第二話  金糸の使徒


 

 ジュンタの一日のスケジュールは日によって異なる。

 部屋を間借りさせてもらっている代わりとして、昨日のように一日『鬼の篝火亭』で働いていることもあれば、暇な日にクーと共に買い出しへ行ったり、サネアツの持ち込むトラブルに巻き込まれたり、ラッシャと一緒に突発的な商売を行ったり天然のトラブルに遭遇したりと、色々だ。

 これに加えてほぼ規則正しいリオンの来襲と、トーユーズとの剣の修行を加えたものが、ジュンタのここ最近のスケジュールである。

 そうしたスケジュールの中ではそれほど珍しいことでもないのが、シストラバス邸で宿泊である。リオンの誘いは様々だが、これにゴッゾが絡んだりすると、高確率でお泊まりイベントが発生するのだ。

 前に使っていた部屋はすでに他の人が使っているとのことなので、大抵は用意された客間に泊まる。もちろん、クーとは別の部屋だ。

 そんなわけで――変人の巣窟であるシストラバス邸に泊まるわけだから、朝一番にトラブルを目の当たりにすることも、そう珍しくはないのであった。

「あらあら、まぁまぁ」

 閉じたカーテンの隙間から、朝日が差し込んでくる。

 夏も中頃に近付いてきた昨今、朝日が昇るのも早くなり、少しばかり寝苦しくなってきた。それでも用意された客間のベッドの羽毛はとても軽く、毎日干されているのでなんとも気持ちがいい。お店の布団もクーによって毎日手入れされているが、やはり元々の値段の差は大きいか。

「いいお天気ですねぇ。こんな日は朝一番に起きるのがいいと思いますよ。早起きは金貨一枚と銀貨十二枚、銅貨三十九枚のお得ですから」

 ぬくぬくまったり。いつまでもくるまれていたい今日この頃――きっと自分はまだ半分夢に頭が浸かっているのだろう。幻聴が聞こえる。というか、やけに具体的な金額である理由が訊きたくて仕方がないのだが、我慢我慢。ツッコんだら負けです。

「ですけどわたくしも、いつまでもお布団から出たくない気持ちはわかります。朝のお布団はどうしてあんなにも気持ちいいものなのでしょうか? 最近は本当に忙しくて眠たいので、朝起きるのが辛いんですよ。ですが今日はがんばって早起きしてみました」

(我慢。ジュンタ、お前は我慢の人だ。ここで眼を覚ましたら、絶対に良くないことに巻き込まれるぞ。そうなったら、昨夜解けなかったリオンへの誤解を解くチャンスがなくなる)

「それは今日が、かわいいクーちゃんと久しぶりに会える日だからです。この日を指折り数えてがんばってきました。ですが……ですが! まさか自分の巫女に裏切られるとは思いませんでした! 聞いて下さい。ルドールは意気揚々とやってきたわたくしにこう言ったんです!」

(我慢。何か語りが始まったけど、我慢ですよ?)

「『失礼、主。儂はこれからクーヴェルシェンと修行をしてまいります。正午までには終わりますので、それまではどうぞ日々の疲れをお取り下さい』、と。
 どうお思いなります? ねぇ、どうお思いになりますかこの仕打ちを! 疲れなどクーちゃんを抱きしめれば一瞬で消し飛びますのに、そのクーちゃんを奪っていったルドールが疲れを取ってくださいといったんですよ? 酷いです。酷いですよね?」

 おいおいと泣き崩れるような声がベッドの真横から響く。若干本気で泣いているあたり、この人の厄介さが伺える。絶対に起きてはいけないとジュンタは再認識する。

「ですが、優しいクーちゃんはルドールの言葉を聞いて、『フェリシィール様。どうぞごゆっくりお休み下さい』と言ってくれたんです。ああ、なんて優しい子なんでしょう。最近皆さんから厄介事を押しつけられているわたくしは救われた気持ちでした。……その所為で、泣く泣くクーちゃんとルドールの背を見送らなければならなくなってしまったのですが」

(…………いつまで続くんだろうなぁ、これ……?)

 ジュンタは世間一般に呼ばれるところの聖母のような使徒の独白に、もう何と言っていいかわからなかった。起きたくないのに目は完全に冴えきってしまって、動き出した頭は、起きあがらない限りきっといつまでもこれは続くだろうという答えを弾き出してしまっていた。

 そんなわけで――――そろそろ諦め時でしょう。

 ジュンタは身体を起こし、つけていたアイマスクを取り去り、コンタクトレンズをする前の金色の瞳で、朝っぱらから襲撃をかけてきた厄介なエルフの女性を見やる。

「うふふっ、おはようございます。ジュンタさん、よく眠れましたか? 今日はとってもいい朝ですよ」

 同じく金色の瞳を持つ、使徒フェリシィール・ティンクを。

 


 

 フェリシィール・ティンク――

 現在存在する使徒の中で最も古参の使徒。使徒の証である金色の双眸以外に、高貴なる証である金糸の髪を持つ、神聖なる雰囲気と同時に温かな印象を与える使徒である。波打つ髪と豊かなプロポーションから聖母などとも呼ばれている。

 実際、性格は基本的に穏やかで優しい。巷で囁かれているよりもいくらか庶民的な部分が見え隠れしているが、それでも母性的な雰囲気を纏う使徒である。

 そんな彼女は常に聖地ラグナアーツのアーファリム大神殿で、世界の九十九パーセントを信者とする聖神教の運営をしているはずだった。最年長なので、実質的な世界最高権力者と言ってもいい。とても忙しいはずなのだが……

「ああ。朝はやっぱりホットチョコレートですねぇ」

 なぜかランカのシストラバス邸にて、ジュンタの真向かいで朝の一杯などを嗜んでいた。

「この何とも言えない苦みが大人の味なのです。なかなか人に分かってもらえないのが残念ですが。そういえば、ジュンタさんはショコラというチョコレートを原料にしたお菓子を作れるのでしたよね? クーちゃんから聞きましたよ」

