第十五話  選ばれた人


 

 耳に聞こえる楽団の調べは、非常に踊りやすい曲だった。

 サネアツ率いるにゃんにゃん合唱団のバックミュージックも、あれはあれで味もあったし楽しい気分にさせてくれて踊りやすかったが、やはりプロは違うということか。あまりリズム感のないジュンタでも、上手くリズムに乗ることができる。

「ジュンタ。思っていたよりも、ダンスが上手ですのね」

「まぁ、死ぬ気で特訓したからな。今も必死だけど」

「あら、そうでしたの? ご苦労様と労って差し上げますわ」

 左手はパートナーの手と合わさり、右手はパートナーの背中へと回される。
 ゆったりとしたリズムと共に踊るワルツは、非常に密着率が高かった。踊りながらの会話となれば、おのずと互いの息づかいを感じられるようになる。

 完璧なステップでリードしてくれるリオンの真紅の髪はいつも通り下ろされているが、常のリボンは解かれ、代わりに金の髪飾りがあしらわれていた。それだけで、いつもよりも大人っぽく見えてしょうがない。化粧も少し施されているようだ。

 胸元が少し開いた橙色のドレスは、こうも至近距離だと思わず胸元へと視線が吸い込まれてしまう。見栄のためにパットを入れているのはこの際気付かない振りをするとして、何やらいい匂いがしてくらくらする。

 そんなことを思わず考えてしまったジュンタの足先が、軽くリオンのはいたハイヒールにぶつかった。

(いけない。いけない。今日の練習だけじゃ限界があったんだ。集中力を乱せば、そのままリオンの足を踏みつけかねない)

 はっとなってクーとの練習を思い出し、リオンのリードに助けられつつジュンタはステップを踏む。やはり本番となると難しい。かなり空間が空いているとはいえ、周りにも踊っている人がいるし、なおかつ主賓の相手をしているわけだから視線を集めてしょうがない。

 これほどまでに緊張するとは、社交界恐るべし――あくせく足を動かしながら、ジュンタは懸命にリオンのパートナーたらんと努める。

「そんなに気負う必要などありませんわよ」

 そんな緊張を解したのは、他でもないパートナーを努めて欲しいと無理難題を突きつけてきたリオンであった。

 見れば彼女はどこか申し訳なさそうな苦笑を浮かべていて、

「ダンスなんて、踊っている本人たちが楽しくて、なおかつ見ている人たちが楽しければよろしいんですもの。そんな気張らず、楽に踊ってくれて結構でしてよ?」

「いや、あんまり変なダンスを見せれば、周りから変な目で見られるだろ? 俺は別にいいけど、お前がそうなるのはやっぱりダメだろ」

「ふふっ、それこそ要らぬ心配というものですわ。私ほどの淑女ですのよ? どのようなダンスを踊ろうとも、それが至高のものとして皆さんの目には映るはずですわ」

「それってつまり、パートナーは誰でも関係ないってことか?」

「違いますわ。あなたがパートナーですから、どんな踊りであろうと構わないということです」

 リオンの言い回しの意味はよくわからないけど、どうやらそこまで気張る必要はないらしい。ジュンタは肩から力を抜いた。すると今まで聞こえてきていた楽団の調べが、さらに美しいものとして耳に響いた。

 ステップを踏む足に迷いがなくなる。リオンとの密着率が高くなって、今まで少し恥ずかしくてベストポジションから少しずれていたのだということに気付く。

 先程よりもリオンとのダンスを楽しいものと感じられるようになって、それはまた彼女も同じなのか、満足げな笑顔を浮かべた。

「その調子ですわ。さぁ、一度やり始めたんですもの。主賓として皆さんを楽しませてあげる必要がありますわ。もうしばらくは続けますわよ?」

「望むところだ。精々俺に靴を踏まれないよう気を付けてろ」

「それは私のリードにあなたが抗えたときの話でしてよ? それとも、私の美しさに見惚れてしまって、前後不覚になってしまうという宣言でした?」

「さぁな。ご想像にお任せする」

「ええ、私の予想を決定とさせていただきますわ」

 ゆったりとながらクルクルと踊る。翻るリオンの長いドレスの裾が翻って、彼女の姿を強く見守る皆の心に印象づけたことだろう。

 彼女が生まれてきて良かったと、そう思わず思ってしまったのは自分だけではないに違いない。 挑発げに、楽しそうに笑うリオンは自分の十七歳の誕生日を自分自身で楽しんでいるようで、その楽しみの一つに自分がなれていることがジュンタには嬉しかった。

 周りの男からの嫉妬の視線が、むしろ今は心地良い。安心しろ。お前らには絶対に相手させないから――と、ジュンタはもう少しだけリオンの背中に回した手に力をこめた。

 リオンは何かを言ったりせず、ただ、強く握った手に指を絡めてきた。


 

 

       ◇◆◇


 

 

 使徒同士の戦いの、その度外れた凄まじさは、例えるなら自然の暴威に似ていた。

 天から落ちる濁流が、地面をから突き出る岩の棘が、聖殿騎士団の演習場だった場所の地形を変えていく。

 舞い上がる土煙は月光を覆い尽くすといわんばかりに結界内に立ちこめて、それを直後には水流が地面へと返し、そのまま辺り一面を泥沼へと変える。地形変動。変わらぬはずのものが、揺るがぬはずのものが、神秘によってことごとく歪められていく。

 魔力をもって神秘を巻き起こす魔法は、並の魔法使いではあくまでも個人が味わう自然の現象までが手一杯といわれている。しかし、ルドールが目にする魔法の規模は、個人が味わうべき自然の恐ろしさではない。

 天高くから降り注ぐのは数多の水流。
 雨のように降り注ぐが、降ってくるのは雨粒ではない。当たれば人を圧死させることが可能なほどの水圧と質量を持つ水が、それこそ雨の如く落ちてきていた。
 
