考えても仕方のないことは後回しにして、リオンは大浴場へと来ていた。 と言うのも、クレオメルンとクーに一緒に入ろうと誘われたからである。 「よう」 シュタと手を挙げた先客の姿に、茫然自失となって立ち尽くすことになったのだった。 人間追い詰められなければ本気は出せないものなのだ。 そんなわけで――今回は自分の手で自分自身を極限の状態にまで追い込んでみました。 (ああ、肌に感じる。この寒気、この生存本能、全てが俺を本気へと導くためのスパイスさ。ちょっとやりすぎちゃった感は否めないけど) 露天風呂の入り口に背中を向け、入ってきた瞬間凍りついたリオンに手をあげつつ、ジュンタは冷や汗を垂らす。 ここは温泉。もちろんジュンタは全裸だった。 このシチュエーション的に、後から入ってきたリオンが悪いように見えるが、残念ながらこんな状況だと一方的に男が悪くなると古来から決まっている。加えて、この状況は自分の手で作り上げたもの。それに気付かれた時点でジ・エンドだ。 「…………あなた、一体何をしていますの?」 そしてリオンという少女はこういう時は察しが非常に良いので、すぐに気付かれてしまったよう。低く感情を抑えた声がとても恐い。 「よう、リオン。お前も風呂か?」 「白々しい。あなた、クーとクレオメルンさんに仕掛けさせましたわね?」 「やっぱバレるか。まぁな。二人にお前を露天風呂に呼んでもらったわけだ。二人とも、俺の頼みは断れなかったからな。怒らないでやってくれ」 「では、この怒りはあなたにぶつけることにいたしますわ。――さぁ、何が目的ですの? ことの次第によっては、半殺しで許して差し上げましてよ?」 笑いを堪えているようにも見える落ち着いた言葉は、怒りのあまりに声が平坦になっているだけだ。内心、きっと凄まじい怒りが込み上げていることだろう。 リオンは貴婦人であり、その裸身とは尊いもの。 ジュンタはゾクゾクするような殺意に背筋を震わせて、いざ、と手を下ろす。 「目的か。いうまでもないだろ? リオン、お前だって分かってるはずだ」 「っ! どういうことですのよ?」 「お前と誰にも邪魔されない場所で、二人っきりになりたかったってことだ。自分でも少しどうかと思う場所だけどな、ここなら誰にも邪魔される心配はないだろ……って、ちょい待て!」 どこか焦った風にリオンが息を呑んだと思ったら、彼女が転進して露天風呂より離脱を図る音が聞こえてきた。――あのリオン・シストラバスが逃げていた。 ジュンタは焦って、浴槽内で立ち上がる。その時にはすでにリオンは入り口の扉を開け放っており、目隠し用の布の向こうへと消えようとしていた。 リオンの手によって更衣室の戸が閉められようとする。まずい。入り口はクーとクレオメルンが見張っていて出られないようにしてくれているが、部屋に引きこもられたように更衣室に引きこもられたら目も当てられない。 しかし今更リオンの足には追いつけない。ジュンタは咄嗟に頭を動かして、浴槽内で立ったまま、リオンの足を絶対に止められる言葉を言い放った。 「――リオン。お前、逃げるのか?」 閉じられようとした扉が、僅かな隙間を残してピタリと止まる。 「まさかリオン・シストラバスともあろうものが、挑戦されたのに、尻尾を巻いて逃げるのか?」 それは、続くジュンタの『決してそんなことはあり得ない』という信頼が混じった声によって半分まで開かれた。 「……騙して誘い出したあげくこのような格好のまま、あなたは何を挑戦するといいますのよ?」 「もちろん、今のお前と二人一緒にいるっていう勝負への挑戦だ」 「ふんっ、そんなものが勝負であってたまりますか。私は部屋に戻らせていただきますわ。言っておきますけど、更衣室に入ってきましたら、一生あなたのことを覗き魔扱いさせていただきますので」 「そっか」 顔を見せないリオンの言葉に、ジュンタは決して真剣な顔を崩さず、真摯な言葉で返した。 「なら、そこから出てこなかったら、俺はリオンを一生軽蔑させてもらおうかな」 「んなっ!?」 感情の揺らぎが少なかったリオンの声が大幅に揺れる。 「ど、どうしてそうなりますのよっ?! あなた、頭がおかしいのではなくて!?」 「かも知れないな。だけど、生憎と俺の知ってるリオンって奴は、ここで逃げるような奴じゃないからな」 「逃げてなどいません!」 「逃げてるさ。俺には、さっきのお前が逃げてるようにしか見えなかった。今顔を見せずに反論してるお前も、やっぱり逃げてるようにしか見えない」 「い、言いたい放題言ってくれますわね――ッ!!」 「ああ。言いたいことしか言ってないよ」 ジュンタの知るリオンとは、例えそれが何であろうが挑まれたら決して逃げない。気にくわないことをされたら報復に走るような人間だ。 