第十八話  獣のベーゼ(中編)


 

 霧に包まれた『不死鳥の湯』の周りを探っていたジュンタは、感じた結界の感触を自分が知る限りの知識に当てはめて考え、何とか解呪の方法を模索していた。

 しかしあくまでジュンタがトーユーズに習っているのは剣術。魔法知識はその補助程度でしか学んでいない。ゴッゾたちでも手こずる結界にはどうしようもなかった。
 かろうじて分かったことといえば、ドーム状の結界を見た当然の反応として地面を軽く掘ってみたところ、地面を掘りさえすれば何とか入ることは可能かも知れないという点だった。

 ただ、ここにも問題はあった。城壁とは違い霧状の結界は、穴を掘った傍からそこも結界の内部として広がるのである。宿の中へと入ることができる穴が最初から用意されていたのならともかく、新たに穴を掘って進入する方法はかなり難しいだろう。

 そのことはすでに近くにいた騎士の人に託し、一応ゴッゾに伝えてある。
 返ってきた返事は試しに掘り返してみるというもの。だが総出で掘り返しても、丘の上にある『不死鳥の湯』まで繋げるのは並大抵の苦労ではなく、成功の可能性も小さい。

 まさに打つ手なし。自分だけならばクーの手によって召喚されることも可能だが、その様子もない。

 今度ばかりはジュンタもお手上げかと思いつつ、それでも何かないかと結界の傍を右往左往する。

「ジュンタ! ここにおったんやな、探したで!」

「ラッシャ?」

 いったんゴッゾのところへと戻ろうと思った矢先、駆け寄ってきてきたのはラッシャだった。

 ゴッゾの下で情報をあっちへこっちへ運んでいるはずの彼が自分の下へやってきたことに何かあったのかと思いつつも、ジュンタはラッシャの息が整うのを待つ。

「おう、ジュンタ。どうやら中に入る方法はわからんかったようやな!」

「まぁな。……しかし、それをなぜに嬉しそうに言うんだ?」

 そう言い返すと、彼は待ってましたと言わんばかりに目を輝かせた。

「グフフフフ。ついに、ついにワイの実力が白日の下に晒されてまう日が来たようやな。日の目があたることなく、一人黙々とがんばった甲斐があったちゅうもんや!」
 
「ラ、ラッシャ?」

「悪いけど、今回のMVPはワイが独占させてもらうで。今日からラッシャ・エダクールの名は、ラバス村を救った救世主として永遠に語り継がれるようになるんよ。それ即ち、ワイのハーレム道の始まりですか、どうなんですかっ!?」

「落ち着け。とりあえず落ち着かないと殴るぞ」

「な、殴ってから言わんといてや……」

 気色悪い声を出して悶えるラッシャにげんこつを落としたジュンタは、苛立った声と視線で彼を見下ろした。

「とにかく、何がいいたんだ? お前は。その口振りだと、中に入る方法があるみたいだけど?」

「みたいも何もその通りやで。何や、ゴッゾの旦那が玄関前に繋げようと穴を掘っとったのを見て思い出したんよ。ワイが作った、『不死鳥の湯』への秘密の入り口のことをな」

「秘密の入り口?」

「そうや。ちょい、ついてきぃ」

 意味深に笑って駆けていくラッシャの後を、ジュンタは訝しく思いつつもついていく。

 正面入り口のゴッゾからは見られない、旅館側面にある林。その木々の中にあった大きな石を横へとラッシャはずらす。その下に現れたのは木でできた板であり、その木をどけたなら、その下からは深く掘られた縦穴が現れた。

「これは……」

「ちょうど、女の子連中が使っていた部屋の裏手に続く穴やで。こんなこともあろうかと、こんなこともあろうかと! ラバス村にやってきた日から秘密裏に掘ってたんや!」

 鼻高々にそう告げたラッシャ。なるほど、自らの行いをMVPと称するだけのことはある。本当にこの穴が『不死鳥の湯』の中に続いているなら、その行いは値千金といえよう。

 そして間違いなく、穴は『不死鳥の湯』へと続いているようだった――ジュンタは尊敬や感心は向けることなく、白い目をラッシャに向けた。

「…………確かに、まぁ、値千金の働きではあるけど……」

「な、何や! 何でワイのことを、そんなゴミ虫でも見るような目で見るんや!」

「いや、ゴッゾさんじゃなくてまず俺に教えたあたり自覚してるだろ? この穴。今回の事件が起きなかった場合、どんな目的で使おうとしたんだ?」

「そ、それは……………………てへっ」

 かわいらしく舌を出したラッシャの顎に、反射的にジュンタはアッパーを喰らわせていた。思い切り舌を噛んだラッシャは悶えるが自業自得だ。このリオンやクーが使っていた部屋の裏手に出るらしい穴が、本来は覗き目的で作られたのは明らかだった。

「まったく。こんな状況じゃなければ、リアルに逮捕されてたぞ。お前」

「そ、それでも、それでもワイは諦めきれなかったんや! たった一目でもいい。何やったらそのおみ足だけでもええ! ワイはな、美しい肌を見たかった……ただ、それだけなんや……」

 ガツンと拳で地面を叩くラッシャを、もうジュンタは考えないことにした。ユースの胸の谷間に心奪われた手前、そんなに批判することもできないので。

「とにかく、あるなら利用しない手はないか。問題はきちんと向こう側まで、阻まれることなく続いてるかどうかだけど……ラッシャ、お前は俺が下りたらもう一度蓋をして、それからゴッゾさんにこの穴のことを教えてあげてくれ」

「やっぱ、何の躊躇もなく行くんやな」

 霧の向こうに蠢く魔獣の気配を察しつつ、『不死鳥の湯』へと乗り込むことを決めたジュンタを、ラッシャはどこか羨ましそうな瞳で見た。

 彼は立ち上がると、ガシガシと頭を掻いて、ちょっと照れくさそうに言う。

「ワイも役に立って誰かの気ぃ引こうと思ったんやけどな。やっぱ、危なそうな中に入ることはできへんかったわ。その点何の躊躇もなく行ける自分が羨ましいで、ほんと。――せめて言われたことはやってみせるさかい、ジュンタはみんなのことを助けてやってや」

「ラッシャ……ああ、こっちこそ了解した。それじゃあさっさと全部終わらせて、もう一度温泉にでも浸かるか」

「ええな。そんときは是非に混浴でもしたいもんやで」

 ニカリと笑ってサムズアップしたラッシャに親指を立てて応え、ジュンタは穴の中に飛び込む。

 どれだけの執念が生んだのか、それはとてもとても深い穴――戦いの本拠地たる場所へと、ジュンタはただ突き進むのみ。

 


