第八話  翡翠の使徒


 

 使徒ズィールより突きつけられた言葉が意味するのは、ジュンタが使徒であることを彼が知っていることに他ならなかった。

 フェリシィールやリオンたち以外には誰も知らぬものと思っていたジュンタは、しばし硬直を余儀なくされた。咄嗟に否定することができなかったことが今となっては恨めしい。ギリギリ誤魔化せるタイミングを、それは失ってしまったことに等しかった。

「貴公が今何を考えているか、自分には手に取るようにわかる。自分が使徒であることを誤魔化す方法だろう? 最初に言っておこう。自分に誤魔化しは通じない」

「……でしょうね。今更何を言っても、あなたは聞く耳を持ってくれそうにない」

「当然だな」

 予想を遙かに超えた話の内容に、手のひらにじっとりと汗をかきつつ、表面上は平静を装う。

 確かにズィールが言うように、もはや使徒であることを否定しても意味はない。むしろここで否定したりなんかしたら、問答無用で聖地の使徒にされるという確信がある。ズィールは黙っていてくれるフェリシィールとは違う。こちらの気持ちなど無視して、使徒であることを世界に知らしめようとすることだろう。それが、そう、万人にとっては正しいことなのだから。

(どうする? 何とか待ってもらうように頼むしかない)

 自分の言葉に絶対の確信をもってにらみ据えてくる使徒に、ジュンタは思考を働かせる。ベアル教の問題とは違う意味で、これもとても大事な問題だ。

 ジュンタは射抜いてくる金色の瞳から逸らさぬよう視線を合わせたまま、翡翠の使徒を迎え撃つ。

「……二、三こちらから質問してもいいですか?」

「構わないが」

「それじゃあ質問です。あなたは俺が使徒であることを隠して生きることがダメだと思っているわけですよね?」

「然り。我ら使徒の役割は、『始祖姫』アーファリム・ラグナアーツがすでに示している。人ならぬ神獣として生まれた我らは、人の救い手であり導き手としてこの聖地に存在し続けなければならない。寿命を迎えたなら次の使徒が生まれいずる。もはや疑うまでもなく、これこそが使徒の役割。神の子たる我らが成すべき在り方だ」

 断ずるズィールは、最も新しい使徒の隠された金色の瞳から目を逸らさない。

「それを隠すなどあってはならぬことだ。それは神を冒涜することに等しい。使徒として生まれた我らは、使徒としての役割を放棄した時点で神の『使徒』ではない。人でない我らが使徒であることを喪ったのなら、それは畜生も同じなのだ」

「なら、俺は逆に聖地にいるべきじゃないんですか? 俺は生まれてすぐ聖地に来ず、隠して生きてきたんですから」

「確かに十数年間、貴公は神を否定し、使徒の在り方を損なった。罰せられるべき行いだ。しかしまだ間に合おう。貴公が使徒として生まれたのなら、それは貴公に行うべき役割があるということ。隠者であることを恥じ、人としての幸せなど捨て、今こそ正しき役割を担うために自分を正すといい」

「『高貴な義務ノブレス・オブリージュ』……使徒として生まれたからには、果たさないといけない義務がある」

「然り。心得ているではないか」

 ズィールの言っていることは、紛れもなくこの世界においては正しいことだった。

 金色の瞳をもっているのなら、そうであるように生きなければならない。貴族は貴族として生きる――そういうことと良く似ているが少し違う。いうなれば、人として生まれたのだから人として生きろ、そう言っていることと同義なのだ。

 生まれながらに未来を定められたと嘆くなら、それは自分が自分であることを疑うも同じ。ズィールの言葉には、一切の否定が入る余地もなかった。

 誤魔化すことは不可能だ。
 待ってもらうことも無理に近い。

 どうする? ジュンタは逸らせない視線を揺らして、立ちはだかる壁の強固さに汗を流した。

「なぜ、悩む?」

 口を噤むジュンタに対し、ズィールは心底から不思議そうな顔をした。

「悩む必要などないはずだ。貴公とて理解しているではないか、自分の言葉が正しいのだと。それなのになぜ悩む? 貴公は自分に与えられた力を、世のため人のために役立てたいとは思わないのか?」

「……でも、使徒として周りに認知されれば、捨てないといけないものがある」

「ならば捨てればいい。それは正しくない時間の果てに生まれてしまった、正しくないことなのだから。捨てることが、正しく生きることに繋がろう」

 さも常識を語るようなズィールの口ぶりに、ジュンタは目を剥いた。

「本気でそれを言ってるんですか? だってそれは、自分が生きてきた証でしょう?」

「正しく生きていなかった時間に何の価値がある? それは死んでいるよりもずっと意味のない時間のはずだ。積み重ねるだけ澱んでいき、経るほどに真実の自分から遠ざかっていく。真にこの世を想うなら、使徒として生きていない時間は全て捨てさるべきだ」

「…………」

 ジュンタはなぜこの使徒が怖かったのか、それが本当の意味でわかった気がした。

 この使徒はこう言っているのだ。何でもない時間。退屈でつまらない、どこにでもありふれた日常に意味などないのだと。生まれた理由を知り、生まれた意味を実行する。その時間のみに生きる価値はあるのだと。

 使徒の存在意義に当てはめて考えれば、それはオラクルのために行動している時間のみ価値があり、余分な行為に意味などないと……自分の言っていることがそう言う意味だと、本当にズィールは気付いているのだろうか? それは大切なものを奪われたことがある人間にとって、とても怖いことだと知っているのだろうか?

