第十六話  選ばれなかった人



 
 泥が跳ねた刹那の内に、フェリシィールの蹴りはズィールの身体に吸い込まれていた。

 金糸の残像を伸ばして、蹴飛ばされながらも放たれたズィールの魔法をことごとく避け、フェリシィールの実像は空中で結ばれる。大きく地上から離れた位置でかかとを振り上げ、そのまま稲妻のように叩き落とした。

「この、程度で!」

「あらあら、スカートの中を覗いてはいけませんよ」

 振り向こうとしたズィールの視線に捉まる前に、フェリシィールの身体は霞みのように消えていた。まるで泡が弾けるように跡形もなく、ズィールの身体だけが衝撃に落下を始める。

 落下を始めたときには、再び空中に幾重も金色の残像が駆けていた。

 まさに閃光となって地上と空中を駆けめぐる金糸の使徒。
 地上に落ちるまでに都合十発の蹴りを身体に受け、ズィールは受け身を取ることさえ叶わなかった。

 まさに圧倒的。先の魔法の実力さえ霞むような神速の体術。魔法使いにもある程度の体術の心得が必須だとしても、フェリシィールのソレはまさに規格外だった。

「そろそろ諦めがつきましたか? ズィールさん」

「だ、れが、諦めたりなどするものか!」

 ズィールはスカートの裾を持った、優雅にも見えるフェリシィールをにらみ据えようとして、しかし視界から逃げられる。

 ズィールとて、使徒としての肉体ポテンシャルは高い方だ。しかしフェリシィールのヒトガタでの肉体ポテンシャル――特に脚力は、それを大きく上回っていた。

 身体構造の変化を得意とする水の魔法の面目躍如。大地を駆け抜ける瞬発力と速度。空中を走る跳躍力と、そこから繰り出される蹴りの一撃は、地属性の魔法で肉体強化を施していなければ今頃お陀仏なほど。元の身体能力に肉体強化を加えたフェリシィールがこれほどとは。

(『時喰い』さえ成功すれば、自分の勝利は決まるのだが……)

 立ち上がったズィールは、口元から流れる血を拭い、背後に感じる気配に臍を噛む。

 彼女が強いことは理解していたが、どこかで特異能力の差から自分の方が戦闘においては有利と誤解していた。悔やんでも遅いが、これならば卑怯と罵られても奇襲を仕掛け、最初から『時喰い』を行うべきだったか。

(否、それでは意味がない。正面から立ち向かい、打破することに意味があるのだ)

 振り向けばまた視界から逃げられ攻撃を喰らうのは理解している。
 ズィールはそのまま背後にフェリシィールの気配を感じたまま考えた。

(こうなっては仕方がない。フェリシィールを捉えることは、確かに不可能のようだ。だが一か八かの賭に出れば……)

 フェリシィールの姿を探し求めるのではなく、彼女が攻撃した瞬間にその姿を手で掴んで見せる。今までギリギリのところで急所からずらしていたエネルギーを全てカウンターに注ぎ込み、顔所の姿を眼におさめる。それしかない。

