第十九話  獣のベーゼ(後編)


  

 トーユーズ・ラバスと呼ばれる騎士は、まるで奇跡のように生まれた。

 強く世間では稀少な『封印』の魔力性質が多い中生まれた『加速』の魔力性質持ちであるトーユーズは、雷の魔法属性ながらも将来を特段期待されたわけではなかった。

 他の集落ではその特異な魔力性質と豊富な魔力だけで特別視されただろうが、トーユーズが生まれたのはラバス村――名門シストラバス騎士団の騎士を多く輩出した竜殺しの村だ。そこで特別視されるには、あまりに生まれ持つべき性質が違いすぎていた。

 それでも、やがてトーユーズは誰からも期待され、特別視されるようになる。

 一体いつが契機だったかは謎。ただ気が付けばその美貌に、その強さに、その才覚に、誰もが気付いて期待を託したのだ。――この『神童』は、やがて歴史に名を轟かせる騎士になることだろう、と。

 トーユーズもまた自分の才能を誰よりも自負し、そうなることが当然だと思っていた。
 毎日のように聞かされた紅き騎士と竜滅姫の長き宿命を打破する騎士こそ自分だと、そう確信して疑わなかった。

 十二で紅き騎士となり、十五のときにはすでに最強の騎士と謳われた。
 かつて村の中だけで期待されていた『神童』は千年の名門の中でも期待され、誰もが来たるべき理想の成就をトーユーズに託したのだ。

『紅き剣に騎士の名を――――我らは、真の竜滅紅騎士ドラゴンスレイヤーとなる』

『神童』トーユーズこそ『竜滅紅騎士ドラゴンスレイヤー』となる器だ――そう呼ばれ、期待され、自認していた。それがシストラバス家千年の歴史において、最も才能に恵まれた騎士の当然だった。

 誰にも敗北したことなく、苦渋を味わったことはない。
 そう、ドラゴンすらもその才能の前にはひれ伏すことだろう。

 そうやって、紅き騎士たちの夢を背負い、叶えてやると息巻いていた、馬鹿だった頃の自分。

 もう口にすることを許されない、あの聖句――そう、今は『騎士百傑』に名を連ねるトーユーズ・ラバスという『誉れ高き稲妻』は、かつてはシストラバス家の騎士であった。

 トーユーズ・ラバスがシストラバスの騎士として、一生に一度だけといわれる宿命に対峙したのは、今から十年前。トーユーズはこれまでの自信を疑うことなく、当然のこととして、その日竜滅姫の命を捧げずして竜殺しを成し遂げるために、オルゾンノットの魔竜と呼ばれることになるドラゴンに挑んだ。

 その驕慢に報いはあった。守るためではなく、自らの絶対性を証明するために挑んだ報いは。

 間違いなくトーユーズは強かった。シストラバスの騎士の誰よりも強かった。……ただ、だけどそれよりもドラゴンの方が強かったというだけ。その日負け無しの『神童』は敗北を喫しひれ伏して、苦渋と共に矜持と自尊心をズタズタに引き裂かれた。

 ドラゴンを倒すと信じた力は、紅き騎士の理想を果たすと確信した刃は、結局は千年の夢の重さを知らなかったということ。尊さに気付けなかったということ。自らの矮小さを初めて思い知ったトーユーズは、そこで初めて自分が守りたいと思っていたものの存在を知る。

 ……けれど、遅かった。全てがあまりにも遅すぎた。

 ドラゴンを前にして倒れたトーユーズを救ったのは、他でもない守るべき姫だった。
 トーユーズの目の前で散ったのは、他でもない守りたいと、そう思えた形であった。

 そうして全てが終わったあとにトーユーズは、戯れにカトレーユ・シストラバスに注がれたワインが入った杯を飲み干した。

 今でも、その味は覚えている。

 騎士は素晴らしいのだと、自分は最強なのだと、そんな憧れを捨てたその日。
 皆の期待を裏切った、何もできなかった無力な自分しか残らなかったそのとき、飲み干したワインは血と涙の味しかしなかった。

 けれど、その味に誓ったことがある。

 そしてトーユーズは紅き剣を捨てた。聖句を捨てた。仲間だった人に背を向けて逃げた。

 愚かすぎたけれど、それでもシストラバスの歴代で最高の才を持った自分がダメだったのなら、その想いを伝えていく方法ではダメだと思ったから。もっと真剣に、過去を裏切っても、そのユメのためにこれからは歩いていかなければと思ったから。

 それがかつてシストラバスの騎士であり、紅き騎士を止めたトーユーズ・ラバスの誓いだった。


 

 

 ――――その誓いはやがて一人の少年によって果たされる。それは夢が叶う瞬間。叶った瞬間。けれど、未だトーユーズは誰からも酌をされることを許していない。


 

 

(夢は愛しい生徒の愛によって果たされた。本当に守りたいという気持ちが、救いたいという気持ちが、その奇跡みたいなロマンチックなお話を作った。
 あたしはそのお話のエンディングの、その先も素敵なお話にしたかったから、彼を強くしようと思った。でもその想いとは別に、もう一つ理由があった)

 トーユーズは夢を叶えた。自分のあの日の選択は間違っていないと知ることができた。……けれど、それでもあの日愚かだった自分を許してはいない。

 いや、きっと一生許すことなどできないのだろう。消えてしまった命が取り戻せないのなら、あの日に在った竜滅姫がもういないのなら、後悔は思い出には変わらない。

「思い出に変えられない後悔を味わってからじゃ遅いのよ。あたしはね、ジュンタ君やリオンちゃんにそうなって欲しくない。だから、全てを絶対の美しさで終わらせる。誰もが見惚れるような結末で彩ってみせる」

 刹那の内に甦ったかつての杯に入った後悔の味に、トーユーズは神の雷を騎士の証と掲げる。

 故郷を守るために。
 姫様を守るために。
 宝物を守るために。

「こんな自分でも憧れてくれる子たちがいて、その子たちがあたしも大好きなら、ほら、やっぱりあたしは最強じゃないといけないのよ。だから――

 高位のエルフほどの魔力はないけれど、それでもトーユーズが一刀に注ぐ全魔力は並のエルフの魔力総量にも匹敵した。

 その輝きは夜を明るく照らさなければいけない。
 守るべきものの美しさをその一刀で示さなければいけない。

 その圧倒的な雷を、トーユーズは渾身の意志をもって、自然体のまま呼び起こす。現在の己のその胸が誇りで一杯となる名と共に、鞘に秘められた誇りを今示す。


――我が名を知れ! 我は『誉れ高き稲妻』トーユーズ・ラバス! 『竜滅紅騎士』ジュンタ・サクラの剣の師よ!!」

 

