第五話  聖骸が語るもの


 

 聖地ラグナアーツは世界の中央。
 であるなら、ラグナアーツの中枢アーファリム大神殿は世界の中枢であった。

 外側から『騎士堂』、『礼拝殿』、『神居』と、一つエリアが変わるだけで意味合いも格も桁外れに違う中、使徒の住居たる神居はまさに聖域。大国の王ですら入れぬ、まさに聖地の中の聖域に相違なかった。

 誰もが見果てぬ夢を抱く神聖荘厳なる四つの白亜の塔に入ろうと思うなら、主である使徒の許可が必要である。逆をいえば使徒さえ許せばその使徒の塔のみは入ることが許されるというわけで、サネアツを頭に乗せたジュンタはリオンとクー共々、早朝から東神居へと通されていた。

「まず、最初に申し上げておくことがあります。昨夜、わたくしと使徒ズィール、使徒スイカの三人で話し合いの席を設けました」

 昨日は結局あいさつのあと、すぐにシストラバス家の別邸へと移動してしまった。そのため、フェリシィールから『封印の地への侵攻作戦』の話を聞くのはこれが初めてである。最上階にあるフェリシィールの資質でお茶を片手にしばし談笑を経たあと、自然と流れはそのことに移っていた。

「そこでわたくしは、この度の『アーファリムの封印の地』への侵攻作戦の是非をお二人にお尋ねしました。使徒として推し進めるには、三柱でしたら二柱の使徒の同意が必要ですから」

「それで、結果はどうなったんですか?」

「賛成三票。反対票なし。よって正式に『アーファリムの封印の地』に眠る魔獣の駆逐作戦は、聖地及び聖神教が行う政策に決定致しました」

 そう言いつつも、フェリシィールの顔は晴れやかなものではなかった。自分が良かれと思って推し進めた計画が認可されたのに、だ。

「あの、フェリシィール様。お顔が晴れないようですけど、何が心配事でもあるんですか?」

 ジュンタが気付いたのだから、長年一緒に暮らしていた彼女が気付かぬはずもない――フェリシィールの様子を心配し、尋ねる声は、目立たぬよう身を縮こませるクーからあがった。

 ジュンタは自分の巫女の言葉に付け加えるように、質問を引き継ぐ。

「何か予定とは違う事態の推移でもあったんですか?」

「いいえ、事態は予想の範疇にあります。良くも悪くとも、ですが。今朝、わたくしは正式にこの計画の最高責任者として聖殿騎士団に準備を整えるよう伝達しました。医薬品、魔法の触媒、それともちろんがんばってくれる方々への特別手当まで完璧に」

 聖神教を運営している、もとい聖地を牛耳ってますよ発言をフェリシィールは口にして、そのあと真剣な顔つきとなった。それはここからが重要なのだと、席に着く三人+一匹に無言で注意を呼びかける。

「心配な点はやはり一つだけです。当初から変わりません」

「つまりは『封印の地』にいるドラゴンをどうやって倒すか、ですよね?」

「その通りです、ジュンタさん。魔獣だけでしたら、聖殿騎士団のみが動けばことは済むお話。ですがこれまでの先達の方々が推し進めにくかったように、『封印の地』にはドラゴンがいます。神獣と同等――破壊することだけをいえばそれ以上の厄災が。
 ジュンタさんにはもう申しあげましたが、ドラゴンを相手にするのはズィールさんの役目になります。彼だけが、正確には聖地の使徒においては彼だけが、封印されたドラゴンに対して勝つことができる神獣ですから」

「使徒ズィール、か」

 ジュンタが思い出すのは昨夜のこと――翡翠色の髪をした、目つきの悪い使徒のこと。

 フェリシィールとスイカと並んで、現在聖地に降臨せし使徒ズィール・シレ。
 話だけは聞いていた彼を昨夜初めて目にしたジュンタは、理由や理屈を超えた畏怖を覚えた。まるで人の形をした、人ならざる何かを見てしまったかのように。

「使徒ズィールは全面的に協力をしてくれると申してくださいました。彼は常に聖神教の敵に対しては苛烈な姿勢で臨んでいますから。ベアル教に対する粛正運動の指揮を執っていたのも彼です」

 それじゃあ、一体何の問題があるのだという話になる。
 席に着いた全員からの疑問の視線を受けて、フェリシィールはホットコーヒーを一口飲み、渋い顔をした。それはコーヒーが苦かったからではないだろう。

「……使徒ズィールの言葉を信じるのならば、問題は本来ないはずなんです。わたくしが道を開き、彼がドラゴンを、聖殿騎士団が魔獣の軍勢を倒せばそれでいいのですから。ジュンタさん方に手を貸していただく必要性もなく、此度の作戦は終わることでしょう」

「ですけど、フェリシィール聖猊下はお父様に協力要請をなされたとか。やはり問題はあるのですね?」

「はい。ここから先は絶対に他言無用でお願いします。これはわたくしとルドール、そしてゴッゾさんしか知らないことですので」

 僅か三人――それもすこぶる偉い人間のみが知るシークレット情報と知り、ジュンタたちもそれ相応に身構え、決して話さぬことを頷いて示した。

「問題点は作戦の内容自体にはありません。問題があるのは、作戦を執行する者の方にのみ存在します」

「作戦を執行する者って、つまりは……?」

「そう、他でもない使徒。……お恥ずかしい話になりますが、我々使徒に問題があるのです」

 使徒に問題があると述べたフェリシィールは、渋い顔のまま言葉を続けた。


――使徒ズィールには現在、ベアル教と繋がっている疑いがかけられています」


「え?」

 驚きの声はジュンタの口からのみあがった。他三名も同じタイミングで息を呑んだのだが、その衝撃のほどがさらに強かったらしく、驚きの声も出なかったよう。

 まさか使徒にベアル教と繋がっている疑いがあるなんて――他が驚く中、ジュンタは静かにことの次第を理解して、それが招く脅威のほどを予想する。なぜか、驚いたは驚いたがあまり衝撃は受けなかったため、聴衆の代表してフェリシィールと遣り取りする。

「使徒ズィールにベアル教との繋がりって、どういうことですか? 使徒とベアル教は、本来敵対すべき間柄なのに」

「ええ。ベアル教は使徒を否定し、使徒はベアル教の崇める神を否定していますから。
 ですが、とある理由により五分五分の確率でベアル教に使徒の誰かが手を貸しているのは間違いないのです。わたくしではありません。ジュンタさんでもあり得ません。ある事情からスイカさんの可能性も低く、残るは――