 それは個人が味わう雨という自然現象ではなく、雨という自然現象を個人に味わわせているというべき代物。皆が恵みの雨とたたえる水はただ一人の頭上に収束し、濁流となって圧死させんと降り注ぐ。

 それに対抗する大地の隆起もまた、個人の産物ではない。

 辺り一帯の地面がひび割れ、家数件を叩き上げるほどの岩盤が天高く隆起する。それは術者の周りから幾つも伸びて、水流から術者を守る盾となる。

 まるで長い年月をかけて削られるべき風化を、一瞬で行ったかのような削岩音が響き渡った。

 叩き付けられた水が瞬時に土を泥へと変質させ、盾ごと押し潰そうと猛威を振るう。が、大地は水という水を吸い込み、行使者に水滴一つ飛ばすことなく、水路を作ってひび割れた地面の下に閉じこめてしまった。

 今まさにルドールの目の前に起きたのは、万物に与えられるべき自然現象の猛威を、個人に収束させた攻防であった。一流の魔法使いであるが故にその凄まじさに目を剥いて、ルドールは自分が手を出せないことを歯がゆく思うしかなかった。

「大したものだな。使徒同士の戦いというものは」

 それはまた、演習場を見守る観客席に控えるルドールへ近づいてきたオーケンリッターも同じなのか、彼は何かに震えるように拳を握りしめていた。






 これが何度目かの攻防か。一撃一撃に膨大な魔力を注ぎ込んで魔法を放つフェリシィールは、傷一つない姿でズィールを見据えていた。

 隆起させた地面を元に戻した翡翠色の髪の魔法使いは、注がれる金色の視線に、同じ金色の視線でもって応える。並の魔法使いは愚か、高位の魔法使いでも枯渇しかねないほどの魔力を振るっていながら、疲弊の様子は両者ともに見られない。

 しかしフェリシィールは自分の攻撃がズィールに届かないことに、僅かな焦燥を感じていた。

(いつの間に、これほどの魔法行使を会得していたのでしょう)

 知らぬ間に子供のように思っていた後輩が強くなっていたことに喜びも感じるも、それを上回る焦燥がフェリシィールの大きな胸を焦がす。

 傍目からはまったくの均衡状態に見える現状だが、その実僅かながらに押しているのはフェリシィールの方だった。

 魔法が相殺されるのは見たとおりだが、先程からフェリシィールが攻撃を放ち、それをズィールが阻むという交差に終始している。つまり、ズィールは防御から攻撃に移る余裕がないのである。

 元より魔法使いというものは、生まれ持った魔力量と会得した制御などの技術が、その強さに直結するといっても過言ではない。共に使徒であり最高の魔法使い適正を有しているフェリシィールとズィールの戦力は、生きた年月の長さによって差ができていた。

 数十年ばかり早くに生まれたフェリシィールの方が魔法の放出量も、詠唱の洗練さも、魔力の収束率も制御率も上回っている。今でこそ豊富な魔力に明かせて撃ち合いを続けているが、いずれ互いに魔力が尽きてきて、一撃が重要になる瞬間が来る。そのとき有利になるのは、魔力を節約できているフェリシィールの方だろう。

 もはやフェリシィールの勝利は、たとえ魔力の制御のためにズィールが杖を持ち出していても、変わらぬことのように見えた。

 しかし使徒同士の戦いは、そのような魔法使いの常道では推し量れない。

(芳しくない、ですね。このままでは敗北するのはわたくし)

 無詠唱で二百本近い水の矢を放つフェリシィールは、地面から生えた岩盤がズィールを中心に高速回転し、堅固な防御壁となって矢が防がれてしまったことにさらに焦燥を募らせる。

 フェリシィール有利の状況などとは、現状決して言えなかった。

 元来使徒の強さを比べるのなら、その本質を比べる他ないという話。
 あくまでもヒトガタでの魔法戦など小手先の勝負でしかない。本来の戦いは、この後に控えている本性を剥き出しにした神獣同士の喰らい合いに他ならない。

 であるなら、ドラゴンとの戦いで切り札とされるズィールに、神獣同士の戦いでフェリシィールが勝てるはずがなかった。虎の子の特異能力も、自分のものは戦闘において直接的な切り札には成り得ない。逆にズィールの特異能力は、自分相手では多いに切り札に成り得る。

(わたくしがズィールさんに勝とうと思ったなら、小手先でもこのヒトガタでの攻防で勝つ他ありません。何としても特異能力を決められる前に決めます!)

 円を描くように天に向かって振られた指先が、巨大な魔法陣を宙に刻む。

渦巻け 我が生命の源

 その上で先程と同じ水の矢をズィール目がけて射出する。しかし今度は魔法陣を潜り、突破力を倍増させたものを。

「なにっ!?」

 防御壁が視界を塞ぐほどの強回転であったことが災いした。先と同じ攻撃だと、同じ手段で防御に移ったズィールに矢が四方八方から降り注ぐ。先を鋭く尖らせて回転する水の槍は、今度こそズィールの防御壁を貫いた。

「おのれ、この程度で!」

 砂の竜巻が天高くそびえたつ。その中から、身体に幾つも傷を負ったズィールが現れた。

「ズィールさん。大丈夫ですか?」

「なに、かすり傷だ。心配は不要だ」

 着地を果たしたズィールは、フェリシィールにそう言って、言葉通り平気な様子で杖を構える。魔力が多くある使徒は魔法抵抗力が高い。それに加えて高い回復力とタフネスが、彼の言葉が強がりではないことを示していた。

 しかしフェリシィールはそれとは別に、ズィールの言動からあることに気付くことができた。

(……様子が、少しおかしい?)

 距離を二百メートルほど取って、フェリシィールは目を細めてズィールを観察する。
 治癒魔法で傷を癒すことなく、こちらを警戒している彼の表情は、常の起伏の乏しい生真面目なものではなく、どこか苛ついているように見えた。

(まさか、ズィールさんは躊躇している? 相手がわたくしだから本気を出せない……?)