 



 加速された熱量は、キメラに対して斬撃の魔法として振るわれる。
 無音の居合いは極大の雷の刃を閃かせて、直線上一帯の空間全てを切り裂き、焼き尽くす。

 それは恐ろしいことに、儀式魔法にして百人近くで唱えられる最大級の対軍魔法と同等の威力を示した。

 単身が扱う攻撃の桁としては、まさしく桁外れ――敗北を知り、誓いを立て、その行く果てを知った騎士の眩さは、醜悪な魔獣が直視できるものではなかった。

 衝撃波を辺り一帯にまき散らす破壊の顎に、その触手の先から蒸発して行くキメラ。黒い闇が雷の光によって跡形もなく消し飛ぶまで、そう大して時間はかからなかった。

 その一部始終を目の当たりにしたリオンは、ただただ、何もなくなった夜空の下、双剣を鞘に収め、再び無手に見える自然体に戻った騎士の背中を見る。

 その背中が語っていた。
 その背中が誇っていた。

 目指してこい。この美しさこそ我が騎士道――かつてシストラバスの騎士として、母カトレーユ・シストラバスを守ろうとドラゴンに挑み、守れずに騎士団を後にした騎士の辿り着いた誇りを、敬意を持ってリオンは目を逸らすことなく見続ける。

「さて、どうだったかしら? リオンちゃん。今回の戦いの終わりに咲いた、美しい華は」

 振り向いた彼女の調子はいつも通りだったけれど、そんなに美しく終わりを飾れるのならば、なんて幸せなのか――リオンは何かをその手に掴んだ感触と共に、トーユーズへと微笑みかけた。

「ええ。戦場に咲いた輝き、しかと見届けさせていただきました。素晴らしき姿でしたわ。この私が憧れてしまうほどに」

「光栄です、姫様。騎士にとって、あなたにそう讃えられることほど嬉しいことはありません」

 優雅に一礼して見せたトーユーズが頭を上げたとき、リオンは一人の騎士ではなくリオン・シストラバスとして即座に行動に移る。

 後ろにいたユースを振り向いて、

「さて、ユース。ここからは私たちのお仕事ですわよ。『封印の地』、塞ぎますわ」

「はい、リオン様」

 キメラの巨体がなくなって、再び孔を露わにした『封印の地』――かの魔獣は足下で多くの魔獣を捕食していたのだろう。孔から新たな魔獣が現れる気配はない。今の内にことを済ますことが最適だ。

「それでユース。一体どうやって孔を塞ぎますの?」

「神殿との再契約を行います。ご安心を。お母さんから聞いたことがありますから。あの大浴場にメロディア様が仕掛けられた魔法の中に、とりわけすごいものがあると。長らく存在の意味が不明だったものですが、恐らくはこんな時のためにあったものと――

 さすがに疲れを見せるトーユーズも剣の柄から手を離していた。
 リオンはユースと一緒に孔へと近付きつつ、最後の仕上げとして孔を閉じる方法を聞いて、


「リオン様、危ない!!」


 ユースの悲鳴を耳にしたと思ったら、次の瞬間には強く彼女に突き飛ばされていた。

――なっ!?」

 キメラもいなくなり安心していたところに、まさかユースに突き飛ばされると思っていなかったリオンは、軽々と突き飛ばされる。その中で自分を必死に突き飛ばしたユースが安堵したように微笑んでいるのを見て、どうして彼女が自分を突き飛ばしたのかを知る。

 ユースの向こう、ちょうどキメラの巨体の頭部があったところより、夜よりもなお暗い漆黒の輝きが矢のようにこちらに向かって放たれていた。

 不気味に輝くその光。それはキメラがいなくなっても健在だった、反転の光だった。

 いや、気が付いてみたら簡単なこと。キメラが多くの魔獣の集合体であったとしたなら、核だけが無事ならば滅びたことにはならない。何度でも再生を果たそう。

 しかし、トーユーズの刃ですら破壊されなかった核とは、一体なんなのか?
 
 ボロボロになりつつも上空に暗い光をたたえて浮かぶキメラの核は、黒い背表紙の本。人を魔獣に反転させる、悪魔の如き『偉大なる書』……

「ユース!!」

 全てを理解したが故に、リオンはユースに向かって手を伸ばす。

「リオン様、私はあなたの従者でいられて幸せでした。だから、迷わないでください」

 ユースはそんなことを口にして笑って、


――ああもう、本当に決まらないわね。精進が足りなかったわ」


 雷光の瞬きと共に現れ、ユースの向こう側で苦笑したトーユーズに、黒い反転の光は突き刺さった。


 

 

       ◇◆◇

 


 

 ヤシューの腕からジュンタを救ったのは、突如吹き荒れた轟風だった。

 吹き付ける雷が瓦礫の全てを木っ端微塵に砕きつつ吹き飛ばした。さしものヤシューも突如の衝撃波に力を弱め、その隙に逃げ出すことができたのだ。

「はぁ、はぁ……今のは先生か? 本当に、今日は先生の愛をしみじみと感じるよ」

「誰だァ、せっかくの戦いを邪魔しやがったのは? 次はそいつをぶっ殺してやろうか」

「それは無理というものだ。たとえジュンタよりも今は強いお前だとしても、我らが麗しきマイステリンには勝てないのだからな」

 駆け寄ってきたサネアツのいう通り、今の攻撃の規模は桁が一つ二つ違った。

 今までジュンタも体験したことのなかった類の威力である。ドラゴンのブレスより強く、あえて似ているものをあげるとするなら神殿魔法[閉鎖魔女クローズウィッチ]か。あれは完全な封印・束縛の魔法なのでベクトルは正反対だが、少なくともそれくらいの威力を秘めていた。

 魔力の感じからすると、間違いなく先の攻撃はトーユーズのものだろう。見ればキメラの巨体の姿が跡形もなかった。

「あれが先生の本気か。思えば先生の全力ってのは見たことないけど、さすがってところかな」

「近くで見届けられなかったことが残念でならないか?」

「まぁな。でも、見なくても分かることがある。きっととても格好良くて、とっても綺麗だってことだ」

 目指すべき形を見せつけてくれた師に報いるためにも、生徒である自分はここで負けてなどいられない。

 改めてヤシューへと視線を向けようとしたジュンタは――しかし視線を変える前に、その一部始終を見届けた。

 瓦礫も平らに近くなって、完全に見えるようになった大浴場跡の光景。
 ユースに突き飛ばされたリオン。空に浮かぶ反転の書から放たれる黒い光。ユースを庇うように全力で走ったトーユーズに光が当たったところ……全てを。