 

       ◇◆◇

 


 

 ユースにはどうすれば神殿と契約できるか理解できていた。

 リオンとトーユーズが戦う大浴場へとやってきたユースは、慣れ親しんだ場所が血に染まっている事実にまず気を引き締める。次に疲労を隠せなくなりつつある二人の騎士が自分の許へと下がってくるのを見て、安堵で崩れ落ちそうになる膝を必死で堪えた。

「ユース! あなたここで何をしていますの!?」

 悲鳴のような声がリオンによりかけられる。緑の返り血で濡れた彼女は、それでも変わらぬ美貌を心配そうな色で染めていた。

「落ち着きなさいな、リオンちゃん。ユースちゃん。あなたがそんな状態でここにやってきたってことは、何か目的があってのことよね?」

 殺意の視線を注いでくる魔獣たちを牽制しつつ、トーユーズが単刀直入に訊いてきた。それであまり悠長に話している暇がないことをユースは察し、同じく本題だけを簡潔に述べた。

「はい。私はここに『封印の地』へと繋がった孔を閉じるために来ました」

「孔を? それは願ってもないことですけど、ユース。あなたにそんなことが可能ですの?」

 それは能力を疑問視されたのか。あるいは魔力の乏しい現状を指摘されたのか。恐らくどちらでもあるだろう。

 疑問と心配が合わさったリオンの瞳を見つめ返して、しっかりとユースは頷いた。

「私ならばそれが可能です。説明する時間も惜しい現状、私を信じてくださいとしか言えませんが」

「ユース……あなたにそう言われて、私が疑えるはずありませんわよね。分かりましたわ」

「それで、あたしたちは何をすればいいのかしら?」

「リオン様は私と一緒に開いた孔の場所へ。お手伝いをしていただけたなら幸いです。トーユーズ様は私とリオン様の許へと魔獣が来ないようにしていただけますか?」

「また、難しい注文ね」

 トーユーズは話し合いの最中に現れた獣たちを確認して、

「五分。それ以上は無理よ」

「十分です。ではリオン様」

「ええ、どんな難問でも達成してみせましてよ!」

 ユースはリオンと頷き合って、トーユーズに守ってもらいつつ孔を目指そうとする。

 トーユーズに背中を任せておけば、今の魔力量でも十分神殿との契約を果たすことはできよう。契約して『封印の地』が閉じれば、あとは現れた魔獣を一掃すればことは済む。そうすれば、この『不死鳥の湯』を取り戻せるのだ。

 リオンとトーユーズ、そして封印の風たる自分の三人を前にしては、たとえオーガやワイバーンであろうとも敵いようがない――どこか怯えたように動きを止めた魔獣たちを見て、ユースは心の底からそう思った。

 その次に抱いたのは疑問だった。餓え、肉を求めて襲いかかってきた魔獣。そのことごとくが、今は足を止めていたことに対して。

「どうして魔獣の動きが止まって……?」

 それはまるで束縛の魔法にかかったかのよう。自分たちの味方でもいるのかとユースは思い、だけどこの現象が味方によるものではなかったことを、視界の端に現れた男を見て察する。

「あれは……?」

 金髪の長い髪。男か女かわからない中性的な美貌。屋根の上から誰かに運ばれるようにして緑の血の上に着地したのは、この状況を招いた元凶の一人。ベアル教の導師ウェイトン・アリゲイだった。

「ウェイトン・アリゲイ!」

 敵の姿を見定めたリオンが、即座に斬りかかろうと動く。それより先にトーユーズが瞬間移動じみた攻撃に出ようとしたが、

今夜は誰も動けない

 ただ一言だけの絶対の言葉の前に、ユースも含めた三人の動きもまた、魔獣と同じように止まることになった。

「な、んですの、これは? 身体が、動きませんわ!」

「これは……バインド? あたしやリオンちゃんをも封じるなんて……!」

 リオンとトーユーズの二人が、固まったように動かない身体を必死に動かそうと藻掻く。バチリバチリと、魔力が弾けるような音が鳴り、彼女たちの身体はゆっくりとだが動き始める。ユースが指先を動かせるようになった頃には、すでに彼女たちは両手両足をゆっくりとだが動かせるようになっていた。

 しかし、それでもウェイトン・アリゲイの歩みを止めるには遅すぎた。

 ふっと金縛りが弛まり、魔獣も含めた全員が動けるようになったときには、すでにウェイトン・アリゲイの身体は『封印の地』へと続く孔へと吸い込まれるようにして消えていた。

 そして――異変は直後に。

「よく分かりませんけど、良くない予感がしてなりませんわ」

「奇遇ね。あたしもよ」

 リオンは消えたウェインを見て、トーユーズは向こうの屋根に見える水色の髪の人影を見てそう呟く。

「舞台のフィナーレは脚本通りに。ウェイトン・アリゲイ。その真価を今見届けましょう」

 ユースの耳に『狂賢者』の言葉が届く。

 瞬間――――『封印の地』から汚濁のような光が天高くあがる。

 黒い。漆黒の闇のような、不気味な光が。


 

 

 漆黒の光を見届けた漆黒の甲冑と仮面をつけた男は、大浴場の様子を見守るディスバリエから数歩離れた場所で立ち止まった。

「酷い女だ。あれほどに貴公に心酔していた男を、何の躊躇もなく時間稼ぎのためだけに切り捨てるとは」

「心外ですね。あれはあたくしの望みであると同時に、彼にとっての望みでもあったのですから。あたくしは幸福への道標を示して差し上げただけ。選んだのは彼です」

「それでも嘘を吐いたのだろう? あの『偉大なる書』を使おうとも、ただの人ではドラゴンには至れない。ドラゴンへと反転してなる器は、その魂に使徒の名を刻んだ者のみ。それ以外の者がドラゴンへと至ろうと思ったなら、他の方法が必要だと言ったのは、他でもない貴公だったはずだ。ディスバリエ・クインシュ」

「ふふっ、そうだったでしょうか」

 ディスバリエのためにその身を捧げたウェイトン・アリゲイ。『封印の地』に身を投じた彼が何をしようとしているかは明白だった。それが望みを叶える術だと思って行ったのならば、同情に値するというもの。特に、こうも見送られた女に嘲り嗤われているのだとしたら。

「確かに耳にした。だからこそ貴公は『儀式紋』を、[共有の全シェアワード]を、その他多くの実験に手を出してきたのだろう? そして成果を、結論を得た。私は貴公の語る本当のドラゴンへと至る道を信じ、この場にいるのだ。今更それを偽りだとは言わないだろうな?」

