第三話  湯煙温泉伝説(妖精編)



 
 風呂上がりに待っていたのは夕食の席だった。

 山菜や川魚などが、ところ狭しと大きなテーブルに並べられている。これで部屋が洋風の食堂という感じではなく畳敷きで御膳だったなら、まさしく日本旅館の夕餉といった風情である。

 広い部屋は一つのテーブルだけが置かれた食事専用の食堂で、貸し切りのために他の客はいない。温泉に入れなかった女性衆は、ユースを除き浴衣姿で先に席についており、リオンなどはあからさまに悔しそうな目で、ほかほかと湯気をあげる男衆を睨んでいた。

 そんなわけで夕食である。

 皆一様に食前の祈りを捧げ、旅行の提案者ということでラッシャが音頭をとり、それからはそれぞれが好きなように一流料亭の味を楽しんでいた。

 給仕は女将――と言ってもいいだろう――のトリシャと、いつもと違って今日は身分役職無視で食卓を同じくしているのに、なぜか自分の食事にはほとんど手を付けずにユースが行っている。

 
個性的な面子がこれだけ集まれば賑やかにならないはずもなく、そこにあったのは、宴の席と呼ぶにふさわしい食事風景だった。

 よって、ジュンタはクーを連れて、早々に避難を決行していた。

「絶対にこうなることは分かっていたけど……案外早かったな」

「う、宴の席ですし、いいんじゃないでしょうか」

「まぁ、そうだけど。飲むと困る人間もいるってことを忘れないで欲しいもんだ」

 ガヤガヤと騒々しい食堂は、食卓の上の料理にも一段落がついた辺りで、宴の席では当たり前の酒盛りへと移行していた。

 食事の最初の方から、お酒が全然ダメなクーと、猫だからとアルコールを禁止されていたサネアツ以外はワインを飲んでいる。トーユーズも清酒があると聞いて、喜んでそれを飲んでいた。旅行の賃金は全てシストラバス家のおごりのため、がぶ飲みもがぶ飲み。高そうなワインや清酒が次々と消えていっている。

 そして、高いお酒はそこそこアルコールも強かったようで、ほとんどの者は微かに酔っぱらい始めている。テンションがちょっとおかしい。

「これはまずいな。もうすぐきっと、絡み酒へと発展するぞ。先生あたりが」

 ジュンタはリオンとトーユーズが、それぞれワインと清酒を交互に飲んで、飲み比べをしているのを見つつ呟く。

「あの、ご主人様は私と一緒でお酒に弱いのでしょうか? 先程ワインの方をお注ぎしましたが、もしかしてご迷惑でしたか?」

 テーブルの隅に陣取って酒の席から少し離れつつ、ジュンタは申し訳なさそうな顔をクーに向けられていた。

「いや、別に俺はアルコールに特別弱いわけじゃない。そりゃ、リオンや先生ほど強くもないけど、一般的な強さを持ってるとは思う。ただ……」

「ただ?」

「サネアツの話によると、俺は悪酔いするらしい。どんな風に酔っぱらうかは知らないが、サネアツが言い淀むぐらいだ。きっと普通にやばかったんだろうな。それ以来、こういう酒を強引に飲まされそうな席では避難することにしてるんだ」

「なるほど。悪酔いですが」

「いや、別にエロくなるとかじゃないと思うぞ。たぶん」

 なにかを想像して頬を染めたクーに、ジュンタは先に釘を刺しておく。
 一番分かりやすい酔い方なので想像してしまったのか、どうやら図星だったらしい。

「すみません。どうしても酔っぱらうと聞くと、フェリシィール様の脱ぎ癖を思い出してしまって」

「あ〜、あの人なんか脱ぎそうだよなぁ。ちなみに、クーは酔っぱらったことないのか?」

「私はその前に倒れてしまうので、実は酔っぱらったことはないんです。子供っぽいですよね」

 オレンジジュースを飲みながら、クーはちょっと恥ずかしそうに身を縮める。その姿には確かに子供みたいな微笑ましさがあるが、むしろこの状況ではその微笑ましさこそが尊いのだ。

「やりますわね、トーユーズさん。ですがまだまだこれからでしてよ。ユース! ワインと清酒をありったけ持ってきなさい!」

「そうこなきゃおもしろくないわ。うふふ、お酒より先に介抱の予約を取っておいた方がいいんじゃない?」

「ゴッゾの旦那。ワイは、ワイは思うんや! この世の中には問題があると。正確にいうと、女性の素足は見せへんことが嗜みっちゅうのが間違っとると思うんよ! ええやないですか、膝上にしようやスカートは!」

「よくぞ言ったね、ラッシャ君。確かに、世の中の風俗文化は少々聖地に影響され過ぎているのかも知れない。もっとも、だからこその需要が――一瞬の感動があると私は思うのだが」

「見えないからこそ尊いというわけですか。この身になってから、その言葉は骨身にしみるというものです。はっきり言いましょう。常に見える場所から見るものに、何の価値もないと!」

 楽しそうなのはいいことだが、場に満ちる空気は一触即発。嵐の前の静けさだ。大人二名+畜生が二日酔いの地獄に落としてやろうと、それぞれ狙いをつけているのがジュンタにはわかった。リオンとラッシャの二人が墜ちたら、もはや自分にもクーにも逃げ場はなくなるだろう。

「よ〜し、クー。どうやらみんな温泉には入らないっぽいから、俺はもう一回温泉に行ってくるな」

「はい、行ってらっしゃいませ……ええ! そ、そんな、ご主人様! 私はここに残って、一体どうすれば!?」

「悪いな、クー。一度に二人もいなくなったら、確実にバレるんだ。不甲斐ない俺を許してくれ」

 ジュンタは席から立ち上がった瞬間に、トーユーズから学んだ全てを駆使して食堂からの離脱をはかる。当然の如くリオンやトーユーズなどは気付いたが、それぞれ互いに集中しているためか、追いかけては来なかった。

