第一話  恋愛初心者


 

 ――リオン・シストラバスは今、最大の試練を課されていた。

 暗いオペラ座の舞台では、今まさに公演されている劇がクライマックスを迎えようとしていた。紅き髪と瞳の舞台衣装を身につけた女優が、悪しき魔竜に立ち向かう。それはオペラ『オルゾンノットの魔竜』において最も有名である、竜殺しの場面であった。

 だが、演じ手の麗しいがあくまでも偽物に過ぎぬ紅い輝きではなく、本物の真紅の輝きを纏うリオンは、大好きな劇をまったく見てはおらず、ただ、もうすぐこの劇が終わってしまうということだけを認識していた。

(こ、こここ、こんなにこのオペラは短かったかしら?)

 いいや、そんなはずがない。と、自分で自分の疑問にツッコミを入れる。

 本来なら一日かけても語り尽くせぬ『オルゾンノットの魔竜』のお話を劇にしたのだ。一日はさすがに無理だが、それでも休憩を挟んでたっぷり四時間もあるオペラである。

 グラスベルト王国において最高の劇団が、最高の音楽と演出をもって行っているがこのオペラ。 最低の席でも銀貨が十枚は飛び、最高の席では金貨十枚はかかる。リオンが選んだペア用の席だって金貨一枚だったのだ。そんなすぐに終わることなどない。

 それでも時間が瞬く間に過ぎてしまったように感じられたのは、劇のあまりのおもしろさに引き込まれていたからではなく、延々と同じことを一生懸命悩んでいたからであった。

(お、落ち着きなさい、リオン・シストラバス! あなたはできる子です。竜滅姫。世界に愛されし騎士の姫なのですから。深呼吸。深呼吸をして、今こそその矜持を見せるときですわ!)

 夜に公演される最高の劇団による最高の劇は、だいぶ前から決めていたある一つの決意を達成するために、リオンが選んだ決戦の舞台でもあった。

 リオンは真紅の瞳を舞台に向けるのではなく、親の敵でも見るかのように、隣の少年が椅子の肘立てに置いた手を見やった。

(そ、そうですわよ。この程度簡単ではありませんの。辺りは暗く、皆さん舞台に注目していますし、誰もこっちなど見ていませんわ。しかも劇はクライマックス。思わず隣の人の手を握ってしまうことぐらい、よ、よくあることに決まってます!)

 意を決し、リオンは爆発寸前の胸に当てていた手を、そろそろと移動させ始める。

 劇が始まったときからカチンコチンに固まった手はプルプルと震えた。隣にいる男の子の手を握るという想像だけで顔が真っ赤になる。

 目を瞑って先程視認した手に向かって自分の手を伸ばしていく。とてもではないが視線は送れない。記憶だけが頼りである。

 ほんの僅かな距離。そう、本当に少ない距離なのだ、隣までは。

(もう少し。もう少しですわよ!)

 しかし緊張を極みにいたリオンには、その距離があまりにも長く感じられた。実際、あまりにも少しずつ移動しているので、少しだけ進むのにもものすごく時間がかかっていたのだが。

 そうこう時間が過ぎていく間、ずっと息を止めていたリオンはさすがに息が苦しくなる。
 小さく隣に聞こえないように口を開けて息を吸えば頭が真っ白になって、しっかりと覚えていたはずの隣人の手の位置がわからなくなってしまった。

(そ、そう言えば、今私の手はどこまで進んでましたか?)

 まずい。非常にまずい。目を瞑ったまま、あてずっぽうで手を伸ばし続けるのはあまりに危険だ。

 手にあたらずに手すりにあたるならまだいい。けれど、もし勢い余って手の向こう側に触れてしまったらどうするのかという話だ。だって、手の向こう側にあるのは彼の太股であり、よしんばその向こうまで行ってしまったら……

 ボフッ、とリオンの顔が暗がりでも分かるほどに瞬間沸騰する。長い真紅の髪に負けないくらいの、見事なゆで具合だ。

(わわわ、わたくっ、私ったら一体何を考えてますのよ! 確かに、向こうの方にいるカップルらしき若者は人目もはばからずにイチャイチャしていますけど、そんなのは破廉恥ですわ! こ、こういうことは順序が大事であり、ま、まずは、そそう、手を繋ぐことから始めませんと!)

 わざわざいつも取る最高の席ではなく、ペア用のこの席を取った理由を思い出し、完全硬直させていた指の動きを再開させて、リオンは右目だけを薄く開ける。

(私の手は、今……)

 目を開いて確かめてみて良かったと、手が今ある場所を見て素直に思う。

 痙攣するように震える指は、肘立てに乗る彼の腕どころか、なぜかその脇腹の辺りをそよそよと漂っていた。もしもこのまま進んでいったら彼の脇腹を突いてしまい、おかしな悲鳴をあげさせて恥を掻かせてしまったことだろう。貴婦人としてそれはあまりにダメダメだ。

(目標の位置は変わらず、照準誤差も調整――大丈夫ですわ。半月の潜伏の時間を経て、ついに二人の仲を一歩前進させる時ですわよ、リオン・シストラバス!)

 燃えさかる魔力を体中から発して、リオンは気高きシストラバス家の次期当主としての努めを果たす。これ敗北すること即ち、家の恥だと自分を追い詰めて。

 思えば、劇の始まりから何度も同じことを繰り返した。そうして時間は無為に過ぎた。当初の予定では、開始五分ほどでこの触れ合いを達成し、最終的には指同士を絡めるまで至るはずだったのに。

 さすがですわね。でも負けなくよ――と、リオンは不敵に笑って手を動かす。

 もはや恐るるに足らずと勝利を確信して、手を彼の手の上に移動させたところで思わず、…………ダメだから。絶対見たらダメだからと思っていた、隣に座るジュンタ・サクラの顔を見てしまった。

「…………あ、う……」

 リオンの体感時間は、その瞬間に静止した。

 オペラの唄が、楽団の演奏が全て消える。聞こえるのは自分の熱い胸の鼓動だけで、世界にはまるで自分と、この鼓動を早くさせる要因である彼だけしかいないように思える。

 異国の空気を纏わせる、少し幼く見える容貌。
 最近少しだけ後ろ髪が伸びてきた、珍しい黒い髪。

 本来は金である色を隠した瞳は黒色で、黒縁眼鏡と、整ってはいるが決して華美ではない純朴な容姿の少年だ。だけどその横顔がとても凛々しく見えてしまって、リオンは呼吸すら忘れて見入ってしまう。

