第二話 不死鳥の湯 シストラバス領西端の山脈の麓にある、街と村のちょうど中間ほどの規模の村として、ラバス村は存在していた。 一番近い街がランカの街であるため、村というには人の流れが多少多いか。山裾の村にしては旅行者が多く訪れるその理由は、背後に抱く山が火山であり、熱せられた地熱から温泉が湧き出るからである。 そう、古くから伝統あるラバス村は、また同時に伝統高い温泉地なのであった。 「ランカの街から徒歩で五日。馬車で二日。いやぁ、ジュンタがまさかシストラバスの姫さんを誘うなんて思っとらんかったから、交通費とかその他諸々助かったで」 夕刻。シストラバス家が用意した馬車から降りたラッシャは、自分の後ろから下りたジュンタの肩を叩きながら、ハイテンションで宣う。 「グストの村の一件に加え、武競祭での賭の失敗。トーユーズの姐さんに何とか雇ってもらったり、ジュンタと偶に商売やったりしとったけど、未だに貯金はゼロ! やからほんま助かったで」 「それでよく温泉に行こうなんて言えたよな。……本当は最初からこれが狙いだったんじゃないか?」 「ギックぅ! な、ななな何言うてんねん、自分! まさかジュンタは、いたいけなワイが何か画策しとったって思っとるのか? そんなはずないやんかっ!」 「まぁ、そうだよな。ラッシャだし。きっとナンパに失敗続けて、温泉で色々と洗い流したかっただけなんだよな。お礼は俺じゃなくて、ゴッゾさんに言っといてくれ」 ポン、と肩を叩き返して、ジュンタはさっさと歩いていってしまう。 取り残されたラッシャは、なんだか痛む胸を押さえつつ、その場に膝をつく。 「じ、実際は『恋愛推奨騎士団』に頼まれたわけやから、誤魔化せたのはええんや。良かったんや。でも……ワイってジュンタの中でもそんな位置づけやったんか?」 あまりに惨い。ナンパに失敗し続けているのは事実だが、決して温泉で洗い流したいとは思ってないのに。これは次回のときに力を増すため、積み上げるべき泥なのだから。 「ふ、ふふっ、だがしかぁし! 今日のワイはこれしきのことで落ち込んだりせえへん!」 握り拳を作って、ラッシャは勢いよく立ち上がる。元気などありあまるほどに存在していた。 「ここに来たのは半年ぶりですわね。寒いときに来るのもいいですけど、夏場に来るのもさっぱりして気持ちがいいものでしてよ」 「そうなんですか? 私、夏場はよく水浴びはするんですが、温かいお風呂に入っているとすぐにのぼせてしまって。のぼせて皆さんにご迷惑かけてしまわないか、少し不安だったりするんです」 「ご安心を、クーヴェルシェン様。もしもの際の手当は私にお任せ下さい。何でしたら、のぼせず長く温泉を堪能できる方法もお教えします」 「あらあら、ユースちゃんったら、やっぱり少しはしゃいじゃってるようね。まぁ、あたしも結構懐かしいし、温泉は楽しみなんだけどねぇ」 「悪いなジュンタ、リオンと二人だけで行こうとしたのを邪魔してしまったようで。俺としても前々からこのラバス村には興味があったのだ」 「気にするなって。最初からラッシャがいたし、さすがにリオン一人を誘うのは無理だし。トラブルさえ起こしてくれなければ、俺は別に。言っても無駄だろうけど」 「いやいや、いいんだよジュンタ君。父親である私が目の前にいるからと言って、気持ちを偽らなくても。『ちっ、親が一緒か。これじゃあ偶然を装って混浴できねぇな』とか言っても、私は一向に構わないよ?」 後半部分の男衆は置いておいて、前半部分の女衆。そのあまりの素晴らしいラインナップに、ラッシャは今から興奮が隠しきれなかった。 「ぐふぅ。姫さんにクー嬢ちゃん、ユース嬢に姐さん。ロリから年上お姉さん、性格もツンデレ、デレデレ、クーデレ、エロデレまで見事な揃い具合。これは、これはついにワイの時代が!」 今回のラッシャ発案ということになっている『ラバス村への温泉ツアー』の参加者は、計八名。男三名女四名+一匹という面子になっている。 当初の予定ではジュンタを誘ったあと、偶然知った風を装って他の面々は同行する予定だったのだが、予想外なことがここで起こった。それはジュンタが温泉に行くことを承諾してすぐ、リオンを誘ったことである。 ゴッゾから温泉に行く提案がある前にジュンタがリオンを誘ったことは、大筋には何の問題もなかった。 ジュンタが自発的にリオンを誘ったという、強い意気込みを見せる姿に、一時は二人きりで行かせるべきかという話もあったが、きっと普通に楽しんできて終わりそうだからという理由で同行はなされた。 「ワイかて分かっとる。これはジュンタと姫さんをくっつけるためだけの旅行やと。やけど、麗しき四人もの美女と美少女と一緒の屋根の下に泊まれる機会は、きっともう二度とあらへん! グフフ。絶対に役得に預かってやるで!!」 グフ、グフフフフフ、と高笑いを浮かべたラッシャは、馬車から降りて予約してある宿へと歩いていく皆の背に追いすがる。 