 これまでの攻撃の威力を鑑みても、フェリシィールの一撃が直撃すれば命が脅かされる。だが、今打って出なければ本当に勝ち目がなくなってしまう。

「決着をつけよう。フェリシィール・ティンク」

 視線にさらなる力を込めて、ズィールは振り返る。

 直後背後から迫ったフェリシィールの打撃が、ミシリと背中の骨を軋ませた。

「がっ!」

 大した圧力。だが、あくまでも狙いはこの瞬間。再び『魔眼』の効果範囲まで逃げられる前に、捕らえてみせる。

貫け 大地の刻よ

 空中へと再び蹴り飛ばされる中、ズィールは一緒に空へと駆け上がるフェリシィールへと手を伸ばした。

 フェリシィールはズィールが一か八かの賭に出たことを、直撃した一撃を見て悟り急いで離れようとする。

 捉えるのが早いか。逃げるのが早いか。二人が重なり合う刹那に勝敗は決す。

 一瞬その姿を捉えたあと、しかし発動の条件を満たす前に不条理な動きで消える金糸の影。ズィールの魔眼は金糸の使徒を捉えることなく虚空を映した。

「自分の敗北、か。許せ、我が巫女よ」

 背骨が砕き折れた音を耳にしながら、力の入らない身体でズィールは落下を始めた。

 見えるのは澄んだ夜空。
 今日という日を祝福するような美しい月。

 ……本当は、わかっていた。

 誰よりも一番近くにいたのだ。気付かないはずがない。どれだけ眼を逸らそうとしても、今まで築き上げた心にある正義の在処が、それこそが真実だと教えていた。

 けれども、信じたかった。信じなければいけなかった。

 彼こそは自らの在り方を定めた正義の人。
 誰よりも長い時間を共に費やした、もう一人の自分のようだと感じていた。彼もまたそう思ってくれていると信じていた。

 フェリシィールは言った。使徒にとって最も大事なことは、自分の巫女を信じることなのだと。

 巫女が信じてくれるから、使徒は自分の在り方を正しいと認められる。だから使徒として居続けることができるのだと。

 だから、たとえ他の誰かが疑っても、自分だけは最後の最後まで信じようと決めた。それが間違っているとしても、人としては間違っているとしても、使徒としては正しいのだと信じて。そう信じる心を強さとし、否定するフェリシィールとの戦いに挑んだ。

 しかし結果は出た。出てしまった。

「使徒ズィール・シレ。約束を果たしてもらいますよ」

 落ちた先に泥の感触はなかった。母のように優しく着地を抱き留めてくれたフェリシィールが、魔眼を前にして逃げることなく顔を見下ろしていた。

 そこにも信頼があった。その信頼を、約束を、ズィールは裏切れない。

「……貴公に、もう一つだけ尋ねておくべきだった。使徒が使徒を止めるとき、それは使徒が『使徒として間違った』行いをしたときではなく、使徒が『間違った』行いをしたときだと言った貴公に。使徒としてのみ正しい『間違い』を選んだとき、果たして使徒はどうすればいいのか、と」

「わたくしに聞いたところで、その問い掛けに意味はありませんよ。あなたはもう、自分で答えを出せるはずでしょう?」

「そうか……ああ、そうだな。自分は過ってしまったのか」

 穏やかな瞳で微笑まれたズィールは、深い深い失望の果てにその結論を受け入れた。

「ならば、それを正そう。天秤に乗せて償おう。たとえ誰も認めるものがいなくなったとしても、自分はこの正義を貫こう」

 ズィールはフェリシィールの手より下りて、大きな決意を胸に近づいてくる男を見やった。

「それが自分が選んだ道だ。我が巫女コム・オーケンリッター」


――応とも。長い間待っていた。今ここに出た、全ての答えを!」


 ここに来て、雌伏の獣が牙を剥き出しにする。

 漆黒の甲冑。汚れた気配。
 手に闇の槍を携えた巫女コム・オーケンリッターを見ても、ズィールは動揺しなかった。


 

 

       ◇◆◇




 

「サクラ、少しいいか? ちょっと話があるんだけど」

 ほろ酔い気分でいたジュンタとリオンの許を訪れたのは、スイカと共に招かれたヒズミだった。

 ノックのあと、扉を乱暴な手つきで開け放って現れたヒズミは、何の前置きもなくそんなことを言う。これには、来訪者が誰であるか気付いた時点では訝しげな顔をしていただけのリオンが、表情をむっとしたものに変える。

「ヒズミ。あまりにもいきなりすぎではありません? まずは礼に則り、私に伺いを立てるのが筋でしょう?」

「いや、待て。それは俺が使用人とか、そういう扱いである前提じゃないか?」

「そうだ。サクラは別にシストラバスの所有物でも使用人でもない。僕の用件に対してどうするかはあくまでもサクラ個人の問題だ」

 酔っているのか、それとも邪魔されて不機嫌なのか、非難の言葉を吐いたリオンに対し、ヒズミは強気な姿勢で臨んでいる。いつも姉に振り回されている彼とは思えない姿勢だ。逆をいえば、それだけ彼の用件が重要ということか。

(どうするか……邪険にはできないし、けどリオンは俺に今日は一緒にいて欲しいって)

 ここですんなりヒズミの言葉に頷けるほど、リオンが口にしたお願いはジュンタにとっても重要じゃないわけではなかった。好きな人から一緒にいて欲しいと言われたのだ。それは他のことを無視してでも優先すべきことではないか。