 名をジュンタ・サクラというオペラに誘った相手は、つまるところリオンの初恋の相手であり、現在進行中の恋のお相手だった。

 だから、どうしようもなく格好良く見えてしまう。いや、実際こう見えて彼はなかなかに格好いいところが多くて、確かに若干無礼なところはあるけど優しくて、でもその優しさは自分以外にも向けられるものであって、むしろ自分にはそんなに優しくないけどやっぱり優しさを感じずにはいられないときは多々あって、そのたびに頬が緩んで仕方なく、しかも二度も真剣に告白してくれたわけであって…………

 凛々しく顔を引き締めていたジュンタが、明かりがつくと共に、少し頬を上気させた姿で振り向く。緊張が抜けたのか、そのときジュンタが浮かべた笑顔は、酷く無邪気なものだった。

『いいですか? リオン様。リオン様の趣味とオペラという雰囲気から鑑みても、非常に危険ですから、何があってもジュンタ様のことは見ないでくださいね」
 
 出かける直前に聞いたはずの頼れる従者のアドバイスが、今は遠い昔に聞いたもののように思えた。

 耳には拍手喝采。目の前には好いた男の人の笑顔。
 リオンにはまるで、世界が自分たち二人を祝福しているように見えて……

「いや、これはおもしろかったな、リオン」

「そうですわね。とてもおもしろかったですわね、ジュンタ」

 リオン・シストラバスは自分が敗れたことを静かに悟りつつも、何だか幸せな心地だったので、『まぁ、いいか』とジュンタに笑い返した。


 

 

――それで、結局は何もできずにおめおめと帰ってきたというわけか」

 後悔はジュンタと別れた直後にやってきた。

 我が家であるシストラバス邸へとジュンタに送られて帰ってきたリオンは、そのまま庭の一角にあるテラスへと足を運んでいた。

 四方を人の背丈ほどの生け垣で囲まれ、中央に白いテーブルと椅子が用意されただけのそこは、静かに紅茶を楽しむのに最適な場所であった。リオンもたびたび、一人で考え事をしたいときなどに使っている場所である。

 しかし今日は別に、ジュンタとのお出かけにおける失態を反省しにきたわけではなかった。いや、反省はするのだが一人ではない。ここは成功しようと失敗しようと足を運ぶことが決定していた場所で、リオンが到着したことにより、すぐ反省会は始まった。

「あれほどまでに自信たっぷりに出て行っておきながら……呆れるほどのヘタレだな。リオン・シストラバスの名が聞いて呆れるというものだ」

「う、うぅ……」

 最初に響いた声と同じ声色でかけられた落胆混じりの言葉を、リオンは聞き入れるしかなかった。かけられた言葉は事実であり、一番自分が自覚していたから仕方がない。
 ジュンタと一緒に出かけるとのことで、あまり派手すぎない程度の、しかし精一杯時間をかけて選んだドレスの裾をくしゃりと握り、リオンは小さな呻き声と共に声の主の方に見る。

 暗がりにぼんやりと浮かぶのは白い着ぐるみ――生け垣の上にちょこんと乗せられた、白い猫の頭だけの着ぐるみだった。

「し、仕方ないでしょう。私が予想していたよりも、ジュンタと私の席の間が広かったのですから」

「いやいや、あれが普通というものだよ」

 リオンのいい訳に答えたのは、猫の着ぐるみを着た誰か――猫仮面ではなく、生け垣の中に頭を引っ込めた彼に代わって、左手の方の生け垣から頭だけを出した鳥仮面だった。

「確かに、いつも使っている貴賓席などは、隣同士が腕を伸ばしても届かないほどにゆったりとスペースを使われている。二階席の個室だしね。しかし一つランクが下のペア席は、十分隣の人と手を繋げる位置関係だよ」

「で、ですけど……実際に遠かったのですもの。ペア席と謳っておきながら、繋ぎにくいあの距離は詐欺ですわ。乙女に厳しい設計です。あれならば、普通の一般席の方がよほど繋ぎやすかったはずですもの」

「いえ、それは違います。ジュンタ様はあまり高級な感じは苦手ですので、貴賓席の配置を変えるよりも、席のランクを下げた方がいいと提案したのはリオン様ではありませんか。かといってリオン様もジュンタ様以外の方が隣に接近する席では、人目を気にして手を繋げはしないはずです。よって、あのペア席しか最初から選択肢はありませんでした」

「……でしたわね」

 頭を引っ込めた鳥仮面の代わりに、その隣の生け垣から頭を出した狐仮面。
 淡々と指摘される事実に、リオンはタジタジになって肩を落とす。この場に集まった面子に何を言っても勝てないのは明確だった。いい訳はよろしくない。

「つまりは席の所為ではなく、純粋に、お前に勇気がなかったから失敗したということだな」

「これで通算何度目の失敗になるんだろうね。狐仮面、覚えているかい?」

「小さな失敗を抜かせば、通算十四回目の失敗になります」

 猫仮面、鳥仮面、狐仮面が入れ替わり立ち替わり頭を出して声を交わしている。正直異様に過ぎる光景だったが、自責の念にかられていたリオンは、もう慣れたのもあって驚いたりはしない。

「リオンがジュンタ君への気持ちに気が付いて、今日で約半月ほど。まさか未だに手も繋ぐことができていないとは、正直予想外だな」

「お父様……重々自分の情けなさは承知していますわ。わざわざセッティングしてくださったのに申し訳ありません」

「いや、気にすることはないよ。もう半月。されど半月だ。まだまだ時間はある。……あと、私は鳥仮面であってお父様ではない。そこのところだけは気を付けてくれるかい?」

「…………そうでしたわね。申し訳ありませんわ、鳥仮面様」

 うんうん、と頷いて生け垣に消える鳥仮面。見れば他の仮面ズも消えていて、ヒソヒソと何やら内緒話をしているような声が夜気に伝播する。

(……こんな形での会話にも半月の間で慣れてしまいましたわね。最初はお父様が私に内緒で、『恋愛推奨騎士団』だなんて秘密の組織を運営していたことに驚いたものですけど……今では悟りの境地を開けている気がしますわ)

 愛を繋げることをモットーとするシストラバス家の秘密騎士団――『恋愛推奨騎士団』。
 リオンがラバス村の一件でジュンタが使徒であることを知り、自分の恋心に気付いたあと、正式にその存在が明かされた。

 謳うに、彼ら『恋愛推奨騎士団』は自分たちの恋愛を全力でバックアップするつもりらしい。

 最初はその見た目の異様さにドン引きしたものだが……実際、自分一人で最初は動き、あまりの難しさに挫折し、結果的に彼らに力を貸してもらうことになった。

 とにかく、恋愛初心者であるリオンが頼れる相手は、『恋愛推奨騎士団』しかなかったのである。色々と不安はあるも、とりあえずメンバーの面々はこれまで多くの恋愛を成就させてきたという話。頼りにもまたなった。

 だから今回失敗したのは、彼らの言うとおり全面的にリオンが悪かった。

(ジュンタがす、すすす好きだってことに気が付いたのですから。わ、私からアタックするしかありませんわよね!)

