第十七話  ひずみ




 まずは何から問うべきなのか。ジュンタは自分でもわかるくらい混乱した顔で押し黙るしかなかった。

 生け贄になってくれと頼んできたヒズミ。その背後に控えるディスバリエ。
 聖神教の巫女とその敵であるベアル教の人間が一緒にいるというのに一触即発の空気もなく、まるで仲間であるかのように同じ空気を吸っている。

 つまり、事実二人は仲間なのだろう。ヒズミとディスバリエは仲間なのだ。

 それに気付かないわけにはいかないだろう。現実味のなさに狼狽すらできないが、それが真実だというのなら質問すべきはこちらの方か。

「……どういう、ことだ? 俺が、生け贄になるってのは?」

 口にしてから初めて自分が動揺していることに気付いた。

 ジュンタの掠れた声を聞き、ヒズミは目を細めて手を挙げる。
 その合図に反応して、ディスバリエがヒズミの横へと出た。その手に虹の光を放つ、白い背表紙の本を持って。

「サクラ。お前、シストラバスと一緒にいるんだから、聖骸聖典がどんなものかは知ってるよな?」

「ああ。使徒が死んだあと、その亡骸が変わってなる本のことだろ? その使徒が持っていた特異能力が使えるっていう」

「その通りだ。つまり魔法の力さえ超える奇跡を起こす書は、かつての使徒の数だけ存在するってことになるよな

 ジュンタが思い出すのは、聖廟で見た聖骸聖典であり、リオンが持つ不死鳥の聖骸聖典。果たしてヒズミが思う聖骸聖典は何なのか、苦々しい顔で彼は話を続ける。

「だけど奇跡には相応の代償と資格が必要だ。
 聖骸聖典を扱える資格は、その聖骸の元になった使徒の血縁か、あるいは同じ使徒であること」

「代償は、使った者の命」

 かつて『不死鳥聖典』を使ったあとのことを、ジュンタはそれほど鮮明に覚えているわけではない。確かに竜滅の炎を招いた記憶はあるが、自分の身体が炎の包まれた段階で意識が途切れている。けれども、あれは紛れもない『死』だった。逃れようのない絶対の『死』であった。

「つまり聖骸聖典ってのは、命を代償として引き起こされる奇跡の再現なんだよ。代々の竜滅姫がその身を世界に捧げて奇跡を希うように、聖骸聖典は生け贄なしでは機能しない。どれほど讃えられた使徒の聖骸であっても、どれほど強力な奇跡だったとしても、欲するものは生け贄だ!」

 怒りの念を奮起させるヒズミへと、ディスバリエは黙って恭しく本を差し出した。

 白い背表紙に金で狼とも犬とも見える獣が描かれた本。その本は、リオンが持っている『不死鳥聖典』とよく似ていた。

「サクラ。お前は僕と姉さんがずっと捜し物をしてたことを知ってるよな?」

「他の人には見られたくない、とても大事なもの、だよな? フェリシィールさんたちにも黙って神殿を飛び出すくらいの」

「正確には、その使徒たちには絶対に知られちゃいけない探しものだったのさ。なぜなら使徒たちもそれを探していて、見つけたら確実に『聖廟の泉』へ奉納される。それじゃダメなんだ」

「じゃあ、二人が探してたのは――

「聖骸聖典。それもあらゆる奇跡を引き起こす、歴史に消えたはずの『聖獣聖典』――『始祖姫』メロディア・ホワイトグレイルの聖骸聖典だ」

 ジュンタがスイカとヒズミと出会ったとき、二人が必死に探していたもの。その正体は『始祖姫』が一柱、メロディアの聖骸聖典だった。

『始祖姫』の聖骸聖典はシストラバスが代々受け継いできた『不死鳥聖典』以外行方不明だというが、それを二人は必死に探していたのだ。魔法の開祖、神秘を生み出すという奇跡を可能にしたメロディアの特異能力を手に入れるために。

 だけど、手に入れても機動には犠牲が必要だ。メロディアの子孫がいない以上、使徒という犠牲が。

「まさか……!」

 ジュンタは虹色の光を――メロディアが使っていたという光を発する本と、ヒズミの奇跡を語るには苦々しすぎる顔色を見やって気付く。

「気付いたようだな。そうさ。僕はついに『聖獣聖典』を見つけた」

 ヒズミは自分の手の中にある捜し物――『聖獣聖典』を指で撫でながら、

「だけど、姉さんには言えない。見つけただなんて絶対に。見つけただなんて言ったら姉さんは使ってしまう。奇跡を、代償を払って起こしてしまう。それが、姉さんの願いだから」

『聖獣聖典』を探すということは、これを使って奇跡を願うことであり、探していたスイカが使徒である以上、代償となる存在は決まり切っていた。

 見つけてなおヒズミはスイカには言えない。引き起こす奇跡がどれほど手に入れたいものだとしても――あまりにも代償が大きすぎる。

「姉さんは僕に、かつて言った。大丈夫だ、って。絶対にお姉ちゃんが、世界を超える奇跡だって起こす『聖獣聖典』を手に入れて、僕を故郷へ帰してみせるから、って。……だけど、姉さんは一度だって僕の前で言ったことがない」

 スイカという少女は、ヒズミに対して優しすぎる。

「一緒に故郷へ戻ろう、とは」

 自分を犠牲にしてまで救おうと、そう考えてしまうほどに。

「最初から、『聖獣聖典』を使って自分が故郷へ戻る可能性なんて、姉さんは考えてなかったんだ。使徒になって手に入れた、世界中の知識を漁って見つけた唯一の現実回帰の方法。それを用いて姉さんが考えついたのは、自分を犠牲にして僕だけを故郷へ戻すって方法だった。自分だって故郷へ戻りたいのに、父さんと母さんにもう一度会いたいはずなのに……」

「ヒズミ……」

「だから、僕は違法に手を出した。正法の限界が姉さんを犠牲にする『聖獣聖典』っていうなら、禁じられた邪法にはそれ以外の手段があるんじゃないかって。姉さん一人が『聖獣聖典』を手に入れないよう捜し物に付き合いながら、あわよくば先に見つけて隠してしまおうって考えながら、滅びかけたベアル教を立て直して、そこにあった邪法の知識を漁り続けた」