 大浴場近くまで走り抜けたところでようやく足を止め、乱れた浴衣を直し、それから食堂に置いてきたクーに弔いの念を捧げる。

「クー。ある意味ではすぐ酔いつぶれる方が幸せかも知れないぞ……と言うか、本当に俺は酔っぱらったらどうなるんだ?」

 大浴場の更衣室には湯浴みのための一式が全て揃えられている。
 部屋に戻る必要はないので、ジュンタは一年と半年ほど前の、自分の酔い方が最悪と知ったときのことを思い出しつつ服を脱ぎ、浴場へと足を向けた。

(俺が本格的に酔っぱらったのは、確か高校一年のときにあった前夜祭の時だよな? 教室で騒いで、誰かがこっそりと持ってきたお酒を一気飲みして……そこからの記憶がないんだよなぁ)

 ジュンタが観鞘市で通っていた観鞘学園は、体育祭と文化祭を二日連続でやる学校だった。そのため準備に大忙しで、それが終了したときにクラスでお祝いをしたのだ。

 それが初めて酔っぱらっただろうときの記憶。だがそのときのことは記憶にはなく、異変は次の日にあった。

(なぜか体育祭がうちのクラスによって戦場と化して、クラスメイトが凶暴になって、それで……そうだ。なぜかしばらくの間、俺は『軍曹』とか呼ばれてたんだよな)

 本当に意味が分からない。それまで宮田実篤のストッパーという認識だった佐倉純太の認識を、実篤の相棒と変えた発端らしいその事件。ジュンタの記憶はとんと不鮮明だ。

「まぁ、いいか。それより温泉温泉。当分誰も入ろうとはしないだろうし、一人で貸し切りだ」

 食堂に置いてきた喧噪を努めて忘れるように、ジュンタは弾んだ気持ちで大浴場の入り口の戸を開け、子供みたいに温泉へと突貫していった。

 


 

       ◇◆◇


 

 

 ……つまり何が悪かったのかというと、少々気が弾みすぎていて、入り口の鍵を閉め忘れたということなのだろう。

 湯気が立ちこめる温泉にのんびり浸かっていたジュンタは、唐突に背中を向けていた入り口の戸が開いたことに、ギクンと盛大に肩を震わせた。

 ピタピタと水を弾く微かな足音。これは間違いない。誰かが温泉に入ってきたようだ。

(ど、どうする? 誰だ? 誰が一体入ってきた?)

 男だったらいい。問題ない。しかし相手が女だったら果てしなくまずい。

 旅館は貸し切りだから、入ってきた相手は今回の旅行メンバーに加え、旅館で働いている従業員ということになる。だが従業員が、まさかこんなタイミングで大浴場にやってきたりはしないだろう。食堂の方にかかりっきりになっているだろうし。

(こ、こうしてても仕方ない。訊くしかないか)

 どうやら相手はこちらに気が付いていないようで、普通にかけ湯を浴びている。ジュンタは今の内に声をかけておこうと、意を決して口を開いた。

「あの、どちら様でありんすか?」

「はひゅひでふ」

 思わず変な口調で尋ねれば、返ってきた反応もおかしなもの。誰かが入っていることを知らず、突然声をかけられて驚いたにしては、何やら前もって身構えていた様子が見られた。

 ……と言うか、この至近距離でジュンタがこの声を聞き間違えるはずもなく、だからこそ先に自分が入っていたことを知らないはずないと察したわけだが。

「クーよ。お前、なんで入ってきたんだ? 俺が入ってるって知ってただろ?」

 振り返らずに、ジュンタは声だけで入ってきた相手――クーヴェルシェン・リアーシラミリィに質問をぶつけた。

 少しだけの沈黙のあと、ちょっと沈んだ声でクーからの返答は届いた。

「はい。ご主人様が入っていらっしゃるのは分かっていました」

「それじゃあ、もしかして……?」

「ご主人様と一緒に温泉に入りたくて、その――

 恥ずかしさが限界を超えたのか、どこかはっちゃけた声でクーは『あはは』と笑って、

「入って来ちゃいました」

「入って来ちゃまずいでしょうがぁ――!」

「はうっ、すみません。やっぱりご迷惑だったでしょうか……?」

 姿は見えずとも、クーが申し訳なさそうに身を縮めたのがよく分かる反応を感じつつ、ジュンタは額に手をやる。

「い、いや、俺としては別に迷惑じゃないけど、俺は男でクーは女の訳で、そんな二人が一緒に入るのは混浴って呼ぶわけで……つまり何が言いたいのかというと、この世界の公序良俗に当てはめて考えれば、クーと一緒に入ることは許されないわけでですね」

「どうしてですか? 両者の同意があれば、混浴は犯罪ではありませんよ?」

「いや、そりゃ確かに同意があれば…………」

 ……
 …………
 ……………………
 ……………………………………それで結局、

「ご主人様。とてもいいお湯ですね」

「いや、本当だネ。本当本当。とってもグッレェトなお湯だネ」

 理屈と正論では天然さんに勝てるはずもなく、いつしか気が付けば、ジュンタの背中にはクーの小さな肩が、少しの距離を挟んで存在していた。

 どうしてこうなったんだろうとか、やっぱりこうなったとか、男としては後ろを振り向くべきなのかとか、様々な考えが浮かんでは消え、消えては浮かぶ。
 やがてそれも時間の経過と共に、まぁいいやの一言で片付けてしまったジュンタは、背中に感じるクーへと根本的な質問をしてみた。

「それで、どうしたんだ? 何か俺に内緒話でもあったか?」

「……どうしてそう思われるんですか?」

「んー。単純に考えてみて、俺が風呂入っているときに突入してくるなんて、いつものクーならしないだろうからな。何か、他の人がいると言えない話でもあるのかって思っただけだけど」

