第六話  メイドは見た
 



 ――メイド服。

 黒と白のコラボレーション。清楚でありながら色香があり、華美ではないが優美なデザイン。ヘッドドレスにできるしわの一つ一つまで計算し尽くされた、それは匠の業。機能的にも優れたそれは世界にたった二着しか存在しない、究極のメイド服と言っても過言ではなかった。

 その道の者なら求めずにはいられない生唾ものの一品。
 幸運にもそれを身につけることが許された彼女は涙をにじませ、興奮からか頬を紅潮させていた。

「どうせこんなことだろうと思いましたよ。ええ、思いましたとも」

 訂正。にじんだ涙は男としての尊厳を踏みにじられたからであり、頬が赤いのは単なる羞恥心からである。

 メイド服を着た彼女――ではなく彼であるジュンタは、姿見に映り込む自分の姿にしばし絶望していた。

「縦ロールの悪夢再び。まずい、本格的に縦ロールがトラウマになってきた……」

 使徒であるフェリシィールが用意したメイド服がオーダーメイドの特注品なら、化粧もまたすごかった。分厚くないのに驚くほどに容姿を際だたせる。黒い縦ロールのウィッグを身につけた姿見の中の自分を、ジュンタは最初自分自身だと認識できなかった。それほどまでの変身。恐るべきは世界トップが選りすぐったメイクさんである。

(そんな相手を軽々と招集できる使徒が周りにいたんじゃ、ヒズミも落ち込むわけだ)

 女装した自分に少々見惚れたというヒズミだったが、これを経験していたなら仕方がない。恥以外の何者でもないが、ジュンタも自分の顔に思わず見とれてしまった。それ以上に黒い縦ロールを目にいれた瞬間、心臓がじくじくと鈍い痛みを発したのだが。

「本当に――やれやれだ」

 はぁ、とため息を一つ。ジュンタは姿見を破壊したい衝動をぐっと堪え、後ろを向いた。

 街の雑踏は遠いが、鳥の鳴き声が聞こえてきた。空は天井が見えないほど高い。だけどなぜかそんな青がにじんでしまうよ。男の子だから。

 濡れてしまった制服の替わりに用意されたメイド服のあまりの着心地の良さと違和感のなさに、ジュンタはこっそりと目もとを拭う。やっぱりフェリシィールは恐ろしい。笑顔でメイド服を手渡してくるし、拒否したら部下に強制させるし。

 でも、これ以上はさすがにないだろう――最終的に諦めて女装を行ったジュンタは神居の一室である部屋の扉を開けて、


 ――廊下の先に女性物の下着を手にしたフェリシィールを確認した瞬間、脱兎の如く逃げ出した。

 後ろからフェリシィールの呼び止める声が聞こえた気がしたが気のせい気のせい。今の自分はサクラ・ジュンタであらず。認めてたまるか、こんな自分。

 今なら羞恥心だけで限界を超えられるという確信の通り、神居を駆け抜けるジュンタの速度は過去最高速度をマークしていた。開かれた窓を見るなり躊躇することなくジャンプ。三階ほどの高さを苦もせず着地を果たすと、ゴロゴロ転がって回転受け身。どんな生地を使っているのか、メイド服には汚れ一つ見あたらない。無駄に金かけやがって。

 ちっ、とかなりやさぐれた感じの舌打ちが出てしまったジュンタは神居を飛び出し、礼拝殿を突き抜け、騎士堂まで一気に駆け抜ける。何人かに途中呼び止められたが止まらない。ここで止まったら相手の記憶まで止めてしまいそうだったから。

「はぁ、はぁ、冗談じゃない。俺はヒズミとは違うんだ」

 気が付けばジュンタはアーファリム大神殿の建物から出て、聖殿騎士たちの演習場も設置された広大な外庭へとたどり着いていた。

 誰もいない物陰に潜み、壁を背にずるずると座り込む。あまりスペースがないため、自然と体操座りに。今までにない危機感から魔力を使ったからか、もの凄く身体がだるかった。うなだれるように膝に額をつけて大きく息を吸う。

 けほけほっ、と小さく咳き込みながら息が整うのを待った。整ったらもう一踏ん張りして、シストラバス邸は……どう考えても無理だから、どこか逃げ込めそうな場所へと逃げ込み、着替えないと。

 そう考えてみると、ジュンタにラグナアーツで逃げ込めそうな場所はもう一つしか残っていなかった。

「……元気かなぁ、孤児院のみんな」

 息苦しさと羞恥心から目元が潤んだ状態で、ジュンタはかつてお世話になった孤児院のことを思い出す。ラグナアーツにまたきたら行こうと思っていた場所を思うと、自然と切ない気持ちになってくる。

「いやいや、落ち込んじゃいけないよな。こんな状況だし、一生懸命がんばらないと。これ以上酷い状態になる前に」

 息もやっと落ち着いてきたので、ジュンタは膝に押しつけていた顔を上げた。さぁ、早く男としての尊厳を取り戻そうと、と。無理矢理な笑顔を浮かべて。


――話は全て聞かせてもらった」


 目の前にはいつのまに現れたのか、そびえるような人影が立っていた。

 太陽を吸収するような光沢を持つ翡翠色の髪。
 見下すように睨んでくる鋭く冷たい金色の瞳。

 呆けるジュンタを見下ろしていたのは、どこからどう見ても翡翠の使徒様だった。

 ズィール・シレ――ベアル教と繋がっている疑いがかけられている男。畏れを抱かせる貫禄を持った世界最高権力者。

 そんな彼を称するに一体どんな言葉がふさわしいのか、ジュンタはフェリシィールに先程尋ねてみた。

「食べなさい」

「………………へ?」

 怖い顔のまま、ズィールは抱えていた紙袋に入った揚げ物を差し出してきた。

 まるで飼い主に捨てられた子犬をあやすように。
 まるで親とはぐれた迷子の子供を慰めるように。

 かの使徒を生まれたときから知る金糸の使徒曰く、使徒ズィール・シレとは、

「遠慮することはない。お腹が減っていては、何をやっても上手くはいかないものだ」

『食いしん坊な正義の味方』――らしかった。






       ◇◆◇






 聖地に用意されたシストラバス家の別邸は、景観を周囲と統一するために白亜の石造りとなっていた。

 緑の庭には聖地でも一際巨大な水路が一周流れ、門から玄関までは橋を使って越えるようになっており、屋敷自体の面積はランカや王都の屋敷に比べれば劣るものの、シンメトリーで整えられた景観は厳かな雰囲気を漂わせている。

 しかし用意できているのは外装と、使用する予定のある部屋だけ。リオン付きの従者であるユースは朝早くから起きて、屋敷を管理していた数人の使用人共々、リオンやもうすぐ来るゴッゾに快適に過ごしてもらうための空間作りに余念がなかった。

 そんな風に忙しくしていたユースの許に、リオンが戻ってきたと報が入ったのはまだ昼前のことだった。

「ユース! 私にメイド服を貸しなさい!」

 そして他の人たちにその場を任せて主の出迎えに赴いたユースにかけられたリオンの第一声が、それであった。

「…………はい?」

 目が点である。

 銀縁フレーム奥の切れ長の瞳を大きく見開いて、ユースは主が恥ずかしさここに極まりという顔で申したお願いを口に出して繰り返す。

「メイド服を貸して欲しい、ですか?」

「く、口に出して繰り返さないでいただけます! い、いいから私にメイド服を貸しなさい!」

「はぁ……サネアツさん、これは一体どういうことなのでしょうか? それにジュンタ様たちはご一緒ではないのですか?」

 再び主の口から紡がれたお願いにユースは困惑して、てんぱったようなリオンではなく、彼女の肩に乗るサネアツに状況を教えて欲しいと視線を向ける。

 白い子猫は、上気するリオンの肩の上が熱い熱いといわんばかりに尻尾を揺らしつつ、

「ジュンタたちは何やら準備することがあるらしいのでな、一足早く俺たちだけで先に帰ってきたというわけだ。で、ユースの主がこうまで恥ずかしいお願いを大声で叫ぶようになった経緯は…………ぷぷぷっ」