目の前には大きな山。村のあちこちから湯気が出て、鼻には僅かな硫黄の匂いが――朴訥な雰囲気が満ちる温泉地に、ラッシャの期待は高まるばかりである。 「おおいっ、みんな待ってぇな――と、ありゃ、すんまへん」 スキップしながら追いつこうとしたラッシャは、ちょっとはしゃぎ過ぎて、その途中でフードを被った旅人らしき通行人と肩をぶつけてしまう。 肩が当たった瞬間感じた柔らかさに、直感的に相手が女性であることを察する。いつもならここでナンパに突入するのだが、今は焦る必要はない。なぜならば、目の前の湯煙天国で天使たちが待っているからである。 「ほんとっ、すみませんでしたぁ! いやっほーーい!!」 謝っているのか喧嘩売っているのか分からないはしゃぎ具合で去っていくラッシャに、肩をぶつけられた相手はちっと舌打ちした。 「ったく。どいつもこいつも温泉温泉って浮かれて、あんな熱いお湯に入ることのどこか楽しいってのよ。まったく、あいつは本当に分かってるのかしらね。あのディスバリエが絡んでいる今回の事件、相当やばいって」 フードの下の瞳を不愉快げに細めつつ、物憂げに、延々と温泉に入っている相棒を呪う。 「本当に――ヤシューの奴は、まったくもう」 「意外や意外。異様なほどでかくもなく、異様なほど奇抜でもない、普通の高級温泉宿っぽいぞ」 「そやな。シストラバス家御用達っていうから、全面金箔の宿屋かと期待しとったんやけど、ちょい期待はずれやな」 さすがに普通の家より遙かにでかいが、宿屋としての規模はそこまででかくはない。 庶民であるジュンタとラッシャの感性では、泊まる宿屋は特に可もなく不可もなくと言った感じの宿屋に見えた。屋敷と言い張るお城に住まうシストラバス家御用達とすれば、少しばかり拍子抜けである。 「てっきり格式高い中世の城でも出てくるとばかり思ってたけど、なぜかちょっぴり和風ちっく」 「あの、ご主人様」 「ん? どうかしたか、クー」 荷物を背負いつつ宿屋を見ていたジュンタは、隣にやってきたクーに服の裾を引かれた。 大きな蒼い瞳と、輝く金糸の髪を持つ愛らしい少女は、何やら内緒話がしたい様子。ジュンタが少ししゃがんで耳を貸すと、クーは小さな声で話し始めた。 「ご主人様。あまり宿のことを期待はずれとか言ってはダメですよ」 「いや、別に期待はずれってわけじゃないぞ? これはこれで何か前に行った温泉宿っぽくて懐かしいし、ゴッゾさんたちが気に入ってるってことはそれだけで期待できるからな。でも、どうしてそんなことを?」 「それはですね。実は道中の馬車の中で聞いた話なんですが」 道中に使用した馬車は二台で、片方にリオン、ユース、クー、トーユーズの女性組+時々サネアツ。もう片方に男衆だったので、クーとは別々だった。何やらクーは、馬車の中で誰かから重要な情報を得たらしい。 「実はですね、この宿――」 「ちょっと! あなた、一体この宿のどこに不満があるっていいますのよ!」 「イダダダダダダダッ!」 クーの言葉に被って、リオンの怒声とラッシャの悲鳴が響いた。 横を向いてみれば、いつの間にかラッシャの目の前に立っていた、遠出用のいつもより少し派手なドレスを着たリオンが、彼に見事なアイアンクローを決めているところだった。どれだけ握力と腕力があるのか、顔面を持たれたラッシャの足は宙から浮いている。むしろ、アイアンクローに至るまでにあっただろう、二人の遣り取りの方が微妙に気になるが。 「イダイイダイちょっ洒落にならへん痛さでもちょっと気持ちよくなってきたのは脳に異常が起き始めているのか新たな性癖に目覚めつつあるのかその苦悩がむしろ心地いい!」 エセ関西弁が普通の言葉に変換されて聞こえるぐらい、ラッシャの受けた痛みはすごいものだったらしい。 「娘さんはとても楽しい感じに育ったようですわね、ミスタ・シストラバス」 「いや、凡人の私にはあの娘だけが自慢ですよ、ミス・ラバス」 大人二人が優しい眼差しでリオンを見ている。 「いいですの? あなたがどのように感じようと私には干渉できませんが、それを口にして言うのなら話は別です。あなたの心ない一言が誰かを傷つけているとは考えませんの?」 「な、何がなにやら分からへんけど、とりあえずすみません……ガクッ」 さすがにナンパの度にビンタをもらって鍛えているラッシャも、リオンの細腕から出るとは思えない一撃には耐えきれなかった。宿屋の玄関前で倒れ伏し、そのまま動かなくなる。 「……どういうことだ? どうしてリオンは、ラッシャをあんなに怒ったんだ?」 「はい。こうなるかも知れないと思って、私もご主人様を止めようとしたんです」 「それじゃあ馬車の中で聞いた話って、これに関係することなんだな」 クーは頷いて、視線をリオンが近寄る先に立っていた、サネアツを胸に抱き留めたメイド――ユース・アニエースの方を見た。 「ユース。あのような庶民の戯れ言など気にしなくてもいいですわよ。