第九話  湯煙温泉伝説(湯祭編)


 

 ジュンタは片思いの相手に振られたわけだから落ち込んでいる。なので、この辺りで気分転換のためにも自分が慰めてやる――そんな建前を述べてから、ラッシャは高らかに言い放った。

「というわけで、ジュンタ。一緒に温泉覗きに行こうや!」

「……………………ラッシャ、お前なぁ」

 ビシリと親指を立てた欲望に正直すぎる友人を、ジュンタは呆れた眼で見る。
 
 こっちを慰めようとしてくれる気持ちはありがたいが、なぜにそれが温泉を覗くことに繋がるのか? ……理解できるがアホらしくて理解したくなかった。

「なんやなんや。そんな、ワイをかわいそうな人間を見る目で見て。自分も欲望に正直になれや。本当は覗きたいんやろ? な?」

「な、って。……廊下で宣言してるってことは、今露天風呂にはリオンたちが入ってるのか」

「そうや! さっき姫さんにクー嬢ちゃん、ユース嬢。それとクレオ嬢が一緒に行ったんよ。姐さんがおらへんのは残念やけど、このラインナップが揃う日はもう今夜しかあらへん! 今夜を逃すっちゅうことは、つまりは人生最大のチャンスを逃すのと同義っちゅうわけやな」

 ニタニタ笑って鼻の下を伸ばすラッシャ。ジュンタも大浴場に向かおうと思っていたが、一足早く女性衆が向かってしまったらしい。残念。まぁ、今日のところは部屋のお風呂で我慢しておこうそうしよう。

「それじゃあ、部屋のお風呂に俺は入るとするかな」

「ちょい待てぇぃ!」

 扉を閉め、ラッシャの横を通り抜けようとすると、強引にラッシャは身体を挟み込み通せんぼしてきた。

「おお、おもしろい展開になってきたね」

「必然の展開というわけか」

 部屋の中にいたサネアツとゴッゾにも、もちろん会話は筒抜けだった。
 華麗におかしなポーズを決めたラッシャに、何とも生暖かい眼差しを注いでいる。

「そんな自分を偽らへんでもええんやで、ジュンタ。自分も男。男は温泉に来たら女湯を覗くもの。何らおかしなことあらへん」

「おかしいも何も、それは立派に犯罪だろうが」

「男にはな、ときとしてそれが罪だと知っていても、果たさなければならへん約束があるんや。男として生まれてきたワイらには、女性の身体の神秘を探求するっちゅう、生まれながらの破ってはならへん約束があるんやで!」

「うん。どんなに格好良く言っても、それが許されないことだってことに何ら変わりはないからな。止めとけ。素直に諦めろ。気持ちはわからんでもないが、間違いなくデッドエンド直行だぞ」

 是が非にでも大浴場に向かった女性衆の湯浴み姿を覗こうとしているラッシャを、ジュンタは当たり前に止める。止めないと本当に死人が出るし。

「ラッシャ。よく考えてみろ。今温泉に入っている内二名は、もし裸を見られたら完膚無きまでに抹殺に走る人間だぞ?」

 悲しむは悲しむだろうが、その後報復に走るのはきっと二人だけ。
 一人でも致死量なのは間違いないので、二人なら二度は死ねるという計算だ。

 そのあたりの事実には実感が薄いのか、ラッシャは鼻息荒く首を横に振った。

「何言うとるんや。今は温泉旅行! 温泉旅行に男子と一緒に来たっちゅうことは、覗かれる覚悟があるっちゅうことやで。そりゃ、ワイかて無傷でことが済むとは思ってへん。やけど、まさか本気で死ぬなんてこと…………あ、あるん?」

 ああ、こいつ死んだな――と、死亡フラグを盛大に踏んだ人間を見る眼差しを、ジュンタはラッシャに向けた。
 
 お笑い的な立場に立つことが多いラッシャは、向けられた眼差しに込められた意味に気付いたらしく、タラリと冷や汗を垂らす。しかしそれでもまだ信じまいと、握った拳は解かない。

「だ、大丈夫や。ワイなら半殺し程度、三日でリカバリーできる!」

「……まだ分からないのか。半殺しどころか全殺し。下手をしたら存在の抹消だぞ?
 ゴッゾさんからもこの馬鹿に言ってやってくださいよ。もしリオンの裸なんて見た日にはどうなるかを」

「そうだね」

 ベッドに腰掛けてことの成り行きを見守っていたゴッゾへと、ジュンタは話を振る。

 リオンの父親である彼は、表面上浮かべていたにこやかな顔を真剣なものへと変える。それは娘の湯浴みを覗くとのたまったラッシャへの怒りが抑えられているような、死地へと向かう知り合いを嘆くような顔だった。

「ラッシャ君。ジュンタ君の言ったことは正しい」

 ベッドから下りて、ゴッゾはラッシャへと近付く。

「私が言うのもなんだが、リオンは貞淑なところがある。もしもそれを汚そうものなら、待っているのは掛け値なしの地獄だ。死すらも生ぬるいといえる仕打ちを受けるかも知れない。いや、受けるだろう。……ラッシャ君、君に地獄へ堕ちる覚悟はあるかい?」

 ラッシャの隣を通り過ぎたゴッゾは、振り向くことなく背中で物語る。ラッシャはゴクリと息を呑んだ。

「覚悟があるなら止めはしないよ。しかし、地獄に堕ちる覚悟がないのなら止めておきたまえ。それはつまり、ここが君の命をかける瞬間ではないということなのだから」

「そうだそうだ。止めておけ」

 さすがはゴッゾ、ものすごい説得力だとジュンタは感心する。

 ラッシャはゴッゾの背中をじっと見つめ、額から汗を伝わせて顎からぽとりと落とした。

「ワイは、やけどワイは……」

「ラッシャ君。では、問おう――

 ここに来て、初めてゴッゾがラッシャへと振り向く。
 その瞳は覚悟を問い質し、その笑みは男の覚悟を見せていて、


――私と一緒に、地獄に堕ちる覚悟はあるかい?」


「どこまでもついて行きますっ、ゴッゾの旦那!」

「ちょっと待てぇい!!」

 ガシリと力強く握手を交わしたアホ二名に、ジュンタは激しくツッコンだ。

 何だこれは。何の冗談だこれは。なぜ本来止めるべき立場にいる最年長者が、普通に覗きに走る男の背中を押し、あまつさえ一緒に犯行に及ぼうとしているのか。

 ジュンタの中でガラガラと音を立てて崩れていくのは、ゴッゾ・シストラバスという最近やばいくらいはっちゃけてきた貴族の、紳士的な部分とか真面目な部分だった。本当に、一体いつ頃からこんなおかしなノリになっちゃったんだろうか?