「そうでしたか。ですが、違いますよ。内緒話は何かしたいものですが、今は皆さんに隠してまでご主人様と話すべきことは、残念ながらありませんので」

「それじゃあ、どうして入ってきたりしたんだ?」

「それはですね」

 パシャリ、とお湯が手ですくわれて、ゆっくりと落とされた音がした。

「ご主人様、知っていますか? この『不死鳥の湯』、その昔『始祖姫』様たちが、ご自分の巫女の方と絆を強めるために入られたらしいんですよ」

「なるほどな」

 その言葉に、ジュンタはクーがどうして一緒に入ろうとしたのか、見当がついた。

 つまるところ、クーは使徒と巫女との絆を強めたかったらしい。かつての使徒と巫女とが絆を深め合った、この温泉に一緒に入ることで。

「今更そういう話に頼らなくても、俺とクーは使徒と巫女としてだけじゃなく、仲間としてそれなりの絆を深められてると思うんだけどな」

「はい。ご主人様のお陰で、私少しだけですが強くなれた気がします。ご主人様との絆だって、あると固く信じています。信じたいです」

「あるさ。俺とクーは、今更何があったって離ればなれにはならないだろ?」

「そうですね……はい、そうです。その通りだと思いますっ」

 背中でグッと力強く両の拳を握ったような気配がした。でも、その拳はすぐに開いてしまったのか、クーの頭は口元がお湯近くに来るまで沈み、そのままの状態で彼女は恥ずかしそうに呟く。

「それでもやっぱり、少しでも私はご主人様との絆を深めたいです。もっと、もっと……私、欲張りでしょうか?」

「さて、どうかな。少なくとも、俺はいい傾向だと思うぞ」

 クーの過去を知って、ジュンタは少しだけでも彼女の力になれている自信があった。そうなりたいと思ったし、クーがそうしようと思っているのなら、そうであることを疑ってはいけない。
 だけど、やっぱりクーは謙虚で、自分に自信がない。かわいくてがんばり屋な本当の姿に比べれば、謙遜すぎるほどに。

 きっと、こうやって温泉に入ってくるのが今のクーの精一杯なのだろう。
 一緒に温泉に入っても、背中をくっつけたい雰囲気があるのに少し間が開いてしまっているところが、本当にクーらしい。

(仕方ないな。俺はちょっとクーに甘すぎるのかも知れないけど)

 点数としては百点じゃないけれど、それでもクーのがんばりは報われなければならない。それが、サクラ・ジュンタが使徒として彼女の主になった理由なのだから。

「ひゃっ!」

「もう少しがんばりましょう、ってところだな。クーも俺も、もう少し強くならないと」

 開いていた背中の距離が、ジュンタによって詰められる。
 クーは一瞬背中を強ばらせたかと思うと、すぐに力を抜いて、甘えてくるように、背中に背中を預けてきた。

「……こんな風に『始祖姫』様と一緒にいた古の巫女様たちも、夢見心地でこの温泉に入っていたのでしょうか」

 その疑問には、きっと答えは必要ないのだろう。

 空に浮かぶ月を一組の使徒と巫女は見つめつつ、この場所にあっただろう古の時に想いを巡らす。

 ………………………………その辺りがジュンタの限界だった。

(さぁ〜て、どうしましょうか、サクラ・ジュンタ選手。あなた結構素敵なことを言いましたが、現在の状況は第三者が見ると相当素敵にやばい状況ですよ)

 クーの滑らかな肌の感触を感じつつ、ジュンタはお湯にあてられた以外の理由で顔を赤くし、空を眺めた。眺め続けるしかなかった。

 自分の方から開いていた距離を詰めたので、ちょっとクーにもたれかかっている状態だ。手を移動させて突っ張っているため、重さこそかけていないのだが……角度的にちょっと視線を下に向ければ、そこにはクーのむき出しの肩があるのでした。

 さらについた手のすぐ傍には、恐らく太股と思われる柔らかなものがあり、クーが呼吸するたびに触れたり離れたりと、地味に心の琴線を震わし精神ゲージを削っていく。

 精神ゲージとはつまり理性ゲージであるわけで……どうしようかと、ジュンタは大いに悩む。

(わ、話題の転換が必要だ。色気のない話題。そ、そうだ! ものすごく萎えるオラクルの話でもしようじゃないか!)

 視線を下には落とさないよう、本能の誘いを押さえ込みつつジュンタは口を開き、

「ご主人様の背中。思っていたよりもずっと、男の人らしかったんですね」

 先んじて攻撃を仕掛けてきたクーに、その口から魂が飛び出るかと思った。

「あ、や、別にご主人様が男らしくないなんてちっとも思っていませんでしたよ? ただ、想像よりも色々すごくて。とっても男らしかったと言いますか……でも、当然かも知れませんね。ご主人様、聖地から帰られたあと、トーユーズさんからがんばって剣術学ばれていますし」

「ま、まぁな。自分でも昔より結構筋肉はついたと思うかな。まだまだだけど」

「はい、とてもしなやかな筋肉です。……それに比べて、私は女らしい身体には全然なりません。ご主人様、やっぱり私の身体ではご不満でしょうか?」

「からっ!? ゲホッ、ケホケホッ!」

 いきなりの少し潤んだ声での攻撃はやばかったが、聖地の話題をクーから出してくれたことにより、よっしゃと吐きかけた魂の飲み込んだジュンタは、しかし『私の身体』とか言われたことにより再度ダメージを受けて咳き込む。先程以上の威力だ。

「ご主人様?! 大丈夫ですか!?」

 さらにお湯の中で身体を反転させたクーが、心配して身体をすり寄せてきたその感触に、ゲホハッと盛大に咳き込んだあたりで、ジュンタはこの咳の理論的なやばさに気が付いた。

 まずいまずいまずいまずい、と視界の中、否応なしに見えてしまったクーの肢体にジュンタはゴクリと唾を飲み込んだ。……こんなやばげな咳をしてしまったら、いかな生まれたままの格好だとしても、クーが心配して来ないはずがないのである。

「本当に大丈夫ですか? どこか痛かったりしませんか?」

 両手を揃えて前につき、四つんばいに近い格好で見つめてくる蒼天の瞳――

 潤んだ瞳で上目遣いに見つめられ、心臓がトクンと鼓動する。
 いつもは首の後ろで二つに纏められている髪はアップにされ、どことなく艶やかに色づいた肌と相まり、そこはかとない色気を醸し出している。

