第十二話  祝福の始まり(前編)

 



 エリーゼ大聖堂を見下ろすディスバリエの許にギルフォーデとボルギィがやってきたのは、ジュンタ・サクラを探していた聖殿騎士団の騎士に、捜索対象の発見と作戦の終了が宣言された直後のことだった。

「申し訳ありません、『狂賢者』様。『不死鳥聖典』の奪取に失敗してしまいました」

 頭を下げるギルフォーデを一瞥し、ディスバリエは次にぼうっと突っ立っているボルギィを見る。

「気にしないでいただいて結構。この作戦は完全に我々の敗北でした。計画外のことが起こりすぎたようです。白い子猫……あれがまさか隠れ家を探し当てるとは、想定外の極みでした」

「『狂賢者』様でも予測できない事態があるのですかぁ?」

「存外に多いというものです。特にこの聖地では非常に読みにくいですから。使徒の力だけは、あたくしでも理解できませんわ」

 エリーゼ大聖堂の地下神殿にリオン・シストラバスを筆頭とした救出部隊が足を踏み入れたのを察知した段階で、ディスバリエは今回の作戦が失敗したものと理解し、即座に撤退した。また、どうやって見つからないはずの場所が見つかったのもすでにわかっている。

 今回は詰めが甘かった。思いの外、彼の仲間が予想外の行動を多くとったことが敗因だ。なれば、ディスバリエとしては誰を責めるつもりもなかった。それがわかっただけでも収穫といえよう。

「『狂賢者』様。再び『不死鳥聖典』の奪取に向かいますか? 名誉挽回の機会が得られるのでしたら、今度は正面から力ずくで奪うことも躊躇しませんがぁ」

「いいえ、必要ありません。元々これはあたくしの独断。確かに竜滅姫の存在はドラゴンにとっては鬼門ですが、大局にさして影響はない。念には念をといって、大局の勝敗に大きく関係するこちらを蔑ろにはできません」

 ギルフォーデに微妙に本音を隠した返答をして、失敗したことを気にした風もなくディスバリエは笑う。

「それに、これ以上勝手な真似をしたら、我らが盟主様に怒られてしまいますからね。ここからは本来の任務に従事することにしましょう。そろそろ、同士オーケンリッターが祭りの準備を完成させた頃合いでしょうから」

「御意に。では、我々は彼の指揮下に入ることにしましょう。本来の任務――使徒の確保に余計な邪魔が入らないことを祈っていてくださいませ」

「ええ、素敵なパーティーになることを祈っていましょう」

 快く頷くと、仰々しい仕草で一礼したギルフォーデが闇の中に溶け込んで消える。続けて無言のままのボルギィも消えた。

 一人ディスバリエはその場に残り、遠く離れた場所の光景を瞼の裏に映す。
 そこにいる四人と一匹の姿。仲が良さそうにはしゃぐ、ギルフォーデの奸計でも断てなかった絆が、そこにはあった。

 決して目を開けて見ることの叶わない光景に、狂おしい感情をこめてディスバリエは呟く。

――ハッピーバースデイ、リオン・シストラバス。あなたにどうか、最高の祝福を」

 けれどディスバリエの表情はピクリとも動かず笑みを浮かべたまま。

 それは表情を変えられない人形のような、感情に比例して表情が動いてくれない、どこか壊れた笑みだった。

 


 

 誘拐されていたジュンタが、無事保護されたその足で自分の許までやってきたとき、フェリシィールは安堵と共に嫌な予感を胸に覚えた。そして彼の口から直接今回の誘拐の主犯格――ディスバリエに攫われたときの状況を聞いて、嫌な予感が現実のものになったことに怯えた。

 自室にてジュンタと一対一で向かい合う中、フェリシィールは沈痛な面持ちで口元を右手で覆う。彼の報告の内容には、そうなってしまうべき点が存在していた。

 フェリシィールは黙ったままのジュンタに対し話しかけようとして、止めて、また話しかけようとして止めるということを数回繰り返したのち、右手を口元から離した。

「もう一度、確認させていただきます」

 少しだけ震える声で、だけど毅然とした態度でフェリシィールは問い掛ける。

「ジュンタさんがディスバリエ・クインシュに攫われたとき、そこは神居の中であり、またオーケンリッターさんが近くにいたのですね?」

「はい。それで間違いありません」

 できれば否定を返して欲しかった返答に、ジュンタは真剣な顔で肯定した。
 真剣な態度には、理由がなければ真剣に返してくれる彼の美点が、今日だけは恨めしかった。

「そうですか……巫女オーケンリッターが……」

 ジュンタが攫われたときの情報を要約してしまえば、ズィールに呼び出しを受けた帰り道、オーケンリッターに見送られ、最後にディスバリエ・クインシュが現れ攫われたということになる。そこにはオーケンリッターから聞いた話と食い違いがあった。

 ジュンタがズィールに呼び出しを受けた帰り道に攫われたことは知っていたが、確かにオーケンリッターは『ジュンタ・サクラが神居を出るまで見送った』と話していた。それはつまり、自分の見える範囲ではジュンタは攫われなかったという意味だ。

 だが攫われた本人であるジュンタがいうに、攫われたのはまだ神居の中であるという。これだけでもオーケンリッターの話とは食い違うし、何よりディスバリエが現れたときの状況が、明らかにオーケンリッターが怪しいと教えていた。

 そして――彼の主である使徒ズィールには、ディスバリエもまた所属するベアル教との繋がっているという嫌疑がかけられている。

 ここまで来たら、彼がそんなことをするはずない、と半ば信じ切っていたフェリシィールも、ズィールを疑わざるをえなかった。使徒と巫女は一心同体。今朝の言動といい、ズィールの最近の行動はあまりに怪しい。

(まさか本当に? あのズィール・シレが、ベアル教と通じているのですか?)