「消去法で行くと、ズィール・シレしかいないってことですか。彼がベアル教と裏で繋がっていないと、何かしらの理由に説明がつかないから」

 ジュンタの指摘にフェリシィールは肯定を見せる。表情は苦々しさを越え、どこか苦しそうなもの。

「そんな、まさかズィール様がベアル教なんかと繋がりを持たれているなんて……!」

「尋常では考えがたいことですわね」

「ふむ、使徒も人の子だ。神の恩恵を受けていようが、悪道に走る者が一人や二人いてもおかしくはあるまい。問題はなぜ使徒がベアル教と繋がっているかということか」

 ようやく衝撃から立ち直ったのか、クーがショックを受けた様子で、リオンが眉を顰めた状態で、それぞれ信じられないという顔をする。それはこの世界で生きてきた二人の使徒に対する認識を示すものであり、この世界から見れば異世界からやってきたサネアツは決して頭ごなしに否定しようとはしなかった。

「慌てないでください。現状、確かに使徒の誰かがベアル教と繋がっている理由こそありますが、証拠などは出てきていません。
 わたくしはずっとズィールさんを見てきました。正直なところ、彼が聖神教を裏切るなんて真似をするとは思えないのです」

 サネアツの言葉に慌てた様子で待ったをかけたのは、この中で一番ズィールを知るフェリシィールであった。

「あくまでもその可能性がある、ということです。あくまでも不安要素の範疇でしかありません」

「ということは、フェリシィールさんのいう問題ってのは、もし万が一にも使徒ズィールがベアル教と通じていると、ドラゴンに対する戦力がなくなってしまうってことなんですね」

 ベアル教――今回の作戦において邪魔してくることが予想される異端教団。本来聖神教のトップである使徒とは相容れぬ敵であるベアル教と、繋がっている可能性があるズィール・シレ。もし使徒ズィールがベアル教と繋がっているなら、フェリシィールの立てた計画は非常に危うくなる。

 ドラゴンの打倒なくして脅威の根絶はない。であるなら、ドラゴンを倒せるズィールが邪魔をする敵側につくかも知れないというのは最悪である。ドラゴンを倒すどころか、そのドラゴンすら倒せる力を味方に対して振るわれるかも知れない。そうなれば計画の成就どころの話ではなくなるのは想像に容易かった。

「ここからはズィールさんがベアル教と通じているという仮定で話を進めさせていただきますが……疑いのある彼が計画に賛同を示した現状、恐らく姿を隠して計画の推移を見計らうつもりでしょう。このまま計画を推し進めては、肝心なところで致命的な失敗を招きかねません。
 信じたくはありません。彼がベアル教につくなどという可能性を、わたくしは否定しております。ですが『封印の地』に侵攻する前に、何としても絶対の証明を得なければなりません」

「確かに、ことの真相の究明は必要不可欠。ミスタに協力要請をお願いされたのは、使徒ズィールが敵であった場合のための保険、といったところか」

「サネアツさんのおっしゃるとおりです。ドラゴンを倒せないまでも、動きを封殺できる可能性が一番高いのはシストラバス家ですから。他にも古の盟約に則り、グラスベルト王国、エチルア王国にも、もしもの際に対する援軍の要請をしてあります」

「準備自体は万全に完了している、と。本当に問題は敵の正体だけにあるわけだ」

 サネアツは納得した様子を見せると、猫舌になってしまったため冷めるのを待っていた紅茶に舌を付けた。話し始めてから、もうそんな時間が経っていたらしい。

 他の面々も一応の納得をした様子を見せており、フェリシィールは努めて表情を穏やかなものに戻してポンと手を合わせた。

「不安要素を話していてはきりがありませんね。作戦自体は上手くいっているのですから。リオンさんにはゴッゾさんと共に、もしもの際のためにドラゴン封じの準備を整えて欲しいと思っていますが、お願いしてもよろしかったですか?」

「はい、もちろんです。竜滅姫の名に恥じない働きを約束させていただきますわ」

 立ち上がったリオンが、背筋をピンと伸ばして胸元に拳を寄せた。
 対してフェリシィールは、リオンの言葉に困ったように耳を垂らす。

「竜滅姫の名に恥じないようドラゴンを倒されては困りますよ? あくまでも今回は被害を未然に防ぐための作戦です。リオンさんという大切な人の犠牲が前提となってしまうのなら、ご破算にするべき価値の代物なのですから」

「そうですよ、リオンさん。絶対に死んではダメです! そんなことをしたら、皆さんが悲しんでしまわれます!」

「もちろん理解しています。あくまでも私はシストラバス家の次期当主として振る舞うつもりです。ご安心下さい、聖猊下。クーもですわ」

 フェリシィールの援護射撃としてクーがそう言うと、リオンは小さく笑みを作った。

 それにこっそりとジュンタは安堵の息を吐いて、それをサネアツにニヤニヤと笑われつつ見られたことに顔を赤くして、誤魔化すように紅茶を飲んだ。

――主。お呼びになられたと聞きましたが?」

 部屋の戸がノックされたのは、ちょうど話が一段落ついたそのときだった。

「来ましたね、ルドール。どうぞ入ってください」

「失礼します――む? お邪魔でしたかな?」

 部屋に入ってきたのは、金髪碧眼の美少年にも美丈夫にも見えるエルフの男だった。

 すらりとした長身にローブを纏い、右目を隠すように伸びた金髪と、まさに賢者と呼ぶにふさわしい風格を持つ男性である。

「クーヴェルシェン。それにジュンタ様にリオン殿も……そうですか。『封印の地』の侵攻作戦のお話をされていたのですな。して、主。儂が呼ばれた理由はなんですかな?」

 若くも見える容姿に似合わぬ古めかしい言葉遣いが不思議と違和感のない彼こそ、使徒フェリシィール・ティンクの巫女――ルドーレンクティカ・リアーシラミリィ。ルドール老と呼ばれる、クーの祖父にあたる魔法使いである。

 フェリシィールに呼ばれてやってきたルドールはテーブルに近寄ってきて、クーには小さく目線を寄越すだけで、主の手前巫女として振る舞う。

 また巫女に質問された主も、使徒として振る舞おうと立ち上がった。

「ちょうどいいところにルドールも来たことですし、ベアル教に使徒の誰かが手を貸していると考えるしかない理由を説明いたしましょう。ジュンタさん。申し訳ありませんが、わたくしとルドールについてきてください。それと、クーちゃんも一緒に」

「構いませんけど、俺とクーだけですか?」

「リオンさんやサネアツさんが一緒ではダメなんでしょうか?」

 名前を呼ばれたのが自分たちだけであることにジュンタとクーは疑問の声をあげ、リオンとサネアツを見やった。

「実は、今から私たちが向かう場所は使徒と巫女以外は入ることが禁じられた場所なのです。リオンさんとサネアツさんには申し訳ありませんけど。ここでお待ちしてもらうしか……」