「ご主人様、かなりおかしな咳でしたけど……本当に大丈夫ですよね?」

 先程自分で嘆いていた通り胸は小さい。それでもちゃんと女らしい魅力がその身体には息づいており、なおかつ妖精と賞賛すべき神聖な美しさは目を逸らすことすら忘れさせる。

 女を感じているというには綺麗すぎて、美術品を見ているというには熱すぎる―― それはジュンタの時間を息と共にしばし止めた、自分でもよく分からない感情だった。

「ご主人様?」

 どこか遠くで響いていた声が、ようやく間近に聞こえた。
 我を取り戻したジュンタは、すぐさま視線をクーの裸体から逸らす。

「だ、大丈夫。ちょっと唾が変なところに入っただけだから。そ、それより……その、ごめん」

「どうして謝られるんですか? ご主人様を心配するのは、私にとっては当然のことです」

「いや、そうじゃなくて……は、裸を見ちゃってゴメン、と」

「ぇ? わひゃっ!?」

 自分の体勢を見下ろしたクーは、お湯を盛大にあげてジュンタの背中に身体を隠すように、先程と同じ体勢に戻った。

 再び背中合わせに肌をくっつけあう体勢。先程より、互いの背中が熱く感じられた。

「わ、悪いな。悪気があったわけじゃないけど、その、見ちゃったわけで」

「い、いえ、こんな未熟な身体でよろしければ。それに……やっぱり嬉しかったです。ご主人様でも、私の身体に反応してくれるって分かりましたから」

「反応……?」

 サーと顔を青くして、ジュンタは真下を見下ろす。

 セーフ。セーフである。ということは、反応というのは焦ったことに対してのものなのだろう。

(まったく。自分の魅力を分かってないのも考えもんだな。反応するなって方が無理だ)

 お湯に浮かぶ白く輝く妖精の姿を当分は忘れられまい――盛大に赤くした顔を風で冷ましつつ、これ以上は本気でまずいと、ジュンタは先程考えていた話題をクーに振った。

「ところでさ、クー。やっぱり四番目のオラクルって、まだ達成してないか?」

「四番目のオラクル――『聖地にて詩を謳え』ですね。はい。残念ながら、未だ達成の神託はありません」

「そっか」

 急な話題転換にも、何ら疑わずに乗ってくれるクーは本当にありがたい。
 でも、ジュンタにとっては非常に萎えるオラクルという話題も、巫女であるクーにとっては結構興奮すべき話題なのである。

「だ、大丈夫ですよ! 私、フェリシィール様に聞いたことがあるんですが、フェリシィール様が第四のオラクルまで達成するのにかかった時間は、二十年だったらしいですから。ご主人様が決してダメなわけではありません!」

「力説どうもありがとう。しかし落ち着こう。それが今のクーには必要だ。落ち着いて、今まさに立ち上がった自分の姿を顧みてみるといい」

「っ!? す、すみません。はしたなかったです……」

 バシャリと興奮して立ち上がったクーは、またもや自分の姿を忘れていたことに気が付いて、すぐに恥ずかしそうにしゃがみこんだ。

「だけどそうだなぁ。第四のオラクル、一体どうやれば達成するんだろうな」

 新人類になる気はないが、やはり目の前にクリアできない謎があるのは気持ちが悪い。なんだか負けているようで嫌な気分だ。行動せずとも、達成方法くらいは知っておきたい。そうすれば行動に気を付けることもできようというものだ。

 第三のオラクルが終わり、クーが賜った使徒サクラ・ジュンタの第四のオラクル『聖地にて詩を謳え』――

 第三のオラクルが理不尽な形で終わり、クーがフェリシィールにより聖地に誘拐されたので、時期的にジュンタがこれを知ったのは、聖地での事件が全て終わったあとのことだった。

「『聖地にて詩を謳え』……そのままの意味じゃなかったんだよな」

「私が調べた範囲ですと、オラクルは最初こそ言葉通りなんですが、段々と抽象的になっていくようです。言葉通りの意味ではなく、そこに込められた真意を読み解くことが重要らしいようで」

「……それをもうちょっと早く言って欲しかった。いや、どっちにしろ試しただろうことには変わらないから、意味ないのか」

 聖地ラグナアーツの神居でジュンタが滞在したのは、約十日ほどだ。
怪我の回復とフェリシィールによる聖地への勧誘――きっと長い間クーに居て欲しかっただけだと思うが――も一段落ついたところで、リオンたちと一緒にランカへと帰ってきた。

 その出発前に、クーたってのお願いで、ジュンタは第四のオラクル通りに聖地にて歌を歌うことになったのである。

 ……いや、あれを歌と言っていいのか? 自分で歌っておきながら、そう思っているわけだが。

「歌だけは嫌いなんだ。苦手なんだ。くっ! そんなものをオラクルの引っかけとして用意するなんて、何て性悪なんだ」

 歌を歌い、そのあげくにサネアツとリオンに盛大に笑われた記憶を思い出し、ジュンタはプルプルと震える。

「そんなっ、私はご主人様の歌素敵だと思いました。なんだか夢心地といいますか、魂にまで響いてくるといいますか……素敵でしたよ?」

「いや、フォローはいいよ。俺もまさか、前々から下手だったのは分かってたけど、それが魔力と合わさっておかしな超音波を発するとは思ってなかったし。クー、普通に気絶しかけてたもんな。そもそも歌は聞くものであって、歌うものじゃないんだ。俺はそう思ってる」

 声というものは魔法使いにとって、詠唱などのために大事なものとされている。そのため、魔法の発動地点として使いやすいのだとか。
 
 グラスベルト王国の『騎士百傑』序列八十二位に、アブスマルド・ナッケルディという騎士がいる。彼は剣技に加えて、声を媒介にした特殊な魔法を使って相手の意表をつく音による攻撃や、戦闘の際の演説や士気の高揚などの声もできるという話だ。

 つまり何が言いたいのかというと……ジュンタは完膚無きまでに音痴なのである。

 リズム感はあるので、練習さえすれば上手くなる余地はあるのだろうが、ジュンタ自身が特に問題ないと思っているし、人前で歌いたいとそもそも思ってないのでしょうがない。改善の余地は今のところ皆無だった。

