第八話  決意の残照


 

 温泉旅行四日目もまた恵まれた陽気となった。
 燦々と輝く日差しは少し強く、これから本格的にやってくる夏を予感させて、まさに外へと出かけるのには最適な天気だ。

 しかし生憎と『不死鳥の湯』に泊まるメンバーのほとんどは、もうすぐ昼となるのに外へと出たりはしていない。部屋にもおらず、皆どこにいるのか不明という状況になっていた。

 さもありなん。昨夜二人の少年少女の間にあった出来事は、二人以外にも大きな意味を持っていたのだ。

 ジュンタのリオンへの告白と玉砕はすぐに『恋愛推奨騎士団』の知るところとなったし、当事者二人は朝から姿が見えない。まるでかくれんぼでもしているかのように、どこかに出かけたっきり一度も姿を見せなかった。

「由々しき事態だ」

 事態の収拾に乗り出したのは、当然のことながら鳥仮面率いる愛のキューピットたち。『不死鳥の湯』の秘密の部屋にて、もはや恒例になりつつある臨時会議を『恋愛推奨騎士団』は開いていた。

「まさか、ジュンタ君が使徒であることをばらさずに告白をしてしまうとは」

「場のムードが高まりすぎたのが敗因だったのかも知れません」

 鳥仮面の苦渋に満ちたうなり声に、猫仮面は淡々と答える。

 昨夜の告白劇においてのジュンタの敗因はそれだった。というか、それが九割近いリオンに再度振られてしまった原因である。使徒である事実を伝えずして、告白の成功はあり得ない。

 言ってしまえば、使徒であることを教えていない状態でリオンにアプローチをかけるのは、夫のいる夫人にアプローチをかけるのと同じことなのだ。

 生まれながらにして竜滅姫の血を残すにふさわしい相手を連れ合いと定めているリオンは、初めから結婚相手を選んでいるようなもの。例え条件に反する他の男に心奪われたとしても、あの性格だ。決してその誘いに乗るようなことはしないだろう。誘いに乗るくらいなら、自分の感情を捨てる道を選ぶ人間だ、彼女は。

 だからジュンタは、その連れ合いの枠の中に入ることでしか、リオンとは結ばれることが叶わなかったというのに……

「やはり、ジュンタ君にはリオンの恋愛観を伝えておくべきだったか」

「恋愛で手一杯の現状。自分で気付けというのは酷な話ですからな」

 成功の方法を知らずに思いの丈をぶつけた結果、ジュンタはリオンに玉砕した。

 よしんば、あまりの想い故にリオンを振り向かせることは可能かも知れないが、それにはリオンが責務を胸に懐いて生きてきた年数の、せめて半分近くは時間をかける必要があろう。リオンを振り向かせることはつまり、彼女に過去全てを捨てさせると同義だ。

(ある意味これは、リオン様があの女から受け取った呪いのようなものでしょうか)

 血に背くのなら自分の想いすら否定する――主であるリオンの真っ直ぐさに、狐仮面は被り物の下で小さく溜息を吐く。

「とにかく、告白してしまったものはしょうがないね。猫仮面、ジュンタ君はこのままリオンのことを諦めてしまうと思うかい?」

「難しい質問です。振られたからといって、そう簡単に想いを捨てられはしないでしょう。しかし、それでも諦める方向にジュンタが自分の想いを持っていく可能性はある。好きなままだとしても、二度振られている現状、当分告白はしないかと思われます」

「それは仕方がないだろうね。せめてリオンのことを諦めないでいてくれれば、他にいくらでもやりようはある。……この展開はつまり、私に対する挑戦と受け取っていいんだね?」

 誰にいうでもなくそう告げて、両肘をテーブルにつけて鳥仮面はククククッと笑い声を立てる。この辺り、リオンと親子であることが分かる瞬間である。

「カトレーユからこの仮面を託されてから十年、これほどの屈辱と心躍る展開は初めてだよ。これはもう、あれだ。『恋愛推奨騎士団』の団長として、これはもう戦争を仕掛けろということで間違いないね?」

「聖戦ですか。混浴を超えるシチュエーションとなれば、あれですかな?」

「そう、あれだ。我々は一つ大事なことを見落としていた。今回の作戦名――『湯煙☆ドッキリ大作戦! 〜既成事実に持ち込めば勝利〜』の、既成事実の部分をね」

 ノリと勢いで決めた作戦名が、ここに来ていきなりの台頭である。

 相当自分の計画通りに運ばなかったことに、鳥仮面は悔しい思いをしたらしい。傑物とまでいわれた実業家である彼だから、しょうがないことかも知れない。
 計画がいい方に潰れるのは構わないだろうが、今回は完璧にダメな方向に潰れている。いよいよ娘の貞操すらかけた一大決戦を仕掛けようとしているのも無理はないのか。

「結婚するまで純潔を守る? そんなのクソ食らえさ。既成事実から始まる恋愛があってもおかしくないと思わないかい?」

「然り、然り。思いますとも」

 鳥仮面の決意に便乗しているのは猫仮面だけで、猿仮面は何気に友人が一人だけ幸せにならなかったことに安堵している自分を認識し、罪の意識に苛まれ悶えていて、イタチ仮面は先程から何か考え込んでいるように無言だった。

 かくいう狐仮面も、元より工作することはできても、実質的な恋愛会議には役に立たなかった。恋愛経験値はゼロに近い。

「リオンのあの誇りさえ貫くには、やはりそれくらいのインパクトは……」

「しかし、土壇場でジュンタがヘタレる可能性は高いと……」

 そんなわけで、実際に話し合っているのは鳥仮面と猫仮面だけである。
 狐仮面は二人の話を呆れ混じりに聞いているだけで、真面目に考えているのは別のことだった。

(かなり無茶ですが、実際問題、それぐらいの荒行事でしか解決し得ない事柄なのは間違いないんですよね)

 狐仮面が心配しているのは、リオンその人のこと。

 昨夜、ジュンタとの浴場での一時を終えたあと、一人で部屋にこもったかと思ったら、そのままリオンは出てこなかった。朝起きたときにはすでに彼女の姿は部屋にはなく、あの朝が弱い彼女が最悪のコンディションで朝を迎えたのに自分よりも早く起きられるはずがない。それはつまり、リオンが徹夜していることを意味していた。

(昨夜の一件。ジュンタ様に与えた影響も大きく、皆さんに与えた影響も大きく、だけど一番影響が大きかったのは……)

 この部屋の中で、リオンについて狐仮面だけが気付いていることがある。

 ゴッゾは父親で男だから分からない。他の皆では少々付き合いが短くて気付けないそれは、リオンという少女が結婚というものに向けている憧憬の念についてだった。

(リオン様は以前、人並みに結婚生活について願望を持っていると言っていた)

 狐仮面の知る限り――意外かと思われるかも知れないが――リオンが願望として抱いているものはかなり少なかった。

 何でも欲しがるような印象がある彼女だが、それは違う。
 リオンが欲しているのは竜滅姫として生き、竜滅姫として役目を終えることだけ。刹那的な欲求はあっても、願望とまで言い切れるものは本当に少ない。