「ゴッゾさん、なに覗きに便乗してるんですか。お風呂にはリオンがいるんですよ?」

「はっはっは。ジュンタ君、娘の発育具合を確かめるのも、親の大切な義務とは思わないかい?」

「思いません。むしろ親なのがNGです。実際問題、それはシャレになりませんから、二人とも止めた方がいいですって」

 ジュンタが呆れた風に制止を呼びかけると、ゴッゾとラッシャは顔を見合わし、揃って溜息を吐いた。

「ジュンタ君。君は少々情けないな。覗きはいけない? そんな大人が決めたルールなんてぶちこわしてしまうといい」

「自分には男としての性欲もロマンもないんか? 男ならここは是が非にでも行くところやろ? もしかして不能なんかそうなんか?」

「な、なんで俺が呆れられて同情されてるんだ?」

 やけに説得力と威圧感のある二人の間違った人間に、ジュンタはタジタジとなって後ずさる。

 そこへ近付いてきたのは今まで成り行きを見守っていたサネアツ。
 サネアツはジュンタの肩に登るのではなく、ゴッゾの肩へと飛び乗った。

「サネアツ、お前もか!?」

「オフコース、もちろんだとも。俺も一応は男であるからして。それに、このようにおもしろそうなイベントに便乗しないはずがないだろう?」

「歓迎するよ、サネアツ君」

「おうっ、サネっち。それでこそ男や。それに比べてジュンタの枯れっぷりは……」

 二人と一匹からの視線に、ジュンタは押し黙る他なかった。正しいのは絶対自分なのに、間違っているのは絶対彼らなのに、なぜか非が自分にあるような気がしてならなかった。

 確かにジュンタだって男だ。想い人であるリオンだっている。大切な女の子のクーだっている。その湯浴み姿を覗きたくないかと言われたら、正直なところNOだ。そこでYESと答えられるほど、ジュンタは男を捨てていない。

 しかし実際に行動へ移せるかと訊かれたら、許容することなんてできない。
 そう理性が囁いているのだから、やるべきことは彼らを止めることしかなかった。

「ほぅ、なるほどな。つまりはそういうことか」

 そのときサネアツが何かに気付いたように頷く。
 直感的に、ジュンタはサネアツが次に口にする囁きが、悪魔の囁きであると気が付いた。

「サネアツ君。なるほど、とはどういう意味だい?」

「なに、簡単な話です。ミスタ。ジュンタがこうも覗きに乗り気ではない理由ですよ」

「の、乗り気も何も、止めるのは人として当たり前だろ?」

「そうかも知れない。昨日までのジュンタだったなら、リオンに嫌われたくないと絶対にそうしていただろう。しかし今のジュンタなら振り子の針はこちらに傾くはずだ。それなのに未だそちらにいるということはつまり、別の理由が存在するということ」

 ニヤリと小悪魔の笑みを浮かべる小さな子猫の恐ろしさに、ジュンタは焦燥に駆られる。

「よくよく考えてみたら、ジュンタはすでにリオンとクーヴェルシェンの裸体を拝んでいたな。なら、わざわざ嫌われる可能性を犯してまで、すでに見たものをもう一度見ようとはしないだろうよ」

「なるほどね」

 サネアツの説明にゴッゾが得心いったように相づちをうつ。それはジュンタに否定の言葉を続かせないようにする、絶妙なタイミングでの頷きだった。

「であるなら、サネアツ君。どうすればジュンタ君を我々の側に引っ張り込めると思うんだい?」

「なに、簡単なことです。リオンとクーヴェルシェンがダメなら、他の女性を引き合いに出せばいいだけのこと。
 ジュンタ、よくよく考えてみるがいい。我々が向かわんとしている聖地には今、あのパーフェクトメイドことユース・アニエースが入っているのだぞ?」

 サネアツのその一言は、ジュンタの脳天に雷を落とすほどの衝撃を秘めていた。

「ユ、ユースさん……?」

「そう、ユースだ」

 それまで努めて考えないようにしてきた相手のことを話題にあげられ、ジュンタは否応なく想像してしまう。

 ユース・アニエース――リオンやクーとは遙にレベルが違う、あの魅惑のメイドのことを。最近になって年下だと知って、だけどなぜか呼び捨てで呼んだり、タメ口を使うのは恐れ多く感じるメイド様のことを。

「あえて言うのなら、俺もジュンタと女性のタイプは同じだからな。嘘とは言わせない。
 年上で落ち着きがあって、出来る女といった感じ。容姿でいうならクールな感じ。つるペタよりも巨乳好き。属性はメイド……ユース・アニエースという女性は今まで出会った異性の中で、ジュンタにとって最も理想に近いタイプなのだろう?」

「ぐ、ぐっ……それは……」

 そうなのだ。初めて会ったときからユースのことをちょっと苦手にしていたのは、その雰囲気というか容姿というか、ぶっちゃけ好みど真ん中ストレートだからなのでした。だから年下と聞いて、あれほどの衝撃を受けたのでした。

 好みがそのまま恋愛対象になるわけではないのは、リオンに惚れたことからも明白だが、それとこれとは話が別。限りなくユースという少女は、ジュンタが最も異性としての魅力を感じる相手なのである。

「いついかなるときも決してメイド服を脱がないユースが、今や他の服どころか一糸まとわぬ姿。そんな光景が目の前にあるというのに、これを逃す手はないだろう? それはいわば、サクラ・ジュンタによるサクラ・ジュンタへの反逆だ」

「い、いや、だけど。俺、リオンにそういうことがあったら止めるって約束したわけだし」

「はっ、これは笑わせてくれるではないか。いつまでも女々しく過去に縋ってどうする? 本当に大事にすべきなのは未来――これからだろう? 信じてやれ。俺たちの日常は、この程度のことで崩れ去るほど儚くはないと」

「……いい言葉なんだけど、誘われているのが覗きって…………」

 サネアツの巧みなジャブに、徐々にジュンタの理性が本能に負けていく。

 欲望に忠実というか男としてはある意味正しい三人からの無言の手招きに、ジュンタは静かに頭を垂れる。

 分かっていた。もう、どうしようもないことぐらい。だって、仕方がないじゃないか。さっき、精々格好付けて楽しもうと決めてしまったのだから。

「………………絶対にバレないように。それが絶対条件で」

 温泉旅行四日目の夜――必然の騒動が今、この『不死鳥の湯』で起ころうとしていた。

 


 

       ◇◆◇


 

 

 何なんだろうか、この空気は? 

 その疑問はクレオメルンがここ数十分に渡って抱いている疑問だった。

 昨日の早朝にラバス村にやってきて、名高い『不死鳥の湯』に泊まることになったクレオメルン。昨夜は色々あったので、こうして大浴場に入ることができたのはこれが初めて。かつて騎士の姫たるナレイアラ・シストラバスも入ったといわれる、縁を結ぶ湯に入るのは楽しみで仕方がなかった。

 けど先程から湯煙に包まれた場を、緊張感が満たし続けている。

(どうして、こんな奇妙な緊張感があるのだろう?)

 トーユーズ・ラバスを除いた女性衆で一緒に浴場へ行こうという話が出たときには気付かなかった。気付いたのは更衣室で服を脱いでいたとき。発生箇所はリオンとクーの間。そのときは気のせいかと思ったが、湯に浸かった今でも明確に二人の間に緊張感が漂っている。

(リオン様とクーの間に、何かあったのだろうか?)

 翡翠色の髪をいつもより高い位置でポニーテールに結んだクレオメルンは、二人から少し離れた場所で、その長身を湯の中につけていた。

 霊湯は予想通りの温かさで、身体の芯から疲れを取ってくれる。最近溜まっていた疲れを、緊張感を解すとともに奪っていってくれるのだが、その傍から新たな緊張感が両肩にのしかかってきたら意味がない。

(き、気まずい。喧嘩ではなさそうだが……一体どうしたというんだ、二人は?)