裸を見られかけた、しかもはめられて。そんな真似、リオンにとっては最高に怒りのポイントを突く行為だろう。裸だから逃げたとか、そういう問題じゃない。リオン・シストラバスならば、あそこで逆にこちらの意識を刈り取るぐらいはしたはずだ。 だから――――認めない。 無茶苦茶なのは自分でも分かっているが、更衣室に服を取りに戻るならまだしも、部屋に帰らせるなんてことできようはずもない。 ジュンタはここに全てをかけているのだ。追い込まれているのだ。形振りなんて構っていられないのだ。 「俺の知ってるリオンなら、ここで逃げたりはしない。堂々と胸を張って挑んでくるはずだ。それまで、俺はここで待つ」 一方的に挑戦を突きつけて、ジュンタは再び入り口に背中を向けてお湯の中へと身体を沈める。 (どうやら、最初の戦いは我慢比べのようだな) あそこまで言われて引き下がっていられるリオンではない。必ず来るに決まっている。それは惚れた相手だからこそ無条件に信じられる、絶対の信頼だった。それまでこの熱い温泉に浸かって待っているのが、つまりジュンタの一番最初のリオンとの戦い。 ◇◆◇ 再び戸が開かれたのは、それから十分ほど後のことだった。 山の向こうへと沈む夕陽を見つつ、温泉としてはそれなりに熱いお湯の中に居続けたジュンタの耳に、ピチャリと床に溜まった水を弾く音が届いた。 思わずジュンタは振り向きかけて、 「ふ、振り向きましたら、そこで人生終わらせますわよっ!」 鋭いリオンの一喝に、慌てて視線を空で固定した。 危ない危ない。緊張といい湯加減が相まって、ちょっと気が緩んでいたようだ。もしも振り向いていたら、本当に色々と終わりだった。 「いいですの。別に私はあなたの戯言を真に受けてやってきたわけではなく、温泉に入ろうとここまでやってきたのに、あなたという路上の石ころの所為で温泉に入れないことが許せないだけです。そこを誤解するのではありませんわよ?」 「ういっす。了解です、お嬢様」 「くっ、全然信じていない声ですわね」 かけ湯の場所まで足を向けたリオンは、そこで忌々しそうにぶつぶつと独り言を呟いている。声が小さくて聞こえないが、それが不平不満であることは明白だ。 「分かってますわね? ジュンタ。もしも私の方を見ましたら、その時点でその目をくり抜き釘を打ち、代わりにその辺りに転がっている石を詰めますから。無論のこと、あなた程度の人間を男扱いしてはいませんので、見られたところで何の問題もありませんけど」 「どっちなんだよ、それ」 「う、うるさいですわよ! あなたは黙って、私が入るまでそうして雲の数でも数えてるがいいですわ!」 それなりに勇気を出してやってきたらしいリオンは、少し余裕がなくなっているよう。 (相当信じられてないみたいだな。まぁ、これまでの行いを振り返ればしょうがないか) 初対面で裸を見て押し倒し、胸を揉んだ。他にもスカートの中を覗いたり、ノーブラの胸を凝視してしまったりと……いけない。そんな故意ではないラッキーな出来事の数々を思い出すと、否応なくすぐ近くに裸のリオンがいることを意識してしまう。……ついでにかなり追い詰められた状況で、すぐ隣に死が潜んでいることも自覚できた。 人間追い詰められると生存本能が研ぎ澄まされる。ジュンタの聴覚とかは敏感になって、リオンが身体を洗っている音が酷く生々しく聞こえてしまってしょうがなかった。 (なるほど、二度目の我慢はこれか。くそぅ、さっきの十倍は難易度が高いぞ) そんな嬉しいような苦しいような生殺し感を味わうことさらに十分。 長い髪も丹念に洗っているのか、それだけの時間を浴そうの中で待ったジュンタは、通算三十分以上もすでに温泉の湯に浸かっている。さらに緊張した場面の連続で、涼むのを合間に入れてもおらず、実は結構辛かった。 だが、それでも我慢した甲斐はあった。 最後に盛大にお湯を頭から被ったかのような音が聞こえると、背後でリオンが立ち上がった気配があった。 「ジュ、ジュンタ! 私も入りますから、目を瞑りなさい!」 「わ、分かった」 湯気が立ちこめているといっても、同じ浴槽内ではやはり相手の姿は分かってしまう。 「いいですの? 絶対に私がいいというまで、目を開けてはいけませんわよ?」 「分かってるって」 念を押すリオンに、やっぱり裸を見られるのは恥ずかしいのだとジュンタは素直に目を瞑る。煩悩が開けろ〜開けろ〜と囁いているが、浴槽の中にリオンが足を踏み入れる音がしても、決して開くような真似はしなかった。 リオンが足を入れたことにより立った波紋が、ジュンタの胸元をくすぐる。 「ぴぃっ!?」 そのとき、突如としてリオンが意味不明な叫び声をあげた。 「な、なんだ?」 「開けたら殺しますわよ!!」 思わず目を開きかけたジュンタは、即座に飛んできたリオンの勧告に反射的に目を瞑り直す。