『アーファリムの封印の地』にいる魔獣の駆逐作戦は、非常に効果的といえよう。 『封印の地』の恐ろしさは、解放された瞬間魔獣の軍勢と共にドラゴンが解き放たれるということにある。しかも一つの場所で侵攻を阻もうとも、他の場所で孔が開通することもある代物だ。 一つの街そのものが開通する可能性のある『封印の地』――その脅威を完全に封じるには、なるほど、『封印の地』にいる全ての敵を倒してしまえばいい。 「魔獣の駆逐を担当するのは、聖殿騎士団の方々です。ある意味では戦争ともいってもいい規模での騎士団の派遣を行う予定でいます。確かに十万の敵を迎え撃つとなればかなりの戦いが繰り広げられるでしょうが、魔獣相手ならば駆逐することは十分可能でしょう」 「ふむ、悪くない作戦だ。聖地そのものから隣にある戦場へと行けるのならば、兵力も物資も滞ることはない。聖殿騎士団を上手く運用すれば、驚くほどに少ない犠牲で魔獣の軍勢は倒すことができるだろう」 「そうすれば、たとえベアル教に『封印の地』を開かれても脅威は現れない。だけど……」 フェリシィールの語ったベアル教への対抗策は、間違いなく良案だ。ただ一つの案件を除いて。 「倒せるんですか? 魔獣だけじゃなくドラゴンまで」 『封印の地』にいるのは、数の暴力という意味で脅威の魔獣の軍勢だけではない。その軍勢を率いる王も存在する。ドラゴンさえ残ってしまえば、『封印の地』の脅威は健在といえよう。 そしてドラゴンは、たとえ聖殿騎士団でも倒せない。 かのドラゴンを倒す方法は、歴史を紐解けば二つのみ。一つはナレイアラの竜殺しの力を用いること。もう一つはかつてメロディアが倒すことができたといわれているように、使徒が相対することの二つだけだ。 「どうやってドラゴンを倒すんですか? まさかリオンを――」 前者を選ぶと犠牲になるのは、竜滅姫であるリオン・シストラバス。ジュンタは若干鋭い視線でフェリシィールを見て、しかしすぐに首を横に振った。 「犠牲にして倒す、ってことをするわけないですよね」 「はい。ある意味この作戦の肝である対ドラゴン策、わたくしは現状使徒による竜滅を考えています。もちろんナレイアラ様の竜滅の力――『不死鳥聖典』による犠牲を出しての竜滅ではなく、純粋な勝負による打倒です」 リオンを元気づけるために動いてくれたフェリシィールが、自ら彼女を犠牲にするやり方を企てるはずがない。自然災害として現れるドラゴンならまだしも、『封印の地』で一応は封じられているドラゴンになんて。 よって、フェリシィールが選ぶのは後者――使徒によるドラゴンの打倒。 しかしそれは千年前メロディアによってのみなされたとされる偉業であり、以後の使徒でもできるといわれているが、自分の実力だけで竜滅を果たした使徒はいない。ジュンタもまた、以前ドラゴンを倒す際には『不死鳥聖典』の行使を余儀なくされた。 『終わりの魔獣』――それは『侵蝕』の守りと圧倒的な再生力を合わせ持つ異物である。 最大の厄災と呼ばれる獣は、首を断とうと心臓を貫こうと死なない。つまるところ倒し方がわからないのだ。 倒すことのできた歴史を鑑みるに、不死ではないのだが常識的な倒し方は通じない。竜殺しそのものに特化した不死鳥の力以外では、メロディアの『魔法』の力が必要となる点ぐらいか。 「現在の使徒なら、ドラゴンを倒せる力を持っているんですか?」 「これはエチルアからのドラゴン研究による一つの見解なのですが、ドラゴンを倒せない理由は、かの獣が使徒と同じ特異能力を持っているためではないか、と言われているんです」 「特異能力?」 「ジュンタさんも知っての通り、特異能力は魔法とも違う唯一無二の力です。これを持つものは使徒とドラゴンのみ。相対する存在といわれているこれらに共通することとして、『人間ではない』という共通点があるんです。 「いえ、知りませんけど。そうなんですか?」 「あら? ……そういわれてしまうと、そのはずなんですよね。これは先達の使徒が代々教えていくものなのですから。なのに、なんだかジュンタさんなら知ってるような気がしてしまって」 木でできた椅子の背もたれに少しもたれかかかって、フェリシィールは一端言葉を止める。そこでほぼ初めて、ジュンタは使徒の寿命という点を気にした。 「そう言えば、俺ってどうなんだ? 神獣の姿になったとき――確か『覚醒』って呼ぶその瞬間から、使徒は歳を取らないんだよな? それってつまり永遠に生きるってことか?」 初めて気付く、寿命という名の問題。 人の寿命は数十年。エルフの寿命は数百年。では使徒は? 使徒であるサクラ・ジュンタは、一体いつまで生き続けるのだろうか? 「いや、それはないだろうな」 その疑問にまず異を挟んだのはサネアツだった。 「使徒が永遠に命尽きない存在であるのなら、現在において使徒が四柱しかいないことに説明がつかない。ユリケンシュ歴――使徒フェリシィールの先代の使徒が作った暦において、一番目から十三番目の月の名は歴代の使徒だ。命が尽きないのなら、それだけの数の使徒が現在でもいないと辻褄があわない。それに聖骸聖典の存在もある」 「その通りです。使徒の骸からなるという聖骸聖典。リオンさんがナレイアラ様の聖骸聖典である『不死鳥聖典』を持っているように、使徒もまた死に至るときが来ます。確かに覚醒した瞬間から使徒は歳を取りません。ですが、寿命という名の死は変わらず迎えるのです」 そうやって自分の胸元に片手を添えたフェリシィールは、まだ若々しい二十代前半の女性に見える。だが最古参の使徒である彼女は、少なくとも百年は生きていた。 使徒とはつまりそういうもの。不老ではあるが不死ではない。限りなく死ににくいだけで、ちゃんと寿命もある存在なのだ。 「わたくしたち使徒の寿命とは、その命が尽きる瞬間をそう呼んでいます。使徒は人知れず死を迎え、その骸を聖骸聖典と変え自分が死んだことを人々に教えます。伝えられているところによれば神の身許に行くのだと言われていますが、実際のところは分かりません」 「つまり、使徒の寿命は使徒ごとに違うってことですか?」 「平均をいうのでしたら、百五十年から二百年の間に没することが多いようですね」 「使徒が生まれる間隔が六十年前後だったな。だとすれば、確かに一つの時代に四柱の使徒が現れることはないということか。いや、逆をいえば四柱目が現れるためには最古参の使徒が死ななければいけないとも言えるな。 