 信じたいと思っても疑ってしまう自分の心理に、頭がくらくらとする。同時に、ズィールの一つ前の使徒として責任感が刺激される。

 大きく一つ深呼吸。深夜の空気を肺一杯に吸い込んで、悩みで澱んだ空気を吐き出す。それで気持ちを切り替えて、フェリシィールは自分が今するべきことを見定めた。

「わかりました。ジュンタさん、疲れている中ご報告ありがとうございました」

「いえ、たくさん迷惑かけてしまいましたから、これくらいは……それで、どうするんですか? オーケンリッターさんもあくまでも怪しいだけで、確証はないわけですし」

 何かしらの決意を秘めた眼差しを向けてくるジュンタに、負けぬようにフェリシィールもまた決意を決めた眼差しを返す。

「『狂賢者』ディスバリエ・クインシュがすでにこの地で行動に移っている今、一刻の猶予もありません。わたくしが直接使徒ズィールに問い質しましょう」

「直接? ズィール・シレがそれで正直に答えますか?」

「わたくしが知るズィール・シレという使徒なら、必ず答えを寄越してくれるでしょう。どのような返答が返ってきても、それがどのような事態を引き起こそうとしても、わたくしはそれを受け入れてみせます」

 ズィールはフェリシィールの次の使徒であり、六十年近く一緒にこのアーファリム大神殿で過ごしてきた。それこそ、ズィールのことは赤ん坊だった頃から知っている。

 そう、言ってしまえばズィール・シレは、フェリシィールにとって子供の一人のような相手だった。使徒の教えは一つ前に降誕した使徒が原則教えることになっていたから、様々な感慨をもって彼の世話をしたことを覚えている。

 今では立派に成長し、子供までできた。子供の成長を見届けた母親のような気持ちでフェリシィールは見守ってきた。だから、これが自分の務めなのだろうと受け止める。……まだどうしようもなく、『神の座』だけを見ていた頃とは違うのだ。

 フェリシィールは後輩であるジュンタ――『神の座』を追い求めているのか、それともすでに諦めているのか分からぬ使徒を見て、安心させるよう微笑む。

「確かもう少しでリオンさんの誕生日でしたでしょう? 使徒ズィールのことはわたくしに任せて、ジュンタさんはどうかリオンさんの誕生日を祝って差し上げて下さい。――どうか、わたくしの分まで」

 金糸の使徒。『自然の預言者』たるフェリシィール。

 聖地の使徒フェイシィール・ティンクは、今や紛れもなく、聖地と世界を守護する最古参の使徒であった。

 


 

      ◇◆◇

 


 

 救出された翌日はのんびりと休み、さらにその翌日からジュンタは早速行動に出始めた。といってもそれはベアル教関連のことではなかった。

 ジュンタとて、フェリシィールにああ言われたからといって、ズィールが白か黒かはっきりするのを彼女一人に任せたくはなかった。出会いの当初こそ色々あったわけだが、今となっては彼女が決して嫌いではない。むしろ好ましいとも思っている。危険が伴うズィールへの対応によって、彼女を傷つけさせるのは嫌だった。

 だからといって、自分に何ができるか冷静に考えてみれば、やれることなど皆無に近い。下手にズィールやオーケンリッターに近付いたら、また誘拐される羽目になるかも知れない。それだけは絶対にゴメン被る。

 そして問題のベクトルは違うとはいえ、こちらの問題も十分に大切だったのだ。

「さて、と。リオンの誕生日プレゼント、本気でどうするかなぁ」

「どうしましょうか」

「どうするべきだろうな」

 ジュンタが昼前、クーとサネアツと一緒に繰り出した先は街。目的は今日をいれて二日後に迫ったリオンの誕生日プレゼントを選ぶことにあった。

 元々フェリシィール提案の『封印の地』への侵攻作戦が唱えられてから、リオンの誕生日は日数的に聖地ラグナアーツの別邸で行われることが決まっていた。関係各者にもその旨がすでに通達されていて、幾人かの知り合いはすでに現地入りしているようだ。
 しかし突然といえば突然の予定変更なので、一部の参列者は来られなくなったらしい。その筆頭は、付き合いの深さで言えば最古といえるホワイトグレイル家なのだとか。

 そんなわけで、リオンの誕生日パーティーの日程変更は起きていない。現在別邸では、ランカから招集した使用人たちが大慌てで準備に追われている。それこそ徹夜している人もいるらしい。

 ……正直にいえば、パーティーの準備が予定より遅れている理由は、誰も愚痴らないがジュンタの所為だった。

 誘拐された件で、捜索のため貴重な労働力である騎士たちが駆り出され、使用人たちも雑務に追われたらしい。遅れる要因はことごとくジュンタを発端にしていた。責任を感じて手伝おうとはしたものの、本職に任せろむしろ邪魔といわんばかりに追い出されてしまった。あるいはリオンの誕生日プレゼントを用意しろとの無言の催促なのか。

 とにかく現在のジュンタにとっては、色々な意味でリオンへの誕生日プレゼントの確保は至上命題だった。誕生日を迎える張本人として、ものすごく忙しそうだったリオンや、彼女を補佐するユースに黙って、二人と一緒に街に繰り出していたわけである。

 しかし……

「さて、ここで一つ質問だけど、このメンバーってもしかして大切な贈り物を選ぶのには最も適さないメンバーなんじゃないか?」

 店が並ぶ区画に到着してすぐ、どこの店に入るでもなく道の真ん中で立ち尽くすジュンタは、唐突にそんなことを口にした。

 サネアツは気分を害したとでも言いたげに笑い、クーは小首を傾げる。

「何をいうジュンタ。このキャット・ザ・アドバイザーがいれば、まさに百猫力だろう。ことごとくジュンタとリオンの要望に沿った品を見繕ってみせるとも。そうだな。まずはこの先の裏路地にある、何ともユニークな品を扱っているジャンクショップへ向かおうか」

「私は確かに役には立てないと思いますが、ご主人様ならきっとリオンさんへの素敵なプレゼントを探せると思います! 荷物持ちぐらいでしたら、私でもなんとか!」

「うん、今ので完全に理解した。この面子じゃ絶対にダメだ」

 感性がぶっとんだサネアツはいうに及ばず、クーも何だかんだで感性がはずれている。かわいいものが好きなのは普通の女の子だが、何をもらっても嬉しい。最高。そんな感じのアドバイスぐらいしか返って来ない気がする。ジュンタもジュンタで、自分だけで探せるなら誰かの手を借りようとはしない。

「よしっ、まずはリオンへの誕生日プレゼントを探すんじゃなく、的確にアドバイスをくれそうな相手を捜そうか」

 初っぱなから方針変更が要求される事態に、ジュンタは頭を悩ませつつも前向きに。

「リオンが欲しがるようなものをわかるってことは、女性じゃないといけないよな? だけど、ラグナアーツにそんな知り合いはいないしなぁ」

「俺がアドバイザーで何が悪いのかという疑問は残るも、差し当たってユースはどうだろうか? リオンの補佐をしているだけなら、時間的に少しくらいこちらに手を貸してもらうことぐらいは頼めるだろうよ」