 俯けていた顔を、クレオメルンはソロリと隣り合ってお湯につかるリオンとクーに向ける。

 長い髪をアップにしてタオルで巻いた二人は、無言のまま肩までお湯につかっている。
 それだけを見れば温泉を静かに楽しんでいるように見えるが、時折絡み合う二人の視線の密度は、和気藹々という言葉とはほど遠い。

 どことなく勝ち誇った笑みを浮かべるリオンと、グッと押し黙るようにして悔しそうにしているクー。……本当に、二人は何をしているのだろう?

 二人の醸し出す空気に負けたクレオメルンは、リオンとクーから最も遠い場所に陣取り、本当に静かに温泉を楽しんでいるユースの元へと場所を移動した。

「あの、ユース。どうしてあの二人はああも緊張感に包まれているのだろうか?」

「申し訳ありません、クレオメルン様。それが私にも皆目見当がつかないのです」

「あなたでもか?」

「はい。どうやらお二人が今朝いなかった折、何かあったようでして。それが原因で、何やら微妙な緊張感が生まれたことぐらいしか」

「そうなのか……」

 今朝といえば、昨夜当然の如く告白が玉砕となったジュンタ・サクラとリオンがいなくなった時か。あまり事情を知らない自分は出しゃばらない方がいいと思って大人しくしていたが、そう言えばクーもまた部屋にはいなかった。

(何かあったのか? クーに限って、喧嘩するなんてことはないと思うが……)

 クーが誰かと喧嘩している場面など、クレオメルンには想像もつかなかった。少なくとも、これまでに一度も見たことはない。

「一体何があったのか、こればっかりは二人にしか分からないか。そっとしておくべきか」

「それがよろしいかも知れませんね」

 そう言いつつも、眼鏡の奥の翠眼を二人に向けるユースの様子が、クレオメルンにはどこか楽しそうにしているように思えた。

「ところで話は変わるのだが――
 
 クレオメルンにはリオンとクーの様子と同じく、先程から疑問に思っていたことがあった。

「ユース。どうしてお風呂に入っているのに、頭のソレをつけているのだろうか?」

 ソレ、と指摘したのはユースが頭につけているホワイトブリム。
 見事なプロポーションを持つユースは一糸まとわぬ裸なのに、どうしてかホワイトブリムだけは装着してしていた。

「私はメイドです。こうして主と共に湯浴みが許されても、それは変わりませんので」

 その訊くべきか訊かざるべきか悩んだ疑問を我慢できなくなって口にすると、ユースはほんの少しだけ得意気に言い放った。何ら嘘偽りのない、当たり前のこととして。

――もちろんこれが、メイドがメイドであるための嗜みだからです」


 

 

 傷心の気持ちを少し取っ払って帰ったと思ったら、一体自分は何に巻き込まれているのか?

 分かっている。覗きだ。男のロマンにして女性が最も嫌う犯罪行為だ。一体いつから自分はこんな最低野郎になってしまったのか、と嘆く傍らで、ジュンタはゾクゾクするような好奇心が胸に湧き上がってくるのを感じていた。

――さて、ミッションを果たしたあとの過酷さについてはすでに語った通りだが、実際は果たすまでも過酷だ」

 暗がりに揃った三人と一匹の男たち。
 周りは月明かりに照らされる緑の木々。この場所こそ『不死鳥の湯』の眼下に広がる、アニエース家所有のトラップ満載な森の中だった。

「構造上、誰にもバレずに旅館の中から温泉を覗くことは不可能だ。唯一バレずに覗けるルートはここ、この眼下の森から崖をよじ登り、温泉の裏手に辿り着くルートのみだ」

「そう言えば、確か温泉の周りには特に柵らしいもんもなくて、目隠し用の木々があっただけやったな」

「景観を大事にしようとした結果そうなったわけだが、これが完全無欠と呼ばれた『不死鳥の湯』の唯一の抜け穴にもなってしまったわけだね。目隠し用の木々は、逆のその裏側に回れば温泉側から見ても目隠しとして機能してしまうというわけさ」

 一番この辺りの地形と旅館の構造に深いゴッゾの統率の元、アニエースの森にしてジュンタたちは『第三回覗き大作戦 〜我々は犯罪者ではない。ロマンティストなのだ!〜』遂行の話し合いを進めていた。

 何やら本気で話し合うほどにもの悲しさを感じてしまう会議の中、ジュンタが最初に抱いた疑問は、

(……第三回って、第一回と第二回があったってことだよな?)

 そんな、ちょっぴり現実逃避を孕んだものだった。

「しかし、もちろん旅館側もそこが穴だということは理解している。それでも放置しているということは、つまりそれだけ自信があるということさ。そしてその自信が過信ではないように、唯一温泉の裏手に回れる場所は崖であり、その真下の森はトラップだらけ」

「なるほど。あんなにトラップがあったのは、やっぱりそれが理由だったんですね」

 ジュンタはトーユーズとの修行の折に、とんでもない数のトラップがあったことについて深々と納得する。あれが覗き対策とは本当に恐れ入る。なんだ? アニエース家は、覗きが騎士団丸ごとぐらい来るとでも思っているのか?

 いくら老舗で高き価値ある霊湯とはいえ尋常ではないトラップの数々を思い出し、ジュンタは背筋を震わせる。

 そんなジュンタを安心させるように、ゴッゾが笑った。

「なに、そんなに畏れることはないよ。確かに未だかつてこの温泉を覗けた者はいない。過去二度挑戦したある男も、様々な手段を講じたのに関わらず、惜しいところで楽園を取り逃した。しかし、今回はひと味違う。天運は我々に味方をしているよ。
 私が先に確認したところ、なぜか森のトラップの過半数以上が破壊されていたんだ。それも致死量レベルのトラップのほとんどが全滅状態。未だアニエース家はその事実に気付いておらず、まさに今が千載一遇のチャンスというわけさ」

「…………いや、いいんですけど……前もって調べていたってことは、ラッシャが言う前から覗く気満々だったってことですよね?」

「さて、では具体的なルート説明に入ろうか」

 ハハハ、と笑顔で誤魔化したエセ紳士に絶対零度の視線を送りつつ、ジュンタは自分も同じ穴の狢かと溜息をつく。その後、しっかりとゴッゾの話に耳を傾けた。

 いくらトラップがトーユーズの手により破壊の憂き目にあっていたとしても、それでもこの森は恐ろしい。トラップもいくらかは残っているだろうし、魔力の収束が難しかったりと、肉体的に踏破は難しかろう。

「今我々がいる場所は、全力で進めば五分で露天風呂である大浴場の崖の真下へ辿り着ける安全地帯だ。しかし、この先は森の中でも一際まずいトラップで溢れかえっている」

「ミスタ。ちなみにどのようなトラップがあるのです?」

「そうだね。肉体的にというか精神的、及び社会的に抹殺されてしまうようなトラップだね。森のあちこちにある落とし穴の中身が、この先に至っては男大好きなジェル状生物といえば、その恐ろしさのほどがわかってもらえるかな?」

「そ、それは……」

 さすがのサネアツもゴッゾのこの言葉には冗談を返せなかった。ラッシャも心なしか顔が青い。……危なかった。昼間に落ちた落とし穴の中身のアレは、まだまだランク的にはマシな方だったらしい。

「あまり怖がっている時間はない。早くしなければ、リオンたちがお風呂から上がってしまうからね。彼女たちは長湯だろうけど、それでも全行程を一時間以内でクリアしなければならない。崖を登るのに時間がかかることを想定しても、この道は十五以内に踏破したいものだ」