そこに何の意図があったのか、四柱の使徒が揃う歴史上初めての現代において、最古参の使徒であるフェリシィールにサネアツは年齢を尋ねる。 瞬間――真剣ながらも穏やかな気配を見せていたフェリシィールの気配が豹変する。背後に圧力を纏う魔力を放出しながらニコニコと笑う。けど、金色の瞳は微塵も笑っていない。 「サネアツさん。女性に年齢を尋ねるのはマナー違反ですよ?」 「イ、イエス・マム。申し訳なかった」 さすがのサネアツも動物的本能から危険を感知し、ジュンタの頭の後ろに隠れてしまう。 「とはいえ、どうやら興味本位ではなさそうなので、お答えしないのもあれですね。 「三柱目の使徒スイカの年齢を考慮してみると、大体百二十前後……ゴメンナサイ。ナンデモアリマセン、マム」 「もう、失礼しちゃいますね。これでもエルフとして考えるのならば、まだまだ若いですのに」 サネアツを眼孔だけで追いやったフェリシィールは、悲しそうに頬に手を寄せる。どうやら彼女に年齢の話はタブーのようだ。絶対に触れてはいけないと肝に銘じておく。 「とにかく使徒にもちゃんと寿命があって、人よりは長く生きるけど永遠に生き続けるわけではないってことですよね? それで死を迎えるとその骸は聖骸聖典になる、と」 聖骸聖典とは、使徒の死骸から誕生する、使徒の特異能力の一部を扱える聖遺物である。行使には資格が必要であり、同じ使徒か没した使徒の血縁しか使えず、さらに行使には行使者の命が必要となる。竜滅姫が竜殺しのために死んでしまうのは、『不死鳥聖典』がナレイアラの聖骸聖典であるためである。 「さて、話を戻しましょうか。つまるところ使徒は人とは別の理の中で生きているのです。故にこその特異能力なのかも知れません。そして、それはドラゴンにもまた言えること。ドラゴンもまた人とは違う、世界を歪める存在として存在している。よって、ドラゴンを倒す方法とは――」 「同じく世界から逸脱している、使徒の力を使うしかないってことですか。よくよく考えてみれば『不死鳥聖典』も使徒の力なわけですからね」 ドラゴンを倒せるのは使徒の力のみ――それは根本的なところに存在する、ドラゴンの絶対性だった。 「それでさっきの質問の続きなんですけど、現在の使徒にドラゴンを倒しうる力を持つ使徒がいるんですか?」 以上を踏まえて再度質問するジュンタに、フェリシィールは当然のこととして頷く。いなければ、彼女がこの作戦を考案するわけがない。 「残念ながら、わたくしの使徒としての力――神獣としての力ではドラゴンには勝てません。良くて足止めが精一杯でしょう。使徒スイカは未だ覚醒を迎えておらず、ドラゴンには対抗できません」 「つまり、対抗できるのは使徒ズィール・シレ」 「そうですね。いえ、あるいはもう一人いるにはいると言ってもいいのですが」 そう言ってフェリシィールの瞳はジュンタに向く。 そう言えばそうだった。ジュンタもまたドラゴンに匹敵する神獣の力を持つ。何せドラゴンそのものが神獣としての姿なのだから、匹敵しないはずがない。 「ご安心を。ジュンタさんにドラゴンを倒して欲しいなどとは頼みませんから。あくまでもドラゴンの相手は使徒ズィールに努めていただきます。もっとも、彼が了承してくれたならの話ですが……無理でしたら、この作戦そのものがなかったことになりますね」 「あくまでも危険性の出ない範囲での決行が前提、というわけか」 「そういうことです」 立ち直ったサネアツのまとめにフェリシィールは頷いた。 「さて、ご理解いただけましたでしょうか? これが使徒の世界の一端であり、もしも使徒として生きる道をジュンタさんが選ばれましたら、関わらないといけなくなるかも知れない事件の概要です。詳細をいえば色々と問題もあるのですが……ここから先はお教えできません」 「俺が使徒の道を選んだら、その先も教えてくれるんですか?」 フェリシィールは小さく笑って、どこか子供を見守る母親のような眼差しだけを送る。自分で決めなさい。と、その無言の視線が物語っているようだった。 「ここから先は、万事ジュンタさん次第です。どちらを選ぼうとも構いません」 「ジュンタさん。あなたはもう五番目のオラクルに挑んでいるのですか?」 「そうですけど……それが、何か?」 フェリシィールの反応を怪訝に思いつつ、ジュンタは隠すことでもないのではっきりと答える。 するとフェリシィールは何やら考える素振りを見せた。 「使徒フェリシィール・ティンク。ジュンタがオラクルの五番目に挑戦していることに何か問題でも?」 「問題は……ありません。ただ、予想外でしたので。わたくしに比べてあまりに早い五番目への到達でしたから、少々驚いてしまいました」 「俺のオラクル達成速度はそんなに速いんですか?」 「ええ。少なくともわたくしが五番目のオラクルに挑戦したのは、二十才をいくらか超えたあとのことでしたから」 視線を鋭くさせてしまったことに気付いたのか、フェリシィールは穏やかな表情を取り繕うとして、しかし失敗した。威圧するような視線こそ消えたものの、フェリシィールから発せられる奇妙な緊張感は健在だった。 フェリシィールの表情は、これまでの話よりも真剣だった。 「その義務が、五番目のオラクルに関することってわけなんですね?」 「はい。使徒の間においても、どのようなオラクルを自分が負っているは秘匿するべきとされていますが、五番目のオラクルだけは例外なのです。なぜかといえば、五番目のオラクルに限っては一人一人異なるオラクルに置いて、全ての使徒が共通としているからなのです」 「オラクルが共通……?」 オラクルは使徒それぞれで異なるという。他の使徒に訊くべきではないと思うので訊いたことはなかったが、それは事実のように思えた。 「ジュンタさん。あなたの五番目のオラクルは『生命に触れよ』、ではないでしょうか?」 「そうです。俺の五番目のオラクルは『生命に触れよ』でした……フェリシィールさんもそうだったんですか?」 「わたくしも、そしてわたくしにこのことを教えてくれた使徒の五番目のオラクルもまた、『生命に触れよ』でした。これだけは全ての使徒が共通なのです。故に、このオラクルだけは先達の使徒より達成の方法を教えてもらうことができるのです」 使徒それぞれで異なるオラクル。これには例外があった。それこそクリアが困難とされる五番目のオラクル。が、だとすると解せない。