「笑いましたわね?! 自分でさせておきながら、あなた今笑いましたわね!?」

「おおっと、これはすまない。まぁ、ユース。特に気にせずメイド服を貸してやってくれ。そうすればきっとおもしろいものを見ることができるだろうからな」

「……事情は呑み込めませんが、分かりました。少々お待ち下さい」

 掴みかかろうとするリオンの手を軽やかに避けるサネアツのHAHAHAHAという笑い声を耳にしつつ、ユースは足早に自室へ向かう。

 なぜメイド服が必要なのかはわからないが、あれほどまでにリオンが恥ずかしがっているならば、きっと彼女が着るに相違あるまい。主であるリオンがかわいいメイド服を偶に羨ましそうな目で見ているのは知っていたユースであったが、使用人の服ということで絶対に手を出さないでいようとしているのも、また知っていた。

 そんな彼女の考えが変わったなら、それはアーファリム大神殿に残っているという彼が原因だろう。だとするなら断ることなどありえない。

 だけど……

「リオン様。私のメイド服では、胸がかなり余ってしまうと思うのですが……誰かに胸パットでも借りてくるべきでしょうか?」

 あくまでも事実だけを鑑みて、リオンではサイズが合わないのではないだろうか?


 

 

 リオンがサネアツから聞いたジュンタの籠絡方法は、とても簡単な方法だった。
 恋する乙女が当然取るべき、思い人の好みに自分を近づけるという方法である。

 古今東西、好きな人のためならなんのその、というのは誰もが行っている方法である。珍しくもない方法だが、それは同時に効果的であることも立証されているはずだたぶん。リオンとしてもやぶさかではないだが、どうしてそれがメイド服を着ることに繋がるのか。

「サネアツ。本当に私がメイド服を着れば、ジュンタを籠絡できますのね?」

「オフコースだとも」

 カーテンを取り付けて外からは見えないようにした自室の天蓋ベッドの上、リオンはユースに用意させたシストラバス家のメイド服を手に、カーテンの向こうに控えるサネアツに改めて効果のほどを質問する。

 正直、いいえと言ってもらった方が嬉しかったのだが……返ってきたのは何とも頼もしい肯定の返事。リオンはしばし葛藤から口を閉ざした。

「ジュンタ好みになるというにはあまりに元の性格が違いすぎるし、良くも悪くもお前は意志が固い。限界が早い上に日数もかかろう。できることといったら、格好をジュンタ好みに近づけることぐらいだ」

「それがどうしてメイド服に繋がりますのよ? いえ、分かりますけど」

 メイド服のデザインは、偶にリオンでも目が行くぐらいかわいいもの。これを着ると魅力が上がるというのも分からない話ではない。ただ、ジュンタに限ってはそれだけではないようだ。

「なぜかと聞かれたら、こう答えるしかあるまい。
 ジュンタはメイド服が好きだ。ジュンタはメイド好きだ。それ以上でも以下でもない!」

「…………」

 はっきりと幼なじみに断言されるジュンタの嗜好に、リオンは若干げんなりする。同時に納得もしてしまった。

(確かに、ジュンタは献身的な女性が好きそうですものね。クー然り、ユース然り……ですけど、このリオン・シストラバスともあろうものがメイド服を着てもいいものですの?)

 かわいらしいデザインという前に、それがメイド服なのが重要とサネアツがいうようにメ、イド服は特殊な服だ。使用人が着る服なのである。それを大貴族の次期当主であり、誉れ高き騎士である自分が着ていいものか……

「どうやら着るか着ないかで葛藤しているようだな。なら、想像してみるがいい。それを着た自分ではなく、それを着た自分を見たときのジュンタの反応を」

「メイド服を身につけた私を見た、ジュンタの反応……?」

 サネアツの言葉に、リオンの脳裏にイメージが浮かんでくる。

 アーファリム大神殿から戻ってくるジュンタ。大変なことを聞かされて、きっと心身共に疲れていることだろう。そこへ颯爽と現れるメイド服をつけた自分。いつもとは違う姿にジュンタは見惚れ、息を呑むに違いない。まぁ、仕方がないので、紅茶の一杯でも淹れてあげてもいいかも知れない。そうすればきっと癒しになって……

『ありがとう、リオン。俺はメイドが大好きだ。付き合おう』

「なんて――きゃ! そんなことになったら私、一体どうすればいいんですの!」

「はっはっは。いい妄想具合のようだな。では、それを妄想ではなく現実のものと変えるために、やるべきことは分かっているな?」

「言われるまでもありませんわ。あなたは私の勇姿を見ているがよろしくてよ!」

 にへらと笑ったリオンは、一気にドレスに手をかける。
 もはやメイド服に着替える躊躇など、まったく存在していなかった。







       ◇◆◇






 それは聞くも涙、語るも涙のお話。

 あるところに一人の少女がいました。両親に愛され、健やかに育った可憐な少女です。

 しかしそんな幸せな彼女に一つの不幸が訪れました。
 それは両親の死。一夜にして両親を亡くしてしまった少女は悲しみに暮れる中、孤児院で暮らすことになります。

 涙は溢れて止まりません。それでも少女は何とか立ち直り、孤児院のみんなと仲良く暮らし始めました。

 孤児院の暮らしは決して裕福とは言えませんでしたが、いつも騒がしく、退屈とも寂しさとも無縁の生活でした。孤児院が新たな少女の家となり、孤児院の仲間たちが少女の新しい家族になったのです。

 ですが、ここでも一つの不幸が襲いかかります。

 みんなの父親代わりであった神父がいなくなってしまったのでした。

 神父がいなくなってしまった孤児院にはお金がありません。お腹を空かせる家族のために、少女は一人働くことを決意しました

 まだ幼い少女はメイドとなって働き始めます。
 少女は家族のために一生懸命働きました。来る日も来る日も休むことなく、弱音も吐かず、一生懸命働きました。

 ……それでも、時折寂しい気持ちが溢れてしまう日があります。

 それはたとえば辛いお仕事があった日や、両親が死んでしまった命日の日。少女は誰にも見つからない場所で、一人涙を拭いました。

 誰にも心配をかけたくないから、少女は人前ではいつも笑顔でいます。
 誰にも迷惑をかけたくないから、少女はどれだけ寂しくても笑顔でいます。

 それは一人のメイドの少女のお話です。

 ……つまりズィールから見たサクラ(偽名)という少女はそういう少女らしかった。

「苦労しているのだな、まだ幼いというのに」

「ええ。まぁ、苦労だけは人一倍」

 誰もいない庭の片隅で、ジュンタは身体を小さくして渡された揚げ物に口をつける。外の衣はさっくりとして、中のお芋はほくほくとしている。出来立ての熱いその揚げ物は、少し甘いコロッケのような食べ物だった。よく屋台などで売られている品である。

「見上げた精神だ。家族のため、弱音も吐かずに働くとは。このアーファリム大神殿に、貴公のような少女がいたことを自分は誇りに思う。さぁ、もう一つ食べなさい」

「どうもありがとうございます」

 紙袋の中から新たなコロッケモドキを取りだし、やはりむっすぅとした仏頂面のままズィールは手渡ししてくる。恐る恐る体操座りをしたジュンタは、隣に立つズィールから受け取ってモソモソと口をつける。

 ………………………………この状況でどうしろと?