 リオンの恋愛観としては、やはり女性から迫るなどはしたなく、男性からアプローチをかけてくるのが当然という感じではあったのだが、恋愛感情を自覚してなおジュンタからのアプローチを待つというのは、現実的に考えて懸命ではないように思えた。

(本当はジュンタが告白してくるのを待つのが淑女的ですけど……仕方ありませんわ。自覚してないとき、二度もジュンタからの告白をはね除けてしまったのですもの)

 リオンは過去二回、ジュンタからの愛の告白を断ってしまっていた。

 そのころは自分の中の恋心に気付いていなかったとはいえ、彼の本気の告白を受け入れなかったのである。一度ならともかく二度。普通に考えて、もうその恋を諦めるぐらいはしてもおかしくない。

 実際、ラバス村からランカの街に戻ってきたあと、行く前にあったアプローチがぱったりと途絶えた。それはジュンタが変わらず自分のことを好きで、きっと次の告白があって付き合えると思っていたリオンには衝撃的な現実だった。

 でも、理性的に考えてみれば当たり前といえたので、憤りはない。

 むしろ都合が良すぎるぐらいに、ジュンタが使徒であり付き合うことに何のしがらみもないと知った途端、自分は手のひらを返したようなものなのだ。好きならば、付き合いたいと思うのなら、これからは自分からアプローチをかけるのが当然だろう。

 特に、最近は本当に強くそう思う。意を決しアタックを開始して、でも前は軽々しくできた買い物に誘うのだってすごく勇気が必要で……ああ、ジュンタが自分を誘ってくれたときはこんなにも勇気を振り絞ってくれていたのかと理解できて、本当に何も知らずにいたことを申し訳なく思う。

(そうですわ。こんなことでめげてなどいられません。まずは一つずつ関係を進展させて、またジュンタに告白されるように、あるいは私から告白できるようにしませんと。そのためにはまず、手を繋ぐことから――!)

 初心を思い出し、リオンは拳を強く握る。

 なんだかこうやって奮起し、でも恥ずかしくて失敗して、落ち込んで、また奮起する……そんなことを繰り返している気がするが、今度は違う。もうあまり時間がないのだ。

「とにかく、リオン。今月の二十九日はお前の誕生日になる。せめてその時までには、少しの進展が見たいものだよ」

「はい! お任せ下さい、お父様! リオン・シストラバスは十七才の誕生日までに、必ずやジュンタとの仲を進展させてみせますわ……って、私ったら何恥ずかしいこと口走ってますの!」

 父親を前にして反射的に宣言してしまったことの重大さ、恥ずかしさを即座に自覚して、リオンは真っ赤になった頬を抑えてその場にしゃがみ込む。

 夏の風はなかなか頬を冷ましてくれない。いや、最近はほとんど冷めていることがない。

 ジュリアの月・二十九日――十八日後に控えた自身の誕生日を、ジュンタがいる初めての誕生日を例年に増して素敵なものにするために。

 リオンと『恋愛推奨騎士団』は、半月間まったく進展のない努力を続けていた。


 

 

       ◇◆◇


 

 

「リオンの誕生日プレゼントかぁ」

 ランカの街の中心街に面する飲食店――『鬼の篝火亭』の厨房にて、臨時のパティシエとしてアルバイトをしているジュンタと、同じく厨房で臨時シェフをしているクーは十七日後に迫ったリオンの誕生日について話を交わしていた。

「こんなこというのもなんだけど、相当難しいんだよな。あいつの誕生日プレゼントって」

「どうしてですか?」

「いや、リオンってあれだ。ものすごいお金持ちで、欲しい物は大抵手に入るだろ? だから一体何をあげていいか、正直見当が付かない」

 調理器具を洗った際手に付いた水気をエプロンで拭きつつ、開店まで僅かにある休憩時間、用意されている休憩室は使わずにジュンタはその場で考え込む。

「一応お金自体はあるけど……宝石類? 貴金属類? 服とかぬいぐるみ、花束とか……リオンの家には腐るほどあるしなぁ」

「で、ですけど、やはりこういうのは何をもらったかよりも誰にもらったかが重要なのではないでしょうか?」

「それはそうなんだけど……その重要な誰にもらったかで期待できないのなら、何をあげたかで価値を高めるしかないんだよ」

「え? どういうことですか?」

「いや、どうもこうも――

 ジュンタは軽く疲れた顔で溜息を吐きつつ、昨夜リオンに誘われていったオペラでのことを思い出す。

 なぜか前は迎えに行っていたか迎えに来てもらっていたのに、街の噴水広場前で待ち合わせして、そのまま歩いてランカ南地区にあるオペラ座に行って……うん、劇自体はおもしろかった。色々と脚色は入っているだろうけど、有名な『オルゾンノットの魔竜』の事件についても理解できたし、さすがはリオンが行くようなオペラと思ったものだ。

 だけど――どうしてリオンはそのオペラを見ずに、ずっとこちらに殺す視線をぶつけていたのだろうか?

「やっぱりあれだ。これ以上リオンに嫌われるのはさすがにまずいと思うんだよ」

「…………はい?」

「告白したのが今になって弊害を生んだのか、それとも使徒だってことをずっと黙っていたのを怒っているのか……使徒だからって色眼鏡で見ているわけじゃないのは確かだけど、正直最近リオンに会うたび会うたびすごい視線で見られるんだよ」

 以前の視線が敵意の視線なら、現在のは殺意の視線だ。昨日のオペラでは、ついに魔力を纏わせた指を突きつけようとしてきたし。あのとき本気で突き込まれていたら、横腹に穴が空いていたかも知れない。やられないようにずっと緊張していたお陰で、今日は筋肉が張ってしまっている。

「誕生日パーティーには誘われてるんだ。せめてこの辺りで挽回しておかないと……ん? どうしたんだ、クー? なんでそんなちょっと涙ぐんでるんだ?」

「い、いえ。世の中はままならないものだと思いまして」

 フリルのたくさんついた白いエプロンとピンクのウェイトレス服を着た、お人形みたいなクーはそう言って目尻についた涙を拭う。自分を使徒と敬愛してくれているクーだ。きっと切実な問題に共感してくれたに違いない。