この宿が素晴らしいことは、私が誰よりも存じていますから」 「大丈夫です、私は気にしてませんから。それより、玄関前にあのように倒れられていることの方が問題なんですが。今日は私たちが貸し切りにしていますが、常だと他のお客様にも迷惑になってしまいますし」 「それもそうですわね。ジュンタ! あなたの友人なら、あなたが責任を持って処理しなさい!」 「処理って……何て惨い。あいつには手加減という言葉が存在しないのか」 そう呟きつつ、リオンの言葉に素直に従うジュンタだった。悲しい男の性。惚れた弱みである。 「あ、ご主人様。私も手伝います」 「いや、いいよ。今のラッシャには触れない方がなんだかいい気がするし、電気ショックで起こすから」 ジュンタは手のひらに魔力を集めつつ、なんだか喜びの痙攣をしているラッシャに近付く。その後ろをクーがついていくが、止めたりはしない。さしものクーも、今のラッシャに触るのは遠慮願いたいらしい。 「まぁ、でもリオンとユースさんの会話で、何となく事情は分かった。つまりこの宿ってさ」 「はい。宿屋『不死鳥の湯』――ユースさんのご実家です」 ラッシャの身体に触れるか触れないかの位置で手を止めて、ジュンタは集めた魔力を雷に変える。ちょっと強めの静電気が弾けて、ラッシャが蘇生される。 「あ、あれ? 何や? ワイはどうしたんや? なんや、幸せな夢を見ていた気がするんやけど」 もうジュンタは、これ以上ラッシャがおかしくならないことを、切に祈るばかりである。 ◇◆◇ ユース・アニエース――
リオン付きの従者である彼女の素性を、ジュンタはよく知らない。 実年齢はわからないが、外見年齢は二十歳前後ほど。 あまりこの異世界では見かけない眼鏡をかけており、可憐というには華に乏しく、そのクールな性格と印象も相まって、麗しい図書館の司書といった感じの女性だ。 他にはメイドの嗜みとして家事技能、魔法を初めとして多くのスキルを有しており、リオン以上の完璧超人であること。また、リオンのメイドであることに誇りと思っているらしく、メイド服は勝負服、ホワイトブリムは騎士の剣と同じなのだとか。ちなみにサネアツ情報である。 そんな彼女がトーユーズと同じラバス村の出身であることは、宿屋『不死鳥の湯』にやってくるまで、やはりジュンタは知らなかった。 「ようこそおいでくださいました」 宿屋に足を踏み入れた一行を出迎えてくれたのは、割烹着に似た仕立ての良い服を着た初老の女性だった。綺麗なお辞儀の後に現れた柔和な笑顔には、心からの歓迎の気持ちが現れている。 「それにしてもリオン様。まだ半年ほどですが、とてもお綺麗になられましたねぇ。わたしはとってもびっくりしました。何かいいことでもありましたか?」 「そんな、トリシャ婆や。もう、いやですわ。そんな特別なことなど別にありません」 「はははっ、ミセス・アニエース。リオンにもとうとう春がやってきたようです」 「お、お父様!」 「これはこれは、喜ばしいことで。この婆やは、リオン様とユースの子供を見るのが何よりの楽しみですからねぇ。これはユースよりも、リオン様の方が早いですかねぇ」 コロコロと柔らかく笑う小柄な女性――トリシャ・アニエースは、どうやらリオンにとっては祖母のように思える相手らしい。かなりリオンも気を許した様子で、顔を赤くしている。 「それじゃあ、もしかして。今回のお客様の中にリオン様のいい人がいらっしゃるのかしら?」 「へ?」 顔見知り同士の再会の邪魔にならないようにと、頭にサネアツを乗せ、クーと一緒に玄関ロビーの後ろの方にいたジュンタは、いきなりトリシャに穏やかな翠の瞳を向けられて、素っ頓狂な声をあげてしまう。 「おやおや、これは正解ですかねぇ。ゴッゾ様」 「ええ。大正解です、ミセス・アニエース」 「大間違いですわ! その不埒者は私の良人でも何でもありません!」 「うっ……そりゃ、そうだけど……なにもそこまで否定しなくても……」 リオンのきっぱりとした言葉に、ジュンタは軽く落ち込む。 (そうだよな、まだ始まったばかりだ。こんなことで落ち込んでられないよな) ジュンタは笑顔を浮かべて、クーの頭を帽子の上からポンと優しく叩く。 「ちょっと。あなたたち二人、何見つめ合って笑ってますのよ――と、違いますわよトリシャ婆や! 今のは違いますわ!」 「こりゃ、リオン様もがんばらないといけませんねぇ。安心なさってくださいな。家の旅館の大浴場は一つ。混浴しようと思えばできますから」 「誰が混浴など致しますか! ああもうっ、ユースも何かおっしゃってあげなさいな!」 「いえ、お仕事中ですから。リオン様の邪魔はできません」 主の言葉に、リオンの斜め後ろに控えていたユースは当たり前のこととしてそう答えた。 トリシャはそこそこな老齢で、ユースとの関係がどうなのかジュンタには分からなかったが、それでも家族の再会にしてはあまりにクールすぎるような気がする。