フェリシィールの話を聞くに、代々使徒が使徒へとクリアの方法を継がせているのだとするなら、達成方法が判明している五番目は酷く簡単になるはずなのに…… 「わたくしもまた教えていただきました。ですからわたくしも努めとして、あなたに五番目のオラクルについてお教えしましょう」 義務を果たすと言うには、まったく嬉しそうではないフェリシィール。 「『生命に触れよ』――この意味はある意味本当に簡単なのです。つまりは人の命をこの手でしっかりと感じられる瞬間を味わえばいいのですから」 「それは、つまりどういうことですか?」 訊かなければ良かった。と、訊いてからジュンタは後悔する。 元よりオラクルになど興味はなかったのだから、フェリシィールが言い淀むような方法なんて聞くべきではなかったのだ。しかしもう遅い。尋ねられたことでフェリシィールは、その口を開いてしまった。 「端的に申し上げさせていただきます。五番目のオラクル『生命に触れよ』。その達成方法は――」 五番目のオラクルをすでに達成した金糸の使徒は、自分の両手を見つめ、酷く透明な声で言う。 「――――人の命をその手で奪うこと、です」 ◇◆◇ 「使徒として生きるか。それとも使徒であることを隠して生きるか……そうなんだよな。そろそろそういうことも真剣に考えていくべきなんだよな」 夜――『鬼の篝火亭』で間借りしている部屋。ジュンタはベッドに寝転がり、頭の後ろで腕を組んで今日フェリシィールに言われたことを考えていた。 耳には、隣のベッドで眠るラッシャの高いびき。 「なぁ、どう思うよサネアツ。俺は一体、どっちの道を選ぶべきなんだろうな?」 「また無意味な質問をするではないか。俺が何を答えようと、お前の出す答えに影響などほとんどないだろうに。それにジュンタの人生はジュンタだけのものだ。そこに俺が口出しする権利はないだろう。別にどちらかを選ぶと不幸になるというわけではないのだからな」 「だよなぁ……」 どちらを選ぼうとも誰にも迷惑がかからない。自分の好みだけで決められるというのは、故にこそ少しばかり難しかった。 「フェリシィールさんはこれから本格的に『封印の地』への対応で忙しくなるって言ってたし、たぶんその前に聞きに来たんだろうな。明日まで待ってもらったんだ。これ以上答えを引き延ばすのは遠慮したい……って、ん?」 サネアツと小声で話しをしていると、部屋の扉が少しだけ開いた。 軽く身体を起こして扉を見てみると、廊下から覗き込む蒼い瞳と目があった。 「ごめんなさい、ご主人様。もしかして起こしてしまいましたか?」 「いや、寝てなかったよ。クーこそてっきり、今日もリオンの屋敷に泊まって、フェリシィールさんに抱き枕にされているかと思ってたけど」 やってきたのはクーであり、どうやらシストラバス家の客間に今日は泊まるフェリシィールと一緒に泊まるのではなく、店へと戻ってきたらしい。 「はい。フェリシィール様にも引き留められたんですが、やはり巫女たるものご主人様と一緒にいないといけないと思いましたから」 「……もしかして、何かフェリシィールさんに聞いたのか?」 「はうっ、一瞬でばれてしまいました!」 「フェリシィールさんからって言うと、もしかして五番目のオラクルについてか?」 「……ご主人様には隠し事はできませんね。はい、その通りです。フェリシィール様から五番目のオラクル――『生命に触れろ』が人の命を奪うことだと聞いて、優しいご主人様は悩んでいらっしゃるのではないかと、そう心配になってしまって……ごめんなさい」 「馬鹿だな、謝る必要性はどこにもないだろ」 しゅんと肩を落としたクーの姿に、ベッドに座り込んでジュンタは苦笑する。 「ルドールさんとフェリシィールさんともっと一緒にいたかっただろうに……ありがとうな、俺を心配して来てくれて」 「い、いえ、ご主人様の隣こそ私の居場所ですから」 クーは赤くなって手に持っていた帽子をもじもじと動かし始めた。 「なんだか、あれです。ご主人様をお慰めにやって来たのに、なぜか私が慰められているような感じです」 「気にしない気にしない。確かに俺は悩んでいるけど、それはオラクルに対してじゃないから。――そうだな。巫女であるクーにはきちんと言っておくべきか」 「クー。お前が巫女として、俺がオラクルを果たす手伝いをしようとしてくれているのは知ってる。でも、俺は悪いけどオラクルに関しては正直どうでもいいんだ」 真剣な眼差しでクーを見て、ジュンタは今まで深くは伝えなかったことを、今日こそきちんと述べた。 「俺が自分なりに動いた結果達成したのならともかく、自分の意を曲げてまでオラクルを達成するために行動はできない。したくない。今回の五番目のオラクルは、俺にとっては最悪だ。多くの使徒にとって困難とかそういう問題じゃない。俺は、このオラクルだけはクリアしないつもりだ」 「ご主人様……」 「だから、クーにもそれを分かって欲しい。認めて欲しい。 巫女であることを誇りと思っているクーだから、それはきっとショックなことだろうと思った。しかし、クーという少女を甘く見ていたということか――クーが浮かべた表情に残念という感情は一切なく、ただ温かな微笑みだけがそこにはあった。 「当然です。むしろ私からお願いしたいです。ご主人様の気持ち、私にはとってもよく分かりますから。きっとご主人様ならそんな結論を出すって、そう分かっていましたから。 「クー……」 「巫女としてずっとご主人様のお側にいさせてください。オラクルという巫女の義務を果たさない代わりに、私はいかなることにも首を縦に振りますから。ご主人様がどのような決断をしても、あなたの巫女はあなたのお側を絶対に離れません」 「そうか……うん、ありがとう」 自分に自信のないクーの、それでも絶対という言葉がつけられた誓い――改めてジュンタはクーヴェルシェン・リアーシラミリィという、自分にとって大切な少女がずっと一緒にいてくれることを知り、気恥ずかしくなって首の後ろに触れた。 そこで――じっとこちらを見つめてくるニヤニヤと笑う瞳の存在を思い出す。 「なんというか、あれだな。俺は完全に蚊帳の外。いや、一向に構わんのだが。 「さ、サネアツ。お前な」 「ご主人様はご自分がこれからどうやって生きていこうかお悩みだったんですか?」 サネアツのニヤニヤ笑いに盛大に顔を赤く染めるジュンタとは違って、ケロリとしているクーは気になる部分だけに反応を示した。