「相変わらず涙もろいな。クーは別に気にしなくても大丈夫だぞ」

「あ、いえ、そういうことではなくてですね。その、何て言えばいいのか……」

 思わずジュンタはいつもの調子で、常は帽子で隠れている頭を軽くポンポンとしてやろうと思い手を伸ばし、

『――要ら■■と、ただ一言だけそう言えば、きっともっとかわいい姿を見られるだろう』

 脳裏で囁く闇の声に、伸ばした手を引っ込めた。

「ご主人様? どうかなされましたか?」

「い、いや…………なんでも。なんでもないから」

 首を傾げるクーに微笑みかけて、ジュンタは両手をエプロンの前ポケットの中に突っ込んだ。

 ……オペラの最中、ずっと緊張していたのは何もリオンの視線の所為だけではない。それよりもリオンと一緒にいることによって、いつこの闇の囁きが来るのかと警戒していたが故の緊張の方が大きかった。

(本当に、俺はどうなってるんだろうな)

 この症状が出始めたのは、ラバス村で神獣になったときからである。
 
 ドラゴンになるのに使用した『偉大なる書』―― 人を魔獣に反転させるあれが、きっとこの症状の原因。日常を愛する気持ちが歪み、日常をつみ取ろうとする思考がふいに脳裏を過ぎるのだ。

 それは仲のいい人と一緒にいると頻繁に起きやすい。特にクーの前だと、囁きどころか身体が勝手に動こうとする。恐らくは壊れやすいからだ。クーが一番簡単に壊れてしまうから、この手は一番にその絶望の涙を手に入れようとしているのだろう。

(絶対にそれだけはダメだ。守りたいのに、自分が傷つけてどうする)

 ポケットの中の拳を、手のひらに爪を突き立てるほど強くジュンタは握る。

 この誰にも言っていない症状を、クーたちに気付かれてはいけない。心配はかけさせたくはなかった。いや、それよりも知られたくないのだ。他でもないこの日常を続けるために、壊しかねない自分の中の狂いを……

 本心を笑顔の中に隠して、ジュンタはクーには気付かれないように少し離れる。
 クーはどことなく気にした風な瞳をしているが、それ以上は何も言わずに話題を戻した。

「それではご主人様は、リオンさんの誕生日プレゼントはもう少し考えられますか?」

「そういうことになるかな。ときに質問だけど、クーなら誕生日プレゼントに何が欲しい?」

「ご主人様からいただけるのでしたら、私は何でも嬉しいです。大事にします。以前いただいたご主人様の肖像画は、死ぬほど大事にしています! 一生の宝物です!」

「うん。そういうと思った」

 何の参考にもならないクーからの返答を受け、静かに引いていく闇の気配。
 胎動を刺激するのも日常ならば、またおさめるのも日常に他ならなかった。

 クーの笑顔を見るたびに大丈夫だと安心できる。こんな囁きには負けないと、そう思える。

 だけど……

「それじゃあ、そろそろお店の準備に戻りますか」

「はい、ご主人様っ! 今日もがんばりましょう!」

 …………リオンへのこの想いを、今この自分はどうすればいいんだろうか?

 


 

       ◇◆◇

 


 

 聖地ラグナアーツのアーファリム大神殿。その礼拝殿にある大会議室において、聖神教の重要人物たちが会議を繰り広げていた。

 集まった人物の全員がこの聖地において意味を持つ人間ばかり。
 聖神教の枢機卿。聖殿騎士団の団長、師団長。そして何より、この世の導き手である使徒が一堂に会している姿は、敬虔なる姿がいれば祈らずにはいられない何かがあった。

 しかし実際のところ、交わされている話は輝きあるものではなかった。

「それでは間違いないのですね?」

「はい、残念ながら」

 白い白亜の会議室の上座に置かれた椅子に腰掛けるのは、金糸の髪の麗しい女。
 全てを包み込む包容力を全身から発する気品に感じさせる、金色眼の神獣―― 金糸の使徒フェリシィール・ティンクであった。

「そうですか。だとするなら、時はそれほど待ってはくれないということになりますね」

 ピンといつもは横にのびる長い耳を心なしか残念そうに垂らして、フェリシィールは会議において席を用意されていながら空である席を見る。

 まずフェリシィールの左右、同じく上座に置かれた二つの席が空座だ。

 目の前の長テーブルにおいて上座に次に近い場所に、使徒に継いで高い地位を持つ巫女の席があるのだが、これは三つ共が空。

 さらにその向こうは基本的に位に前後はないが、役職的に使徒の近衛騎士隊の隊長が座る。これはフェリシィールの巫女ルドールがそうであるように、多く巫女が兼任しているので、用意されている席は一つだけ。そこには使徒ズィールの近衛騎士隊長であるクレオメルン・シレが座っていた。

「クレオメルンさん。使徒ズィールはいずこに?」

「はっ!」

 翡翠色の髪を靡かせつつ立ち上がり、直立不動の姿勢を取るクレオメルンは、はっきりとした口調で質問に答えた。

「ズィール聖猊下は、現在巫女オーケンリッターと共に、エチルア王国の方に異端審問のためお出になられております」

「そう、まだ帰ってきてはいないのですね。それでは誰か、使徒スイカの行方はご存じですか?」

「私が存じております、聖猊下」

 腰掛けるクレオメルンと立ち替わりに、聖殿騎士団第二師団長ウルキオが立ち上がる。

「スイカ聖猊下は、巫女ヒズミと共に南巡礼都市サウス・ラグナへと今朝ご出立なされました。フェリシィール聖猊下にはお出になることをきちんと伝えてあるとうかがっていたのですが……お聞かれになられてはいなかったのですか?」

「まったくの初耳です。……本当に、あのお二人にも困ったものです」

「も、申し訳ございません!」

 ふぅ、と小さく吐息を吐き出すフェリシィールを見て、ウルキオは謝罪を口にする。
 フェリシィールはウルキオの態度にマイペースを崩すことなく、笑みを取り戻して手を振る。

「いいのですよ、ウルキオ師団長。あなたに何の責もありません。お座りくださいな」

「はっ! 身に余るご配慮感謝致します!」

 胸元に燦然と輝く天馬の刻印に拳をあて、ウルキオは椅子に腰掛ける。

 そこで唯一使徒の中、ちゃんとこの大事な会議に参加しているフェリシィールは、完全にサボりな自分以外の使徒に対してちょっとだけ恨み言を呟いた。

「ズィールさんもスイカさんも、もう少しだけ聖神教のことを気にして欲しいものです。異端審問や聖遺物捜索も使徒に課せられた使命とはいえ、こうも度々大事な会議に巫女共々欠席されては、決められることも決められません。……おかしいですね。どうしてわたくしが育てた子供たちは、こうも間違った風に育ってしまったのでしょうか?」