「そうですね。ユースさんなら一番リオンさんの好みを熟知していると思いますし、とってもいいチョイスだと思いますっ」

「いや、ユースさんが一番ふさわしいのは俺も理解してる。けど、ダメだ。実は出かける前に少し訊いてきたんだけど、そのときの返答が……」

「返答が?」

「なんだったんですか?」

 朝一番に尋ねた質問に対するユースの返答を思い出して、ジュンタは苦笑いを浮かべる。
 常の無表情をどこか憧れる乙女のように輝かせながら、クールなメイドさんが口にしたリオンにふさわしい誕生日プレゼントは、それだった。

――エンゲージリング以外にないと、そう言われた」

「なるほど。いや、いいではないか。人生の墓場への片道切符」

「さすがです、ユースさん。まさにこれしかないと言わんばかりの名案ではないかと思いました」

「サネアツは人ごとだと思って適当なこと抜かすな。クーは真剣にそう思ってるのはわかるけど、絶対にあり得ないからね。そのプレゼントだけは」

 ジュンタはげんなりとしつつ、ニヤニヤ笑うサネアツと目を輝かせるクーを現世に戻す。

「とにかくユースさんはダメだ。他の誰かじゃないと。かといって先生はここにはいないし、エリカは忙しくて相手してもらうのは無理。となると、残るはここで出会った相手しかいないわけだけど……フェリシィールさんにスイカ、それにクレオメルンか」

『鬼の篝火亭』とシストラバス家関係者を抜かせば、異性の知り合いはさほど多くはない。ランカならいざ知らず、聖地ではフェリシィール、スイカ、クレオメルンしかいないのが現状だった。

 道の真ん中で行き交う人の流れに流されるままに足が向くのはアーファリム大神殿。入るだけならクーがいれば可能な、唯一あてとなる女性がいそうな神殿だ。

「まず、フェリシィールさんはダメだな。色々とやることがあるだろうし」

「クレオメルン様も少し無理だと思います。ズィール様とオーケンリッター様がお出かけになられていて休暇の最中だとは聞いていますが、なんだか最近は暇があれば鍛錬に打ち込んでいらっしゃるらしくて」

「クレオメルンが鍛錬に?」

「はい。なんだかお悩みでもあるようでして……心配です」

 クーとクレオメルンは友人同士だ。呼称こそ友人らしくないが、二人が一緒にいるところを見たジュンタは、二人がよく似ていて気があった友人同士に見えた。ジュンタはクレオメルンにおかしいことに気付かなかったが、付き合いも深いクーにはわかるのだろう。その顔は心底心配しているという感じである。

「なら、クー。この際これからクレオメルンの相談に乗ってきてあげたらどうだ? クレオメルンに頼むのは無理なわけだし」

「ですけど…………いえ、そうですね。私がご主人様と一緒にいてもお役に立てそうにありませんし、すみませんがそうさせてもらってもいいですか?」

「もちろん。大切な友人は大事にしてやらないとな」

「そうとも。ジュンタもクーヴェルシェンを見習って、あるいは俺を見習って、俺をもっと大事にするべきだな。差し当たっては俺の脳内激写アルバムに刻まれるにふさわしいコスプレを今!」

「いや、本当に。クーとクレオメルンの関係が羨ましくて仕方がない。俺とサネアツなんてこんなもんだし……というか、あれ? 俺の友人ってまさか、みんな……」

 サネアツを筆頭とした悪友たちの姿が、そのとき脳裏を駆けめぐる。果たして、そこに名を連ねる者共に、一人としてまともな人間がいない気がするのはなんでだろうか?

「そうか。俺ってまともな友人が一人もいなかったのか。そうなのか……ふ、ふふ、ふふふふっ」

「むしろ類は友を呼ぶ状態の気がするが。まぁ、これで消去法的にスイカに知恵を貸してもらうことが決まったな」

「むしろスイカが一番妥当な線だな。スイカは使徒だけど普通の女の子だし」

 立ち直ったジュンタはアドバイスを頂戴する相手がスイカになったことに納得を見せる。サネアツが何かその前に言った気がするけど、聞こえなかった。たとえ周りには変人しかいなくても、自分だけはまともだと信じている。信じたいなぁ。

 なんだか気にすると無性に落ち込みたくなる考えを頭の隅に追いやって、ジュンタは空元気に宣言する。

「それじゃあ、目指すはアーファリム大神殿だ!」

 やっぱり、プレゼントをするのだから喜んでもらいたい――リオンへの誕生日プレゼントに妥協をしたくないジュンタは、一路大通りからまっすぐ続く白亜の大神殿へと足を向けた。

 


 

       ◇◆◇


 

 

 リオンが神居を訪れたのは、ちょうど午前中の仕事が一段落ついたときだった。

「それではフェリシィール聖猊下。スイカ聖猊下。こちらが招待状になりますので、どうぞお受け取り下さい」

「ええ、ありがとうございます」

「うん、確かに受け取った」

 東神居にて招待状を手渡しされたフェリシィールは、同じく隣で手渡された笑顔のスイカとは違って、非常に申し訳なさそうな顔をしていた。
 
 本来使徒に対する用向きは騎士堂に預けられたあと然るべき手続きを経て、ようやく礼拝殿にて拝謁が叶うのだが、そこはシストラバス家次期当主であるリオンである。フェリシィールはリオンがやってきた理由にも見当がついていたので、すぐに神居まで通させてスイカを呼んだのだった。

 しかし大した面会の時間を取ることは叶わなかった。

 スイカはともかくとして、自分はやらなければいけない仕事が多すぎた。残りの少ない時間で自分ができる範疇での『封印の地』への侵攻作戦もろもろの仕事をやらないといけないとなると、まさに分刻みのスケジュールになってしまう。もちろん今日も徹夜だ。

 そんなこちらの状況を知っているリオンは、訪れて早々あいさつとパーティーへの招待という用向きだけを簡潔に伝え、招待状を渡してきた。
 以前絶対に誕生日パーティーには出席すると口にした手前、出席できる可能性が限りなくゼロに近い今、申し訳ない気持ちになってしまうのは当然のことだった。