「確かに、シストラバスには悪いとは思ってる。けど、本当に大事な用なんだ。頼むから時間をくれ」

「ヒズミ……」

 ジュンタの内心を察したのか、再度ヒズミが訴えてきた。
 クーのことなどで助けてくれた相手だ。何か困っていることがあるなら聞いてやりたい。

「仕方がありませんわね」

 今度ジュンタの内心を読み取ったのはリオンだった。

 思い切り息を吐き出したリオンは、ちょっと不機嫌そうな顔で、しかし仕方がないといわんばかりにジュンタの手からグラスを奪った。

「行きなさい、ジュンタ。付き合ってあげたいのでしょう?」

「いいのか?」

「このままだと、ジュンタはヒズミのことを気にして上の空になるに決まってますわ。それだと一緒にいる意味がありませんもの。でしたら、さっさと用件を済まして戻ってきてもらった方が嬉しいですわ。私も、もう少しくらいはパーティーに来てくださった来客の方々にあいさつしなければなりませんし」

 両手の空のグラスを並べて、入っていた箱へと戻すリオン。
 蓋を手にとって、最後に一度、小さく幸せそうな笑みを向けた後そっと閉じた。

「いいですわね? 終わったらすぐに私の許へと来ること。約束しましたわよ!」

「ああ、わかった。約束だ」

 リオンにしっかりと頷いて、ジュンタはヒズミを改めて見た。

 ヒズミは腕を組んで待っていた。あからさまな態度こそ見せないが、相当苛立っている様子だ。

「悪いな、ヒズミ。待たせた」

「……それじゃあ、少しついて来てくれ」

 軽く謝罪すると、ヒズミはそれだけを言い残して部屋を後にしてしまった。文句をつけるでもなく繕うでもなく、本気で急いでいるように。

「ヒズミ。何か様子がおかしくありません?」

「……そういえば、いつも一緒にいるはずのスイカの姿が見えないな。それだけ大事な用件なのかも知れないけど。とにかくリオン、少し行ってくる」

「ええ、行ってらっしゃい。プレゼント、本当にありがとう」

 箱を大事そうに抱えて手を振るリオンに見送られて、ジュンタははにかみつつヒズミを追って部屋を後にした。

 


「やはり、間違いはないのだな? オーケンリッター」

 ズィールは迷いのない眼差しで、誰も入ることを禁じた舞台へと足を踏み入れた自分の巫女へと問い掛けを放った。

 主語のない質問。しかしこの場に、その意味を問う者は存在しない。

「クッ――

 片手に魔槍。もう片手に白い仮面を持ったオーケンリッターは、自分の使徒を見ると徐に大きく口を開いた。

「クハハハハハハハハ――ッ!」

「オーケンリッターさん……」

 そこから飛び出る大笑。慎みある武人たるオーケンリッターがそこまで大口を開けて笑う様を、長年一緒にいたズィールは数回のみ、フェリシィールに至っては初めて見た。

 身体をよじりながら受けた質問を嘲笑う巫女は、しばらく嗤ったあと止め、本来立て膝をつくべき相手へ槍の穂先を突きつけた。

「聞くまでもない質問をするなど、無駄を嫌う貴公らしくないな。我が主よ。だが、聞かれたのならば答えよう」

 それがもはや如実に真実を物語っていたが、今その口よりはっきり告げられることで、疑問の挟む余地のない真実が明らかになる。

「応とも! 貴公の考える通り、私こそが聖神教に潜むベアル教の人間だ。私こそが裏切り者なのだよ、ズィール・シレ!」

「…………そうか」

「驚かぬし慌てぬか。やはり、薄々気付いてはいたようだな」

「信じたくはなかった。間違いであると必死に抗った。だが、今はもう信じるしかあるまい。我が巫女は、異端の信徒へと堕ちた」

「ズィールさん……」

「心配は無用だと言ったはずだ、フェリシィール。貴公に敗北したとき、自分はこれを受け入れるとすでに決めている。悲しみはある。嘆きもある。だが、戸惑いはない」

 淡々と、事実を噛み締めるように答えるズィールをフェリシィールが気遣うが、ズィールはそう言ってオーケンリッターから目を背けなかった。

 長い間一緒にいるオーケンリッターが見せた怪しい動きに、ズィールはかなり前から気付いていた。活発になるベアル教の噂と彼の行動の一致に、もしやと思い始めたのも数ヶ月前からだ。けれども、オーケンリッターは巫女。誰よりも正義とは何かを学んだ相手だ。そんなことはあり得ないと否定し続けた。