何という難易度の高さか。そして引っかけか。一体何を見て叫び声をあげたのだろうか? (ん? ちょっと待て? 今目を開けたらリオンの裸が見えるってことはつまり、リオンの方からも俺のことが見えるわけで……) 自分の頭上に意識を傾けると、そこにはタオルが乗っている感覚が。 …………つまり、現在自分は全裸なわけで……このお湯の透明度では完全に隠すのは…… 「おわっ!」 ゴクリ、とリオンが息を呑んだ音が聞こえた瞬間、ジュンタは自分の股間部分を頭の上から取り上げたタオルで隠した。 そこで何やら数メートル離れた正面に立っていたリオンの緊張が解けたようで。まさかの逆視姦に、ジュンタは閉じた目でリオンにジト目を向ける。 「人には見るなと言っておきながら、自分はそれか」 「なっ、あ、あなた目を開けてましたの!?」 「いや、視線で分かった。というか、今の自爆な」 「ぐ、にぃ……ふ、ふんっ! 隠さないあなたが悪いんですのよ!」 照れ隠しで思い切り肩までリオンがお湯に浸かった音がした。 「汚された。リオンに汚された」 「人聞きの悪いこといわないでいただけます? それとタオルをお湯の中に入れるのはマナー違反ですわ。さっさと出しなさい」 「お前はどこの痴女だ? 隠すのを止めたらまた見えるだろうが……っていうか、もしかしてまだ見たいのかお前は?」 「誰が痴女ですか!? 貞淑な貴婦人である私に向かって、何たる暴言! そして誰が…………ジュンタのなんて見たいわけがないでしょう?」 「今少し悩んだだろ、おい」 まったく、ようやく入ってきたかと思ったら一体どんなアホアホ発言なのか。マナー違反は重々承知だが、この状態でタオルを出せるはずがない。それはリオンだって同じだろうに…… 「待てよ。そういうからには、今リオンはお湯の中にタオルはつけてないのか?」 「当然でしょう? この神聖なる霊湯でマナー違反を犯すなんて、シストラバス家次期当主としてあるまじきことですわ。どのような状況であれ、私がこの場で温泉マナーを犯すことなどありえません」 当然だという口調で言い切ったリオンの潔さに、ジュンタは呆気にとられる。 しかし本当に呆気にとられる潔いリオンの発言は、次だった。 「ですから、あなたもさっさとタオルをお湯から出しなさい。それと、もう目を開けてもよろしいですわよ」 「え?」 という驚きのままに、先程から開けたい開けたいと訴えていた瞼をジュンタは開いてしまった。 やばいと思っても、一度開いた瞳は、一緒にお湯の中に浸かる少女の姿求めて彷徨ってしまう。再度閉じるなんて論外だ。 しかし何て潔いのかリオン・シストラバス。このお湯の透明さを理解しつつも、タオル無しで目を開けていいというなんて。これは潔いというよりも馬鹿とか、実は緊張のあまり前後不覚になって、口の辺りがリオンの意志とは独立して動いているのではなかろうか? …………まぁ、そんなことあるはずもないのであったが。 「あら、何ですのその残念そうな顔は。もしかして、私の尊き身体をあなた程度の庶民が見られるとでも思ってまして?」 心底がっかりという顔で真正面を見たジュンタの視界に、悪戯っ子のような顔で笑うリオンの顔があった。顔はあった、というのが正しいかも知れない。 もちろん顔があり首があるなら、その下には胴体があることだろう。しかしながらリオンの魅惑の身体は、首より下が完全にお湯の中へと消えていて、完全に見えなくなってしまっていた。 つまりどういうことかというと――先程まで透明だったお湯が見事な白濁湯と化していた。 「なんだ、これ? どうしてお湯が白濁してるんだ?」 「ふふっ、ジュンタは知らなかったようですけど、この『不死鳥の湯』には魔法がかけられていて、好みによってお湯の性質を変えられますのよ。何度入っても飽きさせない、まさに『始祖姫』様の技巧と知恵の勝利というわけですわ」 「な、何でもありか、この温泉……」 ゴッゾも語っていたが、かの魔法の開祖メロディア・ホワイトグレイルが魔法をかけたこの温泉は、一種のビックリ箱のようなものなのである。 魔法障壁を張ったりしたのは実際に見たが、まさかお湯の性質まで変えられるとは。リオンは身体を隠すためにお湯を透明から白濁湯へと変えたのだろう。完全に真っ白に染まったお湯は、お湯の下にある全てのものを完全に見えなくしてしまっている。 メロディア・ホワイトグレイル――古の使徒を、ジュンタが本気で憎んだ瞬間だった。 「なんてことを。……リオン、お前最低だな。心底がっかりだよ」 もしも自分の立場にラッシャがいたなら、この時点で死んでいたに違いない。 もちろん男の繊細な気持ちなど分かろうはずもなく、頬を染めたリオンはツンと澄ました顔を崩さない。 