「それが、お前がベアル教に関わった理由なんだな。ヒズミ」

 姉を犠牲にしなくても故郷に戻れる、二人一緒に両親と会える、そんな優しい方法をヒズミは禁じられた方法に頼った。それが罪に問われようとも、人知れず『改革派』という形で開祖ベアルたちが残した知識を手に入れようとしたのだ。

 スイカは言った。聖神教に攻撃しているのはベアル教『純血派』だと。 
 ディスバリエは言った。ベアル教『改革派』は何の罪にも未だ手を染めていないのだと。

 当たり前か。ヒズミにとってベアル教は姉を助け出すための知識の倉であり、聖神教を滅ぼすための道具ではなかった。『盟主』と呼ばれた存在が公にならなかったのも当然だ。誰かに示す必要も、行動も起こす必要などなかった。ベアル教『改革派』の盟主にとって、ベアル教とは自分の知らない知識を蓄えた本に過ぎなかったのだから。

「そうさ。でも、ダメだった。どれだけ探しても見つからない。見つからなかった。邪法の結論も正法と一緒。『聖獣聖典』が、やっぱり限界だった」

 けれども今ベアル教『改革派』は聖神教に牙を剥いている。過去の知識ではついぞ、盟主と呼ばれるようになった少年は姉を助ける方法を見出せなかったのだ。

「諦めるしかないのかと思った。姉さんを、じゃない。故郷へ戻ることを。姉さんは徐々に『聖骸聖典』へと近づいていく。もう時間もない。新しい知識を見つける時間は、もうなかったんだ」

「ならば答えは簡単です。新たな知識が見つからないのなら、既存のやり方を講じればいいだけのこと。最終目的を主眼に置くなら、まだ別の方法は存在したのですから」

 盟主が答えを見出したのは、新たなる息吹に。『改革派』は招いてしまった。その内に、邪法について最高の英知を持つ狂った賢者を。

「そして僕は見つけた。『聖獣聖典』を携えた、この知識を」

「あたくしは見出した。ベアル教を手にした、この可能性に」

 出会い、求める結果のために互いを利用し合うことを決めた。

『盟主』ヒズミ・アントネッリと『狂賢者』ディスバリエ・クインシュ。
 それは無害なベアル教『改革派』が変貌を遂げた瞬間であり、この世界に迷い込んだ迷子にとっての希望が生まれた瞬間だった。

「ヒズミ。それじゃあお前が本当に、ベアル教の新たな盟主なんだな?」

「そうだよ、サクラ。そして僕らベアル教の目的は二つ。生け贄をもって奇跡を起こす『聖骸聖典』を主眼においた目的は二つ」

「一つはあたくしたちの目的。ドラゴンの力を手に入れ世界を救うという目的」

「一つは僕の目的。何の柵もない形で、姉さんと一緒に故郷へ戻るという目的」

「そのためには、最低二柱の生け贄が必要」

「姉さんを除いた使徒が二柱、必要なんだよ。サクラ」

 それが最初のヒズミの願いに続いていた。ヒズミが『狂賢者』との出会いに見出した方法とは、スイカに『聖骸聖典』を使わせるのではなく、他の使徒を生け贄として奇跡の代償にするという方法だったのだ。

 ジュンタは使徒。ヒズミの求める生け贄に合致している。だからこそのあの発言。

「喜べよ。お前は姉さんのために死ねるんだから。僕らを助けてくれるっていうなら、無抵抗で捕まってくれ」

「ぐっ」

 ヒズミは『聖獣聖典』をディスバリエの手に預けると、懐から棒状のものを取り出す。それは両端から炎のような金属を延ばし、すぐさま弓の形に変形した。

黒弦イヴァーデ――ヒズミの戦意の証であった。

 対してジュンタは手ぶら。まさかヒズミがベアルの盟主などと思い至るはずもなく、パーティーに向かう際双剣も自室に起きっぱなしになっていた。前回の反省を踏まえて代わりに短剣を隠し持ってはいるが、今ここで引き抜くことは躊躇われた。

「ヒズミ……本気、なのか?」

「命乞いか? 生憎と、僕はそれに聞く耳をもつ気はないね。本気、なんだよ」

 炎の弦を引き絞り、魔力の集中と共に必中の矢を生み出すヒズミ。『黒弦イヴァーデ』の特異性は必中。この距離で対象を外すはずがなく、ジュンタの身体能力と反射神経では避けられない。

「安心しろよ。今はまだ命を獲る気はない。一応お前は予備扱いだ。生け贄の優先順位は使徒フェリシィールや使徒ズィールが先だ。お前には、昔姉さんを助けられた恩があるからな」

「スイカを? だけど、俺は」

「おいおい、今更故郷が違うからなんて言うなよ? 姉さんは僕には何でも話してくれた。なんでもだ。昔、自分が助けられた王子様のことだって、嫌っていうほど聞かされたよ。たとえお前が覚えていなくても、忘れたとしても、それでも姉さんはお前のことを忘れてない。絶対に忘れない」

『僕らが故郷の観鞘市に帰るために』――ヒズミはそう言った。

 ジュンタは異邦者であり、同じ出身はサネアツ以外いるはずがない。けれども、スイカとヒズミが同じく地球から招かれた異邦者だとしたら、同じ故郷である可能性はある。

(そういうことなのか? スイカもヒズミも俺と同じ状況にいる。いきなり故郷からこの世界に連れてこられた異邦者っていう立ち位置に)

 ならば、ジュンタにはヒズミの気持ちがわかる。

 いきなり理不尽に故郷を奪われたのだ。故郷を渇望する想いは、またジュンタもかつて抱いたものだ。故郷の地で真実を知った今でも微かに抱く望郷の念を、どうして同じ異邦者が否定できようか?