「ええ、ご安心を。完璧な方法でその身をドラゴンへと変わる方法は、すでに結論として出ていますから。やはりドラゴンの肉体を得るには『聖母』が産み落とす他ない。ええ、『偉大なる書』――エリツァラテスラの聖骸聖典の力では、使徒以外は終わりの魔獣ドラゴンにはなれませんわ」

「では、やはり貴公はウェイトン・アリゲイを見捨てたということだ」

「あら? 元はといえば、あなたがユース・アニエースを止められなかった所為でしょう?」

 そう言われてしまえば、男に返す言葉はなかった。

 ディスバリエは楽しそうに男の手の中に抱き留められた、翡翠色の髪の少女を見る。
 ぐったりとしながらも確かに生きている彼女を見て、ディスバリエは責めるでもなく、事実を指摘するように述べた。

「あなたの甘さのツケをウェイトンが支払ってくれているのです。感謝してはいかがですか?」

「……まぁ、いい。すでにこの『ナレイアラの封印の地』へ仕掛けは施し終わったのだろう? 所詮この場所でドラゴンが現れようとも、誰の望みも叶わないのだから、どのような結末を迎えようと私の関知するところではない」

「盟主様の望み。あなたの望み。あたくしの望み――全てを叶えようと思うなら、開くべきは『アーファリムの封印の地』」

「聖地を血で染め上げる。そうして世界を変える力を手に入れる。
 この世界は狂っている――盟主様のそのお言葉は、間違いなく正しいのだから」

 頷くディスバリエ。所詮は『狂賢者』と呼ばれる彼女と自分は同じ穴の狢。
 利用できるものはことごとく利用する。そう、自分がディスバリエを利用しようと思っているように、また彼女も自分を利用しているのだとしても、それでも彼女と自分は同士だった。

「せめて、ウェイトン・アリゲイが望んだ結果が得られるよう、彼が強い魔獣になることを祈ろうか」

「あたくしは最初から祈り続けていますわ。あなたは信じてはくれないようですが、あたくしは彼を見捨てていない。酷く興味があります。ウェイトンと、そして今ここに向かっている――

 黒い光の中から生まれようとしているものを恍惚の表情で見つつ、指揮棒を振るうようにディスバリエは手を振る。その手が操る結界が、少し変化したのを男は肌で感じた。

――ヤーレンマシュー・リアーシラミリィ。失敗作の中の失敗作が、まぁ、素晴らしい獣の意志を胸に燃やしてくれたようですから」

 クスクスと嗤う『狂賢者』――ただじっと彼女の後ろ姿と、もはや何もすることのなくなった戦場を見て、仮面の男は手の中の少女にだけ視線を送る。どこか、優しげに。

「…………世界は狂っている。あまりに理不尽なのだよ、クレオ」

 後悔はない。この激情を向かわせるべき在処は、ディスバリエの見えない眼差しが見る場所にのみあるのだから。

 


 

       ◇◆◇


 

 

 ウェイトン・アリゲイという名前は、ウェイトンという男の本名ではなかった。

 ある意味では本名でもあるのだろう。生まれて唯一つけられた名前が、多くの人がつけられる魂に根付く名ではなく、快楽を得るための道具としての名前だっただけで。

 ウェイトン・アリゲイ――それは所詮源氏名。
 商品である男娼として、汚らしい人に抱かれるためだけに与えられた名前だった。

 二十数年ほど前、現在ランカと呼ばれる街はオルゾンノットと呼ばれていた。
 千年の昔から存在する古の都。クロード・シストラバスによって治められた豊かな都。

 クロードはいと高きシストラバス家の当主らしい当主であった。領民にも慕われていたが、しかしそれでも彼の目が届かない部分で闇は蠢いていた。

 生まれたばかりのウェイトンが連れてこられた店もまた、そんな裏の世界にあった。
 表の光が当たらぬ、暴力と権力で支配されていた場所――当時シストラバス家は何かしらの変事に見舞われていたために、裏の発達は著しかったのだ。

 生まれてから十年経った頃には、すでに客を取らされていた。
 そうしなければ生きていけず、そうすることが当然だと覚え込まされていた。

 最初は良かったのだ。先輩などに教えてもらい、そうする未来が当然だと信じていたのだから。しかし実際に客を取るようになって知ってしまった。外の世界では自分たちのしていることは『汚い』ことであり、普通の幸せとは他にあるのだと。

 それは飼われた男娼たちの誰もが一度は通る道だった。

 誰もが自分の立場に不満を覚えることを知ってしまう。
 こことは違う光が満ちる世界があることを知って、反感を覚えてしまう。
 
 けれど、一つの屋敷の下でのみ生きてきた彼らに逃げ出す勇気はない。中には逃げだそうとした者もいたが、そのほとんどは捕まえられ、見せしめのために殺された。

『自分たちには力がない。だから、自分たちはこの『汚い』ことを続けるしかないんだ……』

 いつしかそれを『汚い』と思うことがなくなるまで、ただ美貌を持って生まれた少年たちは夢見ることなく、鞭を振るう主人の言葉に従い続ける。生きている意味さえわからぬまま諦め続ける。

 ウェイトン・アリゲイと名付けられた男娼もその一人。
 いつか逃げてやる。いつか力を手に入れてやる……そう思うだけで、本当の力が何かも知らずに、ただがらんどうに生きていただけ。

 そんな少年が本当の『力』を知ったのはその日――神を見たその日のことだった。

 

 

 ウェイトンはこの光景を忘れまいと、じっと目の前の光景に見入った。

 灰色の世界。寂しい世界。『封印の地』と呼ばれた、魔獣だけが住まう追放世界。

 ここにいるものは皆虐げられたものたちだ。使徒という表舞台で輝く者たちの影で踏みつぶされ、顧みられることなく消えていった、哀れな命だ。

 そう、ウェイトンが力を欲したのは、そんなかつての自分のような、一方的に虐げられる者を救いたいからに他ならなかった。汚れていると呼ばれようとも、生きることで誰かに迷惑をかけるとしても、それでも生きている一つの生命を、助けたいと思ったのだ。

 理不尽な暴力を力によって駆逐し、聖神教の語る神に見捨てられた者たちに救いの手を差し伸べる。新たなる『力』という名の神の下、誰に怯えることもなく生きていける世界を与えてやりたかった。