「ジュンタ! 危ない!」

「何よそ見してんだァ!」

 愕然とする光景に目を奪われていたジュンタだったが、サネアツの叫びで何とかギリギリヤシューの攻撃を交わすことに成功した。

 しかし状況は最悪だ。目の前のヤシューが、ではない。今まさに核である『偉大なる書』を中心に『封印の地』に光を伸ばして、復活を遂げようとしているキメラが、である。

 トーユーズの最強の一撃をもってしても完全には仕留めきれなかったということか。徐々にではあるがキメラは元の巨体を取り戻し始めている。ジュンタがヤシューと再び攻防を激しく交わし、逃げる機会をうかがうように離れたときには、最初のような巨体が生まれていた。

 それほどまでに、『封印の地』の魔獣は地上へ出ることを欲しているのかと不安に思うのと同時に、それ以上の不安が胸を苛む。

 振り出しに戻ってしまったかのような大浴場跡の光景。
 しかし振り出しではない。最初にあって今はないもの……それは最大戦力たるトーユーズの存在だった。

「くっ! 先生が、反転の光に!」

 リオンとユースを庇ってトーユーズが受けた反転の呪いは、人を魔獣に変える呪いだ。トーユーズほどの意志力を持つ人間がそうそう魔獣などに変わってしまうとは思えないが、それでも戦いで疲れた彼女はもう立ち上がることすらできないようだった。身体に黒いもやを漂わせ膝をついている。

「まずい。最悪だ!」

「ジュンタ、ひとまず落ち着け! 大丈夫だ。マイステリンならば、あのような呪いに屈したりはしない」

「お前こそ、落ち着けサネアツ。そんなことはわかってる。俺が一番心配しているのは――

 キメラの姿。トーユーズの姿。周りの様子の全てを見渡したリオンの眼差しが。ふいにこちらを向く。

 リオンは最初驚いたように目を見開いて、次に閉じて、少しだけ照れくさそうに笑ったあと、胸を張って自信満々に微笑んだ。

 そのリオンらしい笑みが、どうしようもなく不安を誘う。
 ここに来る前に告げられたゴッゾの言葉を、今思い出さずにはいられない。

 そう、ジュンタは知っていた。リオン・シストラバスという少女が守るべき人を守るためなら、大切な自分の身を捧げられる、どうしようもなくお姫様であることを。

「リオン!」

 大きな声でジュンタは叫ぶ。
 
 不安は的中した。リオンはその手に握っていた紅きドラゴンスレイヤーを、本来の姿である紅い背表紙の本に変えてしまった。

 それが意味することが、
 その結果にある光景が、

「絶対に――そんなこと許せるか!」

 脳裏を掠めた瞬間に、ジュンタはリオンの行おうとしていることを許せないと叫んだ。

(行かないと。リオンのところに、今すぐ止めにいかないと)

 あの猪突猛進のお姫様を止めるには、こちらも猛進してその手からあの『不死鳥聖典』を弾き飛ばす他ないだろう。だが、それをなすためには障害が一つある。

「さぁ、再開しようぜ。さっきテメェは死ななかった。てことは、まだ戦いは終わらねぇっていう天の采配だ」

 ヤシュー――戦いを楽しむことを第一に置く彼は、絶対にどいてはくれない。
 最悪の状況になった今、ジュンタにとってヤシューは、本当の本当に最悪な敵となった。

「どけよ、ヤシュー。今の俺はお前と遊んでる時間はない」

「どくかよ、ジュンタ。今の俺はお前と遊ぶ以外が頭にない」

「いいから、そこをどけぇええぇええええ――ッ!!」

 正直に吐いたヤシューの言葉が、小馬鹿にしたようにしかジュンタには見えなかった。

 即座に爆発するような魔力が身体より溢れ、これまで以上の速度で斬りかかる。いや、それはもう斬りかかるというよりは突っ込むと言った方が正しかった。

 雷光を纏った剣の切っ先。それは研がれ光る稲妻の切っ先――が、それも野生の獣たるヤシューは反応する。隙だらけのジュンタの身体を、再びその拘束の左手で掴み取った。

 だが、その左手を内側から覆う岩の腕が、受け止めた斬撃の威力に弾け飛ぶ。

 驚愕を顔に浮かべたのはジュンタとヤシューの両者とも。
 ジュンタは必殺の[稲妻の切っ先サンダーボルト]を片腕一本で止められたことに。ヤシューは紋様が浮かぶ左手の、その血濡れた地肌を晒されたことに。

「悪くない咆哮だ。だが、獣のベーゼには程遠いなァ!」

 しかしそれでも勢いをジュンタは止められ、ヤシューにはまだ右腕が残っている。

 振り上げられる破壊の右手――万事休すの状況の中、ただただジュンタは死ねない。リオンのところに行くまでは死ねないときつくヤシューを睨んだ。

 サネアツが疲れた身体に鞭打って走るが、間に合わない。


「ご主人様を離しなさい!!」


 間に合ったのは、剛速球として放たれた氷の槍だった。

「ちぃっ! また邪魔者か!」

 リオンとは逆サイドから突如飛来した氷の槍は、振り上げられたヤシューの右手を弾き飛ばす。直後殺到する氷の矢はヤシューを一つの場所に固定して、

「ご主人様は、この私が絶対に傷つけさせません!」

 その間に肉薄してきたクーの跳び蹴りが、ヤシューの左手からジュンタを救った。

「この、アマァ!」

「私はそんな名前ではありません。私はクーヴェルシェン・リアーシラミリィです!」

 身体が宙に舞う中、ジュンタは体勢を整えて戦いを邪魔した相手を殴ろうとするヤシューが、逆にその手より至近距離で放たれた氷の弾丸を浴びて、後退させられたのを見る。

 着地したジュンタは、その小さくも力強い背中を見つめた。

 瓦礫の中にいたらしい、汚れだらけの白い服を纏ったクーは、だけどジュンタの視線だけで全てを察したよう。それは巫女がなせる技か、振り向いたクーが笑顔と共に口にした言葉は、ジュンタが望んで止まなかったものだった。

「ご主人様。どうぞ、リオンさんのところへ行ってくださいませ。ここは私にお任せを」

「…………悪い、クー。少しの間だけ、足止め頼むな」

「はいっ、任されました。誠心誠意がんばらせていただきます」

 隠せぬ疲れを見せつつも、それでも力強く頷いてヤシューに向き直ったクー。

「テメェ、邪魔するんじゃねぇよ!」

「いえ、申し訳ありませんが邪魔をさせていただきます。あなたの相手はこの私です。……そうですね。面識はたぶんないのだと思いますが、あなたの相手は私がするべきなのでしょう」
 