すごい。クーにとっては、あの程度の恥ずかしい台詞はまったく恥じる必要がないらしい。 (俺一人が恥ずかしがってるからサネアツを調子に乗らせるんだ。平常心、平常心。これからずっとクーやサネアツと一緒に過ごしていくんだから、この程度で狼狽えていたらきりがないぞ、俺) クールダウンを自分に言い聞かせたジュンタは肩の上へと乗ってくるサネアツを半ば無視して、ベッドの自分の隣部分を軽く叩き、クーに勧める。 「実はな。今日フェリシィールさんに言われたんだ。で、そろそろ真剣に悩むべきかと思ってさ。使徒として生きていくか、それとも使徒であることを隠して生きていくべきか。 「そんな。私はただご主人様に付いていくだけです。ご主人様の決定に口を挟むなんてそんなこと……」 手をわたわたと振って、クーは隣に畏まるように座る。 「ですけど、少しだけ思ったことを言ってもよろしいでしょうか?」 「言ってくれるとむしろ助かるな」 「では僭越ながら。私は、両方とも選ぶという選択肢があってもいいと思うんです」 「両方とも、選ぶ……?」 「はい。ご主人様は片方の道を選んで、もう片方の道にある未来を完全に諦めることが嫌だとおっしゃられるのですよね? でしたら私は両方ともを得られる三つ目の道を自分で作ってしまえばいいと思います。ご主人様ならそれができると、そう思いますから」 クーがはっきりと述べた意見に、ジュンタはサネアツと顔を見合わせて黙り込む。 「…………」 「…………」 「…………あの、とても馬鹿な意見、でしたでしょうか? でしたら忘れていただいて結構なんですけど……」 本心からの言葉だったのか、沈黙に耐えられなくなったクーがへなりと長い耳を垂らす。ジュンタは無言のまま、クーの頭を力強く、少し乱暴に褒め称えるようわしゃわしゃと撫で上げた。 「いや、確かにそれはちょっと馬鹿かも知れない選び方だけど……悪くないな。うん、全然悪くない。ありがたいよ、本当。お陰で、どっちの悩みに対しても大切なことがわかった気がするから」 サネアツもまた得心がいったというようにニヤリと笑って、 「なるほどな。非常にそれは納得がいく理由だ。では、始めるとするか」 逃げるためでも隠れるためでもなく――戦うために。 「はい、先生。俺は聖地ラグナアーツに行ってきます」 早朝。朝食の席にいたトーユーズに対して、ジュンタは昨夜決めた結論について話していた。 トーユーズ・ラバスは『鬼の篝火亭』のオーナーにして剣の師だ。しばらくランカを離れることになるのなら、話を通しておく必要性があった。 「それは何? つまり、使徒として聖地で生きていくってことかしら?」 真剣な表情になったトーユーズは、持っていた箸をテーブルの上において、じっと覚悟を問い質すように視線を投げかけてきた。 その視線を真っ向から受け止めて、ジュンタは首を横に振った。 「いえ、使徒として生きていくかどうかは、もう少し悩んでみるつもりです。 「ベアル教を倒すために、ってことね。なるほどねぇ。使徒として生きるかはまだ分からないけど、別に使徒としてやるべきことにまだ手を出しちゃいけないって道理はないわね」 「俺もそう思いました。使徒として生きていくかどうかを決める前に、俺は今のままこの問題には関わるつもりです。まぁ、フェリシィールさんを説得できたらの話ですけど」 昨日フェリシィールから教えられたときから、ずっと気になっていた。 ベアル教の魔手を食い止めるために、『封印の地』の魔獣たちを倒すこと。それは聖地の人々を救う行為であり、ベアル教を倒すための行為でもある。少なくともその過程でベアル教との交戦はあるだろう。 この世界にやってきてから何かと関わったベアル教。大切なものに何度も手を出された。そのたびに戦って、抗って、何とか大切なものを守り抜いてきた。 その中で芽生えた想いは確かにあったのだ。即ち、ベアル教はサクラ・ジュンタの敵だ、という想いが。 『ベアル教と決着を付けたい。日常を守るためにも。それをフェリシィールさんがやるっていうなら俺は協力したい。俺が狙われているから保護されるんじゃなくて、戦うために聖地へ行く』 しかしジュンタには、サネアツにも語らぬ今回の一件に参加したいもう一つの理由があった。 (俺に興味を示してるっていう『狂賢者』ディスバリエ・クインシュ。ドラゴンを知ろうと研究してるそいつなら、もしかしたら今俺を蝕んでる闇を、どうにかする方法を知ってるかも知れない) 現状、今後を決めるよりももっと優先すべき事柄が存在した。 これはドラゴンというあまり知られていない存在に関わるものが原因の可能性もあった。以前出会った自分以外のドラゴンは、それらしきことを示唆していた。ならば、ドラゴンを知る『狂賢者』に会えば何か解決方法が見つかるかも知れない。それに『アーファリムの封印の地』に踏み込むならば、件のドラゴンとも会う機会があるだろう。 (フェリシィールさんには悪いけど、大人しくはしてられないな) 苦労性っぽい使徒に心労をかけるのは申し訳ないが、ここは年上としてがんばってもらおう。 「すみません。オフレコらしいんでどんなことをするのか今は言えないんですけど、聖地の問題なので。一応はグラスベルト王国の『騎士百傑』の先生と一緒には行けないんですよ」 「一応だなんて酷いわね。あたしは歴とした『騎士百傑』、序列十二位『誉れ高き稲妻』のトーユーズよ。まぁ、でもジュンタ君に何かあったら、すぐに猪突猛進団長に三行半を叩き付けて助けに駆けつけてあげるから。だから気楽に行ってらっしゃいな」 右目を閉じて、泣きぼくろが色っぽい右目で流し目を送ってくるトーユーズは艶らしく微笑むと、先生として快く送り出してくれる。 それでもやはり、『誉れ高き稲妻』として一つだけ言うべきことも忘れない。 「でも、忘れちゃダメよ。いついかなる時も格好良く、だからね」 「はい、先生。格好良くをやってきます」 ◇◆◇ 困った風に微笑んだフェリシィールは、それでも最後には『仕方ありませんね』と言って出した結論を受け入れてくれた。 「本当に我が儘ですね、ジュンタさんは。聖地に来てくれる条件が、ベアル教との決着には協力したいだなんて」 「すみません。でも、これが俺の悩んだ末の結論です」 『鬼の篝火亭』の店長にしばらくお暇をもらうために一日働いてから、聖地へと戻るフェリシィールに出した結論を伝えるためにも、夕陽の下、ジュンタはクーと共に見送りに来ていた。 