 戦士としての才がなく、魔法の才もないウェイトンが、そんな世界を作り上げるために求めた『力』こそ、神こそ、ドラゴンに相違なかった。自身がそこまで至れば、この神が隣にいない世界を変えれるものと信じたのだ。

「虐げられし者たちよ。疎まれし者たちよ。私は今日、人の身を捨て汝らが同胞となろう」

 そのためのベアル教。そのための『偉大なる書』――これまでの人生に意味を見出すのなら、この瞬間にこそあった。

「今こそ己が人生を試すとき! 己が生き方を誇るとき! 偉大なるかなこの私――いざ、ドラゴンへと至らん!」

 高らかに響く反転の声。魔獣たちも近寄れぬ、黒い光をその手に持つ本から噴き上げながら、魔獣の声という祝福をウェイトンは受ける。弱き人を強き神へと至らしめる光がウェイトンの身体に巻き付き、呑み込み、その身に囁きかける。

 変われ、と。裏返れ、と。歪め、と。

 それは福音――囁きに身を捧げ、あるがままに受け入れ、此処にウェイトン・アリゲイは反転を始めた。

 


 

       ◇◆◇


 

 

 今までゴブリンを生んでいた孔から、黒い腕が飛び出した。

 泥が形を持ったような黒い腕――それに感じる悪寒のほどは、あまりにも強烈だった。
 まるで魂の奥底へと響いてくるような原初の恐怖。存在そのものを歪めてしまう、そんな不気味な光。

 触れてはダメだ――直感、あるいは一度その光を受けたが故の経験から、クーは背後からゴブリンたちを飲み込んでいく黒い手のひらから、防御壁を張りつつ遮二無二回避をはかった。

「この光は、まさか――!」

 終わりを見せず、次々に現れては空間を埋め尽くしていったゴブリンたちが、同じく『封印の地』より現れた黒い腕に掴まれ吸収されていく。壁や天井はただ破壊されているだけなのに、魔獣たちは黒い腕に取り込まれる。末期にゴブリンが浮かべた表情は、あまりにも至福に溢れていた。

 いきなり起きた目の前の現象は、魔獣を全て飲み込むまで続いた。
 まるで巨大な蛇がのたうちまわったかのように、辺りの壁全ては崩れ落ち、屋根さえ落ちた。

 黒い腕は暴れたあと、再び『封印の地』へ戻っていく。
 その後、あれほど現れていたゴブリンが出てくることはなかった。恐らくここで起きたことと同じ現象が、『封印の地』の中でも行われたのだろう。

「……なんですか? この気配は」

 感じる魔獣の気配の数が激減した代わりに、巨大な気配が現れた。

 それはまるでドラゴンのような強大な気配――しかしドラゴンとはどこか違う、そんな醜悪な気配だった。

 先の腕を形作っていた光は、間違いなくかつてクーを襲った『偉大なる書』の反転の光だ。

(もしかして、誰かが反転して!?)

 状況が分からないクーは、幸か不幸か足止めする必要がなくなったその場から、全てがわかるだろう大浴場を目指す。

 ――漆黒の気配は、どんどんと大きくなっていく。

 


 

『不死鳥の湯』の客室の裏手に出たジュンタは、出てすぐにその異変を目の当たりにした。

 最初、出口であるリオンたちが使っていた部屋の、その部屋に備え付けられた浴室の前の茂み。そこから頭を出した瞬間に見たのは数多蠢く魔獣の姿だった。

 驚きはなかった。『封印の地』が開放されたのだから、その可能性はあると覚悟していた。
 すぐに剣を構え直し、咆哮をあげてかかってくるオーガを倒そうと動き――そのオーガが上空より降り注いだ漆黒の手に掴まれて遠ざかっていくのを、ジュンタは眼前で見送った。

「……何なんだ?」

 その呟きは全てが終わったあとに、ようやくジュンタの口から出たものだった。

 空から降り注いだ黒い腕はオーガのみならず、そこにいた魔獣の全てを掴みあげ、呑み込み、取り込んだ。部屋の中にもいたのだろう。空から槍のように降り注いだ腕によって、ジュンタの目の前で『不死鳥の湯』は完全に崩落した。

 建物が瓦礫と化したために、壁で塞がれていた視界が開ける。大浴場の方を向けば、この場からでもわかる黒い腕の主――巨大な異形の姿を見つけることができた。

「なんだよ、あれ?」

 それはジュンタも初めて見る魔獣だった。

 全長は……よく分からない。泥人形のように変形するソレは、全長というべきものがないのかも知れない。あえて平均をいうならば、四十メートルはあるだろうか。
 身体はうっすらと鈍く輝く黒色。身体のあちこちから巨大な腕を出して、それはのっぺりとしたマネキンのような顔を一番上に乗せていた。

 その口からは、この世のものとは思えない奇声が飛び出す。

 すでに黒い腕によって旅館を包み込んでいた霧は破られてしまっていたが、ジュンタは『封印の地』から出た魔獣が村へと出る心配がないことを察していた。

「いや、違うか。『封印の地』から出た魔獣は、確かにそこにいる」

 地上に出た全ての魔獣をその身に取り込んだ巨大な魔獣は、いってしまえば合成された魔獣。

「『混沌獣キメラ――確か、古の時代ではドラゴンについで恐れられた、魔獣を喰らう魔獣だって話だったか」

 いきなりの声にジュンタが振り向けば、そこにもまた異形の形を取る獣の姿があった。

「まぁ、なんでもすでに絶滅した……ってのは違うかも知れねぇがよ、この世にはいないっていう話だったんだがな」

「お前……!」

 背後の巨大魔獣――混沌獣キメラ』に比べてしまえば、その姿も大きさも控えめ。しかし纏う気配を考え見れば、決して油断できないことは明白だ。

「この気配は間違いなくウェイトンの野郎の使ってた本の気配だが……カカッ! ついにあのマゾ野郎、自分を魔獣に変えやがったな。ドラゴンになれなくて残念。強くてレアな魔獣になれて良かったな。――なァ、どっちがいいと思うよ?」

 岩でできた巨大な両手を持ち上げ、全身を血管のように覆う『儀式紋』に輝かせた敵の名を、ジュンタは剣を構えつつ呼ぶ。

「ヤシュー!」

「ああ、なんだよ、ジュンタァァア!」

 縦に瞳孔の割れた蒼い双眸が、再びの闘争に爛々と輝く――巨人の一撃を受けたジュンタは、衝撃だけで瓦礫の中へと吹き飛ばされた。

 


 

       ◇◆◇


 

 