 ヤシューほどの相手を疲れたクー一人で任せるのは不安だ。―― 否、自身の巫女である彼女を、彼女の主である自分が信頼しないでどうするのか。ヤシューの『儀式紋』の輝きに目を咎めたクーを信じて、ジュンタはリオンの許を目指して走り始めた。

 戦闘中で付加されていた加速は、この身をすぐにリオンの許まで走らせよう。

 だが、その少しだけの距離。その距離が遠く思えるほどに、リオンが今からしようとしていることはサクラ・ジュンタとして許してはおけないことだった。

「ジュンタ。どうするつもりだ? あのリオン・シストラバスが『不死鳥聖典』をもってしか倒せないと踏んだ相手だ。まさかとは思うが、何の策もなしであの頑固者を説き伏せられるとは言わないだろうな?」

「思ってないさ」

 併走してきたサネアツの声は、強ばっていた。

「ならば、半年前のようにするつもりか? リオンの代わりにジュンタが『不死鳥聖典』を……分かっているはずだ。もう奇跡はない。そうなればお前が死ぬ。お前が死ぬということは、クーヴェルシェンは生きていけないということだ」

「そう、クーは確かにそう言ってるし、そうなんだろうな。なら俺はその道をもう選べない。……だけどな。一体何の閃きか、それ以外でキメラを倒す方法を思いついたんだよ」

「なに?」

 走り出した瞬間に、サネアツに問い質された内容は無論ジュンタも自問自答した。

 この状況を打破し、格好良く全てを締めるにはどうすればいいのか? 
 ……遠すぎるトーユーズでも果たせなかったそれは、あまりに難問。この場でトーユーズ以上の力を発揮しようと思うなら、なるほど、リオンが取ろうとしている方法しかない。

 そう、ないのだ。今の自分にはその方法がない。その選択肢がない。……そう、今はまだ。

「確かに『不死鳥聖典』以上の力はこの場にない。けどな、同等の力ならあるはずなんだ。他でもない、俺の中に」

「……使徒の力。神獣の力。ドラゴンの力か。しかし、ジュンタは神獣には――

「なれない。けど、何の因果かなる方法だけは思いついた」

 そう言って、ジュンタはまっすぐに前を見る。

 リオンの手の中にある『不死鳥聖典』――使徒の聖骸聖典たる代物。
 トーユーズの身体を包む反転の光――人を魔獣に変える黒き本の呪い。
 
 その二つが示す答え。あまりに危険だけど、方法はそれしかないように思われた。

 ジュンタはリオンを止めようとしているユースを見る。

「……リオンと付き合っていくってことは、覚悟するってことだ。なら、俺も覚悟する。俺という人間が、獣が、そういうものだってことを。他でもない、天敵のリオンに見せてやる」

「ジュンタ。お前、まさか……? それはあまりに危険な方法だぞ!」

「だけどな、たぶん行けるはずなんだ。真逆の存在に変貌させる反転の光――人の反対が魔獣なら、人の果てが使徒であり、魔獣の果てがドラゴンだっていうなら、その両方の果てを持つ俺は真逆になろうと何も変わらない」

 その言葉には、何を言われても決行するという意志がこめられていた。

 サネアツは何も語らなかった。ただ、珍しいことに溜息を吐いて、珍しくないニヒルな笑みを浮かべた。

「やってみなければわからない。成り行き任せ。行き当たりばったりなその特攻……本当にジュンタらしくて笑いが込み上げてくる」

「褒め言葉として受け取っておく。――さぁ、それじゃあ、ここにいる全員に名乗ろうか」

 この場には様々な人がいた。

 使徒だと知るラッシャ。神獣の姿を知るクーやトーユーズ。実際に見たことのあるユースやゴッゾ。全てを知るサネアツ。そして、何も知らないリオン。

 全員にこの姿を見せることに今更何の恥じらいがあるのか。もう、すでに決めていた。クーを助けたあの日に決めていたのだ。

 そう、サクラ・ジュンタはなろうと決めた――――最高に格好いい、そんな悪になると。

 


 

       ◇◆◇


 

 

 氷結の魔法と大地の拳がぶつかり合う。

 魔力が反発し余波が地面を抉る。クーは怒れる拳を防ぎつつ、さらに魔法を繋いでいく。しかし、その中で動きが鈍っている身体を自覚せずにはいられなかった。

 ユースの治療、魔獣との戦い、さらには瓦礫に押しつぶされそうになったのを防いだりと、あまりにもたくさん魔力を使いすぎた。怒濤の攻撃をしてくるヤシューの手前、この状況下で詠唱の時間を稼ぐ動きはできそうにない。

「おらっ、さっさと沈め! 俺はテメェじゃなくてな、ジュンタと戦いてぇんだよ! あの本当の獣となァ!!」

「ご主人様の邪魔はさせません!」

 強烈な右のストレートに対して、氷の壁を作って盾にする。
 ヤシューの一撃の威力は氷の壁を貫くが、それでも腕をクロスさせて後ろに飛びつつ受ければ、吹っ飛ばされるだけで骨に異常は見られない。

「ちっ! 鬱陶しい女だなァ。男同士の戦いに何の関係もねぇ女が出てくるんじゃねぇよ」

「……何の関係もなくはありません。私はご主人様の従者であり、そしてあなたに対しても何の関係もない相手ではありません」

「はァ? 俺はテメェなんて知らねぇぜ?」

「ですが、私はあなたを知っています。正確にはその力を」

「力……この『儀式紋』をか? いや、待て。そういやテメェのその面、よくよく見てみると前にどこかで見たことがあるような……」

「私を見たことがあるのでしたら、それは十年以上前のことでしょう。もっとも、その時の私は人形――竜の花嫁ドラゴンブーケ』としての私だったと思いますが」

「『竜の花嫁ドラゴンブーケ』……?」

 怒りの形相を、呆気にとられた驚き顔にヤシューは早変わりさせる。

――ハ、ハハッ! そういうことか。テメェがそうなのかよ? テメェがあのイカレタ実験の最後のモルモットってか!」

 その身体の『儀式紋』と、その効力の発現と共に縦に割れた蒼い瞳を見開いて――ここでようやくヤシューは、目の前にいる敵のことを認識したのだろう。彼の左手に刻まれた傷口から茶色の魔法光はのぞき、傷を押し広げるように岩の手甲は生まれる。