 つまるところ、リオンという少女は自分の全てを竜滅姫として生きることに捧げてしまっているために、酷く無欲なのだ。

 一番最近で願望まで昇華されたものといったら、いなくなったジュンタとの再会ぐらいのものだろう。珍しい願望が彼との再会だと知ったときには焦ったものだが、奇跡が起き、今ジュンタはリオンの隣にいる。リオンの夢は叶い、また再び無欲な彼女に戻った。

 だけどリオンは一つだけ、小さな頃より変わらぬ願望を抱いている。。

(リオン様は竜滅姫として生きると決めた。だけど――いえ、だから、人並みの結婚生活というものに憧れている)

 それこそが、結婚という乙女にとっての永遠の憧れだった。

 女ならば普遍的なそれにまた、リオンも強い憧れを抱いている。
 大好きな人と結婚して、幸せな日々を過ごして、そして幸せの証として子供を残す――そんな幸せの形を、リオンは小さな頃より胸に秘め続けているのだ。

 昔はただの憧れだったけれど、異性として初めて意識した少年の登場で、今では願望にまで昇華されている。

(リオン様はお綺麗で、とても愛らしい御方。そして自分の生き方に揺るぎなく……だから、おかしい)

 だけど、なぜリオンはそれを願望としているのか?

 子供の頃の憧れと、成長した少女の願望はまるっきり違う。
 憧れはまだ知らないから起きる感情で、願望は実際に叶って欲しいという求めだ。

 リオンという少女の性格なら、願望を抱いたならば、それを実際に手に入れるために行動へと移そうとするのは想像にたやすい。けれど、リオンは子供のように、乙女のように、今でも幸せな結婚生活に憧れ、願望として胸に秘め続けている。

 つまりそういうこと。リオンは心のどこかで、本当はこう思っているのだ。――この憧れは、この願望は、決して叶うことがないのだろう、と。

 いなくなったジュンタとの再会を願望としたのは、あのときはそれがとても難しいことだと思えたから。……リオンにとっての願望とは、彼女であっても叶わないと思えることに対してのみ抱かれるのだ。

(不可能だからこそ憧れる。胸に秘め続ける。リオン様は竜滅姫として生きると決めたときに、自分の幸せな結婚生活はどこかで諦めてしまっているんですね)

 竜滅姫にとっての結婚とは、その身に流れる不死鳥の血を汚さず、次代の竜滅姫に託す相手を捜すための手段だ。結果的に愛は生まれても、最初から愛は求めるものではない。

 いつか遠くない未来、リオンは誰か貴い身分にある男性と結婚するだろう。
 武競祭のときのように、まだ未来の可能性がある段階では拒否をする。が、それが竜滅姫にとって定められた時季と受け入れたなら、リオンは二つ返事で婚姻を承諾するはずだ。

 それが竜滅姫――リオン・シストラバスという高潔で在ってしまった少女の、歪んだ恋愛観。

 それに同じ女として、一番近くで見続けていた従者として気付いてしまった狐仮面は、ただじっと感情を仮面の奥に閉じこめる。

(本当はいつだって、自分の生き方を変えなくても愛せる白馬の王子様を待っていたのに)

 リオンにとっての幸せな結婚生活という願望が叶うのは唯一、結婚相手としてふさわしい男性を彼女自身が本気に好きになることだけだった。けれど、リオンが好きになったのは――今やもう疑うまでもなく――ジュンタだ。

 本当の意味で結婚相手としてふさわしいと誰もが認めた、けれどリオンだけがそうだと知らない相手……なんて酷いことなのか。気付けば長年の夢が叶うというのに、未だ彼女は夢を見続けている。

 ああ、そうか。と、狐仮面は凍える自分の感情の正体に気が付いた。

(これは、怒り。リオン様を苦しませている秘密をまだ話せていないジュンタ様への、目の前に大好きな人がいて告白されたのに、もう夢は叶わなくていいと断ってしまったリオン様への、怒りなのですね)

 リオンはジュンタへの恋慕を押し殺した。
 告白されて涙が出るほど嬉しかったはずなのに、それでも断った。

 それは一つの決意を意味している。即ち、幸せで平凡な結婚生活という夢を諦めて、竜滅姫としての結婚をしようという決意だ。

 ジュンタの想いは、ジュンタへの想いは、綺麗なまま憧れと一緒に宝箱に閉じこめて、鍵を閉めて大事に取っておく。綺麗なまま置いておき、自分に課した在り方を貫いて他の誰かと結婚するつもりなのだ。

 ……なんて、馬鹿。そんな風に綺麗にしまっておいたら、想いは絶対に劣化しない。

 このまま他の誰かと結婚したら、本当の本当に苦しい結婚生活しか待っていないというのに、それが自分でも分かっているのに、どうして在り方を曲げて告白を受け入れなかったのか?

(仕方がないのでしょう。それが、リオン・シストラバスが十年前に受けた呪いのようなもの。母親と同じように生きて散ると誓った、あまりに純粋なユメのため。報われない恋をしていたのはどちらだったのか……きっと、どちらもなんですね。
 リオン様は生き方を変えられなかった。ジュンタ様はそんなリオン様の生き様に恋をした。だから、きっとどっちも報われない)

 一人の少年と少女が憧れの果てに抱いた恋は、憧れで終わった。それが昨夜決定づけられてしまったこと。


 ――――だから今日からは、ジュンタ・サクラという使徒と、リオン・シストラバスという竜滅姫が、それぞれの全てを受け入れて叶える恋の始まりだ。


 要は少しだけ――ジュンタがリオンに伝えなかった時間の分だけ、二人が初々しい少年少女として恋した時間が延びただけのこと。結局恋が実るのはこちらだけなので、ジュンタがリオンに自分が使徒であることを語っていたら、その時点でその憧れは終わっていた。

 その憧れは苦しかっただろう。辛かっただろう。だけど、同じくらい二人の中に大事なものを残したはずだ。無駄ではない。二人がお似合いの二人であることは、やはり今でも変わらない。

(大丈夫です。リオン様は、幸せになれますよ)

 狐仮面は終盤に差しかかった会議の中、そう気が付いた。

 燻っていた怒りの落ち着く先を見つけ出し、小さく仮面の下で笑みを浮かべ、ここに来て初めて自分から発言したイタチ仮面の言葉に耳を傾けた。

「あ〜、さっきからとんでもない会話が飛び交ってるけど、ちょっといいかしら? 
 取りあえず、ジュンタ君がリオンちゃんへの想いを諦めないように仕向ければいいわけよね?」

「その通り。イタチ仮面、何かいい案が?」

「いい案、というより、その役目あたしに任せてくれません」

「自信があると?」

「ええ、まぁ。一応はこれでもジュンタ君の先生ですから、教え導くには適任かと思いますわ。それに、まだリオンちゃんの恋愛観を知らなかったとはいえ、ジュンタ君に使徒だってことを伝える前に告白しちゃえ的なことを、あたし吹き込んでしまいましたし」