 ドラゴンを王とする、人の天敵たる獣――

 そう言われる魔獣の実体は、ドラゴンと同様ほとんど分かっていない。
 人が生きていく上で切っても切れない関係であるため、その対処法や種類は判明しているが、生まれてきた理由というものについては不明のままだ。

 そんな魔獣にもやはり進化というものがあり、そしてキメラはその進化の過程で失われたはずの魔獣の名だった。

 この世に魔獣が溢れかえっていた時代においては、かの魔獣はまだ存在していたという。当時の歴史書を紐解けば、その恐ろしさは明確だった。

 生き死に問わず同胞たる魔獣を喰らい、その果てに生まれた明確な形のない魔獣。魔獣同士が融合した姿ともいわれているそれは、時に喰らった魔獣の量が多いと、ドラゴンをも上回る巨体となったという。

 あくまでも王たるドラゴンには敵わなかったが、それでも何とかキメラならば倒すことができた――なるほど、確かにキメラはドラゴンほど絶望的な相手ではない。倒せるというだけ、まだマシだ。

 それでも、その巨大さを至近距離から見て確認したのなら、思わず怯んでしまうのもしょうがなかった。

「キメラ……『封印の地』に元々いたのか、それともウェイトン・アリゲイが生み出したのか」

 リオンは辺りにいた全ての魔獣を吸収して、『封印の地』の孔から立つ巨大な柱のようなキメラを見上げていた。

 ぐにゃぐにゃと輪郭を歪ませつつ、触手のように漆黒の腕を伸ばすキメラ……全ての魔獣と引き替えに現れた巨大な魔獣は、文献に残るその強力さ以上に、リオンたちの上にのしかかっていた。

「ユース。一つ尋ねますけど、あなたは『封印の地』を閉じることができますのよね?」

「可能です、リオン様」

「でしたら、現状でも――『封印の地』の孔のつっかえ棒になるようにキメラが存在している現状でも、それは可能ですの?」

「それは……」

 考え込むようにユースは黙り、キメラの巨体に完全に塞がってしまった孔を確認して、それから心苦しそうに首を横に振った。

「恐らく無理でしょう。閉じる過程であれに邪魔されてしまっては、いつまで経っても塞がることはないと思われます。『封印の地』を塞ぐには、あの巨体を孔から出すか、孔の向こうに押し込んでしまわなければ無理かと」

「どちらも至難の業ね。たくさんの魔獣を相手にしなくて良くなったのはいいけど、単純に考えて、全ての魔獣を取り込んだキメラの実力は……」

「取り込んだ魔獣の数の合計分、と思ってよろしいかと」

 淡々と語るユースの言葉に、さしものトーユーズも苦い顔を隠せないようだった。

『封印の地』を塞ぐ方法がわかったというのに、その巨体をつっかえ棒にする形で阻むキメラが現れた。これで『封印の地』を塞ぐには、あれを倒さなければいけなくなってしまった。それはあまりにも困難のように思われて仕方がない。

 そうこう悩んでいられる暇はそこまでだった。

「オォオオオオオオオオオオオオッ!!」

 突如キメラの頭から響く怨嗟の声。獣の雄叫びというには人の悲鳴に近いその声は、あまりに耳障りな音量であり、まともな神経をしている人間ならば誰もが顔を顰めずにはいられないものだった。

 しかしリオンたちに顔を悠長に顰めている時間はない。雄叫びと共にキメラの長細い胴体の、ちょうど人間の肩がある辺りから、体中から伸びる腕とは違う図体に釣り合った巨大な腕が生え、ただ真下に向かって振るわれたからだ。

 鎖に繋がれた鉄球が滑り落ちてくるような一撃だ。
 深々と浴槽の床は削られて、避けることができなければ一撃で磨り潰されていたことだろう。

「知能がないように見えたけど、どうやら人並みに知能はあるようね」

 察知して攻撃を避けていたリオンは、動きの鈍いユースを咄嗟に抱き上げて回避行動をとっていたトーユーズの言葉に、思わず舌打ちをしたくなった。

「魔獣の名を冠する以上は、あたしたち人にとっては敵以外の何ものでもないってことね。まずいわ。霧がなくなった今、あのキメラは村に被害を及ぼしかねない」

「つまり、倒すしかないということですのね」
 
 無理とかそれ以前に、守ろうと思うならそれしか選択肢はなかった。

 ユースを下ろしたトーユーズは、魔獣との連戦で疲れているだろうに、はっきりとした戦う姿勢を双剣に雷気を纏わせることによって示す。リオンもそれに続こうと剣を握り直したところで、

「リオンちゃん。悪いけど、ここからはあたし一人でやらせてもらうわ」

「なぜです? ご心配には及びませんわ。まだ私は戦えます!」

 上がっている息を見られてそう言われたのかと思い、リオンはまだ戦う力が残っていることを声を荒げて訴える。実際はかなり疲労していたが、それでも戦わなければいけない今、戦うことに臆す気持ちはなかった。

 あるいは竜滅姫である自分を守るために戦闘を制止したのかとも、トーユーズの事情を知っていたリオンは疑ったが、結局はそのどちらもハズレだった。

 トーユーズが自分に戦列を外れろと言ったのは、一番わかりやすくて、一番屈辱的な理由でしかなかった。

「ああ、誤解させたようでゴメンね。リオンちゃんの身を心配してないわけじゃないけど、あたし一人で戦うのはもっと切実な理由よ。時間もないし、はっきり言うわね。
 リオン・シストラバス。今のあなたの実力じゃ、あなたはわたしの足手纏いでしかないわ」

 それはリオンにとって、初めて向けられた類の言葉だった。
 
「ただの魔獣相手だったなら良かったわ。あたしも一人に対して密度を注ぐまでもなく戦ってたしね。でもキメラが相手となると、あたしはあれだけに全力でぶつかっていかないといけない。二人でいる意味はないし、むしろただ邪魔になるだけ」

「…………」

「……自分でも酷いことを言ってるって分かってるけど、これが今のあたしとあなたの実力差よ。あなたはここでユースちゃんを死守していて。あのデカブツはあたしがやるわ」

 拳を握りしめるしかなかったリオンに一度微笑みかけてから、トーユーズはキメラを睨む。

 一体どこにそれほどの余力を残していたのか――トーユーズの身体を包み込む魔力の猛りは、闘志の輝きは、魔獣を相手にしていたときよりも壮大だった。それも当然か。所詮どれほど集まろうとあの程度の魔獣、『神童』にとってはただの一兵士でしかない。ようやくもって『将』を目の当たりにして、ようやく彼女の騎士としての真価は発揮される。

「さぁ、ドラゴンじゃないけど、練習台としては最高ね。いざ――!」

 黄金の瞬きは刹那の内にリオンの眼前から掻き消える。直後には、雷鳴の如き一撃がキメラの足下で炸裂していた。

「リオン様」

「大丈夫ですわ、ユース。これも守るために必要なことですもの」

 悔しい以上に認めるしかない力の差を前にして、リオンはユースを背に守って戦いを見守る。

 稲妻が刃となって夜気を払う。
 光を塗りつぶす闇が押し寄せる。

(悔しいですけど、今の私ではキメラを倒す方法がありません。トーユーズさん、あなたに託させていただきますわ。ですが、次こそは一緒に戦える騎士に……!)

