Epilogue




 いつか、この伝統ある家をもう一度復活させたい――何もなくなってしまった自分の故郷の家を見て、ユースは吹く風に髪を揺らしつつそう思った。

 あまりに色々なことが立て続けに起きた日から今日で三日。

 戦った皆が疲れ果てて眠りこけた事件の翌日。事後処理などでてんやわんやに大忙しだった昨日。そして今日の先程、母トリシャ・アニエースは先祖の墓の中で眠りについた。

 できればもっと早く弔ってあげたかったが、ゆっくりと別離を交わせる余裕が昨日まではなかったのだ。死者こそゼロだったものの、ラバス村の被害はかなりのもの。特に地下水を強引に儀式に使われたことによる地盤沈下は甚大だった。そんな中自分が先に眠ることなど、トリシャは認めないと思ったのだ。

 それでも実際の戦いの間も陰で奮闘してくれたゴッゾのお陰で、被害は最小限で済んだ。昨日の事後処理だって、彼がいなければあと三日は必要だったろう。

「ゴッゾ様には感謝しなければなりません。いえ、皆さんに、ですね。こうして今日お母さんとお別れできるのは、全部戦ってくれた皆さんのお陰なんですから」

 最後の別れが必要だと、聖なる祠を見渡せる丘の上に作られたお墓の前、ユースはそっと頭につけていたホワイトブリムを取る。

「お母さんは教えてくれましたね。これをつけているときは、メイドでなければならないのだと。一人の女として振る舞うときは必ず外せ、と。……今だけは外していいですよね、お母さん」

 ユースの胸に、トリシャと過ごした時間が温かい思い出として過ぎ去っていく。

 こうして自分が自分でいられるのは彼女のお陰だ。 
 見守ってくれた、支えてくれたお母さんのお陰だ。

 そんな彼女が眠る墓の前――それでもユースは、もう泣かなかった。

「お母さん……私、見つけますから。あなたがいなくなった今、唯一泣いてもいい場所を。泣かせてくれる好きな人を。だから安心してください。あなたの娘はきっと……」

 背後の方から大切な主と、その主の大切な人とが言い争う声が聞こえた。もはや誰の目も気にすることなく大声で話す子猫の声も聞こえる。言い争いを止めるかわいらしいエルフの声も。息を荒くしているおかしな男の人の声も。若者たちを見守る、温かな笑い声も。

 その全てがユースの守るもの。守りたいもの。日常という名の、かけがえのないもの。

「必ず、これからも幸せに生きていきます。あなたの教えてくれたことを忘れずに。だから――

 最後は笑おうと思っていた。

 あの時笑うべきだったのに笑えなかったから、この瞬間だけは笑おうと決めていた。
 
 ほんの少し目が潤んでしまったけれど、頬が震えてしまったけれど、それでも笑えたと思う。お母さんが大好きだと言ってくれた、自分なりの笑顔で見送れたと思う。


「今までありがとう、お母さん。本当に――――お疲れ様でした」







「お前な〜。少しは優しくなるとか、そういうのはないのか?」

「ふんっ、使徒様だったからといって、何かが変わるというわけではありませんわよ。あなたは変わらず不埒者で無礼者ですわ!」

「ぐっ! ……いいさ、別に。優しさならクーだけで十分足りてるし。ほら、向こうに行って何か甘い物でも食べようか。クー」

「え? あ、はい。ご一緒させていただきます!」

「ちょ、ちょっとお待ちなさい!」

 笑みをひきつらせたジュンタは、クーの手を引いてラバス村の中心の方へと歩いていってしまう。腕を組んでそっぽを向いていたリオンがその背に手を伸ばしたときには、すでに二人は仲良く手を繋いで、手が届かない場所まで行ってしまっていた。

「…………なんですのよ、あれは! 本当に行くだなんて非常識にも程がありますわ! この大馬鹿ジュンタ!」

 目を尖らせて、遠くなる背中にあらん限りの声でリオンはぶつける。
 ジュンタは片手をあげ、ヒラヒラと手を振る。それがどうしようもなく馬鹿にしているみたいでリオンは腹立たしかった。

「最低ですわ! たとえ使徒様だといっても、ジュンタだけは例外です。絶対に敬ってあげたりなんてしませんから!」

 そう、絶対にリオンは敬語など使うものかと決めていた。

 ジュンタが使徒であると気付いた三日前の夜。連想してクーが巫女であることなど、多くのことにも気付き、密かにほんの少しだけ、貴婦人であり騎士として、ジュンタに敬語を使うべきかと悩んだ。

 けれども、実際に顔を付き合わせてみてよく分かった。確かにジュンタは身分だけをいえば自分よりも上だけど、それでも彼は彼でしかないのだと。敬語を使う必要などこれっぽっちもない。ないったらない。

(そうですわ! あのような破廉恥な男! ままま、まさか私と混浴しただけでは飽きたらず、みんなと一緒に入った温泉を覗こうとしただなんて!)