「まったく、破廉恥ですわね。これならば、あなたのいやらしい視線を感じることなく入っていられますもの。一緒に入りたいと言ったのはジュンタの方でしてよ? 感謝こそされ、最低扱いされる謂われはありませんわ」 「それならそうと最初に言えばいいものを。俺の身体を凝視する前にこれをやってたなら、まぁ許せたんだけどな」 「ぎょ、凝視などしていませんわ! ちょっと見えてしまっただけです! その時にはすでにお湯はこの状態でしたもの!!」 「うん。完全に矛盾してる自分の発言を顧みような」 お湯を白濁させる機能は浴槽の中にあったらしく、間違いなく白濁湯化したのはリオンが浴槽内に足を踏み入れた以降のことだろう。それに当初のリオンの悲鳴は、見えてはいけないものを見てしまったためのものである。もう、お嫁に行けない。 「しかし……」 自分の発言の矛盾点に気付き、頬を染めて視線をチラチラ寄越してくるリオンを見ながら、ジュンタはタオルを絞って頭の上に乗せ直す。 (目の前に裸のリオンがいることには変わりないこの状況、ここに来てさらに難易度アップですか?) リオンはいつも付けているリボンを取り、髪をツインテールに結び、それをわっかの形にしてゴムで止め、髪がお湯に浸からないようにしていた。大抵ストレートに髪を下ろしていることが多いリオンだから、その髪型の変化はこう、新鮮さがある。 これで本当に潔く透明な湯の中で向かい合っていたなら、話どころではなく、きっと速攻でのぼせていたことだろう。そうなればリオンにさらなる辱めを受けるのは必至だ。メロディアグッジョブ。今日という日でなければ呪っていたが、今日だけはあなたグッジョブ。 「ちょっと、ジュンタ。例え見えないといっても、そうぎらついた野良犬のような浅ましい目つきで見ないでいただけます? 不躾にも程がありましてよ」 「と、それもそうだな。悪い」 ジュンタは浴槽の端に、リオンは真ん中という感じで少し離れて向かい合っていると、どちらともなく声をなくす。 そうやって静かにお湯の温かさだけに触れていると、こうして男女で混浴している事実のおかしさに気付かずにはいられない。きっとこれ以上に二人っきりの時間が過ごせる瞬間は他にないと、そうジュンタが確信するのも容易いことだった。 だから――これ以上の沈黙ほど、もったいないものはない。 「リオ――」 「そういえばあなた、『不死鳥の祠』に行ったようですわね。どうでしたの?」 名前を呼ぼうとした声に被さって、少し早口のリオンの声がぶつけられる。 「……そうだな。何というか、不思議な場所だったな」 タイミングが悪いとは思いつつも、ジュンタは尋ねられた質問に答えた。 「綺麗だったし、そこに伝わる逸話も聞いた。けど、それだけじゃない何かをあの場所からは感じた」 「あら、逸話を知ってましたのね。『騎士の祠』のことを知らなかったようですから、てっきりに知らないものとばかり思ってましたわ」 「いや、実際に向こうに着くまで知らなかったけど、ちょうど通りかかった観光客の人が教えてくれたんだよ。ラバス村の『神衣を纏った者』――シストとナレイアラの伝説の逸話をな」 「そうですの。まぁ、どこまでその観光客が話を知っていたかは知りませんけど、少なくともシストラバス家は、このラバス村のナレイアラ様が我が家の開祖である使徒ナレイアラ様だと考えていますわ。ところで、『騎士の祠』の中で何か悪さはしてないでしょうね?」 「おいおい。どういう意味だよ、それは?」 「クレオメルンさんにいやらしいことをしていないか、ということですわ。あなたのことですもの。雰囲気がいいからといって、変なことをした可能性は大ですわ。 視線をまっすぐ突きつけ、まるで責めるような口振りでリオンはジュンタに忠告する。 「そもそも、あなたは色々な女性に色目を使いすぎですわ。どうせ『騎士の祠』で出会ったという人も女性なのでしょう? 本当に、大概にして欲しいものですわね」 「むっ」 その嫌な気分は、すぐに苛立ちに取って代わる。 眼鏡のない、カラーコンタクトだけの瞳を細め、今度はジュンタの方がリオンを責めるような目つきで見る番だった。 「別に誰も色目なんて使ってないだろ? クレオメルンとだって何かあったってわけじゃないし、説明してくれた人は確かに女の人だったけど、本当に偶然に会って説明してくれただけだ。変な邪推は止めろよな」 「邪推とはなんですのよ、邪推とは。私はただジュンタの女性を見る目が、傍目からはそんな風に見えると言っただけですわ」 「それは俺の方が悪いというより、リオンの目にフィルターがかかってるんだよ。確かに俺は男だから、女の人に目が行くことはある。けど、それでも色目を使ったことはない。本当に好きな奴以外にはな」 そう言って、ジュンタはじっとリオンに視線を向ける。 