 


 

 巨腕の一撃を受けたジュンタはサネアツに話しかけられたことで、瓦礫の上で眼を覚ました。

「ジュンタ。大丈夫か?」

「サネアツか? ああくそっ、キメラとかいうデカブツに気を取られて油断した」

 起きあがったジュンタは、肩にサネアツを乗せ、斜め横の瓦礫の向こうで繰り広げられている戦闘の光景を眺める。

 地上から天上へと突き刺さる雷の剣。
 魔力を細く長く伸ばした雷撃の刃は、そのまま一撃限りの大斬撃を前方に放つ。

 雷光の刃を受けたキメラは、その右肩ごと腕を焼き焦がされ切断される。ボトリと落ちた黒い腕の質量は、地面を揺らす衝撃となってジュンタのところまで響いてきた。

 雷鳴が轟く。雷の騎士たるトーユーズの追撃は、ジュンタの見える範囲内ではわからなかった。ただ、攻撃を放ったと思われる輝きが光り、どう足掻いても攻撃を避けられるはずもないキメラは、その重心をぐらりと揺らした。

 直後、キメラの頭部辺りに翼を広げた鳥のようなシルエットが現れる。

 輝く翼は双剣の輝き。紫電一閃――その体格差を覆す渾身の一撃は、バランスを崩していたキメラをついに地面に這わすことに成功した。

 しかし、それでもキメラは死なない。

「キメラか。あれは俺のゴーレム君と似たようなものだな。痛覚も何もない。その形はあくまでも一つの形でしかなく、本質は『混沌』――形なき黒き泥に他ならない」

 サネアツの説明の通りに、地面に倒れ伏したキメラは、それに何の意味もないと嘲笑うかのように攻勢に移った。

 地面に広がっただろう巨体から、まっすぐ上に無数の腕がのびる。
 形なき泥は敵を捕まえようと幾重にも伸ばされ、暗闇に光の線を延ばすトーユーズを捕まえようと追い立てる。

 トーユーズは稲妻の速さを持つ騎士だ。その『加速』は、たとえ相当の速さがある腕でも捕まえることができない。無数に枝分かれした腕は追い立てた先で再び融合し、そこからまた避けるトーユーズを追うが、追いつけもしない。離れた場所から見るジュンタにはその一部始終が確認できたが、実際トーユーズは目まぐるしい動きの中にいることだろう。

 そうこうしている内にキメラは捕まえることを諦めたのか、伸ばした手を引っ込めて再び立ち上がった。厳密には胸から上しかない胸像のような形となり、巨木のように地上から生えたと言い表した方が正しいか。

「ダメージはない、か。先生に攻撃は当たらなくても、アメーバみたいな敵じゃあ、いつまで経っても倒すことはできない」

「あれを倒すには、恐らく一撃をもって全てを消失させる他ないだろうな。――だが、マイステリンは強い。後から向こうには手助けに行くとして、まずは目の前にある問題の解決が先決だぞ」

「向こうの大怪獣が本気で暴れたら、それこそラバス村は終わりだ。俺に何ができるかはわからないけど、早く行かないといけないな」

 瓦礫を蹴飛ばして近付いてくる気配に、ジュンタは視線をキメラから前方に変える。

 そこにいたのは異形の腕を持つエルフの男。先程地面の下に拘束したはずの敵――ヤシューであった。

「で、サネアツ。どうしてお前とあいつがここにいるんだ?」

「見ての通り、あいつがご復活願ったからだ。霧をどうやって越えたかと聞かれれば、暴走していたあいつの背中にしがみついていたら、普通に越えられたぞ、と答えておこう。実に乗り心地の悪いタクシーだった」

「あァ? 何ゴチャゴチャ言ってるンだよ」

 軽やかに歩み寄ってきたヤシューだが、一歩歩くごとに空間が軋むような魔力が彼の両腕から発せられていた。

 腕の形に沿って岩を、まるでガントレットとして切り抜いたかのような巨大な両腕――一体いかなる魔法なのか、先程はまったく感じなかった魔力を強く感じられる。

 いや、答えは簡単だった。ヤシューの割れた双眸と、その身体を巡る光の線を見れば、それが何の影響によるものかはすぐにわかった。自分の巫女と同じソレを、ジュンタが見間違えるはずがない。

「『儀式紋』……そうか、ヤーレンマシュー・リアーシラミリィ。クーと同じリアーシラミリィの森の出身なら、その可能性はあったな」

「ん? ああ、嘆きのリアーシラミリィって奴か。その通り。俺はな、昔狂った女に攫われちまってよ。まぁ、色々と改造されたわけだ。俺と同じように攫われた他の奴らは死んじまったけどよ。生まれながらに魔力を外に出せない体質がいい具合に働いてな、こうして生きて自由を謳歌してるってワケだ」

 かつてリアーシラミリィのエルフの森を襲った『狂賢者』――ベアル教の実験。
 多くのエルフの子供たちが犠牲になったと伝えられるそれは、最終成果であるクー曰く、生き残った子供はいないのだという。

 しかしここに例外がいた。『儀式紋』を施され、それでもなお生き抜いたエルフ――ヤーレンマシュー・リアーシラミリィ。彼はその『儀式紋』を切り札として発現しながら、今再びジュンタの前に立ち塞がった。

「戦いは免れないよな。サネアツ、あの両腕はどんな感じなんだ?」

「あいつの言葉が正しいのなら、あいつは魔力を身体の外に出すことができない体質なのだろう。あの身体を硬くしていたあれも、実際には魔力を内側に流して発動していたようだから、恐らく事実だ」

「それならあの両腕は? 間違いなく魔法だろ。魔力も感じる」

「あれは恐らく、奴の魔力性質『変質』によるものだろう。恐ろしいことにな、あいつは自分の内側で魔力を荒れ狂わせ、自らの身体を変質させ、外へとその力を出しているのだ。あの両腕は内側で暴れている魔法が『儀式紋』の活性化によって外界にまで効力が及んだものと考えられる」