 戦うことが決まったあのときに、てっきり何の躊躇もなくこちらを叩くつもりでいるものと思っていたのだが、どうやら間違っていたよう。

 ベアル教に組するズィール・シレは、それでも長年一緒に過ごした使徒を前に冷酷にはなれなかった。

 チャンス、と思う前に、これにはフェリシィールも戸惑わざるをえなかった。

 しばし困惑を吟味したのち、フェリシィールは静かな声で問う。

「……正直なところを申させていただければ、この戦いは茶番でしかありません。わたくしはズィールさん、あなたを疑いつつも裏切り者とは思っていないのですから」

「それを今語るか、フェリシィール・ティンク。違うな。貴公は勘違いをしている。貴公が何を知ったのかは知らないが、自分とてこの戦いに赴く理由があった。自分も貴公を裏切り者とは思ってはいない。だが、疑う必要があるのだ」

「それは一体どういう意味ですか? あなたも、本当は気が付いているのではないですか? 裏切り者が本当は誰であるか」

「っ! 裏切ったと問うか、フェリシィール! 使徒とはそういうものだと自分に教えた、他でもない貴公が――!」

 冷静さを殴り捨て、激昂の声を放つズィール。そこからは先の攻防とは反対だった。

 ズィールの咆哮と共に辺りの地面からフェリシィール目がけて殺到する石の矢。数にして二百を超す、地面がそこにある限り途絶えぬ乱射を受け、たまらないとフェリシィールは水の膜で防御すると共に、攻撃圏内から逃れようと高く跳躍する。

 足首まで衣に覆われたフェリシィールの跳躍力は人外の高さであった。膝を僅かに屈伸させる動きがあったと思ったら、次の瞬間には百メートル離れた地面に立っていた。

「ここは使徒が守るべき大地! その場所は、貴公にとって安全な逃げ場ではない!」

 だが、着地を果たした先もまた地面。攻撃の方向が変化しただけで、ズィールの攻撃は止まらない。

 地属性の魔法を操るズィール。地属性は概ね、地面がある場所なら最大の効力を発揮できる。まさに尽きない魔力と尽きない素材による乱れ撃ちは、単純だが相当な脅威であった。

 対してフェリシィールの水属性は、水のある河川や海では有利となるが、剥き出しの地面が多い大地の上では不利――否、たとえそうだとしても、ここは水の都。聖地ラグナアーツ。大気中に含まれる水分は多く、先程からの度重なる水の魔法で生じた水量は並大抵の量ではない。

「わたくしに使わせないよう地下に水を封じたつもりでしょうが、侮ってはいけません」

 隙間なく殺到する石の矢を前にして、冷静な態度でフェリシィールは手のひらの地面に向ける。そのまま地面の下に埋蔵された水をたぐるように、手を上に引っ張った。

「このわたくしが、どこの水が一番地面に近い場所に閉じこめられているか、分からないとでもお思いですか?」

 金糸の使徒の手によって招き寄せられた水は、固い地表を破って間欠泉のように湧き出した。

 フェリシィールを隠すほどの怒濤は、石の矢を受け付けないどころか辺り一帯を沼地に変え、さらに地下で繋がった水もが引っ張り出され、演習場一体を泥地へと変貌させてしまう。

 泥の上を、透き通った水が河川でも新たに作る勢いで流れ出ていく。
 溢れ出た水の上に立つフェリシィールは、僅かに水気を帯びた金糸の髪から水滴を零しながら、じっとズィールを見下ろした。

「さぁ、これで地形の優劣はないも同然。あなたが大地を操れるように、わたくしは自然を読みとれるのですから」

「『自然の予言者』たるフェリシィール。まさか、魔法すら読みとれるというのか?」

「自然災害の予知による避難勧告しか能がない特異能力とでも思っていましたか? これでも一応、あなたの特異能力と同じ使徒の特異能力なのですよ」

「それもそうだったか。その身が使徒であることは、何が有ろうと揺るがなかったな。ならば自分もまた、特異能力をもって抗おう」

 見下ろすフェリシィールに含み笑いを浮かべて、ズィールはそっと自分の右目を左手で覆い隠す。

――奪うぞ。貴公の費やした時を」

 隠された瞳が再び開かれたとき、そこには神秘を越える力が宿っており、

「奪えるのならどうぞ。わたくしの時を捉えることができるのでしたら」

 フェリシィールは、ズィールの背後で足を振り上げていた。

 ゴッ、という音は先の自然災害とは違う、野蛮極まりない打撃音。
 振り向こうとしたズィールの横腹を、的確にフェリシィールの神速の蹴りが捉えた音だった。

 蹴り飛ばされた瞬間には、フェリシィールが一瞬でズィールの背後へ移動したように、彼は遠い地面に側頭部を激突させていた。

「生憎と、わたくしの力をあなたが知っているように、わたくしもあなたの『魔眼』を存じています。捕捉されはしません。絶対に」

 自分の制御を離れた水が辺りに浅瀬を作るように広がっていく中、フェリシィールは倒れ込んだズィールが起きあがる様を見る。地面が泥状でなければもう少しダメージがあっただろうが、仕方がない。水を含んだ土の方が、はっきりと魔法の発動を感知することができるのだ。

「今やもう、わたくしの歩みをあなたに止めることは叶いません。魔力によって生まれる歪みからあなたの魔法の発動は全てわたくしが予知し、あなたの眼ではわたくしの速度には付いて来られないのですから」

「自分の『魔眼』を、甘く見るなよ」

「見ているのは、純然たる事実ですよ」

 起きあがったズィールの特異能力の顕現たる『魔眼』が自分に向けられた刹那、フェリシィールは間の距離をゼロに詰めていた。

 振り向く時間すらない移動速度は、泥状の地面でも関係ない絶対の速度。かの『誉れ高き稲妻』の全力にも匹敵する速度は、いかなズィールでも捉えきれるものではない。そして眼で捉えられぬ限り、彼の特異能力は発動しない。