確実にその辺りの事情を知っているだろうリオンは、ユースの返答に少し不満そうな顔をしていた。 「私やお父様なら別に構いませんわよ。トリシャ婆やに報告したいこともあるでしょう?」 「いいえ、リオン様。ユースはそれでいいんです。ユースにメイドとしての教育を施したのはわたしですからねぇ。仕事中に主の前で私事に走れば、それこそげんこつ一つですよ。ユースとは後でお話させていただきますので、まずはお部屋の方へどうぞ」 自分の方を向いてそう言ったトリシャに対し、ユースは軽く目をつぶる。 「ユースさんって、本当にメイドらしいメイドだよな。主より先に立たず、私情を優先せず、主のためなら何のそのって感じで」 「はい、とても格好いいと思います。私もできれば、ユースさんのような奉仕の精神を持つ従者になりたいです。偶にノウハウを伺っているんですが、自分の無力さを痛感するばかりで」 「ほぅ、そうなのか? クーヴェルシェン、それはいい師の選択だな。なぜならば、ジュンタは大のメイド好ぐわひゃ!」 「さ〜て、クー。みんなに遅れないように付いて行こうか」 サネアツの首根っこを掴んで、荷物の中に頭から突っ込んだジュンタは、きつく荷物の口を締めてトリシャの案内についていくのだった。 和風っぽい木造の『不死鳥の湯』だが、部屋の内装は畳敷きの部屋ではなく、ベッドが置かれた洋風の部屋であった。 部屋は二人部屋が二つ。三人部屋が一つ。四人部屋が二つあるとのこと。部屋は横繋がりではなく、中庭と廊下とでも区切られていた。ゴッゾは全室を貸し切ったらしく、人数的に四人部屋二つという組み合わせができたので、男と女で完全に分かれた部屋割りとなった。 「なんや。折角こんなところまで来たのに、相変わらずジュンタと一緒の部屋なんか」 「それはこっちの台詞でもあるな。まぁ、これ以外にあり得ない組み合わせだけど」 大きな窓のある洋風の部屋。部屋の大部分は四つのベッドが占めており、窓側に四人以上座れるソファーと、花が生けられた花瓶が飾られたテーブルが。入り口の方にはトイレが付けられており、さらにその隣の通路を進んでいけば、部屋用の小さめの露天風呂が存在する。 ベッドに荷物を置いたのち、ジュンタとラッシャは露天風呂を観察しに行く。 「うひゃあ、こいつはええなぁ! 部屋に風呂が付いとるなんて、温泉地やからってどんな贅沢やねん」 「檜っぽい香りだな。しかも掛け流しか。相当源泉が豊富みたいだな」 檜に似た木で作られた四角い浴槽の向こうには、目隠しのための木々が生い茂っており、その向こうはどうやら崖になっているようだった。ラバスの村は小高い丘の上に作られており、丘を下りて真っ直ぐ行くと、露天風呂からも見える大きな火山へと行けるのだ。 湯気の中、安全対策のための手すりまで小走りに近寄ったラッシャは、首を伸ばして辺りをうかがう。そのあと、ちっと心底悔しそうな舌打ちをした。 「あかん。最悪や! 予定とちゃうで!」 「何が?」 ラッシャの隣に歩いていったジュンタは、彼と同じように辺りをうかがう。木々が見えるだけであり、特に何かダメな部分はない。 「俺的には最高に近いと思うけど? 俺ら庶民からしてみれば、かなり贅沢だって言ったのラッシャも同じだろ?」 「ちゃうねん! 風呂自体は最高やけど、部屋の構成的に他の部屋の浴場が覗けないんよ!」 手すりにこぶしを打ち付け、「なんてことや……」と呟くラッシャ。思わず冷たい目で見てしまうのは人間として仕方のないことだろう。 「ちゃんとした由緒ある温泉宿が、覗き対策してないはずないだろ?」 「くぅ。この感じやと、大浴場の方も同じような感じになってるに違いないで! いや、しかしワイは諦めへん! 何のために温泉地に来たんや! 男なら、男なら覗くためやろ絶対に! なぁ、ジュンタ!?」 「さぁて、そろそろサネアツを出してやるかなぁ」 「こうなったらモグラ作戦に!」とか、熱い魂の叫びを放つラッシャを置いて、ジュンタはさっさと部屋に戻る。リオンたちの部屋は廊下に出てすぐ向かい側なので、あの声量ではきっと声が届いていることだろう。南無三。巻き込まれない内に逃げなくては。 「と、ゴッゾさん。来てたんですか……って、すでに浴衣なんですね」 部屋に戻ると、そこにはすでにビシッとした礼服から白地に赤い上着という浴衣に着替えたゴッゾの姿があった。 彼は優美な顔を綻ばせながら、さっきラッシャが運び込んだ荷物を整理している。 「ジュンタ君の方こそ分かっていないようだね。温泉に来たら、まず何にしても最初は温泉さ。浴衣はすでに用意されている。さっさとジュンタ君も着替えて用意をした方がいい」 「いや、俺はもっと後の方でいいですよ。五日も泊まるんですし、なんなら今日は部屋のでもいい――」 「それはダメだ! 断固として阻止しよう!」 曖昧に笑ったジュンタの肩を、ゴッゾが凄まじい気合いと共に掴む。心の内を晒さないポーカーフェイスの笑みを常にたたえているゴッゾにしてみたら、いやに強引な姿である。 