 そのゴッゾの口振りが、五分で踏破できる道のりが、決して五分では踏破できないものであることを明確に知らしめていた。

 一同は息を呑み、深く暗い深淵を今夜に限ってはのぞかせる森を見つめる。
 中でもゴッゾが浮かべる笑みは、まさに万難に立ち向かう戦士のそれ。全員が最大装備している中、ゴッゾの腰にも滅多にないドラゴンスレイヤーが輝いている。

「さぁ、皆。準備はいいかい? それでは行こう。祭りの――始まりだ」

 シストラバス侯爵家騎士団――『竜滅騎士団』、『不死鳥騎士団』と呼ばれる騎士団の団長の魂は今、戦場を前にして激しく燃えさかっていた。

 …………いや、本当に。今夜はあなたの見る目が変わる夜ですよ、ゴッゾさん。


 

 

       ◇◆◇


 

 

 クーから見当はずれというか、何とも形容しがたい感情を呼び起こさせる宣言をされてから数刻後――やってきた温泉につかること数十分。リオンは無言で温泉を楽しみつつ、チラリと時折、隣にいるクーの横顔を見ていた。

 何やら先程は怒っていたような彼女だが、今では別に何ともないようだ。
 元より自分に対する怒り云々はあの宣言によって解消されたのか、今彼女が何を考えているかは定かではないが、それでも怒りの念は感じられない。

 しかし両者の間に満ちる空気は緊張感漂うもの。さもありなん。先の宣言は友好宣言であると同時に敵対宣言だった。自分が、クーが協力してくれるというジュンタに似つかわしい女性になる努力をしていない今、彼女は敵も同じだった。つまりあの宣言は敵対するという宣言も同じなのだ。

 リオンはクーが嫌いではない。むしろ好きだといえた。

 何事にも一生懸命で、かわいらしくて、素直な女の子であるクーをどうして嫌えようというもの。屋敷のメイドたちにも猫かわいがりされているように、またリオンもクーのことが好きだった。

 けど、敵対宣言をされれば仕方がない。騎士として、引き受ける他あるまい。

 そんなわけで、クーに向けたリオンの視線は、自ずとそこへ向かった。

「っ!?」

 これで何度目か。思わず行ってしまったそこに視線が向くと同時に、クーからショックを受けたような悔しそうな気配が放たれる。

 透明なほどに澄んだ白を見せる肌は、芸術品としても通用する美しさと儚さを孕んでいる。しかし悲しいかな。かわいらしいとはいえるクーの身体は、歳不相応に未発達だった。

(オホホホホッ! 残念でしたわね、クー!)

 リオンも知ることになったクーの『竜の花嫁ドラゴンブーケ』としての出生の秘密。発育が不安定なのもそれが原因らしいが、それを理由にすることはできない。

 純然たる事実として、クーの胸の大きさはリオンのそれを下回っていた。


 

 

「ふっ」

 もれてしまったという感じの勝利の愉悦と同時に、リオンはちょっと胸を反らした。するとお湯の中に消えて見えずらかった胸が、クーの目の前へ自然とさらけ出される。

「あ、うぅ……」

 異性同士ですら直視することが憚られる、女神のようなリオンの肢体。
 きめ細やかな白い肌。なだらかな胸のラインは見事といっていいほどに女性らしさを表している。それは自分には望むべくもない、確かな胸の膨らみだった。

 クーは衝撃を受けたまま、自分の胸元を見下ろす。

 一応は女性であるからして、僅かながらに膨らみはある。けれどそれは見れば見るほどに悲しくなるほどの小ささ。大草原の地面がちょっと隆起したという感じでしかない。そこまで大きいとはいえないが、確かな質量を見せるリオンとは比べられもしない。

「む、胸の大きさなんて……大きさなんて別に…………」

 愕然としたまま、クーは口元までお湯の中につかる。

「あら? どうしましたの、クー? そのように胸を隠さなくてもいいでしょう? 安心なさいな。あなたはまだまだこれからですわよ。そう、これからですわ!」

 おっほっほっほ。と、高笑いを浮かべるリオンに、さらにクーは顔を赤くして身体を縮める。

 ジュンタとの仲は応援できない今のリオンだが、それでも高潔で格好いい女性であり、クーが好きな相手であることには変わらない。だから一緒に温泉へ行くと聞いて快く承諾したのだが……まさかこうまでコンプレックスを突いてくるとは思わなかった。

「酷いです、リオンさん。私、胸が小さいこと気にしてますのに」

「クー。世の中は非情なものですのよ。女同士が一緒のお湯につかったのならば、これは決して避けられぬもの。勝者と敗者が明確に線引きされる女の戦場。あなたに今できることは、これをバネにこれからも努力することだけですわ」

 気持ちよさそうに笑うリオンの言葉に、クーはいっそのこと潜ってしまおうかとすら思った。だが、それは止めた。リオンから背けた視線が、ちょうど浴槽の反対側にいる二人の姿を見つけたために。

 ああ、なんて悲しい現実なのだろう。と、クーはしみじみ思った。

「リオンさん、リオンさん。お願いですから、今の言葉は撤回してください。いえ、撤回した方がいいですっ!」

「あら? それは自分がいつかは私を超える、という意志表示なのかしら? ですけど、残念ですわね。シストラバス家は代々豊かな胸を誇っていますの。今は私もまたこの程度で甘んじていますが、いずれは大きく花開くのですわ!」

「いえ、そのぅ、そういう意味ではなくてですね……」

 どうやら先の宣言により、リオンの意識は自分にだけ傾いているよう。先程までの自分がそうであったように、彼女は周りに視線を向けることを忘れているのだ。もし忘れていなかったら、先程のような自虐的発言をするはずがない。

 そう、所詮はそうなのだ。未来に希望を持っていようとも、現実はこの瞬間のみにある。
 自分たち二人のものを比べても、五十歩百歩という結論を変えることはできない。つまり、彼女の保有戦力に比べてしまえば、自分たち両方ともが敗者なのだ。

「リオンさん。現実をそろそろ直視してください。この世界にいるのは私たちだけではないんです。そして理解してください。本当の勝者がどなたなのかを」

「?? クー、あなた一体何を言っています、の…………」

 リオンの視線が、クーの視線が向かう先へと移動する――瞬間、リオンは完全に硬直した。

「どうかしましたか? リオン様」

 二人に視線を向けられたユースは、首を傾げる。
 湯気を吸って少しまとまりをよくした薄茶色の髪の毛が、彼女の頬に張り付いて色気が放つ。

「………………」

「………………」

「………………あの……」

「………………そう、そう言えばそうでしたわね」

 ユースとクレオメルンの姿を見咎めたリオンが、逸らしていた胸を両手で隠して、クーと同じように顎までお湯につかった。

「私は何を勝ち誇っていましたの。目の前に本当の敵がいたといいますのに、空しすぎますわ。私が侍女たちと一緒にお風呂に入らなくなった原因が、今一緒の湯の中にいたのでしたわね」

 乾いた笑みを上げると共に、リオンは女だけにしかわからない感情から目尻を潤ませる。
 顎を引いた状態で上目遣いにユースたちを睨むリオンの頭を、クーは偶にジュンタがしてくれるように撫でてあげた。