ルドールはすでに今朝ランカを出立したらしい。どうして使徒と一緒に行動しないのかは謎だが、きっと急ぎの用事が彼にはあったのだろう。 「ジュンタさん。協力してくれるといっても、まだ幼いあなたをわたくしは危険な目に合わせることには反対ですから。それだけは覚えておいてください」 釘を刺すようなことを言ってから、フェリシィールはにっこりと満面の笑みを浮かべ、 「それでは、わたくしは一足早く聖地に戻らせていただきますね。道中のことについてはミスタ・シストラバスにお願いをしてありますので。ご安心ください。 そのまま使徒同士の話を前に黙りを決めていたクーを、力いっぱい抱きしめた。 「――クーちゃんが帰ってくるのも楽しみにしていますからね」 「フェ、フェリシィール様!」 「ジュンタさんを危険なことに巻き込みかねないのは気が引けますけど、ジュンタさんと一緒にクーちゃんも聖地にしばらく帰ってきてくれるのはとても嬉しいことです。いえ、もうクーちゃんの帰るべきはジュンタさんの胸の中ですか。遊びに来てくれると言った方がいいですね」 「フェリシィール様……はい。私は巫女として、ご主人様と一緒に全力を尽くさせていただきます」 「はい、とてもいい返事です。良くできました」 クーの感触を堪能するように長く抱きしめてから、身体を離してフェリシィールは背を向ける。 「それじゃあ、フェリシィールさん。また後日」 「お気を付けて」 「ええ。また、すぐにお会いしましょう。今度は聖地ラグナアーツで」 あいさつを交わして、フェリシィールは去っていく。その周りにはお供の人間や馬車はなく、見送ってからジュンタははてと首を傾げた。 「フェリシィールさん。使徒なのに一人歩いて帰るのか?」 「いえ、ご主人様。フェリシィール様は移動時間短縮のために――」 そのときフェリシィールの身体が白い光に包まれた。それは眩い輝きを辺りに撒き散らし、一際強い閃光が瞬いた後、跡形もなく消える。包み込んだフェリシィールと共に。 「おじいちゃんの使う[召喚魔法]で、おじいちゃんのところまで一瞬で移動するんです」 「なるほど。時間短縮のためだけに最高位の魔法を使うなんて……さすがは使徒ってところか」 移動の時間すら惜しむほどに忙しいのか――ジュンタはのんびりマイペースそうに見えて忙しいフェリシィールを見送って、ちょっぴり使徒として聖地で生きることを考えるのであった。ついでにそんな彼女に気苦労をかけた自分が、少しだけ男として悲しかった。 ◇◆◇ ジュンタは自室にて聖地へと持っていくものを揃えていく。とはいえ、持っていくものは故郷の世界から持ってきた荷物全てである。それに加えて双剣ぐらいものだ。 季節が夏の今、ジュンタは当初は着ていた制服の上着を脱ぎ、半袖のカッターシャツ姿のことが多かった。ある意味では故郷への名残のようなものか。リュックへとしまおうと紺に近い制服を手に取ったジュンタは、その痛み具合にしみじみとこれまでを思う。 「そうだよな。何度も破れたり、解れたり、穴が開いたりしたんだ。制服がボロボロになるのも当たり前か」 破れたりしたところは、そのたびにクーが繕ってくれた。だが、さすがに限界はある。傷つけてしまう割合が非常に高かったものだから、むしろまだ着られる範囲なのがすごいと言えよう。 カッターの替えこそあるが、制服の上着の替えは持ってきていない。 「……そろそろ、この服ともお別れかな」 涼しくなってきても、またこの制服に袖を通すかはわからない。異世界の服に比べたら着心地のいい上着だが、そろそろご苦労様としまってもいい頃合いかも知れない。 「観鞘市から旅立って、もう三ヶ月以上経ってるんだよな。いや、まだ三ヶ月か……どちらにしろ、向こうの一年以上に匹敵する密度だったの間違いない」 クーとの出会いとベアル教との最初の戦い。武競祭とリオンとの再会。聖地でのドラゴンとの戦い。ラバス村でのウェイトンとの決着……故郷にいたころには考えもしなかった非日常の連続。だが、今のサクラ・ジュンタには日常となってしまったもの。 「日常はある日唐突に手のひらからこぼれ落ちた。だから、今度は手から落とさない。守ってみせる。今度は絶対に」 制服をリュックの中にしまったジュンタは、きつく荷物の封を閉じる。 今までの戦いは巻き込まれる形が多かった。旅の途中、寄り道した場所で災難に巻き込まれ、大切な人が巻き込まれ、それを助ける形でがんばったという形が多かった。だけど、受け身なだけじゃもうダメなのだ。日常を守るのなら、今度は自分から決着をつけなければ。 そう、これから聖地へは巡礼に行くのではない。 「戦い、か。熱い性格になってきたのは、まぁいいとして。ならこれも持っていくべきか」 それは武競祭の折、防具として身につけていた漆黒の『竜の鱗鎧』。 これまでは受け身での戦闘だったので、わざわざこれを持ち込むことはなかった。しかし今回は戦いことが分かっている。戦うために、万全の準備を整えるべきだろう。 「もう一度、悪いけど力を貸してもらう。また身体をなくすかも知れないけど……頼むな、『竜の鱗鎧』」 最初はその身の禍々しさに腰が引けたが、今ではそれすらも愛着と変わった。持っていくとなると他の人間にダメージが行くかも知れないが、そこは身につけることでカバーしよう。 「リオンがいると怒られそうだけど、今回あいつはいないし」 甲冑を一つずつつけていく。まだ聖地に向かうだけだが、他の人へと影響を出さないという観点とは別の部分で、なぜか今はこれをつけてこのランカを後にしたかった。 「ちゃんと治してこないとな。それで、そのときこそまたリオンに……」 『竜の鱗鎧』の纏う魔力とは違う、紛れもない呪いの闇――これをどうにかしないかぎり、日常を本当の意味では楽しめない。片思いの相手に、またアタックすることも叶わない。 リオン・シストラバス――二度告白して、振られてしまった女の子。 女々しい気もするが、それでもまだジュンタはリオンのことが好きだった。 今回聖地に赴くことを、ジュンタはリオンには言っていなかった。 「よし、それじゃあ行くか。これ以上クーたちを待たせるのは悪いからな」 甲冑をつけたジュンタはリュックを背負い、脇に紅い毛をなびかせる兜を抱えて、部屋を後にする。 「しばらくの間――じゃあな、リオン。