 ならば、ここからが本当の戦いだ。

(今の私の身体では、硬質の身体に強烈な一撃を有するあの人には敵いません。でしたら――

 ジュンタがその強い眼差しに秘めた行いを邪魔させないようにするには、また自分も忌まわしい力を使う他ない――いや、それを指して忌まわしいというのは止めにするべきか。その力で救われた人がいるのなら、そういうのはその人に対する侮辱だろう。

 どのような理由で生まれた力だとしても、それでもこれから成すべきこと次第では人を助けられる力になるのだ。ならば、もう狂うことなくその力を使うことを受け入れよう。

「ヤシューさんとおっしゃりましたね? 一つお尋ねします。どうしてあなたは、自分を故郷の親から引き離し、取り返しのつかない施術を施したディスバリエ・クインシュの味方をしていらっしゃるんですか?」

 クーの身体から魔力が吹き上がる。それは世界を侵蝕する力。力の証として全身に白く光り輝く『儀式紋』が現れる。輝きは身体を超え、クーの周りも覆い尽くしていく。これこそ『儀式紋』の完成形――『侵蝕の儀式紋』である。

 かつてこの完成形を作り上げられるために、数多の子供たちが『狂賢者』の犠牲になった。

 その子供たちは誰一人として生きていまいと思っていたが、生き残りが今目の前にいた。本来ならば謝るべき、自分が生まれるために犠牲になった人……しかし彼は何ら憎しみの感情をぶつけてくることはない。

「味方? 俺があの女のか? ハッ! 冗談は止めろよ。別に俺はあいつに手を貸してるわけじゃねェ。再会したのだって偶々だしよ、こうしているのだって俺の目的のためにあいつを利用してるにすぎねェ」

「あなたは、彼女を憎んではいないんですか? 私を、憎んでは……?」

「何言ってやがる。憎む理由なんかねぇじゃねぇか。別によ、俺は故郷の森に未練なんてなかったし、この身体になったことには感謝すらしてるぜ。だからよ、テメェなんてどうでもいい。俺の目的はただ一つ――最強の獣と戦って勝つことだ」

 自分のために何人もの人が死んだ。その怨嗟の断末魔は、人形だった頃の耳に残っていた。

 けれど例外がここにいた。憎むことをせず、ただ手に入れた強さを自分のモノとして、自分の目的のために生きる男……なるほど、この強さは獣というにふさわしいか。であるなら、もはや語る必要はないのだろう。

「俺はジュンタの中の獣に恋い焦がれてるんだ。『竜の花嫁ドラゴンブーケ』、テメェの野生も悪くねぇが、アイツほどじゃねぇ。さっさと噛み殺してやるよ」

「ご主人様は傷つけさせないと言ったはずです。私の死がご主人様を傷つける結果になるのでしたら、たとえあなたが相手だろうとも容赦はしません。私の全ては、ご主人様のためだけにあるのですから」

「いい感じに狂った台詞だ! それじゃあ、殺し合おうぜ『竜の花嫁ドラゴンブーケ――ッ!!」

「あなたがご主人様に焦がれる気持ち、よく分かります。ですから負けはしません!」

 獣の雄叫びをあげる野獣が、その両手に茶色の輝きをもって襲いかかってくる。

 それを目にして、静かにクーは自分の肉体に、魂に根付く力を解放する。
 白い輝きがくっきりと浮かび、クーの瞳孔が割れて鮮血の色に染まる。それは白い光に淡く桃色に色づく花のような輝き――純白のドレスに映える、それは桃色の花束の色。

 


 

 トーユーズの苦痛の叫びとユースの制止の声を聞き、だけどリオンにはこうする以外に方法は見出せなかった。

 徐々にその身体を伸ばし、ラバス村へと進行を始めたキメラ。
 このままでは本当にラバス村は滅び、シストラバス領に損害が与えられ、そしてやがてはドラゴンすらこの世に招く結果となろう。

 リオンは竜滅姫――ドラゴンを滅する姫君だ。

 けれど、ドラゴンを滅することはそれ即ち自分の大切なモノを守ること。そうだと、リオンは幼い日に見た母の背中に思ったのだ。

(そうですわよね、お母様)

 手の中に輝く『不死鳥聖典』――我が身を捧げることによって、ドラゴンすら屠る不死鳥の火を招く竜滅姫唯一にして最強の竜殺し。

 これを用いさえすれば、キメラもまた滅せよう。さすればドラゴンがこの世に現れることなく『封印の地』は閉じられる。誰も傷つくことなく、この戦いは終わるのだ。

 そのためにかける命に惜しさはない。この旅行の中、それをリオンはジュンタの告白から感じ取った。この身は竜滅姫。そうして死ねるのならば本望だ、と。

「ユース。トーユーズさんには後でドラゴンの血を与えなさい。そうすればその反転の呪いは解けるはずです。詳しい話はジュンタに聞けばよろしいですわ」

「待ってください、リオン様」

「そしてこちらも重要なこと。私がキメラを倒したあと、しっかりとあなたが『封印の地』に穿たれた孔を閉じなさい。絶対ですわ。信じていましてよ」

「リオン様!」

 ユースにあるまじき大声に、背中を向けていたリオンは振り向く。

 振り返った先には涙を流しそうなユースの顔が。でも、彼女は泣かないことを決めているようで、どうしたらいいかわからないという顔をしていた。

 リオンは大事な従者の不器用な姿に困った風に笑い、少し酷いけれど、譲れない夢のためにずるい言葉を贈る。

「ユース。あなたも先程言ったでしょう? ――私は幸せでした。だから、あなたが惑うことは絶対に許しませんわ」

「リオン様……」

 現状、『封印の地』を閉じられるのはユースだけなのだから、酷くてもしっかりしてもらわなければ困るのだ。これが今生の別れになるとしても、それでも彼女にはきちんと果たしてもらわなければいけない。

 トーユーズの制止を投げかけるような強い視線を感じつつ、リオンは再びユースに背を向ける。

 ……先程ちょっと視線が合った、ジュンタの顔がふいに脳裏に過ぎった。

(本当に、私っておかしな女ですわね。いつもは竜滅姫としてふさわしいことしか考えられないといいますのに、夢を叶える瞬間だけ、竜滅姫として責務を果たそうとする瞬間だけ、普通の女として正直に全てを受け入れられるだなんて)

 その少し先の自分の未来を覚悟したリオンは、限りなく正直な気持ちで全てを受け止めることができた。

 いつかの夜に、受けた告白の真摯さを強く強く胸に残せたように、また今も旅行三日目の夜に受けた告白に胸をときめかせている。うん。やっぱりそういうことなのか。決して結ばれることはないけれど、自分はジュンタ・サクラという少年のことが……