「ええ、まぁ」

「まぁまぁ、それはとてもおいしそうですね。チョコレートがケーキになるなんて、味の想像がつきません。是非、また今度お暇なときにでも食べさせてくださいな」

「それは構いませんけど、たぶんフェリシィールさんが思っているような味じゃないと思いますよ? 苦みはほとんどない甘いお菓子ですので」

 カカオ九十七パーセントぐらいのパウダーにお湯をいれ、香辛料を幾つか混ぜたようなホットチョコレート。絶対に苦いだろう飲み物をおいしそうに飲んでいるフェリシィールに、甘い物が好きなジュンタはちょっとショックを受けつつ、自分の分として自分で用意した紅茶を飲む。ミルクと砂糖はデフォルトである。

 シストラバス邸の客間には、それぞれ専用のティーセットが常備されていた。
 メイドを呼べば淹れてくれるが、あえて頼むのも気が引ける。ある程度のいれ方はすでにマスターしているので、自分の分だけ淹れるのには困らなかった。

 もっとも、フェリシィールが飲むとしたら別だが。絶対に舌が肥えているフェリシィールに出すには、少々気が引けるレベルである。長い裾の白い服から自分用のチョコレートパウダーと香辛料を取り出したあたり、問題ないとも思えるが。

「はぁ〜、先程も申しましたが、今日はいいお天気ですねぇ。ポカポカ陽気でお昼寝びよりです」

「疲れてるんでしたら、誰か呼びましょうか?」

 開けたカーテンのすぐ近くの丸テーブルでお茶会などをしているジュンタは、窓の外の陽気を、目を細めて見るフェリシィールにそう提案する。

 どうしてフェリシィールがここにいるのかは知らないが、彼女の巫女であるルドール老もいるという話だから、別に彼女がいても不思議ではない。シストラバス家は祖に使徒を仰ぐ大貴族だ。使徒と繋がりがあってもおかしいことではない。

 まさか当主であるゴッゾに黙っているはずもなし。頼めば最高の部屋を用意してくれるに決まっている。部屋備え付けの魔法の呼び鈴を鳴らせば、すぐにでも。

「いえいえ、それには及びません」

 黄金色の呼び鈴に手を伸ばしたジュンタの手を、ほっそりとしたフェリシィールの手が上から包み込んだ。

 手のひらに触れた瞬間、ゾクリとするほどにきめ細やかな白い手。
 フェリシィールはそっと手をどけると、口元に少し困った風な笑みを浮かべた。

「わたくしが突然来訪してしまったので、使用人の皆さんは今とても忙しいようなんです。わたくしは良いと言ったのですが、矜持に関わるとかで。耳を澄ませてみてください。忙しく働いてくれている音が聞こえますでしょう?」

「そう言われてみれば……そうですね」

 ピクピクと動くフェリシィールの長い耳に倣って、ジュンタも耳を澄ましてみる。するとまだ早朝というのに、シストラバス邸はかなりの喧噪に包まれているのがわかった。

 なるほど。よくよく考えてみれば、使徒フェリシィールが来訪したなら、シストラバス家は最高のもてなしを用意しようとするだろう。突然で前準備がなかったのなら、すでに急ピッチで歓迎の準備が始められているはずである。ジュンタには、朝が弱いリオンがユースに叩き起こされ、慌てて身嗜みを整える姿が容易に想像できた。

「こんなにもお忙しくさせてしまっているのに、これ以上迷惑をかけるのはさすがに心苦しいですから」

「いや、使徒のお世話ができるなら、光栄だと思う人は多いと思いますけどね。特にこのシストラバス邸なら」

「あら? それを言ったらジュンタさんもわたくしと同じ使徒ですよ? どうやら皆さんが皆さん、そのことを知っているわけではないようですが」

「まぁ、そうなんですけど。でも俺はやっぱり、あんまりそういうお偉い人に対する対応をされるのが好きじゃないので」

「わたくしと同じですね。わたくしも自然体でいて欲しいと常々思っていますの。それが無理だということは理解していますが」

 ほんの少し寂しそうに笑って、フェリシィールは気品溢れる仕草でカップに口をつける。それは生まれてから長い時間をかけて培われた、洗練された仕草だった。自然体なままで気品を失わない作法ができるフェリシィールは、ずっと使徒として生きてきたのだろう。

「クーちゃんも未だにわたくしのことは様付けですし……クーちゃんも巫女になったのですから、わたくしのことはお母さんと呼んでくれても構いませんのに」

「いや、クーにそれを求めるのは酷かと」

「ですよねぇ……ですけど、ジュンタさんにはあまり仰がれた態度を取られないので気が楽ですよ。自分の立場は理解していますが、偶には生き抜きがしたいものですから。ふふっ、今日のスパイスの調合はとても上手くいったようです」

 クーが見せる日溜まりの笑顔は、きっとフェリシィールを見ていて自然に身に付いたものなのだろう――穏やかに微笑んでカップをソーサーに置くフェリシィールの姿は、クーが大きくなったらこうなるんじゃないかと思わせる温かさを感じさせた。

 ――その気配が、コトリというカップとソーサーが掠れる音で切り替わる。

 神々しくて恐れおののいてしまうほどに眩しい威圧感。
 フェリシィール・ティンクはジュンタの目の前で、人々に敬われるべき金糸の使徒となった。

――さて、ジュンタさん。恐らく気になっておいでだと思いますから、そろそろわたくしがここに参りました理由をお話させてもらおうと思います」

「やっぱりフェリシィールさんの用事がある人って、ゴッゾさんでもリオンでもクーでもなく俺なんですね?」

「はい。ミスタ・シストラバスにご用件があるのも、クーちゃんに会いたいのも事実ですが、今日の本題はジュンタさん――いえ、使徒ジュンタ・サクラに対するものです」

 フェリシィール・ティンクともあろうお人が、何の理由もなく聖地を離れるはずがない。

 何かそこには重大な理由があって然るべき。そして朝っぱらからこの部屋を訪れたのなら、その用事の相手は自分ということになる。他の場所では色々な人に畏まれて気が休まらないというのは、常に皆に傅かれる立場にある彼女としては少々おかしい。

