、少し驚いた様子で話を続ける。 「ユースを助ける方法が何かあるのかい?」 「あります。ですがその方法は命の危険が伴います。成功率も決して高くはありません」 「失敗したら、その時点でユースは死んでしまうということか。その方法、成功率はどれくらいなんだい?」 「五分五分です」 クーの返答にあったのは、最も恐い数値であった。 成功の可能性が半分。失敗の可能性が半分。そして失敗が死に繋がるのなら、五分五分という数値はユースの運命を決めるコイントスに他ならない。 「――それで行きましょう」 だが何の躊躇もなく、ユースの主人であるリオンは選ぶ。 「このままただ黙って待っていたら、ユースは死んでしまうのでしょう? でしたら、五分の可能性だとしても、賭ける価値は十二分にありますわ!」 「いいのか? リオン。それをお前が決めるってことは、ユースさんの命の責任をお前が背負うってことだぞ?」 腕の中で毅然と顔をあげたリオンを少し上から、ジュンタは見下ろす。 ユースの家族は何でもトリシャだけらしい。そしてユースの運命を決めるこの選択肢に、眠っている本人の意志は挟めない。なるほど、確かにこの状況下ではリオンが一番決めるにふさわしい人間だろう。だが、それは同時に彼女に全ての責任が生じるということ。 「クー。このままユースさんが峠を越えられる可能性もあるんだろ?」 「もちろんあります。その可能性もまた五分五分ぐらいですが」 「ということだ。どちらにしろ五分五分。なら――」 人の死を預かるという重大な重さを、かくもはっきりと言い放ったリオンの言葉に、誰も文句など言えようはずもない。ことを黙って見守っていた大人衆も、ジュンタも、リオンの確たる理由などない、進む先にのみ救いはあるのだという意志の方に、ユースの救いを見た。 「……それじゃあ、仕方ないな。お前がそこまで言うなら、俺が何を言っても無駄か。お前、ものすごい我が儘だからな」 「言ってなさい。そういうわけですわ、クー。あなたがいうユースを助けられる方法を、どうかユースに施して差し上げてください。それはきっと、あなたにしかできない魔法なのでしょう?」 「はい。特殊な魔法を用いた魔力の譲渡ですから。――承りました。絶対に、ユースさんは死なせません。全力を尽くしてがんばります」 「よろしくお願いします。本当に、どうかお願いしますわ」 ジュンタは自分の腕の中から出たリオンの背を見たあと、力強く頷いて部屋を出て行こうとするクーを見て…………部屋を出る前にほんの一瞥、自分に送られた揺れる瞳に気付く。 クーは言った。これから行う施術の失敗は、ユースの死を招くと。 そんな施術を執り行うという恐怖を担うクーの両肩――その重さに不安を抱いていると思ったが、これは違う。そう、クーは確かに施術の失敗はユースの死を招くといったが、それだけとは一言も言っていない。 「……普通の魔法使いじゃどうしようもない状況で、それでも助けられる施術だ。行う方にも、何の負担がないわけがないか」 ユースのことを気にして施術を行うか否かを確認したクーは、それだけを気にして、確認して、何も語らず部屋を出て行った。クーの内心に気付いたのは、恐らく自分だけ……たとえ自分だけじゃなくても、ここで行くべきは自分以外にありえない。 「そういう秘密はなしにして欲しいな、まったく」 「クー!」 「ご主人様……?」 足早にユースが眠る部屋へと急ごうとしていたクーが振り返る。 「この馬鹿っ!」 「はうっ!」 ベチリと叩かれたクーが、困惑顔で頭を両手で押さえる。 「オシオキ終わりだ。まったく、また自分一人で全部抱え込もうとしただろ? ユースさんに施すっていう魔法、もし失敗したとき、クーにも何か悪影響が出るんだろ?」 