「構いません。そういうことでしたら、私はここでお待ちしております」

「気にはなるが、そう言われてしまったら致し方あるまい。後から何を見たか聞くのはいいのか?」

「はい、それは見た方の自由で構いません。あまり言い広められると困りますが」

「そう言うことなら、俺も今は見送るとしよう。その代わりとは言ってはなんだが、この紅茶をもう一杯いただけないだろうか?」

「ふふ、もちろん構いませんよ。リタに伝えておきますね。それでは参りましょうか――

 すぐに了承したリオンと、興味津々だが後で知ることができるならと納得を見せたサネアツ。
 フェリシィールはルドールの向こう側に立つとこちらを振り向き、これから向かう場所の名を口にした。

――神獣が眠る聖廟へと」

 


 

       ◇◆◇


 

 

 神居は確かに聖地の中央であるが、本当の意味での中心は四の塔ではなく、塔が囲んだ中心となる。即ち使徒たちの談合の場である円卓が置かれた一室――『神座の円卓』である。

 四つの塔の最上階からのみ行ける、塔の対角線が交わる場所に作られた一室。使徒たちが私的に話し合うための場である『神座の円卓』こそ、神域に最も近き聖域だろう。であるなら、その眼下にある噴水もまた、重要な意味を担っていた。

「以前、ジュンタさんにはここの聖水を用いることで『アーファリムの封印の地』へと道を繋ぐところをお見せしたと思います。ここから湧き出た水はアーファリム大神殿の中を循環し、そしてラグナアーツの街へと流れ出ていきます」

 ジュンタがフェリシィールに連れて行かれた先は、塔を出たすぐ前――直上に円卓を仰ぐ聖水を聖地に送る源泉だった。

「形が噴水なのに泉と呼ばれる由縁は、この地下に紛れもない泉があるからなのです。この噴水はその泉から水を汲み上げているだけに過ぎません。聖水たる理由も、その泉に存在します。
 神殿の中核たるそこは使徒と巫女のみが入ることが許された、決して何ものにも侵害されてはいけない、英霊の眠る場所なのです」
 
「英霊? 英霊ってことは……」

「死者の魂が眠る場所。つまりは我々よりも先にこの世に生まれ、そして役割を終え神の御許に旅立った使徒たちが眠るお墓になります」

「使徒様のお墓……この噴水にそんな秘密があったなんて、知りませんでした」

 長くアーファリム大神殿に暮らしていたクーも初めて知るらしく、酷く驚いた顔をしていた。使徒と巫女以外は入ることが許されないそこは、恐らく本来は知ることもできない場所なのだろう。クーを溺愛するフェリシィールが、それでも黙っていたところを見るに間違いあるまい。

 死した使徒が眠る墓――それは誰も決して汚すことが許されない場所。
 しかし、今を生きる使徒を疑う理由を教えるといった先で行われた、この説明だ。つまり、その聖廟にこそ理由はある。

「その使徒の墓に、使徒ズィールを疑わなければいけない理由があるんですか?」

「はい。皆さんを朝早くにお呼びした理由もそこにあります。今ならばまだズィールさんも起きてはいないでしょうから。今なら何の問題なく、使徒と巫女であるお二人を泉に案内することができます。――わたくしから離れないでくださいね」

 自分の近くに三人を集めたフェリシィールは素早く辺りをうかがったあと、誰も見ていないことを確認し、右手を自分の口元に近づける。

 フェリシィールは右手の親指の腹を歯で小さく傷つけた。すぐに小さな赤い血が浮かび上がり、彼女はその血を一滴泉へと垂らした。

 瞬間――水を絶えず送り届けていた噴水の水が、ピタリと時間が止められたかのように止まった。

「これは……?」

「『封印の地』へと道を繋げたときと要領は同じです。この水を抱く噴水は、聖廟への扉を覚醒した使徒の血をもってのみ開きます。さぁ、急いで下さい。道はすぐに閉じてしまいますから」

「フェ、フェリシィール様!?」

 そう言うが早いが、フェリシィールは長い聖衣の裾を軽く持ち上げると、躊躇なく噴水の水面の中へと飛び込んだ。

 クーが慌てた声を上げる中、フェリシィールの姿は掻き消える。それは水に飛び込んだというにはあまりにおかしい、水面に触れた瞬間にどこか別の場所へと召喚されたかのような消失の仕方だった。

「ルドールさん、フェリシィールさんはどこに?」

「件の聖廟へと移動をされました。さぁ、ジュンタ様もクーヴェルシェンも、どうぞお続きください。儂は最後に行きましょう」

 目の前の現象に驚きを見せないルドールからの催促に、ジュンタはクーと顔を見合わせる。クーの顔はちょっと不安そうになっていた。きっと自分の表情もそうなっていることだろう。

 もちろん安全性は確保されているのだろうが、如何せん向こう側がどうなっているかわからないのである。ちょっと恐い。しかし繋がっている時間には限度があるとのことで、足踏みしているわけにもいかなかった。

「クー、一緒に行くか」

「はい、ご主人様。ご一緒させていただきます」

 ジュンタはクーに手を差し出し、握り替えされたところで意を決す。
 一緒に噴水の淵に足をかけ、合図もなく息を合わせて、一気に飛び込んだ。

「…………ん?」

 一体どんな衝撃があるのかと、思わず目をつぶったジュンタが次に目を開けたとき――

「最も新しき使徒と巫女よ。ようこそ、『聖廟の泉』へ」

 ――そこには水をたたえる、厳かな神獣の墓が広がっていた。

 


 

「さて、大変なことになったな。まさか使徒の中に裏切り者がいるとは」

 ジュンタたちがフェリシィールと共にどこかへと行き、お留守番となってしまってから数分後。新たに注がれた紅茶のカップを片手に待っていると、紅茶が冷めるのを待つのに飽いたらしいサネアツが口火を切った。

「そうですわね。フェリシィール様のお話とはいえ、俄には信じがたい話ですわ」

 リオンは芳醇な香りを漂わせる紅茶にリラックスしながらも、やはりそのことは気になっていたため、即座に返答を返す。

「まさか、ズィール様にベアル教との関与の疑いがあるだなんて……」

「いや、可能性としては使徒スイカも使徒フェリシィールも除外できんぞ? 自分が繋がっていないとジュンタに思わせるために、わざわざ自分から話をした可能性もある。絶対にあり得ないのはジュンタだけだな」

「ちょ、なに馬鹿なこと言ってますのよ?! フェリシィール様に限ってそのようなことありえませんわ! スイカ様もです!」

「それを言ってしまったら、リオンにとっては使徒が裏切ることも自体あり得なかったのだろう? 可能性としては低いが、それでもズィール・シレ以外の使徒が裏切り者である可能性もある。誰も裏切っていない可能性があるようにな」

「確かに絶対の否定はできませんけど……でも、やっぱりあり得ませんわ」

 サネアツの言葉に納得する部分もあるが、それでもリオンは否定する。

「だって、クーがあれほど慕っている方ですもの。私はさほどフェリシィール様とは友好はありませんけど、クーが信じている方ならば信じられますわ。サネアツ、あなたはそうではありませんの?」