 ユースがトリシャと最後のお別れを済ませるのを待っている間、ジュンタがいきなり真剣な顔をして二人きりで話したいなどというから、みんなから少し離れた木の陰までついてきてあげたというのに……なぜに自分が置いて行かれなければならないのか?

 そもそも話が色っぽい話などではなく、あの憎き覗き事件の真相をその真犯人から教えられるだなんて、胸のドキドキを返せといいたい。乙女心の価値を教えて差し上げようか。肉体言語で。

 ユースの別れが済んだことを教えに来てくれたクーを伴って去ったジュンタがいなくなった方角を、リオンは呪詛をぶつけるように睨みつける。

「ふふっ。さぁ、帰ってきたらどうしてくれましょうか。とりあえず、今は休んでいるクレオメルンさんにもことの真相を教えて、裁判にかけてくれますわ! 有罪確定の!」

「おや? ということは、私も裁判にかけられてしまうのかい?」

 口元に手を当て、高笑いを浮かべるリオンへと声をかけたのは、ユースを伴った父ゴッゾだった。

 彼は少し困ったように微笑んで、

「いやはや、まさかジュンタ君が覗き事件のネタばらしをしてしまうとはね。こうなっては仕方がない。私も謝っておこう。――リオン、悪かったね。ユースも」

「いえ、お気にならさず。私は気にしていませんので」

 主からの謝罪の言葉に、ホワイトブリムをきちんとつけたメイドが静かに答える。

「そういえば、お父様もジュンタに荷担していましたのよね。……仕方ありませんわ。申し訳ないとは思いますけど、クレオメルンさんに真相を教えるのは止めておくことにします」

 リオンは恥ずかしいところを見られてしまったことに若干頬を赤らめつつ、それを誤魔化すようにそんなことを口にする。父親が覗き事件に関わっていたことには多少――いや、かなり思うところがあるが、今はそれよりもジュンタが許せない。