ある意味それこそが色目というべきもの。 「そ、そう言えばあなた、クレオメルンさんに一体何を頼むつもりです?」 「……リオン?」 「確かに騎士として、犯した罪に対する償いは重要なことですわ。ですけど、たとえ罪滅ぼしとはいえ、無理難題を押しつけたりしたらこの私が許しませんわよ」 「…………」 あからさまに急変した話題に、ジュンタはなるほどと理解した。 先程、いざ話をしようと口を開いたとき、タイミング悪くもリオンから話が振られたのは偶然ではなかったということか。 (どうやら、朝のことで気持ちがバレてるっぽいな) 鋭いようで鈍く、鈍いようで鋭いリオンであるが、朝の誘いによってこちらの気持ちにはある程度予測がついているようだった。先程からいい雰囲気になると場を濁そうとするのは、つまり決定的な言葉を言わせないようにと思っているからか。 それはある種の興味ない発言であるわけだが、すでに追い詰められたるジュンタには通じない。 「クレオメルンに頼んだのは、この状況を作ってくれることだ。それで帳消し。渋々ながらもそれで認めてもらった」 「そうですの。まったく、私を誘い出そうとして一体何を――」 そこまで口にしたリオンは一度言葉を止め、 「まぁ、別に何でもいいですわね。そういえば、こんな話を聞きましたの」 また違う話題へと変える。 それが誤魔化しであることは重々承知の上で、ジュンタは律儀にリオンの話に乗る。そう、やっぱりタイミングというものは重要なのだ。 ◇◆◇ 指先がふやけてきた辺りで、ふいにリオンが思ったことは、今どれくらいの時間温泉に入っているのか、ということだった。 (二十分? いえ、三十分ぐらいかしら?) いつの間にか太陽は完全に山の向こうへ消え、辺りは暗闇に代わり、澄んだ空には星々が輝きはじめている。 温泉を照らす月明かりは明るく、どうして自分はこんなどうでもいいことを話しているのかと、リオンは馬鹿らしくなってきて口を噤んでしまった。 ひっきりなしに、舌が乾く暇もなく話し続けていたが、それは所謂どうでもいい話――温泉にジュンタと一緒に入ってまで話したいことではなかった。 確かに騙されて入ったこの温泉だが、折角入ったのだから、もっと話す話題としてふさわしいことはあるはずなのだ。忌まわしいが、誰かに邪魔される心配もここならばない。前々からこっそり聞きたいと思っていた、ジュンタの過去だって何の気兼ねもなく聞けるのに、 「そこでお父様は、公共事業のための人手を集い、不況を乗り切ったというわけですわ」 それでも再び開いた口から出るのは、今話さなくても構わない、どうでもいい話の続き。 ドキドキするけど、少しは楽しいシチュエーションなのに、恐いだけで全然楽しくない。 「なるほど。さすがはゴッゾさんだな。大胆不敵というか、普通なら尻込みするような事業をそうもあっさりとやり遂げるなんて」 「そうでしょうとも。お父様はとても凄いのですわよ。なんでも、我が家には昔負債があったという話ですけど、ご覧の通り、お父様の手腕でグラスベルト王国でも一位二位を争う大富豪ですわ」 「歴史ある家にお金までついたら、そりゃ始末に悪いだろうな。まぁ、次代が次代だし、これでいいのか」 「それどういう意味ですの? 私、上級学校では首席でしたのよ?」 「いやぁ、学校か。リオンの同級生の温かな見送りの笑顔が思い浮かぶな」 「それ、ほんとどういう意味ですのよ!」 全く失礼な輩である。通っていたレンジャールの上級学校では、他の追随を許さぬ実力をもって首席を取ったというのに。しかも飛び級しての卒業である。もっとすごいと褒めてくれてもいいではないか。 それに人のことを一体どう思っているのか。温かな笑顔で惜しまれつつ見送られたのは事実だが、ニュアンス的にジュンタのは百八十度それとは違う意味だろう。 「まったくもって不愉快ですわ。ジュンタは一体、私のことをどんな人間だと思ってますのよ」 「かわいい女の子だけど」 「ならば、相応の言い方というものがありますで………………しょう。あなたの言い方ではまるで、私が厄介払いされたように卒業したみたいではありませんのよ」 そう、まったくもってコノヤロウ。さらりと危険な一言を入れてくれてどうしてくれましょうか。反応がもう少し早く出たら、完全に舌を噛んでいたのは間違いなく、上手くスルーしなければ今までの無駄な会話の意味がなくなってしまうではないか。 内心でジュンタに百発ほどビンタを叩きこむことで、リオンは表面上取り繕うことに成功した。いや、顔がものすごく熱いが、これはお湯の所為である。絶対に。 (ば、ばばば馬鹿ではありませんの。だ、だだだ誰がかわいい女の子ですのよ。私ですわ。そんなこと百も承知ですわよ!) リオンは弛みそうになる頬を、お湯の下で太股をつねることで必死に堪える。 