 フェリシィールもやがてオーケンリッターを疑うようになったが、それでもズィールは信じ続けた。それが正しいことだと信じて。

 ……だけど、正しくなんてなかった。オーケンリッターは裏切っていた。真にズィールが相手にするべきはフェリシィールではなく、自分の巫女であった男だったのだ。

「今、自分は貴公になぜと問うべきなのだろう。なぜ裏切ったのと問うべきなのだろう。その上で償いを求め、罰するべきなのだろう。だが……自分は何も聞かない。聞くまい。裏切った理由などどうでもいい。ただ、一つだけ問わせてもらう」

 悲しみや嘆きを超えた理解に、ズィールは正義を奮い起こして、問うた。

「問うぞ、コム・オーケンリッター。――貴公がベアルの盟主か?」

 貴公こそが敵の首領か、と。

「否、違う。私はただの同士でしかない。真の盟主は他にいる。他でもない。貴公らも知っている人物だ」

「わたくしたちも知っている……それは一体?」

「聞いても無駄だ、フェリシィール。この男は何も言わない」

 前へと踏み出したフェリシィールを、ズィールは手を差し出して止め、彼女の代わりに鋭い裁きの視線をオーケンリッターに向けた。

「裏切り者コム・オーケンリッター。続きは審判の中で聞かせてもらおう。これより貴公を、聖神教の敵と認める。投降するなら良し。抵抗するのなら断罪を与えよう」

「断罪か。くっ、やはり貴公はそれを選ぶか。ああ、わかっていた。理解していた。貴公はそうであると。巫女への情を殺し尽くして私を殺そうとすると、そう信じていた」

 オーケンリッターは口元に笑みを浮かべると、仮面を顔に取り付ける。

「ああ、やはり私は間違っていなかった。貴公は――いや貴様は、私を殺そうとする敵であったのだな。ならば殺される前に、殺すとしよう。油断なく――全力で」

 そしてズィールたちからは見えない仮面の裏側に持っていた虹色の宝玉を、歪んだ邪笑と共に突きつけた。

残骸に血を注げ 骸の影が門を穿つ

「っ!?」

 それは完全な不意打ちだった。ズィールとフェリシィールが宝玉の輝きから逃れるより先に、地面から影の獣が牙を剥いた。

 オーケンリッターの詠唱と共に発動したのは拘束の魔法。
 ずっとこの場所に用意されていた特別な結界が、影の檻となってフェリシィールごとズィールをほど包み込む。

「これはっ!?」

 身体に感じる強烈な圧迫感と疲労感。
 視界が薄い虹色の膜に包まれ、足場は今にも崩れそうな黒い泥に変わった。

「ぐっ!」

 ずぶりと泥に足をとられたズィールは、今まで両足で大地を踏みしめることで何とか保っていた姿勢を崩す。フェリシィールから受けた傷は、未だ癒えずに痛みとして脳髄を叩いている。

「ズィールさん! すぐに解呪と治療を行います。動かないでください!」

 すぐさまフェリシィールは行使された結界から脱出するため解呪の魔法を唱えようとするが、構築しようとした魔法陣は途中で式が解け、何の効力も発せずに消えさる。フェリシィールは再び魔法陣を構築しようとするが先の二の舞に終わるだけ。

「魔法が、使えない……!?」

「その通りだ、使徒フェリシィール・ティンク。これはいかな貴様とはいえ、すぐに破れるものではない」

「わたくしとズィールさんを捕らえ、同時に魔法を封じる……まさか神殿魔法の類ですか!?」

「然り。アーファリム大神殿の魔力を使用した神殿魔法だ」

 フェリシィールほどの実力者でも解けないとなれば、それはもう神殿魔法クラスの拘束魔法に他ならない。囲まれているだけで体力と魔力が削られていくような気がするこの影の檻は、中からでは破壊も解呪もできない代物だ。

「しかし、これほどまで強い効果を発揮するとは……やはり奴は卓越している。確かに、足りないのなら他者から持ってこればいいだけの話だったか。魔法を使えない私が魔法を使えば、私を知っているほどに油断が生じる」