「大丈夫です、リオン様。私たちはこれからなんですから。シストラバス家は代々豊かな胸をお持ちなんですよね?」

「ですけど、ですけど……ユースは私と同い年で、まだ成長の余地はあって、つまりユースのあの大きさには……!」

 いつもはロングスカートの服を着ているために隠されているユースの素肌は、今完全にさらけ出されていた。聖地に住み肌を無闇に晒すことのない隣のクレオメルンもまた然りである。

 クレオメルンはそれなりに長身で、それほど胸は大きくない。けれど無駄な筋肉が一切ないスタイルは見事の一言で、胸だって身長に比べればの話。リオンやクーよりは大きい。

 しかしこの際、彼女のことは隣に置いておく。
 問題はユースだ。憧憬と共に絶望を与える、パーフェクトメイド様だ。

 身長はリオン以上クレオメルン以下なのに、女性らしさでいえばダントツだ。他の追随を許さない。

 服の上からでも分かるボリュームは、今服の中より解き放たれて圧倒的な存在感を見せつけている。ともすればお湯に浮いているのではないかとすら思える、柔らくて瑞々しい張りのある胸。桃色に色づいた深い胸の谷間が放つ引力は、谷間などできないリオンやクーにとっては絶望を敗北感と共に一方的に与える。

「あの、どうしてそのように私の胸を見られているのでしょうか? 何かおかしな点でも?」

 さすがに二人にガン見されたユースは、恥ずかしそうに胸元を隠す。
 そのため彼女の腕が胸をふにょんと潰し…………ダメだ。これ以上見ていたら立ち直れない。

 すでに口から魂を吐きかけているリオンよりかは、先程もダメージを受けていたためクーの方がショックは少なかった。むしろ、あまりの戦力の差に現実味すらない。
 だけどこうして改めて、クールな彼女の保有戦力を見せつけられたら……口から出るのは感嘆の溜息だ。同時に気付くのは、ユース・アニエースという女性の完璧さだ。

「ユースさん。こうして見ると、リオンさんに負けないくらいの美人さんです」

 茶色と翠の瞳という、神聖大陸エンシェルトでは一番普遍的な組み合わせであるというのに、ユースが持つとなぜか特別なように思える。いうなれば、リオンの持つ紅髪紅眼のような絶対的な魅力を、今はそうやって隠しているような感じか。

 いつもはメイド服という開かぬ秘密の小箱が、裸になったことにより隙間が開いた。
 そこから僅かに溢れ出る輝きがあるだけで、もはや彼女は騎士姫に付き従うだけの従者ではない。何が言いたいかというと、胸が大きいは正義なのです。

「いえ、待ってください」

 ユースの隠された魅力に気付いたクーは、同時にとある事実にも思い当たる。

「綺麗で優しくて、いついかなる時も主人に尽くす……それに年上で落ち着きがあって、出来る女といった感じ。容姿でいうならクールな感じで、つるペタよりも巨乳。属性はメイド……はっ、完璧です!」

 それはユースという女性が、大事な大事なご主人様の好みと完璧に合致するということだった。ええと、確かユースはジュンタより年上で良かったはず。

 キランとクーの瞳が輝く。まさか、これほどまでにジュンタにふさわしい人がこんな身近にいたとは。クーヴェルシェン・リアーシラミリィ、一生の不覚である。

「ユースさん!」

「はい。なんでしょうか?」
 
 徐々に身体を縮めていくリオンの頭から手をどかし、クーは身体の前で手をギュッと握り、ユースに強い眼差しを向けた。

「一つご質問ですが、ユースさんはご主人様のことをどう思われていますか?」

「え?」

 という驚きの声は、身を縮めていたリオンのものだった。

「ジュンタ様をどう思っているか、ですか? それはもちろん、悪い感情は抱いていませんが」

「そうですか。それはとても良かったです」

 クーだって、ユースのそれが恋愛感情でないことは百も承知だが、それは今のお話。一分先、一時間先、一日先の未来は誰にもわからない。自分がそうであったように、ジュンタならすぐにでも変えてしまうかも知れない。

「では私、応援させていただきます。どうかがんばってください!」

「は、はぁ」

「ちょ、クー! あなた何言ってますのよ!?」

 よく分からないといった困惑の表情を浮かべるユースと、バシャリと立ち上がるリオン。

 何やら憤っているような焦っているような表情を見せているリオンにクーは顔を向けると、ビシリと人差し指だけを立てて突き出した。

「めっ、ですよ、リオンさん。人の恋路を邪魔してはいけません」

「こ、恋路って、何を考えてますのよ! そんな、ユースとジュンタだなんて……確かにユースは優しいですし、お似合いかもと言えばそうかもですけど…………胸も大きいですし……ふ、ふふっ……」

「リ、リオン様?」

 立ち上がったリオンは、虚ろな笑みと共に胸を隠してお湯の中に沈んでいく。そこにもはや、自身の胸を誇った少女の姿はなかった。

「そう、胸が大きいは正義なのですわね。くっ、精々束の間の喜びに浸っているがいいですわ。半年先、一年先こそは必ずや私が勝者に!」

 髪の先までお湯の中に消えたリオンは、温泉の中央で浮かび上がる。

 敗者の叫びのすぐ後に、温泉のお湯は白くなった。


 

 

       ◇◆◇


 

 

 ――ワイはな、レールに引かれた人生が嫌だったんや。

 そうラッシャは笑って、今まで語ったことのなかった自分の素性を語り始めた。

「ワイが生まれたんは、グラスベルト王国の港町フリュリーゲンや。貴族やあれへんけど、大きな商家に生まれてな。苦労なんてしたことあらへんかった。高い商人としての教育を受けられたし、跡継ぎ息子やしな。将来も約束されとった」

 ジュンタは笑顔で語り始めたラッシャを見る。先行していたのが災いした。手を伸ばしても、彼にはもう届かない。

「けどな、いっつも考えとった。自分の未来はそれでええんか。他に選択肢はないんかってな。ほんま、子供やったってことやな。親に決められた生き方っちゅうのに反感を抱いとったんや。それが決定的なもんになったんはな、婚約者を紹介されたときやった」

「婚約者? もしかして、好みじゃなかったのか?」

 せめて話をしっかり聞いて答えてやろうとしたジュンタの言葉に、ラッシャは首を横に振る。

「うんにゃ、ちゃうで。ブサイクどころか、めっちゃ別嬪さんやった。ワイとは釣り合わへんことが一目でわかるぐらいにな、かわええし性格も良い子やったで」

「それならなんで? お前なら、喜んで結婚しそうなのに」

「ワイやからや。こんなノリのワイと結婚するっちゅうのに、ユリアって名前のその子は全然嫌がっとらんかった。それが当たり前っちゅう顔して、婚約者として接してきおった。
 ……訊いてみたことがあるんや。ユリアの家も商家でな、この結婚が政略結婚なんは一目瞭然やったから。自分はこんな結婚でほんまええのか、ってな」

 乙女にとって政略結婚などごめんだろう。けど、世の中にはいるのだ。それが当たり前だと諦めてしまい、必要ならと受け入れる少女が。

「そしたらな、何の戸惑いもなく頷きおった。それが商人の家に生まれた自分の義務やからって。確かにかわいかったけどな、義務で結婚されるんはまっぴらやったで。んで、盛大に親と喧嘩して、見聞を広げるためっちゅう名目で家を出たんや」