 つまりは『変質』の魔力を、ヤシューは自分に対して使っているわけだ。内側にしか本来効力を表すことができない魔力だが、変質させることによって外界へと表しているというわけか。

 なんということか。ジュンタでもわかった。それは自らの寿命を縮める行為――それは使うほどに自分を壊していくことだろう。

 だが、ジュンタは今更ヤシューに何かを言うつもりはなかった。ただ純粋に楽しくてしょうがないと目を輝かせて追ってきた彼――現状で相手にするのは本当のところゴメン被りたいが、それでも何を言っても戦うことは避けられそうにない。

「さて、リベンジさせてもらおうか。ジュンタ」

 向けられる感情に敵意はない。ただ闘志と殺意だけが渦巻いている。

 自分を壊してまで戦いたいのか。きっとそう訊けば『当然だ』と即答が返ってくるようなバトルジャンキーには、ただ剣だけで語れ。

「今度こそ獣のベーゼをやるぜェ」

「それはこっちの台詞だ。お前を倒して、俺は向こうに行かないといけない。遅刻して、もう全てが終わってて、その結果リオンがいないなんてことだけはごめんだからな」

「いいやがったな。なら、精々詫びろ! 俺を本気にさせたテメェが、行きたいいきたい生きたいって叫くテメェになァ!!」

 瓦礫の中、双剣と双腕がぶつかりあう。それはヒトガタの獣の聖域だった。

 どう足掻こうとサクラ・ジュンタの本質は獣。ならば、目の前の敵に勝てない道理はない。我こそは最強の獣――終わりの神獣ドラゴン』なのだから。

 


 

      ◇◆◇

 


 


 収縮する触手とでもいうべきキメラの腕は、どこまでも追いかけてきた。

 刃で切り裂いても、今度はその断面から新たな腕が現れて襲ってくる。完全に破壊するには根本から焼き尽くすしかなく、そうやって無数とも思える攻撃を電光石火の速さで避けながらトーユーズは戦っていた。
 
 そうして現在。忌々しいことに、戦いの中で芽生えた疑念は確固たるものとなった。即ち、キメラの再生力の度合いである。

―― 居合い・雷鞘」

 右手の大太刀に雷気を纏わせ、鋭く引き抜く。

 魔力の配列を考えて、擦り合わせるように剣を振れば膨大な熱力は生まれる。
 面へと降り立った瞬間に足下に肉薄し、振り抜いた一撃は巨体のバランスさせ崩す一撃となる。

 しかしその攻撃もすぐに塞がってしまう。

 見えた断面は魔獣の顔や腕が混ざり合ったかのようなもの。まさに混沌と呼ばれるにふさわしい、取り込んだ魔獣を血肉として蠢くキメラは、どれほど攻撃しても即座に再生してしまう。しかも何度も欠けた傷口をつなぎ合わせても体積が変わらないところを見るに、もうこの疑念は間違いなかった。

(こいつ。足下の『封印の地』で、どんどんと新しい魔獣を補充してるわね)

 キメラの尽きない魔獣の因子はそこにあった。

 地上には魔獣が残っていなくとも、キメラの足下には単身で向かうには無尽蔵といってもいい万単位の魔獣群がいる。魔獣を吸収して肉体とするキメラは、まさに補充する魔獣がいる限り無尽蔵の再生を行えるのだ。

(やっぱり、倒すには一撃で全てを吹っ飛ばすしかないか)

 どれほどの再生を行える敵であっても、その肉体の欠片に至るまでも一撃で消失させられたなら復活はできまい。ああいう手合いには核たるモノがあるのが通説だが、心臓も頭も厳密には存在しないそれのどこに核があるかは不明。――闇雲に攻撃を続けて疲労を蓄積させるより、この辺りで乾坤一擲の策に出るのは悪くなかった。

 というより、元よりトーユーズはそのつもりだった。

 目の前の敵を仮想敵として見て戦ってもいるのだ。
 これより放つ一撃が効果あるかを試すのは、倒すのと同じくらい重要なこと。

「さぁ、トーユーズ・ラバスが十年の足跡。忘れられないくらい激しく刻みつけてあげるわ」

 敵の攻撃を切り裂いて、トーユーズは大きく距離を取る。
  
 そこで背中を見つめる強い視線に気が付いて、

「……美しくないところは絶対に見せられないわよね」

 その視線に乗せられた憧憬を察し、凛々しく目元と口元を引き締めた。

 


 

無情の夜に泣きたまえ 泣きながら剣を握りたまえ

 リオンはまずその輝きだけで自然と、自分とユースを守るようにドラゴンスレイヤーを前へと突き出していた。

 紡がれる言霊は『加速』の韻。[加速付加エンチャント]を理想の形で使えるトーユーズが、それでも詠唱を用いて放つ『加速』の術。それは手加減無し、余力も一切残さない最大攻撃を放つため、自らの魂を高める詩に他ならなかった。

世は無情 生は無情 生きるも死ぬも世は地獄

 トーユーズは静かに瞳を閉じ、流水のただ中で揺るがぬ巨木のように、静かな空気を放つ。

 その両手に大太刀は握られていない。腰元へと双剣を持っていった仕草だけで、リオンの視界から彼女の双剣は消え伏せていた。

故に ただ剣を握りたまえ

 否、それは違うのだと、リオンはここに来てようやく気付く。

「見えない、鞘……!」
 
 満たされていく雷光の輝きに、ついにトーユーズ・ラバスの愛剣の鞘が露わとなった。

 トーユーズの両の腰骨あたりにくくりつけられた、反り返った太刀の鞘が二つ。それは紛れもなく、見えない『透明な鞘』であった。光の屈折を魔法で操っているのか、それとも鞘自体が魔法武装の一種なのか、どちらにしろ雷光が鞘の形に添って迸っていなければ、リオンは鞘の存在に気付くことはなかったのだろう。

 つまるところ、トーユーズは常に愛剣を携帯していたというわけだ。
 鞘にいれた大太刀までもが見えなくなるようで、いつも得物を持っていなかったように見えたトーユーズだが、やはり騎士。片時も剣を放したりはしていなかった。

 ヤシューへの攻撃は、神速の鞘走りによる抜刀によるものなのだろう。リオンは『居合い』なるロスクム大陸の剣術の秘奥を聞き知っていた。

 そして、トーユーズが切り札として用いようとしているその技もまた、居合いであった。

誉れがために 主上のために 騎士よ今剣を握りたまえ

 見えざる鞘は強烈な魔力によって光り輝く雷の鞘と変貌する。トーユーズは雷に収められた大太刀の柄を、手をクロスさせて握り、大きく息を吐く。迫る触手の波は開かれたトーユーズの眼差しと、鞘が放つ雷気によって焼き払われた。