「わたくしとあなたが戦った場合の相性を考えたことがなかったようですね。それとも、『魔眼』さえ使えれば絶対にわたくしに勝てると油断しましたか?」

「がっ!」

 フェリシィールの回し蹴りがズィールの側頭部を捉える。

 地面に叩き付けられたズィール。彼が起きあがる前に、フェリシィールは再びズィールの『魔眼』の効果範囲圏外へと離脱していた。

「確かに、あなたに『時喰い』をされてしまえば、わたくしが勝つ見込みは限りなく少なくなってしまいます。ならば簡単なことです。絶対に使わせなければいいだけのこと。
 ……相性は最悪だったのかも知れませんね。魔法戦で勝てなかったお陰でわたくしは、ルドールからはしたないとい禁止されていた足技を使う選択肢を強いられてしまったのですから」

 数百メートルを一息で駆けるフェリシィールの脚力による蹴りを数発食らったズィールは、よろめきつつも起きあがる。その瞳に手は添えられ、未だ金色の瞳は力を宿しているも、もはやズィールは敵ではなかった。

「さぁ、クーちゃんにも教えた足技の数々、どうぞあなたには始めてご覧に入れましょう。『天秤』のズィール」

 フェリシィールは長い服の裾をまくり上げて、にっこりと微笑んだ。

 

 

       ◇◆◇


 


 ダンスが終了してすぐ、リオンの周りは招待客で一杯となった。

 いと高きシストラバス家の次期当主。現代の竜滅姫であるリオンに一声かけたいと思う野心家から、当然の礼儀としてやってくる紳士と淑女、純粋に祝ってくれる人等々、多種多様な相手への対応を彼女はまったく嫌な顔せず行った。

 相手が不躾だとしても、リオンは笑いながら軽くいなした。
 礼儀には礼儀で返して、祝ってくれる人にはお礼を述べた。

 社交として、これはリオンにとってはまったく当たり前の光景なのだろう。最初呑み込まれそうになったジュンタは終始隣を陣取っていたが、やったことといえば、足を踏もうとしてくる相手の攻撃を避けることぐらいのものだった。

 そうこうやっている時間は、述べ何十分くらいだったか?

 さすがのリオンもどこか息抜きを欲していた頃、どこからともなくゴッゾが現れて、娘の代わりに賛辞祝辞への対応を引き受けてくれた。

「ふぅ、いつもとは違って聖地ラグナアーツで行ったからかしら。いつもよりも声をかけてくる相手や、かけてくださる方が少し多くて、ちょっと疲れてしまいましたわ」

 パーティー会場を少しの間離れて、ジュンタとリオンは休憩室も兼ねた個室のテラスに休息を入れるためにやってきていた。

「あれで少し多いくらいなのか。あれの半分くらいでも、俺は確実に眼を回すな」

 なんて言いつつ、ジュンタは持っていたグラスをリオンに手渡した。

「ありがとう。でも本当にあれくらい、この規模のパーティーがあれば毎度のことですのよ。それが社交界というもの。多ければ多いほどステータスですしね」

「そういうものか。まぁ、お疲れ様でした、ということで」

 さらに持っていたワインボトルを傾けて、ジュンタはリオンのグラスに注ぐ。このワインが高いものか安いものかは見ただけではわからないが、シストラバス家の誕生パーティーで出されるものなのだから相当高いのだろう。琥珀色の美しさに、どこかリオンはうっとりしていた。

「ちょうど喉が渇いていましたのよ。気が利きますわね」

「隣に立ってることぐらいしかできなかったからな。これくらいは当然だよ」

「そうですか。ん? ジュンタ。あなたは飲みませんの?」

 グラスに注がれたワインの水面を揺らしながら見ていたリオンは、ジュンタが自分用のグラスに入れるのを待っていたようだった。しかし、ワインを頼んだときにグラスを二つ渡されただけで、別段ジュンタに飲むつもりはなかった。

「いや、俺は」

「まさか、飲まないだなんて言うつもりではありませんわよね? 今日は私の誕生日でしてよ?」

 飲まないと告げる前に、リオンがジト眼で睨んできた。

「私も、あなたが酔っぱらうとどうなるかは存じていますわ。ですけど一杯くらい、せめて乾杯くらい付き合ってくれるぐらいしても罰は当たらないのではなくて? 酔っぱらいもしないでしょうし、よしんば酔っぱらって前みたいになっても私は……」

 尻つぼみになっていく言葉の最後の方は聞き取れなかった。ただ、リオンはワインを飲む前から酔っぱらったように頬を上気させて、何とも色っぽい。

 よくよく考えてみたら、締め切った部屋のテラスに二人だけ。辺りに人影はないと来たもんだ。ジュンタは今更ながら気が付いたおいしいシチュエーションに、ゴクンと唾を飲み込んで、自分のグラスにワインを注ぎ入れた。