「申し訳ありません、リオンさん。せっかく招待状をいただいたというのに、行けそうにないなんて」

「お気になさらず、フェリシィール聖猊下。このような時期ですもの。もしもお時間があり、気が向いたらいらしてください」

「ありがとうございます。もしも時間ができたら、必ず行かせていただきますね」

「はい、お待ちしております。それでは私はこれで。この度は貴重なお時間を割いてくださり、誠にありがとうございました」

「大したもてなしもできなくて申し訳ありませんでした。気を付けてお帰り下さい」

「必ずヒズミと一緒に行くから。それじゃあ、また」

 礼儀正しくリオンは一礼して、案内した近衛騎士と共に神居を後にした。

 リオンの背中を見送ったフェリシィールは、その場で手を振っていたスイカに向き直る。

「スイカさんはリオンさんの誕生日に行かれるおつもりですか?」

「はい。ヒズミと一緒に行くつもりですけど、何か問題でもありましたか?」

「いえいえ、問題などとんでもない。是非わたくしの分までリオンさんのお誕生日をお祝いしてきてくださいな」

「わかりました。それでは、わたしもこれで失礼します」

 去っていくスイカを見て、フェリシィールは少しだけほっとする。

 大事なことのために仕方がないとはいえ、やはり出席できない申し訳なさは大きい。使徒であるスイカが代わりといってはなんだが出席してくれるなら、少しだけ救われた気持ちである。もっとも、彼女は使徒としてではなく、あくまでも一人の友人として出席するつもりだろうが。

(しかし、ということはリオンさんの誕生日の日にはスイカさんもヒズミさんも神居にいない。でしたら――

 何も知らぬ西の神居の主従二人がシストラバス邸に赴くのなら、それはまさにその夜が決戦の夜となろう。同列の使徒がいないのなら、あとは自分とズィールが最高権力者として振る舞える。何の横やりが入る心配もない。

(問題は、あと二日でもしものときの備えが終わるかですが……致し方有りませんね、こればかりは。もしものとき、全てをあの優しい女の子に任せてしまうことになってしまうことだけが残念ですが……)

 消えていく背筋がピンと伸びた後ろ姿を見送ってから、フェリシィールは仕事に戻ろうとする。

 あと二日……どうなるかわからないそのときまで、やっておかなければならないことはたくさんあった。


 

 

 ジュンタ捜索に費やした時間を補う形で、ゴッゾと共に自身の誕生日パーティーへの列席者への対応に追われていたリオンは、午前中の仕事の最後として招待状を手に一番重要な相手の許を訪ねたわけであるが、その帰り道に信じがたい光景に出会った。

 フェリシィールとスイカ以外にもアーファリム大神殿には招待状を渡すべき相手がたくさんいた。全員に招待状を渡すのは無理なので、代表として渡してもらうよう幾人かの人に頼んでその後、待っていたユースと共に帰宅の路についた直後にその光景に出会った。

「あ、ジュンタ」

 恋する乙女の視力は、的確にアーファリム大神殿を後にする想いを寄せる相手の姿を捉えた。

 ようやく一段落ついた誕生日パーティーの主賓としての義務に弛緩していた身体に、緊張と嬉しさから力が入る。隣を見れば、ユースは何もかもを理解した顔でコクリと頷いてくれる。

 そんな従者の理解力の高さにリオンは少しだけ恥ずかしく感じながらも、ジュンタに声をかけようと声を張り上げようとして、

「ジュンタ……と、スイカ様……?」

 一人だと思っていたジュンタの隣に、変装したスイカがいるのを見て、かけるはずの声は疑問の声と変わった。

「ど、どうしてジュンタがスイカ様と!?」 

 疑問の声は、すぐに慌てた声に変わる。慌てた声というより、それはもはや悲鳴に近かった。

「そうですね。予想はつきますが」

「予想がつきますの? ユース。では、教えなさい。どうしてジュンタとスイカ様が一緒に、あ、あんなに近い距離で街に繰り出そうとしてますのよ!?」

「それは――

「あいつが、サクラの奴が姉さんを誑かしたからに決まってるだろ!」

 ユースの返答の声に被さって、怒るような、嘆くような、そんな声が響いた。

「あいつがいきなりやってきたかと思えば、買い物に付き合ってくれだなんて……姉さんも姉さんで即座に頷くし、僕は、僕は一体どうしたらいいんだ……!」

 辺りに人はいないと思っていたのだが、果たして彼はそこにいた。入り口付近の円柱にはりつき、嫉妬に濁った目つきで乾いた笑みを浮かべている黒髪の少年。一応は聖神教のナンバーツーにあたる巫女の一人――使徒スイカの弟でもある、巫女ヒズミである。

「あなた、ヒズミ」

「なんだよ、シストラバス。笑いたいなら笑えばいいさ。でもな、僕は止めないからな。このまま姉さんとサクラを二人っきりなんかにしたら、絶対にあの野獣は本性をむき出しにするに決まってる!」

 今にもハンカチを取り出して口にくわえそうなヒズミは、街の方へと消えていくジュンタを親の敵でも見るかのように睨んでいる。

 思わずリオンは引いてしまって、しかし同時に感動を覚えた。ヒズミのスイカに対する、ある意味では純粋な愛情に。

「笑ったりなんてするものですか。ヒズミ、あなたの気持ちは私にもよく分かりますわ。あのままジュンタとスイカ様を二人っきりになんて絶対にさせてはいけません。ユース。午後のお仕事は全てあなたに任せますがよろしくて?」

「お任せください、リオン様。どうぞお気が済むまで行動してくださいませ」

 恭しくお辞儀をするユースは、やはり最高の従者だ。

 誕生日の準備も大切だが、ジュンタのことも大切なのである。特に色々と事件が起きて仲が全然縮まっていない今、他の女性とデートに行く彼を見逃すことなどできようはずもない。

「ほら、ぼうっとしていないで行きますわよ、ヒズミ! 協力して二人を監視するのですわ!」

「シストラバス……ああ、分かってるよ! 今日だけは力を合わせてやるさ!」

 それぞれの大事な人についた悪い虫を見て、二人は頷き合ってアーファリム大神殿を出て行く。

「実際はリオン様の誕生日プレゼントのためでしょうが……リオン様。がんばってくださいね」

 ユースは二人を微笑ましく見送って、主の代わりに果たすべき仕事を成すために、家路を急いだ。その前に――

「サネアツさん。あの四名のこと、よろしく頼みます」

「任されよう。ジュンタの目的がリオンに伝わらぬように、リオンがいることをジュンタに知られないようにしてみせようではないか」

 さらに後ろから音もなくストーキングをしようとする白い子猫に、誰にとっても大事な四人のことをお願いしておくことにした。

 


 

       ◇◆◇


 

 

 神居に入ってすぐクーと別れたジュンタは、ちょうど西神居に戻ろうとするスイカと遭遇した。そして訪ねた理由を話したところ、帰ってきたのは色よい返事で。

「ジュンタ君は一体リオンにどんなものがプレゼントしたいんだ?」

 二人っきりで一緒に街へ繰り出したところ、まず最初に彼女が口にしたのはそんなこと。
 半袖シャツにズボンという使徒とは思えないラフな格好で、変装のための帽子とサングラスを身につけたスイカは小物屋の店頭に並べられた小物を見つつ、求められたアドバイザーとしての役目を果たそうとしているようだった。