 それがラッシャ・エダクールが旅に出た理由だった。

 生まれたときから定められたレールに乗ることを拒否して、自分なりの生き方を探すために旅に出た一人の商人の。きっと女の子をすぐナンパする理由にも、婚約者の一件があったからだろう。まぁ、本人の性質というのも大きいだろうが。

「それで、ラッシャは旅に出てどうだったんだ?」

「衝撃やったな。世界は広かった。見たことないもんやかわいい女の子で溢れかえとったしな。でも同時に、若造に厳しくもあったわ。危険な目にもあって、人の生き死にも目の当たりにして、路銀が底をついたり、商売が上手くいった矢先に調子こいて破産したり……今までの自分がどれだけ恵まれてたか、数年の間に思い知ったわ」

「そっか。俺も旅に出て、世界は広くておもしろくて、だけど結構大変だって気が付いたよ」

「おうっ、それが旅の醍醐味って言ってもええな。けどな、こうも思うんよ。ワイが反感したあんな親でもな、こんな親を困らせてる息子に期待して、ずっと守っとってくれたんやってな」

 大笑したラッシャが次に浮かべた表情は、いつものどこかだらしない表情ではなく、男が浮かべるにふさわしい顔だった。

「やから、これが終わったらワイ。故郷に一度戻ってみようかと思うんよ。や、結婚するわけやないで? 旅に出たのは間違いなく正しかったし、まだ、ワイには出会うべきかわいい女の子が一杯やからな。やから――

 岩にしがみついている彼の手は震えていた。けれど、それなのにラッシャは言う。意志で語る。

「やから、ワイのことはええ。ジュンタ、先に行ってくれや」

「ラッシャ!」

「なに、自分そない必死な顔になっとるんや。安心せぇ。男に生まれたときに背負った約束は必ず果たす。そこに男のパラダイスがある限り、ワイはこんなところで立ち止まらへん」

 口端を吊り上げて、ラッシャは笑う。

「そうや。ワイはちょっと休憩するだけなんや。自分は先に辿りついとってくれ。後ろは決して振り向くことなく、な。ワイもすぐに追いつくさかい」

「ラッシャ……お前って奴は……!」

 ラッシャの言葉と笑顔を胸に刻みつけて、ジュンタは頷く。

 ラッシャは頷き返してくれた。なら、もう後ろを振り向かずに前だけを向こう。
 ここまでがんばってきたんだ。だから、もう少しだけ。あと少しだけなのだ。だから、振り向かずにがんばろう。

「約束だからな。後からちゃんと追いついて来いよ」

 歯を食いしばって、震える手を必死になってジュンタは動かす。

 ツルツルした崖。だが、それがなんだ。目の前に目指すべき場所があるのなら、この足は次の一歩を必ず踏もう。この手は届くべき場所に必ず届こう。

 そう、それが男だ――さぁ、行こう。

「当たり前や。ワイを誰やとおもっとる。超かわええ嬢ちゃんたちのハーレムに君臨する、未来の大商人――ラッシャ・エダクール様や、で」

 ラッシャの呟きが後ろから聞こえた。笑っている。恐いだろうに、彼は一言も悲鳴をもらすことなく、笑っていた。

――頼むで、ジュンタ。ワイの、分まで』

 その呟きは、果たして本当にラッシャが口にしたものか。
 振り向かないと決めたから、もうそれを確かめる術はなかった。ただ、ジュンタは次の一歩を踏み出す。もらった想いの分まで、しっかりと。

「馬鹿野郎。盛大に死亡フラグを立てやがって…………いや、でも下は沼だから死なないけどな」

 結構緊迫した状況だからか、ノリがいいなぁ自分――そんなことを思いつつ、ジュンタはさっさか手を動かす。

 十五分かけて思い出すのも憚られるトラップフォレストを踏破し、今やジュンタたちがいるのは大浴場に続く崖。それほど高くなく断崖絶壁とはいわない。けれど何の装備もなく立ち向かうのは自殺行為に等しい崖だ。

 すでに登り初めて二十分ほど経つ。もう少しで頂上に到達するといったところで、ついにメンバーから一人脱落者が出た。

「残念だ。ここまで来たのだから、皆一緒に辿り着きたかったんだがね」

「仕方ないでしょう。魔法無しでここを登り切れるほど、ラッシャは身体鍛えてませんし」

「気絶するまでがんばっていたようだがな。完全に白目を向いて落ちていったぞ。あれはきっと、夢の中でパラダイスを見ている。気遣うだけ野暮というものだろう」

 一番先を行くゴッゾとそれに続くジュンタ。さらにジュンタが腰につるした剣にしがみつくサネアツと、三人は消えた同士――ラッシャに追悼の念を贈る。

 メンバーの中で――サネアツは除き――一番体力がないのはラッシャだ。トラップエリアを全力で走り抜けたあと、決して少なくない傷を抱えて崖を昇るのはさすがに無理だったようだ。きっと常日頃から鍛えてこなかった自分を恨みつつ落ちたに違いない。

 ちなみに崖から落ちたのに何ら心配していないのは、真下の地上に、完璧に衝撃を霧散させる沼が設置されているからである。さすがにトラップを仕掛けたアニエース家も、宿の裏手で人死は嫌だったのだろう。完璧な永続儀式場が作られていた。

「しかし、俺もかなりきつくなってきた。先生の修行をしてなかったら、完璧にアウトだったな」

「この崖には魔力を察知し阻害する魔法陣が刻まれているからね。魔力で身体能力をあげようとすれば、たちまち壁が隆起して下に落とされるという寸法だ。同時に魔法陣により、上空からの風の魔法による侵入も防いでいる。竜滅の火を燃え上がらせる風のアニエースの魔法と、『始祖姫』メロディア様の絶技のコンビネーションといえる代物だよ」

 この崖を上がるには、純粋に鍛えた身体を駆使しなければならない。魔力を用いた強化では、即座に叩き落とされてしまうのだ。

 それに加えて――

「と、ジュンタ君。気を付けたまえ。すぐ左、そこに手を触れると棍棒が飛び出してくるからね」

「またこの手の罠ですか。さすがにここまで来て落ちるのは嫌だ」

 一直線に上まで上がるルートを、この崖は取らせてくれない。
 直進ルートには、必ずといっていいほど突き落とすための罠が仕掛けられている。それを避けるには綿密なるルート決めが必要不可欠であり、このルートというのがかなり遠回りなのだ。

「ふむ。多くの場所に罠を仕掛けても、決して全ての場所に罠を仕掛けないあたり、メロディアの悪辣さを感じさせるな。本当にタチの悪い」

「過去の使徒に悪態づいてもしょうがないだろ。というか、人にしがみついているだけのお前が言うな」

「さぁ、ジュンタ。もう少しで頂上だ。未だ時間もたっぷりあるぞ! ここまで来て、今更引き返すという選択肢はあるまい?」

「当然だろ。ここまで来たんだ、もう何がなんでもやってやる!」

 最初の頃の躊躇はどこへ行ったのか。ここまで来るのに使った労力、身体に刻まれた大小様々な傷と手の痛みによりハイテンションになったジュンタは、何の躊躇もなくサネアツの言葉に笑みを返す。