 一杯のホットチョコレートを飲む分だけ彼女はのんびりとして、そしてここから使徒として使徒に向き直る。

「お話はいくつかありますので、どうかしばらくお時間をお貸し下さい」

 カラーコンタクトと黒縁眼鏡をつけたジュンタは、それでも自分が使徒であることを受け入れていた。だからカップの中の紅茶を飲み干して、真剣な表情で金色の瞳を見返す。

「聞きます。当分、リオンの誤解を解く時間は得られそうにないですから」

「え? リオンさんと何かあったのですか?」

 しっかりとその瞳を見つめていたから、フェリシィールの魂を吸い取られてしまうかと思うほどの綺麗な金色の瞳が、そのとき爛々と好奇心で輝いたことにすぐ気付けてしまった。

 頬へと手を当て少し首を傾げたフェリシィールは、うっすらと頬を染める。

「ラバス村であった『封印の地』の件については報告を受けています。他の方には内密に、ジュンタさんが神獣形態であるドラゴンになったことも。つまりそれはリオンさんにご自分が使徒であることを知ってもらったということであり……進展があったんですか? お二人の恋に何か進展があったんですか!?」

「あ、あの、フェリシィールさん? なぜにそんな食らいつきを?」

「もちろん、わたくしはあくまでもクーちゃんの味方です。ですけど、やはりリオンさんにも幸せになってもらいたいという気持ちもあるのです。高貴とされるが故に恋愛相手に恵まれない……その苦しみはわたくしが一番理解していると思っていますから」

「い、いや、別にそういうことが聞きたいのではなく――

「これでもわたくしはそういった方面には敏感だと自負しております。経験はありませんが、男女の睦言にも精通しておりますたぶん」

 恐いくらいの気配はどこへいったのか、そこにいるのは恋バナに興味津々の、ただの年頃の女の人だった。

 ジュンタは唖然としながら、先程のように悟る。――ああ。これは全部話さないと、絶対に本題には戻れないな、と。

「さぁ、教えてください! 導き手である不肖この使徒フェリシィール・ティンクが、迷える若人に恋の手ほどきをして差し上げますから!」

 


 

       ◇◆◇


 

 

「綺麗な青空ですね」

「はい。フェリシィール聖猊下」

 フェリシィールに散歩に誘われたリオンは、シストラバス邸の広大な庭を彼女と共に歩いていた。

 突如訪れたこの世の救い手の一柱――使徒フェリシィール・ティンク。

 彼女が訪ねられたというのに、次期当主であるリオンが眠っていられるはずがない。朝はあまり強くないが起きて、ユースに手伝ってもらっていつもより丁寧に身支度を整えた。フェリシィールが部屋へとやってきたのはその直後のことであり、彼女の誘いを断れるはずもなかった。

 むしろお誘い自体は光栄以外の何ものでない。諸手を挙げて同行させてもらった……のだが、どこか無理ある表情をしてしまったのか、フェリシィールは貴きその瞳を少し心配そうに細める。

「リオンさん。昨日はあまり眠れませんでしたか?」

 いつもは最低限度で十分であるため軽く済ませている化粧を、今日に限って少し濃くすることで隈を隠したのを看破されてしまったのは、整えられた庭園を抜けて湖もある木々――その合間を通る遊歩道へと入った頃だった。

「少々顔色が優れないようにお見受けしますが、もしかして体調がよろしくないのですか? わたくしの我が儘にお付き合いしてくださったのは嬉しいですが、体調が悪いのでしたら休まれた方がいいですよ?」

「そんな、問題ありません」

「……無理は禁物ですよ。私は倒れるまで無理されてしまうことが、一番心苦しいことなのです」

 隠していたことを一瞬で看破され、さらには心配までされてしまったリオンは慌てて体調が悪いわけではないことをフェリシィールに伝えた。

 実際、体調不良ではなくただの寝不足だった。昨夜ほとんど眠れなかったために、若干顔色が悪いだけである。その不摂生を心配されてしまうなんて……非常に申し訳なかった。

「申し訳ありません、聖猊下。ですが心配は本当に不要です。少々寝不足なだけですから。何の問題もありません」

「そうですか。でしたらよろしいのですけど」

 安堵したように豊かな胸元へと手を寄せ、フェリシィールはもう一度リオンを見て、ゆっくりと歩みを再開させた。

「ふふっ。けれど、やはり寝不足だったのですね」

「聖猊下。やはり、とは?」

 背中を向けたフェリシィールが口にした言葉に、少し後ろについていたリオンは疑問を持つ。フェリシィールの言い方は、まるで寝不足であることが予想付いていたという口振りだ。

 深緑の美しい木々が夏の陽光を遮り、光のシャワーだけを道に注ぐ。
 フェリシィールの波打つ髪が黄金よりも美しい輝きに煌めく。さながら神の威光のように、彼女が使徒であることをその風格が如実に知らしめていた。

「実は先程、わたくしはジュンタさんとお話をしてきました」

 振り向いたフェリシィールに合わせ、まるで太陽が方向を変えたかのような錯覚。
 輝く黄金の太陽のような使徒は、リオンにとって一番気になる男の人の名前を口にした。

「ジュンタとお話を、ですか……?」

「はい、そうです。ジュンタ・サクラさん、その人とです」

 リオンには、フェリシィールの口からジュンタの名前が出ることが、酷く意外なことのように聞こえた。

 でも違う。ジュンタもまた、目の前に立つ金色の瞳を持つフェリシィールと同じ使徒だ。何を話したのかは知らないが、きっとそれは使徒同士の話なのだろう。リオンが割り込む余地のない会話なのだ。