「いや、俺はあくまでも可能性の話をしただけであって、誰も使徒フェリシィールなど疑ってはいない。しかし若干疑ってしまうあたり、リオンも内心ではそのことを考えてはいたようだな」

「あ、あなたという男は……」

 ニヤリと猫の姿でもわかるほどに笑うサネアツに、リオンはピクピクと頬肉を震わせる。
 このジュンタの幼なじみという子猫が、人をからかうことと状況をおもしろくすることに心血を注いでいることを、最近ようやく理解しつつある。

「まったく、ジュンタの幼なじみというのも頷ける話ですわ。あなたほど私から見て変人と思う人間……というのもあれですけど、相手はいませんもの」

「はっはっは。これしきのことで変人認定を与えていては、これからジュンタと末永く付き合っていくことは無理だぞ」

「す、末永くっ!?」

 サネアツの言葉にリオンは持っていたカップを思わず落としそうになる。

 騎士として鍛えた反射神経で雫一滴零すことなく受け止めることはできたが、それでも跳ね上がった脈拍はおさまらない。

「類は友を呼ぶということだ。ジュンタと付き合っていくということはトラブルまみれの人生を送ることと同義だからな。今からその覚悟をしておかなければなるまい?」

「は、話を逸らすのではありません! それも大事ですけど、今はフェリシィール様のお話が一番大事でしょう!」

「それもそうだな。使徒がベアル教についた……これはその意味合い以上に大きな意味を持っている。ん? どうしたリオン・シストラバス、そんな残念そうな顔をして。まさかもっとジュンタのことが聞きたかったのか?」

「こ、この性悪猫は……!」

 自分から話題を振っておいて、いけしゃあしゃあと話題に戻るのを見れば、自分がただからかわれただけなのは嫌でも分かるというもの。
 ラバス村の一件で彼がしゃべる猫であることを知ったわけだが、それからというもの、日増しに以前向けていたかわいらしい子猫という印象は時空の彼方に消え去ってしまっている。今ではかわいいと思うどころか怒りを抑えるので精一杯な有様だ。

(くっ! これで子猫の身体でなく人間の姿ならば、すぐにでも妄言のツケを償わせてやりますのに!)

 それでもサネアツはリオンの愛して止まない子猫の姿をしていた。剣を向けるにはあまりに度し難い姿である。未だ、そこに至るほどの怒りは溜まっていない。

 甚だ苛立つのはサネアツもそれを理解、把握し、ギリギリのところでからかってくることだ。これではストレスばかりが貯蓄する。今に見ているがいい。すぐにこの程度の試練は乗り越えて見せよう。

「それで、大きな意味とはどういうことですの?」

 リオンは大人の態度で我慢して――目は完全に笑っていなかったが――サネアツに対応する。

「ふむ、そうだな。今回はお前も重要な立場にいるだろうから、説明をしておこうか。
 時に聞くがリオン・シストラバス。お前は竜滅姫という役割を止めたいと思うか?」

「はぁ? なにふざけたこと抜かしていますの。そんなこと思うはずありませんわ」

「予想通りの返答だな。それは犠牲と責務を度外視すれば、まぁ当然の答えといえる。豊かな国の中でも一位二位を争うほどの貴族の次期当主。誰もが憧れ、手放そうとは思わないものだ」

「……何が言いたいのです?」

「高い地位にいる者がその地位を自ら脅かしてでも何かしらの行動に出るということは、それ相応の理由が存在するということだ。
 考えてもみるがいい。使徒はこの世界の最高権力者。本気になればできないことはないと言っても過言ではない。であるのに、なぜその立場を捨て堕ちるような真似をしなければならない?」

「それは……そう、かも知れませんわね。何が目的でベアル教についたかはわかりませんけど、ほとんどの目的ならば使徒様のままであった方が叶えやすい。つまりあなたはズィール様が万が一にも裏切られていた場合の目的が、使徒様の地位でも叶わないほどのものといいたいのですわね?」

「使徒を止めたい理由など、ジュンタが思うように使徒として傅かれる、自由のない立場が嫌になる程度のものだろう。しかしそれならば、裏切るような真似をして敵として認識されることの方がよっぽど自由がない。故に違うと考えられる。
 ベアル教の目的はドラゴンに至ることだというが、神獣の力を持つ使徒にドラゴンの力など必要ない。……恐ろしいことだな。『封印の地』を解放することが、使徒の力も及ばぬとんでもない事態を招く可能性があるのだから」

 サネアツが恐れおののいた理由はそこにあった。

 使徒がベアル教についてまでしたいこと――使徒であってもできないこととは、果たして何なのか? 外道に身を置いてまでしなければいけないこととは一体何なのか? わかることは一つ。そうまでして行おうとしていることならば、恐らく説得は意味をなさないということだけか。

「フェリシィール様がおっしゃられたことが杞憂でしたらいいのですけど、もしもズィール様が敵でしたら……使徒様が敵だなんて、考えたことがありませんでしたわ」

「俺の記憶が正しければ、使徒であるジュンタをお前は最初敵認定をしていたはずだが」

「…………サネアツ。あなた、そうコロコロと関係ない話題に繋げるのは止めてくれます? 考えが途切れて非常に迷惑ですわ」

「ほぅ、そんなことを言ってもいいのか? 折角俺が恋に悩むお前に、ジュンタについていいことを教えてやろうとしているというのに」

――なんですって?」

 紅茶のカップに手を伸ばしたサネアツの手から、リオンは凄まじい勢いでカップを奪い取る。

「あなた、今の膠着状態を抜け出せるいい方法を知っていますの?」

「無論だ。俺はジュンタの幼なじみだからな。効果的な演出の一つや二つ当然心得ている。上手くことが運べばラブラブを約束しよう」

「ラ、ラブラブだなんて!? …………ラブラブ……ジュンタと私がラブラブ……」

 ガタリと椅子を蹴飛ばすように立ち上がったリオンは戦慄した。
 両頬に手を添えて、真っ赤に顔を沸騰させる。最近とにかく顔が沸騰してちょっぴり恐いので、解決の方法があるというのなら是非もない。

 リオンは真紅の髪をかき上げ、自然な態度を心がけて腕を組む。使徒が裏切っているかも知れない? 不安要素ばかりを考えていてもしょうがないだろう。そう、フェリシィール聖猊下が言っていたのだからそれに倣うとしようそうしよう。

「し、仕方がありませんわね。あなたがどうしても教えたいというのでしたら、聞いて差し上げてもよろしくてよ」

「俺にまでツンデレか。しかし甘いな。俺はすでにツンデレ属性の相棒を持っている身、ツンデレは効かないのだよ。教えて欲しくば、それ相応の男殺しを弁えるべきだな」

「私にあなたに媚びろと、そう言いますの!? 無理ですわ! 何も知らない頃の私ならいざ知らず、なぜ性悪と知ったサネアツにサービスしなければいけませんのよ!?」

 今思えば悔しいの一言だが、前はなかなか慣れてくれないサネアツに色々と策を講じたものだ。

 ……危ない。一応サネアツもモラルは弁えていたのか、洗って上げようと浴室に連れ込もうとしたとき必死に逃げ出したのはそういうわけだったらしい。ある意味惜しい。自分の正体を秘密にしてそのような不埒な真似に及んでいたら、何の躊躇もなく斬れたものを。