 そう、許せなかった。なぜかはよくわからないのだが、ジュンタが使徒であることを知る前より、クーと仲良くしているのが許せなかったのだ。

「リオン様、どうかなされたのですか?」

「え?」

 気付けば、リオンは自分の胸元に両手を寄せていた。

 それはユースに指摘されるまで気付かなかったほどに自然な行動――ドクンドクンと痛いほどに高鳴る鼓動を抑えようと、自然にとってしまった行動だった。

「どうして私、こんなにもドキドキしてますの? しかも止まりませんわ……!?」

 これは病気かも知れない。そういえば、ジュンタと接しているときもずっとずっとドキドキしていた。隠しきれないほどにだ。

 リオンは半ば本気で焦って、鼓動に静まれ、鎮まれと念を送る。
 しかし自分でも理由がわからない鼓動は、決して規則正しい鼓動に戻ってくれない。

――ふむ、ユース。私が言ってもいいかい?」

「どうぞ、ゴッゾ様。この一瞬のために、この一月を費やして来られたのですから」

 そんな風に困っている娘を前にして、何やらゴッゾは感慨深げに顎に手をやり、ユースは困っている主を微笑ましそうな眼差しで見やった。

「ど、どうしましたの? 言ってもいいとはどういうことですか?」

「何、簡単なことだよ。本当に、本当に単純な話さ」

 リオンは二人の言いようのない視線に狼狽える。自分の何かが変わってしまうという直感が囁いて、思わず逃げ出してしまいたくなってしまう。

 でも、リオンは逃げられるような少女ではなかった。
 竜滅姫――何ものからも逃げない、誇り高き騎士姫であった。

「どうやらまだ自分の中にある感情の正体に、リオンは気付いていないようだからね。私から教えさせてもらうよ。その、感情の正体を」

「感情……?」

「そう、感情だ。ジュンタ君に向かう、行き場のわからない、とても大きくて大事な感情だよ」

「ど、どどど、どうしてそのことを!?」

 リオンは誰にも話したことのない、自分の中にいつからかある、ジュンタに対して抱く正体不明の大きな気持ちの存在をゴッゾに看破され、さらに狼狽える。

「隠さなくてもいい。ずっと分かっていたことだからね。だから、もう抑えてなくてもいいんだ。そろそろその感情の名前を知ってもいい頃だよ」
 
 ドクンドクンと、ただ耳には鼓動の音。
 そこで初めて気付く。この胸の高鳴りは、ジュンタへと向かう感情の熱さなのだと。

「リオン。世間一般ではね、お前がジュンタ君に抱いているその感情を――

 ようやく、リオンは知る。自分の気持ちの名を。ジュンタに対する、その感情の正体を。

 そう、リオン・シストラバスは、ジュンタ・サクラのことが……


「うん。その感情をね、『恋愛感情』っていうんだよ」


 ピタリ。と、そのピースはリオンの中で綺麗にはまった。一分の隙間もなく、恐いくらい完璧にはまって、ジュンタへの感情の行く場所を示してしまった。

 つまり…………つまりは、その……そういうことだったのだ…………。

 いつからかはわからない。覚えていない。けれど、その感情は自分の中で芽生えていた。
 その芽はジュンタのことを考えることで成長していった。他でもない、自分がその芽に水をやっていた。知らない内に、大切に育んでいたのだ。

 そうやって成長した芽は、ずっと蕾だったのだろう。

 自分でもあまりに都合がいい、調子が良すぎるとも思うが……ジュンタが使徒であることを知るまでは、それはずっと蕾のまま花開くことができなかったのだ。その蕾の存在に気付けなかったから、その蕾は花開くところを決して見せてはくれなかったのだ。

 けれど今開いた。ジュンタが使徒であることを知って、何の不都合もなくなった故に気付いて、花開いた。その開花を見せてくれた。

 喜んでというように。
 笑ってくれというように。

「そう、でしたのね。私は、ジュンタに――

 リオンは、自分が蒸発してしまうのではないかというくらい身体を真っ赤にしていることに気付く。胸の鼓動の高鳴りを、酷く愛おしいものと感じた。

 ああ、どうしよう――へなへなとリオンはその場にしゃがみこんで、両手を頬にあてた。

 そう、この自分の中のジュンタへと向かう大きな感情は恋愛感情だ。初めて手に入れてしまった、とても大事で大変な感情だ。いきなり圏外から恋愛対象にジュンタが入ってきたことにより初めて気付いたが、ずっと自分は、リオン・シストラバスは――


――――ジュンタに、恋をしてましたのね」

 


 


「ご褒美、ですか?」

 ジュンタはクーと共に村の甘味処へと向かう途中、足を止めて果たしておこうと思っていた約束を口にした。

「そう、約束だ。約束してただろ? ユースさんを助けられたなら、もっとたくさん褒めてやるって。つまりご褒美だ。何がいい? 俺にできることなら、何でもいいぞ?」

「そ、そんな、いきなり言われましても……」

 クーは畏まって、でも考え始める。

 これがリオンだととんでもない内容を要求されそうで不安だが、謙虚なクーなら何の問題もない。むしろきっと、謙虚すぎる求めに決まっているから、何を言われてもジュンタは首を縦に振るつもりだった。

「私は、ただご主人様と一緒にいられるだけで満足なんですが……」

「それでも、何かないか? いつもクーにはお世話になってるからな。偶には恩返しをしとかないと」

「そ、そんなっ、それこそ私の方が恩返しをしなくてはいけません! そ、そうです! 確かご主人様、褒めてくれるとおっしゃられましたが、私が危ないことをしたオシオキも後でするって言ってました!」

「そういえば、そうだな。つまりクーのお願いは、オシオキを軽くして欲しいってことか?」

「あ、いえ。そこは逆でお願いしてもらいたいです。オシオキはきつくしてくださると、とても嬉しいです」

「……………………」

「…………あの、ご主人様? ダメでしょうあいたっ」

 小首を傾げて表情をうかがってくるちょっぴりかわいそうな子に、ジュンタは無言でチョップを喰らわす。

 クーは帽子の上から頭を押さえた状態で、しかし気を引き締めた顔になった。

「ど、どうぞもっと厳しくしてやってください! 私、決めたんです。一人で歩けるようになると。そのために強くなるって。ですから私のダメな部分は徹底的に、ご主人様のお好み通りに調教してやってください」

「よ〜し、了解。って、そんなことを力一杯頼むなぁぁああああ――ッ!」

「はわぁっ!」

 ギュム、とクーの耳に手を伸ばして徐に揉み始めたジュンタ。クーは驚いてはわはわと手を動かし、やがて顔を上気させて黙り込んだ。一緒に耳が垂れ下がり始めたところで、ジュンタは呆れ眼で手を離す。