(そう、ですのよね。ジュンタは使徒。フェリシィール様と同じ、本来ならば敬意をもって接するべき相手なのですわ)

 ジュンタとは別の使徒を目の当たりにして、その使徒からこの間までただの旅人と思っていた相手の名前が当たり前に出る事実。昨夜のことも相まり、リオンには酷くショックなことだった。

 竜滅姫であるリオンはとても偉い。この世界において、リオンが傅くべき相手はほとんどいない。が、その例外にジュンタこそが該当するのである。

 今こうしてフェリシィールに最大の敬意をもって接しているように、本来ならばジュンタにもこのように接するべきなのだ。それが貴族としての礼節。張り手をお見舞いするなど、本来あってはならないことなのである。

 でも――だけど、リオンはジュンタにだけはそうやって接したくなかった。あくまでも対等にありたかった。

(ですけど、対等に在りたいと思ってこれまで通りに接するのは……もしかしたら、ジュンタが使徒様の一柱である事実を認めたくないだけなのかも知れませんわね)

 変わらないと思っていた。ジュンタが使徒でも、関係は何も変わる必要はないと思っていた。

 無論、恋心に気付いたのだから、接し方自体に若干の変化は生まれている。けれど、それはジュンタが好きだから変わったのであって、ジュンタが使徒だから変わったのではない。少なくとも、リオンはそう思っている。

 しかし、それでもジュンタは使徒であり、本当に使徒として存在しているのだ。フェリシィールと同じように、この世の救い手として存在しているのだ……それを昨夜思い知った。

――話はジュンタさんから聞きました」

 敬うべき相手が目の前にいることを忘れ、思考の中に潜ってしまったリオンを引き上げたのは、他でもないフェリシィールであった。

「昨夜リオンさんとジュンタさんの間に何があったのか、どうしてリオンさんが寝不足なのか、今悩んでいる顔をしているのか、申し訳ありませんが全てを聞かせていただきました」

「それは……お恥ずかしい限りですわ」

 恥じ入るように視線を下へとリオンは落とす。昨夜起きた出来事は、誰にも自慢できるようなことでなかった。

「ジュンタさんの頬に、強烈なのを一発お見舞いしてしまったそうですね」

「はい。面目次第もありません。ジュンタはフェリシィール聖猊下と同じく、使徒様でありますのに」

「あら? いえいえ、何も謝ることはありません。張り手の一つや二つくらい、悩める若者にはよくあることですから」

「本当に申し訳ありませんでした……って、え? 怒っていらっしゃらないんですか?」

「何の関係もないわたくしが、どうして怒らねばならないのでしょう?」

 ジュンタを蔑ろにすること、これ即ち同じ地位にある使徒全てを貶すことと同義――そう思って謝罪したリオンでは到底考えられないことに、地位を貶されたのにも関わらずコロコロとフェリシィールは笑うだけ。そこに怒りの一欠片もない。

「お話を聞く限り、確かにリオンさんに否はあるのでしょう。ですが、ジュンタさんは怒っていませんでした。むしろリオンさんに謝ろうと思っていらしたようで。それなのにわたくしが怒るなんてこと、できるはずがありません」

「ジュンタが……」

 ジュンタが怒っていないと聞いて、チクチクと胸を刺していた悩みの幾分かが消える。

 昨夜、リオンはジュンタに話しかける切欠として、そのオラクルについて聞いてみた。
 使徒とはオラクルを行う者――それを知っていたから、いつかは知っておきたかったことだったので、丁度良い話題として振ってみたのだ。

 特に気にせずに、ジュンタはクリアしたオラクルについて、また今挑戦しているオラクルについて教えてくれた。……ただ、予想外だったのは、その内容だった。

「リオンさんがジュンタさんの頬を叩いてしまったのは、彼があなたのために行った数々の行い――竜殺しや武競祭への参加、キメラを倒すための神獣への変化。その全てがオラクルと密接に関わっていたから、で間違いないのですね?」

「……そうです」

 フェリシィールの言葉にリオンは頷いて肯定する。
 
 彼女がそのことに気付いているということは、つまりジュンタもまた気付いているということになる。それでも彼は怒っていないのか。自らの行いに泥を塗られ、理不尽に叩かれて怒っていないというのか。

「私はジュンタが行った偉業が、私のためのものとばかり思っていました。ドラゴンを倒したことも、武競祭に参加してくれたことも、キメラを倒すためにドラゴンになったことも。ですけど、私のためではなく全部オラクルのためだったと知って、それで私……」

「ショックで感情が爆発し、思わず頬を叩いてしまった、ですか」

 コクン、とリオンは頷く。フェリシィールの優しい声音と全てを受け入れてくれるような包容力は、どこまでもリオンを素直にさせた。

 昨夜眠れなかったのも、要はそれが理由だった。

 ジュンタの行いが自分のためではなかったことへの衝撃。あくまでもそれは自分の独りよがりな思いこみだったのに、理不尽に大切な人を叩いてしまった悔恨。ジュンタは怒っていないか……そんなことを混ぜ合わせた悩みを前にして、眠ることなどできなかったのだ。

 ジュンタが夜部屋の前まで尋ねてきたときもそうだ。招待したのに出迎えず、一人部屋に閉じこもって寝たふりを決め込んでいた。怒っているかも知れない、嫌われたかも知れないジュンタに会うのが恐かったのだ。