「とにかくサネアツ。私にジュンタと進展できるその方法とやらを教えなさい! あなた、私とジュンタの仲を応援すると言ったではありませんの?! そのことを考慮して、私はあなたのことを許して差し上げましたのよ!?」

「イエス、確かに言ったな。俺はお前がジュンタを好きになっただけでは、楽しくない限り応援するつもりはなかったが……仕方がない。ジュンタが二度も告白をしてしまったからな。親友として、これはもう応援するしかあるまい?」

「どうしてそんなに渋々ですのよ。私とジュンタが釣り合っていないと、そう言いたそうな顔ですわね」

「おおっ、これは修行不足だな。心の中にしまっておこうとした本音を顔に出してしまうとは」

「……予め忠告して差し上げます。もしも人間の姿に戻ったときは覚悟なさい。最高の地獄を見せて差し上げますから」

「愛のキューピッドにそのような真似をしてみるがいい。すぐさま俺はお邪魔虫に早変わりだぞ。  で、どうするのだ? リオン・シストラバス。自分の矜持をとるか、ジュンタとの恋路を取るか。俺としてはどちらでも構わんのだが?」

 ニヤニヤと悪魔の笑みで尋ねてくるサネアツ。矜持は大事だが、それとこれとは話が別だった。彼はとても気に入らないが、それでもジュンタの幼なじみである事実は揺るがない。助けを借りようと思うなら、これ以上の援軍はないのだ。

「くっ、あなたなんかに頼らなければいけない我が身の、何て不甲斐ないことですの」

「努力せよという天命ではないか。しかもミスタのいない現状、最も頼りになる相手が自ら助けの手を差し伸べてもいいと言ってやってるのだ。
 さぁ、答えを聞かせてもらおうか。その口で、精々屈辱と羞恥に震えながら熱いパトスをぶつけるがいい!」

 フハハハハと笑う子猫。それに助けを請わなければいけない自分が本気で悲しくなるが、これも素晴らしい未来のためだ。

(もうすぐ私の誕生日。作戦のこともあって忙しくなるはずですもの。ジュ、ジュンタとラブラブになるためには、時間の密度を高める他ありませんわね!)

 強く拳を握り、ひくひくと目尻を震わせて、それでも女としての幸せを手に入れるためにリオンは意を決した。

「ど、どうか教えて、もらえません、かしら。ジュンタと仲良くなる、方法を」

 それだけ言うのに、ものすごい精神を必要とした。というのに――

「ダメだな。全然萌えが足りない」

「どういうことですのよ?! 私、とてもがんばりましたわよ!?」

 サネアツのダメ出しにリオンはガーと吼えてしまう。
 吼えてからまずいと思ったが、サネアツは特に気にせずに先のダメ出しの理由だけ語った。

「あれでがんばったなどとは、ジュンタへの想いはその程度なのか? リオン・シストラバス。真にジュンタのことを好いているのなら、その旨を熱く歌い上げてこそがんばったと言えるのではないのか?」

「……あ、あり得ませんわ。言っていることはもっとものように聞こえますけど、それはつまりこの神居の中で、声高々にジュンタに対する私の気持ちを告げるということではありませんの。そのようなはしたない真似、できるはずがありませんわ!」

 考えただけでも恥ずかしい。ゴッゾやユース、サネアツに自分の気持ちを知られただけでも死ぬほど恥ずかしかったというのに、大声で叫ぶなんて死ぬ。本当に羞恥で死ぬ。

「死んでしまいます! 恥ずかしくて私、本当に死んでしまいますわ!」

「そうなったら、『リオン・シストラバス。愛に殉ずる』と讃えた銅像を作ってやろう。
 これまでの計画を全て失敗で終わらせてしまったのも、元はといえばお前に勇気がないのとプライド高いのが原因なのだ。ことジュンタに対することだけは普通の少女として恥を晒しても、罰は当たらないと俺は考えるが」

「で、ですけど……」

「少なくとも、ジュンタは俺にこう言っていたな。『恥ずかしい話題でも、話していて全然恥ずかしくないのは、たぶんそれだけあいつを好きになったことが純粋だったからだ――俺にとっては、リオンって奴を好きだったことは誇りなんだと思う』、とな。
 訊こう、リオン・シストラバス。お前にとって、ジュンタを好きになった気持ちは誰かに知られては恥ずべきことなのか? 誇れないほど、軽い気持ちなのか?」

 サネアツの意外なほど威圧的な言葉は、リオンの中から一時全ての羞恥を奪い去った。

 そう、リオンはジュンタが好きなのだ。そうと気付けたのだ。今、そのためにがんばろうと思っているのだ。なら、サネアツの質問に答えるべき返答は決まっていた。

 恥じるものではない。自分でさえ苦しくて大きいと思えるこの恋慕は、決して恥じるべき感情ではない。

 好きならば――そう、誇ればいい。誇って、ただ想いを貫けばいいのだ。

「そんなことはありません。私のジュンタへの想いは誰に恥じる必要もない、誇れるほどに純粋な気持ちなのですから」

「では、叫びたまえ。その言葉が事実なら、俺の気持ちを揺り動かせることだろう」

「ふんっ、簡単ですわ。揺り動かすどころか、あなたすら私の想いに惚れさせてみせますわ。しかと聞いていなさい」

 姿勢を正して、じっとサネアツを見下ろして、リオンは深呼吸してから――言った。


「私、リオン・シストラバスはジュンタ・サクラに恋慕を向けています。ですから、この想いの成就のため、私がジュンタを幸せにして、私がジュンタに幸せにしてもらうために。――サネアツ。私に力を貸して下さい」


 サネアツは笑うことなくじっとリオンを見て、それからニヒルに口端を吊り上げた。

「ラブラブに、なりたいのか?」

「ラブラブに、なりたいのですわ」

「ふっ、了解した。ならば――

 サネアツが認めてくれたのかはわからない。しかし少なくとも、問題を抱えた作戦を前にしながらも彼は立ち上がって、おもしろいことを始めるためにそう叫んだ。

――サネアツ先生の恋愛教室を始めるとしようか」


 

 

       ◇◆◇


 

 

『聖廟の泉』――使徒の骸が眠るそこは、鍾乳洞のような場所だった。

 薄く水が広がった白い床。まるで巨大な大理石の岩を、長い年月をかけて水が削ったかのような広い空洞だ。灯りらしきものはないが、自然に削られた壁の断面が宝石のように輝き、さらには噴水へと続いているのだろう――正面の奥には滝のように水が流れている壁があり、輝きの反射によって聖廟には光が降り注いでいた。