「とにかく、第四のオラクルは聖地で歌を歌えば達成されるってわけじゃなかった。達成方法には、他のやり方が必要なわけだな」

「あ、でも、もしかしたら聖地は聖地でも、聖地の中央である神居の中でないといけなかったのかも知れません。出発前で、ご主人様が歌われたのは門のところでしたから」

「クーは俺に神居で音波テロをしろと?」

「そ、そんなことありません! 私はご主人様の声で失神するのでしたら本望ですっ」

「ああ、やっぱりクーも俺の歌は失神する類のものって思ってるのか」

「ちがっ、違いますよぅ。本当に私はご主人様の声は素晴らしいと思っています! 本当です! 温かい言葉をかけてもらって、キスしてもらって、幸せにしていただいた私が一番それをよく知っています!!」

 本気の本気に必死になって、そう大声で力説したクーは、当然のごとく立ち上がっていた。だが、今回の場合それよりも重要なのは、クーが口にした台詞の中にある。

「…………あ」

 思わず驚きに振り向いてしまったジュンタの目の前で、クーは立ち上がったが故に見えてしまった自分の大事なところは隠さず、代わりに唇を両手で押さえた。

「あ、わ、や、違うんですっ。あれはキスではなく人工呼吸の類だと分かっていますので!」

 みるみるうちに顔から赤くなっていくクーの身体――熱い温泉につかっている状態で何度も急に立ち上がり、さらには顔に血を上らせたら、当然……

「ち、違うんですっ! あれは私にとってはというだけでして、ご主じっ……あ、あれ?」

「クー!?」

 しどろもどろに口を動かしていたクーが、急にふらりと傾く。

 そのまま気を失って倒れ込んだクーをジュンタは受け止める。どこをどう見ても完全にのぼせ上がっていた。

「……クーの中では、やっぱりあれがファーストキスになってたのか。まぁ、俺としてもそうなんだけどさ」

 巫女の誓約云々でうやむやになっていたが、クーはずっと、息を分け与えるために唇を合わせたことを気にしていたらしい。黙っているつもりだったのに、勢いに任せてつい口を滑らせてしまったようだ。

 目を回す小さな少女を抱きかかえたまま、ジュンタもついつい、彼女の桃色の唇を気にしてしまう。いつもならそれが恥ずかしいのだが、むしろこの状態では、それ以外の場所に視線を注ぐことこそが間違っているので。

「う〜ん」

 ジュンタは唸る。

 気絶したクー。彼女は物の見事に全裸であり――

「…………俺が服を着せるのか、これ?」

 ――一緒に風呂に入ってたなんて知られるわけにもいかないので、本当にどうしようかね?

 


 

       ◇◆◇


 

 

 クーヴェルシェン・リアーシラミリィは、そよ風が頬を撫でる涼しさで眼を覚ました。

「ん、ん……」

 心地いい風だ。火照った身体にはちょうどいい。枕もとても柔らかくて、できることならこのまま二度寝に入りたいぐらいである。

 けれど、それはできない。記憶上にのぼせる前の出来事が鮮明に浮かんできて、視界の中の輪郭がきちんと結ばれた瞬間にクーは飛び起きた。

「ご、ごごごごめんなさい、ご主人様っ!」

 起きあがって即、ペコペコと頭を下げる。そこで自分が膝枕で眠らされていたことに気付き、さらには自分の浴衣が下着まで完璧に着せられていることに気が付いた。

 クーは顔をまたのぼせて倒れてしまいそうなぐらい沸騰させて、下げた顔をあげられなかった。

 お風呂場の中でジュンタの目の前で気絶しただけでは飽きたらず、まさか着替えをさせてしまうなんて。裸を見られたことよりも、自分の失態の方が顔から火が出るほどに恥ずかしい。

「す、すみませんでしたっ! 私ったら、ご主人様の手を患わせてしまって!」

 潤んだ目でクーは頭をあげて――そこでようやく、そこにいる人がジュンタではなく、メイド姿のユースであると気が付いた。

「あ、ユース……さん?」

「はい、そうです。すみません。クーヴェルシェン様の看病をさせていただいたのはジュンタ様ではなく、私です」

 その言葉で、クーは半分ほっとして、半分残念だと思った。
 そんな気持ちの後者の部分が顔に出たのか、正座していたユースは立ち上がった。

「ことがことでしたので、さすがにジュンタ様もご自分でクーヴェルシェン様に服を着せることは躊躇われたのでしょう。そこでこの部屋に私を呼ばれに来まして、私が服を着させていただいたのです。看病はジュンタ様がやろうとしていらっしゃったのですが……」

 ユースの視線はクーを挟んで向こう側へと向けられていた。
 そこで初めて、クーは部屋が食堂であると気付き、未だ大騒ぎが続いていることに気が付いた。

 どうやらさほど長い時間気絶していたわけではないらしい――後ろを振り返ったクーは、そこでリオンに絡まれてワインボトルを一気飲みさせられているジュンタを見つけた。

「……残念ながら、ジュンタ様はあの通りリオン様に捕まってお酒を飲ませられています。脱出は困難なので私が代わりに。ああ、ご安心を。お二方が一緒に温泉に入っていらしたことは、誰にも話していませんので」

「そうだったんですか。すみません、ご迷惑をおかけしてしまったようで」

「いえ。こちらのお手伝いも一段落していましたし、私はあまりお酒が得意ではないので。こうして避難する口実ができて、むしろ感謝したいくらいです」

 クーが寝かされていた場所は部屋の隅の方だった。床に直接正座したユースの膝の上で、扇子で扇がれていたようだ。ここなら、あの騒ぎで生まれた魔の手も届かないだろう。

「ですが、ご主人様大丈夫でしょうか? あまりお酒は飲みたくなかったようですが……」

「ご愁傷様としか私には言いようがありません。下手に助けに近付くと、哀れな子羊が増えるだけですので。ここはぐっと我慢しましょう。二日酔いのためのお薬は処方済みですので、その点だけはご安心を」