「二人とも。そろそろ声のボリュームを落とした方がいい」

「了解です」

 その注意が来ることを待っていましたと言わんばかりに、ラストスパートをかける二人+一匹。

 ややあって、ジュンタの耳に楽しそうな声が届いてきた。

「でも、本当にユースさんの胸は大きいです。何か大きくするコツなどがあるのでしょうか?」

「コツですか? すみません。遺伝としか答えようがないのですが」

「遺伝か。私も女として、できればもう少し欲しいところだが……」

「遺伝なら、私にはお母様というとても魅力的な未来がありましてよ!」

 …………………………ゴクリ。

 聞こえてきた少女たちの声に、ジュンタたちは息を呑む。
 同時に罪悪感もが湧き上がって来るも、それ以上の達成感の前に塗りつぶされて消える。

 視界の先に、僅かに湯煙がかかった木々が見える。もう少し。本当にあと少しだ。不思議なもので、そう思えば思うほどに手に力が湧いてきた。

 もうこの距離で落ちることなどあり得ない。まず先に行っていたゴッゾが崖をよじ登り、ついに崖を踏破する。

 それに続けとジュンタもまた崖の頂上に手をかけて、


「ジュンタ! 避けろ!!」


 サネアツの注意勧告に、頂上にかけた手に渾身の力を入れて、崖を蹴って大きく上へと跳んだ。

 その直後、手をかけていた場所が崩れた。その場所が崖の下に音もなく落ちていったのと、ジュンタが崖の上に着地したのはほぼ同時だった。

 危なかった。サネアツが注意してくれなかったら一緒に落ちていた――最後の最後で起きたアクシデントに冷や汗を垂らしたジュンタは、腰の双剣に手をかけつつ、目の前にいる紅き剣を握った男性を睨みつける。

 崩れた崖は、決して力を入れたから落ちたわけではなかった。それはゴッゾが持ってきていた剣を、崩れた地面の断面に下ろしていたのを見れば明らかというもの。

「……何のつもりですか? ゴッゾさん」

「これは不思議なことを聞くね、ジュンタ君」

 隣から声が聞こえてくるリオンたちにばれまいと、ジュンタは木の陰に隠れつつ、声を潜めてゴッゾを問い質す。

 最後の最後で裏切り行為を見せた紳士は、ポーカーフェイスの笑みを浮かべて、悪びれた風もなく言い放った。

「君も言っていただろう? ここには私の娘であるリオンがいる、と。父親である私が、みすみすかわいい娘を他の男子の目に晒すと思っているのかい?」

「最初からこうするつもりだったというわけですか、ミスタ」

「独り占めするつもりだったわけですね?」

「その通り。何もおかしくないだろう? ジュンタ君。先に手を出したのが私だったというだけの話。君もまた、最後はこうするつもりだったはずだ。違うかい?」

「……違いませんよ。だって、ここにはクーがいますからね」

 所詮は同じ穴の狢。考えていることも同じだったというわけか。
 父親である彼にリオンの入浴が見られてもまぁ許せるが、この先にはクーがいる。こんな自分を慕ってくれる女の子が。

 いくらまだ幼い――年齢的には十四歳だが――クーといえども、男性に裸を見られるのは嫌だろう。なら、最終的にゴッゾには此処で消えてもらわないといけなかった。

「時間もあまりなく、ここで騒いでもいられない。一撃勝負が妥当と思うが?」

 向かい合う二人の男からちょっと離れ、サネアツがそう案を出す。

 サネアツとは元から取引をしてある。一緒に来ても見ないように、と。猫の身体。見ようと思えばいつでも見られるが、これまで見ようとしなかったように、サネアツは元から特に見るつもりはなかったようであった。そもそもの話、ジュンタはサネアツが女体に興味あるとは思えなかった。

「一撃勝負か。私は構わないが?」

「俺もです」

「そうか。では、審判は俺が務めよう。勝者が全てを得られ、敗者は全てを失う。簡単なこと。ようは勝てばいいのだから」

 白い湯煙が肌をくすぐる。耳には楽園から聞こえてくる、美しい旋律が。

 これまで消えていった同士のためにもここで負けるわけにはいかない。……わかってるな、ラッシャ。お前は展開的に死んでいてくれ。蘇生はせめて明日の朝日があがった後にしてくれると嬉しい。

「行きますよ、ゴッゾさん」

「来るといい。常の君になら勝てないが、今なら勝率が五分五分。どっちが勝っても恨みはなしだよ」

 ジュンタは左右の手に剣を握り、ゴッゾは両手でドラゴンスレイヤーを持って駆ける。

 両者はその真ん中でぶつかり合い、そして…………

 


 

       ◇◆◇


 

 

 ――戦いは終わった。今はもう、何もかもが空しい。

「くっ、無念だよ……まさか、こんなところで三度目の失敗を課せられるとは……」

「ゴッゾさん」

 手からドラゴンスレイヤーを取りこぼし、血が出ていない腹部を押さえて、今にも途切れそうになる意識をゴッゾは必死に保とうとしている。

 それに意味はもうない。どれだけ拒もうとも、極至近距離から放たれた渾身の一撃は、彼を眠りへと誘う。……時間はない。彼が今回も届かなかった夢を前にして嘆きを口にする時間は、ほんの少ししか残されていない。

「ジュンタ君。私はね、二度も失敗を重ねた。一度目はカトレーユのときに。二度目は去年だ。……ははっ、つまり神は、私に楽園はふさわしくないと考えているようだね」

「そんなことは……そんなことはなかった。ただ、運が悪かっただけです」

「運が悪かった、か……君は酷いな。私の夢をそんな一言で片付けて……また、挑めと言うのか。次こそは辿り着くだろうと、そう夢を見させて……」

 口端を吊り上げて彼は笑った。それは自分への自嘲か、それともこんな世界への嘲りか。

 どちらでもない。と、ジュンタは思った。
 目を閉じたゴッゾ。彼はきっと楽園の風景に微笑みを零したのだ。見ることができなかった楽園を夢見て、そして笑ったのだ。

「いい夢見てくださいよ。サネアツ、頼む」

「了解した」

 ジュンタはその場にゴッゾを横たわらせて、背中を向ける。

 また一人、ここに犠牲になった仲間がいる。みんなで夢見た楽園を前にして散った彼の嘆きはわからない。わからないから、せめてこの目で見なければいけない。

 夢に散った亡骸は友に任せ、今、唯一残った男は楽園へと足を踏み出す。

 長い長い戦いの日々の果てを、此処に、この目で目撃する。
 

――あ、本当に悔しいから、悪いけど邪魔をさせてもらうよ。これだけは使いたくなかったのだが、うん、仕方ないね」


 背後で最低な大人の最低な発言が。

「サネアツ!」

「ミスタ。さすがに大人げないですな、それは。」

「何とでも言いたまえ。ここまで来られたのは私がいたからだ。それなのに、私がこのまま気絶するなんてあまりに報われないだろう? 私がそう決めた。だから邪魔をする! では――

 振り向いたジュンタ。気絶した振りをした大人げない大人に飛びかかるサネアツ。二人の健闘空しく、ゴッゾは最後の力を振り絞って、


「きゃああああぁああ! 覗きよぉおおお!!」


 そのあと、ゆっくりと夢の中に落ちた。

「超裏声!? 最低だこの人、最後の最後で全部ぶち壊す禁じ手を使いやがった!」

 女性の声を作って悲鳴をあげたゴッゾに近付いたジュンタは、引きつった顔で目の前の満足そうな顔で気絶した男を見下ろす。

 冷や汗が全身から溢れ出た。だってこんな近くから悲鳴をあげたら、隣にいる彼女たちに気付かれないはずもなく……

「ちょっと、なんですの? 今の声は」

「覗きだと? まさか私たちを……許されざる悪漢め、成敗してくれる!」

「うわぁお、デッドエンドからの手招きが」

 尋常じゃない殺気が、さっきまで楽園だった大浴場から溢れ出す。さらにはこちらへと近付いてくる足音複数――その時点でもう、ジュンタに逃げる場所はなくなっていた。

 ゴッゾが女性の声を作って悲鳴をあげた瞬間には、すでにサネアツはその身を崖下へと投げ出していた。なんて状況判断が早いのか。今やこの場所に残るよりは、崖下へと落ちる方がよっぽど恐怖度は少ない。