 だけど、その犠牲がフェリシィールでありズィールであり、また自分であるとしたら……黙って引き下がることもできない。

「くそっ!」

 ジュンタは僅かでも距離をとって、応対の姿勢を取る。しかし心の方は冷静に応対できそうもなかった。

 頭の中がぐしゃぐしゃだ。ヒズミが盟主だったこと。スイカたちが異邦者だったこと。それを受け入れた先の問題。自分が何をすべきか、どうすればいいのか、それを咄嗟に考えろだなんて無理な話。

 だが――ヒズミは答えが出るまで待ってはくれなかった。

「悪いがサクラ。両手足は奪ってく。首尾良く使徒二柱が手に入れば、お前は死なないで済む。今はそれを、必死に神へ祈ってろ」

 弦から離される矢は発射後すぐさま四つに分かれた。それぞれ必中の性能をもって、ジュンタの両手足へと駆け抜ける。反射的に足首に隠してた短剣を抜いたが、盾にできる箇所は一つのみ。

 どれを選ぶか……ジュンタが咄嗟に選んだのは利き腕である右腕だった。

「がっ……!」

「抵抗は無駄だよ。お前がここに一人で来た時点で」

 ヒズミの矢はジュンタの両足と左手の平を貫通し、傷跡を燃やして固めることにより一方的に機能を奪い取った。容赦のない攻撃に膝をついたジュンタは、いきなり突きつけられた理不尽な真実に悪態づく。

「俺に……祈る神なんて、いないんだけどな」

「ああ、僕もだよ」

黒弦イヴァーデ』を下ろしたヒズミは冷たくも温かくもない、ただ固い決意の瞳で見下ろしてきた。

 混濁する思考と痛む身体。喜ばしいリオンの誕生日パーティーのはずなのに、どうしてこんなことになったのか。神様がいるのだとしたら、それはとびきり非道な奴だろう。

「ディスバリエ。こいつを城へと連れて行く。孔を開け」

「ご随意に、盟主様」

 ヒズミの命令に従い、ディスバリエが『聖獣聖典』の紐を解き、一言。


――奇跡を叶える詩を知る者


 蕩々と溢れる虹の雪崩。
 紡がれた聖句は奇跡の序章。

「『聖獣聖典』……メロディアの聖句……」

 目の前に再演される奇跡を目の当たりにして、倒れたジュンタは呆然とディスバリエを見るしかなかった。

 その視線に気付いたのか、ヒズミは「ああ」と頷いた。

「ディスバリエが聖骸聖典を使っていることに驚いているのか? 安心しろよ。僕が言ったことは全部本当さ」

「ええ。聖骸聖典にはその力の行使に二段階あり、代償と資格を欲するのは、使徒の奇跡を再現する『神威執行』とあたくしたちが呼んでいる力のみ。リオン・シストラバスの持つ『不死鳥聖典』が剣の状態で強い『封印』の力を持つように、『聖獣聖典』は至高の魔道書としての力を有しているのです。それを使えば、ほら、このように」

 手に持った『聖獣聖典』を何もない空間へ向けて突き出すディスバリエ。すると拡散していた虹の光に指向性が生まれ、ディスバリエの腕を通って何もない空間に歪みを生み出していく。

『聖獣聖典』を中心として開かれるのは大きな虚空。それはかつてジュンタがこの異世界へと来るときに見た門の縮小版であり、フェリシィールがかつて開いた『封印の地』への門と酷似していた。

「『始祖姫』メロディア・ホワイトグレイルの本質とは、世界に異点を穿つことにあり。さぁ、お招き致しましょう、聖猊下」

「ああ。本当に、ちくしょうだ」

 ジュンタの身体が虹色の光に包まれたかと思ったら、身体が地面を離れ、自分の意志とは別に浮き上がる。

 すぐ目の前には灰色の荒野を映す、鏡のような世界に空いた孔。

「我々ベアル教が構築したうち捨てられた神殿――『ユニオンズ・ベル』へ」

 そこへと吸い込まれるにようにして、ジュンタはこの世界から消えた。 


――ダメ!!」


 その身体に、後ろから飛びついて抱きついた少女がいた。

「なっ!?」

 少女が持っていた武器を投げる。矢のように迸った一撃が、咄嗟に反応できなかったディスバリエの手から『聖獣聖典』を落とした

「ま、待って!」

 ヒズミが悲鳴じみた驚きの声をあげるが、時すでに遅し。
 最後にディスバリエの手から離れた『聖獣聖典』を飲み込んだ虹の門は、何の違和感も残さずシストラバス邸の庭から消え去った。




 

「ジュンタ!」

 自分は気を失っていたのか、それとも視界を奪われていただけなのか、ジュンタはしっかりと握った手の感触と声にはっとなって目を見開いた。

 少し痛む瞳は、はっきりと目の前の光景を映し出す。
 灰色の空をバックに、そこには真紅の髪と瞳を持った少女が自分を心配そうな瞳で見つめていた。

「良かった、ジュンタ。どこかおかしなところはありません?」

「いや、身体は大丈夫だけど、ここはどこだ? どうしてリオンがここに?」

「あなたが心配だったからに決まってますわよ」

 リオンは握った手を胸に寄せて、本当に良かったと安堵の笑みを浮かべている。
 ジュンタは起きあがって、リオンの態度に調子が狂うと首の後ろに触れつつ、辺りを見回した。

 いきなりの『狂賢者』による『聖獣聖典』を用いた魔法行使。かけられた魔法を味わった感触は、クーに召喚される感覚によく似ていた。空間を移動する、あの何とも形容しがたい感覚だ。

「そうか。最後に背中に感じたのは、リオンが飛びついてきた感触だったのか。それにここは……」

 リオンと手を繋いだまま上半身を起こしたジュンタは、そこにあった色のない光景を見て、自分たちがどこにいるのかを否応なく思い知ることになった。

「ここは『封印の地』……だよな」

 灰色の空に灰色の大地。世界から見捨てられ、忘れ去られた不毛の大地。かつてクーを助けるために挑んだ『アーファリムの封印の地』と、そこはまったく変わらぬ景観。

「『封印の地』へは、フェリシィールさんかズィールさんが道を通さないといけないはずなのに。『聖獣聖典』はそれすら可能にしているのか」

「『聖獣聖典』はこの世に存在する全ての魔法の原典と聞きますわ。可能だとしても、そう驚く必要はありませんわ」

「一番危険な奴に、一番危険な武器が渡ったってことか。そういえば、ディスバリエやヒズミは一緒にはいないのか?」

「ええ、ディスバリエ・クインシュが追ってくることはあり得ません。ご覧の通り、『聖獣聖典』がここにありますもの。どうやら上手く取り落とさせることができたみたいですわね」