「なるほど、責任感もあるというわけか。そうだね。よろしくお願いしてもいいかな、イタチ仮面」

 鳥仮面からの言葉に、イタチ仮面は大きな胸を張って自信満々に微笑む。
 その姿からは、イタチの被り物をしているとは思えないほどの色香が漂っていた。

「この『誉れ高き稲妻』にお任せあれ。すぐに吉報をお持ちしますわ」

「頼りにしているよ」

 どこか信頼し合った眼差しを交わしあう二人。

「さて、それではジュンタ君の方はイタチ仮面に任せるとして――問題はリオンの方か」

 再び口を開いた鳥仮面は、心配そうな声で自分の娘のことを気にする。

「今更何を言っても、リオンの意志は変わらないだろう。しかし、落ち込んでいるのなら励ましてやりたい。誰か適任はいないだろうか?」

 当然のこととして、鳥仮面の視線は狐仮面に移動した。

「どうだろう、狐仮面?」

「申し訳ありません。私の経験値では、励ますことは難しいかと思われます。それに、すでに適任の方が向かわれているのではないかと思いますが」

「まぁ、そうかも知れないね」

 狐仮面の言葉に鳥仮面は納得の色を示し、それから会議に参加した全ての団員の視線が、机の上に畳んで置かれたウサギの被り物に移動する。

「……そう言えば、ウサギ仮面はどこにいっとるんや?」

 何やら答えは出たと清々しい顔をした猿仮面は、今ようやく気が付いたというように、そんな疑問を今更問う。

「リオンちゃんを捜しに行ったのよ。何というか、何とも形容しがたい顔でね。そうね。あの表情をあえて呼ぶなら、そう――

 男性陣は知らない、ウサギ仮面が昨夜の出来事を聞いたときの複雑すぎた顔を。

 そのとき浮かべた顔を、イタチ仮面が端的な言葉で表す。
 そう、狐仮面も甚だ同意だ。あれは確かに、そう形容するのは一番正しいように見えた。

 つまりウサギ仮面ことクーヴェルシェン・リアーシラミリィは……

――キレてたわね、クーちゃん」






      ◇◆◇






『始祖姫』が一柱、不死鳥の使徒ナレイアラ・シストラバス――

 竜殺しの責務を『不死鳥聖典』と共に後世へと残したが故に、氏素性が不明に近いシストラバス家の開祖は、ここラバス村にて生まれたものとシストラバス家でも認識されている。

 不確定だったらしいが、千年近い歴史の中、証された類似点はもはや見過ごせるものではない。不死鳥の血を尊ぶシストラバス家として長く保留としておくわけにもいかず、母カトレーユの時には、はっきりとラバス村こそナレイアラの故郷と認めたらしい。

 だから、『騎士の祠』は騎士にとっての大事な聖域となった。

 紅に輝く鉱石の空間は騎士の心を落ち着ける場所であり、リオン・シストラバスの心を古のときへと運ぶ場所であった。

「我らが開祖、使徒ナレイアラ様」

 閉じていた瞳を開き、リオンは祭壇を見つめる。

 役目を終えた剣や槍などが安置された台が備え付けられた祭壇には、壁や天井の紅に似た、真紅の背表紙の本が飾られていた。それは先程リオンが敬意とするために置いた、シストラバス家の竜滅姫に代々伝わる、『不死鳥聖典』に他ならなかった。

 祭壇へと近付き、リオンは『不死鳥聖典』に手を触れる。

 頭の中でその本の形をした聖典を、剣の形に変化するようにイメージする。
 そうすれば本は一瞬で炎に包まれ、炎が消えたあとには紅の刀身が美しい剣に変わっていた。

「あなたが伝えた使命は、今なおシストラバス家に受け継がれています。我々竜滅姫はドラゴンを滅し、あなたが望んだ平和が永遠に続くように努めを果たしています。私――今代の竜滅姫であるリオン・シストラバスもいずれは」
 
 剣を取り、リオンは祭壇に向かってまっすぐ構える。それは祭壇に祈りを捧げているようにも、剣に誓いを捧げているように見える構えだった。

「無論この命を賭す前に、次代の竜滅姫にこの意志を繋ぎましょう。私がお母様から意志を受け継いだように、決して絶やしてはいけない使命は、また私の子に託されます」

 竜滅姫の使命を呪いと称す者もいる。生まれながらに避けえぬ死を与える呪いだと。

 だが、リオンは違うと思っている。リオンは幼い頃、ただの一度も母親から竜滅姫として命を賭せと強制されたことはなかった。言い含められたことはなかった。ただ、シストラバス家の在り方を説かれ、選択権を委ねられただけ。

 竜滅姫が次代の竜滅姫に渡すものは、決して呪いではない。
 リオンが渡されたものは先祖の意志であり、カトレーユ・シストラバスの誇りであり、そして憧れだった。

 リオンは母親がいつ最期を迎えたか知っている。どうやってその生き様を見せつけたか知っている。けれど、この目で実際に最期のときを見たわけではなかった。

 見たのはただ、紅き本を手に笑って去って戻らなかった母の背中だけ。
 愛おしいと抱きしめられ、宝物と頬にキスされ、全てを終わらせるためにと笑ってドラゴンの元へと赴いた背中だけ。

 その背中はリオンの誉れ。リオンの憧れ。リオンの夢――あんな風に答えを得て、笑って死ぬことができたらどれだけ素晴らしいかと、そう幼いながらに焦がれた。

 思えば、その時に全ては決まったのだ。リオン・シストラバスは母のように、竜滅姫として在ろう、と。

 その背中に追いつきたくて、その背中をずっと目指している。命を懸けるのは、その背に追いつく方法が一つしかなかったから。その一つのためなら、この命は惜しくない。

「この身は竜滅姫――世界の敵たるドラゴンを滅す、不死鳥の血を継ぐ騎士の姫。
 これが私の選んだ道。これは私が自分の手で掴む夢。これこそ私という存在の理想」

 いつかまた自分も子供に語り、そして選択肢を譲るだろう。
 竜滅姫で在るか否か――選ぶのは自由。継ぐのは自由。ただ、自分は選んだのだと、そのとき背中で語れたら本望だ。

 竜滅姫は絶やしてはいけないもの。そう、これは呪いではない。自分は竜滅姫で幸せだったと胸を張って笑い、子供に自分のことを好きになってもらえる古からの贈り物だ。

「ナレイアラ様、ご安心を。私はもう惑いません。もう悔いません。竜滅姫――こんな素晴らしい夢をもう見ているのですから、それ以上の夢を見るのは傲慢というもの」

「だから――

 祖に、剣に語りかけたリオンの言葉は、また新たに『騎士の祠』に現れた誰かにも向けられた言葉。

 音を立てることなくやってきたクーは、静かな悲しみを声に乗せ、リオンに質問をぶつける。

「そのためでしたら、ご主人様を傷つけてもいいというんですか?」

 リオンは剣を下ろして振り向く。

 自分の誓いの全てを聞いていたクーの蒼天の如き瞳に、リオンは揺るぎない紅の瞳でもって答える。

 胸を張って、不敵に笑って、

「当然ですわ。だって私は竜滅姫――リオン・シストラバスですもの」

 昨夜までの全ての想いにけじめをつけて、己の選択を、全存在を肯定した。

 