 ズィールが突然現れたことに慌てて、咄嗟に逃げ出すために嘘をついたのがいけなかった。

『か、家族のみんなのために働かないといけないのでオホホホホ』と言って逃げだそうとしたら、『気にすることはない。今だけはゆっくりと休みなさい』という第一印象からは想像もできなかった優しいお言葉を頂いてしまった。以後、こうしてなぜか並んでコロッケモドキを食べている構図に至っている。

 どうやら先日出会った相手であることはレベルの高い変装のためばれていないようだが、これ以上、ズィールがこちらの独り言を聞いて脳内補完した設定を演じるのがきつくなってきた。彼の脳内ではどれだけ健気で自分はいい子なのか、使徒からおやつをもらうってどういう状況?

 下手に相手が偉い人のため、勝手に逃げることすらできない。メイド服を着ている以上、向こうも神殿内で働いている人だと思っているようだし。これでもしも女装した男だとばれたら……

「殺されるかも知れない」

「何か申したか?」

「い、いえ、この揚げ物美味しいなぁ、と思った次第であります。はいっ!」

 高い声をつくって無理矢理な笑顔で誤魔化す。ばれてはいけない。絶対にばれてはいけない。怖い顔に反して博愛主義に溢れているらしいズィールに女装がばれたら、不名誉極まりない死を迎えることだろう。

(どうにかして逃げないと。くそぅ、これも全部フェリシィールさんの所為だ)

 今もきっと下着片手に、あらあらまぁまぁと慌てているだろう人騒がせな使徒に、ジュンタは内心で恨みをぶつけた。

「この揚げ物は、今日街へ視察に行った折、土産として店主が渡してくれたものだ」

「え?」

 手に持ったコロッケモドキを見つめつつ、ズィールは少し口元をほころばせた。

「視察のため買うことは叶わなかったのだが、行列ができていたので気にはなっていた。次の機会があったら、店主にきちんとお礼をせねばならない」

「お礼を、使徒であるあなたが、わざわざお礼を言われに行かれるんですか?」

 ジュンタの口をついた問い掛けは、あまりにも意外に思えたため出た質問だった。

「当然だ。好意には礼を。罪には罰を。この世を生きていく上で当然の行いだ」

 さも心外だといわんばかりにズィールは笑みを消して、

「それはどんな立場、誰が相手であっても変わらない。否、変えてはならない。この世にそういった理が敷かれているからこそ、今の暮らしが存在するのだ。人を導く使徒たる自分が、それを遵守しないわけにもいくまい」

「……そう、かも知れませんね」

「この世の全てはそうして成り立っている。与え、返され、また与える。全ては天秤の上に。一方的な施し、一方的な享受は美徳ではない。傾きは美徳ではないのだ」

 聞く者にそれが真実であると信じさせる力強い声でズィールは締めくくると、コロッケモドキを口の中に入れた。

 先程からジュンタの倍以上のスピードと量を食べているズィールだが、いっこうに紙袋の質量が小さくなっている気配がない。相手が使徒だからといってどれだけ屋台の店主はサービスしたのか、ついでにズィールは一体どれだけ食べるつもりなのだろうか?

 こぶし大の揚げ物が次々にズィールの口の中に消えていく様は、圧巻の一言であった。決して下品ではない速度で、しかし信じがたいスピードでズィールは平らげていく。

 あれだけ減ることがなかった揚げ物が減るまで、ジュンタが考えていたほど時間は必要なかった。まるでズィールの口から胃にかけての時間は、そのほかの時間とは異なっていると思えるほどに、あっという間にズィールは全てを食べ尽くしてしまった。

「馳走になった。この時間に感謝を」

 紙袋を綺麗に折りたたむと、ズィールはすっと前へと足を踏み出した。

「では、自分はこれにて退席させていただく。貴公も早く食べるといい」

「あ、はい。これ以上休んでられませんしね」

「いや、そうではない。その揚げ物は熱い方が美味しい。ただ、それだけが理由だ」

 立ち上がったジュンタは、自分がまだ手に持った揚げ物を食べきってなかったことを思い出して、何となく早く食べなきゃいけない強迫観念に駆られて一気に口に詰め込んだ。メイドであることを偽るなら丁寧な見送りが必須なのだが、咀嚼し終わるまではそれができない。

「むぐっ!?」

「味わって食べぬからだ、戯けめ。向こうに水飲み場がある。見送りはいいから急ぐといい」

「あ、ありがとっ、ごらいまふ」

 それどころか喉を詰まらせてしまったジュンタは、苦しいがあまり言われるままに水飲み場目指して駆け去ってしまった。敬虔な信者が見たら卒倒しかねない場面だろう。何はともあれ逃げることができて良かったというか水欲しい。

 ズィールは目を白黒させながら駆け去っていくメイドを見て、やはり仏頂面のまま呟いた。

「……可憐な奴だ」



 
 
 

「あ〜、死ぬかと思った」

 喉につっかえていた芋を何とか飲み込んだジュンタは、口の周りについた水を手のひらで拭う。慌てていたために水を飲むとき胸元を盛大に濡らしてしまったのだが、そちらは手で拭き取るのは無理だった。

「しかし、あれがズィール・シレか。思ってたのとは全然違った」

 結局見送ることなく別れてしまった使徒がいた方を振り返って、ジュンタは眉を顰める。どうしてあれだけフェリシィールが庇うのか、あの強面を見ただけでは不思議に思ったのだが、あそこまで外見と内面がちぐはくならば納得できるというものだ。

 ジュンタの印象としては『まとも』というところか。変人奇人が多いと噂される権力者の中で、ズィールは至極真っ当な人格をしていた。使徒としてあの丁寧さは、ある意味変かも知れないが。

「……ベアル教と繋がってる、ねぇ。なんだか信じられなくなっちゃったな」

 何も知らないからそのまま疑っていただけに、知ってしまった今疑いが揺らぐ。元々明確な証拠がないなら尚更である。

 でも、使徒かそれに近しい人間に裏切り者は隠れ潜んでいるのも確かだ。フェリシィールじゃない。ズィールも違う。なら、残るは……

「ご主人様!」

 考えたくもない考えが頭を過ぎった途端、それを晴らすかのような喜びに溢れた声がかけられた。

「ご主人様、探しました。フェリシィール様に突然走り出されたと聞いて、私、心配して!」

「クー」

 パタパタと駆け寄ってくる音。切れた息づかい。
 声だけで誰とわかる彼女が、どれだけ心配してくれたのか耳だけでジュンタにはわかった。そういえばクーも着替えているはずで、置いてけぼりにしてしまったのだった。

 しかし流石だ。自分でも一瞬疑ってしまったこの格好でも、クーの目は一瞬たりともごまかせなかったらしい。

「悪い、クー。ごめ――

 ジュンタは振り返って謝ろうとして、


 ――――クーの姿を見た瞬間、裏切りの問題とかそういったものを全て彼方へと忘れ去った。 







 ジュンタがアーファリム大神殿から帰ってきたのは、ちょうど昼食の時間になろうかとしている頃であった。

「ジュンタが帰ってきましたわ。予想通り疲れているようです」

 紅い生地に白いエプロンドレス。頭にはホワイトブリムをつけた、完膚無きまでのメイド服仕様のリオンは、玄関ホールの柱の陰から玄関扉を開けて入ってきたジュンタを確認する。