「そうだなぁ」

 首尾良く頼りになる女の子をプレゼント選びに同行してもらうことができたジュンタは、足を止めて悩み出す。しかしなかなか質問に対する返答を出すことはできなかった。

 スイカは小物から視線をジュンタの変え、真剣に悩む姿にクスリと笑う。

「なんでもいいんだ。リオンは何が好きなのかとか、何が欲しいのかとか、それも大事だけど、やっぱりジュンタ君があげたい物が何なんのかも重要だと思うから。でも、今思いつかないなら、お店を回ってこれをあげたい、と思えるものを探すものいいかも知れない」

「なるほど。さすがはスイカ、いいことを言う」

「うん、頼って間違いなかった。実はわたし、それなりに女の子女の子しているんだ。リオンが欲しがっているものはなんとなく分かるつもりだから、大船に乗ったつもりでいて欲しい。ジュンタ君が納得するまで、今日はとことん付き合うから」

「ありがとな。正直、本当に困ってたから助かる。じゃあ、まずは近くの店に寄ってみるか」

「この店もかわいいものを取り扱ってて良い感じだ。最初はここにしよう」

 眺めていた店を推薦するスイカの言葉に引かれ、ジュンタは小物屋に足を踏み入れる。
 
 宝石店とは違い、そこには高価な品々が並んでいるわけではなかった。良くて水晶の欠片を削って作ったブローチや、貝殻の彫り物、ビーズの腕輪などなど、街娘が好むような小物が多かった。

 おおよそ大貴族であるリオンに贈るものではないが、なるほど、それでもこれを身につけた彼女の姿を想像すると、思わず贈りたくなってしまう。

「ジュンタ君はたぶん、リオンが大貴族だからって視野を狭くさせてしまったんだと思う。彼女は確かに煌びやかな宝石などがよく似合う貴婦人だけど、こういうのも決して悪くないと思うんだ」

「う、よく言われる。俺はどこかでリオンを特別視してるんだって。でも、そうだな。立場でいえばリオン以上のスイカだってこういうのがいいって思うんだから、別にあいつに贈っても問題はないよな」

「うん、問題ない。まぁ、わたしは自分でも全然偉そうじゃないのがわかってるから、似ていないリオンと一緒にするのは間違ってるかも知れないけど」

「いや、そんなことはないだろ。スイカもリオンも、同じ女の子だってことに変わりはないんだから」

 さほど広くない店内にところ狭しと並べられた小物を、ジュンタはスイカと一緒に、街娘に紛れ込んで見る。時折手にとっては、これはリオンに似合うだろうかと考えつつ。

 隣のスイカはシルバーフレームに収まった、天馬を形取ったペンダント――恐らくお守りに近いだろうアクセサリを指先で弄びつつ、少しだけ頬を染めていた。

「女の子か……わたしは自分ではそう思ってるけど、そうやって言ってくれたのは、ジュンタ君がすごく久しぶりかも知れない」

「そうなのか?」

 何気なく吐いた言葉が気になったらしいスイカは、アクセサリを棚に置いて、つけていたサングラスを少しだけ下げて瞳が見えるようにした。

「わたしが使徒として聖地に招集されたのは今から約十年前。人に瞳が金色だからって理由だけで敬われたりするのは苦手だから、あまり人前に出たりはしなかったけど、それでも十年間もわたしはみんなに傅かれてきたんだ。女扱いというより、あれは神様扱いに近かった」

「なるほど。使徒ならではの悩みって奴だな」

「そう、悩みだ。結構気にしていたんだ」

 ジュンタはスイカが過去形で話していることと、その口元の笑みから、今は違うのだろうということを察する。

「今はもう大丈夫なのか? 受け入れたとか?」

「ううん。受け入れたというよりは、どうでもよくなった、っていう感じかな。
 確かに今でもみんなわたしを特別視するけど、それでもわたしをただの女の子扱いしてくれる人が見つかったから」

「それは……ヒズミじゃないよな?」

「ヒズミはずっとずっと、生まれたときからわたしの弟だ。ふふっ、ジュンタ君少し頬が赤くなってる。どうやら通じなかったわけじゃないようで安心だ」

 スイカのいう『自分を女の子扱いしてくれる人』が誰であるか気が付いたジュンタは、手に持っていたピアスを置いて、不自然に声をあげた。

「さて、そろそろ次の店に行くか。まだ時間もあるし、できるだけ多くの物を見て回りたいな」

「それじゃあ次は二軒となりの店がいいと思う。ぬいぐるみとか、そういう商品を扱ってるお店だ」

 自分でもあまりに不自然すぎて逆に恥ずかしかったが、黒髪の少女は何もいうことなく、店を後にしようとするその隣に並んできた。そしてふいに取られる腕。

「ぁああああああああ――ッ!」

「お馬鹿! 騒いだら見つかってしまうではありませんの!」

 背後からいきなり上がった大声にも気付かないほどの衝撃をもたらした、組まれた二の腕にあたる柔らかな感触。なぜだろう。こうしたスキンシップはトーユーズやエリカで慣れているはずなのに、どうしてだかやけに衝撃を受ける。

 スイカは次の店へ案内してくれようと、腕を引っ張っているだけとわかっているのに――こそばゆい感覚は、やけにリオンと触れ合っているときに似ていた。

(ああ、そっか。蜜柑の匂いだ)

 そのときふわりと香ったいい香りに、ジュンタは気付く。

 それはどこか懐かしい香り。近くに寄ったスイカの黒髪から香るのは、柑橘系の甘い香りだった。髪を洗う際に使った石けんに少し混ぜられていたのだろう。それはとてもいい匂いで、だからきっと照れくさくなってしまったのだ。

 まだ、そう。女の子というものに慣れていなかった、触れ合ったことがなかった幼少の頃。初めて遊んだ女の子も甘い蜜柑の香りがしたから、どこかその匂いが女の子を意識させる匂いになっていたのかも知れない。

(やっぱりスイカはどこか懐かしく感じるんだ。まるで、そう、昔会ったことがあるみたいに)

 蜜柑の匂いを香らせる黒髪の少女に、ジュンタは最初出会ったときも抱いた疑問を再び抱く。

 異世界へと旅立った自分ではありえないことだけど、それでも今回はすぐに否定はできなかった。接すれば接するほどに故郷を思い出させるスイカという少女――いや、スイカとヒズミという姉弟は、もしかして……