 

 リオンがジュンタの告白を受け入れなかった――その報を受けたとき、クーは愕然とした。

 だって、ジュンタはリオンのことが本気で好きだった。リオンもジュンタのことが本気で好きで、つまり相思相愛でこれ以上ないくらいお似合いの二人だったのだ。

 どちらかが告白すればその時点で結ばれるものと思っていた。
 確かにリオンの恋愛観は耳にしていたが、それでも二人の交際はクーの中では絶対であった。

 だけど、結果はこれ。ジュンタの告白をリオンは受け入れなかった。

 ジュンタは朝早くからどこかに消え、リオンは『騎士の祠』へと出かけた。クーは激情の赴くままにリオンの後を追いかけて、『騎士の祠』までやってきていた。

 できることなら、酷く傷ついているだろうジュンタの傍に居て、元気づけてあげたかった。けど、彼の行方は誰も知らず、そしてリオンのことが許せなかったのだ。

『どうして?』という気持ちで、クーの中は一杯だった。

 あんなに好きなのに、あんなにお似合いなのに、あんなに互いを必要としているのに、どうして断ったりなんてするのか。どうして断れるのか。意味が分からない。理解できない。どうしてそんな幸せを、自分を裏切ってまで放棄するのか、まったく意味不明だ。

 だから、そんな意味不明なことで大事なご主人様を傷つけたリオンを、クーは許してなどおけなかった。

 リオンの後を追いかけて『騎士の祠』まで走ってきたクーは、すぐに踏み込んで問い質してやろうと思っていた。いつもならできないことだが、今日ならできた。とにかく理由を聞かないことには、どうにも胸の中で渦巻く激情を処理できなかったのだ。

 でも、『騎士の祠』までやってきたとき、入り口のところでリオンの理由を、決意を聞いてしまった。それは指摘も否定も意味ないと理解できてしまうほどに、誇り高く、潔白な誓いの言葉だった。

(リオンさんのことを、私は全然理解していなかった)

 クーにとってリオンという少女は、ジュンタと仲がいい、とてもとても偉大な血を継ぐ格好良くて綺麗な人であった。

 揺るぎない意志を秘めた、燃える双眸。内面から滲み出る輝きが眩い、真紅の髪。

 おおよそ伝え語られる騎士姫と相違ない麗しき騎士姫――それがクーのリオンに対する認識であり、ジュンタが惚れてしまうのも無理はないと思うところ。だが、実際はさらに上を行っていた。

(私が見ていたリオンさんは、リオンさんにとってほんの少しの部分でしかなかったんですね。リオン・シストラバスという人は、どこまで行っても竜滅姫。それ以外を選べない、正真正銘のお姫様)

 この世で最も貴き人が惚れた少女は、それに値するほどに高き意志を持った少女であった。

 決して揺るがない信念。なるほど、ゴッゾたちが、ジュンタが使徒であることを教える以外に結ばれる方法がないと断じたのも頷けるという話だ。一縷の隙間もない、リオン・シストラバスを構成する全てに、竜滅姫という名が刻みつけられている。

 リオンは少女である前に竜滅姫。竜滅姫こそリオン・シストラバス…………つまり、自分は勘違いをしていた。


――リオンさんはきっと、いつか取り返しもつかない間違いを犯します」


 ジュンタはリオンと結ばれることが幸せであると、そんなあり得ない勘違いを。

 自分が竜滅姫で在り続けることに必要なら、ジュンタを切り捨てると何の躊躇もなく言い放ったリオンを、クーは睨みつける。

「取り返しのつかない間違い、ですの。いきなりやってきて、それはあんまりではありません?」

「いきなりですみません。でも、今気付いたことですから」

 ドラゴンスレイヤーを指輪の形に戻し、右手の中指にはめたリオンは、『騎士の祠』の祭壇前で悠然と立っている。その揺るぎない在りように、クーは直感的に確信していた。

 確かに、今もジュンタとリオンがお似合いであることは変わらない。あまりに貴い二人が付き合うとしたなら、それは互いでしかあり得ないという確信もある。が、それがジュンタの幸せに繋がるかといえば、そうではない気がしてならなかった。

 お似合いなのに、お互いでしかあり得ないのに、それでもジュンタは幸せになれない……矛盾しているのは分かっている。でも、そう思えてしまったのだからしょうがない。

 そして理由もないこの予感は、クーにとっては絶対に放置していけない問題だった。

「リオンさんはきっと今がそうであるように、最後まできっと竜滅姫として在り続けると思います」

「あら、ありがとうございますわ。それは私にとって最高の賛辞ですわ」

「ですけど、リオンさんではご主人様を幸せにはできません」

 心底から喜んで髪をかき上げたリオンを見たまま、クーは不安に突き動かされるままに言葉を続ける。

「リオンさんはきっとそう在り続けるために、いつかご主人様を傷つけます。取り返しのつかない間違いを、リオンさんだけが正解の間違いを、ご主人様に刻みつけます」

「そうかも知れませんわね。否定はできませんわ。昨夜の一件もありますし。竜滅姫として在ることでジュンタが傷つくことになっても、それでも私は竜滅姫としての道を征きますもの」

 その在りようが揺るがないなら、揺らいでしまうのは周りの方だ。
 あまりに美しいが故に、リオン――否、竜滅姫は周りを巻き込んで変えてしまう。己の信じる道を行くために、彼女たちは幾多もの何かを傷つけてきたのだ。

 それは時にシストラバス家の騎士だったり、時に結ばれた夫であったり、時に子供であったのだろう。

 リオンとジュンタはお似合いだ。
 だけどジュンタがリオンと結ばれたら、その傷ついてしまう人に彼がなってしまう。

 それだけは許容できない。リオンにとって竜滅姫が全てであるように、クーにとってジュンタへの想いが全てなのだから。

「……ご主人様とリオンさんはお似合いだと思いました。けど、決して手放しで祝福できるお二人ではありません。リオンさんが相手では、ご主人様は幸せにはなれません」

「失敬ですわね。私とジュンタがお似合いだといいますけど、そもそも私がジュンタと付き合うことがあり得ないのですから、そんな考えは意味のないことですわ」

「そうですか。では、これは私の私に対する決意表明です」

 ダメだ。リオンとジュンタとくっつけたらダメだ。その果てにジュンタが傷ついてしまうというのなら、それは決して応援していいものではない。

 そう、本当にジュンタの幸せを願うのなら――他の全てを投げ打ってでも、彼と一緒に最後まで歩いて行ける相手でないといけない。

 それはリオンではない。もちろん、一人で歩けない自分でもない。

 なら、今自分がするべきことは……


「宣言します! 私、クーヴェルシェン・リアーシラミリィは、今日この時より『恋愛推奨騎士団』を脱退して、リオンさんがご主人様と結ばれるのを邪魔することを! あるいはリオンさんがご主人様にふさわしい相手になるお手伝いをすることを宣言します!」


 ビシッと手をあげて、クーはリオンを見ながらそう高らかに宣言する。

 これにはリオンも呆れた様子を見せるが関係ない。全てはご主人様の幸せのために。そう、元より自分はそのために二人を応援していたのだから、二人結ばれることがジュンタのためにならないのなら、こうするのが適当だ。

 その通り。はい、とても胸がすっきりしました。

「そういうことですので、これからもよろしくお願いしますね。リオンさん。それでは」

「ちょ、お待ちなさい! お邪魔するって、ですから私とジュンタは――!」

 ニコリと笑って、クーはリオンに背中を向ける。
 背中に向かって何かリオンが言っていて、振り向きたくて仕方がないが、ここはジュンタのためにぐっと我慢だ。

(ご主人様、私がんばりますっ。そしていつかご主人様にふさわしい女性が現れるまで、リオンさんがなるまで、ご主人様を死守させていただきます!)