 本来ならば出迎えがあって然るべきだが、今日はユース他使用人の出迎えはない。
 なぜならばこの自分こそが出迎えるのである。前もって必要ないと伝えておいた。

「子猫式恋愛教室。最初の勝負の時だぞ」

「分かっていますわ。あのような屈辱、二度も繰り返してたまるものですか」

 傍に控えるサネアツから激励に、リオンは憮然と口を尖らせる。

 ジュンタが帰ってくるまでの二時間ほど、ここで待っているのは苦にならなかった。イメージトレーニングをしているだけで時間はあっという間に過ぎてしまったからだ。しかしその前――メイド服に着替えるタイミングで、リオンはとてつもない屈辱を味わった。

「最初から想像していて然るべきだったわけですけど……」

「お前とユースで服のサイズが合うはずなかったな。胸がブカブカに開いているのを見たときのお前の顔を、是非ジュンタにも見せてやりたかった。ときに、今のメイド服はサイズが合っているようだが――訊こう、リオン・シストラバス。その胸は偽物か?」

「自前ですわよ! サイズの合う新しいメイド服を再調達したのを、あなた見ていましたわよね?!」

「なんだ? リオン、そこにいるのか?」

「……っ!?」

 大声で言い返してしまい、ジュンタに気付かれてしまった。

 リオンはサネアツを後でオシオキすることを決定し、どぎつい視線で突き刺してから深呼吸をして、柱から横へ一歩ずれた。

 いざジュンタに見せるとなると、サネアツに見せたときとは桁違いの羞恥心が込み上げてくる。しかし二時間のイメージトレーニングは伊達ではない。すぐに覚悟を決め直すと、リオンはあらかじめサネアツから定められていた出迎えの言葉を口にした。

「お、お帰りなさいませ。ご主人様!」

「………………………………………………は?」

 叩き付けるように言い放つと、ジュンタから圧倒的な間のあと、素っ頓狂な声がもれた。

「〜〜〜〜!」
 
 一瞬遅れてリオンにやってしまった感が襲いかかってくる。

 やっぱりやるべきではなかったかと、ジュンタの驚いた様子を見てそう思う。だが、もうここまで来たらやけくそでもあった。完全なアドリブ役者魂で、リオンは毅然と顔をあげる。

「さぁ、ジュンタ! ではなく、ご主人様! 喜ぶがいいですわ。この私が疲れているあなたのために、おいしい紅茶を淹れて差し上げましてよ!」

「いや、え? ホワイ? これは一体どんな夢空間に紛れ込んだんだ、俺は?」

「そ、そんな、夢みたいだなんて……ふ、ふんっ! そんなところで本当に夢でも見ているかのように突っ立ってないで、こちらに来なさいな」

「ごめん。ちょっと待て。サネアツ! 出てきて詳しい説明してくれ!」

「呼ばれて飛び出てニャニャニャニャーン! どうした、マイソウルパートナー。そんな白昼夢でも見てしまったかのように狼狽して。やはりメイド服はツボだったか? ツンデレメイドがご所望だったか? ん?」

 勝利を確信したように柱から姿を現したサネアツはリオンの隣までやってきて、どこのオヤジだといわんばかりにジュンタを責め立てる。リオンもリオンで羞恥心がジュンタの反応の嬉しさに負け、顔を綻ばせる。

 その辺りが、ジュンタにとっても冷静に状況を受け入れることができたタイミングなのだろう。


――ダメだ。俺は断じて、そんなものをメイドとして認めない!」

 
 驚きから立ち直ったジュンタがあげた第一声は、そんな魂の叫びであった。

「確かに、ツンデレメイドも一つのカテゴリーとして確立されている。が、俺としてはNGだ。あくまでもメイドは主に献身的なものであって、言葉の端々に思いやりが込められているものだ。それは恥ずかしがっている中でも、決して見失ってはいけないものだと俺は信じている」

 これにはリオンもサネアツも閉口するしかなかった。

「理由なく、理屈なく、ただ誠心誠意心の底から主を敬愛し、信頼し、支える。それがメイドだったはずだ。だからこそ主もメイドに応えようと努力する。それが主従というものだったはずだ。 もちろんインモラルな関係などナンセンス!
 ……俺は悲しいよ。メイドといつも接しているお前たちがそれを見失ってしまったことが」

「そ、そうですわ。いつもユースを見ていますのに、私はメイド服を着ただけでメイドになったと思って……失態ですわ。メイドになろうと決意したなら、ちゃんと心まで変えなければいけなかったといいますのに……!」

「いや。待て、リオン・シストラバス。言い含められるな! ジュンタの様子は明らかにおかしい。酔っぱらい始めたときぐらいの錯乱状態だ。今の言葉は自分の本能を正当化しようとしているものに過ぎない」

「はっ! そ、そうですわ。お待ちなさいジュンタ。この際私が全否定されたのはともかくとして、明らかに言動が変態のソレでしてよ。どうしましたの? フェリシィール様の元で、何か洗脳でもされまして!?」

「洗脳? ある意味ではそうかも知れない。だけど、どうしようもなかったんだ。俺には、どうしてもリオンがメイド服を着ていることを認められなかった」

 頭を振って、ジュンタは苦しそうに胸を服の上から押さえる。

 一体フェリシィールに案内された先で、クーと共に何を見たのか? そこにいたのはリオンが知るジュンタとは明らかに違っていた。うん、お酒を飲んでないのに酔っぱらっているっぽい。

「一体ジュンタの身に何が起きましたの? それに、よく考えてみれば一緒だったはずのクーもいませんし……」

「クーヴェルシェン?」

 メイド服のことはもう置いておいて、リオンはジュンタの様子だけに意識を傾ける。そこで一緒にいるはずのクーがいないことに気付いて、同じタイミングでサネアツも何かしらのことに気付いたよう。

「……なるほどな。ジュンタが壊れるわけだ」

「サネアツ?」

 尻尾をへたりと落としたサネアツが、『負けたよ』という感じで陰を纏う。

 リオンは彼が視線を向けた先を確認してみる。そこは玄関扉であり、扉の陰に誰かが慌てて隠れるのが分かった。姿は確認できなかったが、金色の尻尾のような髪を見るに、そこにいたのはクーに間違いなかった。

「……サネアツ。あなた先程、メイド服さえ着ればジュンタはイチコロだとか太鼓判を押してましたわよね?」

「間違いなく、ジュンタが先に壊されていなかったら、お前の格好はジュンタに多大なダメージを与えていたことだろう。しかし……悲しいかな。あれと比較してみれば、お前のソレは所詮エセメイドに過ぎなかったということだ」

「そうだ。リオンのはメイドのコスプレであってメイドじゃない。本当のメイドっていうのはユースさんみたいな人をいうのであり……そうだな。実際に見てもらった方が話は早いか」

「い、嫌ですわね。なんだかとっても嫌ですわ。見たくありませんわ」

 アハハハハと髪をかき上げつつ乾いた笑みを浮かべるリオンの眼前に、ついにジュンタによって呼ばれてしまう。自分の格好が恥ずかしくて隠れていた、だけどリオンとは違う完璧な奉仕の心を持つメイド様を。

――クー。カモン!」

 扉に隠れていたクーが、ジュンタの呼ぶ声に応えないはずがなく…………否が応にも敗北を認めざるを得なかった。クーを見たリオンは、即座に自分の敗北を認めてしまった。

「はい、ご主人様」

 恥ずかしそうに頬を染めつつ、だけどジュンタに対する絶対の敬意を込めた『ご主人様』という呼び名は、太刀打ちできるものではない彼女だけの聖句。

 フワリと玄関から吹き込む風に揺れる、黒地に映える純白のエプロンドレス。
 胸はリオンよりもない幼児体型だけど、それでもフリルの多いメイド服と調和した立ち姿は完璧の一言。金糸の髪はいつもとは違ってツインテールに結ばれ、赤いリボンが眩しい。そして、帽子の代わりに頭の上には黄金律的な配置でヘッドドレスが…………