 リオンは近くに転がっていた『聖獣聖典』を拾い上げると、感慨深そうにそれを握りしめた。

「ひとまず私が保管しておきますわ。盗まれては大事ですもの」

「頼む。これは好機だからな。今はどうにかしてここを脱出しないと。何か方法はないか? 下手にここに居続けると、また前みたいにドラゴンに遭遇しかねつあっ……!」

「ジュンタ!」

 リオンに手を借りて起きようとしたジュンタは、途中痛みでバランスを崩した。
 ヒズミに射抜かれた両足と左手は未だ力が入らない状態。一人で起きあがることもできない。

「大丈夫だ。これくらい、なんとか」

「そんな傷で自力で立ち上がるのは無理です! 私が肩を貸しますから!」

 無理をして立ち上がろうとするジュンタを叱咤して、リオンはしゃがみ込んで肩を貸す。柔らかな胸が脇腹にあたるくらい密着され助け起こされたことで、何とかジュンタは起きあがることができた。

「……悪い」

「言いっこなしですわ。さぁ、行きましょう」

「ああ。とりあえずアーファリム大神殿がある位置まで移動するぞ」

「わかりましたわ」

 リオンに肩を貸してもらったまま、ゆっくりと歩き出す。

 目的地はひとまずアーファリム大神殿だ。もしもフェリシィールあたりがこの状況をどうにか知ったとして、元の世界への門はあそこに開かれるだろう。別の脱出案としてはクーの[召喚魔法]があるが、リオンが一緒の今それは難しいか。

 だが、難しさでいえば無事にアーファリム大神殿がある場所まで歩いていくことの方が上か。

(ヒズミの奴、本気だったな)

 ジュンタの傷は深い。リオンに治癒魔法の心得がない以上、使えるのは右腕一本だ。ここが『封印の地』であり、魔獣が山ほど生息している場所である以上戦闘は必死だ。いくらリオンが強いといっても、自分が足手まといの状態でどれほど戦えるか。かといって、頑なな横顔を見ると自分をおいておけといっても聞きそうにない。

(どうにかしないといけない。ヒズミが盟主である以上、このまま捨て置かれておくとも思えない)

 ヒズミのこと。スイカのことに加えて、今度は脱出の方法も考えないといけない。すでにジュンタの思考は飽和状態だった。それでも取り乱したりはできないのは、意中の女の子の前だからか。

「いついかなる時も格好良く」

 自己暗示をかけるようそう師の心得を呟いて、ジュンタは自分を叱咤する。

 わからなくても考えないといけない。
 考えて、どうにかしないといけない。

 それだけわかっているなら、きっと、まだ大丈夫だ。

「大丈夫、だ」

 ジュンタは隣にいるリオンを安心させるように、勇ましく唯一無事な右手に短剣を握った。

 どこからともなく集まってきた無数の魔獣。鮮血の瞳を爛々と輝かせる群れ。
 手負いの身だが、守るべき人がそこにいるのならきっと大丈夫。格好良さとはつまりそういうことで、自分にとっての強さとはそういうことなのだから。

 ジュンタは自分を庇おうと前に出た、愛剣の代わりに『聖獣聖典』を握るリオンの横へと並び立つ。

 ……どうしてだか、至近距離にあるリオンの髪から、蜜柑の香りがした。


 



       ◇◆◇






 ズィールは痛む身体を根性で押さえ込み、影の檻の中で倒れたフェリシィールに近寄った。

「大丈夫か? フェリシィール」

「く、うっ」

 胸から血を流し倒れ込んだフェリシィールは、額に夥しい汗を流し、苦悶の表情を浮かべていた。クレオメルンが現れたのと豊かな乳房のお陰で槍が間一髪心臓を抉らずに済んだものの、心臓に近い胸の傷はかなり深い。加えて、傷をつけたのが『朽ちた血ロトゥンブラッド』であるのがまずい。

 かなりの量の毒素がすでに傷口からフェリシィールの体内へと入りこんでいる。苦痛も常人ではショック死しかねない激痛だろうが、何とか鉄の意志でフェリシィールは堪えていた。

「せめて、傷だけでも」

 治癒の魔法を使えぬズィールだったが、傷口を物理的に塞ぐことくらいは可能だった。

「魔法は……檻を壊せるほどの魔法は使えず、普通に使うのも激痛とかなりの集中を伴う、か」

 魔法が使えない現状、常はしない応急処置の方法をとるしかない。フェリシィールの身体を頭を微かに上げ、水平に近い状態で抱き起こし、身につけていたマントを脱いで傷口に当てる。その際フェリシィールは眉を大きく動かしたが、痛みが逆に気付け薬となって震える瞼を開いた。

「……ズィール、さん…………?」

「無事か? フェリシィール」

「ええ、そうですね。何とか無事のようです。殿方に荒々しく胸を鷲掴みにされている以外は」

「このようなときに冗談は止せ。無駄に力が入ってしまう」

「まぁ」

 ほんのりと笑みを浮かべたフェリシィールは、視線を檻の外へと向けた。

 つられてズィールもそちらへ視線を送る。そこではオーケンリッターとクレオメルンが、じっとお互いにらみ合っていた。

「……ズィールさん。わたくしのことでしたら心配は無用です。この程度で死ぬわたくしではありません。あなたはクレオメルンさんの戦いを見守るべきです」

「しかし」

「しかしも、でももなしです。胸を触っているのは許してあげますから。けれど……ふふっ、覚えていませんか? 昔のあなたは、それはもう頻繁にわたくしの胸に触りに来たものですよ。よほど母性というものに憧れていたのか、それとも」