「そこまで言われたら飲むしかないか。その代わり、もし酔っぱらって倒れたら介抱頼むぞ。どんな酔っぱらい方をするのかは知らないけど」

「承知しましたわ。元々、今日は私とずっと一緒にいると約束したではありませんの。私の方から反故にさせたりは致しませんわ」

「え? いや、今日お願いされたのはダンスのパートナーだけだろ?」

「なっ!? ……なるほど。あなた知りませんでしたのね。ダンスのパートナーを務めるということは、パーティーが終わるまで付きそうということですのよ?」

「本当だろうな、それ? ……どちらにしろ、嘘か本当かなんて関係ないか。了解しましたお嬢様。今夜だけは謹んでエスコートさせていただきます」

「ええ、期待していましてよ。まだ夜は長いのですから」

 満足げに頷いたリオンは、クスリと笑ってワイングラスを前へと差し出した。

 ジュンタも笑い返して、ワイングラスを前へと差し出す。ちょうどリオンの差し出したグラスと、もう少しでぶつかる位置まで。

「エスコートすると言ったのですから、綺麗な言葉で乾杯を演出してくれますのよね?」

「というか、これしかないだろ?」

 挑戦状を叩き付けられたジュンタは、しかし前もって用意しておいた、これしかない言葉を乾杯の音頭とする。

「リオン・シストラバスが生きて十七歳の誕生日を迎えられたことを祝して――

『乾杯』

 微かに二つのグラスの間に鳴る、綺麗な音色。二人は互いの顔を見つめたまま、ワイングラスに口を付けた。

「ねぇ、ジュンタ」

 テラスで吹く風に髪とドレスの裾を踊らせていたリオンは、一杯目のワインを静かに飲み干した頃、意を決した風に口を開いた。

 表情は真剣そのもので、一体何を言われるのかとジュンタは身構える。

 リオンが真剣な顔で口にしたのは、そんなことだった。

「あなた、もしかしてスイカ様と付き合ってたり、しませんわよね?」

「はぁ?」

 即出た呆れの返答が、ジュンタのリオンの質問に対する反応の全てだった。

「お前、何馬鹿なこと言ってるんだ? 俺とスイカがどうして付き合ったりすることになるんだよ。それ、お前から言われると結構きつい言葉だぞ?」

 まだ一月近くしか経っていない前に、ジュンタは他でもないリオンに愛の告白をした。なのに、まさかこのタイミングでリオンからスイカと付き合っているかだなんてことを訊かれるとは思わなかった。結構ショックである。

「そう簡単に心変わりなんかしたら、俺は二度も同じ奴に告白したりなんてしないよ」

「つ、つまり、ジュンタは別にスイカ様と付き合ったりしているわけではありませんのよね? 一緒のペアグラスを買ったりしましたのも、友愛の延長線ですのね?」

「そうそう。あくまでもスイカとは友達同士でペアグラスも……って、そういうことか」

 リオンが安堵と疑いを半々にした声で口にしたペアグラスという単語に、ジュンタは得心する。なるほど。スイカにリオンへのプレゼント選びを手伝ってもらった日、偶に強烈な視線を感じたと思ったらそういうことだったのか。

「このストーカーめ。……ちょっと待ってろ」

「あ、どこ行きますのよ? ジュンタ。今日は私と一緒にいるって――

「すぐ戻る。安心しろ。今夜はお前に付き合ってやるから」

 テラスを後にし、休憩場を後にしたジュンタは後ろ手で部屋の扉を閉める。直後――全速力で自室へと急いだ。

「ああもうっ、あいつは馬鹿か!」

 折を見て渡すつもりだったプレゼント。きっとロマンチックな瞬間に渡すものと思っていた誕生日プレゼント。それを自室に戻って手に取ったジュンタは、全速力でリオンの待つ部屋へと戻り、ロマンもへったくれもない瞬間に渡すこととなったことに溜息を吐いた。

「でも、仕方ないか。誤解されているよりはマシだからな」

 プレゼントが入った箱を背中の後ろに隠し、部屋へと戻ったジュンタが見たのは、テラスの縁に背中を預けて空を眺めている綺麗な少女の姿だった。燃えるような真紅の花がひっそりと夜の中に咲いているように、リオンはどこか寂しそうな表情を見せていた。

 彼女はこちらに気付くと、ぱっと明るい笑みを浮かべ――すぐにその表情は憮然としたものになる。

「なんですのよ? あなた。いきなり出て行くなんて、不躾にも程がありましてよ。……それで? 私を一人っきりで置いていったのですから、それ相応の理由はあるのでしょうね? なかったら承知致しませんわよ」

「いや、ある。とても大事な物を持ってきた」

「大事な物……?」

 クエスチョンマークを浮かべるリオンに近付いて、ジュンタは彼女の手元に置かれていたワイングラスを手に取った。それを部屋に戻り備え付けのテーブルの上に置いて、それからテラスでリオンに向き直る。手にワインボトルを持って。

「な、なんですの? どうしてグラスを置いたのに、ワインボトルを持ってますのよ?」

「そりゃもちろん、注ぐべきグラスを交換するからに決まってるだろ?
 こんなタイミングでなんだけど――リオン、俺からお前への誕生日プレゼントだ」

 開けて楽しんでもらう時間も惜しくて、部屋から戻る間に開けてしまったリボンと包装紙。ジュンタがリオンの眼前へと差し出した蓋の空いた箱の中には、一組のペアグラスが月光に輝いて入っていた。

 リオンはジュンタから自分への誕生日プレゼントを目の当たりにして、眼を大きく見開く。

「これ、ジュンタがスイカ様と一緒に買っていたペアグラス……え? 私への誕生日プレゼント……?」

「そうだよ。お前が盗み見たのは、お前への誕生日プレゼント選びに付き合ってもらっていたスイカと一緒に買ったところだ。何もスイカとペアで買ったわけじゃない。……それで、どうするんだ? もしかして受け取ってもらえなかったりするのか?」

「そ、そんなはずないではありませんの!」

 引っ込めようとした箱の中から、リオンが神速でペアグラスを奪い取った。
 金と銀でそれぞれ不死鳥の印が刻まれた紅いペアグラスをリオンは胸に抱いて、絶対に渡さないと睨んでくる。