「あの、実はフェリシィール様が用意してくださった服がこの服でして……」

「これが本当のメイドだ。いやぁ、やばかった。女装させられたことも忘れるくらいやばかった」

「その、何というか、元気を出せ。今回は相手が悪かっただけだ」

「う、うぅ……」

 リオンはメイドとなったクーを前にして、自分の姿を隠すように抱きしめる。そしてその場にいた三人を順番に潤ませた瞳で睨んだあと、

「これで勝ったと思わないことですわ――ッ!!」

 脱兎の如く、その場から逃げ出した。

「……しかし、なんであいつはメイド服なんて着てたんだ?」

「今回ばかりは全面的に同情しよう。哀れすぎるぞ、リオン・シストラバス」

 


 

       ◇◆◇


 

 

 翌日――昨日の一生のトラウマになりかねない羞恥体験のダメージを持ち前の負けん気で何とか乗り越えたリオンは、サネアツに呼び出されて庭までやって来ていた。

「さて、昨日の失敗を活かし、進化した子猫式恋愛教室パート2のお時間だ」

「まぁ、昨日のが不慮の事故というのは理解していますから、あえて謝罪は要求しませんが……どうしてここにクーまでいますのよ?」

「え? 私、いてはいけなかったでしょうか?」

 大きな岩の上で開幕を宣言したサネアツはいいとして、リオンが気になるのは生徒側にいるクーの存在だった。メイド服ではないいつもの格好をした彼女は、当たり前のようにそこにいて、芝生の上で正座していた。

 潤んだ瞳を至近距離で向けられたリオンは怯みかけるも、ここは捨て置けない部分。思い出すのは、ラバス村でクーから宣言された言葉である。

「分かってますの? クーは私に敵対宣言をしていますのよ? 明らかにここにいてはいけない敵でしょうに」

「ふむ。その件は聞き及んでいるとも。だが少々違うな。クーヴェルシェンはジュンタの味方宣言をしたのであって、別にリオンの敵対宣言をしたわけではない。そうだろう? クーヴェルシェン」

「はい。リオンさんがご主人様のことを不幸にしてしまわれるのなら精一杯邪魔をさせていただきますが、ご主人様にふさわしい人になろうと努力していると聞きました。でしたら、私もリオンさんの応援をがんばらせていただきますっ!」

「クー、あなた……」

 リオンはじ〜んとクーのまっすぐさに感銘を受ける。

 恋愛感情とは違うベクトルで、彼女はこんなにもジュンタのことを思っていた。敬意を示すと同時に、非常に頼もしく思える。

「それに、ご主人様にふさわしい従者となるため、サネアツさんの教えは是非に私も受けたいんです」

「あなた、実はそちらが目的なのではなくて?」

 笑顔でクーから続けられた言葉に、リオンはちょっとした危機感を抱く。

 今はまだ自分に自信がなく、ジュンタの良人になろうとしないクーだけど、もしも彼女が本気でジュンタの隣に立とうと思ったなら、それは最悪の敵が生まれることになるだろう。ただでさえ女の子らしくて奉仕の精神を持つクーだ。そうなったら苦戦は必死である。

「分かりましたわ、サネアツ。どんな羞恥も甘んじて受けましょう。さぁ、私は今日一体何をすればいいんですの!? なんでもやって見せますわ!」

「いい気合いだ、リオン・シストラバス! 任せろ。昨日の一件のようにはならない。そう、好みのタイプになれないのなら、ここは新たなるタイプを改築してやるのだ! ズバリ、今のジュンタは温かな家庭というものに餓えている。であるなら次は――

 ところでリオンは知るよしもなかったが――

 サネアツ。そしてその原型となった宮田実篤。
 その両者とも、今まで誰かと付き合ったこともなければ、恋をした経験すらなかったりする。



 

 フェリシィールに全面的な協力をすると約束したジュンタだったが、しかし現状においてやるべきことはなかった。

 作戦の戦力増強や手回しなどは全てフェリシィールの仕事であり、介入する余地など微塵もない。フェリシィールから言い含められていることといえば、もしもズィールの怪しいところを見た場合、自分に教えて欲しいということだけ。だけどズィールと会う機会がそもそもない。昨日のような偶然を除けば、だ。

 そもそも、自分たちに要求されたのは信頼できる仲間としての精神的な支えであり、一つの問題を手元で管理することによって思考を割かないことにあったよう。どうやらフェリシィールに、こちらを危ない目に遭わせるつもりはないようだ。

 そんなこんなで、張り切るのはいいが、やることのないジュンタは暇をもてあましていた。
 何やら今日はリオンやクー、サネアツも忙しい様子。仕方がないので一人で街に繰り出していた。一人歩きはあまりよくないのだが、あまり警戒しててもしょうがない。

「さて、俺のこと覚えてるかな」

 ジュンタが向かった先は、聖地中央にあるアーファリム大神殿にほど近いシストラバス邸からかなり歩いた、北門に近いのどかな地区だった。

 目的地は、初めてラグナアーツにやってきたとき滞在させてくれた、人のいい神父が経営していた孤児院である。後から知ることになったが、神父の名はレイフォンと言うらしい。教会がたくさんある聖地においては、そこはレイフォン教会と呼ぶべき場所だった。

 だけど、ジュンタは不安だった。まだそこに孤児院があるのかどうかさえ知らなかったからだ。親を失った子供たちを養っていたレイフォン神父は、もういない。優しすぎたが故に、彼は子供たちのためにベアル教へ手を貸して、現在では投獄されているという。

 親代わりだった彼を失った孤児院がどうなっているか、まったく分からない。
 リオンも気にして色々と手回ししてくれていたみたいだから、大丈夫だとは思うが……

「到着か」

 少し迷いながらも辿り着いたそこは、前と変わらぬ佇まいを見せていた。
 
 教会と孤児院が隣接された、大きくも美しくもない、だけどレイフォン神父と子供たちにとっては温かな家だったそこは、寂れた様子もなく健在だった。

「問題は、みんなが今もここに暮らしているかどうか、だけど……」

 孤児院側の入り口からいきなり入ることが躊躇われ、ジュンタは協会側の大扉に手をかけた。
 
 どうか、変わらぬ子供たちの明るい笑顔が見えますように――そう思いつつ扉を開いて、


――コラッ! お前ら、子供だからって僕を馬鹿にしたら許さないぞ!」


 いつぞやの誰かのように、子供に群がられて遊ばれているヒズミを目の当たりにすることになった。

「いだだっ、髪を引っ張るな! どうして僕がやられる悪い奴、しかも下っ端の役をやらないといけないんだよ?! 僕にふさわしいのは正義の勇者のはずだろっ!?」

「え〜? 絶対違うよ。ヒズミーはへなちょこだから、踏み台になる悪の手下だって!」

「そうだそうだ。へなちょこへなちょこ! 悔しかったら捕まえてみろよ!」

「い、言ったなこの! もう許さないからなっ!」

「わぁ! ヒズミーが怒ったぁ! 捕まえられたらへなちょこになるぞ〜!」

「それだけは嫌! ヒズミー、こわ〜い!」

「くそぅ、馬鹿にしやがって! 絶対に許さないからな! 泣くまで僕の偉大さを教え込んでや、る…………」

 逃げ出した孤児院の子供たちを追いかけ始めようとした半泣きのヒズミと、扉を開け放ったままのジュンタの視線が交差する。

「…………サク、ラ……どうしてお前がここに……?」

「ヒズミ。お前……」

「ち、違うぞ! 僕はあいつらとただ遊んでやってるだけだ! 本気で怒ってもないし、悔しがってもないからな! 本当だぞ!?」

「いや、俺何も言ってないからな。涙目の時点で説得力ないし、それ普通に墓穴だぞ?」

「しま――って、誰だ今僕に靴を投げつけた奴はぁあああっ!」

「きゃー!!」

 顔を赤くしたヒズミが、ついにやけくそとなって子供を追いかけ始める。
 神を讃える礼拝堂は、子供たちにとっての遊び場以外の何ものでもなかった。子供たちが、ヒズミで遊ぶ、遊び場以外の。