 震える指でズィールの唇を押さえたフェリシィールは、冗談のあと少しだけ真剣な顔で言った。

「あそこにいるのはあなたの巫女と娘です。あなたがどう思っても、あそこにいるのはあなたの家族です。あなたが使徒が名乗るのならば――それを見守るのはズィール・シレの役割であり、あなたがあなたである以上決して目を背けてはいけないものです」

「フェリシィール……」

「檻からの脱出でしたらわたくしに任せてください。少し休んだあと、すぐに、でも……」

 フェリシィールの指が力なく離れて、開いていた瞼が閉じていく。荒い呼吸のまま、彼女はそのまま深い眠りに落ちた。

「……了解した」

 ズィールはフェリシィールが残した意志に従い、檻の外での戦いに目を向けた。

 逸らすことの許されない決闘が今―― 始まった。


 



「行くぞッ!」

 夜気を打ち払う鬼神の咆哮と、老いも衰えも感じさせない槍の刺突。

 一瞬の内に幾たびも突きつけられる死の点は、並の戦闘者では身体に原型すら止めないほど穴が空いていたことだろう。

 だが、嵐のような槍の攻撃を払いのけるのは、誰よりもその死の突きを体験した愛弟子だった。鬼神が強いのならば、その弟子がすぐにやられるはずもない。

「はぁッ!」

 初撃を避けたあと、クレオメルンは一気に攻勢へ出る。

 点での刺突。線での薙ぎ払い。聖殿騎士団の手本とも呼べる槍術の腕を振るい、見せつけるクレオメルンだが、それでもオーケンリッターはその上を一回りも二回りもいっていた。クレオメルンが放つ槍の攻撃は、ことごとくオーケンリッターの槍の前に打ち払われる。

 それも当然か。コム・オーケンリッターはクレオメルン・シレの騎士としての手本である。師と呼ぶべき相手を越えるには、まだクレオメルンは弱く、オーケンリッターという騎士は強すぎた。

 身に纏った漆黒の鎧の重量を感じさせない、力強くも素早い身のこなしから、ここでオーケンリッターはお手並み拝見と牽制に出る。

 時に槍で弾き、時にガントレットを纏った腕で払って攻撃を受け止めていたオーケンリッターは、勢いよく手にする毒の槍で薙ぎ払い、刺突を左に打ち払うと、そのままの勢いで猛然と突きを放つ。

 攻撃を先に放ったクレオメルンからすれば、自分の攻撃を叩き付けられるようにして弾かれ、バランスを崩されたところに返礼の切っ先だ。加え、槍と槍との戦いで常套手段といえたカウンターの一つだが、それでも『鬼神』の錬度をもって放たれた一撃は紛れもない必中――

「くっ!」

 それでもクレオメルンが間一髪避けることに成功したのは、オーケンリッターの握る槍が『朽ちた血ロトゥンブラッド――強力な毒を持つ呪われた魔槍であり、攻撃を受けてはいけないと前戦ったことから身構えていたからであり、相手がほぼ毎日のように槍を合わせていた相手であったからだった。

「やはり、避けるか。たとえ力量の差が広く開いていようと、貴様はこの世で一番私に対処する方法を経験値として積んでいる人間だからな」

 オーケンリッターは突きだした槍を素早く戻し、悠々と歩いて距離を取る。
 クレオメルンは緊張を解かず、構え直すのに精一杯で追撃を行ったりはできなかった。

「だが、以前にも増して技が冴えているな。自主訓練に没頭していたのは知っていたが、僅かな期間でここまで力を上げてくるとは。どうやら相当私が許せないらしいな、クレオ」

「…………」

「語らぬ、か。そう、敵に要らぬ情けなどかけるな。ただ、立ちはだかったものはことごとく倒せ!」

 様子見の姿勢から一転、オーケンリッターがここで始めて本気の攻勢に出る。

 薄闇の中泥が跳ね、そのただ中に毒々しい魔力が殺意の棘を奔らせる。
 まっすぐ前に。必ず前に。決して左右にぶれず、後ろに勢いを残さず、全身全霊をもって前へと突き進む魔槍は、下段よりクレオメルンの頭蓋を砕かんと迫る。

 先の質問、別にクレオメルンは答えたくなかったわけではなかった。

 むしろ答えたかった。確かに父を裏切ったオーケンリッターには怒りを抱いているし、彼の言葉は強く胸に突き刺さる。しかしクレオメルンは知っていた。何の理由もなく、オーケンリッターが反旗を翻すような人間ではないと。
 
 世間一般ではどうであるか定かではないが、彼としても強い理由が、求めがあるのだろう。その結果がベアル教。クレオメルンはオーケンリッターの裏切りが許せなかったが、それでもどこかで嫌いになりきれない自分を自覚していた。

 だから、質問には答えなかったのではなく、正確にいえば答えられなかった。

 何よりもオーケンリッターの腕を知っていた弟子だから、未熟な自分が声を発すという隙を見せれば、一瞬で心臓を射抜かれるとわかっていたのだ。自分とオーケンリッターの力の差を理解して、極限の集中の中で思考だけが動いていた。

 迸る魔の閃光。あらゆる全てを腐食する毒の棘。
 
 頭蓋に迫る刹那の間、クレオメルンは腕を動かし、首を動かし、腰を動かし、足を動かして前へと進んでいた。

 攻撃を避けつつ前進する。後退などありえない。
 戦意と意志は誇りの先にだけ乗せて、前へ前へと突き進むのみ。

 そこからは白と黒が乱れる攻防。互いに相手を間合いに入れての刺突の突き合い、避け合い。
 互いに互い、手の内を把握しているからこその絶技が飛び交い、本気で相手の命を奪うために火花は散る。