 歩み寄ってくるオーケンリッターの見たことがないような冷たい眼差しに、フェリシィールは過悲しげな光を瞳から消して問うた。

「奴とは一体誰のことを指しているのですか? コム・オーケンリッター」

「決まっているだろう? 我らが同士『狂賢者』だ」

 淡々と答えたオーケンリッターの台詞は、むしろフェリシィールにとっては予想の範疇であったろう。

 本来自分とフェリシィールにしか使えないアーファリム大神殿の魔力を使って神殿魔法を仕掛けるなど、新たなる魔法を創造する『狂賢者』ほどの実力者でなければ不可能というものだ。なら、どうやってこの場所に仕掛けたという話になるが、オーケンリッターが協力したとなれば頷けない話ではない。

 要は最初から仕組まれているということか。この場所が決戦の舞台として使われることも、二人の他に誰もいないことも全て、彼は予想し準備していた。

 コム・オーケンリッター――間違いない、彼はベアル教として使徒を狩ろうと企んでいる。

「しかし無様なものだな、ズィール・シレ。御身には是非とも、フェリシィール・ティンクを屠ってもらいたかったのだが。計算違いも甚だしかった。私が考えていたよりも貴様は弱く、何よりも私を疑いフェリシィールを殺すつもりで戦わなかった」

 見下すように自分の主を見下ろすオーケンリッターは、侮蔑も露わに倒れ伏したズィールをせせら笑う。

「だが最低限の役割は果たしてくれた。計画に邪魔なフェリシィールをここに誘き出し、隙を作ってくれたことには感謝しよう。お陰で当初の予定通り、今宵ここで二柱の使徒を確保することができる。聖地の使徒というものが全て、今宵形骸化する」

「それが、貴公らベアル教の目的か?」

「そうだ、と言ったら?」

「覚えておくがいい。聖地の使徒はこれまでがそうであったように、これからも決して消えることはないということを。そして貴公を裁くのは、この自分だということを」

 ズィールは両目を『魔眼』と変えて、影の檻を隔てた裏切りの巫女を見据える。

『魔眼』と呼ばれる魔法の発動条件の一種は、他者に自らの眼を見させるタイプと、自分の目で他者を見ることで発動するタイプとで別れる。ズィールの『時喰い』は後者の方。よって視界に収まった時点で、オーケンリッターは餌食となるはずだった。

 しかしオーケンリッターは涼しい顔で、何の変化も来さないズィールを見返していた。

「無駄だというのがわからんのか。この檻は『狂賢者』が時間をかけ、二柱の使徒を閉じこめることだけを考えて作り出したもの。その中に閉じこめられた時点で魔法は発動しない。
 ズィール・シレ。貴様の特異能力の発動条件が『魔眼』に依存していることは百も承知だ。いくら強力な特異能力といえど、発動されなければ恐くない」

 オーケンリッターの魔槍が不気味に輝きを発す。
 その輝きがオーケンリッターの巨体を下から照らし、新たな戦装束を不気味に胎動させた。

 聖地の騎士に似合わぬ漆黒の全身甲冑。不思議な光沢と禍々しい魔力をのぼらせるソレは、悪しき魔獣の王の鱗から作り出された最強の鎧。握る魔槍は、悪しきに堕ちた殺人鬼によって完成されられた『英雄種ヤドリギ』の槍。

 どちらも七年前に押収され、オーケンリッターが封印していたはずの代物だった。なんと言うことか。すでに七年前から――一度滅びたベアル教が復活したあのときから、すでに彼はベアル教の人間であったのだ。白い仮面をつけた彼はもう、自分が知るコム・オーケンリッターとは別人だった。 

「さぁ、ズィール・シレ。自分の巫女の真意すら長年に渡って見抜けなかった、己が不甲斐なさを償うときだ。自分のオラクルを優先し、周りの人間を蔑ろにしたツケをここで払ってもらおう」

「……確かに、真実を得られなかった自分には償う責任が生じるか」

 オーケンリッターが突き出した漆黒の槍の切っ先が、禍々しい魔力を渦巻かせてつぷりと影の檻を貫く。

「猛毒の魔槍たる『朽ちた血ロトゥンブラッド』の効果は知っていよう? 使徒であろうとも、魔力を多く消費した中では長くは生きられない。さぁ、どちらから先に死の瀬戸際で苦しみ続ける剥製になりたい? それとも、仲良く串刺しになりたいか?」