 ものすごい用意の良いことである。恐らくシストラバス家の宴というのは、大抵あんな感じに至るに違いない。今度はトーユーズによって清酒を口に突っ込まれたジュンタが心配だが、駆けつけたところで一撃で撃沈されてしまうのは想像にたやすい。

「……ご主人様には申し訳ありませんが、皆さんが酔いつぶれるのを待ってから介抱に向かった方がよさそうですね」

「その通りです。あの感じからすると、リオン様ももう少しで酔いつぶれるでしょうから。助けに入るのでしたら、その後がよろしいのかと」

「ふっ、甘いな」

 従者同士の会話に入り込んできたのは、姿無き声。いや、ただ小さすぎて視界に入らなかっただけの子猫の声だった。

「サネアツさん」

 宴の席から悠々と離れて歩いてきたサネアツに、ユースがしゃがみこんで両手を差し出す。サネアツはその手に乗って、ユースの腕の中に抱き上げられるように収まった。サネアツは、自分の場合は帽子の中がお気に入りのようだが、ユースの場合は腕の中らしい……胸の大きさなのだろうか、やはり。

「サネアツさん。甘いとは一体どういうことでしょうか?」

 クーが落ち込んでいる内に、ユースによってサネアツに質問が向けられる。
 サネアツはビシリと肉球を宴の席――口から清酒の瓶を外してもらえたジュンタを指差した。

「二人とも、ジュンタのポテンシャルを甘く見ている、と俺は言いたいのだよ。宴はもうすぐ終わる? 否、本当の宴がもうすぐ始まるのだ」

「どういうことですか? あ、ご主人様。そう言えばご自分では知らないようでしたが、酒癖が悪いって……」

「その通りだよ。あれはな、もはや酒癖が悪いという言葉では語り尽くせぬ酔い方をする。そろそろいい感じにジュンタも臨界点を超えたようだから、俺もこうして避難してきたというわけだ。今回は特に俺に何かあるという酔い方ではなさそうだがな」

「ジュンタ様が悪酔いをするのは分かりましたが、今回は、というのはどういうことでしょう? 酔い方が多数あるのですか?」

 その言い回しのおかしさに気付いたユースがサネアツに尋ねると、彼はどこか遠い目で語り始めた。宴の方では、何やら酔いつぶれたジュンタがテーブルに突っ伏している。

「あれは今から一年と半年ほど前のことだ。その頃俺とジュンタは同じ学校に通い、共に青春の汗を流し、勉学に健全な姿勢で励んでいたのだ」

「学校? ご主人様はどこかの学校に通っていらしたんですか?」

「まぁな。生憎と今回の本題はそこではないので、詳しい話はジュンタに直接訊くといい」

 クーにとって、ジュンタの昔のお話は何ものよりも勝るお話である。とても聞きたくてピクピク耳が動き、これより語られるサネアツの言葉に耳を澄ます。ユースも興味があるのか、サネアツの話に耳を傾けていた。

「ジュンタが初めて俺の前で本格的に、その酔い方の『おかしさ』を発揮したのは、二人ともに分かりやすく言えば祭りの前夜祭の日だな。そこで禁止されていたのにお酒なんぞを持ち込んだ一人の勇者の所為で、禁断の扉が開かれてしまったのだ」

「禁断の――

――扉ですか?」

 ゴクリ、とクーは息を呑んで、ユースも眼鏡の奥の翠眼を細める。

 その頃宴の席では、酔いつぶれてしまったジュンタを情けないと笑うリオンが、倒れた彼の頬をペチペチ叩いて起こそうとしているところだった。

「それまでにも、ジュンタがお酒を飲んで酔っぱらったことはあったのだがな、さすがに度数の高い酒の一気飲みなどという真似はしたことがなかったのだ。俺は急性アルコール中毒になったのかと心配し、倒れたジュンタを揺すり起こした……そう、ちょうど今のリオン・シストラバスのようにな」

 サネアツの視線に釣られて、クーとユースはリオンの方を見る。

 笑顔でジュンタの頬をプニプニ突いているリオン。きっととても気持ちいいに違いないとクーが思ったところで、ジュンタは眼を覚ましたようだった。

 眼を覚ましたジュンタは周りの状態を見渡して、自分の姿を見て、リオンを見て……それから小首を傾げる。

「起き上がったジュンタは、周りの状況を確認し、自分の姿を確認し、俺の姿――その時は軍人喫茶のために大佐の格好をしていた俺を見て、それから首を傾げたのだ。そして言った。……あの第一声は今でも忘れられない。まさか、あんなことを言われるとは思っていなかった」

「あんなこととは、一体どんな言葉をご主人様は言われたのですか?」

「耳を澄ましてみるがいい。きっと聞こえてくるはずだ」

 サネアツの促しに従って、クーもユースも宴の席の方に耳を傾ける。

 ラッシャは酔いつぶれ、ゴッゾとトーユーズもほろ酔い。盛大に酔っぱらって顔を赤くしたリオンが訝しげな顔をしているその前で、ジュンタは首を傾げながら言い放った。


「……………………俺は、誰だ?」


 自分はだぁれ、と。まるで記憶を失った人間のように。

「ど――どういうことですか、サネアツさん?! ご主人様、なんだかご自分のことが分からなくなってしまっているようなんですが!?」

「安心しろ。自分のことだけではなく、他の記憶も一時的に忘れている」

「それのどこに安心できる要素があるんですか! 嫌です。そんな、それってつまり、私たちのことも忘れられているってことじゃないですか!? こんなところで油を売っている暇はありません! 今行きますご主人様っ!!」

「それはまずい。泥沼になりかねない。ユース、確保を頼む」

「よく分かりませんが、サネアツさんがそういうのでしたら」

 涙目で駆け出そうとしたクーの身体を、ユースがいとも容易く羽交い締めにして取り押さえる。

「離してください、ユースさん! 後生ですから! 私、ご主人様が私のことを忘れてしまうなんて嫌です!」

「大丈夫だ、クーヴェルシェン。毎回酔っぱらう度にジュンタは記憶を失うが、酔いが覚めたときには必ず取り戻している。ほんの数刻の間だ。それよりも、ジュンタの酔いが次の段階に行くぞ」