「それでは、あとは託しましたわよ。ジュンタ」

 クスリと笑って、リオンは『不死鳥聖典』のページを開き、その内に描かれた聖句を詠み上げようとする。

 その刹那――胸を高鳴らせた声が、強く強く耳朶を打った。


――サネアツ。GO!」


 視界の端から飛んでくる弾丸を、リオンは反射的に打ち返しにかかる。
 聖骸聖典を持つ右手を足首の捻りと共に振り向き様に振り抜こうとする。使徒の聖骸聖典の丈夫さはドラゴンのソレにも匹敵するのだとか。硬度だけを見れば、ある意味最強の武器である。

 だが、対応は途中で止まる。リオンの動体視力が、飛んでくる弾丸の正体に気付いた瞬間に。

「サネアツっ!?」

「うにゃッ!!」

 ピタリと止められた『不死鳥聖典』へと、飛んできた白い子猫がしがみつく。短い四肢を使っての、しかしがっしりとしたしがみつきである。絶対に離さないという意志が見て取れる。

「サ、サネアツ! お止めなさい。これは大切な――そ、そもそもどうしてあなたが飛んできますの!」

 かわいらしい子猫の潤んだ瞳を前にして、リオンは強引に振り払うこともできずに左手を伸ばす。一刻も早くキメラを倒さなければいけないのだが、このまま起動させたらサネアツまでもが焼け死んでしまう。それはダメだった。

「っ!」

 カプリ、と指を伸ばした途端、サネアツにリオンは噛みつかれた。

 それでも何とか取ろうと痛みを堪えて手を伸ばす。
 サネアツはサネアツで何やら手から『不死鳥聖典』を奪おうと四肢を必死に伸ばしているようだが、生憎と力勝負で自分に勝つのは難しいことこの上ない。

「サネアツ! あなたが私に懐いてくれないのはこの際仕方がありませんけど、邪魔をしてはいけませんわよ!」

「ノンノン。邪魔するために俺はボールとなったのだ。邪魔をせ〜ずにはいられないっ」

 だからリオンが思わず手から力を抜き、サネアツに『不死鳥聖典』を奪われてしまったのは、一重にあり得ない声を聞いたからに他ならなかった。

「………………えぇと、今、サネアツがしゃべったような……?」

 指から手を離した途端にサネアツが出した男性の声は、鳴き声とはどうがんばっても聞き取れない少し小馬鹿にしたような声だった。
 
「サ、サネアツ。それを返しなさい!」

 けれど、猫はしゃべらない。きっと気のせいだったのだと気を取り直し、リオンは『不死鳥聖典』を取り戻すためにサネアツに手を伸ばし、

歌え踊れや四の五の言わず 砂塵の音をリズムに変えて

「きゃっ!」

 いきなりサネアツが使った魔法により起こった砂嵐を全身に浴び、視界から彼を失ってしまった。

「はっはっは。今日の俺は消える魔球だ。恐れるに足らぬバッターだったよ、リオン・シストラバス」

「な、何が、一体何が起こってますのよ!」

 口の中に入った砂を吐き出し、目の中に入った砂を涙目で取り除くリオンが、次にしっかりと目を開けたときには、もうサネアツはいなくなっていた。彼はいつの間にかユースの腕の中におり、ニヒルに笑っている。もう、何が何やら全然意味がわからなかった。

 もはや疑うまでもなく、かわいらしい子猫のまま成長しない白猫は、屋敷に居着いてすぐに屋敷のペットを支配下においたサネアツは、その口でしっかりと人語を介していた。普通にしゃべっていた。

 それはキメラを前にしてなおリオンを呆然とさせる。加えて、自分以外誰もサネアツがしゃべっていることに驚いていない事実は一体どういうことなのか?

「ちょ、ジュンタ君。あなた何をするつもっ――

「ジュンタ? そ、そう、ジュンタに聞けばいいんですわね!」

 聞こえたトーユーズの焦ったような台詞の中に出たジュンタという単語に、意味不明でこんがらがった頭が答えを導き出す。

 サネアツが飛んできたアレ。恐らくは投げた人がいると思われる。だとするなら投げたのは飼い主のジュンタ以外にありえない。仮定としてユースが、サネアツが人語を話せることを知っていたのなら、また彼も当然知っていよう。

「ジュンタ! サネアツがしゃべっていますわ! これは一体どういう……」

 全ての疑問の答えを彼はくれるはず――竜滅姫としての役割を果たすためにも彼の存在は必要不可欠で、

「どういう…………つもり、なんですのよ! この不埒者――ッ!!」

 そんな彼を振り向いた矢先、いきなり飛び込んできたトーユーズとの熱烈なキスシーンに、もうリオンは叫ぶ以外の選択肢を取れなかった。

「ん、ちょ……今は、ダメ……だってば……」

 いつの間にかやって来ていたジュンタは、倒れかけていたトーユーズを抱き留め、強引に顎を持ってその唇を奪っていた。見ているこちらが赤面するくらい熱烈に。二人の重なり合った唇の合間からはぴちゃぴちゃと音がして、口内で何が蠢いているのかを簡単に知らしめる。

 リオンの中で困惑とか胸の高鳴りとか、その他諸々がその光景に一気に怒りへと変わった。

「この状況下であなたは一体何をしているのですかといいますかついこの前私に告白したばかりではなくて!」

 混乱の極みに達したリオンの言葉と人差し指の突きつけに対し、ジュンタからの返答は、離れたトーユーズとの唇の間にかかった唾液の端が切れるプツリという音――リオンにはその音が、自分の堪忍袋の緒が切れる音にも聞こえた。

 もはやトーユーズの戦い様を見て思い描いたような美しい最後は望めようもなく……どうしてくれようか。ニヤニヤ笑うサネアツと、これ見よがしに指輪になった『不死鳥聖典』を胸の谷間に入れるユースと、なんだか小刻みに震えているトーユーズと、頬を染めて照れているジュンタ。

 特に最後の浮気者は絶対に許さないことに、一人蚊帳の外のリオンは決めた。


 

 

       ◇◆◇


 

 

 過去ジュンタは口づけというものを一度経験しているが、トーユーズとのソレはなんだかクーのソレとは違った。

 この状況のおいて仕方がないとはいえ、強引に身動きの取れない女性から奪った唇。
 
 唾液の交換が必要不可欠に思えた深い口づけは、必要以上にしてしまった気がするが気にしない。トーユーズが何やら頬を上気させ、目元潤ませ、ギュッと上着を握って最後には舌を自分から絡ませてきてかわいいなぁとか思ったけど気にしない気にしない。