「申し訳ありません。フェリシィール聖猊下」

 フェリシィールの言葉に、生真面目に反応して頭を下げるのはクレオメルンだ。

 使徒ズィール・シレこそ彼女の実の父親であり、彼女はその近衛騎士隊隊長。頭を下げる理由はあったが、けれどフェリシィールは別に謝罪を求めているわけではなかった。

「気にしないでください。怒ってはいませんので。確かに状況はどうしようもならないところまで来ているようですけど、それでもまだ少しだけ時間に猶予はあります。他でもない、クレオメルンさん。あなたのご報告で、いち早くこの危険性に気付くことができましたから」

「いえ、何のこれしきのこと。使徒ズィール聖猊下近衛騎士隊隊長として、当然のことをしたまでです。我ら聖神教の敵たるベアル教――その魔の手がこの聖地にも伸びるというのなら、断固とした姿勢で臨まねばなりませんから」

「クレオメルンさん……ああ、わたくしは今、とてもじ〜んと来ました。あなたのように心から聖地のことを思ってくれる人がいて。いえ、クレオメルンさんだけではなく、皆さんに感謝しなければなりませんね。わたくしの我が儘ともいえるこの作戦に賛同をしてくださったのですから」

「いえ、我ら聖神教の信徒一同の存在意義は、使徒様のお言葉を遵守することにありますから。御身がそれを望まれるのでしたら、我らはただ守るのみ。むしろ、この栄えある時代の節目に立ち会えたことが光栄でなりません」

「皆さん……」

 若き苛烈なる信仰者の言葉に続いて、枢機卿たちも厳かに頷く。

 今回、この神聖大陸エンシェルトを長らく騒がしているベアル教への対策会議の結論として出た提案に、彼らは皆一様に賛成をくれた。

 あとは使徒ズィールか使徒スイカ、そのどちらかが賛成してくれたなら、この案は実際に実行に移される。千年の間放置されていた問題を、この時代の使徒たる我らで片付ける案が採用に移されるのだ。

「ありがとうございます、皆さん。それでは使徒ズィールと使徒スイカが帰られるまで、この案はわたくしが預からせていただきます。
 それでは、今回の会議はこれにて終了とさせていただきます。皆さん。未だ決まらないとはいえ、心構えだけはお願い致します」

『『はっ! 我らが聖猊下!!』』

 立ち上がった騎士が、枢機卿が、声を揃えて唱する。

 フェリシィールはにこやかに彼らを見回しながら、しかし内心では一つの不安事項を抱えていた。

(三柱の使徒がいる場合、使徒としての権限が実行に移されるのは二人の使徒が賛同したときのみ……ズィールさんかスイカさん。どちらかが賛成してくれなければ非常に困ったことになるのですけど)

 常識的に考えれば反対などはありえない。けれど、フェリシィールには不安があった。

 それはクレオメルン・シレにもたらされた、ベアル教に『狂賢者』がついたという報告より前、異端導師ウェイトン・アリゲイが脱獄し、保管されていたはずの『偉大なる書』が何者かに奪われてから芽吹いてしまった疑惑。

「……信じたくはないのですけど、疑うしかないのですよね。どちらにしろ、ヒントを与えてまで動いたのならば、もうすぐ何かが起きようとしているということ。……こうなっては致し方がありません。もしもの時を考えて、もう一人の使徒も聖地に来てもらわねばなりませんね」

 金色の美しい双眸を揺らして、フェリシィール・ティンクは己が巫女の誘いを待つ。

「今此処に、全てが試される。――――神よ。愛すべき者らに祝福を」

 変わる世界を感じながら。

 


 

 クーの祖父である、ルドール老――本名ルドーレンクティカ・リアーシラミリィが夕刻、供を誰一人としてつけることなくシストラバス邸を訪ねてきた。

 アポイントなしの突然の来訪であったが、相手が巫女ともなれば、何を置いても優先される。シストラバス家現当主ゴッゾ・シストラバスは、比較的かの使徒フェリシィール・ティンクと既知の仲だったので、案件を抱えてはいたがひとまず彼をお通しした応接間に足を運んだ。

「お待たせしえしまい、申し訳ない。巫女ルドール」
 
「これはゴッゾ殿。こちらこそ突然の来訪、誠に申し訳ない」

 華美さとは無縁のローブ姿のルドール。しかしエルフとしての年齢不詳のその整った容貌は、そんな服とはいえ彼が巫女であることを教えてくれる。今はもうゴッゾにとって巫女の代表格となったクーヴェルシェンとは、言っては悪いがまったく違う貫禄を彼は備え持っていた。

 深々とお辞儀をしたルドールは、少し長い前髪によって隠れた双眸で、ゴッゾの左右を見やる。それは他に人がいないことを確認する仕草であった。

「それで、ルドール様。ご用件は一体?」

「そうですな。時間もあまりありません。単刀直入に言わせていただきましょう。
 儂がこの地に参りました理由は二つ。ゴッゾ殿、あなたに協力して欲しい案件があったからです」

「案件? フェリシィール様からでしょうか?」

「はい。我が主からの協力要請です。後々、正式にグラスベルト王国を通じ、古の盟約に基づいた協力要請がされることでしょうが、先んじて報告だけを」

 協力要請。しかも古の盟約――『始祖姫』たちの盟約による協力要請ともなれば、聖地そのものが動く案件ということになる。ゴッゾはことの重大さを理解し、表情を引き締めた。

「わかりました。うかがいましょう」

 ゴッゾはルドールに席を勧めつつ、向かい側の席に腰掛ける。

(巫女が動いているということは、使徒が動いているということ。さて、何が一体始まろうとしているのか……これはまた面倒なことになりそうだ)

 娘の誕生日を近くに控えた今、何やら聖地が大々的に動こうとしていることを、実感しながら。

 


 

       ◇◆◇


 

 

 あまり見たことのない異国のお菓子が食べられると評判の『鬼の篝火亭』は、そのスイーツのおいしさで女性の人気を、ウェイトレスのかわいらしい服で男性の人気を集めている店である。
 店内はかなり広めで、ロスクム大陸の様式と聖地の様式が合わさったような異国風なテイストとなっていた。

 そんな『鬼の篝火亭』の奥には、大通りの活気ある様子を眺められる一番いい席が用意されている。

 三人まで座ることができるその席は、特別なお客のために使われる。その席を主に使っているのは、『鬼の篝火亭』のもう一つの評判となってしまった、リオン・シストラバスその人である。