「ジュンタ君は分かっていない。確かに部屋にある温泉も風情があっていいが、それでも広さに勝る価値はなし! 夜空の下の温泉? 大いに結構。朝風呂? 大歓迎だ。しかし、まずは大浴場で一番風呂! これしかないだろう!」 「いや、そう言われてみればそんな気もしますけど……」 「分かってくれたなら、さぁ、着替えたまえ――むっ? しまった!」 パタン、と扉が開いた微かな音がそのとき聞こえ、聞こえたときにはすでにゴッゾは部屋を飛び出していた。 廊下の向こうでは何やらゴッゾと誰かが言い争う声が聞こえて、そのすぐ後にはバタバタとどこかに走り去っていく音が聞こえた。 「……何なんだ?」 唖然とゴッゾを見送ったジュンタは開けっ放しの戸を潜って、廊下に出る。 「あ、ご主人様」 「クー。一体何があったんだ? かなりドタバタしてたけど」 「それがなんと言いますか、私にもよくは分からないと言いますか……リオンさんが断固とした姿勢で一番風呂を狙いますわと部屋を出て、そこへゴッゾ様が出てきたかと思いますと……」 「一番風呂は俺のもの私のものと言わんばかりに、全力で走っていっちゃったわけか……何なんだ、あの温泉フィーバー親子は?」 大浴場は一つしかなく、男女どちらかしか入れない。だとしても、優雅で気品に満ちたシストラバス親子の新たな一面に気付いたジュンタとクーは、そのまま大浴場がある方を何とも言えない表情で見つめることしかできなかった。 腕を組んだトーユーズはそんな二人に、 「さて、ジュンタ君もクーちゃんも浴衣に着替えておいた方がいいわよ? どちらが先に取ったかわからないけど、男組か女組、どちらかは全員今の内に入っておかないとね。一回入ったら夕食だろうから」 「そうですね。それでは私、浴衣に着替えます。でも、着方がよく分からないんですが……トーユーズさん、すみませんが教えてもらってもいいですか?」 「ええ。いいわよ」 「ありがとうございます。それではご主人様、また夕食のときに」 「ああ。後でな」 部屋に戻った二人を見送り、ジュンタもラッシャとサネアツに声をかけようと部屋に戻ろうとするも、その前に廊下の向こうからトボトボと歩いてくる、浴衣姿のリオンの姿を見つけた。 「油断しましたわ。相手がお父様とはいえ、足の速さでは負けないと思ってましたのに。まさか婆やにはしたないと注意されて足止めされるとは……」 「どうやら一番風呂はゴッゾさんに奪われたようだな」 「うるさいですわよ。大勝負に負けた惨めな私を精々嘲笑うがいいですわ」 「いや、温泉一つで大袈裟な――」 「何を言ってますのよ!」 落ち込んでいたリオンが、その言葉で目をカッと見開いて、爛々と睨みつけてきた。 「あなたはこの『不死鳥の湯』の一番風呂の意味を理解していないから、そんなことが言えますのよ。いいですの? この『不死鳥の湯』は、その昔私の祖先であるナレイアラ様が、救世の旅の疲れを癒すためにと作られた宿屋なのです」 「そ、そんなに昔からある温泉宿だったのか」 いきなり始まった語りに、ジュンタは少しだけリオンから視線を外しつつ耳を傾ける。 「効能はそれこそ、激しいドラゴンとの戦いの疲れをも一瞬で吹き飛ばしたと言われていますわ。それだけではなく、ナレイアラ様、アーファリム様、メロディア様らが入られたことで、この温泉はもはや霊湯も同じ。その一番風呂といえば持病完治、運気上昇、旅の安全祈願まで、何でも叶うと言われていますのよ」 「そいつは凄いな。でも、ならいつも苦労しているゴッゾさんに譲ってもいいだろうよ。色々と最近は忙しいみたいだし、お前はまだ手伝ってる段階なんだから」 「それはそうですけど、でも……」 リオンはどことなく恥ずかしそうに顔を伏せた。 何やら一番風呂を狙った理由は、口にした効能以外にありそうである。頬だけではなく、少し開いた胸元まで赤く色づいている。走ったからかもしれないが。 「まぁ、いいですわ。お父様になら譲っても悔いはありませんもの。あなたたちも今の内に入ってきなさい。後から入りたいと言っても、私たちが使いますから入れませんわよ」 「そ、そうだな。そうさせてもらうか」 「?? なんだか歯切れが悪いですわね。なんですの? 何か私の顔についてます?」 顔をあげたリオンは、自分の姿を軽く見る。そこで初めて、走ったことで浴衣が弛み、胸元がかなり大胆に開いているのに気が付いた。 「っ! み、見ました?」 「いや、見てないですよ?」 胸元を掻き合わせたリオンは温泉上がりのように真っ赤になって、上目遣いでジュンタを睨む。 「……視線を胸元に感じましたわ。このスケベ。変態。やっぱり不埒者ですわね」 胸元を隠したまま、怒ったようにリオンはそっぽを向いた。 「私を温泉に誘うなんておかしなこともあるものだと思いましたけど、もしかして私たちが出会ったときのように、私の湯浴み姿を覗くつもりではなくて? ラッシャ・エダクールの声、私たちの部屋まで聞こえてましたわよ」 「いや、あれはラッシャだけだって。