「どちらも遠慮したいものですが……そうですね。ではわたくしからどうぞ」

「フェリシィール?! 何を馬鹿なことを!?」

 無言で前に出たズィールの身体は、後ろから肩を掴んだフェリシィールによって軽々と押しのけられた。彼女に刻まれた傷は癒されてはいないのだ。今は軽い力であっても、足に踏ん張りがきかない。

「これは自分とオーケンリッターの問題だ。貴公に償う理由はない」

「何をおっしゃられているのですか? 使徒ズィール・シレ。償うわけないではないでしょう? どうして人の信頼を裏切った人へ、償いから首を差し出せるでしょうか? わたくしは守るためにこの身を差し出すのです。わたくしはか弱い乙女ですから、それくらいの理由でしか勇気が振り絞れませんので」

「馬鹿な、そのようなこと!」

 フェリシィールは魔法も使えぬ非力と成り下がった身でも、変わらず力強く微笑んで言った。それが意味することが自分の死だと知りつつも。

 外からの助けに一抹の希望を寄せているわけではないのは百も承知。ズィールはフェリシィールとの決闘の前に人払いをした。フェリシィールも同様だろう。使徒の命令に背ける者などいまい。この場所へと誰かが駆けつけてくることは、万が一つの可能性程度しかあり得ない。

 止めなければ。これが自分の不甲斐なさの結果だというなら、なんとしてもフェリシィールだけは助けなければ。

 ズィールは必死に足掻くが、しかし激痛に苛まれる身体は泥から抜け出ることが叶わない。

「待て。フェリシィール。自分を庇う必要など……!」

「親は子を庇うものですよ。というわけです、オーケンリッターさん。やるのでしたらわたくしからどうぞ」

「……潔いことだ。いいだろう。まずはその身を生け贄として頂く」

 コロコロと笑うフェリシィールを見るオーケンリッターの表情はわからない。ただ、彼は口元を引き締め、容赦なく黒い魔槍を突き出した。

「フェリシィール!」

 咄嗟に庇おうとしても、傷つけられたズィールの身体はぴくりとも動いてくれない。ほんの少しの距離が届かない。

「止めろ、オーケンリッター――ッ!」

 オーケンリッターの裏切りにも動揺しなかったズィールは、フェリシィールの胸元で咲いた赤い花を見て絶叫に近い悲鳴をあげ、


――クレオメルン・シレ! 命に反して参上仕る!!」


 地上を駆けた白銀の騎士の槍が、漆黒の魔槍がフェリシィールの心臓を抉る前に、間一髪のところで弾き飛ばした。

「クレオ、メルン……!?」

 誰も来ないものと思っていたところに現れたのは、自分の近衛騎士隊長であり一人娘であるクレオメルンだった。

 クレオメルンは閉じこめられたズィールを見て、倒れ込むフェリシィールを見て、そして敵として立ちはだかるオーケンリッターを見て全てを理解する。

「……申し訳ありません。今だけは、私は使徒ズィール・シレ聖猊下近衛騎士隊隊長ではなく、あなたの娘として戦わせて下さい。お叱りはあとで必ず。父様。あなたを助け出したあとに!」

「クレオメルン、まさか……?」

 娘から始めてといってもいい我が儘を聞いて、ズィールはこういうとき何と答えたらいいかわからなかった。ただ、彼女が何をしようとしているかだけ気が付いた。

「クレオメルンか。父親を心配して、命に背いてまで駆けつけていたか」

 弾き飛ばされた槍を下がって掴み取ったオーケンリッターへ、クレオメルンは頷いた。

「私は父様が間違っているとは絶対に思えなかった。何があっても、それが正義であるものと信じていたから覚悟を決めた。たとえ親友が相手でも戦う覚悟を。ですが……すまない、クー。戦いの約束の相手は、お前ではなかったようだ。
 父様はやっぱり間違っていなかった。間違っていたのは、我が師オーケンリッター――あなただった!」

 仮面と鎧で姿を隠してなお、クレオメルンは即座に目の前の相手が自分の師匠であることに気が付いた。オーケンリッターはこれまでとは違い、巫女として振る舞っていたときと同じような静かさで、自分の弟子を見つめた。