次帰ってくるときには、もう少し格好いい俺になってるから」 ――という感じで、一人感慨深く出発の合図をしたジュンタが『鬼の篝火亭』を出たとき、全てを嘲笑うかのようにそこにいたのは…… 「遅いですわよ! いつまで待たせますのよ!!」 「…………」 「すでにフェリシィール様は二日も前にお戻りになられましたのよ? ランカから聖地までは馬車で三日の道のり。一分一秒がもったいないことを承知していまして?」 「…………いや、というか……なんで出かける準備してるんでしょうか? リオンさん」 「はぁ? あなたこそ何言ってますのよ? 私も聖地に招集されたからに決まってますわ」 「……………………………………はぁ!? 聞いてないぞ、そんなの!?」 店の前で大きな二台の馬車を背にして仁王立ちしていたリオンの言葉に、ジュンタは思わず叫んでしまう。さっきあんな風に一人リオンとのしばしの別れを決意したというのに、なんだそれ? 「な、なんでお前まで? フェリシィールさんはドラゴンを倒すためにリオンの手は借りないって言ってのに」 「いや、それは少し違うよジュンタ君。正確には『不死鳥聖典』の力を借りないだけで、シストラバス家――対ドラゴンの騎士として、千年研鑽してきた力は貸して欲しいとフェリシィール様から直々に頼まれているからね」 疑問の声をあげるジュンタに、ゴッゾが説明をくれた。 「ご主人様はフェリシィール様からそのことについて聞かされていなかったのですか?」 「と言うことはクーは聞いてたのか……くそぅ、あの人。クーに早く会いたいからって、重要なところはしょったな」 リオンもまた聖地へと行くのは周知の事実だったのか、馬車の方では着々とユースが出立の準備を続けているし、サネアツはサネアツでなぜか馬車の上で多くの猫たちに何かを言い含めている。リオンがいることに驚いたのは、ジュンタだけだった。 「…………なるほどね。つまりはさっきの俺の言葉は、一人羞恥プレイだったわけか」 「何ぶつぶつと呟いていますの? さっさと馬車に乗り込みなさい。折角私が二台も馬車を用意してあげたのですから……なんですのよ。知らなかったならそれはそれで、私が同行することを喜ぶのが筋ではありませんの」 目を吊り上げたリオンは、ふてくされたように馬車へと乗り込んでいく。 「ほら、クーも早く乗りなさい」 「ですけど、やはりご主人様を置いて私が立派な馬車の方に乗るわけには……」 「そんな小さなことを一々気にするのではありませんわ。あなたが乗らないのでしたら、ジュンタ一人だけ歩いて行かせますわよ」 「そ、それはダメです! はいっ、僭越ながら同席させていただきます!」 どうやらすでに誰がどの馬車に乗るかは決まっていたらしい。リオンが乗り込んだ立派な馬車にクーが慌てて乗り込んで、その御者台にはメイド服のユースが座って手綱を握る。広々とした内部スペースにはまだ乗るところがあるのだが、リオンは容赦なく扉を閉めた。 「ということは、俺は荷物と一緒か……」 もう片方の馬車にはユースがリオンのために準備したと思しき大量の荷物が載せられていた。貴賓者用のとは違い、多く荷を積むために席は申し訳程度の揺れ防止しかされていない。リオンの機嫌を損ねたジュンタがそちらに乗り込むことは、もう誰の目を見ても明らかだった。 (サネアツはサネアツで、ちゃっかり向こうの馬車に乗り込んでるし……いや、馬車なだけいいんだろうけどさ) 「あれ? ゴッゾさんはリオンの方に乗るんじゃないんですか?」 「ああ、いや。私はまだ聖地の方には向かわないんだよ」 「お父様は後から、我が家の騎士たちと一緒に向かわれますのよ。今日はわざわざ忙しい中見送りにきてくださったのです。感謝しなさい」 馬車の中から話を聞いていたリオンが口を挟んでいる。声は刺々しい。 逆に見送りに来てくれたゴッゾは柔和な笑みを浮かべていた。最近、それがニヤニヤ笑いと同義であることを、否が応にもジュンタは理解していたが。 「いやいや、ジュンタ君が本当に感謝すべきは、本来なら私と一緒に行けばいいのに、ジュンタ君と一緒に行きたくて慌てて今日出立しようとしているリオンにだね」 「え?」 「なななっ! お、お父様!?」 「前回フェリシィール様のちょっとした悪戯で学んでね、聖地の方にも別邸を用意しておいたんだ。リオンはそっちの方に滞在することになっていて――ああ、そうだ。ジュンタ君、聞いたよ。使徒として生きることはまだ決めてないようだね。なら、神居に居続けるのも居心地が悪いだろう? 何ならリオンと一緒に別邸で過ごてくれて構わないよ」 「お、お父様――ッ!」 リオンの声はもう悲鳴に近かった。 見えない角度に座ったため様子はわからないが、微笑ましそうな顔をしているクーを見るに、きっとすごいおもしろい顔をしていることだろう。 「ちなみに、リオンの誕生会もそこで今年は行われることになりそうだ。急なことでね、人手が足りないんだ。できればそのためにもジュンタ君にはリオンと一つ屋根の下で暮らしていて欲しいんだが……どうだろう?」 「そうですね。フェリシィールさんやクーと相談して決めます」 「――、――!」 「り、リオンさん! まずいぐらいに顔が真っ赤になってますよぅ!」 その時リオンが出した悲鳴はもう声にすらなっていなかった。 クーは暴れるリオンを宥めている。サネアツは猫たちとなぜか合唱していて、ゴッゾは何やらユースに親指を立てている。クールビューティーは何の躊躇もなく無表情でグッと親指を立て返した。 ……うん。何というか、本当に戦うことを決意しても変わらない。今度の日常は何というか、とてつもなく騒がしくて個性的らしい。戦いの場までその個性を持ち込んできやがるつもりのようだ。 ゴッゾに見送られたジュンタは、揺れるリオンたちの馬車に苦笑を送りつつもう片方の馬車へと乗り込む。 荷物がきちんと積まれたそこの御者台にいたのは見知った顔――ラッシャ・エダクールだった。 「ラッシャ。朝から見ないと思ったら、お前こんなところに……」 「おう、ジュンタ。実は人手が足りないっちゅうことで、一時的に旦那に雇ってもらったんよ。ついでに姐さんからジュンタがピンチになったら、知らせてくれって頼まれたしな。ま、もういっぺん聖地にも行ってみたかったし、これも将来への布石や! いやっほーう、とうるさいラッシャの妄想を兜ではたいて止めたあたりで、ようやくジュンタはリオンの同行を呑み込むことができた。ついでに猛烈に甲冑を脱ぎたくなる。どうせラッシャは鈍いから大丈夫だし。 「結局、今回もほとんど変わらない面子か。うわぁ、絶対にこれトラブルに巻き込まれるな」 と言いつつも、これが一番に楽しい時間なので、ジュンタの顔には笑み以外は何も存在していなかった。