 一人悲壮な決意を決めて、クーは『騎士の祠』を後にする。

「……『恋愛推奨騎士団』って一体何なんですのよ? と言いますか、もしかしてクー。ものすごく怒ってました……?」

 一人『騎士の祠』に取り残されたリオンは、エイエイオーと気合い十分に長い耳を動かして去っていく少女の背中を、呆然と見送るしかなかった。

 


 

       ◇◆◇


 

 

 沈みゆく太陽を眺めつつ、ジュンタは今切実な問題と向き合っていた。

 差し込む夕日に燃え上がっているかのような森。
 アニエース家の所有物であり、宿から見える景観に広がる眼下の森の中。ジュンタは地面に大の字になって空を見上げていた。

 かれこれ大体十時間ぐらい。朝、何ともなしに宿を出て森に足を踏み入れてすぐ、こんな状態を強いられることになった。

 切実だ。とても切実だ。だって動けないし解けないんです、この罠。

「いやぁ、どうしたものかなぁ」

 両手両足を開ききった状態で、鎖や御札などで雁字搦めにされ、さらには巨大な落とし穴の中に突き落とされた状態のジュンタは、乾いた声を発す。声はかなり掠れている。初夏の日差しを一心に浴びたままだったので、軽い脱水症状になっているらしい。

「罠があるとは聞いてたけど、まさかこんなハイテンションなトラップだったとは……」

 後悔先に立たず――『騎士の祠』目指して進行中、ショートカットしようとして踏み入れた森は、真実踏み入れてはいけない類のトラップフォレストだった。

 出ようにも出られない落とし穴と解こうにも解けない鎖。御札には何やら魔法封じらしき力があるらしく、一枚では何ともないが、それが何十枚ともなれば、魔法の魔の字ぐらいしか知らないジュンタではどうしようもなかった。御札に加えて、何やらこの森自体が魔法の行使には向かないようだし。

「昨夜あんなことがあったし、誰にも声をかけずに出てきたのが災いしたか。きっとみんな、傷心して出て来ないとか思ってるだろうなぁ。きっと探しには来てくれないだろうなぁ……え? もしかして俺、この状態で一夜明かすのか?」

 勘弁して欲しい。と、ジュンタはゆっくりと空に浮かび始める薄い月を見上げた。

 確かに、傷心といえば傷心中だ。完膚無きまでに昨夜リオンに玉砕したのだから。

 リオンは真っ直ぐ真剣に断ってくれたけど、それでもそれくらいでどうにかなる想いでは初めから無かった。後のない決意の淵でがんばってみた結果こうなったけど、それでもすぐに割り切れるものではない。

「…………うわぁ……」

 何というか、今気付いた。自分では気付いていなかったけれど、未だショックから全然立ち直れていなかったらしい。つまるところ、この『どうしようもない感じ』が、傷心という名を持つ気持ちなのだろう。

「月がきれいだから、なんだよ」

 薄い月から視線を外す。瞳から雫が零れそうになったのは、きっと月の所為だ。

(二回告白して、二回とも振られた。……諦めるべきなんだろうな、リオンのことは)

 ジュンタはリオンが好きだ。届かなかった想いの行き場所が未だ見つかっていない今、その想いは一切減じることなく胸の中で輝いている。

 だが、明らかにリオンは想いを寄せられることに困惑していた様子だった。最近様子がおかしかったのも、間違いなくこの胸の想いが原因だ。……それなら、リオンをこれ以上苦しめないためにも、この想いは諦めないといけない。

「だけど……」

 このまま、振られてなお好きで居続けるという選択肢も当然ある。
 自分本位に、好きなんだからしょうがないと、そう認めてしまえばいい。
 
 リオンのことを第一とするなら、この想いを終わらせて、今すぐには無理かも知れないけど行き場所を見つけて、少しだけ照れくさい思い出として残せばいい。
 自分のことを第一とするなら、この想いを続かせて、今すぐには無理かも知れないけど想いをまた届かせる方法を見つけ、この想いを永遠にすればいい。

 どちらを選ぶか――そう、これはそういう問題。
 結局リオンへの想いが消えないジュンタのこれからを決める、二者択一の選択肢だった。

「俺の幸せかリオンの幸せか。それはなんていうか、究極の命題だよな」

 せめて自分と結ばれることがリオンの幸せと言い切れるぐらいの傲慢さか、リオンのためなら自分の想いを押し殺せる潔さがあればよかったのかも知れないが、ジュンタにはどちらも選べない。

 う〜んう〜ん、と落とし穴で唸るジュンタは初めて感じる――前回は感じる暇すらなかった――傷心の想いに囚われて、悩んでいた。

 色々な人に応援され手伝ってもらった手前、誰にも聞きようがなかったこの悩み……一人で抱えるには重すぎる。と言うか、そろそろ本気で脱水症状が厳しいので、誰かに助けて欲しいのですが。

「まったくもって格好悪いな。これじゃあ、みんなに笑われる」

「そりゃ、笑わずにはいられないわねぇ。そんな変な格好で傷心してるんだもの」

 嘆息したジュンタに対し、落とし穴の縁から返答が返される。

「え?」と思って見上げたジュンタの視界に、すらりと伸びた肉つきのいい太股が入り込む。どんな長い賛辞で飾るより、魅惑的と一言で評した方が分かりやすい、大人の魅力が溢れる脚線美を描く美脚である。

「トーユーズ先生?」

 足の美しさで誰だか分かってしまうのはちょっとアレだが、修行中などに山ほど見て、分かってしまったジュンタは剣術の師の名前を呼ぶ。

 果たして、片手で巨大な岩の球を押しとどめているトーユーズはニコリと笑って、

――こんばんは。ジュンタ君、今日はとってもいい月夜ね」

 もう片方の手に持っていた清酒の瓶を持ち上げ、月光に透かして輝かせた。

 


 

       ◇◆◇


 

 

「約束だからね。今日は晩酌に付き合わせてあげる」

 そう言って、持っていた二つのコップへ均等に清酒を注いだトーユーズを、コップを受け取りつつジュンタは呆れ眼で見た。

「……取りあえず言いたいことは二つです。これ、ゴッゾさんの奢りですよね? あと、どうしてこんな高い木の上で酒盛りを始めないといけないんですか?」

 ひしと両足と片手で太い木の幹にしがみついたジュンタは、カタカタとコップを震わせる。

 何やら捜索してくれていたらしいトーユーズに助けられたあと、なぜかなし崩しに晩酌と相成った。それだけならまだいいし、お酒は歓迎という気分でもあったが、その酒盛りの場所が森の中でも一際高い木の枝の上となれば話は別だった。