「どうかした? ジュンタ君」

 思考の海に沈もうとしたジュンタを、スイカが声をかけることによって浮上させる。

「……なんでもない。さて、気張って誕生日プレゼントを探しますか!」

「うん、その意気だ。最後の最後まで妥協しないで探してみよう。リオンにとって、きっとジュンタ君からのプレゼントは特別だろうから」

 スイカの笑顔はどこか、昔日の日に出会った蜜柑の匂いのお姫様に似ていた。
 
 気のせいだというにはあまりにあれだけど、ジュンタは気にしないでスイカに付いていく―― スイカとヒズミが本当に立っている立場に対する対応は、真実を知ったそのときでいいと、そう思ったから。

 


 

 買い物を続けるジュンタとスイカの距離の近さにやきもきするのは、愛のための尾行という名のストーカー行為に及んでいたリオンとヒズミだった。

「くっ、なんということでしょう。小物屋に入ったら顔をくっつけて品物を見て、昼食を食べるために料理屋に入ったなら恋人のようにそれぞれが頼んだものを分け合って、こ、これではどこからどう見ても立派なカップルではありませんの!」

「言うな! 言ってくれるな、シストラバス! 誰の目から見てもそうだけど、だから僕たちだけは否定をし続けなければいけないんだ! あれはそう、きっと互いの手の内を見るための腹のさぐり合いに違いない。互いの皿を突っつきつつ、相手の趣味思考を綿密に分析ってそれじゃあ恋人を気にするバカップルじゃないかぁ――ッ!!」

 当初こそ黙ってストーキングしていた二人だったが、如何せん組み合わせが悪かった。

 すでに雄叫び数回。歯ぎしり数十回。ジュンタたちが昼食をとっている店の店先に置かれた樽の影に潜む二人の姿は注目を浴びていたが、発せられる危険な空気から人を集めることはなかったのが不幸中の幸いか。

 リオンも先日の失敗を教訓とし、ヒズミが持っていたフード付きの上着を奪って着込んでいたため、竜滅姫の証たる紅髪紅眼は隠されている。ヒズミは素顔を晒しているが、誰かに気付かれることはなかった。良かったのだが何気に彼はショックだったようだが。

 とにかく、二人は店の中で仲睦まじく昼食をとる二人に負けないほど顔と近づけさせ、肩を寄せ合っていることに気付かぬまま、食い入るように店内を観察していた。

「まったくもってけしからん。僅か一時間で、どうして手回しでにゃんにゃんネットワークがパンクしそうにならなければならないのだ。下に恐ろしきはツンデレか。ツンデレ×ツンデレの相乗効果を甘く見ていたということか……!」

 ストーカーをストーキングしているサネアツは、ジュンタとスイカに二人の存在を気取られぬよう奔走するのに大忙しだった。

 今はなんとか店の中で会話をしているからいいものの、先程の花屋ではリオンとヒズミが花の中に紛れ込もうとしたので、手回しが大変大変。あの猫の大行列は、しばらく敬虔な信者たちの会話の種として語られることだろう。

 とはいえ、止められない止まらないのが舞台裏のお仕事。華やかな主役たちのなんともいえない若さ故の暴走を見ていると、クフフフフという含み笑いが思わずもれてしまう。

「ああ! スイカ様がジュンタにああああ、あ〜んをしていますわ!」

「待て、シストラバス!」

「止めないでください! もう我慢の限界ですわ!」

「いや、そうじゃない。わざわざ入るよりも、僕がここから射った方が早くて的確だってことを言いたかっただけだ。安心しろよ。今なら一キロ離れたゴキブリでも射抜ける自信があるからさ」

「……また手回しが必要か。果たして今日一日でどれだけの猫が疲労困憊になることやら」

 嫉妬の炎をまき散らして、物騒な会話を交わすツンデレ二人を見下ろしてから、サネアツは何も知らない、確かに極々普通のカップルにしか見えない黒髪の男女を見やる。

「スイカ・アントネッリか……ふむ。やけにジュンタのことを気に入ってるようだが、はてさて、四角関係の誕生か? しかし恨んでくれるなよ。俺はジュンタの意志を一番に尊重するのでな」

 くっつくようでくっつかないとある男女を見守るのは忙しい――サネアツは猫にしか聞こえぬ言語で呼び集めたにゃんにゃんネットワークの組合猫たちに指示を出すべく、再び駆け回り始めた。

 スイカとヒズミの姉弟。二人に何の違和感も感じぬままで。

 


 

       ◇◆◇

 


 

 物心付いたときには、クレオメルンは自分が特別であることを意識していた。

 生まれたときから当たり前に暮らしていた神居が、その実普通の人では一生かけても入れない神聖不可侵の場所であることも気付いていたし、自分が血を受け継いだ偉大なる父がどれほど崇められているかも十分理解していた。

 使徒の血を継ぐ『聖君』――竜滅姫以降では始めての、使徒の直接の御子。

 これが特別でないはずがない。自分はある意味では使徒と同じく、生まれながらに特別な人間なのだと、そうクレオメルンは確信を持っていた。

 実際クレオメルンは恵まれていた。

 何不自由ない環境。望めば最高の物が手に入り、何かを志せば最高のバックアップが受けられる。才能にも恵まれ、容姿だって両親に似て整っている自信がある。街を歩けば誰もが敬い、努力すればするほどみんなに愛された。

 だから尊ばれる者の義務として、尊敬すべき両親とその従者を手本とし、自分を磨き続けた。

『聖君』として、聖神教のため人のためとなるべく聖殿騎士を目指し、最強の誉れも高き『鬼神』コム・オーケンリッターに師事した。学業にも打ち込んで、本来なら十三歳から五年かけて卒業を果たす聖殿騎士養成学校に十歳で入り、十三歳で卒業を果たした。もちろん首席で。

 五年間経験を積んだのち、オーケンリッターの退任と共に使徒ズィール・シレ聖猊下近衛騎士隊隊長に就任。まさに特別な人間の、当たり前の結果といえよう。

『聖君』クレオメルン・シレは、自他共に認める紛れもない特別だった。
 
 だからなのか――クレオメルン・シレは、特別ではない普通の子供なら得たであろう父親からの愛を、ついぞ受け取ったことがない。父親から褒められたことは、一度もない。

 そう、クレオメルンは特別だったけれど、その願いは別に特別なものではなかったのだ。

 尊敬する大好きな父親に認めてもらいたい。褒めて欲しい。

 ただ、それだけが願いだった。

 


 

 クーがクレオメルンの許を訪れたとき、彼女は一心不乱に槍を繰り出していた。

 北神居の鍛錬場にて、汗を流すその姿には鬼気迫るものを感じる。白銀の聖槍の切っ先は仮想的として描いている相手の四肢を抉り、心臓を貫く。それは正義の騎士道を志すクレオメルンには、似つかわしくない必死さだった。