「あははははっ! そうさ。僕は子供にだって馬鹿にされるようなへなちょこさ! 姉さんからもよく言われているから、今更泣いたりしないよコンチクショウ!」

 子供と一緒になって追いかけっこに興じるヒズミ。あまりにも微笑ましすぎる光景である。教会の外で考えた不安など一瞬で杞憂とわかるほどに、そこは前と変わらぬ明るさが充ち満ちていた。

「でも、どうしてヒズミがここにいるんだ?」

「それはわたしが答えよう」

「スイカ?」

 ヒズミがいる状況と声から推測して、振り向きつつその名前が口から出た。

「うん、大正解。こんなところで会うなんて奇遇だ」

 振り返った先にはやはりスイカがいた。瞳の色を隠すためにサングラスをつけているのは見慣れた姿だったが、今日は加えてエプロンまでしている。そして両手で持っているオーブン台にはクッキーがたくさん並べられていた。

「その格好、それにヒズミが子供たちと遊んでるってことは、もしかしてスイカたち度々この教会に来てるのか?」

「そうだね。ちょうどここの神父様が捕まったあの事件が一段落してから、度々様子を見に来てるんだ。確かに神父様は悪いことをして捕まったけど、ここの子供たちに罪があるわけじゃない。なら、わたしがしたことは彼らから父親を奪ってしまったことに近いと思うから。これくらいしかできないけど、偶に様子を見に来ることにしてるんだ」

「……そっか」

 スイカは、ヒズミがスタミナ切れを起こしたのを見計らって反攻に出た子供たちを見る。少しだけの申し訳なさを込めた、柔らかな笑顔で。

「みんなとっても良い子たちばっかりで、わたしはここに来るたびに元気をもらってる気がする。最近ではかなり仲良くなれたと思うんだ」

「それはみんなが、スイカが父親を奪ったなんて思ってないからじゃないか?」

「どうだろう。所詮わたしの自己満足のためにやっていることに過ぎないから。神父様の罪を減らすのにも限界があったし、お金を出して彼らがバラバラにならないようにしてあげることぐらいしかできなかった」

 リオンの手回し以外にも、ここに子供たちのために尽力してくれていた人がいたわけだ。ジュンタがここに来ようと思ったように、またスイカたちも孤児院の事情を知ったため、捨て置けなかったのだろう。

 それは確かに自己満足かも知れないけれど、それでも優しさだけは本物。こう考えてみると自己弁護のように見えてしまうが、それでもヒズミと遊ぶ子供たちは心底から楽しそうだった。

「ジュンタ君も、きっとわたしたちと同じ気持ちでここに来たんだよね?」

「俺は聖地にいられなかったからな。今更だし、みんな俺のことなんて覚えてないだろうけど」

 ついにはヒズミを床に引き倒し、その背中に乗って勝ち鬨を上げるに至ったやんちゃな子供たちを見て、ジュンタは苦笑する。
 
 スイカは苦笑するジュンタを見て、首を横に振った。

「ううん、覚えてる。みんなね、ジュンタ君のことをちゃんと覚えてるよ。わたしたちみたいな境遇にいる人たちは、決して同じ仲間を忘れたりはしないんだ」

「スイカ?」

 わたしたち、という言葉の中に自分も含められているような気がして、ジュンタはスイカへと視線を移す。

 彼女は弟たちの様子を微笑ましそうに見守っている。
 それは母親のようで、何かを懐かしむような眼差しだった。

 なんとなくだけど、そうなのかも知れないと思う。もしかしたらスイカとヒズミも同じなのかも知れない。ここに住む子供たちのように、親には会うことができない身の上なのかも知れない。

「どうやらヒズミもいつもみたいに負けたようだし、このままじゃ折角焼いたクッキーが冷めてしまう。これからおやつにしようと思うけど、ジュンタ君。良かったら一緒に食べていかないか?」

 彼女たちは一緒に家を夢見ているのか。家族を夢見ているのか。
 騒がしくも温かい団らんを、ジュンタは家の中に招こうとしてくれるスイカに見た。

「そうだな。それならごちそうになるか」

「もしできれば、その後で買い物に付き合ってもらえると嬉しいな」

「そう来たか。まぁ、働かざる者喰うべからずだからな。俺にできることと言ったら、ヒズミを子供たちと一緒に虐めるか、料理を手伝うぐらいものだし、それくらいなら手伝うさ」

「うん。ありがとう」

 レイフォン神父がどんなことをしても守りたいと思ったもの――それは優しい少女たちの手によって、今もしっかりと守られていた。


 

 

       ◇◆◇

 


 

 ジュンタを探して街に出ていたリオンが、以前お世話になった孤児院の子供――ヨシュアと偶然に再会したのは、ティータイムの時間のことだった。

 サネアツを帽子の上に乗せたクーと共に、朝消えたまま帰ってこないジュンタを探していたら、道の途中でばったりと会ったのだ。何気に印象深い台詞を言ったので、三ヶ月ほど経った今でもしっかりとヨシュアのことは覚えていた。

 というより、出会い頭にまた『うげっ』とか言われたら、気付かないはずもない。

「ヨシュア。あなた、久しぶりに再会する貴婦人に向かって、うげっ、はあんまりだとは思いませんの?」

「こっちだって、こんなところでお前と偶然会うなんてこれっぽっちも思ってなかったんだ。心の準備ができてなかったって、しょうがないだろ?」

「それはつまり、私は心の準備ができていないと反射的にうげっと言ってしまうような相手と受け取ってよろしいのですわね? 承りましたわ。子供だからといって、容赦はしませんわよ?」

「リ、リオンさん! 相手はまだ子供ですよ! そんな喧嘩腰になってはいけません!」

「子供って……確かにそうだけど、子供に子供っていわれたくないぜ」

「こ、子供!? 十才くらいに見られてしまいましたっ! 酷いです……気にしていますのに……」

「安心なさい、クー。私がこのひねくれた子供にきついお灸を据えて差し上げますから」

 止めようとしたクーが、ヨシュアの無邪気な一言に崩れ落ちる。
 クーの頭の上でサネアツが慰めるようにポムポムしているから、ここは仇を討つことだけを重視しよう。

「ヨシュア。一ついいことを教えて差し上げますわ。女子供には優しくすべし。それは紳士として、子供でも弁えておくべきマナーでしてよ? クーは確かに、ともすればあなたよりも子供に見える幼児体型ですが、女は女。男でしたら優しくなさい」

「そんなマナーを弁えているはずの大人の優しさで、そのクーって人がものすごいダメージ受けてるっぽいけど。それはいいのかよ?」

 躾のためにげんこつ一つぐらい、その悪ガキじみた顔に落としてやろうと思っていたリオンは、ちょっと腰が引けつつも口にしたヨシュアの一言にクーへと振り返った。

「いいんです。私はどうせ子供です。幼児体型です。まな板なんです。将来性も絶望的なんですよぅ……」

 クーは落ち込んだまま地面にしゃがみこんで、潤んだ瞳でいじけていた。
 リオンが胸の成長が遅いことを気にしているように、全体的に成長が遅れていることはクーにとってコンプレックスだったらしい。