 どうやらジュンタは怒っていないようだけど、きっと呆れているだろう。何て優しくない自分本位な女なんだ、と。

「まぁまぁ、そんなに泣きそうな顔をなさらないで。折角綺麗にできたお化粧が崩れてしまいますわ」

「……!」

 差し出されたシルクのハンカチを反射的に受け取って、リオンは自分の瞳がどうしようもなく潤んでいることを自覚する。

 折角渡されたハンカチだが、リオンは強く拳を握り、口をきつく閉じることによって出そうになる涙を堪える。騎士たる者、早々簡単に涙などは見せられない。

「ありがとうございます、聖猊下。ですが私ならば大丈夫ですので」

「……本当に、リオンさんはジュンタさんのことが好きなんですね」

 返されたハンカチをしまいながら、フェリシィールは優しく微笑む。どこか母カトレーユと重なる、それは慈愛に満ちた笑顔だった。自分の顔が赤くなったのはこそばゆかったからか、それとも恥ずかしかったからか、リオンにはよく分からなくなかった。

「わ、私は……」

 ただ分かっていることは、ちゃんと嘘偽りない返答をしなければいけないということだけ。リオンは涙の引いた目元を緊張からプルプルと震わせて、

「あら、ごめんなさい。不躾なご質問でしたね。返答は結構ですので、そう硬くならないでくださいな」

 フェリシィールの心遣いで、止めていた呼吸を一気に口から吐き出した。

「本当にかわいらしい。恋する乙女とは、かくも偉大なるものですね。クーちゃんも最近輪にかけてかわいくなってきましたし。ですが、恋をすると相手のちょっとした言葉も気にしてしまうもの。リオンさん。あなたは今、とても素敵な恋をしているのですね」

「あ……ありがとう、ございます」

 女性としてあまりにも壮大な女性からの言葉に、リオンは呑まれてしまったかのように、気付けばお礼を述べていた。

 フェリシィールは背中を向けて、また歩き出している。
 小さな森の木々に目を細め、その緑の葉を嬉しそうに見ている。その背中を見て、リオンはもしかしたらと思う。

(フェリシィール様は、もしかしたら私を元気づけてくださるために誘ってくださったのかも知れませんわね)

 ジュンタと話をしたというフェリシィール――二人が一体どのような話をしていたか、今やもう疑うまでもない。

 二人は使徒としての会話をしていたのではなく、ただ他愛もないどこにでもありふれたような会話をしていただけ。ふてくされた女の子をどうすればいいのか相談し、相談されていただけ。

 使徒とは一体何なのか? 使徒であるジュンタとどう接すればいいのか? ……その答えの手がかりを、リオンはフェリシィールの優しさから掴んだ気がした。
 
 そして、フェリシィールの優しさにはまだ続きがあった。

 使徒であり、また一人の女でもある彼女は、木々の葉が丸く途切れた遊歩道の中程で立ち止まると、強い陽光を気持ち良さそうに浴びつつ、リオンを散歩に誘って伝えたかったことを話し始めた。

「ですがリオンさんは、一つだけ誤解していることがありますね」

「誤解、ですか?」

「はい、誤解です。リオンさんはジュンタさんについて、わたくしたち使徒という存在について、少し誤解をしているようです」

 じっと視線を合わせてきて、フェリシィールは胸の前で手を組む。それは神の使わした神の獣からの逃れられない直視――

「わたくしたち使徒は、リオンさんが思っているほど使命に忠実でも、神命に従順でもありません。もちろん、中には神命たるオラクルに心血を注いでいる使徒もいますが、あまりオラクルに興味のない使徒もいます。使徒にもそれぞれ個性があるのです。
 確かにわたくしたちは生まれながらに特別です。この世界において、どうしようもないほどに貴い存在として崇められています。ですが、それでもわたくしたちはリオンさんたちと何も変わらぬ、世界の上に立つ一つの存在なのです」

「それは、特別視をするな、ということでしょうか?」

「型に当てはめないで欲しい、ということでしょうか。使徒が在るからわたくしたちが在るのではありません。わたくしたちが在るから使徒が在るのです。わたくしたちは使徒ととして生まれました。だから、使徒として見るのと同時に、わたくしたちの存在そのものを見て欲しいのです」

 そのフェリシィールの小さな望みは、またリオンにも覚えがあるものだった。

 生まれが高きために、リオンにはいつも小さな孤独が付きまとった。とにかく、対等な相手というものがリオンにはほとんどいなかったのだ。

 ……そう、そうだ。ジュンタはリオンにとって、初めてできた対等に言い合える異性だった。だから今でも対等にいたいと思うのだ。フェリシィールの言いたかったことの意味がそれであっているかは分からないけれど、リオンは一つ理解した。

(私とジュンタの今の立場は、私とジュンタが出会った頃の立場の逆転なのですわ)

 ジュンタと出会った当初、ゴッゾの言葉が正しければ彼は自分が使徒であることに気付いていなかったのだという。ジュンタが使徒であることを知って初めて聞かされた『双竜事変』の真実の中、確かにそうとしか思えない言動を彼はしていた。

 ならばジュンタは、ただの一人の人間として、竜滅姫であるリオン・シストラバスに向かい合ったということになる。向かい合って、ついには恋情すら抱かせた。
 であるなら、今の自分にだってできないはずがない。リオン・シストラバスは、ジュンタ・サクラの気持ちを自分に向かせることができるのだ。

「鏡を用意して差し上げたいものです。リオンさん、今とてもいい顔になっていますよ」

「フェリシィール聖猊下……私、わかりましたわ。ジュンタが確かに使徒ですけど、それでも使徒であると同時にジュンタなのです。私が恋をしたのは他でもない彼――ならば、何の戸惑いももはやありません!」

 感謝と決意を込めた答えを告げると、フェリシィールは嬉しいような、ちょっと困ったような顔をして頬に手をあてた。

「まぁまぁ、頼もしい。クーちゃんの味方のわたくしとしては、これ以上リオンさんに手を貸すことはできないのですけど……そうですね。もう二つだけアドバイスを贈らせていただきますね。
 一つ。たぶんリオンさんも薄々は気付いていると思いますけど、ジュンタさんはオラクルのついでにリオンさんを助けたのではないと思いますよ。むしろ反対だと、わたくしは思います」