第三話 戦うことを選んで
ジュンタさんはご存じでしょうか? 使徒は不老ではありますが、寿命と呼ぶべきものは存在していることを」
――はっきり訊こう、最古参の使徒よ。貴公の年齢はいかほどなのだ?」
フェリシィールはすぐに元に戻ったのだが、サネアツはしばらく震えて出てこなかった。
そうですね……わたくしの次に生まれた使徒ズィールの年齢が五十六才、とだけ答えておきましょうか。少なくとも使徒の寿命がやってくる年齢には差しかかかっていません。もっとも、こうして見るはずのない四柱目の使徒を見ているわけですが」
椅子から立ち上がろうとするフェリシィールに、気が付けばジュンタは声をかけていた。
「……でも、フェリシィールさんは俺に聖地へと来て欲しいんですよね?」
フェリシィールの動き止まる。彼女は一度瞬きすると、苦笑を見せた。
「どうしてそうお思いしたのか、教えてもらっても良ろしかったですか?」
「簡単なことです。前にフェリシィールさんは俺に任せるって言ってくれました。だけど、今急に答えを求めてきた。そこに何か狙いがないとは思えませんよ」
「ついでにいえば、極秘段階の作戦を話したことといい、まるで聖地へと誘っているようにしか見えんな」
ジュンタのあとに続いて、くいくいとサネアツが招き猫の真似をする。
フェリシィールはジュンタの言葉よりもサネアツの仕草に苦笑を強めると、
「あなた方を騙すには、少しわたくしは若すぎましたか。はい、その通りです。わたくし、本音ではジュンタさんには聖地ラグナアーツへ来て欲しいと思っていたのです」
「どうして、って訊いても?」
「構いません。簡単なことですから。
いいですか? ジュンタさん。腹を割ってお話をさせていただくなら、あなたは現在酷く危険な状況下にいます」
「……詳しくお願いします」
フェリシィールは頷くと、再び椅子に腰掛ける。
「先にも言ったとおり、当面聖神教は『封印の地』の問題にかかりきりになると思います。正確には、『封印の地』を悪用するベアル教への対応ですね。そしてベアル教はドラゴンを神と崇める宗教団体。『狂賢者』は必ずや、ジュンタさんに対して何かしらのアプローチを仕掛けてくることでしょう」
「ディスバリエ・クインシュは、俺がドラゴンの神獣だってことに気付いているんですね?」
「そちらの確率の方が高いでしょう。ラバス村での一件で、彼女に気付かれた可能性は非常に高い。仲間に誘われるのか、それとも誘拐されるのかはわかりませんが、間違いなく『狂賢者』はあなたへ興味を抱いていることでしょう」
「それじゃあ、フェリシィールさんが俺に聖地へと来て欲しいと思っているのは……?」
「聖地の中ならわたくしの権限でジュンタさんを守ることができます。グラスベルト王国ではわたくしはあまり自分勝手なことはできません。使徒として生きるかどうかは置いておいて、どちらにしろしばらくの間、ジュンタさんには聖地ラグナアーツへと来ていただくつもりでした」
最初から本当のことをいわなかったのは、不安にさせないためか。申し訳なさそうに頭を下げるフェリシィールに文句をいうことなど、ジュンタにはできない。
「頭を下げたりなんかしないでください。心配してくれたっていうなら、俺がお礼をいうべきなんですから」
「ええ、そうおっしゃられるなら。それでどうでしょう? ジュンタさん。聖地の方へと来てはもらえませんか? 遅くても二月以上はかけません。ご自身の安全のために、せめてベアル教の脅威が消え去るまでは」
フェリシィールの気持ちは痛いほどわかったし、ありがたいとは思ったが、ジュンタは即答できなかった。
まだ将来について悩んでていいということは正直助かったのだが、変に心に違和感があるのだ。このまま頷くのに違和感を感じるのだ。
「もしもランカに残られるというなら、せめて数人護衛をつけさせてください」
ジュンタの迷いを察したのか、フェリシィールが次善の策を口にする。
「ミスタ・シストラバスへと先程お願いをして参りました。数人ジュンタさんへ護衛として騎士の方をつけてください、と。正直なところ、これまでジュンタさんの身が安全だったのは、住居の方に騎士トーユーズ、周りにリオンさんを始めとする手練れがいつも一緒にいたからなのです。不自由かとは思いますが、最低限誰かと一緒の行動は認めてください」
「まぁ、それくらいは仕方がないだろうな」
フェリシィールのお願いに、今まで黙って聞いていたサネアツも同意を示す。恐らくジュンタよりサネアツの方がベアル教の脅威がはっきりとわかっているのだろう。
「……ベアル教、か」
使徒という立場がある以上、こういったことも仕方ないとは受け入れているも、それでもやはりどこかフェリシィールの案に納得できない自分がいた。
「ごめんなさい。一日だけ時間をください」
一体何が受け入れられないのか、それがわからないままにジュンタは頭を下げた。
「そうですね、あまりに急な話になってしまいましたし……わかりました。わたくしも明日まではシストラバス邸で泊めてもらう予定でしたので、また明日改めて尋ねることとしましょう」
「ありがとうございます。それまでには覚悟を決めておきますから。どうやって生きようと、俺は使徒。今回のことだって、一つ目のオラクルが勝手に向こうからやってきたみたいに、舞い込んできた災害だと思って覚悟を決めます」
「わたくしもわかることですが……お互いに大変ですね。使徒として生まれた以上、決して避けては通れない道がある。どんなに拒もうとも、どんなに目を背けても、立ちふさがる問題がある。神は、何故我々に試練を与えるのか……」
自らの手を見つめたフェリシィールは、そこではっとなって笑顔を取り繕った。
「ごめんなさいっ、おかしなことを。そういえば、かなり長居をしてしまいました」
慌てて立ち上がるフェリシィールへと、ジュンタは苦笑を浮かべる。どこかフェリシィールの慌て方がクーに似ていたからだ。いや、クーの慌て方がフェリシィールに似ているのか。
優しいところも似ているし、やけに保護欲がわく。なんというか絶対に怒れない感覚とでもいうのか。かなり年上だということがわかっているのに、まるで年下の女の子のように感じてしまう。