「恐いです。高すぎです。せめて地面に下りませんか?」

「い・や。この森ってトラップだらけだもの。地上でなんて、ゆっくり月を見上げることもできないわ。その点、ここならさすがにトラップはないからね。ゆっくり生徒と語らうことができるわけよ」

「それは先生だけです。肝心の生徒の方は一切余裕ないのでゆっくりとは語れません」

「気にしない気にしない。ほら、あたしがお酌をしてあげたんだから、さっさと飲みなさいな」

「り、理不尽だ。この人」

 どれほどのバランス感覚か。片手に清酒の瓶、もう片方にコップを持ったトーユーズは、こともなさげに枝の先の方に腰を下ろしている。地上二十メートルから三十メートル近い巨木の上だというのに、大した胆力である。

「う〜ん、さすがは天下に名を轟かすシストラバス家がひいきにしている宿のことだけはあるわ。最高級の清酒よ、これ。今ここで飲んでおかないと、なかなか滅多に味わえるようなものじゃないわね」

「味わえるものなら味わいたいですが、今飲んでも一切味は感じないと思います」

「何よもう、情けないわねぇ。なに、もしかしてあたしに口移しで飲まして欲しいの?」

「断固として拒否しますからこっち近付かないで恐い恐い恐いっ」

 蠱惑的な流し目とキシリと音を立てる枝。二重の意味で遠慮願いたい。

 トーユーズも本気ではなかったので、すぐに笑顔に戻って、静かにコップを月に掲げる。

 そのあと何も言わずに、じっと空を見続ける――ジュンタは我が儘な先生に溜息を一つ吐いて、それを現状に対して諦観するための区切りとする。枝から手を離して、足だけでバランスを取り、トーユーズに倣って杯を上げた。

「先生がお酌してくれたお酒、ありがたく飲ませていただきます」

「うん。それじゃあ、乾杯」

 互いの杯を合わせるのではなく、夜空に重ねるようにするのがトーユーズ流の乾杯だった。

 二人は並んで月を見上げ、そのまま一気にコップの中身を煽る。
 かなり度のきつい、だけどどこか懐かしい味が喉を焼き、舌の上にほのかな香りを残す。

 なるほど、トーユーズの言うとおり、飲んだことのないレベルの高級酒である。口当たりも後味も全てが最高。あるいは、こうして今飲んだことがおいしいと感じる最大の要因になっているのかも知れない。ヤケ酒に走る人間の気持ちが、ジュンタは少しだけ理解できた。

「う〜ん、お酒はおいしいけど、隣の生徒は絶不調って感じね」

「放っておいてください」

「や〜いや〜い、振られてやんの。しかもいじけるなんて、ほんとまだまだ子供ねぇ」

「先生の方が子供ですうぉっ!?」

 からかうような言葉にバランスを崩したジュンタは、あわや木の上から落下しそうになる。完全に重心が後ろにかかってしまい、クルリとでんぐり返しをするようにジュンタは空中に投げ出され、

「少しは助けてくださいよ」

 全然助けようとしてくれずに笑うトーユーズを憮然とした表情で見ながら、腰から引き抜いた剣を木の幹に深々と突き刺して、落下を防いでいた。

「まったく、それでも本当に先生ですか」

「そうよ。あたしがジュンタ君の先生トーユーズ・ラバスその人よ。ジュンタ君が今助かったのもあたしの修行のお陰でしょ? それか、いつでもどこでも剣を持ち運ぶように言ったリオンちゃんのお陰かしらね」

 幹に刺したドラゴンスレイヤーにぶらさがっていたジュンタは、手の力と身体の反動を使って跳び、再びトーユーズの隣に乗る。

 悪びれた風もなく新しいお酒をコップに注いでいるトーユーズに呆れを強くしつつ、引き抜いたドラゴンスレイヤーを腰に突き刺したベルトに戻した。

「確かに、先生の修行を受ける前の俺だったら、こんな的確な行動取れないでしょうけど。あと、剣をこんなときでも持ち運んでいるのは、そりゃリオンのお陰でしょうよ」

 ドスリ、とここが高い枝の上であることをどうでもいいと受け入れてジュンタは座る。

 空になったコップに新しいお酒がトーユーズによって注がれたのを見ると、再びそれを一気に煽った。

「だからって、何も落ち込んでる生徒を前にして、元凶の名前を出しますかね?」

「あら? リオンちゃんの名前を聞くだけでダメージ受けてるの? かっわいい」

「こ、この人は……」

 捜してくれていたと聞いて、落ち込んでいるのを心配してきてくれたのかと思ったが、絶対に違うと今確信した。トーユーズはからかいに来たのだ。からかい倒しに来たのだ。酒のつまみにしようとやって来たのだ。まったく、なんて先生なんだろう。

「どうせ俺は振られましたよ。二回も告白して二回とも完膚無きまでに振られましたよ。どうぞ存分にからかってください」

「わ、本人からお墨付きが出たわ。それじゃあ、言動をオブラートに包む必要はないわね。よしっ、それじゃあジュンタ君に一言――ナイス失恋!」

「泣きますよ、本当に!」

 失礼で無遠慮な発言の連発に、ジュンタは少し赤くなった顔で吠える。
 それを見てさらにトーユーズは笑い……やばい。本当になんだか涙が出そうになる。

 ジュンタが、強い子、自分は強い子と自分に言い聞かせている横で、トーユーズは一口お酒を飲む。そのあと今までと同じ声色で、だけど少しだけ違う雰囲気で話し始めた。

「別にね、からかっているだけじゃないのよ。いい失恋をしたわね、っていうのは本心だもの。
 ジュンタ君、あなたがした恋愛はとてもいいものだったわ。最初から最後まで、いつか絶対胸を張って、照れながらも語れるような、そんな綺麗な恋愛だった」

 トーユーズの言葉に、ジュンタはちょっと潤んだ瞳をパチクリさせる。

「前に言ったわよね。無様な勝利より華麗な敗北だって。恋愛もそれと同じ。恋愛にもね、無様な勝利と華麗な敗北があるの。
 誇っていい。泣いて悲しむのは当然だけど、それでも胸を張っていいわ。ジュンタ君、今回の君は、とっても格好良かった」

「格好、悪くはなかったですか?」

「他でもないジュンタ君が一番知ってると思うけど、リオンちゃんに告白するだけでも一つの大きな戦いよ。結果は残念だったけど、ジュンタ君は一つの戦いには勝った。誰かがジュンタ君を嘲笑っても、あたしは褒めて上げるわ。――よく、がんばったわね」