「すみません、先生。いきなりこんなこと」

「あ〜、何も言わなくていいわ。身体が楽になったのを見れば、どんな理由でジュンタ君がキスをしたのかは一目瞭然だもの。それになかなかに気持ち良かったしね」

 立ち直るやいなや、ぺろりと唾液に濡れ光る舌を小さく出し、泣きぼくろが蠱惑的な瞳を熱っぽく細めるトーユーズ。やっぱり敵わないなぁ、とジュンタは思ってしまった。

「で、何とかなるの?」

 何を、とは聞かない。真剣になったトーユーズの眼差しは、生徒の格好いい答えだけを欲していた。

「何とかします。絶対に」

「いい答え。さすがはあたしの生徒、我らが『竜滅紅騎士ドラゴンスレイヤー』……リオンちゃんは死なせちゃダメ。でも、ジュンタ君も絶対に死んじゃダメよ」

「死にません。俺はリオンと、そしてクーを守るって剣に誓ってますから」

「そう……なら、その手の黒い光が、ジュンタ君が選んだ方法なのね」

 トーユーズの視線は、自分の身体を先程まで覆おうとしていた、けれど今はジュンタの身体を覆い尽くそうとする黒い光を、少し弱った吐息と共に見る。

「あたしもまだまだね。もっと綺麗になる探求が必要だわ。あたしじゃ、まだ救えなかった」

「いえ。俺は先生に救われましたよ」

「あら? そうなの。……それじゃあ、今回はそれで良しとしておきましょうか。眼鏡はあたしが持っててあげる。格好いいとこ見せて、今度こそ完璧にリオンちゃんを惚れさせてきなさい」

「はい、先生」

 眼鏡を顔から奪ったトーユーズを優しく床に寝かせて、ジュンタは立ち上がってリオンに振り返る。

 先んじて『不死鳥聖典』の行使を止めさせたサネアツは、首尾良くリオンから彼女の命を奪う紅い本を奪ってくれたよう。それが原因か、はたまた他の何かが原因か、リオンは真っ赤になって怒り狂っているが。

 その彼女の顔が、すぐに青ざめたものに変わる。
 その視線は、ジュンタの身体を足下から覆っていく反転の呪いを射抜いていた。

「ジュ、ジュンタ! それ、どうしてあなたが!?」

「ああ、この呪いか? トーユーズ先生からもらったんだよ。前にクーから受け取ったように、先生からでもできると思って。どうやら成功したみたいで何よりだ」

 徐々に侵蝕を強めてきている反転の光は、トーユーズから唾液交換を通じてもらったものだ。

 本来反転の呪いを解除するにはドラゴンの血が必要だった。
 しかしクーと最初出会った事件において、彼女は反転を施されていた様子だったのだが、それがいつのまにか解けていたことを聖地での事件の後に思い出したのだ。

 クーのグスト村での反転の呪いは、実際解除ではなく抑えられていただけのようで、完全に治ったのはドラゴンの血を飲んだときである。そこから考えてみて、反転の呪いを治すのは血じゃないといけなくとも、和らげるだけならドラゴンの唾液やその他のものでもいいのかと考えた。

 そこでトーユーズを治し、そしてこれからすることに必要不可欠な呪いをもらうために、クーの反転を押さえ込んだ原因と思しき人工呼吸を真似して、唾液交換を試みたのだ。

 結果は成功――トーユーズを蝕んでいた反転の呪いは、晴れてジュンタを対象に変えた。

「な、何を落ち着いていますのよ! は、早くしなければ魔獣になってしまいますわよ! ドラゴンの血が必要――そ、そうですわ! 『封印の地』の中にならばドラゴンが――

「お前の方こそ落ち着け。大丈夫だ。俺が本気を出せば、この呪いは簡単に解けるっぽいから」

 挙動不審だったリオンが、ジュンタの一言に安堵の吐息を吐き出す。
 
 実際、この呪いを解除するのは簡単に思えた。何せジュンタは特効薬そのものであり、かつては魔力の知覚と共に、クーから受け取った呪いをどうやら解除したことがあるようであるからして。

 しかし――

「でも、しない。俺はこのまま魔獣に反転する」

 ――だけど、それは行わない。

「何を馬鹿なことを言ってますのよ! どうやって解除するかは知りませんけど、解除するならさっさとしなさい! これは命令ですわ!!」

 安堵から一転、愕然とした表情になったリオンが目を吊り上げて迫ってくる。

「馬鹿か。命令なんて聞くわけないだろ? 何を言われようとも、俺はこのまま反転する。反転して獣に変わる」

「…………嘘、ですわよね? そんな自殺行為みたいなこと……分かりましたわ。命令というのは取り下げます。これはお願いですわ。お願いですから、さっさとその不気味な光を消しなさい!」

 抱きついているとも傍目からは見えるほどに、至近距離でじっと見つめてくるリオン――砂の影響か、目尻に残る涙を愛おしいと思ってしまうのは変態か否か。

 ジュンタは心臓の辺りまでせり上がってきて、しきりに反転を囁く黒い魔力に『もう少し』と少し待ってもらって、リオンの両肩に手を乗せた。

「……ずるいよな、お前って。俺が竜殺しを止めてくれってお願いしても絶対聞かない癖に、自分だけはお願いするんだから」

「ずるくなんてありませんわ。目の前で馬鹿なことをする馬鹿がいたら、それを止めるのは当然ですもの」

「いや、それはまぁ、確かに当然だな。俺の前にもちょうどそんな馬鹿がいる。そして俺はそれを止めようとしているわけだから。うん、当然だ」

 苦笑して、ジュンタはずいっとリオンの顔に自分の顔を寄せた。

 いつか彼女がしてくれたように、今度は自分からその頬に唇を落とす。それだけで、ジュンタは不安を晴らして前へと進むことができた。

「だから、俺はお前のお願いを聞かないことに決めた。お前が竜滅姫としてお願いを聞かないように、俺もまた俺として我が儘になることに決めた」

 頬を抑えて困惑するリオンから離れて、ジュンタは目の前にキメラの巨体を見上げる。

 ――時は満ちた。拒めば拒むことができるけれど、その囁きをジュンタは拒まない。

『 変われ 』

(ああ、変わらないとな。もっと強く、大切な奴を守れるような格好いい奴に)

『 裏返れ 』

(ああ、裏返ってやる。それでも何も変わらないことを、俺は証明してみせる)

『 歪め 』

(そう、この身は歪んで生まれた使徒という名の神の獣――歪んでやるさ、俺が望む方向に!)