 彼女には悩みがあるとクーが感じていたのは決して嘘ではない。だが、これほどまでに思い詰めているとは思っていなかった。何かを忘れるように修行に没頭するクレオメルンは、明らかに疲労が蓄積しているようだ。

 踏み入れることを躊躇してしまう空気が、そのとき薄れる。
 見ればクレオメルンが槍を片手にしゃがみこみ、大きく息を吐いていた。

「クレオメルン様! 大丈夫ですか!?」

「クー……? ああ、大丈夫だ」

 慌てて駆け寄ったクーにクレオメルンはここで初めて気が付いたらしい。隈がくっきりと浮かんだ瞳はこちらを捉え、明らかに狼狽えている。

「すまない。何か用だっただろうか? 大事な用じゃないなら、今は鍛錬に集中したいのだが」

 立ち上がり恥じ入るように視線を逸らして、ポツリと弱々しい声でクレオメルンはもらす。ハキハキとしゃべる彼女らしくないしゃべり方だった。

「クレオメルン様。少しお疲れではないですか? そんな状態でこれ以上の鍛錬は止めた方がいいと思うのですけど……」

「ははっ、まさかクーにそんなことを言われるとは思っていなかったな」

 どこか自嘲気味に笑ったクレオメルンは、決して笑っていない瞳を向けてくる。

「私はずっと見てきたから知っている。いつだってクーは、皆が止めた方がいいと思うほどに鍛錬を続けていた。止めても黙々と必死に」

「ですからわかるんです。クレオメルン様。このままでは身体を壊してしまいますよ!」

「クー……」

 強気で言い放つと、クレオメルンは口を噤む。何て反論すればいいかを考えているものと、クーは即座に理解した。理解できないはずがなかった。

 クレオメルンの言うとおり、昔のクーは今の彼女のように無理をしていた。魔法の修行、体術の修行、あらゆることに対して必死になっていた。目標があったのだ。どうしてもなさねばならぬ、自分の全てをかけてまで辿り着きたい目標が。

 その誉れ高き役割に至るには、汚れた自分は人の何十倍もの努力が必要と思ったから、誰に言われようとこっそりと無茶をし続けてきた。

 確かにその果てに強くなることはできたけど、何度だって身体を壊した。その度に色々な人に迷惑をかけた。治療を施してくれたフェリシィールや、他でもないクレオメルンにだって、そう。そのことを彼女が忘れているはずがないのに……

「もしよろしければ、お話を聞かせてください。クレオメルン様が少しでもそれで楽になるのでしたら」

「別に、私に悩みなんて……」

「クレオメルン様。私はお話を聞かせてくださいと言っただけですよ。悩みを聞きたいとは一言も言っていません」

「あ……! くっ、引っかけたな」

 クレオメルンの恨めしげな視線を、クーは曖昧に笑って受け流す。

 しばし睨みつけてきていた翡翠の髪の少女は、やがて諦めたように溜息をつき、槍の柄尻の部分を床につけて立てた。

「昔はそんなことはしなかったのに、これも全てジュンタ・サクラの悪影響か」

「はい。前よりも少しだけ、ほんの少しだけ、私は前に進むことができたと思います」

「……微妙なところだな。成長して欲しくないところまで成長しているようだし。でも……そうか。クーはわざわざ私を心配して訪ねてきてくれたんだな」

 ふっと笑みを零したクレオメルンは、槍を持ち上げて、ビシリとまっすぐ前に穂先を突きつける。それは果たして一体誰に対する敵意の表れか。目の前にはいない敵に刃を向けるクレオメルンは、とても辛そうだった。

 十秒近く、クレオメルンはそのまま微動だにせず黙り込んでいた。
 逡巡はそれだけの間になくなったのか、言いにくそうに何度か口の開け閉めを繰り返したあと、彼女は徐に独り言を始める。

「これは独り言だが……私は今、自分の志すものがわからなくなっている」

「志すもの?」

 独り言と前置きをしたのだから、それは正しく独り言なのだろう。だからクーの返答もまた、独り言であった。

「クレオメルン様は前におっしゃられました。自分の志すものはズィール様を助け、共に正義を執り行うことだと。それが間違っていると、そう思われてしまったんですか?」

「そう、なのかも知れない。私が騎士になろうと思ったのも、この道を志したのも、全てはズィール様……父様のためだった。
 父様に認めて欲しかった。早く一人前になって褒めてもらいたかった。ただ、それだけで始めて、努力して……でも、今はわからないんだ。迷っているんだ。気のせいだと信じたいのに、その確信は頭の隅を占拠して動かない」

 声を荒げ、掠れるほどに震わせたクレオメルンは、ここにはいない誰かを槍の先に見ていた。

「嘘だと言って欲しかった。間違っていると証明したかった。けれど、今なお私はあの日の仮面の敵を倒せない。……被るんだ、どうしようもなく。あの日の戦いと、いつも鍛えてくれる尊敬する人の槍が」

 クレオメルンは自分を友人と言ってくれた。だからクーは、彼女について多くを知っていた。

 神居内にいる数少ない同年代だからというだけじゃない。それよりも互いを強く意識した理由は、互いの強くなりたい理由が、努力する理由が一緒だと、そう理解できたからである。

 クーは過去を否定するため、必死に努力して巫女になろうとした。それはつまり、誰かに自分が存在していてもいいと認めて欲しかったということ。
 クレオメルンは父親の期待に応えるため、必死に努力して騎士になろうとした。それはつまり、父である使徒ズィールに認めて欲しかったということ。

 同じだった。よく似ていた。存在自体はまったく違ったけれど、誰かに認めてもらいたいが故に強くなろうとしたのは一緒だったのだ。

 だからそれが揺らぐのだとしたら、それを貫くことに迷ってしまうというのなら、それは認めて欲しい誰かを疑ってしまったということ。父親であるズィール・シレを、クレオメルンは何かしらの理由から疑っているのだ。

 果たして本当にそれは正義なのか、と。

「私は父様から何も知らされていない。師匠から何も聞かされていない。だから、私にはわからない。父様が言った言葉の意味も、本当の敵は誰なのかも、全部。全部、分からないんだ……」