 とにかく彼女はよく『鬼の篝火亭』にやってくる。大抵は従者のユースと一緒に。それがまた『鬼の篝火亭』の名前を高め、広めているのであった。

 今日も今日とてユースと共に店にやってきて、ジュンタの作ったショコラをご所望したリオンは、ウェイトレスをしていたクーを真向かいの席に座らせて話をしていた。

――そういうことですから、クー。後で私の家にいらっしゃい」

「はいっ、是非行かせていただきます!」

 クーは最初、遠目から男性女性問わず注目を集めていることを悟って畏まっていたが、リオンの話を聞いて笑顔を浮かべている。
 ウェイトレスをやりつつ時折二人の話を小耳に入れていただけのジュンタは、クーの満面の笑顔になんだなんだと二人に近付いていった。

「クー、そんなに喜んでどうしたんだ? リオンの家で何かあったのか?」

「そうですわね。あなたは巫女であるクーの主なのですから、話しておいた方がいいかも知れませんわね」

 突然やってきたジュンタに、紅茶を優雅に傾けつつ、リオンは先程までクーに話していた話をもう一度口にした。

「実は、先程お父様の許にお客様が来ましたのよ。そのお客というのが、他でもないクーの祖父、つまりルドール様なのですわ」

「ルドールさんが? また、どうしてお前の家に?」

「それはわかりません。私が出かけるとき、入れ違うようにして屋敷にやってこられたんですもの。今頃はきっとお父様とお話し中のはずですわ。ですけど、折角いつもは離れて暮らしている家族が近くにいるのですから、クーも会いたいのではないかと思って、わざわざこうして教えに来て差し上げましたの。本当にそれだけの理由ですわよ?」

「リオン様。普通にお言葉は矛盾していますが」

「ユース! 余計なことを言うものではありません!」

 クーが喜んでいた理由は、なるほど、祖父であるルドール老がリオンの屋敷にやってきていることを聞いたからだったのか。と、遊んでいる主従を見ながらジュンタは納得する。

「わざわざ教えてくださりありがとうございます、リオンさん。おじいちゃんに会うのは久しぶりなので、是非会いたいです。ご主人様、会いに行ってもいいでしょうか?」

「もちろん行っておいで。何なら泊まってきてもいいし。別にいいだろ? リオン」

 何やら頻繁に紅茶を口に運ぶリオンは澄まし顔で頷き、

「構いませんわ。なんでしたら、その、ジュンタも一緒に泊まっていったらどうです? 聖地に行ったときは急がしくてあまりお話しできなかったのでしょう? 巫女とはいえ孫娘を預かっているのですから、しっかりと話はしておくべきではなくて?」

「そういわれてみたら、なんだかんだでルドールさんとはあんまりお話ししたことないんだよな。そうだな……サネアツもそっちに遊びに行ってるっぽいし、明日は暇だし俺も付いていくか」

「ほ、本当ですの!?」

「え? あ、ああ」

 椅子を弾き飛ばして立ち上がったリオンの剣幕に、ジュンタはタジタジになって頷く。

 リオンははっとなって椅子に腰を下ろすと、頬を染めつつも紅茶のカップを傾け始める……しかし先程から気になっていたのだが、すでにカップに紅茶は残っていないのに、リオンは一体何をしているんだろうか?

 謎の行動をするリオンは、スーハースーハーと深呼吸らしきことをしている。
 さらには無言でユースから激励らしきアイコンタクトを受けていて―― そこでちょうど、ジュンタは店長に呼ばれた。

「じゃあ、クー。俺は仕事に戻るから。もうすぐ終わりだし、準備して待っててくれるか?」

「あ、はい、わかりました。ご主人様。がんばってくださいね」

 忙しそうなリオンにあいさつするのは止めにして、ジュンタはクーに軽く手を挙げて仕事に戻る。あともう少し、がんばるとしよう。

 本家大元の『鬼の宿り火亭』とはかなり違う、喫茶店のような『鬼の篝火亭』だが、日も沈んだ頃から少しの間、高級酒場に姿を変える。甘いスイーツの香りはお酒の香りに代わり、働き手は可憐なウェイトレスから女性なおねぇ様に姿を変える。偶にこっちも手伝うが、基本的にジュンタはノータッチだった。

「で、でしたら私と、ゆゆゆ、夕食をご一緒しません?」

「……リオンさんは一体、何をされているんでしょうか?」

「お気になさらず、クーヴェルシェン様。リオン様、ジュンタ様はもういらっしゃいませんよ。あとどもり過ぎかと思われます」

 何やら酷く目の保養になる女性三人が何か騒いでいるが、その内容はジュンタの耳に入ることはなかった。


 

 

 リオンはユースと歩きつつ、目の前を並んで歩くジュンタとクーを羨ましそうな目で見つめていた。

 ジュンタとクーは何やら楽しそうに会話をしている。内容はあまり離れてはいないのだが聞こえない。リオンにはこの僅かな距離がやけに遠く感じられた。それが気のせいだとは理解しているが、それでも……

 きっと、最近ジュンタとあまりしゃべっていないからだろう。

 リオンは誰かに恋愛感情を抱くのが初めてだったため、想いを向けるジュンタを前にしてどう接していいのかがわからなかった。

 彼を前にすると動悸が激しくなって否応なく照れしまう。実際話しているときは前のように会話を交わせるのだが、その後、今の会話で自分がどう思われたか気になってしまったりするのだ。そのために、話しかけるのに前よりもずっと勇気が必要だった。

(きっと恋愛感情はそのままに、いつか慣れるのでしょうけど。でも……)

 リオンは楽しそうな二人。使徒と巫女という強固な縁で結ばれた、異性同士の二人を見る。

 こうして好きな人が他の女の子と仲睦まじそうにしているところを見ると、どうしようもなく焦ってしまうのである。クーはどう考えてもジュンタのことが好きだし、ジュンタもまた然りだろう。それが恋愛感情とは少し違うことはわかっていても、危機感はぬぐえない。

 ジュンタへの想いを自覚して、改めてリオンはクーという少女について思うのだ。

 美しい金糸の長い髪と、白い大きな帽子。ぱっちりとした大きな瞳は澄み渡る蒼穹の蒼。長いエルフの証明である耳と、まさに清純可憐。誰もが頬を弛めてしまうほどかわいらしい少女である。

 そう、クーヴェルシェン・リアーシラミリィという少女はあまりにかわいいのだ。それは何も外見だけに止まる話ではない。

(ジュンタにまっすぐ想いを伝えられて、行動で示せて、優しくて、従順で、家事だってできて……完璧ではありませんの。男性が女性に求める全てをクーは持っていますわ。それに引き替え、私は……)

 リオンだって、自分のすこぶる恵まれた容姿だというのはわかっていた。それはクーにだって負けないもの。内面だって気品に溢れ、気高い騎士姫としての姿は万人を見とれさせるには十分と自負している。

 けれど、女の子らしさという観点から見たらどうだろうか?