 続いて告げられた台詞に、ジュンタは肩から力が抜けて、また枝から落ちそうになった。けれど今度はトーユーズの細いのに力強い手に支えられ、落ちることはなかった。

「気を付けなきゃダメよ? さすがのジュンタ君でも、ここから落ちたらかすり傷だけじゃすまないわ。そうね。三日程度は動けなくなるわよ」

「この高さから落ちて三日って、俺はそんな化け物じゃないです」

「いやぁ、残念だけど、これは本当の話。ジュンタ君てば、自分では自覚がないけどかなり打たれ強いわよ? 前に一度軽く本気で頭撃ち抜いたけど、記憶が飛んだだけでケロッとしてたもの」

「ちょ、それってもしかしてあれですか? 一日ぐらいの記憶が飛んで、リオンとの約束を知らず破っちゃったアレですか!?」

「本当においしいわねぇ、このお酒」

「トーユーズ先生……」

 遠い目で夜空を見上げるトーユーズにジュンタはジト目を向け続ける。
 お酒をちびちび飲んでいたトーユーズだが、やがてアハハと笑ってジュンタに向き直った。

「ほら、よくある失敗って奴よ。ついつい力が入っちゃって」

「……まぁ、覚えていない約束を果たしてたところで、告白が成功していたとは思えませんから、別にいいですけど」

 ゴメンゴメンとトーユーズにお酒を注がれて、ジュンタは今更過去のことを気にしてもしょうがないと、これ以上は怒らないことにする。別に、最初から怒ってなどいないが。

 慰めるような言葉をかけてくれたトーユーズ。だけど、きっとそれは慰めじゃないのだろう。そう彼女が言ったのだから、それは本心に違いない。
 ただ、トーユーズは教えに来てくれただけ。先生として、生徒である自分に教えに来てくれただけ。例え断られても意味のある告白――恋愛はあるのだと、そう教えてくれただけなのだ。

 ……なんだか、少し気分が楽になった。

(そうだよな。別に振られてからって、すぐに次を決めないといけないわけじゃないんだよな。悩んでる時間が長くなっても、誰にも怒られないんだから)

 開いた空洞を埋めようと、次の自分の歩き方を決めようとしていたのか。
 ならそれは、この空洞にも意味があると思えば、すぐに決めなくてもいいということになる。

 どうせ、すぐには気持ちに区切りが付けられないのだ。トーユーズにも無様な敗北でないと賞賛されたのだから、ほんの少し考えることは後回しにしよう。

 今はただ、この月夜に乾杯を――告白して、玉砕した次の日に見る月夜にしては、今日の空はとても輝いて見えるから。


「でも、二度も木から落ちそうになるなんて、ちょ〜と修行が足りなくて格好悪いかしらね」


 …………あれぇ? 空がとっても綺麗なのに、同じくらい綺麗な先生がなぜか恐い気を発しているんですけど〜?

「やっぱり、ほら。何事も終わりが大事でしょ? せっかく格好良くがんばったんだから、最後も格好良く決めましょうよ。ジュンタ君も下りたい下りたいって言ってたし、うん、トラップの中の修行も悪くないわね」

「いやいや、とっても悪いですというか今俺に修行をやれと? 振られてすごい悲しみの傷心中なわけですから、ここは鞭より飴の方が欲しいかなぁ、とか思ったり」

「じゃ、始めましょうか。先に下りてるわね」

「あ、全然聞く耳ないですか。そうですか」

 空になった瓶を片手に、直接地面まで軽々と飛び降りたちょっと酔ったお姉様。普通に飛び降り自殺ができる高さなのだが、トン、と降り立った様子に不備は一切見られない。

 もちろんジュンタがそんなことをすれば数日はベッドの中だ。その間、クーのトラウマ看病が続くのは想像にたやすいので、何としてでも回避しないといけない。トーユーズに出会った今、クーの無限の優しさがとても恋しいが、今更後悔しても遅いのである。

「……なんていうか、俺には傷心とか似合わないってことかな」

 少しだけ残ったお酒を見て、ジュンタは久しぶりと自分では感じる笑みを口元に浮かべ、月に向かって杯をあげた。

 もう地上に降りるのは決定事項だけど、その前にこれくらいしても罰は当たるまい。

「結果は残念だったけど――がんばってリオンに告白した俺に乾杯」

 先程見た師の横顔と同じような横顔を自分がしていることを願いつつ、ジュンタは残りの清酒を一気に煽った。


 

 

       ◇◆◇


 

 

 慣れないお酒を飲んだ状態で、そう長い間トーユーズと戦えるはずもなく、一時間後――ジュンタは地面に双剣を握ったまま、大の字に転がっていた。

 森を魔力使って駆け回ったせいで、周りには色々と発動したトラップの残骸が転がっている。木くずや石ころなどの小さめの残骸しかないのは、稀に致死量じゃないかと思われるトラップもあったのだが、それらはトーユーズの手によって破壊され跡形もないからである。

「ふぅ、やっぱり先生には敵いません」

「当然。習い始めて二ヶ月そこらの生徒に負けたら、さすがにあたしでも人生に悲観しちゃうわよ」

 流れ出る汗を拭ったジュンタは、その辺りから拾った二本の大きな枝を投げ捨てるトーユーズを、尊敬混じりの目で見た。

 宿から自分の剣二振りを持ってきていたジュンタと違って、トーユーズは剣を持っていなかった。否、そもそもジュンタはトーユーズが愛用の双剣を使っているところを見たことがない。いつだって木剣やその辺りにあった武器で戦っているのである。

(それでも恐ろしく強いんだから、反則だよなぁ)

 以前、箸二本で六回ほど気絶させられた経験を持つため、例えどんな武器でも油断も遠慮もできないわけだが。とにかく素手だけでも十分強いトーユーズ。彼女に一太刀でも浴びせるようになるのは、一体いつになることやら。

「自分では結構がんばってるつもりなんですけど、やっぱり二ヶ月そこらで強くなれって方が無理な話ですよね。これじゃあ、リオンに勝つまで一体どれだけかかるか」

「ん? やっぱり、負けっ放しじゃ男としてのプライドが黙っておけない?」

「それもありますけど、クーとも約束しましたから。いつかリオンに勝つって」

 武競祭でリオンに敗北した折、クーと約束した。いつか絶対リオンに勝ってみせる、と。

 武競祭が終わってなお、トーユーズに修行をつけてもらっている理由にはそれがある。他にも自分の無力さを痛感し、あんなことがないように、という思いももちろんあるが。

「そういうこと。でも、恐ろしいスピードでジュンタ君は強くなってるわよ。『神童』と呼ばれたあたしが認めるんだもの。いつかきっと、ジュンタ君はリオンちゃんにも勝てる。
 ――覚えておきなさい。あなたはとても恵まれているわ。
 誰かを守りたいと思ったとき、守れる強さを手に入れられる。あなたは強くなることができる。それはね、とってもとっても恵まれてるってことなの」

 ふいに真剣な顔になったトーユーズの眼差しが、ジュンタの瞳を貫く。

「世の中には、強くなろうとしてもなれない人間がいる。守りたい相手がいるのに、守る強さを手に入れられない人間がいる。けどね、ジュンタ君は違う。ジュンタ君は強くなれる。強くなりたいと思えば、守りたいと思えば、あなたはきっと格好良くなれる強さを手に入れられるから」