「それは…………なんということですの。私、何に一番気付けなかったといえば、そのことに気付けませんでしたのね」

 フェリシィールに言われて、初めてその可能性にリオンは思い当たる。オラクルのついでにジュンタが自分を助けた、ということが勘違いという可能性を。
 
 いや、よくよく考えてみれば、むしろこちらの可能性の方が圧倒的に高い。
 今まで接してきて、ついには好きになったジュンタの性格を鑑みれば、オラクルに素直に向かうとは思えない。彼はどちらかというと、自分の思うままに生きていくタイプだ。

(そうですわ、私は告白されていましたのよ。でしたら……どうしましょう。これは本格的にジュンタに謝らなければいけませんわね)

 リオンは自分が見失い、踏みつけていたモノの重要さにようやく気付き、居ても立っても居られなくなる。

 だがフェリシィールの手前、踵を返してジュンタの元へと向かうことはできない――そんな乙女心に気が付いたのか、楽しそうに彼女は笑って二つ目のアドバイスを述べた。

「二つ。リオンさん。あなたは変人と聞くと、どなたを最初に思い浮かべますか?」

「変人、ですか? ラッシャ・エダクール――いえ、サネアツですわね」

 あまりに意味不明のアドバイスながら、それが大切なことと信じて、リオンは真剣に答えを探す。変人というのはあれかも知れないが、間違いなくリオンの中での最たる『変』はサネアツである。あの昔は人間だったと抜かす、見た目は愛らしい白い子猫であるが、ずっと騙して人の恥ずかしい場面を観察していたというとんでもない男を。

 今は恋愛に協力してもらっている手前粛正に出ることができないが、いつか必ず秘密にしていた罪を、身をもって教えて差し上げる予定である。

「サネアツさん、ですか? わたくしも少し話したことはありますけど、あまり性格の方までは知らないのですが……」

「知らない方が絶対にいいです。あのトンデモキャットには近寄らない方が身のためです」

「クーちゃんの話ですと、とても頼りになる仲間ということですけど……俄然興味が湧いてきましたが、今はお話に戻りましょう。
 さて、リオンさん。これは使徒そのものに対するアドバイスになります。使徒という存在が語られている以上にどんな存在なのか、とても端的に言い表せる言葉があるのです」

 それはつまり、ジュンタという使徒を上手く言い表せることができるという意味だった。
 それを語るのもまた、使徒であるフェリシィール・ティンク。これ以上の説得力はない。リオンは一言も聞き逃さないと、湧き上がる決意のために耳を澄ます

「あなたのおっしゃる変わった方、サネアツさん。サネアツさんが人間の範疇にある変人ならば――

 人類の導き手。救い手。天使。善の象徴。神獣。
 そんな風に謳われる『使徒』とはつまるところ、使徒フェリシィールからしてみれば、

――使徒は人外の変態です。この世で一番我が儘な畜生なんですよ」

 …………とりあえずリオンは、返答に大層困った。

 


 

       ◇◆◇


 

 

「そんなわけで、リオンさんの誤解を解いて来たのですが……」

 昼前――再び部屋へとやってきたフェリシィールは、ジュンタの顔を見るなりあらあらと笑う。正確には、その頬に強く刻まれた紅い紅葉マークを見て。

「ジュンタさん。素晴らしい感じの紅葉が見られますが、大丈夫でしょうか?」

「……一応、大丈夫です。昨夜のことは謝れましたし、リオンも謝ってくれました。仲直りできたんだと思います。……ただ、その直後『そういえばあなた、ずっと私のことを騙していたわけですわよね? ですが私は優しいので、これだけで許してさしあげますわ』とか言われて、昨日よりも数倍きつい一撃をもらったわけですが」

 ズキズキと痛む先程リオンより受け取った気持ちを我慢しつつ、ジュンタはフェリシィールを迎えるための準備をする。今度はお茶の用意はせず、椅子を引いて座らせてあげるだけである。

「ありがとうございます。そういう優しいところ、素敵だと思いますよジュンタさん」

「自分がされて嬉しかったことをしているだけですよ。褒めるなら、これが嬉しいことだって気付かせてくれたクーを褒めてあげてください」

「まぁ……! ジュンタさん。今のはわたくし的に、抱きしめたいくらいの殺し文句でした」

「じゃあ、優しいお話を期待します」

 丸テーブルを挟んで、ジュンタはフェリシィールの真向かいの椅子に腰掛ける。

 再び部屋にやってきたフェリシィールの目的が、リオンのことだけであるはずがない。先程リオンとのことで先送りになってしまった本題を、フェリシィールは伝えるために来たのだ。

「では今度こそお話をしましょう。わたくしがここにやってきた、その理由を」

 フェリシィールも今度は前置きを挟むことなく、単刀直入に話し始める。

「まずは一つお聞かせいただいてもよろしいでしょうか? 
 ジュンタさん。あなたは今後の身の振り方を、どのように考えていらっしゃいますか?」

「身の振り方ですか? それは使徒として聖地で生きるのか、それともこのまま黙って生きるのか、そのどちらを選ぶかってことですよね?」

「その二つしか道がないとはいいませんが、大きく分けてしまえばその二つなのでしょうね。
 わたくしたちのように使徒として聖地でお暮らしになられるのでしたら、それは使徒として聖神教に関わっていくということ。それがお嫌なのでしたら、ジュンタさんが使徒であることはわたくしの胸の中にそっとしまっておきましょう」

 ある意味では、ついにその選択をしなければいけないときが来た、という感じだった。

 ジュンタもまた使徒である身として、いつかはきちんとそれを選ばなければいけないと思っていた。以前聖地でフェリシィールに、同じようなことを訊かれたことがある。その時考える時間をもらったので、これまで全く考えていなかったわけではなかった。