そんなリオンを見たジュンタが、楽しそうに笑った。 「本当に、お前って見ていて退屈しないよな。一体どんな育ち方すれば、そんなにおもしろく育つんだ?」 「……そう、それがあなたの戦略でしたのね」 かわいいといきなり言い出したかと思えば、次にはこれだ。 おもしろいとは何事か。到底騎士姫たるリオン・シストラバスに向ける言葉ではない。きっと先程のかわいいという発言は、このダメージを増大させるためのフェイクに違いない。敵ながらあっぱれというしかない。 「あ、ちなみにかわいいと思ったのは正直な気持ちな」 「あなた私に喧嘩売ってますのッ!!」 あまりにこちらを翻弄するジュンタの攻撃に、ついに堪えきれなくなったリオンは近くに置いておいたタオルを思い切り投げつけた。 それは軽く避けられて入り口の方へと飛んでいってしまう。別に構わない。タオルが当たった程度で、この怒りが収まることはない。 「ふ、ふふっ、一体何を企んでいると身構えてましたら、そうですの。私を言葉巧みに弄んでますのね」 「いや、俺は一言も嘘や冗談の類は言ってないけど? 全部俺の本音だ」 笑顔を見せるジュンタ。それはつまりかわいいと言ってくれたのは本音だとそういうことで……だ、騙されてはいけない。こんな気持ちにさせることこそ、ジュンタという悪漢の狙いなのだ。 (落ち着きなさい。落ち着くのですわ、リオン・シストラバス。別にかわいいなどと言われることなど日常茶飯事ではありませんの。そうですわ、何も動揺する必要などないというもの) 甘い。誉れ高き不死鳥の系譜であるリオン・シストラバスが、そのような見え透いた策謀に騙されるわけがない。大きく深く深呼吸を数回すれば、もう動悸におかしな部分はない。ジュンタといつも面を会わせているときの、あのこそばゆい鼓動しか刻んでいない。 (って、それがダメなのではありませんの!) 考えれば考えるほど泥沼に嵌っていく気がして、リオンは落ち着きのない赤面顔のままジュンタを睨む。もう睨むしかなかった。 (く、屈辱ですわ。私ともあろうものが、ジュンタのような不埒者の言動一つでいいように操られるなんて。屈辱のあまり死にそうですわ!) 睨まれていることを何とも思っていない涼しい顔でジュンタは見つめ返してくる。リオンは根負けして視線を横へと逸らし、そこで視線も鋭く、ゆらめく憤怒を背負う。 (そう、そもそもジュンタは、いつでもどんなときでも私を苦しめてばかりですわね) いつのまにか当然のように視界に入り込んでいた侵略者――ジュンタ・サクラ。 初対面では裸を見られて胸を揉まれ、さらには数々の屈辱と羞恥を与えられたリオン・シストラバスの怨敵といっても過言ではない男。 (分かってますの? この私に友人として見られるなんて、それがどれほどの奇跡か……それなのに、いつもいつでも嫌がらせのように私の前で他の女といちゃいちゃと……!) いや、友人とは言っても底辺も底辺だ。 そもそもジュンタは不埒者で無礼者。その癖女性との接点が多く、関わり合いになることも多い。クーは一応仕方ないとしても、屋敷に遊びにきたので顔を見せに行ってあげたらメイドと仲良くしているし、お店に遊びに行ってあげたならウェイトレスと仲良くしている。 まったく何様だというのか。貴き身分の自分が慈しみの心で遊びにいってあげたのだから、床にひれ伏して感謝するのが当然というかせめて優しくして欲しい。 …………思い出したらムカムカしてきた。 (そうですわ。どうしてこの私があなたのことでこんなに頭を悩ませないといけませんのよ。普通反対でしょうに。あなたが私のご機嫌をとり、優しくするべきですわそうですわ!) 再びジュンタに向いたリオンのぎらついた視線は、加速度的に鋭くなっていく。 (一体全体私を誰だと思ってますのよ。世界に名を轟かす竜滅姫――リオン・シストラバス様ですのよ? あなたのような一般庶民では、本当は話すことすら奇跡に等しい所行だということがどうして理解できませんの) いつだって、リオンという少女は誰からも敬われる少女だった。 その貴き血筋と振る舞いには誰もが魅了され、心からの敬意をもって接するのだ。同年代、年上問わず、それはあまりに貴いが故に当然の反応だった。 リオンとしても、竜滅姫として生きることを決意したあの日から、その態度こそが周りに対する当然の求めであり、自尊心を満足させるということとは別次元で当たり前と思っていた。 (だというのに、あなたという人は……) なのにジュンタという人間は貴族でもない癖に、最初からタメ口で呆れ眼がデフォルトだ。 あり得ない。それは絶対にあり得ないことだった。お馬鹿さんな貴族では不敬だと言って投獄するぐらいの行為だ。