 感情はこの瞬間には存在しない。ただ脳裏には相手を打ち砕く思考のみ。

 いかにして倒すか。いかにして避けるか。
 戦場のルールは『勝て』というルールのみ。相手に勝つために、クレオメルンは師弟の縛りを抜いて白銀を奔らせた。

 そうして一瞬がいくつも積み重なったあと、二人は同時に離れる。

 幾重にも敵を穿とうと狙いを定めた槍の切っ先――果たして、血で濡れていたのはオーケンリッターの持つ漆黒の魔槍の方だった。

「クレオメルン!」

「ぁああ!」

 ガクリ、と太股から流れ出た血と入り込んだ毒素に、クレオメルンはたまらず膝をつきそうになる。けれど囚われのズィールが声をあげ、戦いの中どこかへ追いやられていた守るべき存在の、支えるべき大切な人の存在を思い出し、その手前で何とか膝だけはつかないよう堪えた。

(父様の前だけでは、無様な格好を見せたくないといつも思っているのに……なんでだろう。いつだって、私の無様な姿を一番多く見せているのは父様だ)

 傍目からは同等の攻防と見られていたのは外見だけ。元より前提条件が違いすぎた。同等の攻防であったなら、全ての攻撃を弾く防御力を有し、一撃で相手に戦闘不能のダメージを与えるオーケンリッターが有利に決まっている。結局当然の如く膝をつきかけた自分に、クレオメルンは自嘲気味に笑うしかなかった。

「ここまでだな、クレオメルン・シレ」

 傷一つ無いオーケンリッターが、頭を垂れるクレオメルンの許へと近付く。

「よくぞ若輩の身で戦ったと褒めてやりたいところだが、もはや貴様と私は師弟でもなんでもない」

「私はあなたに、たとえ敵でも勇敢に戦った相手なら、礼節を尽くせと教えられた」

「……そうだったな」

 敵となった自分が裏切った弟子を褒めることが酷く滑稽に見えたのか、オーケンリッターは滅多に見せない笑みを口元に浮かべ、『朽ちた血ロトゥンブラッド』を掲げた。

「では、褒めよう。我が敵よ。敵わぬと知りつつも、よくぞ仕えるべき主のため、大事な父のために戦った。せめてもの慈悲だ。苦しまぬよう、その心臓を一撃でもらい受けよう」

「止めろ、オーケンリッター! 貴様、クレオメルンにまで手をかけようとするか!」

 敗北を噛み締めて見上げるクレオメルンの視線を受け止めるオーケンリッターに、再びズィールから怒りの声が飛ぶ。先程よりも強く、熱く、それは憎悪すら込められた叫び声だった。

「先程からそればかりだな、貴様は。それを口にする度に、自分の無力さに苛まれることと気付かぬのか?」

「気付かぬはずがない。自分はこれほどまでに自分の無力さを自覚したことなどない。だが、言わずにはいられない。
 オーケンリッター。少しでも我が娘に傷を付けてみろ。もはや貴様には慈悲の一つもくれてやらん。五臓六腑全てぶちまけ、その存在ごと喰らってやる!」

「父様……」

 クレオメルンは今まさにオーケンリッターの槍が自分の命を奪おうとしている、こんな状況でありながら父を見て驚いた。

 歯をむき出しにして金色の瞳を輝かせるズィールの姿など、想像もしたことがなかった。しかもその怒りの理由がこの自分――無様なところしか見せない不肖の娘のためであると、実際に目の当たりにしてなお信じられなかった。

 それはまたオーケンリッターも同様なのか、

「いかなるときも世界を見渡し、原初の『正義』を目指す翡翠の使徒――『天秤』のズィールとは思えない野蛮な言葉だな。それほどまでに娘が大事か」

 敵としての冷酷な姿でなく、騎士としての礼儀ある姿でもない、静かな怒りをたたえた姿でズィールの睨み返していた。
 
 ズィールは、質問に答えない。

「はっ、何も答えないか。当然だな。自らのオラクルのため、娘どころか全てを捨てようとしていた獣が、今更親子愛などと言えるはずがあるまい。
 だがズィール、本当は守りたいのだろう? 救いたいだろう? 大事な一人娘だ。大切でないはずがない。故に――

 そこにあるのは失望と憤怒。娘が大事かと尋ねた質問に、何も返ってこなかったことにオーケンリッターは失望し、怒って槍を大きく振り上げた。

「貴様は娘の死に目をその眼で見ることになる! 大事だからこそ切り捨てた、自分の愚かさを悔いながらなァ!」

「父様を――馬鹿にするなァアアッ!!」

 失望と憤怒を殺意に変えて解き放とうとした一撃を、打ち払ったのはオーケンリッターを越えた憤怒の一撃。

 大きく振り上げた分空いた時間。ここぞというしかないタイミングで、クレオメルンが両手で自分の槍の柄を持って持ち上げ、狙い違わずオーケンリッターを振り下ろした切っ先をはね除けた。

 予想していない抵抗にあったオーケンリッターがバランスを崩した瞬間、素早くクレオメルンは距離を取る。ブルーの瞳は怒りに強く燃え、全身に鬼気に似た気配を纏う。

「あなたの敵は私だ、コム・オーケンリッター! あなたの相手はクレオメルン・シレだ! 目を逸らすな。父様を貶すな。次に私の前で父様を汚せば、その首もはやないものと知れ!」

「だが、貴様の父は娘である貴様を――

「くどい! 父様が何を考えているか私にはわからないし、あなたが何を考えて裏切ったのかも知らない! だが私は父様のことが大切なのだ! それだけで私は今あなたに槍の切っ先を向けている。ならば、あなたの相手は私だろう? それを間違えるな!」

 クレオメルンはオーケンリッターのことを嫌いになりきれなかった。だが、それでも大好きな父を悪く言われて、怒らぬ子などいやしない。

 彼が口にした意味はわからない。オラクルのことはまったく理解できていない。それでも、今痛いほどに理解した。父親であるズィールが自分のことをちゃんと考えてくれているのだと理解した。

(父様は、こんなにも私のことを考えていてくれたんだ。それが世間の父親とは違うものでも、確かに私のことを……)

 思い返せば、褒められたことこそないが、ズィールの優しさに触れたことはあったのではないか。

 自分が見過ごしていただけで、ズィールは気にしてくれていた。そのために、きっと自分と同じように心底から嫌いになれていないオーケンリッターを怒鳴ってくれるほどに、彼は思っていてくれた。