「どちらを選ばれるのもジュンタさんの自由です。本来は良くないことなのでしょうが……嫌というのを無理に勧めることはあまりしたくはありません。こう言ってしまっては気分を害されてしまうかもしれませんが、聖地の使徒の数は現在で十分足りています。これが聖地に使徒が一柱かしかいなければ困りますけど」

「使徒としての責務を果たすには、現状で十分だと?」

「そういうことですね。わたくしと使徒ズィール、使徒スイカ。今までの時代がそうであったように、基本的に使徒は最低限二柱いれば大丈夫なのです。三柱いれば、もはや何の問題もないと言えるでしょう」

 使徒は象徴とも呼べる存在であると同時に、聖神教の運営者だ。
 世界の頂点に立つが故に、その権力が独裁的に振るわれたら大変なことになる。よって使徒内では序列なく可否なく、全てが同列の立場となる。

 一柱では困るが、現在聖地には三柱の使徒がいる。歴史的に類を見ない四柱目が現れる必要性はどこにもないのである。

 無論、フェリシィールなら、使徒として生きるといえば快く迎えてくれるだろう。何の裏表もない歓迎は、ジュンタという使徒とクーという巫女に向けられるはずだ。

(つまりは、本当に全部俺次第でいいってことか)

 巫女であるクーは全部この問題については任せてくれていた。ご主人様のいるところが自分の居場所だと言って。どちらを選ぼうとも付いてきてくれるだろう。また、サネアツも同じだ。彼も手を貸してくれる。

(……聖地に行ったら、リオンとは離れることになる。けど、今ならたぶん、別れにはならないんだろうな)

 リオンはきっと付いてくることはできないだろう。彼女にはこのランカでシストラバス家次期当主としてやることがある。けれど、それはお別れにはならない。そう思える程度には、ジュンタはリオンからの友愛を感じられていた。

 どちらを選ぼうとも、ほとんど問題はない。全ては自分の腹一つ――これまで考えてきたこと、これからの未来、全てを考えて、だけどまだジュンタは悩む。

「……そう簡単に出せるような問題ではありませんよね。聖地で使徒を名乗るということは、一生――いえ、未来永劫において使徒として人に認識されるということですから」

「俺には自由でいたいって気持ちがあります。誰かに傅かれるってのは良い気分じゃないんです。だけど、俺が使徒であることは間違いなくて、そこにだってきっと楽しいことがあるはずで」

「だから選べないんですね。ふふっ、やはり使徒とは欲張りなもの。どちらかを諦めたくないなんて、本当に」

 願わくばこのままの日常を。この一瞬から歩いて行ける道を、ゆっくりとマイペースに進んでいきたい。そこに何があるかわからないけど、続いている道を寄り道しつつ、急に何かを決めるのではなく曖昧なまま流されつつ。

 分かれ道ですら両方進みたい――それは確かに欲張りなことだ。行き当たりばったりな歩き方で進んでいきたいなんて、選択を迫られて語るべきことじゃない。

「ただ、俺は後悔だけはしたくないんです。使徒として生きるにしろ、使徒であることを隠して生きるにしろ、それが俺の選んだ道だって胸を張れるように。そこでの出来事が思い出として輝いていられるように……俺は俺の人生全てを、温かな日常にしておきたい」

「それができたら、きっととても素晴らしいのでしょうね」

 フェリシィールはしたり顔で頷いて、金糸の髪をさらりと揺らす。

「だからこそ選べないともいえますが……そうですね。下手に選択肢を縮めてしまうかもしれないので語らないことも考えていましたが、ジュンタさんなら大丈夫だと思いますから、話しても構わないでしょう」

「話しておくこと、ですか?」

 選択を突くのではなく、のんびりと促すように、待つようにフェリシィールは微笑む。それは自分から話すのではなく、話して欲しいのなら話しても良い、という構え方だった。

(話すと選択肢を縮めてしまうかも知れないこと……それはつまり、二つの選択肢に関わることってことだよな? 一つの道は不確定だから、関わるとしたら使徒になる道の方。……使徒として何か、フェリシィールさんは大きなことを行おうとしてるってことか?)

 訊くも訊かないも自由といわれ、その意味合いにも気付いたジュンタ。使徒として生きる道の中、訪れるかも知れない使徒としての試練。オラクルとは別種の、それは使徒であるが故に避けられない試練。……聞かないという選択肢は必要ないように思えた。

「教えてください。何か、フェリシィールさんは使徒としてやろうとしているんですか?」

「鋭いですね。ご察しの通りです。一応これは内緒でお願いしますね。そちらの――

 片目をつぶって唇に人差し指を当てたフェリシィールは、窓の外へと視線を送る。

――かわいらしい子猫の方も、それでお願いします」

 そこには話を盗み聞きしていた、白い子猫の姿があった。

「うむ。了解した、使徒フェリシィール・ティンク。このサネアツ、決して誰にもオモロ情報もらさないことをお約束致しましょう」

「サネアツ。お前いつから……尋ねるだけ無駄か。どうせ最初からだろうしな」

「リオンさんのおっしゃるとおり、とてもおもしろそうな方ですね」

 何の悪びれた風もなく部屋へと入ってきて頭の上に乗ってくるサネアツに、ジュンタは呆れた視線を、フェリシィールは微笑みをそれぞれ送る。

 フェリシィールの瞳に真剣味が帯びたのは、一頻り楽しそうに笑ったあとのこと。

「では、お話致します。使徒であるわたくしが、使徒としてこれから行おうとしている戦いについて」

 戦い――その言葉の聞いて、ジュンタもまた真剣に。サネアツだけが笑みを崩さない。

「先日、レンジャール王国のラバス村にて、異端宗教と認められているベアル教の暗躍が確認されました。他でもない、ジュンタさんたちが解決してくださった『ナレイアラの封印の地』にまつわる事件です。この事件の詳細を、わたくしはクレオメルンさんからうかがいました。
 この事件については、多くが放っておいてはいけない問題です。ベアル教の『純血派』は滅んだとしても、未だ残る盟主を仰ぐ『改革派』……未だ情報の少ない彼らが本格的に動いたことを、あの事件は示してくれましたから」