俺はしないから」 「どうだか。前科のある人間ですもの。怪しいものですわ」 「しないよ」 ツンとそっぽを向いたまま信じようとしないリオンに、ちょっとだけジュンタは声を真剣みの帯びたものにした。 リオンは少しだけ驚いたあと、ちょっとバツの悪そうな顔をする。 「冗談ですわよ。私だって、本当にあなたがそんなことするとは思ってませんわ。トーユーズさんやユース、あなたの大事なクーだっていますし。あなたがクーを悲しませるような真似はしないことぐらい分かっています」 「それは嬉しいが……俺はリオンにも嫌がられることだから、するつもりはなかったんだけどな」 「え?」 「だってそうだろ? 二度目は絶対に許してくれそうにないからな」 今でもしっかりと覚えている。リオンと出会ったときのことは。 あまりに美しい、恐らくはそれに一目惚れした、紅い騎士のお姫様の姿。 (嫌われるのは勘弁して欲しいからな。進展して欲しくて来たのに、嫌われたらどんなだってんだ) そんな気持ちでジュンタはリオンを見て、首の後ろに触れる。 「安心していいぞ。俺はそんなことしないし、ラッシャがもしやろうとしても俺が止めるから」 「と、当然です! そんなこと、そう、当然ですわ!」 呆けていたリオンは、我に返ると、ちょっと怒ったような足取りでさっさと部屋へと入っていってしまった。 パタン、と閉められた扉を見て、それからジュンタは先程から視線を感じていた自分たちの部屋の戸を振り返って、思い切り引っ張る。 「うおぅ!」 「にゃっ!」 倒れこんできたラッシャとサネアツの二人組の見下ろして、とびっきりの笑顔で告げておく。 「というわけで、覗き見していたお二人さん。今回は許すけど、他の場所での覗きは絶対許さないからな?」 「サ、サーイエッサーやで」 「元より俺は覗くつもりはないがな。俺はどちらかというと、便乗することに心血を注ぐタイプだと自負している」 ニタニタ笑いで立ち上がるラッシャと、その頭の上でニヒルに笑うサネアツを見て、こいつはダメだとジュンタは確信をする。 (阻止しよう。それは何としても) 笑顔のポーカーフェイスで、そう決意する。 ◇◆◇ 『不死鳥の湯』の大浴場は、完全な露天風呂だった。 総石造りの広々とした露天風呂で、ラバス村の中では一番崖寄りにある『不死鳥の湯』の中でも、もっとも端にある場所である。 周りは目隠しの木々で覆われており、よくよく見たら、その先は本当に崖だ。崖は百メートル近くのもので、真下は森だが、それでも落ちたらひとたまりもないだろう。 まさに由緒ある宿屋に似つかわしい、外観を壊さぬ天然の覗き対策がされた露天風呂である。 「最悪や。どうして、神はこんなにもワイを虐めるんや。あるいは汝、空を飛べというお告げなんか、そうなんか?」 「そんなわけないだろ。現実を受け止めて、温泉にゆっくり入れってことだ」 「ちなみに案内を見た限り、崖下の森はアニエース家の所有物で、魔法で空を飛ばれたりしないために、年中無休で監視員と特殊な魔法陣が敷かれているようだな」 更衣室から腰にタオルを巻いた状態で、ジュンタとラッシャは湯気が立ちこめる露天風呂内へと足を踏み入れる。サネアツは頭に小さなタオルを乗せて、ジュンタに抱えられた木の桶の中に入っていた。で、露天風呂で待っていたのは、娘との駆けっこで勝利したどこぞの男性貴族である。 「あ、すみません、ゴッゾさん。入らないで待っててくれたんですか?」 「くぅ、こうなったら、美人だったっちゅう噂の『始祖姫』様が使ったお湯に、もはや飛び込むしかワイに残された道はない! いくでぇ!」 ゴッゾを半ば無視して、ツルツルに磨かれた石の上を半ば滑りつつも、何とか飛び込んでやろうとラッシャは走っていく。 「おまっ、それはあまりにマナーが悪いぞ! そして入らずに待っていてくれたゴッゾさんに失れ――」 「そんなもんは知らへんわ! 世の中弱肉強食! ワイは今、古き世に『始祖姫』様の肉体を包み込んだお湯に一番に入ることに全力なんやからなぁ!!」 「ラッシャ君。温泉は身体を洗ってから――」 だからゴッゾは手近に置いてあった桶を取ると、見もせずに気配だけでラッシャの位置を察知し、円盤投げの要領で思い切り投げた……見当違いの方向に。 「――静かに入るものだよッ!!」 「うごげっ!」 ゴッゾの投げた桶はラッシャに当たることなく、近くにあった一つの大きな岩の中程に命中する。その瞬間、確かにジュンタは浴槽をグルリと取り囲む、不可視の壁の存在を知覚した。 見えない壁に激突したラッシャは、全裸のまま床に落下する。 「ゴッゾさん、今のは一体なんですか?」 今はもう消えている不可視の壁、お湯に入ることなく待っていてくれた、タオルを腰に巻いたゴッゾに尋ねる。 「俺には魔力の壁が生まれたように感じられたんですが」 「俺もだ。確かに感じたぞ。