「それは……」 言い辛そうに瞳を逸らすクーを、ジュンタは腕を組んで見下ろす。 「ちなみに俺は確信をすでに抱いている。その上でいい訳しようって言うなら、俺の好感度を下げることを覚悟でするように。で、返答は?」 「…………狡いです。そう言われてしまったら、誤魔化せるはずありません。 「やっぱりな。それで、どんな悪影響がクーには出るんだ?」 予想通りの返答に怒ったように黒縁眼鏡の奥の瞳を細めつつ、ジュンタは悪影響の詳細を訊く。そしてその返答を聞くことによって、怒りを通り過ぎて呆れてしまった。 「…………最悪、私も死んでしまう可能性があります」 「………………はぁ。そこまでですか」 まったくもって変わっていない。出会った頃から、この優しくてがんばり過ぎる少女は変わっていない。 その美点であり欠点でもあるがんばり屋な部分は、本当にいじめ抜いて治すしか方法がないのかも知れない。リオンが失敗したとき傷つかないように、自分が死ぬ可能性を伝えなかったなんて、本当にもうオシオキフルコースしてあげようか? 「す、すみません、ご主人様。ご主人様に怒られそうなことをしている自覚はあったんですが、どうしても」 「やりたい、か。自覚があるだけ進歩してるのか」 しゅんとうなだれる少女の帽子をはぎ取って、ジュンタはその金糸の髪を少々あらっぽく撫で上げた。 「そんな秘密を黙ってたオシオキは、まぁ、また今度にしとく。とりあえずユースさんのために、リオンのために、黙ってがんばろうとした優しさを今は褒めとく。すごいよ、本当に。俺にはとても真似ができそうにない」 「そんなことありません。きっとご主人様は、優しい嘘をつく人です」 「嘘つきか。じゃあ、その嘘つきに正直に褒めさせたんだ。これは報酬の一部先払いだ。ユースさんを見事助けるっていうクーの仕事のな。受け取ったんだから、ちゃんと果たせよ」 「はい、必ず。こんなご褒美をもらったんですから、がんばらないと罰が当たってしまいます」 「そか。なら、もっとがんばったあとに、もっとたくさん褒めてやることにしよう」 「……困りました。なんだかユースさんを助けることが、自分のためのような気がしてきました」 言葉通り、ちょっと困ったように笑うクーの頭から手をどける。代わりに白い大きな帽子をかぶせてあげて、お辞儀をして去っていくクーを見送るためにその場に残った。 その最後。話を聞いて感じたことを、率直にジュンタは訊く。 「[共有の全]って魔法。それってもしかして、昔クーがオルゾンノットの魔竜に意識を重ねたときに使った魔法か?」 『竜の花嫁』――クーにとっての禁忌であるその名において、これからの魔法は行使されるのだということを、振り向いて彼女は教えてくれる。 クーは嬉しそうに笑っていた 「はい。きっと、大事な人を救うのにこの忌むべき魔法が使えたなら、私は自分のことがもう少し好きになれる気がするんです。 笑って、ちょっとだけ照れくさそうに頬を染めた。 「――だから、もう少しだけ手を引いて歩いてください。まだまだクーヴェルシェン・リアーシラミリィは、あなたに頼らなくては生きていけないようですから」 ◇◆◇ ユースのことは全てクーに託した。もはや自分たちにできることはない。 否、それは違う。ジュンタたちにもできることは、やらなければならないことはあった。即ちユースを傷つけた元凶の討伐だ。 クーがユースの元へと行き、施術の準備を開始してすぐ、食堂に残った面々はそれぞれの思惑と意志で『不死鳥の湯』の玄関口に集まっていた。主に二手に分かれており、それぞれ役割は異なっていた。 片方――玄関の外へと出かける準備をして立っているのは、ジュンタを筆頭として『騎士の祠』に赴く者。 