「いえ、気にしないでください。正直ものすごくためになりましたし」
きっと微笑ましいといえばむくれてしまいそうなフェリシィールに、ジュンタは込み上げる笑いをこらえながら立ち上がってフォローをいれる。
フォロー以上の考えは、そこにはなかった。
「自覚した、っていうんですかね? 舞い込んでくる問題が、五つ目のオラクルに関することだけじゃないって自覚が――」
「――――今、五番目のオラクルと申されましたか?」
フェリシィールが、そのとき鋭い視線になると共に笑みを消した。
一体何を考えているのか――先に気になって尋ねたのはサネアツの方だった。
「……使徒には自分よりも後に使徒になった者に、先達の使徒より伝えられたものを伝えるという義務があります。主に聖神教に関することが多いですが……オラクルに関する義務も存在します」
まるで自分が先達の使徒より、そのことを教えてもらったときのことを思い出しているように。
彼女は言い淀む様子を見せ、そのことにどうしようもなく嫌な予感を覚える。
そして耳元で身体を丸めるサネアツの小さな息づかいだけ。
「……自然と選べるようになるまで、もう少し悩むしかない、か」
「かも知れんな。まぁ、性急に悩んでもいい考えは浮かぶまい。マイペースでいいのだ。悩むのだったら、聖地へと行くかどうかの方だろう?」
「だな」
使徒として生きるかどうかは未だ答えが出ない。考えるべきだとは思うが、すぐに結論が出る問題でもないだろう。つまりは将来を決めるということなのだから。今一番に考えるべきは、明日答えを返さないといけない聖地へと行くかどうかの問題か。
「正直なところ、俺にはどうしてジュンタが悩んでいるのかがわからん。そんなもの悩むことはないと思うのだが。命を大事に。危険だといわれているのに残ることを、俺はジュンタがするとは思えんな」
「間違っちゃいないな、それは。俺だって危険地帯で暮らす趣味はないし。けど、何か釈然としないものを感じるというか、歯に小骨が挟まっているような感覚があるというか……」
こう、むずむずとしてたまらない。理由があるのにその理由がわからなくて、ジュンタは何ともいえない気持ち悪さに悶える。
蒼い瞳を持つ少女は目があったことで少し慌てて、やがて申し訳なさそうな顔で部屋へと入ってきた。
心配そうな顔で近付いてくるクーを見て、ジュンタはすぐに気付いた。
今自分がこうして悩んでいるように、きっとクーもフェリシィールから聞いた真実に悩んだ末帰ってきたのだろう、と。
どうやらベアル教に狙われているかも知れないと言うことは、心配させないようにクーには伝えられなかったようだが、巫女として関係あるそちらは伝えたらしい。結局、願い届かず心配させてしまったようだ。今頃フェリシィールは、枕を涙で濡らしているかも知れない。
ジュンタは一度サネアツを見る。サネアツは首を縦に振った。やっぱり、きちんとクーには伝えておくべきだろう。これまで中途半端だったが、これからもそのままでいいとは思えない。
俺はここで使徒として『神の座』に挑む義務を完全に諦めるけど、それでも俺の巫女として一緒にいてくれるか?」
ショックでも残念でもありません。だって、ご主人様が使徒様であることに変わりはなくて、そしてこんなに優しい使徒様が私のご主人様であることにも変わりはないんですから」
う〜む、これは使徒として生きるか生きないかという進路の問題よりも、リオンを選ぶかクーヴェルシェンを選ぶかという悩みに内容を変更した方がいいのではないか?」
俺としては幸せにやってければどっちでもいいんだ。だけど、どっちに向かおうと幸せになれる気がするし……クーはどっちがいいと思う?」
「ではジュンタ。明日までに出すべき結論は?」
「出た。ようはとっても簡単な話だったんだよ。つまり俺は、逃げるために聖地に行きたくはなかったんだ」
困惑するクーが目を回してしまうほどに撫で上げたジュンタは、サネアツにニヤリと笑う。
「ああ。俺たちがこの世界で初めて自分から始める――」
目を回すクーを前にして、ジュンタとサネアツは声を揃えて言った。
『――戦いだ』
◇◆◇
「聖地に行く、ですって?」
ただ、何だかんだで俺はベアル教って奴と因縁がありますから。俺は日常を過ごしたいだけなのに、奴らの企みにまた巻き込まれるっていうなら、今度は自分から動きたいんです」
それがジュンタの出した結論だった。サネアツが理解した決定だった。
(それに……)
どうにかしないと好きな未来も選べなくなるかも知れない、反転の闇についてだ。
「とにかく、当分は聖地の方に滞在するつもりってことね。その間はあたしの修行を休む、と」
では、ジュンタさんが訪ねていらっしゃるのを楽しみにさせていただきますね。もちろん――」
そうして二日後――聖地への出立のときは早くもやってきた。
サクラ・ジュンタとして、異世界で手に入れた日常を守るために戦いに行くのだ。
腰のベルトに双剣をはいたジュンタは、部屋の片隅に置かれた、戦うためのもう一つの道具を視界に収める。
かつては全身甲冑だったが、未熟のツケとして、今は各所を守るだけの防具となっている。だがそれでも、それは心強い防具であった。
好きだから、胸を張ってもう一度好きだと言うために、この反転の衝動を消さなければ。
ずっと別れるわけじゃない。またすぐ帰ってくる。だから、それを明確にするためにも、ランカで待つリオンにはさよならを告げるつもりはなかった。
続いて出立の準備を済ませ、荷物をすでにリオンの用意した馬車に積み込んだクーがそろりと手を挙げた。
リオンも一緒に行くという事実の衝撃から立ち直れていないジュンタは、トボトボと馬車へと向かおうとする。その途中、馬車に乗ろうとしないゴッゾの存在に気付いて俯けていた顔をあげた。
それはつまり護衛のため、というのもあるのだろう。リオンは詳しく知らないのか。ジュンタはウインクしてくるゴッゾに、了解しましたという旨を小さな頷きで伝えた。
「そうかい、そうかい。それじゃあ私もリオンの誕生日前にはそちらに行くから、そのときにまた会おう。もちろん、親の目がいないからって不埒な真似に及んでも構わないからね」
……ときにジュンタ。実は後ろに荷物の中に、クー嬢ちゃんや姫さんの下着があるんよ。ど、どないしよう? これはやっぱり、ちょっと遅れた振りをして確かめぐぶはっ!」