 見事コンプレックスを突いてしまったリオンは、腰に両手を当てたまま固まる。

「と、ところでヨシュア。あなた、ジュンタを見ませんでしたか?」

「うわぁ、話題を変えた。これが大人の処世術って奴だね。きったねぇ」

 自分の勝利を確信したヨシュアがニヤニヤと笑う。

 なんと言うことか。以前よりも口が悪くなっているような気がする。あれか、ジュンタのあれが原因なのか。何て子供の教育上悪い男なのだろう。
 
(もしも私に子供ができたら、気を付けないといけませんわね。特にサネアツと漫才をやっているときには絶対に近づけないようにしませんと)

 誰との子供として想像しているかは言わずもがな。腰に手を当てた状態で頬を赤らめたリオンは、不思議そうに見てくるヨシュアの視線を受け、コホンと咳払いをしてから改めてジュンタの居場所を尋ねる。

「それで、私たちジュンタを探しているのですけど、あなた見ていません?」

「ジュンタ兄ちゃんなら見たぜ。っていうか、家の教会に遊びに来てるし」

 偶然会った相手が知ってるなんて思っていなかったわけだが、一応尋ねてみたら返ってきたのはそんな返答。これにはクーも復活する。

「ご主人様がいらっしゃるんですか?」

「あなたの教会ってことは、あそこですわね。……ジュンタったら、そういうことですの。もう、優しいですのね」

 ジュンタはきっと、以前聖地に訪れた際に起きてしまった事件で、ヨシュアたちの養い手がいなくなったことを気にしているのだろう。あの教会は家の手回しと使徒スイカの一声によって存続が決していたことを、そう言えばジュンタには詳しく伝えていなかった気がする。

 でも決して忘れずに気にしているあたり、本当に義理堅くて優しい。その辺りは、うん、子供にも見習って欲しい部分だろう。

「って、私ったら何を先走ってますのよ!」

 大通りの真ん中で『きゃ〜!』とリオンは頬を抑える。

 ヨシュアは胡乱気な瞳でリオンを見て、何かしらのことに気付いたのか、ジリジリと後ずさる。それはまるで逃げようとしているかのようで、リオンは早々と待ったをかけた。

「ちょっとお待ちなさい。ヨシュア。生憎と私でも、ここからジュンタのいる教会まで道がよく分かりませんの。どうやら買い物帰りのようですし、案内してもらえません?」

「い、いやだ」

 案内できない理由でもあるのか、逃げようとするヨシュア。しかしリオンの眼圧はそれを封殺する。

 クーもまた気になるようで、ヨシュアの前に立つ。

「あの、ヨシュア君といいましたね。できればお願いできませんか?」

「で、でも……やっぱりダメだ! 今兄ちゃん、スイカ姉ちゃんといいムードだし、邪魔すると俺、リリムたちに夕飯抜きにされるんだよ!」
 
「お待ちなさい。今スイカ、と言いませんでしたか?」

「そうだけど……もしかしてお前らもスイカ姉ちゃんのこと知ってるのか? なんだかジュンタ兄ちゃんも知ってたみたいだしさ」

「そう、やっぱり。スイカ様がいますのね」

 聞き捨てならない名前を指摘すると、返ってきたのは予想通りの答え。

 ヨシュアのいるレイフォン教会をスイカが何やら酷く気にしていることは聞き及んでいた。スイカは何かの目的で聖地を出ていて、一昨日帰ってきたばかりだ。昨日はどうやらフェリシィールによって外出禁止になっていたようだから、気にしているのなら今日訪れているというわけか。

「スイカ様がいるとなると、ことは一刻を争いますわ!」

「え? もしかしてリオンさん、サネアツさんと同じようにスイカ様が何か、ズィール様がベアル教と繋がっていることと関係あると考えていらっしゃるんですか……?」

「そうではありませんわ!」

 使徒ズィールにかけられた疑惑など、この際関係ないのだ。
 不確かなその疑惑より、現実的なこっちの疑惑の方がよっぽど恐ろしい。

 そう、使徒スイカには疑いがかけられている。もしかしたらジュンタのことが好きなのかも知れないという、そんな容疑が……

「ヨシュア。何が何でも案内してもらいますわよ。安心なさい。夕食は食べることができるよう私が取りはからって差し上げますから。何でしたら奢りも可ですわ」

「ひっ、ちょ、目が恐い! 恐すぎる!」

「問答無用でしてよ!」

 脱兎の如く逃げるヨシュアをリオンは追いすがる。

 直後――ラグナアーツの大通りに、少年の悲痛な叫び声があがった。


 

 

「ん? なんだかヨシュアの悲鳴が聞こえなかったか?」

「そう? わたしには聞こえなかったけど」

 人通りもあまり多くない裏通りの中にも、知る人ぞ知るおいしい食材屋があるとのことで、一緒に買い物へ来ていた孤児院最年長の男の子――ヨシュアと別れ、スイカと一緒に店先にしゃがみこんで食材を選んでいたジュンタは、大通りから響いた悲鳴を聞いた気がした。

「……気のせいか。まぁ、そうだよな。まさか普通に大通りを歩いているだけで、誰かに襲われるほどラグナアーツの治安は悪くないだろうし」

「治安だけを見るなら、どの国よりもいいと思うな。聖殿騎士団が巡回しているし、比較的優しくて穏やかな人が多い気風だから」

「つまりはフェリシィールさんやスイカががんばってるお陰ってことか」

「いや、主にがんばってるのはフェリシィール女史やズィール氏だ。わたしはまだ若輩者だから、政にはまったく関与していない。ヨシュアたちの様子を見ただろう? サングラスをしてるからといってわたしの素性がばれていないのは、そういう背景があるからなんだ」

「そういえばヨシュアたちは、スイカが使徒だってことは気付いてなかったみたいだな」

 おやつを食べてから再会を果たしたヨシュアは、こちらのことをしっかりと覚えていてくれた。

 何でも彼は最年長として、もう一人同い年の女の子であるリリムと共に、幼い子供たちのお世話をがんばっているようだった。まだ子供といえるのに、少しだけ大人びて見えてしまった。

「ヨシュアたちには、使徒だってことは伝えないつもりか?」

「うん。教会の子供は、幼い頃から使徒は偉い人だと教えられているから。わたしが頼んでも、ジュンタ君みたいに自然には接してくれないようになるかも知れない。折角仲良くなれたんだ。そういう風になってしまうとショックだから……」

「そっか」

 かごに入った、まだ僅かに土が付着した新鮮そうな野菜を前にして、ジュンタはスイカの使徒としての苦労を垣間見た気がした。偉くなることも、有名になることも、それはそれで苦労することが多いようである。

(使徒だって人間と同じだ。何も変わらない)

 全然偉そうじゃなくて、敬われるのが嫌いなスイカのように、全然人と変わらないのだ。良くも悪くも使徒だって人と変わらない。

(……使徒ズィールがベアル教と通じてる、か……)

 だから、その目的如何ではベアル教と通じていても何もおかしくない。傍目からは普通に見えても、その内心までは初対面では推し量れない。

 脳裏をフェリシィールの語ったことが過ぎっていって、ジュンタは自然を心がけるように、真剣な顔で野菜を選んでいるスイカにその話題を振った。立場上ズィールと会うことができない今、できることと言ったら知っている人に話を訊くぐらいのものだったから。

「なぁ、もう一人の使徒――ズィール・シレって男は、一体どういう奴なんだ?」


――どうして、そんなことを聞くんだ?」


 返しは即答だった。

 コンマ数秒ほどのタイミングでスイカからあがったのは酷く平坦な声。感情も何もかもをなくした、酷く無機質な声。

 グルンとスイカの視線が移動して、至近距離でジュンタを見る。
 サングラスの奥で金色の瞳が怪しい光を発して、まるで警戒するように輝いているかのようにも見えた。冷や汗が額より流れ出て、顎を伝っていく。