現状、手がかりはヤシューが残したメッセージだけ。わざわざ時間指定までされているのだ。罠があろうがなかろうが、行かないなんて選択肢はない。 直接メッセージを向けられたジュンタはもちろんのこと、ヤシューの元へと向かうメンバーには、報復の怒りを燃やすリオンとトーユーズがいた。 もう片方――見送る側に立っているのは、ゴッゾを筆頭としてこの場に残る者たち。 ヤシューのみならず背後にベアル教の暗躍がある可能性が高い現状、下手に全員がこの場を離れるわけにはいかない。すでにここにはいないラッシャなどは、村の自警組織などに警戒の旨を伝えに出ている。戦えない彼は、こういうときは自ら進んで雑務を引き受ける。 残るのは様々な組織にも渡りがつけられるゴッゾ。念のための戦力としてクレオメルンと、オーケンリッターが残る手はずになっていた。 「では、お父様。私たちはユースの仇を取って参りますわ」 「十分に気を付けなさい。相手の思惑が想像を超えていた場合、戦略撤退こそが有効だ……と言っても、我が娘は敵に背中は見せられない人間。騎士トーユーズ、見極めを頼まれて欲しい」 「ええ、もちろんです。大事なお姫様を危険な目には遭わせられませんものね」 「頼りになる言葉だ。ありがたい。 「信頼していますわ」 いつものチャイナドレス風な服のまま、トーユーズは優美に微笑む。それはリオンとは違う、大人の色気が漂う微笑みだった。 それを見たジュンタは、そう言えば、と気付く。 皆に見送られて『不死鳥の湯』を出たところで、その気付いたことをトーユーズに対して話しかけた。 「そう言えば、先生と一緒に戦うのはこれが初めてですよね?」 「確かに実戦に一緒に行くのはこれが初めてね。いつもは修行ばっかりだし、ジュンタ君はあたしの知らないところで突っ走ってばかりだから……ある意味、今回はあたしが巻き込まれたってことかしらね」 「だけど頼もしいですよ」 「まぁ、そのヤシューって子がどれくらいかは知らないけど、あたしに勝てるはずないものね。でも、いわばあたしは一時限りの最強の助っ人。あんまり頼りにしちゃダメよ」 トーユーズにそこまで言ったところで、ジュンタは自分の頭をポンポンと叩く感触に気付いた。 視線を上へと移してみると、いつのまに乗っていたのか、白い子猫は軽く手を挙げてそこにいた。 「サネアツ? どうしてお前ここにいるんだ? ユースさんのところにいたはずなのに」 サネアツのいきなりの登場に、ジュンタは声を潜める。 サネアツは最近治療魔法を少し使えるようになったといい、ユースの治療に参加していたはずだった。役に立たないかも知れないが、ないよりマシだとか言って。 「……もしかして、何かユースさんの身にあったのか?」 「いや。生憎と俺が使えるのは初歩のあたりの治療魔法でな。クーヴェルシェンが特殊な施術を施すにあたり、何の役にも立てないどころか邪魔になりそうだったからな。こうして役に立てそうなジュンタの方にやってきたというわけだ」 「と言いつつ、どうしてお前は人の胸元に入ってくる?」 「それはもちろん、俺の愛くるしい姿はリオンに見つかった場合、その場で無理矢理に帰されそうだからだ。そういうわけで、いつぞやのように隠れていよう。話しかけてくれるなよ」 はっはっは、と相変わらずなマイペースで笑い、サネアツはさっさと胸元に潜り込んでしまった。 ユースがあれなのに、あまりにいつも通りのサネアツ。心配していないのかと思わず言いたくなるが、それは違うとわかっているから何も言わない。本当に心配していないのなら、ほとんど助けにならないのに治療には行くまい。 サネアツにとってユースは魔法の師匠だ。