 それを最後として雷の輝きが消える。その雷気さえも鞘の中に秘められた。
 音は消え、無音の中、黒塗りの姿を現したトーユーズの鞘だけが闇とは違う黒い艶を放つ。

 それは果たして剣技なのか。
 それは果たして魔法なのか。

 極限に振り絞られた集中は、想像すらさせない。

永久に麗しき稲妻となるために

 ただの一瞬も見逃すまいとリオンは瞳を大きく見開く。

 想像はできないけれど、理解は容易だった。この光景を見届けること――それが、リオン・シストラバスがもっと強くなるためには絶対に必要なのだと。

 


 

 ヤシューの腕によるインパクトは、肋骨を超えてジュンタの内臓を震わせる。

 技巧も何もあったものではない、力任せの一撃。だがそれが防御全てを貫く威力を持っているのなら、脅威以外の何ものでもなかった。

「っ!」

 剣で弾いたはずの巨腕の一撃に弾き飛ばされながらも、ジュンタは痛みに耐えてバランスを崩さないように努める。ここで思い切り倒れたりしたら、それこそダイレクトに巨人の一撃を受けて死に至ることだろう。

 とにかく、足を止めるわけにはいかなかった。

 先程の戦闘時よりも速度を大幅に上げたヤシューの速度は、[加速付加エンチャント]した状態で互角に近かった。単純な身体能力で、そこまでの速度を弾き出しているのである。

 巨腕の一撃は恐ろしいほどの威力を持っているため、今度こそ何の策もなく、ジュンタは制御できる限界に近い魔力を[加速付加エンチャント]に注ぎ込んで、いつ暴走してしまうか分からない瀬戸際で剣を振るっていた。

 瓦礫がヤシューに踏みつぶされ、豪腕が大地を砕く。
 瓦礫がジュンタに焼き焦がされ、双剣が大気を裂く。

 真っ向切っての鍔迫り合いは、まさにヤシューが望んだそのままの戦い。彼は終始笑みを絶やすことなく、力の限り腕を振るっていた。

「戦略的に追い詰めるのも悪くねぇだろうが、こういうのも楽しいだろ?」

「そうだな。その両手がなければおもしろかったかもな!」

 双剣を重ね合わせた両手での渾身の振り抜きと、引き絞った弾丸のような右ストレートがぶつかりあう。

 大気がヒステリックな音をあげ、衝撃波は両者ともに大きく弾き飛ばす。

 ジュンタは全身を貫くような痺れに口端から血を垂らしながら、懐に入った状態で、必死に服に捕まっていたサネアツの声を耳に聞く。

「『巨人の右腕』は大地を砕く。『巨人の左腕』は大地を閉ざす。地属性の儀式魔法――岩の巨人の右腕タイタンズブレイク]、[岩の巨人の左腕タイタンズバインド]の効力を持つ両腕か。気を付けろよジュンタ。奴の右腕は威力が高く、奴の左腕は機動力を奪う」

「言われなくても!」

 巨人の腕を手に入れたヤシューに気を付けるのは当然のことだ。

 実際に戦ってみて、『儀式紋』という、儀式魔法を単独魔法並に使えるようになる力の恐ろしさがよく分かった。クーからその詳細だけは聞いていたし、ヤシューはドラゴンと共感していないため『侵蝕』の魔力性質はなく、その力は未完成だろうが、自分の血肉を捧げてまで底上げした力は彼を裏切らない。

 何度も激しくぶつかりあい、そのたびにジュンタの身体の骨が軋んだ音を立てる。その圧力の何と大きいことか。硬質化しているヤシューの身体にダメージはないというのに、一方的にダメージが蓄積されている。

 それでも何とか戦えているのは、少しでも集中を切らし[加速付加エンチャント]を弱めたら、その時点で即死だからだ。追い詰められて、必死にならないはずがない。

「ンだよ、なんだかさっきより速くなってねぇか!」

「かもな!」

 極限の状況において、これまでの[加速付加エンチャント]最高持続時間を超える。さらにこれまで制御を超えてしまうために注げなかった量の魔力も注がれている。速くなっていないはずがないのだ。

「くっ……すまない、ジュンタ。これ以上は俺もついていけないようだ」

「なら、少し離れて待ってろ」

 苦しそうな呻き声が胸元からして、ジュンタは一度下がる。
 そこでサネアツが懐から出て、その次の瞬間にはジュンタはヤシューとのぶつかり合いに戻っていた。そのときのスピードはサネアツに遠慮しない分だけ、さらに速い。

 そうして戦うこと数分。限りなく長く感じた数分間のあと……ジュンタはそれでもヤシューに勝てなかった。

 元より戦士としての技能はヤシューの方が上だった。
 だから策を講じて倒そうとしたのだから、正攻法でのぶつかり合いで勝ちようもない。

 持久力でのみ上を行くジュンタであったが、それでも戦いが長引く中、僅かに集中力を鈍らせた。視界の隅で感じる大きな気配の存在も、気になってしまった理由だ。だが何ものも見ず、まっすぐにこちらだけを見ているヤシューとの戦いにおいて、その僅かな気のゆるみは致命的だった。

「捕らえたぜ!」

「ぐっ!」

 強烈な右腕の一撃をかろうじて逸らした瞬間、詰め寄ったヤシューの左手にジュンタは掴まれてしまう。

 握った相手を束縛する力を持つヤシューの左腕――握られた瞬間に軽々と持ち上げられたジュンタは、思い切り振り上げられた彼の右手を見つめる。

「ハッハー! 今度こそ本当にさよならだ! 楽しかったぜ。ああ、最高に楽しかった。できることならまたやりてぇが……悪いな。テメェには本当の獣って奴のベーゼを贈ってやるって決めちまったもんでよ」

「ぎ、ぐ……!」

「ジュンタ!」

 万力のような力で締め付けられ、ジュンタの口から苦悶の声がもれる。

「あばよ、ライバル。あの世でもしも会ったら、そんときは杯交わして、また殺し合おうや」

 サネアツが血相を変えて飛び出してくるが間に合わない。『侵蝕の虹』も、受け入れることを望んでいないヤシューに対しては、そうすぐには影響を及ぼしてはくれない。この場において助けてくれる存在はなく、ヤシューの右腕は獣の笑みと共に振るわれる。









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