「やはりクレオ、貴様は前から私を疑っていたのだな」

「疑いたくなんてなかった。必死に否定していた! あなたは私にとって、父様と同じくらい尊敬する人だったから。でも、私は父様を守ると決めた。あなたが父様の敵なら、私は父様の娘としてあなたと戦う。他でもない、それがあなたから教わった正義であると信じて!」

 涙を一粒流しながらの宣告に、オーケンリッターは大仰に頷いた。

「……クレオメルン・シレ。我が弟子よ。貴様に対する寛容が、私の中の甘さだった。だが、貴様の介入もまた『狂賢者』の予想の範疇にある。現れたのなら、もう容赦はしない。ここで貴様も死んでもらおう」

 そのオーケンリッターの言葉を聞いたとき、ズィールの中で悔しさや自分に対する怒りよりも、彼に対する怒りや憎悪の方が上回った。

 激情のままに叫んでしまいそうになって、だけど言えなかった。

 弟子を手にかけることを宣言したオーケンリッターは仮面を外した。
 槍を構え、真正面からクレオメルンに向き直った。礼儀正しく、騎士として。

 また、クレオメルンも騎士として、オーケンリッターに礼ある構えを取る。

「クレオメルン……」

 いつのまにか自分の子供は大きくなっていたのだと、ズィールは凛々しいクレオメルンの横顔に思う。

 やはり、自分は誤っていたのか。自分の従者のことも、娘のことも、何もかも誤っていたのかも知れない。

「これが、これが神に近付くということなら、自分は……」

 大事だと思ってしまう二人の戦いを、手を出せずに見るしか叶わない自分に、ズィールは使徒ズィール・シレとしての限界を見た。


――正義は我にあり。我が正義のための聖戦を!』


 夜気を払う宣誓の声――自分の全てをかけた戦いの、それは聖殿の騎士たちが始まりの聖約。




 

     ◇◆◇


 

 

 ヒズミが指定した裏庭は、なるほど、人気のない内緒話にはふさわしい場所であった。

 パーティー会場の裏手にあり、片方には塀、もう片方には壁がそびえている。
 木々も視界を遮る形で存在しており、リオンが気を利かせて近くにいたシストラバス家の騎士に離れていてもらえば、絶好のシチュエーションだった。

「人気はないな。それで、一体話って何なんだ?」

「まぁ、待てよ。詳しい話をするにはもう一人来てもらわないといけない奴がいる。そいつが来るまでは……そうだな。雑談でもしてようじゃないか」

「はぁ?」

 一体何を話されるものかと身構えていたジュンタは、のんびりと屋敷の外壁へと背中を預けたヒズミに口を噤む。リオンと一緒にいるのを邪魔されたというのに、そこまで急ぐ必要がないのは少しいただけないと思ったのだが、それを口にするのは憚られた。

「その顔、シストラバスと離ればなれになるのが相当嫌だったみたいだな。あんな奴にそこまで惚れるなんて、酔狂にもほどがあるね」

「お前は、俺に喧嘩を売るために呼び出したのか?」

 リオンを馬鹿にする言葉を吐くヒズミに、ジュンタは我慢できず低い声を発した。

「あるいは、そうなる可能性もある。お前が素直に首を縦に振らなければね」

 ヒズミは肩をすくめただけで、悪びれた様子もなく話を続けた。リオンが先程言っていたが、ヒズミの様子が今日はどことなくいつもと違う。苛立っているのはいつもと同じだが、今日はどこか刺々しい空気を纏っている。あるいは、スイカが一緒にいないときのヒズミはいつもこうなのか。

「どうしたんだよ? ヒズミ。様子がおかしいぞ。何があったんだ?」

「別に、勘違いしていた自分が馬鹿みたいだって思っただけさ。こんなにもわかりやすいっていうのに、どうして僕は勘違いなんてしてたのか……結果的に、それが姉さんを傷つけることになった。もう僕は、姉さんをこれ以上苦しませることだけは、絶対しないって誓ったのに」