 そんな光が一番照らしているのは、滝の前にある大きな泉と、その中央の浅瀬から突き出た幾本の台座。金色に光り輝いているそここそ、間違いなく使徒の眠る場所なのだろう。

「ちょうどここは神居の敷地面積と同じ大きさとなっております。この安置室以外には財宝庫も兼ねた部屋もあるんですよ。空間が微妙にずれており、使徒しか入る術を持たない場所ですので。セキュリティー的には最上級です」

 先んじて足を踏み入れていたフェリシィールは、正面の滝を背に説明していく。

「正面の方にある滝。あれは魔法的に汲み上げられたもので、上から落ちてくるものではなく上へと落ちていく滝です。その過程で微量に流れ出た水が床に溜まり、あの『祭壇』と呼ぶべき泉を作っているわけです」

「これは、純粋にすごいな」

「はい、とても」

 自然が作った大いなる建造物というだけではない格が、この場所には存在した。アーファリム大神殿に流れる空気を浄化して、密度を高めたかのような神聖さがある。

「ちなみにこの場所をお作りになられたのは『始祖姫』様たちで――

「主。先達の使徒としてご説明する義務のほどは理解していますが、時間がありませんので」

 部屋に見とれていたときに現れたらしい後続のルドール、フェリシィールの説明にストップをかけた。

「あら、そうでしたね。ではジュンタさん、クーちゃん、こちらへきて下さいな」

 ルドールの言葉に目的を思い出したフェリシィールは、部屋の内部の説明もほどほどに泉へと歩いていく。彼女は泉の中央にある浅瀬に行こうとしているようで、このままでは泉の中に落ちてしまうというのに、まっすぐに突き進んでいく。

 ジュンタとクーはフェリシィールの後について行きつつ、歩みを止めないフェリシィールに怪訝な顔となる。しかしその表情は、泉の中をなに喰わぬ顔で散歩でもするように進んでいくフェリシィールを見て納得顔になる。

「なるほど。さっきみたいな感じで、ちゃんと渡れるようになっているみたいですね」

「そうみたいだな。じゃ、進むか」

「はい」

「あ、待たれよ!」

「え? ――うぉっ!?」

 背後からあがったルドールの慌てた声に振り向いたジュンタは、そのままクーと一緒にフェリシィールの後を続いて――一歩泉に足を踏み入れた瞬間水の中に消えた。

 さらなる地下から湧いているのか、流れてくるのか、泉は相当深かった。
 と言っても泳ぎが達者なクーは普通に水面に顔を出し、何とかジュンタも剣を二本持ってはいたが浮き上がることに成功する。

「あらあらまぁまぁ、すみません。つい、いつもこの場所に来るときの癖で」

「主は魔法で水の上を歩けるのです。ここには特別な仕掛けは施されていません」

「そ、そういうことは先に行って欲しかったです」

「あぅ、びしょびしょです」

 浮き上がったジュンタとクーは、仕方がないのでそのままフェリシィールが渡った浅瀬まで泳いで行く。ルドールは足下を凍らせつつ悠々と歩いて、浅瀬へと渡った。

 体中からポタポタと水滴を垂らし、床の水のかさを増やしていく二人。クーが被っていた帽子を脱いで絞ると、かなりの量の水が吐き出された。

「こりゃ、後で鞘とか手入れしないとダメっぽいな」

「それより身体を乾かさないと、ご主人様風邪を引いてしまいます」

「そうですね。では、さっさと説明を済ませてしまいましょうか」

 渡った浅瀬は先程地上から現れた場所より、さらに水かさがあった。ちょうど足首あたりまで沈むくらい透明な水が広がっており、どちらにしろ足首までは濡れていたことだろう。金色の髪の主従は、それぞれ魔法を使って一切濡れていないが。

「しかし、これが使徒のお墓か……確かにこれこそ使徒のお墓なのかもな」

 浅瀬を作っているのは白い巨大な円柱の柱。透明な水の奥底へと続く、細かな細工が刻まれた美しい柱である。その頂点部分からは、さらに何十本もの小さく細い円柱がジュンタの腹部辺りまで伸びており、頂には獣の姿を形取った黄金の像が置かれ、その獣にもたれかかるように色とりどりの本が安置されていた。

 否、それは本ではない。それは聖典。それこそが使徒の骸。名を――

「聖骸聖典。これ全部が、今まで生きてきた使徒の聖骸なのか」

 ジュンタが見たことのなる聖骸聖典は、リオンの持つナレイアラの『不死鳥聖典』だけであったが、聖骸聖典が使徒の骸からなる聖典であるなら、それは没した使徒の数だけ聖骸聖典があるということになる。

 果たして、一定間隔をあけて並ぶ三十の数ある聖骸聖典の台座、その約半数が埋まっていた。

 金色の獣の像は、その聖骸聖典となった使徒の神獣の姿を形取っているのだろう。日常的に見る獣の他にも、見たことのない獣もいる。それとジュンタが気付けた理由が、円柱の中央部に三つ寄り添うようにある空の台座の神獣が、それぞれ『不死鳥』、『天馬』、『聖獣』の、『始祖姫』が誇った神獣の姿をしていたからであった。

「使徒の骸は人の形では残りませんので、聖なる水をたたえた泉に、崇めるように聖骸聖典を安置する形になっております。これがアーファリム大神殿を作り上げたアーファリム様がお決めになった、使徒の埋葬の形ですね」

「聖骸聖典は劣化することのないものですからな。人々の命を育む水に力を与えられる此処こそが、人のためにがんばられた使徒様方の何よりの弔いとなりましょう」

「それじゃあ聖地を流れる水の聖性は、聖骸聖典の加護を受けていたからなんですね」

「そういうことだ、クーヴェルシェン。聖地に生きる人は皆、いつも使徒様方に見守られておるのだ」

 フェリシィールとルドールの説明に、クーは感極まったように目尻に涙を浮かべる。

(死して尚、人のために。それが人の導き手であり救い手たる使徒が、人の上に君臨する代わりに人に与えるものか)

 現在確認されている使徒は、始まりの『始祖姫』三柱、暦の名にもなっている十三柱、そこにフェリシィール、ズィール、スイカと続き自分がいる。つまり没した使徒の数は十六柱であり、リオンが持つ『不死鳥聖典』、行方知らずだという他二柱の『始祖姫』の聖骸聖典を除けば、ここには十三の聖骸聖典があることに。

 後々のために多く作られた、三十の棺代わりになっている台座の内、半数を埋める聖骸聖典――色とりどりの背表紙を飾る聖骸の本の数だけ、そこにはこの地で生きた使徒の歴史があった。