自分がいなかった半年の間、サネアツはユースと修行をしていた。ジュンタがトーユーズに向ける小さな憧憬のようなものを、彼がユースに対して抱いていないとは言えない。それが師と仰ぐということだ。 口数少なくすぐに胸元に入ったのは、リオンに気付かれないようにという理由の前に、何もできずに去った自責の念があったからだろう。リオンは出発より背中に凄まじいオーラを背負っており、少しぐらい騒いだってばれたりしない。 (先生がいる。リオンはやる気で、サネアツだって怒ってる。……わかってるのか、ヤシュー。お前がどれだけやばい奴らに喧嘩を売ったのか) 思わず同情してしまうほどに、こちらの戦力は十全だった。 もっとも同情など本当はまったくしていない――手を出してはいけないものに手を出したなら、こうなることぐらい責任を取ってもらわなければ。 「……売られた喧嘩か。ここまで積極的に応えるのって、もしかして初めてじゃないか?」 サネアツからの返答はない。その代わり夜の森が眼前に、歓迎するように広がった。 「まったく、妙なことになった」 出かけていったヤシュー討伐組、ラバス村の人間が開く会合に参加するために出て行ったゴッゾを見送って、クレオメルンは凛々しい眉を少し顰めた。 「ジュンタ・サクラに謝りに来ただけのはずだったのだが、いつの間にかこんな事件に巻き込まれているなんて。いや、そもそもここにやってきてから、休んでいる暇などなかったではないか」 「ならば、これから休んでいても構わないが。貴公の代わりは私が果たそう」 「師匠」 隣に立つ初老の武人――オーケンリッターの低い声に、クレオメルンは口を尖らせる。 「別に不満はありません。あるとすれば、この私がベアル教に雇われた暗殺者を捕まえにいけなかったことです。元より、聖殿騎士であるこの身が異教徒を討伐するために働くのは当たり前のこと。何の不満を抱くことがありましょう」 尊敬すべき巫女に疑われていたとは心外だ。 ジュンタに謝罪することは決定事項だったが、そのために今聖地を離れることには反対だったのだ。使徒ズィールに直接指示されなければ、この地にやってくることはなかっただろう。 聖殿騎士としての責務である異教徒の討伐に立ち会えたことは、ある意味では幸運なのか。どちらにしろ休む気などないクレオメルンは、強くオーケンリッターを見て、口を開く。 「巫女オーケンリッター。事情が事情です。預かっていた私の槍を一時返していただけないでしょうか?」 「無論だ。そもそも、槍は貴公がジュンタ・サクラへの謝罪を完了されたら返す約束。もう私が預かっておく必要はない。一時などと言わず返すとしよう」 表情を崩すことなく、オーケンリッターは踵を返す。 ゴッゾより宿の守護を頼まれた、かつて『鬼神』とまで讃えられた男は、老いを感じさせぬ力強い背中を弟子に見せつけた。世間は『鬼神』は老いでその力を衰えさせたというが、クレオメルンは違うと思っている。 確かに全盛期よりはいささか衰えたかも知れないが、それでもオーケンリッターの強さはあまりに今のクレオメルンからは遠い位置にある。リオンでも勝てず、あの『誉れ高き稲妻』とも対等に渡り合ってみせるだろう。 まさに、かの『鬼神』が守護するこの宿の安全は約束されたも同じ――もしもそれでも拒めぬ敵がいるとしたら、それは神獣でも拒めぬ敵に違いない。 「何をしている、クレオ。槍が欲しいのではないのか?」 「は、はいっ!」 いつか追いつきたい背中を見て、クレオメルンは自分が任されることになった任を全うするため、誇りである白銀の槍を握るため師の背中を追いかける。 父であるズィールに全幅の信頼を寄せられる彼のように、いつかなりたいと願いつつ。 ◇◆◇ 「まだ待ち始めて十分と経ってないわよ」 乗っていた武器を蹴飛ばして片付け、神聖なる台座に腰掛けるヤシューに、傍らに立ったグリアーは呆れた視線を向ける。 『騎士の祠』――騎士の聖地と呼ばれるそこで待ち人を待っているのは、騎士という言葉とは似つかわしくない獣に他ならなかった。そんな彼がいうに、こうして逃げ場所のないここで待っている人間もまた、獣であるらしい。 「まったく、折角ウェイトン・アリゲイとの契約も終わってお金が入ったっていうのに。どうしてこう、息苦しい場所で敵を待たないといけないのよ」 「ンだよ、別に一緒にいろとは言ってねぇじゃねェか」 興奮のしすぎで早くも待つことに苛立ち始めた馬鹿の言葉に、グリアーはむかっとする。 確かに、これからこの場で起きることに暗殺者の契約も何もない、ヤシューの個人的な愉しみでしかない。強者と命をかけて戦うという、ヤシュー曰く男にしかわからない愉悦を味わう以外に益も何もありはしない。 ……確かにわからない。人の血を見るのは好きだし、戦いも楽しいといえば楽しいが、グリアーは自分の力を弁えている。自分よりも強いヤシューが獣と称すような相手となんて、絶対に戦いたくなかった。 「グリアー。テメェわかってるだろうが、俺の戦いにあの女みたいに手出しすんなよ?」 「しないわよ。安全地帯から観覧するつもりでここにいるんだし」 もう十年近くになる付き合いで、この粗野に過ぎるエルフの心の中など手に取るようにわかる。彼は他人に楽しい戦いを邪魔されることを何より嫌う。 もしも自分が戦いに介入するというのなら…… 「それで、アンタがいう獣殿に、アンタは勝てるのよね?」 「わからねぇ」 結構真剣に尋ねた質問に、あっけらかんとした返答を返されて、グリアーはいい加減に頭が痛くなってきた。最近は頭痛が多いが、今日という日は特に多い。 「……アンタは本当に。いや、アンタのその馬鹿なところは今更か。止めないわよ、私は」 「なんだ? 今日は優しいじゃねぇか、グリアー。あの女にかけられた魔法で頭でもやられたか?」 「冗談でなくなりそうな冗談は言わないで欲しいものだわ。あの『狂賢者』に魔力を回復させられて、一番戦々恐々としているのは私なのよ」 ヤシューが女と苛立ち紛れに称す相手は、先程契約終了と相成ったベアル教の導師――ウェイトン・アリゲイに今回のラバス村での一件前に紹介された相手だ。狂った彼が心酔する、グリアーも未知の悪寒を感じた相手である。 できれば関わり合いたくないとばかりに避けていたが、ユース・アニエースにやられた際に負った傷を彼女に回復させられたのだとか。それだけなら感謝してもいいが、その際に激減した魔力まで回復されたと聞けば、逆に薄ら寒いものを感じずにはいられない。 魔力を一瞬で回復させるなんて、グリアーも知らない魔法だ。 「そんなにビビるこたねぇよ。どうせあいつらはもう俺らには関係ねぇ奴らだ。それこそ利用しても、もうされることはねぇ。儲けもんだと思って忘れちまえ」 「私はアンタみたいに脳天気じゃないのよ」 ニカリと子供みたいに笑う仕事上の相棒の姿に、グリアーは毒気を抜かれて肩から力を抜く。本当に、ヤシューのこういうところだけは憎めない。迷惑ばかりかけられても、彼とのコンビを解消できないのもそれが理由か。いや、それとも……… 「しっかし遅ぇな、おい。待ちくたびれて眠っちまいそうだぜ」 恥ずかしいことを考えそうになったグリアーは、ヤシューが入り口を睨みつつ吐いた言葉に笑みを引きつらせる。 そう、ヤシューという男はこういう男だ。本当に、相棒の気持ちなんてまったく考えていない。 (何が眠りそうよ。そんなこと絶対にない癖に) 一途な獣が激情を向ける相手は、同じ獣だ。