しかもこの魔力の波長、メロディア・ホワイトグレイルのものだな」 「ほぅ、分かるのかい。その通り。この温泉はね、『始祖姫』のメロディア・ホワイトグレイル様が入られた折に、色々と改造がなされたらしい。先程のは分かってるその中の一つで、あの岩に刻まれたメロディア様の魔法陣を刺激することにより、外敵から侵入を阻む障壁を生み出すものだよ」 「メロディア・ホワイトグレイル……エルフの掟といい、相当はっちゃけた人だったようですね」 「噂では露出狂で、編み物をすれば蠢くスライムができ、料理をすれば歌って踊って口の中に飛び込んでくるとびきりのレシピが完成するという、とんでも犬幼女だったらしいぞ」 「それは私も聞いたことがない噂だな。どこの新説だい?」 「にゃんにゃんネットワークが総力をあげて手に入れた情報とだけ伝えておきましょう」 サネアツとゴッゾが、どこか腹黒い笑みをぶつけあっている横で、ジュンタは自分の立っている場所がなんだか恐ろしくなってきた。 魔改造された露天風呂。霊験あらたかというより、びっくり箱のような仕掛けのあるトンデモ風呂という感じである。下手に動くと浴槽のお湯が怪物にでも変身しそうだ。 「ジュンタ君、そんなに身構えなくても大丈夫だよ。この千年の間にほとんどメロディア様の魔力は霧散して、今では一部の仕掛けが残っているだけのようだからね。まぁ、もっとも。メロディア様が最終奥義とだけ言い残した、謎の仕掛けの多くは残っているようだけど」 ジュンタはゴッゾの言葉の後半部分を聞かなかったことにした。 旅程はリオンもいるし、道の途中にある旅行者のための小さな宿屋に泊まる形で日程を合わせたために、風呂自体に入るのはこれが久しぶりではないが、なるほど、被ったお湯には少しだけだが魔力の気配が感じられた。 「うしっ、それじゃあ俺らも入るか……って、ゴッゾさん?」 身体を洗い終えたジュンタが浴槽を振り返ると、そこには先程から変わらぬ体勢のゴッゾの姿があった。寒そうにしつつも、露天風呂には入っていない。 「なんでお湯に入ってないんですか? 一番風呂、あんなに全力で取ろうとしてたのに」 「いや、一番風呂はジュンタ君にこそ入ってもらいたくてね」 「俺にですか?」 「そうだ。この露天風呂の効能にはね、今のジュンタ君の悩みによく効く効能があるんだよ。だから是非入って欲しかったのさ」 「俺に必要な効能……?」 ジュンタはリオンに言われた温泉の効能を思い出してみる。持病完治、運気上昇、旅の安全祈願などなど。どれもある意味必要で、ある意味きっと必要ない。 「持病完治、運気上昇、旅の安全祈願……そう聞いてるんですけど、どれが今の俺には必要だとゴッゾさんは思うんですか?」 「いやいや、ジュンタ君に必要なのはそれら効能ではなく、この湯の最も有名な効能さ」 「最も有名な? それってなんですか?」 リオンが何やら言わなかった最大の効能が、この『不死鳥の湯』にはあるらしい。 腕を組んだゴッゾはニンマリと笑って、一度サネアツと視線を合わせ、それから教えてくれた。 「このお湯は『始祖姫』様と、その巫女様たちが一緒に入り、互いの絆を強く結んだ場所と言われている。そのため、この湯の最大の効果は縁結びなのさ」 「それはそれは、恋愛に悩んでいるジュンタちゃんにはとっても必要でございますわね」 「ぐっ! サネアツはともかく、ゴッゾさんにまでお見通しですか……ちなみに誰なのかもバレ「――ジュンタ君。お義父さんと呼んでくれても構わないよ」バレなんですね」 リオンの親であるゴッゾに当たり前のように気付かれていた思いに、ジュンタは少し不安に思う。これだけ周りにバレているなら、張本人のリオンにもバレバレなのではないか、と。 (いや、そもそもいっぺん告白したわけだし、少しは最初から気付かれてるか) 陥った思考を中断して、ジュンタはゴッゾを見る。 「それじゃあ、お言葉に甘えさせてもらいます」 「どうぞ。存分に堪能してくれたまえ」 ゴッゾに促されるまま、サネアツが入った桶を彼に手渡してから、ジュンタはお湯に足を踏み入れる。 話している間で冷たくなった身体に、足の先からしみいるような温かさが込み上げてくる。 すべすべとした石の肌触りを感じる温泉の中は、普通の温泉のようで、しかし確かに何かが違う気がした。身体の芯から汚れや疲れが洗い流されていくような、そんな感じだ。 だが、それはあくまでも霊湯としての効果の初めに過ぎなかったらしい。 「これは……!」 透明なお湯が、輝くような色を放ち始めたのである。 それは赤、青、黄、緑――輝く虹色。 耳に、サネアツへとこの現象を説明するゴッゾの声が聞こえた。 「これもまた、メロディア様が仕掛けた仕掛けなのだとか。沸き立った水を、満月の日から一番最初に入った人の願いを手助けする霊水に変える虹色の魔力。この温泉はね、これ一つが『神殿』として機能しているんだよ」 「神殿。