 今を生きる使徒の背には、その歴史が乗っているのだろう。その歴史を継ぐかも知れない一柱として、ジュンタも感慨深いものを物言わぬ聖骸聖典たちから受け取った。

「使徒として生きるってことは、この使徒たちが紡いだ歴史を良い方法に動かしていくってことか……ん? あれ?」

「どうされたんですか、ご主人様?」

 グルリと台座一つ一つに込められた想いを読みとるように、聖骸聖典に視線を向けていたジュンタは、そこにあった矛盾点に気付く。

「何か不思議な部分でもあったんですか……え?」

 不思議に思ったクーもまた、ジュンタの視線の先をなぞるようにして聖骸聖典を見る。そして同じ疑問に思い当たる。

「一つ二つ三つ四つ五つ六つ……全部で聖骸聖典が十六つ? え? でも、亡くなられた使徒様の数の内、この場所に眠られているのは十三柱の使徒様だけのはずでは……?」

「『始祖姫』らしき台座は空だ。俺はどの使徒がどんな神獣の姿を持っていたかは知らないから何とも言えないけど、明らかに数がおかしい。これはどういうことなんですか? フェリシィールさん」

 ジュンタは安置された聖骸聖典の数と、記録にある聖骸の主の数が違うことを疑問に思った。それを、黙って見ていたフェリシィールに質問としてぶつける。

「気付かれましたか。そう、今この聖墓に安置されている聖骸聖典は十六つです。記録上存在した使徒の数とは、ええ、合わないことでしょう」

「記録には存在しなかった……俺が選ぶかも知れないような、使徒であることを隠して生きた使徒が、過去にもいたってことですか?」

「そうですね。わたくしが先代であるユリケンシュ様から聞かされた話では、二柱そうして生きた使徒がいたとのことです」

「……それでも数が合わないんですけど。半端なもう一つは一体どういうことなんですか? 安置されているってことは、記録上誰も知らなかった使徒がいたってことはあり得ないはずですし。そうだったら、見つかってないはずで」

「いえ、ジュンタさんのおっしゃられているとおりなのですよ。ここにある一つの聖骸聖典は、間違いなく記録上存在しなかった、けれど実在した使徒の聖骸なんです。
 本当のところを言ってしまえば、つまるところ『始祖姫』様は始まりの使徒ではなかったということですね」

「『始祖姫』様が――

――始まりの使徒ではない、ですか?」

 クーとジュンタは同時に疑問の声を上げる。
 二人の疑問に答えるべく、フェリシィールとルドールは交互に説明を開始した。

「『始祖姫』様の活躍とは、即ち救世序詞――ドラゴンを滅して地獄だった世を救ったという巡礼の旅です。かの使徒様方の働きがあって、今の使徒の在り方が存在します。ですが逆を言ってしまえば、『始祖姫』様以前はそうではなかったのでしょう」

「エルフの間にも伝わっている伝承があります。ドラゴンが暴れていた時代、エルフがその耳と歳を取らない姿から迫害されていたように、民衆の理解がなかった初めの頃、メロディア・ホワイトグレイル様はそのお力故に異端として軟禁されていたのだと」

「魔法がなく、剣と弓とでドラゴンと戦っていた時代ですから。今でこそ当たり前の魔法が人には畏怖の対象として映ったのでしょう。それはまた神獣に変化する使徒も同じだったはずです。
『始祖姫』様以前にもしも使徒がいたと仮定した場合――事実いたわけですが、恐らく酷い迫害にあっていたか、迫害を恐れて隠れ住んでいたと推測されます」

「そんな、使徒様が迫害だなんて……」

 血相を変えるクーとは違い、ジュンタはあくまでも冷静に二人の言葉を受け止めた。
 
 異世界生まれたのジュンタからしてみれば、使徒は間違いなく異質だった。
 当初自分がそうであることを心のどこかでは認められずにいたように、獣に変身する人である使徒は時代によっては迫害の対象だったのは間違いない。

『始祖姫』が救ったものは人だけではなく、後の使徒もだったわけだ。本当に誘われた時代が今で良かったと思う。もしも『始祖姫』以前の時代に誘われていたら、傅かれたくないから使徒であることを隠すのではなく、殺されたくないから身を隠すことになっただろう。

「そうした使徒の方は、もちろん記録には残っていません。話によれば、ここにある聖地の使徒以外の聖骸聖典は、この場所が作られた当初にはもう存在していたという話です。恐らく『始祖姫』様方が発見なされ、ここに安置されたのでしょう」

「それが『始祖姫』以前に使徒がいたって証拠になるわけですね」

「はい。ことがことですので人々には言うことができませんが、まず間違いないでしょう。使徒という存在を生み出したと言う意味では、『始祖姫』様方が間違いなく始祖にあたるのですが」

 記録にない使徒は、もしかしたら怪物やら化け物などという形でどこかの伝承に残っているかも知れない。ただ、それは今考えても詮無きこと。千年以上も昔の使徒のことは取りあえず今は置いておく。重要なのは、あくまでも聖骸聖典が語る現代に生きる使徒の裏切りの理由だった。

「それで、この聖骸聖典がどうやって、使徒ズィールがベアル教と繋がっている理由になるんですか?」

 聖骸聖典の歴史を切って尋ねたジュンタに、フェリシィールが聖骸聖典の歴史を絡めて答える。

「実はここには本来、十七の聖骸聖典が安置されて然るべきなんです。いえ、実際二年ほど前までは十七の聖骸聖典が存在しました。しかし、一つの聖骸聖典が何者かの手によって持ち出されてしまったのです」

「聖骸聖典が持ち出された?」

「ええ、やはり記録にない使徒様の聖骸聖典が。……実を言えば、わたくしはこの場所があまり好きではありません。昔を思い出してしまいますから……」

 フェリシィールの眼差しは、一つの聖骸聖典に向いていた。最も古参のフェリシィールは、法則から鑑みれば二柱の使徒の死に立ち会っていることになる。言うなればここは親しい人の墓だ。思い返したくないこともあるのだろう。

「わたくし以外の使徒も、ここにはあまり近付きません。この浅瀬は使徒であっても神聖なものですから。
 それが油断になったのでしょう。わたくしがもしかしてと思い、聖骸聖典の数を確かめに来たのがほんの数十日前のことです。そのときにはこの場所から、すでに一つの聖骸聖典がなくなっていました」

「それは、一体どんな力がある聖骸聖典なんですか?」

「分かりません。記録にある使徒のものなら分かるのですが、如何せん記録にない使徒のものですし、こればかりは実験することもできませんので。大事にこそすれ、秘匿のためにも詳細が調べられることはありませんでした。しかし、その形がどんなものであるかは記憶しています。また、それにまつわる言い伝えも」

 一つの空の台座に視線を向けたフェリシィール。彼女が向けた台座には、得体の知れない泥のような獣の姿が、金によって創造されていた。アーファリムが用意したというソレは、何か分からぬ過去の神獣――その聖骸聖典は、そんな形をしていたのだという。