「ベアル教、か」

 ベアル教――それは異世界に来てからのジュンタにとって、切っても切れない関係にある宗教団体の名前だった。

 この世界においては、聖神教という使徒をトップに仰ぐ宗教が幅をきかせている。
 その浸透率は驚くことに全世界九十九パーセント強。使徒が絶対と呼ばれる理由である。

 もちろん、それ以外の宗教もないとはいえないが、聖神教と比べればあまりに規模も小さい。実際に神の恩恵を受けた使徒がいる聖神教に比べたら、他を信じるのが困難なのも理由にあった。

 そんな宗教事情の中において、聖神教に対して有害な宗教団体を、基本的に『異端宗教』と呼ぶ。ベアル教はこの神聖大陸エンシェルトに根付く、最も巨大で最も悪辣な異端宗教団体である。多くの聖神教に対するテロ活動をベアル教は行っていた。

 ベアル教は大きく二つの派閥に別れていて、その片方の『純血派』は、先日最高導師ビデルの死亡によって費えた。残るは一度は滅びかけたベアル教を建て直した、正体不明の盟主率いる『改革派』のみである。

「ベアル教の目的はドラゴンに至ること。ドラゴンは人にとっての敵です。それは何としても阻止しなければいけないことです。もちろん、ジュンタさんだけは違いますが」

 使徒の本質は神獣であり、ジュンタの神獣形態はドラゴンであった。だからどこか申し訳なさそうに話すフェリシィールだったが、ジュンタは気にしていないと首を横に振る。

「気にしないでください。ドラゴンが現れるってことは、リオンが危ないってことですから」

「そう言っていただけると助かります」

 小さく会釈したフェリシィールは、再び話に戻る。

「ベアル教はドラゴンに至るための方法を模索していたようです。十年前然り、先日然り、何らかの方法によってドラゴンとの接触を試みていたようですから。そして、これらの計画の中枢を担っていた研究者こそ、かの『狂賢者』ディスバリエ・クインシュ」

「先日の事件において、一番に注意するべき点はそこにあるということだな」

「彼女が再びベアル教に手を貸した今、どのような魔手が伸びるか定かではありません」

 サネアツの言葉にフェリシィールは同意を示す。それ程までに、悪名名高い『狂賢者』は警戒すべき相手なのである。

『狂賢者』ディスバリエ・クインシュ――ジュンタは会ったことのない、前回のラバス村での事件の主犯者は、かつてベアル教創設者の一人でもあった賢くも狂った思想を持つ研究者という。

 多くのエルフの子供を実験のためのモルモットにしたり、生まれる前の胎児に魔法陣を刻んだりと、あまりに人道を無視している彼女。彼女がベアル教『改革派』に協力していることは、もはや疑いようもなかった。

「ベアル教の新たな盟主の思惑が変わらずドラゴンに至ることと仮定して、なおかつ先日の『封印の地』の件を考慮してみた結果、我々には素早い対応を取ることが望まれます。即ち、『封印の地』からドラゴンが開放されることによって多くの被害が出るかも知れなかったという危険を、今後は絶対に発生させないための対応です」

「『封印の地』にはドラゴンと十万近い魔獣が封じられているという話。それがもしも人の多い場所で開かれたなら、その被害は相当なものだろうな。
 前回は良かった。ドラゴンが現れる前に全ては片づき、魔獣は押しとどめられ、またあまり人の多くいる場所でもなかったからな。もし失敗していても何とかなっただろう」

「ですが、もしもベアル教が同じように他の『封印の地』を狙ったならば……最悪の事態、ドラゴンが現れ、魔獣の軍勢が人を蹂躙する結果になりましょう」
 
 世界に『封印の地』は三つ。それぞれ『始祖姫』に対応した、彼女らと縁のある地に存在する。
 
 その中において、人の少ない場所に作られているのは、前回の『ナレイアラの封印の地』のみ。残り二つはそれぞれ、大都会と言ってもいい場所に存在する。

「『メロディアの封印の地』は確かエチルア王国で、『アーファリムの封印の地』は……」

「聖地ラグナアーツ。聖神教の総本山にして、人々の希望の縁に他なりません」

 顎に手を当てて発したジュンタの言葉を、フェリシィールが引き継ぐ。

「何があっても聖地だけはドラゴンに、魔獣に蹂躙されてはなりません。人も多く住んでいます。もしも『封印の地』が解放されたなら、とんでもないことになるでしょう。
 無論、わたくしたちも最大の警戒をもってことにあたっています。ですが、新たな力を生み出す『狂賢者』が相手となると、もしもの可能性を否定できません。我々の守りを抜いて『封印の地』を解放することも、もしかしたら可能かも知れませんので」

「それを防ぐために、フェリシィールさんは何かするつもりなんですか?」

 そこまで分かっているフェリシィールが、何もしないはずがない。初めの言葉と合わさって、当然用意しているだろう対抗策をジュンタは訊く。

「後手に回っていてはいけません。『封印の地』が開かれた時点で、どのように阻もうともドラゴンが現世に現れる可能性はあります。ですので、我々は過去の使徒がしなかったことを行おうと思います。此度行われる作戦とは――

 現在、最も古き使徒は金色の眼差しを決意に燃やし、


――こちらから『封印の地』へ出向き、解放される前に全ての魔獣とドラゴンを駆逐します」


 力強く、仕掛けられる前に殺し尽くすと言い放った。

 その戦いが意味している規模を感じて出そうになった呟きを、ジュンタは恐怖心と現実味のなさから飲み込む。

 即ち――『戦争』という二文字を。









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