 そこにあるのが親子愛かはわからなくとも、気のせいかも知れなくても、それでも今のクレオメルンには十分だった。

(褒めて欲しかった。頭を撫でて欲しかった。よくがんばったと、そう言ってくれるだけで良いと思っていた。……でも違った)

 ズィールに背を向け、無言で槍を構え直すオーケンリッターに、クレオメルンは再び槍の切っ先を向ける。

 直線上の向こうには、ズィールがいた。誰よりも認めて欲しくて――見守っていて欲しい父親がいた。

(私は、本当は娘として愛して欲しかったんだ。いつだって父様の前で無様な姿を見せていたのは、きっと甘えていたから。私が甘えたかったから。守りたいのは本当でも、支えたいのは嘘ではなくても、それよりも私は、父様に守られて、支えて欲しかったんだ)

 いつだって傍にいて守りたいなどと、その責務を傍にいて支えたいなどと、嘘偽りも甚だしい。本当は寂しくて傍に居ようとしただけだった。何てことはない。まだまだクレオメルン・シレは子供だったのだ。

 だから――

「父様。一つお願いしてもいいでしょうか?」

 クレオメルンは太股から流れ出る血液と比例して急速感覚を失っていく身体で、オーケンリッター越しにズィールを見つめた。

 そして口にした。影の壁に張り付いてこちらを見る父親に初めて、ただのクレオメルン・シレとして、我が儘を。

「もしも今宵、少しでもあなたの役に立てたのなら、どうか私のことを褒めて下さい」

「クレオッ!!」

「私はあなたの娘で、本当に良かった」

 いつか呼ばれた愛称を約束の肯定と受け止めて、クレオメルンは動かない足で駆け出した。

 オーケンリッターは酷く悲しそうな、寂しそうな顔で、『朽ちた血ロトゥンブラッド』を引き絞った。






       ◇◆◇






 リオン・シストラバスの誕生日パーティー会場は、ダンスも終わり談笑の時間となっていた。静かな音楽が奏でられる中、各自が思い思いの相手と語り合い、今日という日を楽しんでいる。

 そんな中へと子猫が一匹潜り込んだとしても、誰の目に留まることもなかった。

『総帥。報告です』

 たとえそれが首に文をつけた、威圧感のある猫だったとしてもだ。

「確か、この猫は……?」

「俺の客だよ、ユース」

 パーティーの仕切りを任されていたユースの肩の上に居座っていたサネアツは、猫が現れたことに驚く彼女にそう言って、尋ねてきたトルネオの前へと降り立った。

『ご苦労、トルネオ。いつもながら仕事が早いな』

『恐縮です。では、こちらが件の報告書になります。存外に有名な人間だったようで、すぐに情報は集まりました』

 トルネオが器用に、紐で首にくくりつけていた文を外してサネアツに口でくわえて渡す。
 確かに受け取ったサネアツは頷き、部下の労をねぎらうために目を瞬かせているクールービューティを見上げた。

「ユース。悪いが彼に温かいミルクと何か食事を与えてはもらえないか?」

「あ、はい。わかりました。何か見繕って来ます」

 トルネオとの猫語での会話は聞こえていなかったユースも、彼がにゃんにゃんネットワークにおけるサネアツの片腕であることは何となく気付いていたのだろう。しゃがみ込んでその頭を撫でたあと、料理が並べられたテーブルへと歩いていってしまった。

 その背を見てしっぽを振るトルネオ。『暴君』と恐れられた彼であっても、ユースの前では形無しである。

『トルネオ。すぐにご馳走が届けられる。今日はめでたい日だからな。存分に休んでくれ』

『了解しました。それでは、食事を受け取ったあと屋根の上ででものんびりしていましょう』

 ぺこりとお辞儀をして、待ちきれずにユースのあとを追うトルネオを見送り、来客たちの間をすいすい通り抜けていく彼と違って身体の小さいサネアツは、蹴飛ばされてはたまらないと壁際へと移動して渡された報告書を開いた。

「ギルフォーデにボルギィ……ふむ、相当な悪のようだな」

 それは前回クーヴェルシェンを使ってリオンを襲った、ベアル教の二人組に関する資料だった。

 時間がかかることを前提でトルネオに調べさせていたのだが、相当有名だったようで思いの外すぐに情報は集まった。まだ第一報に過ぎないとはいえ、数枚の報告書には彼らの来歴がかなりの密度で載っている。

「ギルフォーデ。かつて裏社会の一大ギルドだった『琥珀の嘴ガーゴイル』の元幹部で、『冒涜者』と呼ばれて味方にも敵にも恐れられていた男。ボルギィはそんな彼の右腕か」

 裏社会に身を置いていた二人は、所属ギルドである『琥珀の嘴ガーゴイル』を壊滅に追い込む。周辺の住人共々皆殺しにしたことから、二人は裏社会においてもお尋ね者になった。『裏切り』のギルフォーデと『惨劇』のボルギィ。その筋ではかなり有名らしい。

「ほぅ、ギルフォーデは魔法の研究者か。特に人の人体について秀でている、と」

 サネアツは楽団の調べを微かに聞きつつ、詳しく報告書を読んでいく。まずはギルフォーデの方から。それが終わり、ボルギィの報告書を読もうとしたところで、ひょいっと資料が誰かに奪われた。

「こんな隅っこで何を読んでますのよ?」

 紙で視界が覆われたあと、すぐに資料を奪い去った相手の顔が現れる。それはパーティーの主役であり、現在はジュンタと共に別室にいるはずのリオン・シストラバスその人だった。

「なぜここにいる? リオン。お前はジュンタといちゃいちゃしていたのではなかったか? お陰で俺はこうして壁の猫に徹していなければならなかったのだからな」

 紙を奪われたことの文句を含めつつ問いただすサネアツに対し、リオンは無言だった。

 特に興味もなく奪い取った報告書に目を通した瞬間、目を細めて真剣な顔をしている。

「……サネアツ。これは?」

「俺が独自のルートで調べさせていたベアル教メンバーの情報だ。お前とクーヴェルシェンが気絶したあとに襲いかかってきた二人組の情報だよ。かなりの有名人らしいからな。お前も知っていたか?」