しかも相手が竜滅姫だなんて、度胸があるのを通り越して馬鹿。大馬鹿だ。尊敬すらできるほどの大馬鹿者だ。 しかしジュンタは大馬鹿者なだけではなく、タチも悪かった。 それはいわば麻薬と同じだ。一緒にいると安心して、けどいないと不安に思えてくる。……なんてタチが悪いのか。気を付けなければ、行き着く先はアレである。ああなったらもうお終いだ。いないと生きていけないなんて、ダメダメもいいところである。 だから…………もう、終わりにしないといけないのかも知れない。 区切りをつけて、ピリオドをつけて、これ以上は心に踏み入れさせないようにしなければ、本当にいつか心の一番奥の大切な部分に居座られてしまう。それは過去を冒涜する行為であり、血の責務への反逆だ。 「ジュンタ」 ――そして何より、あの日の真剣な告白に対する、侮辱と裏切りに他ならない。 気が付けばリオンはとげとげしていた視線を真剣なものに変えてジュンタを見ていた。 笑みを作っていたジュンタの顔から、愉快という感情が消え、真剣という感情が宿る。 『――――俺は、リオンのことが好きだよ――』 それは簡潔な、たった一言だけの言葉。だけどそこには万感の想いがこもっていて、まっすぐに向けられた視線と共に、リオン・シストラバスの心を串刺しにしたのだ。 純真な想いを贈られた。それが、リオンが生まれて初めて受けた愛の告白―― 嬉しかった。その想いには応えられなかったけれど、それでも嬉しかったのだ。 ジュンタはいなくなってしまうかも知れない旅人で、これより先の決定的な言葉は別れを促してしまうかも知れない。だから恐くて苦しいけど、こんなぬるま湯みたいな時間を続けたいと思った。想いを知って、受け取れないと決めて、それでも続けようと思ってしまった。 それが裏切りだったのだと、それが想いを汚す行為だったのだと、今気が付いた。――なら、高潔でありたいと願うなら、ジュンタが好きになってくれたリオン・シストラバスでありたいと思うなら、もうこれ以上続けてはいけない。 (終わりにしましょう、全てを。それが私にとっても、ジュンタにとっても、誰にとってもいいことですもの) 今度こそジュンタの想いに終わりを告げさせるのだ。 「――ジュンタは、私を嫌っていますの?」 そんなことはない。と、ジュンタの気持ちを察しながら、リオンは問う。 これまで避けていた感情を促すように。全ての感情を終わらせるために…… ああ、ダメなんだ――と、告白をする前に否応なく気が付かされた。 これまで頑なに話題を誤魔化していたリオンが何やら考え込み始め、答えは出たといわんばかりに纏っていた空気を変え、真剣な言葉で『私が嫌いか?』と質問を口にしたとき、ジュンタは自分の恋が報われないと気が付いてしまった。 リオンの真剣な眼差しは静かに決意に燃え、そして明確にとある現実を物語っていた。 何というか…………自分は本当に、縁結びの神様に嫌われているんじゃないかと思う。 最初から最後まで、完膚無きまでに実らない恋だった……なんて、素直に認めて諦められないぐらい好きだったから、これは普通にショックだった。 こんな絶対に断られるのが分かっているタイミングで告白するなんて馬鹿げている。 「――何言ってるんだ、そんなはずないだろ?」 だけど、嫌いかなんて惚れた相手に聞かれたら、嫌いじゃないと言うしかないじゃないか。 ……本当に、酷い。いつかもそうだったように、その言葉は最悪の促し方だ。 「俺がお前を嫌いなはずがない。だって、俺は」 まっすぐに決意を向けられて、その高潔な魂を映す真摯な眼差しで射抜かれたら、もう言わないという選択肢はありえない。やはりあの時がそうであったように、叶わないという結末が用意された上で、自分の想いをはっきりと教えるためだけに伝えないといけない。 「俺は……」 それはなんて空しくて純粋な、リオンが求め、リオンへと捧げる愛の告白なのか。 (少しぐらい夢を見させてくれたって罰は当たらないだろうに……ほんと、我が儘な奴) 逸らすことの許されない瞳を見返して、ジュンタは苦笑のまま、ずっと胸の奥に溜めていた想いの丈を発する準備をする。 さぁ、それでは今日という日の決意をここに形にしよう。何てことはない―― 「リオン。俺は、お前のことが――」 ――例えどんな結末でも、リオンを好きになれて、その高潔な意志に応えられた自分は、きっと少しだけ格好いい。 魔法はいつか解けるものなのか、先程まで白濁していたお湯は元の透明なものへと変わっていた。 目隠しのための白が透明に戻ったら慌てなければいけないのだが、それはさっきまでのこと。 「…………分かっていたが、これはちょっと。いや、だいぶ前よりも……」 リオンはタオルを投げてなくしてしまったために、出て行くときに目を逸らしておかなければならなかった。