 ジュンタは苦笑して、箱をテラスの上に置き、両手でワインボトルを持つ。

「じゃあ、受け取ってくれたところで、もう一回乾杯するか? それとも、他の奴とのペアグラスとして使うか?」

「使いませんわ! これをあなたとのペアグラスとしないで、一体どうするというのです!」

「じゃあ、ほい」

「あ、はい」

 傾けたワインボトルの口に、リオンがすかさずグラスを差し出す。
 二つの大きめのグラスに均等に注ぎ終えれば、六分目のところでワインはなくなった。

 リオンは未だどこか混乱した様子で、自分の両手にあるペアグラスを見ている。
 ジュンタはその内、銀で細工がされた方のグラスを、やんわりとリオンの手から奪い取った。

「リオン。お前、これが何て呼ばれてるグラスか知ってるか?」

「『硝子の口紅ルージュグラス』、でしょう?」

「そう、『硝子の口紅ルージュグラス』って名前だ。お前のために俺が選んだペアグラスだ。誤解は解けたか?」

 コクコク、とリオンは頷いた。

 そこでようやく驚きから立ち直ったらしいリオン。怖々と自分のグラスを持ち上げ、それからジュンタの持つグラスを確認する。

 そして瞳を潤ませて、泣きそうな顔で本当に嬉しそうに笑った。

「とても、嬉しい。私今、ジュンタから『硝子の口紅ルージュグラス』をもらえて、とても嬉しいですわ」

 それがとても綺麗だったから、それ自体に意味のある『硝子の口紅ルージュグラス』をとても嬉しそうに受け取ってくれたから、ジュンタは自分の中でもしかしてと思っていたことが真実である可能性を知った。

 頬を染めて、大事そうに夫婦の証とも恋人の証とも呼ばれているペアグラスを持ったリオン。前告白したときは残念な結果に終わったが、今ならもしかして……

「乾杯しましょう!」

 今度は逆に呆然としていたジュンタを呼び戻したのは、欲しかったプレゼントを手に入れた子供みたいにはしゃぐリオンの喜々とした声だった。

「乾杯しますわよ! ペアグラスを贈ってもらって乾杯しなければ嘘ですわ! さぁ、早く! 一刻も早く、ジュンタがプレゼントしてくれた『硝子の口紅ルージュグラス』で乾杯しましてよ!」

 うずうずと堪えきれないという感じのリオンに、ジュンタは笑いを堪えきれなかった。

 ぷっ、と吹き出して、ジュンタはリオンに倣ってグラスを前に差し出す。

 いつもは怒るリオンは、今日は怒らないで心底楽しそうに言った。

『乾杯!』

 重なった音は、先程にも増して、澄んだ綺麗な音だった。






「う〜ん。何て言うか、傍目から見たら完璧に仲の良い恋人同士だな、あれは」

 姉の手を引いてジュンタを探していたヒズミは、庭に出たとき上階のバルコニーに見た仲睦まじい二人の姿に、それ以上手を引いて歩くことが躊躇われた。

「ヒズミ。もうよそう。二人の邪魔をしちゃいけない」

 ペアのグラスで乾杯するジュンタとリオンのため見せたスイカの微笑に、ヒズミは胸を詰まらせる。

「……いいの。それで? 姉さんは、僕といてもいいの?」

「いいも何も、いいに決まってる。でなければ、わたしはヒズミと一緒にいないよ」

「でも姉さん、本当はサクラと踊りたかったんだろ? そのドレスだってサクラのために……それなのに、そんな風に諦めて本当にいいわけ?」

 本来なら、こうして姉の手を引いているのは自分ではないはずだった。
 
 姿を晒す予定ではなかったリオンの誕生日パーティーに出席したのも、全てジュンタが原因だ。 スイカはリオンを祝うために駆けつけたのではなく、駆けつけるだろうジュンタに会うためにやってきたのだから。

 先程ジュンタと一緒に踊りたいと申し出たのが、何よりも雄弁にスイカの気持ちを語っていた。 あの一言にどれだけの想いが込められていたのか。返答が返ってくる前に、横からかっさらっていったリオンの奴には本当に腹が立つ。

 そして、ヒズミは姉にも腹が立っていた。あんな風にすごすごと負け犬のように諦めるだなんて……それではジュンタを認めていた自分が馬鹿みたいではないか。だから会場からいなくなった彼を捜しに出たのであるし、そう、今あの姿を見たからって諦める必要なんてないのだ。

「いいんだよ、姉さん。使徒の権力でも何でも使って、サクラの奴を奪ってこればさ。シストラバスの誕生日だからって、譲ってやる必要はないね」

「そうはいうけど、わたしは好き合ってる二人の仲を引き裂くつもりはなかったから。なかなかそうだということを認められなかったけど、今そう認めてしまったんだからしょうがない」

「それは、あいつがまだ姉さんのことを思い出してないからだろ?」

「どうかな。確かにジュンタ君は忘れているけど、わたしはたとえ思い出してくれてもリオンには勝てる気はしないんだ」

「それでも!」

 スイカの寂しそうな横顔に、ヒズミは思わず少し大きめの声をあげようと口を開こうとして、

「大きな声はダメ」

 そっと笑みを一層濃くしたスイカの指に口を塞がれた。 

「諦めたわけじゃない。ただ、勝てないって、そう受け入れてしまっただけ。そういう意味では本当はわたし、諦めたわけでも認めたわけでも、ジュンタ君に思い出して欲しいわけでもないかも知れない。それは決定的な敗北を、突きつけられてしまうってことだから」

「……それでも、結局サクラとシストラバスが結ばれることはないんだから。あいつのためにも、姉さんはがんばらないといけないんだ」

 その笑顔が消えたのは、ヒズミが続けて言った言葉に。
 スイカは目を丸くし、少しだけ困ったような顔をして首を傾げた。

「どういうことなんだ? ジュンタ君とリオンが結ばれることはないって。そんな、結ばれないんじゃ、二人っきりにすることを認めた意味がないじゃないか」

「…………はぁ?」

「む? どうしてそこで呆れた顔をする? わたしの精一杯の強がりを、ヒズミは何だと思っているんだ」
 
「強がりって、姉さんこそ何言ってるんだよ? だってあいつは――

 ――そこで、ヒズミは自分が思い違いをしていたことに気が付いた。

 会場の声も、見上げる二人の姿も、スイカでさえ見失うほどの衝撃。

(そう、か。姉さんは、そうだったのか。いや、僕がそうだったのか)

 自分の馬鹿さ加減に気が付いて、ヒズミは顔を両手で覆った。
 そう、考えてみれば当然か。ジュンタにだって思惑があるのだから、何も自分が思っていることを彼もまた考えているとは限らない。

 だって、ジュンタは幸せそうだ。

 優しい従者に、親しい友人に、好きな人だって傍にいる。笑って、楽しんで、そうやってこの世界で生きている。なのに、どうして自分はそうであると思ってしまったのか?