 ジタバタとクーは暴れるが、肩へと乗ってきて安心するようにポンポン叩いてきたサネアツの言葉に、ひとまず暴れるのを止めてジュンタの様子を見る。

 あちらもジュンタの一言に酔いを吹っ飛ばしたリオンが、慌てているのが分かる。「私のことを忘れましたの!?」とか「実はジュンタ君、リオンちゃんの婚約者なのよ」「いやいや、実はすでに夫婦なんだ。新婚ホヤホヤだよ」とか言っている声が聞こえてくる。

「…………なるほど」

 ジュンタはその全ての言葉をよ〜く吟味したように頷くと、徐にリオンの肩を掴んだ。

「話の続きをしようか。あの時酔っぱらったジュンタの格好は、やはり軍人喫茶のために軍曹の格好だったのだ。軍曹と言っても分からないだろうから、こう言おう。つまるところ新兵の教育官だったわけだ。とてつもなく汚い言葉で罵る、な。
 眼を覚ましたジュンタは自分を含めて、自分を取り巻く全てを認識したのち立ち上がり、俺に対して見事な敬礼を決めつつこう言ったのだ
『大佐殿。ご迷惑をおかけして申し訳ございません。自分はもう大丈夫でありますので、すぐに新兵たちの教育に戻ります』、とな。つまりジュンタの酔い方とは――

 リオンの肩を掴んだジュンタが次の瞬間、何の戸惑いも照らいもなく、彼女を抱きしめた。

「うにぁっ!?」

 そして、いきなり抱きつかれたことにより、真っ赤になって目を白黒させるリオンの耳元で、そう囁いてみせた。

「ハニー、安心して欲しい。俺は愛する君のことを忘れたりなんかしないさ」

 ――時が止まった。

 囁かれて頬にキスされたリオンはもちろんのこと、至近距離でそんな臭すぎる言葉を聞いたゴッゾもトーユーズも、離れた場所から見ていたクーもユースも、本人であるジュンタとサネアツ以外の起きている全員が凍りついた。

 スーピースーピーというラッシャの寝息だけが、妙に大きく部屋に響く。

「どうしたんだい、ハニー? そんなに顔を真っ赤にして、さては愛する俺に惚れ直してるな?」

「ちょっ、あり得ませんわよ! 何なんですの、その歯が浮くような台詞は!? 誰が誰のハニーですのよ!?」

「もちろん、君が俺のハニーで、俺が君のダーリンさ。なに、恥ずかしがることはない。だって俺たちは新婚なんだからさ!」

「誰がいつあなたと結婚なんてしましたのよぉ――!?」

「照れるな照れるな、マイハニー! さぁ、踊って踊って踊り抜こうじゃないか。そしてその後に二人の寝室に行こう。今日は寝かせないよ。なんて、HAHAHAHAHAHA!」

 リオンが壊れたように叫ぶ。それも仕方ない。まさかジュンタにいきなり抱きしめられたあげく、耳元で愛の告白以上に甘ったるい囁きをされ、クルクルと踊らされたら、誰だってああなるに決まっている。

 クルクルクルクル。身体をぴったりとくっつけて、やけに美しくて激しいダンスをする二人。リオンの方は酔いもあって、すぐ目を回し出す。

「ふむ、なるほどな。今回は自分の格好が浴衣という、温泉宿では普遍的な格好だったから、外部情報による修正が大きくなったのか」

「サ、サネアツさん! ご主人様は一体どうなってしまわれたんですか!? 確かにご主人様はリオンさんのことが好きですが、あれはさすがにおかしすぎますっ!」

「私からも説明をお願いしたいです。でなければ、リオン様を助けに入るべきなのか判断がつきません」

 クーの叫びと、いつものクールフェイスを困惑顔へと変えてのユースの質問に、サネアツは頷く。呆気にとられてダンスを踊る二人を見ていたゴッゾとトーユーズも、何やらこの不可思議に過ぎる状況の答えが出るのだと察知して、近付いてきた。

「さて、ではジュンタの酔い方についての具体的な説明をしようではないか。
 ジュンタはある一定量のアルコールを摂取すると、まず気絶し、そして記憶をなくす。だが起きたときには、当然のことながら自分は誰か思い出そうとするわけだ。
 記憶がないため、ジュンタの判断材料となるのは自分の格好と周りの様子。あとは外部からの情報になってしまう。尚かつそこから判断される自分を、酔っぱらったジュンタは正しい『自分』であると認識してしまうのだ」

「つまりは、無理矢理に分からなくなった記憶の部分を、今の自分と外部情報から補完してしまうというわけだね。それを自分の中の自分像として自己解釈、納得し、その自分像のままの行動を始めてしまう」

「その通り、さすがはゴッゾ・シストラバス。それで、今回のジュンタの補完シチュエーションはこんなところだろう。
 自分の格好――自分は浴衣を着ている。つまりは温泉旅館にやってきた人間。
 周りの状況――お酒の席で、目の前には同じように浴衣を着た見目麗しい少女がいる。
 外部の情報――周りは自分たち二人を夫婦だという。しかも新婚ホヤホヤなのだとか。
 結論――自分は温泉旅館に新妻と一緒にやってきた。今は風呂上がりのお酒の席。愛するハニーが目の前にいるんだから、これはもう踊らないといけないだろう。よしっ、踊っちゃうぜ。朝までフィーバーだ! と、言ったところか」

『『…………』』

 さすがにあまりにおかしな酔い方に、皆が皆閉口してしまう。信じられない、というのが嘘偽りない気持ちである。

「ちなみに、前に軍曹の格好をして酔っぱらったときは、その場にいた俺以外のジャージ姿のクラスメイトを新兵と思い、地獄の海兵式教育が施された。見事なものだった。相手の弱みを的確に握り、集団心理を巧みに操ったあれは、もはや軽い催眠のようなものだったからな。
 明くる日の体育祭では、徹夜明けの軽い催眠状態のクラスメイトたちによって、まさに戦場さながらのバトルが繰り広げられたものだ。さらに次の日の文化祭で行われた軍人喫茶でも、店員が軍人になりきっていたために大流行だったのがいい思い出だ」