 槍を胸にかき抱いて、視線を床に落とすクレオメルン。彼女に一体なにがあったのか、その全てを察してやるのは無理だった。

「私は一昨日、ご主人様を助けるためにリオンさんを殺そうとしました」

 だから口をついたのは、そんなこと。
 台詞の意味するところを理解して、睡眠不足で充血した瞳をクレオメルンは見開く。

「クー。ジュンタを助けるためにリオン様を殺そうとしたというのは、一体どういうことなんだ?」

「そのままの意味です。攫われてしまったご主人様を助けるには、リオンさんを殺すしかなかったんです。結果を見てみれば間違っていたのかも知れませんが、そのときの私はそう思って、そしてリオンさんに戦いを挑みました」

 見上げてくるクレオメルンの困惑の瞳を見返して、クーは静かに語った。

「それは裏切りです。リオンさんを裏切る行為に違いありませんでした。ですが私はきっと何度だって、あの時あの瞬間には同じ選択肢を選ぶんだと思います。ご主人様のために。私にとってそれが一番大事な、譲れないものでしたから」

 お咎めもなく、そもそもリオンが誰にも話さなかったあの夜の戦いを、クーはクレオメルンに聞かせる。彼女は呆然としていて、その顔色からは何かを読みとることは叶わない。

「クレオメルン様に何があったのかはわかりません。何が決意を鈍らせてしまったのかもわかりません。ですけど、たぶんわかるはずです。その時その瞬間が来たら、クレオメルン様の一番したいことが何か、きっと」

「クー……だが、それが間違っていたことだったらどうする? 許されないことだったらどうする? 一番大切な何かを追いかけて、他の大切なものを傷つけたらどうする?」

 クレオメルンの苦悩は、またクーも考えたこと。けれどもあの時あの瞬間、ジュンタが天秤の皿に乗ったとき、一度たりとももう片方の皿へと傾くことはなかった。

「……正直、わかりません。私は傷つける道を選んで、だけど傷つけることなく終わりましたから。だけど、一つだけ言えるのは――

 釣り合うことすらできない。釣り合っているように見えても、絶対にジュンタのお皿の方が僅かに傾いているに決まっている。そうでなければおかしいと、誰よりもまず自分自身が知っている。クーは一切後悔のない心と共に、大事な友人へと笑いかけた。

――私は、譲れないものを譲るような真似だけはどうしてもできなかったんです。それは一番大事な人を裏切ることになりますから」

 大事な大事な使徒様を、主を、巫女であり一人の存在であるクーヴェルシェン・リアーシラミリィは裏切ることはできなかった。見捨ててしまうという選択肢を作ることすらさせなかった。

 ああ。と、あの時胸に抱いたのは、自分はこんなにもジュンタ・サクラのことが好きなんだという安堵と嬉しさ。狂おしいほどの愛があることに、かけがえのない何かを見たのだ。

 結果的に自分が貫いたものはリオン・シストラバスという高潔なる騎士に食い止められてしまったけれど、その見つけたものだけは消えない。今なおこの胸の中に在り続けている。

「クレオメルン様。どうか、自分の心にだけは嘘をつかないでください。私には、もう答えが出ているのに、クレオメルン様がそれを必死に否定しているように見えます」

「…………」

「ごめんなさい。失礼なことを言いました。ですが、最後にもう一つだけ言わせてください。
 私は何があっても、クレオメルン様の選んだものを否定しません。ご主人様がそうであるように、絶対に」

「しかし、それが自分の譲れないものを傷つけることになったら、クーは容赦なく私を倒すのだろう?」

「はい、全力で。否定はしません。ただ、そうなったら私は自分の譲れないもののために全力で戦うだけです。リオンさんがそうしてくれたように、大喧嘩します」

 許されない罪を犯した少女がいた。悪である少女がいた。だけどそんな少女を否定せず、受け入れてくれた人がいた。
 その人に自分の存在を受け入れられた瞬間、クーは決めたのだ。何があっても、この人と共に在り続けよう、と。

「……そうか。私が人として間違った道を選んでも、クーが止めてくれるのか。自分のしたいことをしろと、そう言ってくれるのか」

「はい」

 どこか吹っ切れた笑みを浮かべたクレオメルンは、そっと白銀の槍をかかげた。

「私は父様が間違っているとは思えない。間違っている道を進もうとしているとは思えない。たとえどんなに他の人の目には間違っているように映っても、私は最後まで信じていたい。それが正しいのだと。その果てに正義はあるのだと。だから――

 そのとき突き出したクレオメルンの槍は、これまで見たどんな刺突よりも早かった。煌めく白銀の輝きは、どんなときより美しかった。

 そうして自分の信じるものを貫くために、彼女は前にも口にした願いを、今度はもっと強く願った。親友とは対等なものなのだ、と。

――呼んでくれ、私のことをクレオ、と。いつか自分の譲れないものをかけて戦うとき、その相手は大事な親友であって欲しいから」






「……本当に成長しましたね、クーちゃん」

『ではクレオさんと』、『いや、クレオと呼び捨てで』、『いえいえそんな』――二人の会話を壁越しに聞きつつ、フェリシィールは足を止めて感じ入った。

 自分の手から離れていった少女は、一人の少年の許でいつのまにか見違えるほどに大きくなっていたらしい。かつての日を思い、今を思うフェリシィールは、涙が出そうになるくらい胸をいっぱいにしていた。

「まさか、クーちゃんから学ぶ日が来るなんて。まだまだわたくしも若い、ということですか」

 フェリシィールは壁から離れて、回廊を歩き、自分の塔ではない白亜の塔の階段を上っていく。

 その先に、翡翠の使徒は待っていた。

「何用だ? フェリシィール」

 鋭い眼光。威圧するようなオーラ。
 挑むような立ち姿を柔らかく受け流して、フェリシィールはにっこりと微笑んだ。

「ズィールさん。あなたはきっと、わたくしのことを疑っているのでしょうね」

「…………」

「黙っていてもわかります。だって、わたくしがそうなのですから。きっとあなたも同じことを危惧して、似たような結論に出たのでしょう?」

 真っ向から見つめると、ズィールは迷うようなそぶりを見せた。それが演技かどうか、今のフェリシィールにはわからない。

 疑念が芽生えたあの日から、たとえ信じていても、信じ切れない場所が出来てしまった。それはこれからの戦いを勝ち抜くためにも、あってはならない疑い。信じるべき味方同士で疑い合っていては、勝てる戦も勝てはしない。

「ですからわたくしは決めました。この辺りで白黒はっきりつけましょう」

「負けた方が勝った方に無条件で従う、か? なるほど、つまりは決闘ということだな」

「いいえ」

 闘気をにじませるズィールに首を振って、フェリシィールは大事な娘に教えてもらった方法を提示した。

 荒ぶる神の如き闘気を放ちつつ。

「喧嘩をしましょう。ズィールさん。世界最高規模の――命がけの大喧嘩を」









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