「スイカを、苦しませる?」

「そうさ。確かに姉さんはいつも笑って僕を守ってくれる強い人だ。だけど……今まで生きてきた中で辛い目にあってないわけじゃない。いや、とても辛い目に合ってるんだよ。それは姉さんをずっと苦しめてる。今もだ。
 ……そうか。そうだったのか。きっと、お前に対して強気でいられなかったのもその所為なんだな。姉さんはずっとあのことを気にしてるのか」

「……話ってスイカのことなのか? それなら一人で納得してないで相談してくれ」

 ヒズミがここまで思い悩む対象として、ジュンタは彼の姉であるスイカしか思い当たらなかった。誰が見てもヒズミはスイカのことを大切に思っている。彼に悩みがあるとしたら、まず間違いない彼女に関してだろう。

「俺ができる限りのことは手伝うぞ。お前にもスイカにも、色々と世話になったからな」

「そいつは嬉しい。話が早くて助かるね。さて、と……そろそろご到着か」

 ヒズミは背中を壁から離して、改めてジュンタに向き直った。

「それじゃあ相談を始めさせてもらうよ。なに、とても簡単なことさ」

「なっ!?」

 その背にある空間が突如として歪む。

 小さな魔力の放出と、規模に合わない違和感。
 それを気にせず背にしたまま、ヒズミは酷薄に笑う。

「頼む。お願いだ」

 現れる。虹の輪郭を纏った怪異が。
 存在してはいけない存在が、まるで最初からそこにいたように、ヒズミの背後に現れ出でる。

 水色の髪。閉じられた瞳。手に携えるのは虹色の魔書。

「どうしてお前がここにいるんだ? ディスバリエ・クインシュ!」

「お早い再会になりましたね、聖猊下」

 再会に口元を綻ばせる『狂賢者』。ディスバリエの登場に身構えるジュンタに対して、ヒズミはあくまでも変えずに告げる。

 いや、実際は様々なものが変わっていたのだろう。ジュンタが知らない間に、色々な出来事が絡み合って、ヒズミにその台詞を言わせていたのだ。

 ジュンタにベアルの盟主が誰であるかを理解させる、ヒズミが口にした一言。それは――


「サクラ。姉さんのために、僕らが故郷の観鞘市に帰るために――聖骸の生け贄になってくれないか?」







 気付いていなかったか、と聞かれれば嘘になる。

 その予感はあった。

 彼がある時を境に、あれほど必死に探し回っていた捜し物を見つけることに消極的になったことや、前以上にこの世界の人たちを遠ざけるようになったのを見てそう感じた。一番近くにいたのだ。ずっと居続けたのだ。気付かないはずがない。

 彼は、自分は上手くやれていると思っているようだが、そんなに誤魔化すのは上手ではなかった。自分と比べてしまえばあまりに拙い。

 だから自分だけじゃなく、彼の罪はすぐに多くの人に問われることになるだろう。

 彼が犯した罪はこの世界では最も許されない罪だ。
 与えられる罰はどの世界でも最も辛い罰になるだろう。

 きっと、彼はいなくなってしまう。
 自分の目の前からいなくなってしまう。今すぐにでも、彼は迷惑をかけたくないからといって一人消えてしまうだろう。自分に何も話さなかったのはそのためだ。

 それは…………嫌だ。

 自分は誤魔化すのが上手かったから、きっと彼は気付いていないだろうけど。

 自分はそんなに、強くない。
 独りぼっちに耐えられるほど、強くない。

 今だって、胸の奥で蠢くものがある。偽り続けない耐えられない痛みがある。

 この痛みに耐えられたのは、ずっと傍にあなたがいたから。
 ずっと強がっていられたのは、一人じゃなかったから。あなたが傍に、心の奥に王子様がいてくれたから。

 けれども、王子様はもういない。いいや、王子様は前よりももっと近くにいるけれど、自分は彼のお姫様ではなくなってしまった。もともとこんな身体で愛されようなんて思っていなかったけど、あの幸せそうな二人の姿を見れば何もかもが決定的だとよくわかる。

 だから、あなたまでいなくなってしまえば一人になってしまう。

 そうなったらきっと、耐えきれない。
 一人じゃこの胸の痛みに、耐えきれない。

 ……だから。ね、決めたんだ。

 たとえ裏切り者と呼ばれようとも、最後まであなたと一緒にいるって。

 それが王子様から嫌われてしまうとしても、しょうがないよ。

 だって、わたしは――


――――ヒズミの、お姉ちゃんだから」










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