 懐かしいように語るサネアツの言葉に、皆真面目な話なのだと悟る。

「……つまり、今のジュンタ君はリオンちゃんを自分の新妻だと思っていて」

「踊りまくりで甘い言葉を囁きまくりで、最後にはベッドインしようと思っている」

「リオン様は半ば酔いつぶれ、抵抗できる気力はなし、と。これはもう完璧ですね」

「あれ? なんで皆さん、そんな『大歓迎』みたいな目をしていらっしゃるんですか?」

 トーユーズとゴッゾ、ユースが自分の分のお酒を持ってきて、お祝いの酒盛りを始めた。酔っぱらったジュンタを止めようと思う人間はいないらしい。

「えぇと、私も止めなくていいのでしょうか? サネアツさん」

「難しい質問だな。クーヴェルシェンが目の前のアレを止めたいのなら止めればいい。止めたくなければ止めないでいい。実際、新しいアルコール分を定期的に摂取させなければ、一時間ほどで機能停止する。それまでジュンタは新婚気分だがな」

 肩の上のサネアツが、実に愉しそうな笑みを浮かべる。

「酔っぱらったジュンタは天然の役者のようなものだ。与えられたのではなく自分で考えたわけだが、脚本を見てそれになりきる役者といえよう。あの新婚像はジュンタの思い描く新婚夫婦そのものの姿なのだ」

「あれがご主人様の……」

 クーは改めてジュンタとリオンを見る。

 リオンは完全に眼を回していて、ジュンタに抱き留められている。
 ジュンタは心底幸せそうな笑顔を浮かべながら、着崩れたリオンの浴衣を直してやっていた。

 確かに、そこにあったのは仲睦まじい新婚夫婦そのものだった。互いを愛し合った夫婦……それが一夜限りの幻でも、それでもあんな楽しそうな顔をしているジュンタを止めるなんてこと、クーにはできそうもなかった。

 ズキンと胸が痛む。……だけどそれは、きっと恋愛感情ではないのだろう。

(私はご主人様が好き。この世の誰よりも大切な人……だけど、きっとこれは恋愛感情ではないんでしょうね)

 愛しているよりも崇敬している。一緒にいたいというよりも、一緒にいないとどうしていいか分からなくなる。それはきっと愛ではなく、依存とか、そう言う風に呼ばれるべき感情なのだろう。

 無論、恋人や夫婦になれたなら、それ以上の幸せはない。だけど今、主と従者以上であり、以下であるそれは似つかわしくない。

「そうですね、ご主人様。私、もうちょっと強くならないといけないようです」

 まだまだ弱くて、自分に自信が持てない。自分の全てとはもう言えないけれど、それでも自分のほとんどがまだ、クーヴェルシェン・リアーシラミリィは嫌いだから。
 
 今ジュンタに捨てられたら、生きてはいけないだろう。
 今ジュンタにいなくなられたら、自分を保てないだろう。絶望してしまうだろう。

 依存せずにはいられない――今ある強さは、ジュンタという主と一緒だからこそ在る強さだ。

 それだけではいけないのだろう。それだけでは本当の強さとはいえないのだろう。
 だから――強くならなければ。少しずつでもいい。自分一人で立てる強さを、クーヴェルシェン・リアーシラミリィは手に入れなければならないのだろう。

「サネアツさん。ご主人様がもしリオン様と本当に結婚なされたら、私はどうなると思いますか?」

「どうにもならんさ。ある意味お前とジュンタは、すでに完成された関係だ。夫婦とは呼べない、恋人とも言えない、それは二人を見せて『こんな関係だ』というしかない二人だけの関係だろうな。だから、ジュンタがリオンと結ばれようが、誰と結ばれようが、お前の手の届かない場所にジュンタが行ってしまうことはあり得ない」

「そうですか……」

 いつか手に入れよう。一人で立てる強さを。一人で歩ける強さを。そうなっても、ジュンタと一緒に居続けることができるのなら、強くなるという変化を恐れることはない。

 今はまだ無理。今はまだ縋らないと立って歩けない。

 だからこそ、クーは思った。何よりも大切な、我が愛しき聖猊下――

「私はご主人様が大好きです。だから、ご主人様はリオンさんと幸せになって欲しいと、そう思います」

 笑顔を見せるジュンタを見て、はっきりとクーは告げた。それは誰に告げるでもない、自分への宣誓だった。

「そうか。では、もうクーヴェルシェンを仲間はずれにする意味はないでしょうな」

 止めないことを決定したクーの言葉を聞いたサネアツは、同じく聞いていたゴッゾたちへと流し目を向ける。

 ゴッゾは頷いて、クーの前へと移動する。

「クーヴェルシェン君。是非に君に提案したいのだが、我がシストラバス家の秘密騎士団――『恋愛推奨騎士団』に入らないかい?」

「『恋愛推奨騎士団』……それは一体、何を目的として動く騎士団なのですか?」

「モットーは、『愛の愛による愛のためのキューピット』――多くの恋人たちを影ながら支援し、応援する団体だ。そして今我らは、まさしく一組の男女が抱いている恋を応援している」

 誰と誰とは言わないその言葉の意味を、クーは間違えなかった。

「さぁ、どうするかい? 我々は君を迎え入れる準備ができているよ」

 そう言ってゴッゾに差し出された手の上には、白いモコモコした謎の被り物が乗っていた。それは長い二つの耳が愛らしい、ウサギの仮面に相違なかった。

 ――ここから先は、もはや語るまでもなく。今日この時こそ、『恋愛推奨騎士団』のウサギ仮面が生まれた日となったのだった。

「…………しかし残念だな。ジュンタの中の新婚像は、やはりジュンタの万年新婚気分の両親だったわけか。息子が両親の関係に男と女のことを考えているわけもなく、これでは本当に一緒に眠るだけに終わってしまうだろうな。ああ、世の中ままならないものだ」

 そんなことを呟いた存在がいたことを、大盛りあがりの祝杯の席では、ついぞ誰も耳に入れることは無かった。









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