 ……簡単な話だ。ただ、そうであって欲しいと、自分が願っていたというだけ。
 
 上手く行くかわからない現実回帰の方法。自分を犠牲にしてまで大切な人を守ろうとする姉。どうなるか分からない。犠牲があるかも知れないから、姉を支える存在として、勝手に自分はジュンタを選んでいた。

(何てことはない。最初から僕は、あいつのことを選んでいたのか)

 可能なら二人で守るのが望ましいが、万が一にも自分が守れなくなる結果のために、彼という存在を欲していたのは自分の方だった。最初から姉はただジュンタが好きなだけで、自分の都合に合わせようとは思っていなかったのだ。

 スイカはジュンタの気持ちに気付いていた。でも、自分は気付けなかった。

 ただ、それだけの話。



――――そうかよ。お前は、この世界リオン・シストラバスを選ぶのか」



 手のひらを視界からどけてジュンタとリオンを睨んだヒズミは、ぞっとするような声で世界を呪った。
 
「ヒズミ。お前、何を……?」

 世界にあるありとあらゆるものを憎む眼差し。
 世界を選ぶあり得ないものを呪い殺す眼差し。

 その眼差しを向ける先にいるのが誰か気付いたスイカが、ヒズミに手を伸ばす。

 伸ばされた手を優しく握り替えして、ヒズミは心からの笑みを浮かべた。

「ううん。何でもないから、姉さんは気にしないでくれていいよ。でも、そうだね……ちょっと頭を冷やしてくるよ。少し考えないといけないことができたんだ」
 
 心配して、いつだって彼女はそうやって手を引こうと差し出してくれた。でも、もう甘えられない。この理不尽な世界で彼女だけが本物だったから、もう彼女が傷つかないようにしないといけない。泣かせてはいけないのだ。今度は自分が彼女を守らないといけない。

「大丈夫。すぐに戻ってくるから。だって」

 たとえその結果この世界が滅んでも全然構わない。必要があるなら、世界だって喜んで壊そう。

――姉さんは、僕が故郷に帰してあげるんだから」

 そのために邪魔をするのなら、もう誰が相手でも容赦はしない。

 たとえそれがスイカの好きな相手でも。選ばないのなら、悲しませるのなら、もう必要性など微塵も存在しないのだから。


 



       ◇◆◇






「意志はやはり変わらぬのか? オーケンリッター」

 激しいぶつかり合いを見つめながら、ルドールは隣に立つ後輩に対して、これが最後となるだろう問い掛けを放った。

 白く眩しい鎧を纏い、白銀の槍を携えた偉丈夫は、泥へと顔から突っ込んでいく主を見て笑みを零した。その瞳には隠しきれない憤怒が、憎悪が、絶望が渦巻いている。

「変わらぬ。何を言われようとも、もはや意志は動かぬ。この身を突き動かすは天意ではなく、おのが魂の鼓動なり。ああ、私には聞こえる。瑞々しい鼓動がそれこそが正しいと叫んでいる声が」
 
「そう、か……もはや何を言っても無駄か。長い時を生きることに意味はないというのに」

 いつから彼はこんな瞳で敬愛する人を見るようになってしまったのか。ルドールは早い内に気付けなかった自分を後悔する。

 そう……いつだって自分は手遅れになってから気付くのだ。

 ルドーレンクティカ・リアーシラミリィ。

 森の賢者と讃えられるエルフの人生は、常に遅い悟りと共にある。

 元来長い時を生きるエルフは、自分の人生をマイペースにのんびりと生きる。人の三倍から五倍生きるのだ。慌てて生き急いでもしょうがない。自分が望むことを自分の望むペースで行う。それがエルフの生き方だ。

 そんなエルフの中では、ルドールの生き方は珍しいか。

 まだ若い身空で故郷を旅立ち、長年各地を放浪する中で、聖異物探索の巡礼に出ていた今は亡き親友、使徒イヴァーデと知り合い旅を共にした。

 やがてイヴァーデが聖地に落ち着いたあとは故郷の森へと戻り、そこで最愛の人と結婚した。

 フェリシィール・リアーシラミリィ――何よりも澄んだ瞳をした女性と。

 愛した人のことは、物心ついてからずっと愛していた。ただ、その想いを伝えられたのは百年近く経ったあとのこと。その頃、年齢が三倍近く離れていた美しい乙女は、もうすでに死期を悟っていた。

 旅立つことなく結婚していれば、あと百数十年は共に生きられただろうに。彼女の死期を悟れなかった自分を、ルドールは死した彼女の顔を見て後悔した。

 次なる後悔は、そんな彼女が最後に残した我が子アンジェロか。

 イヴァーデと共に旅した縁か、新たな使徒の巫女に選ばれたルドールは、母を亡くしたばかりの我が子を里の皆に託し、一人聖地へと赴いた。そこでアンジェロの代わりとでもいうように、我が子同然に懐いてくれた使徒フェリシィールを育て上げた。

 アンジェロのことを愛していなかったわけではない。ただ、遠く離れていてもいつか共に暮らせる日が来ると思っていたから、今はより限られた生を持つ主の傍にいてやりたかったのだ。

 使徒の寿命よりもエルフの寿命の方が長い。ルドールは残りの人生の半分を娘に捧げ、もう半分を息子に捧げようと、そう思っていただけ。

 けれども、ルドールは息子に人生を捧げるどころか、その手で息子の人生を閉ざしてしまった。

 そうしてその手に残ったのは、また愛する我が子が残した孫娘。……もう、家族とは何なのかを教えられるはずがなかった。

 ただ、守ろうと思った。何を犠牲にしても、この子だけは守らねばと思った。

 ルドールの思いとは裏腹に、世の中の時間は動いていたのだ。全ては長い時を生きるが故の堕落が原因。全てを後回しにしてもどうにかなると思っていたことが、そもそも間違いだった。
 そのことにもう少し早く気付いていれば、救われたものがあったかも知れない。助けられた人がいたかも知れない。だから気付いた今、せめてこの子だけは守ろうと……。