 最近ようやくわかるようになった、トーユーズのモットーである『いついかなる時も美しく』という言葉の真の意味。

 この世は強さだけでは生き抜けない。本当の強さはこの世にはなく、それは結局人が信じる信念の数だけ存在する。

 トーユーズは強い。強さをいうなら、誰もが認める最強の一人だろう。
 けれど、そんな彼女は時折遠い目をする。離れた故郷を懐かしむようなその目は、酷く印象的だった。

 要は、後悔をしないことが重要なのかも知れない。

『いついかなる時も美しく』――それはどんなときでも、どんな場所でも、自分が最善と思えることを行えるようにという意味。負けてもいいのだ。勝たなくてもいいのだ。そこに自分の信じる美しい自分がいるのなら、それが選ぶべき道だったと誇れるだろう。

(無様な勝利も、無様な敗北も一緒。欲するのは華麗な勝利と華麗な敗北。胸を張って、後悔することなく歩き続けられるような、そんな自分の在り方)

 そうと気付いたとき、ジュンタもまた欲した。

(なりたい。勝利だけを求めるんじゃなくて、負けることを悔やみ続けるんじゃなくて、どんな結末でも胸を張っていられる、そんな格好いい自分に。『いついかなる時も格好良く』――この教えは、全力で肯定して目指す価値がある)

 トーユーズという生き方には迷いなく、淀みがない。
 
 そこには強さも弱さもあるように見えた。けれど、その全てをひっくるめた全部が自分だと理解して、それでも歩き続けられる輝きがあった。

 そんな女性のようになれたら、きっと人生は楽しいだろう――追いかけるべき背中を見つけた気がしたジュンタは、だからこそ尋ねた。

「でも、先生。良かったんですか? 俺の都合でランカの街まで来てもらっちゃって」

「なに言ってるのよ。ランカに来たのは店の支店を出すためよ。レンジャールのお店はルイに任せていいし、現在進行形で発展しているランカにはいつか店を出す予定だったしね」

「それも本当かとは思いますけど、さすがに俺ももう気付いています。先生が俺のためにランカまで来てくれたんだってことは」

「……まぁ、そこまで言われたら隠しようもない、か」

 ちょっと真剣な声で問えば、トーユーズは降参して事実だと認めた。

 ずっとレンジャールで暮らしていたトーユーズは、ジュンタが聖地からランカに戻ったときに、同じようにランカへとやってきて住み始めた。新しいお店を出そうとしたのは本当だが、前もって何も言っていなかったのに、いきなりやってきたのは明らかにおかしい。

 それに、トーユーズはいつだって頼めば修行を引き受けてくれた。店に住み込みで手伝いをしているといっても、いつもいつもリオンらのトラブルに巻き込まれ、ほとんど店にも出ていない。つまり、修行を見る見返りは彼女にはないはずなのだ。

 それなのに引き受けてくれることには大感謝だが、やはり少しだけ申し訳なく思う。武競祭期間中だけのつもりだったのに、今でもトーユーズの時間を借りてしまっている。

「すみません。いつか絶対、何らかの形で恩は返してみせますから」

 とにかくジュンタはトーユーズに感謝をしていた。
 少しだけ強くなれて、その結果守りたいものを守れたのは、間違いなく彼女のお陰だったから。

 恩返しをしたい――その偽らざる気持ちを立ち上がって伝えたジュンタに、トーユーズは腕を組んでふっと笑った。

「お馬鹿。そんなのジュンタ君が気にする必要ないわ。確かにランカに来たのはジュンタ君が理由よ。けどね、ジュンタ君のためというのはちょっと違う。あたしはね、あたしがジュンタ君の傍に居たかったからやって来たのよ」

 聞きようによっては告白とも取れる言葉を、何の照れもなく口にして、トーユーズはジュンタの目の前に近付く。

「先生の幸せってね、生徒が自分の期待に応えてくれることなのよ。それは自分の夢を伝え、託すってこと。あたしはね、今ジュンタ君の姿に夢を見ている。あたしがジュンタ君の傍にいたかったのは、夢を見ていたかったから」

 そっとトーユーズの伸ばした両手が、両側からジュンタの頬に触れる。

 愛おしげに撫でながら、トーユーズは子供みたいに嬉しそうに笑った。

「ジュンタ君は自分があたしに恩返しできてないって言うけど、それは違うわ。あたしは夢を見てるんだもの。恩なら十二分に返してもらってる。むしろ恩が多すぎて、いつもあたしはこう思っているわ。――ああ、もっとがんばらないとなぁ、って」

「先生……」

「本当に、感謝してる。こんな夜だから言うけど、ジュンタ君はあたしの宝物なの。
 あたしが見た夢。あたしが見たかった夢。ジュンタ君がリオン様を守ろうとする力があたしの伝えた力だなんて、これ以上の幸せはないわ。
 ジュンタ君。あなたはとても素敵な男の子よ。あなたはあなたが気が付いていないだけで、多くの人を救っている。あたしもその一人なの。だから、これからもがんばりなさい」

 トーユーズの唇が、ジュンタの額に触れた。それは母親が子供に愛を伝えるかのような、師から弟子に向けられた想いだった。

 ……気付いていなかった。自分がトーユーズにとって真に弟子だったことに。

 いつからそうだったのかはわからない。けど、今はもうそうなのだ。
 自分がトーユーズに感謝しているように、また彼女も感謝を向けてくれるなら……何をこれ以上言おう。

 離れたトーユーズは、ちょっとだけ照れたように頬を赤くしている。あるいは、それは酔っぱらっているからなのかも知れない。

 ちょっと卑怯だけど、今の先生からなら何とか一本取れるかも知れない――ジュンタは剣を鞘に収めることなく、強く手に握り直す。

「先生。もう一回いいですか?」

 何を、とは言わない。トーユーズには伝わって、彼女は頷いて両手に雷気を纏め上げた。

 言葉は必要なく、月光の下で師弟は目で修行開始の合図を交わす。

 ……質問をしようと思う。一つだけ、自分自身に対する質問を。

 ――サクラ・ジュンタ。お前は、リオンに告白したことを後悔しているのか?

 輝く紅の剣と無骨な刃。虹色に煌めく旅人は、今宵もまた、黄金のような雷光を纏う強者へと挑む。

 それが答え。後悔などあるはずもなく、未だジュンタは前へと進むことを望んでいる。

 では、今日からまた歩いていこう。此度の寄り道は終わった。なら、次の足を止めたくなるような場所を目指してまた歩いていこう。

 せめて格好だけは一人前に付けて――だってまだまだ、この見果てぬ道は続いているのだから。

 


 

 結局一太刀も浴びせられずにボロボロに敗北したジュンタは、笑顔で宿に戻った。
 色々あった今日の疲れを温泉にでも入って落とそうと、スキップしたくなるような気分で向かっていたのだ。

 予想外な展開に転がり始めたのは、部屋へと入った瞬間にラッシャと出会ったからだった。

「ジュンタ――いやさ兄弟! ワイが傷心の自分を慰めてやるでぇ!」

 そんなわけで、もう少し今日という日の夜は続くらしい。

 サクラ・ジュンタ――失恋一日目の夜だった。









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