(炊事洗濯はしたことがなく、いつだってジュンタには厳しく接してきてしまいましたし、あまつさえ使用人扱い。優しくした記憶なんてありませんし…………止めましょう。これ以上考えると落ち込んでしまいそうですわ)

 クーに比べてしまえば圧倒的に異性としての魅力が劣っている自覚はあるが、それでもこんな自分をジュンタは二度も好きだと言ってくれたのだ。少なくとも女性としての魅力は皆無ではあるまい。あの告白を信じて今は突き進むしかあるまい。

 そういうわけで――

「ユース。何かこの状況でジュンタに自然に振れる話題はありませんの?」

 ――こんなときこそお助けユース。

「自然な話題、ですか?」

 メイド服を着た茶髪翠眼のクールビューティーは、銀縁フレームの眼鏡を軽く押し上げる。

「自然も何も、思ったことをただ話しかければ、それは自然な話題のはずだと思うのですが。むしろ考えてしまった時点で自然ではないかと。何も話しかけるほどのことで悩むことはないかと思われますが?」

「何を言ってますの、ユース。あなたはまだまだ分かっていませんわね。
 いいこと? 好いた男性が他の方と楽しそうに話をしているところに割り込みますのよ? 当然の礼儀として、その後の自分との会話をより楽しくする義務があるではありませんか」

「はぁ…………え? 今のはご冗談ではなかったんですか?」

「冗談? 何を言っていますの? 私は至極真面目でしてよ。
 さぁ、ユース。あなたも一緒に考えなさい。屋敷までもうあまり距離はありませんわ。せめて一つぐらい楽しい会話をしなければ、進展は望めません」

「リオン様……畏まりました」

 腰に手を当てて、うむむとリオンは眉根をひそめて大いに悩む。

 こうして考えてみると、以前の自分がどうやってジュンタに話しかけていたかがよく思い出せない……ことはない。思い出してみると、いつだって自分は言いがかりをつけるように話しかけていた気がする。いや、あくまでも正当な文句ではあったが。

「話したいことはたくさんありますけど……たくさんありすぎて、きっと途中で言いつかえてしまいますわ。やはりここは一人前の淑女らしく、慎ましやかに男性を楽しませてあげられる話題は必須ですわね」

 ちょっぴり話しかけるのが恥ずかしいので、勇気を出すためにもそういう話題は必要不可欠なのである――しばしリオンはユースと一緒に悩み続ける。ユースはあまり会話が得意ではないので、なかなか良案は浮かばなかった。

 しかし、良案をユースが思いついたのもまた、その口下手が理由であった。

「そうですね。リオン様から話題を振ったのでは、リオン様が主体となって会話を運ばないといけません。今のかわいらし……失礼。今のリオン様にそれは少々酷でしょう」

「悔しいですけど、事実ですわね。それで? では私はどうするべきだと思いまして?」

「質問をするんです」

「質問? ジュンタに、ですの? 話題を振るのではなく?」

「はい。ここはジュンタ様に何か質問する形で、ジュンタ様の方から話を進めてもらいましょう。差し障りのない範囲で気になっていることを聞けば、リオン様の反応もいいはずですし、ジュンタ差も話していることに興味を抱かれて悪い気はしないはずです。それにジュンタ様のお話ならばクーヴェルシェン様も喜ばれるでしょうし、失敗を恐れる必要はありません」

 淀みなく歩きつつ考えついた案を述べるユースを、リオンは足を止めて振り向く。

 その無表情に近い、けれどポーカーフェイスの下にある主への思慮にリオンは改めて気付き、感動に震える。

「ユース。私はとてもいい従者を持って幸せですわ」

「私の浅い知識がお役に立てたのならば、これ以上に嬉しいことはございません。さぁ、リオン様。どうぞジュンタ様のお隣へと」

「緊張しますけど、あなたにそこまでやってもらって、たじろいでいることはできませんわね。ユース。あなたはここで、あなたの主の誇り高い姿を見ていなさい!」

「はい、リオン様。生暖かく見守らせていただきます」

 頷いたユースに頷き返し、リオンは小走りでジュンタとクーの下へと行く。

 その足と手の動きは、完全に左右が同一のタイミングで動かされていた。


 

 

「俺の今のオラクルが何か、だって?」

 ジュンタは唐突にリオンに凄んだ顔で投げかけられた質問の内容に、彼女の真意に、質問を繰り返しつつ足を止めた。

 隣のクーも目を丸くしている。それはリオンの形相に驚いているというより、その質問の内容に驚いているよう。確かに、リオンに使徒である事実を晒したのは半月前。以後ある程度の履歴を聞かれることはあったが、オラクルについては一度も聞かれていなかった。

「オラクル、ねぇ」

 オラクル――それは神が使徒に与える、十の試練のことである。
 
 一般的にはあまり知られておらず、知っている人間はこのオラクルの意味を神へと近付くための試練として受け取っているのだとか。たぶんリオンもクーもそう取っているだろう。けれど、ジュンタは知っていた。オラクルの本当の意義を。

 オラクルはマザーというこの世界の神にも等しき存在が望む、『新人類』へと至るための試練なのである。この新人類になれる資格者こそ使徒と呼ばれるものであり、十のオラクルをクリアした使徒は新人類にシフトする。

 ジュンタとしては、正直新人類になるつもりはなかった。

 使徒であることは受け入れているが、オラクルに対してだけは消極的である。その在り方に密接に関わるためにこれまで四つまでクリアしているが、別に他に理由がない限り自ら進んで挑戦するつもりはない。

 ただ、使徒はオラクルに挑むもの――そういう認識をしているのか、リオンの表情はかなり真面目だった。

「別に言っても構わないことだけど……ん? 別に言っても構わないんだよな?」

 誤魔化すのもあれだから正直に語ろうとしたところ、ふいにそのことを疑問に思う。
 
 オラクルがあまり一般人に浸透していないということは、つまり歴代の使徒が隠してきたということだ。それはつまり、オラクルを不用意に語ることには何か問題があるのかも知れない。

「クー。そこのところどうなんだ? 別に俺は言ってもいいと思うんだけど」

「ご主人様が教えたいと思われるのでしたら、別に構わないと思います。あまり不用意にオラクルのことを話すのは良くないとフェリシィール様に聞いたことはありますが、それはその使徒様がどこまでオラクルをクリアできているか、その段階によって使徒様の間で優劣を付けられては困るからなどと言った理由らしいですから」