 ならば、また間に合わなかったこれも、その代償の一部か。後輩として巫女とはなんたるかを教え込んだはずのオーケンリッターは、巫女として決して許されぬ想いに今身を焦がしている。

 即ち――己が使徒への憎悪に。

「……今どうしてズィール様が主を敵に回しても戦われているか、分からぬお主ではあるまいに」

「巫女を信じること。信じ続けること――それが使徒としての何より重要な務めであると、フェリシィール・ティンクは毎日の如く幼いズィール様に言っていたか。
 たとえ疑わしくとも、一番近くにいる自分が最もそのことに気付きつつも、それでも信じて戦って……愚かだな。愚かすぎる。それほどまでに私を信頼しているからこそ、私は、正しき憎悪に支配されたというのに」

「何故、お主はズィール様を憎む?」

 ルドールはどれだけオーケンリッターが、おのが主に期待と愛情を注いでいたかよく知っている。オーケンリッターの若い頃を知っているルドールは、どれだけ彼がズィールのために人生を費やしたか知っている。

 我が子というよりも自分自身に近い。オーケンリッターにとって、ズィールはもう一人の自分も同然なのだ。

 だから、憎い。

「……ルドール。貴公は知らぬだろうな。本当の裏切りが、どんなに心引き裂くか」

 自らの胸へと拳を当てたオーケンリッターは、ズィールの瞳が放つ魔性の力に総身から震えていた。

「あの眼だ。あの、恐ろしい眼が私を見たのだ。第七のオラクルが託宣として舞い降りたあのとき、確かに使徒ズィール・シレは、巫女コム・オーケンリッターを見ていたのだ。――次のオラクルを達成するための、生け贄として」

 震える拳が、白き甲冑を塗り潰していく。

 どす黒い漆黒へと。光なき闇へと。

「このまま巫女でいれば、私はいずれあの正義に喰われる。無惨に引き裂かれ、殺される」

 あの日死を覚悟した恐怖を、最愛の人に殺されるという絶望を、自分が捧げた人生をなかったことにされる憎悪に、オーケンリッターは悪魔の鎧を纏う。

「だから、そうなる前に殺す。巫女が使徒を裏切ったのではない。使徒が巫女を裏切ったのだ」

 その手の誇りもまた黒く塗りつぶされ、毒の矛先が座るルドールの首もとへと添えられる。

 あと少しでもオーケンリッターが動けば、この場に死人が横たわることになる。
 ルドールは憎悪をもって見下ろしてくるオーケンリッターを、凪いだ湖面のような眼差しで見上げた。

「……殺さぬよ、貴公は。貴公を殺そうと思えば、逆に私が貴公に殺される。貴公に敵うものなどこの地に存在しまい。だが何もしなければ、貴公は誰よりも何よりも無害な存在。危険は犯さぬ。私は過たぬ」 

 しばし槍を突きつけていたオーケンリッターは、槍を戻すと背中を向けた。

「さらばだ、傍観者。何も触れられぬ代わりに、何者にも害されない存在よ。貴様はそこで独り静かに朽ち果てろ。その目に愛しき主が生け贄となる様を刻みつけながら」

「……神にでもなったつもりか? コム・オーケンリッター」

「応とも。私は神になる。新たなる世界に君臨する、絶対の支配者となる。
 私が主役だ、ルドーレンクティカ。巫女などという邪魔になれば捨てられる脇役ではない。私は、使徒という名の主役になるのだ」

「それが、たとえ裏切りの使徒であったとしても、か?」

「ほぅ、やはり我々の真の目的に貴公だけは気付いていたか。
 ならば喜べ、ルドール。貴公の息子は、神の使徒さえ生み出すほどの天才だったのだから」

 その感嘆を返答にし、去りゆくオーケンリッター。
 ルドールはただ、彼の前に暗い闇が広がっているだけであることに、悲しみを覚えた。

「……主役、か。悲しいな、オーケンリッター」

 それでも、ルドールにその歩みを止める術はない。手に入れた奇跡の代価として背負った業が、最愛の主の危機を前にしても、美貌の老人の身体を束縛する。

 疲れ果てた瞳で、ただ見つめることしかできぬ傍観者は、そっと呟いた。

「儂が一度しか語ることが許されなかったのはお主ではない。所詮神のシナリオを前にしては、お主ほどの男でさえ脇役よ」

 狂おしいほどの後悔と悟りを胸に、祈りに似た呟きを。

「ああ。あのお方は、私の言葉をきちんと受け止めてくれたのだろうか? だとすれば、嬉しい」

――どうか、クーヴェルシェンのことをよろしくお願い致します――

「とても、嬉しいのだがなぁ」




       ◇◆◇




 

 ――計画は変更だ。

 声は、虚空に向けられる。

 ――そうだ。ボルギィをこちらに向かわせろ。

 声は、闇に向けられる。

 ――あちらはオーケンリッターに任せておけばいい。こちらが優先だ。

 声は、決意で満ちていた。

 ――それと、現状で『聖獣聖典』はどこまで行使できる?

 声は、悲壮な決意で。

 ――十分だ。合図と共に孔を穿て。できないとは言わせない、『狂賢者』。

 決意は、悲壮な声で。

 ――ああ、そうだ。ここでもう一柱使徒を確保する。あれは、敵だ。

 虚空からの返答は、闇からの返答の声は、どこまでも悪意に満ちた嘲弄で。

 ――畏まりました。我らがベアルの指導者。

 祝福が奏でられる場所へと舞い降りた女は、一人の少年を、呼ばう。


――――『盟主』ヒズミ・アントネッリ」










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