「こちらの方から声がしましたわ! ふふっ、誰でしょう。この私の湯浴みを覗こうとした大馬鹿者は」

「逃がしません。然るべき断罪をしなければ。ええ、そうですね。しかしこれに見合う償いはないので、地獄へと直行してもらうことになりそうですが」

「ど、どうしましょう? やはり、ご主人様のための身体を覗かれましたので、私も怒るべきなのでしょうか?」

「どうでしょう。とりあえず犯人の死亡は確定なので、二、三発の攻撃程度では意味がないと思われますが」

 死神たちの声が聞こえてきた。ジュンタは全身をガクガクと震わせて、この状況を作った最悪最低の紳士を抱きかかえる。このまま冥府に送ろう、と。もはや自分の死は避けられない。なら、死ねばもろともだ。

 そのとき、自分の死を覚悟したジュンタの死を目前にして研ぎ澄まれた脳が、一つの生き残りの案を弾き出す。同時に思いついた、きっとバスタオルを巻いて現れるだろう彼女たちから、どうせ死ぬならバスタオルを取ってしまえという案はひとまず無視して、これしか方法はないならとジュンタは覚悟を決めた。

「祭りの終わりは、かくも寂しい風が胸を通りすぎるもの」

 ニッと笑ったジュンタは格好つけて死神たちを待つ。

 ここからが本当の勝負だ。生きるか死ぬかは、これからの自分の行動にかかっている。

 


 

「絶対に許せませんわ! 必ず、断固とした断罪を与えます!!」

「そうですっ。ゴッゾ様を気絶させて、ご主人様を傷つけて逃げるなんて最低です!」

「それに私たちも覗かれていたのなら、それに対する贖罪も求めなければ」

「そうですね。このままですと、旅館の名前にも傷が付きますし」

 女性陣プンプン。男性陣ヒヤヒヤ。

 翌日の早朝――食堂に集まった旅行のメンバーの中、トーユーズを抜かした四人の女性たちがそれぞれ憤りも確かに言葉を交わしあっていた。

 自分たちの湯浴みを覗かれた女性陣は、凄まじい怒りを覗きの犯人である誰かに向けている。実はその犯人である男衆は、話を頷きながら聞きつつ内心では戦々恐々。ラッシャは口笛を吹き、サネアツは寝たふり。ゴッゾは余裕をもって考える振りをしているが冷や汗が垂れており、ジュンタは引きつりそうになる頬を抑えるので必死だった。

(俺が覗きの犯人じゃなく、それを止めようとしたってのは信じてもらえた。けど、これは色々とやばそうだ)

 ゴッゾが気絶していて森の踏破で身体にも傷があった状態なので、昨夜の絶望的な状況を、ジュンタは覗きの真犯人が別にいて、それを捕らえようとしてここにいると誤魔化した。ゴッゾは犯人に負けて、自分も傷を負わせられ逃げられたと。

 クーが一瞬でこちらの味方に加わって援護してくれたので、一応話は信じてもらえた。
 ということで現在は真犯人を抹さ……ゲフンゲフン。捕らえるための会議の真っ最中である。

 会議に参加している他二名。オーケンリッターは興味あるのかないのか分からない表情を見せ、事情を軽く看破したトーユーズは、ゴッゾによって清酒一年分で買収されている。

 ……どうやら、本格的にこれは狩りが行われそうな気配だ。

「旅行最終日だっていうのに、何も犯人探しなんてしなくても……いや、俺たちが悪いんだけどさ」

 あーでもないこーでもないと騒ぐ女性たちを見て、告白からちょっと張りつめていた空気が完全に戻ったのを見て、ジュンタは苦笑する。それからちょっと頬を染める。

 ――思い出す。昨夜のことを。

『大丈夫ですか? ジュンタ様』

 昨夜、覗き犯に対する怒りを露わにする三人とは違って、いくらか冷静そうなユースは心配そうな眼差しと共に近づいてきた。

 彼女は倒れたゴッゾを見て、こちらを見た。もちろん、一分前まで温泉に入っていた彼女はバスタオル一枚。肌は上気し、目は潤み、髪は頬に張り付き、顎からは水滴が垂れて……その状態で顔を覗き込まれたものだから、もう他三人のことなんて目に入らなかった。

(……ごちそうさまです)

 ジュンタは心の中で、呟きをもらし、メイド服を着た少女に対して手を合わせて拝む。

 強烈なインパクトだったユースの胸の谷間だけでお腹一杯だったのは、もちろんジュンタだけの秘密である。

 


 

 そうして、男たちの祭りは終わりを告げた――――では、次の祭りを開こう。盛大なお祭り騒ぎをしよう。 


 

 

「さて、全ての準備は整いました」

「では後は手はず通りにことを進めます。決行は今夜で」

 クスクスと笑う『狂賢者』の声に、異端導師が答える。

 全ての準備は整った。盛大な騒ぎを開くために、互いに頷き合ってから、ウェイトンは傍らでつまらなそうにしている二人の部下に振り返る。

「それでは、あなたたちも先程話した通りにお願いしますよ。『ナレイアラの封印の地』を開くための鍵を手に入れて来てください」

「手に入れる。それは亡骸だけでよろしいので?」

「ええ、生きている必要はありません。あなたの得意分野でしょう、グリアー君?」

「はい」

 ウェイトンの指示に、褐色の肌を持つ女暗殺者――グリアーは頷いて答える。

 その彼女の声に続けて、興奮を押し殺すような男の声があがる。

「んでよ、間違いねぇんだろうなァ? そのクソつまらねぇ任務を終えたらよ、あいつと全力で戦えるってのは?」

 獰猛な享楽。粗野な期待。男の声に混じっている感情はそのようなところ。
 まさに獣というべき戦闘狂の言葉に、ウェイトンは頷く。『狂賢者』は艶やかに笑った。

「鍵である刻印を手に入れたなら、私とあなたたちの契約は終わりです。その後は何をしようと一向に構いません。もちろん、我々の邪魔をしないことが前提ですが」

「待ってました、その言葉をよ。もういい加減テメェの面倒見るのは飽きてきたからな。ま、最後だ。少しは真面目に働いてやるぜ。一人ぶっ殺すだけだしよ。女ってのが気に食わねぇが、メインディッシュの前の前菜としては悪くねぇかもしれねぇなァ」

 そう言いつつも、その獣が求めているのはたった一人だけなのだと、その場の誰もが理解していた。

 ガツンガツンと、金属のガントレットが打ち合う音が森の中に木霊する。

「もう少しだ。もう少しだからよ。待っててくれよ、最高に熱いベーゼをプレゼントしてやるからよ。この――

 早朝の日差しに、男の容姿が露わになる。長い耳に鼻筋を横に通る傷跡を持つ男――

――ヤシュー様がなァ!」









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