「あのなぁ、言いたいことは……まぁ伝わったけど、その発言は非常にまずい。危険だ。危険すぎるのでこれからは言わないように」

「?? あの、すみません。どの発言がまずかったのでしょうか? もしかして嬉しいという発言でしょうか? 嬉しいのは事実なんですが、やはりこういうのは反省の色を示した方がわぷっ!」

 ジュンタはクーの大きな帽子をずりおろして、彼女の視界を塞いだ。

「あ〜、なんかわかった。人はこうして他人から蔑まれていくんだな」

 周りから突き刺さる軽蔑の視線とヒソヒソ話に、心の中で涙する。いや、慣れてきたので、もう明鏡止水の心ですが。

「リオンは優しくしてくれないし、クーの優しさは他人を誤解させるし……あれ? 優しさってなんだっけ?」

 ついには見えない青空に星を探し始めたジュンタ――その手がふいにクーに引かれた。

「あの、ごめんなさい。ご主人様」

 引かれてクーの方に視線を向けた瞬間、視界一杯にクーの赤い顔が広がっていた。

 直後、頬に小さくて柔らかなクーの唇の感触が。
 すぐに離れたクーは、恥ずかしそうにして、今度は自分から帽子で顔を隠した。

「…………クー……?」

「そ、その。なんだかご主人様を困らせてしまったので、言わないでおくつもりだった我が儘を実行に移してみました。そ、その……ごめんなさいでしたっ!」

 恥ずかしさに耐えきれなくなったクーが、走り去っていってしまう。しかし視界を塞いでいるのであちこちにぶつかって、ぶつかった物ぶつかった物、道行く人ではなくて壁や看板なのに丁寧に謝るので、全然視界からは消えない。

「不意打ちだけど……まったく、これを最初から要求してくれれば、花丸をあげられるんだけどな。いや、まったく――

 赤く染めた頬を手で押さえて、ジュンタはクーの後ろ姿を微笑ましそうに見つめる。

 その小さな後ろ姿は本当にかわいらしくて、思わず――


――――ぐしゃぐしゃに泣かせたくなるな」


 たとえば、今ここで首を絞めたなら、彼女はどんな顔を見せてくれるだろうか?

 困惑か? 驚愕か? 恐怖か? それとも憎悪か? いやいや、クーのことだからきっと狂的に笑うに違いない。彼女は生粋のマゾヒストだから、それすらきっと快感だ。ダメだ。これでは全然ダメ。これでは彼女を絶望させてはあげられない。

 いやはや、マゾというのはなかなかに難しい。押し倒そうとも、彼女は喜んで身体を開こう。傷つけられることにより幸せを感じるだろう。一番簡単なやり方で絶望してくれないとなると、ちょっぴり困るねほんと。

 いや、だけど問題ない。分かっている。クーを絶望させるには、もっと簡単で確かな方法が存在することを。

 そう、クーヴェルシェン・リアーシラミリィという日常を完膚無きまでに壊すのならば、ただ一言、要■■いとさえと言えばそれだけで……

――待て。俺は今、何を考えた?」

 右手で顔を覆って、ジュンタは今自分の思考を支配した考えを破棄する。

 しなければいけなかった。クーに対して、決して言ってはいけないことを言おうとする思考なんて。

「なんで? どうして? 俺は、こんな馬鹿なことを……?」

 目を見開いて、ジュンタは全身を震わせた。

 言いようのない悪寒を感じた。夜明けの来ない闇が全身を包み込んでいる気がする。いや、気のせいではない。本当にそこに『闇』はあって、手招きしていた。

「……ドラゴンになるために使った『偉大なる書』。その力は、反転させること……」

 顔から離した手を、ジュンタは見下ろす。
 
 日常を愛している。日常こそサクラ・ジュンタの守りたいもの。この手は日常を守るものと、そう剣に誓っている。ではそれが反転したなら、この手は日常を……

 肉体は決して変わることがなかった。魂もまた同じ。使徒とドラゴンの両方を内封させるジュンタの肉体も魂も、反転しても変わることはなかった。だから、もし変わるのだとしたら、それは精神――日常を愛する心に他ならないのか。

「ははっ、何の冗談だ。それ?」

 思い出すのは、いつか自分ではないドラゴンに言われた言葉。

――ドラゴンの使徒よ。胸に刻め。貴様もまた呪われた身であるのならば――――いずれ必ず、貴様も狂ったドラゴンとなる――

 クーがもうここにいないことに安堵して、情けなく独り、ジュンタは震える。

 底知れない――変質の恐怖に。


 

 

 姫は知る、自分の感情を。旅人も知る、自分の感情を。
 果たして――――報われない恋をしたのは、一体どちらだったか。










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