……さすがは、我が出鱈目なる聖猊下と言ったところというわけか」 肌に感じる魔力は、どうやらメロディアが残したものらしい。 やがて虹色の光は消え、湯は元の透明さに戻る。 サネアツを抱えたゴッゾがお湯の中に入っても、二度と湯が輝くことはなかった。つまりはこれが一番風呂の効果――リオンが全力でダッシュしてまで手に入れたかった、縁結びの効能の具現なのだろう。 「さて、ジュンタ君。私も欲しかった一番風呂を譲ってあげたのだから、もちろんこの旅行中に、せめて自分が使徒であることぐらいはリオンに言うんだろうね?」 どことなく有無を言わせぬ声で尋ねてくるゴッゾに、ジュンタは口元近くまでお湯につかると、温泉以外の理由で少し赤くなった顔で返答を返す。 「……ええ、もちろん。そのためにリオンを誘ったんですから」 ジュンタの宣言に、ゴッゾとサネアツは微笑む。 ……一人忘れ去られていたラッシャが眼を覚まして霊湯に入っていられた時間は、二十秒足らずだったことを、ここに追記しておく。
それは『恋愛推奨騎士団』の秘密の任務中ということもあるが、それよりなにより、ここが魅惑の温泉地であり、今回のお出かけに参加した面子の方が重要だった。
リオンが『仕方ないですわね』、『あなたがどうしてもと言うのでしたら』とか言いつつ、ほぼ即答でOKを出し、そこへ割り込む形でシストラバス家と、『鬼の篝火亭』の居候たちが一緒に行くことが決定した。
トーユーズの急遽参入もあったが、すでに彼女には計画の内容を伝え、仲間に引き込むことに成功している。ラッシャとしては、色っぽい彼女の参入は手を叩いて歓迎すべき事柄だった。
シストラバス領の温泉地ということで、リオンたちは幾度となくラバス村へと訪れたことがあるらしかった。そのため、訪れた際には必ず泊まるという宿屋に、また今回も泊まることになったのだが……
部屋数も五つや六つほどしかないように見られる。低めの石垣の上に乗った木造建築であり、二階などは見あたらない。
嬉しそうにラッシャが笑い出した辺りで悪く思ったのか、あるいは気持ち悪くなったのか。恐らく後者の理由でリオンはアイアンクローを止め、二三歩後ずさった。
父親と女性の理想とも呼べるトーユーズに見られて、リオンも自分の行動が恥ずかしくなったのか、コホンと咳払いしてからラッシャに話しかけた。
薄茶色の髪を肩に届きそうかというくらいに延ばし、瞳は怜悧に輝く翠色。豊かに過ぎる胸元はトーユーズにこそ負けるものの、リオンなどでは太刀打ちできない威力を内蔵している。
頭の上でサネアツが元気出せよと言わんばかりにポンポン叩いてきて、クーは心配するような目つきで見つめてきた。
言葉もなく分かり合えたクーは、にこりと笑顔を見せてくれた。
それがジュンタには頷いているようにも、あいさつを交わしているようにも見えた。
何やらトリシャと話しているゴッゾは部屋にはまだ来ておらず、来てもたぶん観察に同行はしていなかっただろうが。これはもう、完全に庶民の感覚であるからして。
そこには自分と同じように廊下に出た、いつも通りの服を着たクーとトーユーズの姿があった。
手に触れた柔らかさは、リオンが女の子であるのを否応なく意識させた。あれはうやむやの内になかったことにされたが、二度目はきっとリオンも許してはくれまい。
男としてその気持ちは痛いほど分かるが、それでも、その気持ちをぐっと堪えて。
ラッシャは絶望に頭を抱えて、ジュンタはほっと胸を撫で下ろした。
「やぁ、ようやく来たのかい? もう少しで風邪を引きそうだったよ」
とうっ! 空を飛ぶラッシャ。その途中で腰からタオルを取り去る彼の姿は、直視に耐えないものだ。
本日二度目の衝撃に、一度目の衝撃を思い出したのか、うへへへへと笑い出した辺りで観察するのを中断するべきと判断。意識的に視界から外す。
「いやぁ、これ以上裸で突っ立ってたら風邪引きそうですね」
初夏とはいえ、もう夕刻。お湯にも入らずに立っているのは肌寒い。
ジュンタはサネアツと共に、露天風呂の隅に作られたかけ湯用のお湯を桶に汲んで、タオルでまず身体を洗った。
持病はこの呪われたような、トラブルに巻き込んでくる変人と巡り会ってしまう体質だし、運気上昇すると逆に遭遇率が上がりそうで怖い。加えて、きっと旅の安全祈願はしても無駄っぽい。
彼はお湯を『どうぞ』と言った感じで手で示してくれる。そうされたら是非もなかった。
その多幸感は筆舌にしがたい。何とも言えない幸福感を噛み締めつつ、縁結びの効能があるという霊湯に、ジュンタは肩まで浸かった。
黄金よりも美しい輝ける虹は、お湯の全てを煌めかせ、ジュンタの視線を奪い続ける。
お湯のようであり、羽毛のようであり、母の腕のような気持ちよさ。
本当に願いが叶うのではと思うほどに、それはどこか懐かしく気持ちいい、抱擁の感触だった。
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