「『其は人の願いを叶えるもの。其は人の欲望を果たすもの。其は人の切望に答えるもの』――ここに安置されていたのは、黒い背表紙の聖骸聖典でした。そしてその聖骸聖典はあり得ない場所から一度わたくしどもの手元にまで戻ってきたのです。他でもない、ジュンタさん。あなた方の手によって」

「俺たちが行方不明の聖骸聖典をフェリシィールさんのところへ持ってきた? そんな記憶は……」

 ない。と、続けようとしたジュンタの記憶に一つの黒い背表紙の本の姿が蘇る。それは強烈な印象を持ち主に与えられたため、忘れたくとも忘れられない記憶であった。

「結局はまた奪われてしまいましたが、一度は聖地にまで戻ってきたのです。当初は盗まれているなんて可能性を考えられず、気付けなかったのですが、その異質な力を調べるために調査された結果、それが間違いなく聖骸聖典であることが確認されました。
 お分かりですか? ジュンタさん。持ち出された聖骸聖典は、その異端導師にこう呼ばれていました」

 頭に過ぎる、魔法でも語れない異質な力を振るった本。
 確かに一度はリオンが持ち主ごと捕縛した、黒い背表紙の本。


――『偉大なる書』、と。ベアル教の導師ウェイトン・アリゲイが使っていたあの書こそ、この『聖廟の泉』より持ち出された聖骸聖典だったのです」


『偉大なる書』という名を聞かされたとき、全てはジュンタの中で繋がった。

「そうか。ここから持ち出された聖骸聖典があの『偉大なる書』だったなら、持ち出した犯人はベアル教と関わっているに決まってる。そして『聖廟の泉』に来るためにはこの場所があることを知ってないといけなくて、入るには覚醒した使徒の血が必要……こんな場所から秘密裏に持ち出すことができるのは、使徒以外にはありえないってことか」

「そういうことです。悲しいことですが、この場所を知るのはジュンタさんとクーちゃんを含めて、使徒と巫女の八名だけですから」

 ウェイトンが捕縛され『偉大なる書』が調べられた結果、聖骸聖典だと判明したことによりフェリシィールはこの場所へとやってきたのだろう。そして疑いを持った。この場所から聖骸聖典を盗み出せるのは使徒だけだから。

 理解がいったジュンタもまた、かつてのフェリシィールと同じような結論に達する。
 使徒のいずれかがベアル教と通じていないとおかしい。しかもマイナス面の多い行動にまで出たのだ。恐らく、かなり深く繋がっている。

「わたくしはこう考えています。開祖ベアルの死によって一度は滅びを迎えようとしたベアル教。それを建て直した新たなる『盟主』――未だ素性の知れぬ彼ないし彼女こそ、この場所から使徒の聖骸を盗んだ者でないかと」

「ベアル教のトップが使徒……笑えない展開ですね」

「ええ、本当に笑えません。この件、下手をしたら使徒の在り方そのものを損なうことになりかねません。本来信頼し、力を貸してもらうべき使徒が絶対という言葉をもって信じられない今、信じられるのはあなた方とリオンさん方だけです」

 わざわざフェリシィールがランカにまでやってきて選択を促した真意に、ジュンタは気付く。

 彼女は仲間を求めていたのだ。巻き込みたくないと思いつつも、使徒として使徒に対抗できる、信頼できる仲間を。

 それが自分だった。大事な娘のような巫女が選んだ使徒だった。……不安に感じていたのか、フェリシィールがジュンタを見つめる視線は、どこかすがりつくようなものだった。

「使徒ズィールを疑わないといけないフェリシィールさんの心中は察します。だから、俺は全面的に協力しますよ。つまりはそのベアル教の盟主を倒せば、本当に俺たちの勝ちってことですから。なぁ、クー?」

「はい! 相手が使徒様というのはちょっと、いえ、かなりあれですけど、ご主人様とフェリシィール様のお力にならないなんてありえません!」

「ジュンタさん、クーちゃん…………ごめんなさい、というのは間違っているのでしょうね」

「でしょうな。戦う決意をしている相手に言うべきことは、決まってますでしょう」

 どこか嬉しそうに他三人を見つめるルドールの視線に励まされ、様々な思惑に揺れていたフェリシィールはようやくの穏やかな笑顔を取り戻す。

「では、お願いします。使徒ジュンタ・サクラ。巫女クーヴェルシェン・リアーシラミリィ。
 聖地の平和を。世界の安寧を。そして、何より目の前にある幸せを守るために、どうかわたくしにお力をお貸し下さい」

「精一杯やらせてもらいます」

「私もです。私が生まれたベアル教というものの考えを、私は全力で否定します」

「……本当に、ありがとう。あなた方がいてくれて本当に良かった。ふふっ、では地上に戻って濡れた服を替えましょうか」

 元気になったフェリシィールは、目尻の涙を拭って笑う。
 そしてなぜか喜々とした表情を見せて、これからまず第一にすべきことを口にした。

「ご安心を。いかなることがあっても大丈夫なように、お二人には最高の服を用意してありますので。わたくし、がんばって選ばせていただきました」

「あ、あれ? なんでだろう? なぜか呪いをかけられたみたいに、背筋が寒い……」

「そうですか? 私は逆に、なぜか期待で胸がポカポカ温かい気がします」

 脳裏になぜか去来するのは、過去二度あった最低の思い出。衣装と聞くと、どうしても思い出してしまうあの漆黒の縦ロールな悪夢。

 まさかね。と、思いつつ、ジュンタは楽しそうなフェリシィールを見て不安を募らせる。

 この上なく頼りになる味方だけど――それでもフェリシィール・ティンクという使徒は、かなり常識から逸脱していそうなお人であるからして。






 ……ジュンタは気付くよしもなかったが、誰もいないと思われた『聖廟の泉』には先客がいた。

「全ての欠片がこの地に集い、そう、今こそが始まりの刻」

 水で身体を清めていた女。
 まるで聖地を巡回する水を汚すように、あるいは祝福するように一体化していた女だ。

 ゆっくりと水上に浮かび上がった彼女は、まるで氷像のよう。長い水色の髪は水面に溶けるように流れ落ちて、閉じた瞼を縁取る長い睫からは、まるで涙のように水滴が落ちていく。

 それは没した使徒たちに哀悼しているかのようで、
 それは没した使徒たちに絶望しているかのようだった。

 彼女の口から紡がれるのは鎮魂歌。美しく透明なレクイエムは、聖骸だけを聴衆として響き渡る。

 ――否。

 聴衆は他にもいた。一人だけ、生きた者がいた。

 去り行く使徒の最後尾として、若人たちを見守るように順番を待っていた美貌の老人。彼だけは消え行く刹那、水色の女の美声を聞いていた。

 果たして何も見なかったことにして立ち去った彼は、死した者にしか意味のわからぬレクイエムに何を思ったのか?

 それは生者にしかわからないだろう。
 
 だからきっと――――歌う彼女にはわからない。

 
 






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