グリアーには獣の牙がない。 はぁ、と溜息を吐いて、グリアーはヤシューから離れる。今の内に少し休んでおこう。 どうせ始まったら自分も忙しくなるのだ。獣同士の喰らい合いの隣にいて、そうならなかったことなど一度もなかったのだから。 「さて、刻印の摘出は終わりました」 血だらけの『狂賢者』から血だけが地面に流れ落ちる。 人が保有する血のほとんどを蓄えた黄金の杯は、並々と注がれたワインのような瑞々しい匂いを香らせている。ディスバリエはその杯を胸に抱き留めて、儀式を見ていたウェイトンの方を振り向いた。 「ウェイトン。準備はこれで全て完了です。あとは儀式を執り行うだけで――」 「ここに『封印の地』が解放される。そういうわけですね?」 人の死骸から血を抜き取るという凄惨な準備の一部始終を見守っていたウェイトンは、喜々としてディスバリエの見えない視線を受け入れる。 このラバス村にある『ナレイアラの封印の地』を開く準備は二つあった。 前者は手駒である魔獣の確保。後者はナレイアラが『封印の地』を作るために契約した神殿の鍵――刻印という名の血脈をその身に受け継ぐトリシャ・アニエースの命だった。正確には、その血の全てだ。 『騎士の祠』近くで行われたトリシャ・アニエースの死体からの血液摘出作業は、滞りなく終了した。血を盛大に魔法によって抜かれた死体はもう用無しと地面に投げ捨てられ、『封印の地』を開く鍵は『狂賢者』の手の中に。 「魔獣の準備も、ディスバリエ様に言われた数を用意できました。しかし、よろしかったのですか? 揃えようと思えば、二倍の数を揃えることが可能でしたが?」 森に潜む『偉大なる書』によって生まれた魔獣は、オーガなどの高位の魔獣はおらず、質も量も今ひとつの魔獣が二百体ほどしかいない。はりきっていたウェイトンからすれば物足りない数だ。望まれれば四百体。しかもラバス村の人間をオーガやワイバーンに変えることすらしただろう。無論、計画は悟られないように。 「儀式にはシストラバス家の妨害が予想されます。やはり、もう少し用意しておくべきでは?」 「いえ、必要ありませんわ。足止めする数さえ揃えておけばいいのですから」 首を横に振ったディスバリエの微笑に、なるほど、とウェイトンは得心いく。 「本当の魔獣の軍勢を呼び起こすというのに、はした数を揃えても意味はありませんでしたね」 「その通りです。十万という数に比べれば、用意する魔獣など少なくてよいのです。『封印の地』が開かれれば、餓えた魔獣たちが一挙に村に押し寄せることでしょう。もちろん、それだけではありませんわ。そんな魔獣など、所詮は駒でしかない。我々が今宵目の当たりにするのは、本物の王に他なりません」 自信も確かにディスバリエがいう『王』が一体誰であるか、ウェイトンはすぐに気付く。 気付かないはずがない。かの王こそを、ウェイトンはずっと求め続けていたのだから。 初めて目の当たりにしたときには心奪われ、二度目に偶然出会ったときは運悪くすぐに昏睡状態になってしまい、まるで夢のように眼を覚ましたときにはいなくなっていた。 故に、まさにウェイトン・アリゲイにとって、今宵の出会いこそ感動の再会となることだろう。その一瞬を思うだけで、ウェイトンの身体は感動に震え、瞳には涙が浮かぶ。 「ああ。ついに我が神――ドラゴンと巡り会えるのですね。これも全てはあなたのお陰です、『狂賢者』ディスバリエ・クインシュ様」 「お気になさらず。大いなる獣の咆哮は、あたくしにとっても福音なのですから」 ドラゴンがウェイトンにとっての神ならば、その神と巡り合わせてくれるディスバリエは巫女か。ドラゴンの巫女――堕落した『竜の花嫁』とは違い、自分よりも長い時間をドラゴンために費やした、まさにドラゴンの巫女である。 (間違いない。今宵、私は神を再び目撃しよう。この人についていけば間違いない……!) この道を信じ、この道に奉じ、歩んできて本当に良かった――『狂賢者』との出会いは、まさにウェイトンにとっての運命だった。それがいかなる冠のつく運命であるかは定かではない。既存の言葉では言い表すことなど到底無理な話だ。 「さぁ、そろそろ頃合いです。開祖ベアルの意志を継ぐ者――ウェイトン・アリゲイ導師」 「はい、この世で最も尊き意志を持つ人よ。『狂賢者』ディスバリエ・クインシュ」 純粋なまでに悪辣な笑い声が木霊する。
少しの文字を覚えたばかりのジュンタでは、背中に血で描かれるという目を覆いたくなるようなメッセージはすぐに読み解けなかったのだが、リオンには簡単だったのだ。
『―― ジュンタ。約束を果たそうぜ。今夜十時『騎士の祠』で待つ。ヤシュー ――
』
ユースの背中が思いの外小さかったからか、それだけしか書かれていなかったメッセージ。だが、それだけで全てを読み解くのは簡単だった。
つまり、ユースがヤシューに襲われたのは自分が原因の可能性が高いのだ。これが怒らずにいられるはずがない。
それはまさしく敵たる相手を見出した、戦場を求める騎士の輝きだった。
魔力がなくなった状態で重傷を受け、衰弱が酷くなっています。体力の回復に生命力が追いついておらず、このままでは……」
信じたくない事実の前に腰が抜けたように膝を震わすリオンは、目尻に涙を浮かべて、クーを縋るように見た。
リオンは乾いた口を一度開け閉めして、それからか細い声を出す。
ジュンタだって悲しい。ユースという少女は、紛れもなくジュンタの異世界での日々の中にいた少女だった。いつだってリオンの傍にいて、無表情でも確かに笑っていた人だった。
「――そんな考えは軟弱ですわ! 私の大事な従者の命を、何もしないという選択に託すことなど考えられません!!」
ジュンタの言葉を遮って、リオンの声は食堂中に響いた。
ことの詳細を尋ねる暇も惜しいと決意を瞳に秘めるクーを見て、リオンもまた何も尋ねることなく全てを任せる。
首の後ろに触れると、ジュンタは食堂を出て、クーを追った。
ジュンタはクーの目の前まで走っていくと、その帽子の上から頭にチョップを喰らわせた。
上目遣いに見てくるクーが、それでも何もいわないのは、自分がそうされる理由に思い当たる節がある証明で、それは同時にジュンタの予想が正しいことも証明していた。
ご主人様のおっしゃられたとおりです。私が今から行う魔法――[共有の全]は、もしも施術に失敗した場合、私にも悪影響が出る儀式魔法です」
ぐしゃぐしゃになるほどに頭を撫でるジュンタに、怒られると思っていたクーは驚いたように顔を上げる。だが、それが条件反射であるように、撫でられている内に気持ちよさそうに目を細めた。心底幸せという風である。
ご主人様、私は歩いていこうと思います。一人でいつか歩けるように、今はご主人様に力をもらって。だから――」
こちらは私が面倒を見よう。ベアル教が何か仕掛けて来ようとも、そう易々と下手には回らないことを約束する」
クレオメルンは栄えある聖殿騎士――その中においても、使徒ズィール聖猊下の近衛騎士隊隊長と、世界中の人間が憧れる立場にいる。その責務と重責は、強く理解しているつもりだった。
「ちっ、退屈だぜ。やっぱ、約束の時間九時にしとけばよかったか」
一体なんの魔法属性、魔力性質ならやってのけられる離れ業か……何とも薄気味悪い。
血は生きているように蠢き、やがて彼女が持つ杯の中に集められた。
一つは儀式を円滑に進めるための準備であり、もう一つは儀式そのものを始めるための準備である。