 黒い光が魔法陣を形作る。それは受け入れたサクラ・ジュンタを反転させ、変貌させていく。

 漆黒の闇が包み込んでいく。恐怖は唇に触れた温かさで克服する。

「ジュンタ。あなたは、一体……?」

 その問い掛けは竜滅姫であるリオン・シストラバスより。

 咆哮で名乗るより前に、そう言えば、彼女に言わなければいけないことがあったのをジュンタは思い出し、渦巻く闇の光の中、いつもつけていた黒色のカラーコンタクトレンズを外した。

「本当は一番に言わないといけなかったことを、リオン、俺はまだお前に伝えてなかったんだ」

 静かに振り向く。言葉よりも明確に、その金色の双眸をもって自らの存在を証明する。リオンがその紅い髪と瞳を何よりの生き様の証明とするように、またジュンタもその瞳の色で証明する。


「俺はジュンタ。『終わりの神獣ドラゴン』の使徒――サクラ・ジュンタだ」


 それはリオンに全ての答えを出させた名乗り――――刹那、闇夜は己が存在を咆哮する虹色の輝きの前に、いとも容易く色を変えた。

 


 

 キメラの後方で突如として上がったのは虹色の雷。
 天をも焼き焦がす高密度の雷は、やがて一つの形を取り始める。

 白く眩い体躯は二十メートル強。尾や長い首まで含めればそれ以上あり、金色の線が幾重にも身体に刻まれている。鋭い爪が生えた五本指の手と足を持ち、雄々しく神々しい獣の姿を、それは示す。背中から広がる紋章のような双翼は虹の煌めきを放ち、雷を吸収するようにして大きく羽ばたいた。

 それはまさしく終わりの魔獣ドラゴン――この世の災厄。この世の猛毒。最強を誇る、魔獣の王。

 しかしそれは同時に終わりの神獣ドラゴンでもあった――この世の希望。この世の聖性。最強を誇る、人類の導き手。

 使徒でありドラゴンでもある、かの純白虹翼の獣こそジュンタ・サクラ。
 ドラゴンを神獣の姿とする、人類の導き手であり救い手である『使徒』―― クーヴェルシェン・リアーシラミリィの主である。

「ああ。何て、綺麗」

 戦いを忘れ、ドラゴンであることを憎んでいたクーは、夜空に希望を輝かせる白きドラゴンを――自らの聖猊下の神々しい姿を見て、はらはらと涙を流した。

竜の花嫁ドラゴンブーケ――ドラゴンのために生まれた、ドラゴンに捧げられるための花束。その意を何よりも疎んじていたが、今ではある種の運命すら感じる。

 この身がドラゴンの花嫁ならば、あのドラゴンこそ我が主――悪を否定する悪にして、この上なく格好いい悪なのだ。この身が生まれたときより愛しき聖猊下のモノと決められていたのなら、それはこれ以上ない幸せだった。

 感謝すべきは神か。あの人をこの世に産み落としてくれた神に。あの人の巫女に選んでくれた神に。あの人と巡り合わせてくれた神に、感謝せずにはいられない。

「ご主人様……」

 忘我のままに見とれ、クーは改めて絶対に忠誠を誓う。

 あの虹の輝きと共に歩めば、こんな自分でもまたしっかりと歩いていけることだろう――救世の道標はここに。決して見誤ることのない光はここに。ドラゴンは、ドラゴンでも、あんなにも美しく輝けるのだ。

 神託が下りた。第四のオラクル『聖地にて詩を謳え』の完遂と、第五のオラクル『生命に触れよ』の神託が。

「『聖地にて詩を謳え』……聖地とは自分にとっての絶対神聖の場所。詩は自分の心を形にするもの。ご主人様がドラゴンとして咆哮することこそが、第四のオラクルだったんですね。ドラゴンは、ドラゴンであっても、神に生誕を祝福されていたんですね」

 夜気を払う竜の咆哮――クーヴェルシェン・リアーシラミリィにとって、それは福音であった。


 

 

 ずっと、不思議に思っていた。

 ジュンタ・サクラ――突如として日常の中に紛れ込んだ異物。旅人を自称する彼は、あまりにも怪しすぎた。

 そのことを指摘したい気持ちはあったが、それでも彼との日々が楽しいものだったから、気にしまいと振る舞い続けてきた。皆は知っているような気がして少しだけ寂しかったが、それでも。自分が守られるべきお姫様であることを知っていて、それを当然であると自覚していたから、いつか他でもない彼の口から聞かされるものと思っていた。

 果たして彼の秘密とは何なのか?
 皆が彼に期待する理由はなんなのか?

 接する日々の中思い描いていたそれは、今日この瞬間に果たされた。

 使徒。虹翼の使徒。ドラゴンの使徒。

 自分はこの世界で最も貴い人間の内一人と認識していて、ジュンタはそれよりも下にいるものだと思い続けてきた。けれど真実は違った。この上なく貴い自分に比してなお、彼はその上にいた。

 人類の導き手にして救い手。敬愛する『始祖姫』ナレイアラと同じ、神によって地上に使わされた使徒……

 昨日まで笑い合っていた彼が使徒なのだという真実は、異国の王子だと告げられるよりも信じられないことで、けれどその金色の瞳を目の当たりにしたら信じる他なかった。
 そして、彼が純白虹翼のドラゴンの使徒であるとしたら――自分は、彼に言わなければいけないことがある。
 
 リオン・シストラバスは今宵、ようやく蚊帳の外から内側に入ることができた。自分の身にかつて起きた奇跡が、誰の手による奇跡だったのかを知った。

「ジュンタ……」

 いつか、彼に告白された夜があった。
 彼は本当にまっすぐに、愛を伝えてくれた。
 その時、自分は死ぬものと思っていたから、その想いは受け取れなかった。

 だからきっと、彼はそのとき決めたのだろう。竜滅姫の在り方を否定した彼だから、ただ、自分への愛のために彼は命をかけたに違いない。

 彼はそれを誇るでもなく、教えることもなく一緒にいたのか。
 どれだけ感謝してもしたりないくらいの『生きている』ことをプレゼントしてくれたのに……

「そう、でしたのね。あの日、ジュンタは私のために戦って、私を救ってくださいましたのね」

 そしてまた、今宵も彼は神の獣と化す。

 天敵たるドラゴンである彼を、しかしどうして憎めよう。どうして嫌えよう。たとえ竜滅姫たる自分であっても、あのドラゴンだけは決して否定してはいけないのだ。

 流れる涙を拭わず、リオンは胸の前で手を組んで、微笑みを浮かべて空にかかる虹を仰いだ。

「使徒ジュンタ・サクラ聖猊下。では、存分に魅せてくださいませ。竜滅姫リオン・シストラバスは、その全てを拝見させていただきます。
 全てが終わったあと――あなたのくれた奇跡に、ふさわしいお礼が贈れるように」









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