「知っているも何も、忘れようがない相手ですわ」

 リオンはぐしゃりと報告書を持つ手に力をいれて、優美というには壮絶過ぎる笑みを浮かべた。

「ボルギィ――いいえ、ボルギネスター・ローデ。十年前にお母様をさらった下手人で、お祖父様を私の目の前で殺した騎士ですわ」

「それは、また」

「ふふっ、まさかベアル教にいるだなんて。天命を感じずにはいられませんわね。あの日の報復の誓い、幼い時のものだからといって、未だ消えてはいませんわよ」

 リオンの茶化すことさえできない部分。それは騎士の誇り。それを輝きに変えて強烈な存在感を醸し出している彼女に、サネアツは毛を逆立てつつ怯む。

 ガシャンッ!!

 食器が盛大に割れる音が響いたのは、ちょうどそのときのことだった。






「クレオ、さん……?」

 そう呼ぶと約束した名前を呟いて、クーは運んでいた大量を皿を床の上に落とした。

 皿の中にはガラス製のものもあったため、割れた音は盛大なものになった。突如のけたたましい破砕音に静まりかえるパーティー会場の中、いつもなら慌てるところを呆然としたまま、クーはアーファリム大神殿のある方を振り向いた。

 もちろんそこには今は静止した煌びやかな世界があるばかり。
 もしかしたらいつか敵として立ちはだかるかも知れない、けれど大事で高潔な友人の姿はそこにはない。

 それでもクーの胸には得難い感情の波があった。それはまるで縁という名の糸が切れたような感触――クレオメルン・シレとの絆が、断ち切れてしまったかのような喪失感。

「あれ? どうして……?」

 ジュンタとリオンを二人きりにしたために暇をもてあましていたクーだが、ユースの手伝いをしていて、別に寂しくも悲しくもなかった。なのに、自分が涙を流していることに気付く。

 目を擦っても止まらない。頬は濡れて借り物のドレスに染みができる。慌てて目を閉じれば、なぜかクレオと過ごした日々が、親友だからと約束したあの日を思い出してしまう。

 気が付けば嗚咽が口をついていた。
 気が付けば心が大事な主を捜していた。

「どうして、こんな涙……クレオさんのこと考えて、どうして……ご主人、様……」

 周りがなんだなんだと視線を寄越してくる中、クーはその場に膝を付く。

 全身から力が抜けて、耳は垂れ下がって、ついに涙は床にしみを作り出した。
 どうしたらいいかわからなくて、向こうからユースが走り寄ってくるのを見て、縋るように手を伸ばしてしまった。

「クーヴェルシェン様、どうなされたのですか?」

「ユースさん。私、わたし……」

「クーヴェルシェン様……」

 自分でもわからない感情を説明できるはずがない。けれどユースは内心を読み取ってくれたのか、その大きな胸で優しく抱き留め、ポンポンと背中を叩いてくれた。

「落ち着かれてください。私の胸でよろしければお貸しいたしますから」

 温かな言葉に温かな感触。胸に押し寄せた喪失の波が、顔を埋めたことによって自分の心臓の鼓動と繋がったユースの命の音により引いていく。まるでクレオとの絆が切れた代わりに、ユースとの絆が繋がったように、自分の中で目に見えない何かが補完されていく。

 トクン。トクン。

 冷たい心に熱い血潮が流れ込む。懐かしいような、怖いような、熱い熱い何かが――


――歌を、聞かせて』


 手がユースではない誰かに握られたような気がした。

 ああ。と、やらなければいけないことを途端に理解する。いや、思い出す。

「あなた……水を……」

「え?」

「あなたに、水をあげましょう」

 ユースが抱き起こそうとしてくれる前に、クーは離れて一人の力で立ち上がった。

 だって、約束をしていたから。がんばって一人で立てる力を手に入れてみせます、と。だから頼らず、がんばって一人で起きなければいけないと、そう思ったのだ。

 そうして、もう一つやらなければいけないことは、歌うこと。

「種を植えて」

 祈らなければいけなかった。

「芽を芽吹かせて」

 クレオのために、精一杯祈りを歌わなければならなかった。

「背丈を伸ばし、葉を茂らせて」

 どうしてかはわからない。だけど、心の中でそれが大事だと誰かが囁いていた。祈らなければいけないと。周りが怪訝な眼で見てくるが気にならないほどの確信をもって、専心をクレオメルン・シレに向けなければいけないと。

「いつか花を咲かせて実を実らせるように、あなたに水をあげましょう」

 いつしかクーの耳にだけ、誰かの歌声が重なったような気がした。

―― あなたに水をあげましょう ――

 それが突然の歌にも関わらず、即興で伴奏を奏でてくれた楽団による空耳かは分からないけれど、その歌声は誰かに似ていると思えた。だから心からの祈りをクレオメルンに捧げて、クーは歌を繰り返す。

―― 種を植えて ――

 それは祈りの歌。

―― 芽を芽吹かせて ――

 人に愛を伝える、祈りの歌。

―― 背丈を伸ばし、葉を茂らせて ――

 がんばれ、と。

―― いつか花を咲かせて実を実らせるように ――

 ただそれだけしか言えない『あたし』の、

―― あなたに水をあげましょう ――

 それでも精一杯のエールを贈る、祈りの歌。

―― わたしはただ、水をあげることしかできないけれど ――

 その歌がどう呼ばれていたか、なぜかクーにはわかった。
 教えてくれるように重なる声が、あるいは教えてくれていたのかも知れない。もしくは前から知っていたのか、その詩は、いつかどこかで聞いた気がした。

―― それでも愛だけは贈れるから ――

 今は思い出せないけれど、今がんばっている親友に贈るこの歌はきっと、いつだってがんばっている誰かのために歌われた歌。

―― わたしはあなたに、水をあげましょう ――


 誰かの大好きな――――『花咲かす歌』だから。










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