「あら、そういう理由でしたのね。確かに使徒様は皆様が平等なるもの。導き手であり救い手である使徒様の間で優劣があったらおかしいですもの……ジュンタは例外ですけど」

「特別扱いしてもらってると思っとく。で、そういうことなら話しても大丈夫だな。リオンだし」

 何気なくジュンタはそう言って、クーとは逆隣に並んだリオンを見る。
 
「リオンだし。だし、だし……特別扱い」

 何やらぶつぶつと呟いて、まるで緩みそうになる頬を抑えるように両頬を抑えているリオン。笑いたいのか笑いたくないのか、よく分からないところがちょっと不気味である。

 早く立ち直ってくれとジュンタが思った矢先、リオンは腕を組んで微妙にそっぽを向いた。

「そ、そんなに話したいのでしたら、聞いて差し上げましてよ。ジュンタはどれだけのオラクルをクリアし、今はどんなオラクルを達成しようと動いていますの? な、内容次第でしたら、私も協力して差し上げますわ」

「協力は別に必要ないけど、俺がクリアしたオラクルは今のところ四つだな。えぇと……詳細はなんだったか?」

「一つ目が『竜殺し』、二つ目が『陸空の王への名乗り』、三つ目が『雌雄決す場にて頂きに立つ』、そして半月前にクリアした四つ目のオラクルが『聖地にて詩を謳え』です」

「そうだそうだ。その四つを今のところ俺はクリアしているな。さすがはクー、よく覚えてたな」

「それが巫女の役割ですから」

 クーはちょっぴり胸を張る。
 使徒としての使命に忠実ではない主とは違って、非常にしっかりとしている巫女である。

 ……そこでジュンタは、何かしらリオンからのアクションがあるものと思っていたが、予想に反して、質問されたことに対して答えたのにリオンからの反応はなかった。

「…………」

 ただ、リオンは驚いているだけ。あるいはショックを受けているようにも見えた。

「リオン? お前、どうかしたか? 別に驚くような内容は……ないとは言えないけど、もう終わったオラクルだぞ? これから俺が挑む内容じゃない」

「そう、ですのよね。その四つはすでにジュンタがクリアしたオラクルなのですわよね…………何やら額面通りではなさそうなオラクルがありますけど、もう少し内容を詳しく教えてくれません?」

 ようやくという感じに開かれたリオンの口から出たのは、強ばった声。
 どうしたんだろう? と、ジュンタは思いつつ、自分がクリアしたオラクルの説明に入った。

「一つはそのままの意味だな。ドラゴンを殺すこと。二つ目の陸空の王ってのはオーガとワイバーンのことだ。これを倒してクリア。で、三つ目がつまりは何かしらの大会で優勝することだな。最初武競祭で優勝して初めてクリアできると思ってたけど、実際はパティシエ大会で一位になってクリアした。それで最後の四つ目、これはどうやら俺が神獣の姿を取り戻すことにあったらしい。一番わかりにくかった。ああ、いや――

 一気に説明をしたジュンタは、そこで言葉を切ってクーへと視線を贈る。

――一番わかりにくいのは、今挑戦しているらしい五つ目のオラクルの方だな。『生命に触れよ』……額面通りに受け取ることすらついにできなくなった」

「オラクルは段階が増すごとにわかりにくくなるらしいですから。特になんでも、五つ目と八つ目、十つ目は難しいということですので」

 四つ目を知らぬ間にクリアしていたために、巫女であるクーに下った五つ目の神託。その内容を取りあえず聞いたジュンタだが、どうすればいいのかまったくわからない。完全にお手上げ状態だった。

 クーが今言ったように、またサネアツからも以前聞いたが、五つ目のオラクルは個々により内容が異なる使徒のオラクルにおいて、等しくクリアが困難らしい。それがどうすれば達成できるのか判断するのが難しいのか、それとも判断した後の達成方法が難しいのかは知らないが、四つ目のオラクルを叶えるのよりも時間がかかりそうだ。かかっていいが。

「まぁ、俺のオラクルについてはこんなところだ。正直あんまりやる気はないから、ぼちぼちやってくつもりだけど……」

 クーから視線をリオンへと向けたジュンタは、そのまま硬直した。

 さっきまで笑っていたリオンは強ばった顔になり、そして今はなんだか泣きそうな顔になっていた。一体今の内容のどこにリオンが悲しむ要素があったのか、甚だジュンタにはわからなかった。

 そして……そんなに弱いところを見ると…………あの囁きが……

――あの■■は■だと、ただ一言だけそう言えば、きっともっと綺麗な姿を見られるだろう』

――っ!」

 リオンはただ一言では壊れない。けれど、理解したくないと拒否した囁きの内容は、酷くリオンを傷つけるものなのだろう。

 言ってはいけない。強く強く手を握って、ジュンタは努めて笑顔を浮かべた。

「どうしたんだ、リオン? 俺の今まで辿ってきた試練に同情でもしてくれたのか?」

「同情……?」

「そう。自分から進んでやりたかったわけじゃないのに、なんだかんだでいつの間にかやることになってたからな。全部が全部、ある意味きついことだったし……本当、俺はなんでこんなにもクリアしているんだろうな」

 四つ目のオラクルをクリアしなければ、こんな呪いを背負うことはなかったのに――そう内心だけで思うジュンタ。

(けど、あの時ドラゴンにならなかったら、色々なものが壊れていた。だから、後悔はしてない。これから負けないようにがんばればいいだけか。治す方法を探せばいいだけの話で……)

 パシン。と、リオンの平手がジュンタの頬を打ったのは、ちょうどその時のことだった。

「ご主人様!?」

 クーの叫びが聞こえた。けど、別に張り手自体は痛くなかった。

 ただ、リオンの宝石のような瞳から一粒零れた、真珠のような涙を見て胸が強く痛んだ。
 それがリオンの涙を見たためか、それとも闇の囁きのためか、衝撃に揺れるジュンタには判別がつかなかった。

「………………リオン?」

 ジュンタは熱い打たれた頬を抑えて、リオンを見た。
 きつく涙目で睨みつけてきていたリオンははっとなると、背中を向け、震える声で、

「……私は先に屋敷へと戻りますわ。頬を叩いて、申し訳ありませんでした」

 それだけを口にして、逃げるようにシストラバス邸の方へと走って行ってしまった。

 見送ってから、ようやくジュンタは気付く。

「ああくそっ、しまった。今の言葉だけだと、そういう風に勘違いされるか」

 気付いたから、リオンの後を追いかけた。

 聖地からの使者が待つ――シストラバス邸へと。









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