 そして、何よりもジュンタの恐怖を誘ったのは、内より込み上がった闇の衝動だった。

――一言なんで■■いから述べさせすればただ少しの力で背■を押してやればどこまでも勝手に転がり落ち■落はすぐ■■いことをすれば世■は罪裁かれなければいけないというのに貪■のは醜いと偽■者は誰にも必要とされない無意味な■力で待っている■など誰もいないというのに■■続けることに意味はなくそもそ■愛■れないことに気付け■いのなら意味が無くそれは■にも本■の■■を見せないことと■じであるのなら■きているとはいえないそれは死んでいるも■■の屍ならもっとまと■な■でいるべきだ紛■■■い――

 かつてないほどの衝動でありながら、あまりに溢れすぎたが故に迷ってしまい、実行に移すことがなかった。堪えようと思ったときには衝動は治まりかけていて、それは脆い素顔を守る仮面がずれてしまったが、すぐに被り直したという感じの急激な変化だった。

「ジュンタ君、どうしてズィール氏のことを聞くんだ?」

「い、いや……俺はフェリシィールさんとスイカのことは知ってるわけだけど、使徒ズィールは知らないから。ただ純粋に気になっただけで……」

 気が付けば笑顔を浮かべていたスイカに、ジュンタは少し声を上擦らせる。

「そうか。なるほど、ズィール氏がどんな人か、か」

 しかしスイカは一切不思議に思った風はなく、納得した様子さえ見せていた。

「結構難しい質問だ。ズィール氏はあまり誰かと仲良くしようとか、そういうことをしない人だから」

「そう、なのか……?」

「うん。少なくとも、わたしはあまり仲良く話したことはないな。フェリシィール女史とはよく話しているようだけど、わたしと話すことと言ったら事務的な話ばかり。それでも……そうだな。あえて言うならちょっと恐い人かな」

「恐い?」

「うん。少しだけ、わたしは時々あの人が恐く感じるんだ」

 スイカは持っていた野菜をかどに戻し、

「とてもすごい人だとは思う。フェリシィール女史もそうだけど、使徒って人たちはみんな、貫禄っていうのかな? そういう使徒たるべき輝きがある気がするんだ」

「何となく分かるな、それ。一目でこの人はすごいんだ、って確かに理解できた」

 神の威光に似た貫禄は、リオンですら未だ纏らぬ人々の求めを、祈りを、憧憬を一心に浴びる者のみが纏いえた貫禄。それをいえばスイカからはそれを感じない。まだ若いからか、それともあまり有名ではないからか……恐らく両方だろう。

「フェリシィール女史は何でも包み込んでくれるような、そんな使徒。けどズィール氏は違う。あの人は他人を欲してないように見える。人の求めを自分の役割として引き連れて、そのまま一人で歩いているっていう感じかな。
 うん、そうだな。一言で言ってしまえば一番使徒らしい人かも知れない。神に敬虔で、人に平等であろうとして、正義を貫こうとする。わたしでは到底無理な在り方だ」

 選んでいた野菜から視線を逸らし、スイカは立ち上がる。

「と、わたしから見たズィール氏はこんな感じかな。すまない、わかりにくくて。もっとよく知りたいなら、フェリシィール女史かオーケンリッターさんに聞くといい。クレオもいいけど、彼女からはたぶんフィルターにかかったズィール氏のことしか聞けないと思うな」

「いや、ありがと。それで十分だ。急に変なこと言ってゴメンな」

「ううん、問題ない。聞きたいことがあったら何でも聞いてくれていいから。
 さぁ、教会に戻ろう。きっとみんな、ジュンタ君が作ってくれるお菓子を楽しみにしてるだろうから。もちろんわたしもとっても楽しみにしてる」

「ああ、任せてくれ」

 立ち上がったジュンタに笑いかけて、スイカは裏道の出口へと足先を向けた。

 結ばれた黒髪が、彼女の弾んだ気持ちを表すかのように、軽く揺れる。

(…………なんだったんだ、今のは?)

 それを見つめるジュンタは、得られた使徒ズィールの情報以上に、込み上げた衝動が教えてくれたスイカの心の方が気になった。

 もう気付いていた。サクラ・ジュンタが背負った反転の呪いは、日常を守りたいという意志とは真逆の、日常を壊すことを求めている。つまり闇が囁くのは日常の壊し方。壊れやすい人ほど強く激しく衝動は襲い、強い人でも弱い部分を見せれば反応する。

 いわばこれは、他者の不安を覗き込む発見器ともいえた。――ならば一瞬とはいえ、クーよりも強い衝動を駆られたスイカは、脆く壊れやすいということになる。

(スイカ……)

 ジュンタがさらに気になったのは、それほどの崩壊を抱えていてなお、それをいつもは覆い隠せてしまっていることにあった。

 スイカはとても壊れやすい。だけど、彼女は決して壊れまい。
 崩壊を食い止める何かがある限り、彼女が壊れることはない。

「ほら、ジュンタ君。何ぼうっとしているんだ? みんな待ってる」

「そうだな。ヒズミだって待ってる。急いで帰ろうか」

 ジュンタはスイカの笑顔を見ながら思わずにはいられなかった。

 スイカが壊れやすい理由も、崩壊を食い止める何かも知らないけど――彼女にとっての小さな救いが、決してなくならないように、と。

 


 

 全てを平伏させる鋭い金色の光をもって、ズィール・シレは神居の塔より眼下を見下ろす。

 自室であるのに、その部屋には余計なものなど何一つとしてない。ありのままの白さを残す部屋にはズィール以外にもう一人、巫女であるコム・オーケンリッターが控えていた。

 根を下ろした大木のような揺らぎのない威風と、全ての物事を冷静に推し量るストイックな眼差し。巌のような偉丈夫であるオーケンリッターは、まさに武人の鑑といえた。
 またオーケンリッターは、長く生きたために深い知識も持っていた。公私とも頼りになるズィールの右腕である。

 そんな巫女から報告されたことは、やはりズィールとしては一切疑う余地なく、今後の行動に影響されるものであった。

「神居に度々訪れ、また周りにいる人間から気にだけはしていたが……なるほどな。確証を得たか、オーケンリッター」

「はい。ラバス村の一件にて、確かにこの目で拝見しました」

「だとしたら、自分としては喜ばしくないことだが是非もあるまい。今は忙しい時分だが捨て置くこともできぬというもの。不確定な要因は、早々に摘み取っておくに限る」

「では、御身が直々に動かれると?」

「当然だ。これが自分に課せられた役割なのだろう」

 一歩引いた従者の立ち位置から報告するオーケンリッターに自嘲じみた笑みを向け、ズィールは小さく頭を振る。

「まったく、世の中はままならぬものだな」

 広がる聖地ラグナアーツの姿を、夕陽に輝く水の都を目の当たりにして、ズィールは長い聖衣の裾を翻す。

 思い出すのは、一昨日のこと。
 神居より礼拝殿へと移動した際、フェリシィールらと共に見つけた、一人の少年。

 黒い髪に黒い瞳、黒縁眼鏡の異国風の顔立ちをした少年。容姿だけは娘のクレオメルンの一件で聞き知っていた。ただ、彼があれほどに金糸の使徒や竜滅姫などと居並んでなお、はっきりとした存在感を持っているとは思っていなかった。

「ままならぬのなら、正そう。それが自分、使徒ズィール・シレの存在意義なのだから」

 神の獣の眼は正すべきものを見つけ、その名を呼ぶ。

「ドラゴンの使徒――ジュンタ・サクラ、か」

 天秤を乱そうとする、あの牙を隠した罰当たりな神獣を。









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