ジュンタは空を見上げることによってリオンから視線を逸らした。彼女がいなくなったあとも、そのままぼんやりと夜空を見上げていた。 もう一時間近くお湯に浸かっているためかなり熱いが、それが気にならないくらいの激情が込み上げてくる。 いけない。あまりに空が綺麗だから、ついつい感動して涙が出てきてしまいそうだ――ジュンタはいつのまにかお湯の中に落ちていたタオルを拾うと、しぼらずに自身の目の上に覆い被さるように置いた。 視界が夜の黒から、まっくらな黒に変わる。少しだけ滲んでいる気がするのは、うん、気のせいに違いない。 「……………………恋愛って難しい」 さて、そろそろお風呂から上がらないといけないわけだが、もうちょっとだけ入っていることにしよう。
第七話 湯煙温泉伝説(騎士編)
きっと部屋に引きこもっている自分を心配してくれたのだろう。その心遣いを裏切るわけにもいくまい。
皆が食事をしている今なら気兼ねなく入れるし、リオンとしても悩みを綺麗さっぱり流したいところだった。一緒に更衣室までやってきた二人は、着替えを忘れたといったん取りに戻っている。
すでに服を脱いでしまっているので、このままでは風邪を引いてしまうと、リオンはバスタオルを巻いて先に温泉に入ろうとして……
そう、つまり自分に足りなかったのはそれ。日常茶飯事のこととしてトラブルに巻き込まれていたために、並大抵のことでは追い詰められず本気になれないのである。
振り向いていないから分からないが、リオンもまた当然全裸だろう。
こちらを男として見てくれているということなので嬉しいが、もし顔の向きが入り口の方に向いていたなら、今頃リオンが片時も離さない剣によって真っ二つである。
それは想定外だと言わんばかりに、ちょこっと勢いで扉が開いた。
パシャパシャとかけ湯をし、それからマナーとして身体を洗おうとしているが、その動きがぎこちないのは見なくても分かる。頻繁に視線を後頭部に感じるし。
透明な湯だ。クーとの時のように背中合わせでない限り、視界のどこかに肌色は見えてしまうこと請け合いである。
これはもう、見られてしまったのは確定だろう。屈折で細部まで見られなかったのを祈るしかないが、リオンは無駄に目が優れているので無意味な祈りに近い。
それほどまでにこの裏切りは許し難いものであり、失望を感じさせるものであった。
加えて、白濁湯で首から下が見えないといっても、桃色に早くも色づき始めた白いうなじは、その下の肌を連想させる色香を放っている。何とも直視しずらい光景だった。
いいですこと。クレオメルンさんは、使徒ズィール聖猊下の一人娘。『聖君』と呼ばれる、ジュンタとは地位のまったく違う別世界の人間ですの。くれぐれも、おかしな感情は抱かないようにしていただきたいものですわ」
言われるまでもないことを言われたことに腹は立たなかったが、地位の違う相手におかしな感情を抱くなという言葉が、まるでリオン相手のもののように聞こえてジュンタには嫌だった。
リオンは察知したのか、不機嫌そうな表情を困ったものに変え、あからさまに視線を背けた。
後がない。それはつまり悩む暇も落ち込む暇もなく、最終地点まで突き進むしかないということであるからして。……タチが悪いな。ストーカーの思考っぽい。
だんだんと苛立ちすら込み上げてくる。他でもない、こうして世間話に興じなければいけなくさせるジュンタという少年に。
しかしそれなりにいいところもあるし、褒められるべき美点もある。取りあえず、友人としてぐらいは思ってあげてもいいかも知れない。千歩ぐらい譲って。
いつの間にか日常に侵蝕してきて、巻き込んできた。当たり前を壊した癖に、壊れたあとのことを当たり前に変えて、ズカズカと心の中に入り込んできた。隙を見せたら最後、奴は瞬く間に侵入してくる。
先程から故意に破っていた空気が場に張りつめ、否応なくこの先の展開をリオンに予想させる。
だから裏切ってはいけない。その綺麗な気持ちを汚してはいけない。汚したくない……そう思っていた。
それがどれだけ惨くても、自分の中に消失をもたらそうとも、それだけが皆が幸せになれる方法と信じて――
リオンはそう信じたがために、あの夜の言葉を思い出す。
リオンへの恋愛感情に自覚した時点で、彼女に剣に誓って好きではないと宣言され、がんばってアピールすれば空回りして不機嫌にさせ、いざ決意すれば感情に気付かれ拒否の姿勢を取られて、あまつさえ告白しようと思ったら断りの体勢を構えられている。
どうせここで断られてもすっぱりと諦めきれないのだから、区切りをつけるという意味もない。振られ損というわけだ。
◇◆◇
――星がとても綺麗だった。
見えたらまずい相手がいなくなった一人っきりの浴槽では、何の問題も存在していなかった。