「……確かに、使徒って存在はこの世界には必要不可欠のもの。喪ってはいけない。使徒として生まれたなら使徒として生きなければならないのも間違いないことですね」

 ジュンタは自分の顔を手で覆って、胸の奥で渦巻くものを吐き出すように声を絞り出す。

 その所作をどう受け取ったかは知らないが、ズィールは自分の意見を肯定するジュンタの言葉に満足げに頷いた。

「ようやく理解を得たか。努そのことを忘れることなく、以後使徒として責務に励むといい。先達として、自分も最大限の協力を約束しよう」

「だけど――

 今、ジュンタは自分の顔にどんな表情が浮かんでいるが、それを誰にも知られたくなかった。

「だけど、俺はそんな自分の生き方にはきっと耐えられない。俺の生きてきた過程に捨てるものなんて何もない。捨て去らないといけない思い出なんて何一つない。使徒としてここに在る俺は、だけど使徒として以外でも大事なものを覚えている俺だから。だから、俺は使徒だけど、それでも人間なんだ。誰かに強制されて使徒をやるなんてこと、絶対にしてやらない」

「な、に――?」

 話は終わりだと言わんばかりに立ち上がったズィールにジュンタが突きつけた質問の答えは、全否定に近かった。ズィールの鋭い眼差しに剣呑な光が宿るのに、一秒も要らない。

「馬鹿な。貴公は自分が使徒であることを否定するというのか? それは自己否定と同義だというのに」

「そうは言ってませんよ」

 それだけの言葉を出すのに時間がかかった。しかし一度口から出てしまえば、芋蔓式に言いたいことが口から出ていく。

「俺は確かに使徒です。神獣です。昔はそれこそ否定しようとしていましたが、もう受け入れていますよ。こればっかりは死ぬまでどうにもならない。なら、受け入れるしかないでしょう?
 だけど俺は使徒であると同時に、俺は自分を人だと思ってますから。使徒だからって、人としての幸せを得られないなんて絶対に間違ってる」

「その結果が万人の幸福を奪うとしても、貴公は同じことが言えるのか?」

「なら逆に訊きます。ズィールさん。あなたはそんな生き方の果てに大切な何かを、大切な人を犠牲にしても、本当に同じことが言えますか?」

 今まで何があっても目を逸らすことなく即答してきたズィールが、初めて黙った。

「あなたは確かに、それが正しいことだと思っているんでしょう。その果てに世界の救世はあるのだと、そう考えているんでしょう。使徒の価値がオラクルを達成したその果てにあるなら、それは間違っていないんでしょう」

「……そうだ。自分は間違ったことは言っていない。全てを天秤の上に乗せ、得たものを全て同じだけの行動にして返す。そうして全ての天秤を均等にすれば、辿り着くのは原初の自分だ。神の祝福だけがあった自分ならばきっと、この世界だって救えるはずだ」

「ええ、きっと救えるはずです。神の祝福には世界を救う力がある。でも気付いているんですか? それが本当にできるのは、きっと血も涙もない狂信者だけだ」

「……血も涙も、なくすべきものだ」

 ふと、ジュンタはどうしてこんなにも的確に、初対面に近いズィールの心の奥底に踏み込めるのか疑問を覚えた。

「あなたは気付いている振りをしているだけです。知っている振りをしているだけです。それが正しいと気付いているし、知っている。けど、本当の意味では何も知らない。いえ、気付いていないふりをしているだけなんですね」

 一歩、ズィールが何かを見て後ずさった。そこで初めてジュンタは、自分が嗤っていることに気が付いた。

「だって、天秤を釣り合わせるってことは、つまり自分の大切な人を全て――……」

 理解と納得は雷光よりも早かった。今自分が口にしている全ての出発点が鼓動する闇だと気が付いたジュンタは、決定的な言葉を舌を噛み切る勢いで飲み込んだ。

 無自覚から自覚へと。いつ自分が反転の闇に飲み込まれ、ズィールを壊そうとしていたか、それを思い出せないことに顔を青ざめる。

 こんなことを言うつもりなんてなかったのに……込み上げる恐怖と、和らがない衝動を、ジュンタは必死で押し殺す。

「どうした? 顔色が悪いようだが?」

 ズィールが口を押さえたまま青ざめるジュンタを心配して近寄ろうとする。自分の心へ無断で踏み込んできた相手でも、彼にとっては心配する相手なのだ。

 思い出すのはズィールがくれたコロッケもどきの味。
 
 闇の囁きは本当のことだった。ズィールは気付いているのに気付いていない振りをしている。自分でも薄々それに気付いているのに、彼は渡されたコロッケの山を嬉しそうに食べて、泣いているとおぼしき相手に声をかけるのをやめられないのだ。

 不器用に過ぎる正義の味方。いつか彼が矛盾に気付く日はあるだろうが、それは今ではなく、ましてやそれを暴き立てるのはジュンタではない。

「いえ、大丈夫です。大丈夫ですから……すみません。お願いですから、もう少しだけでいいですから、俺が使徒だってことは黙っていてください。失礼します!」

「待ちなさい! そんな顔で……!」

 ズィールから逃げるようにジュンタは部屋を立ち去る。ズィールからの心配が、今のジュンタには辛すぎた。

「ズィールさん。最後に、これだけを言わせてください」

 扉に手をかけたまま、ジュンタは振り返った。
 心に闇ではない、自分の素直な気持ちを乗せて。

「大切なものは、失って初めて、守らないといけなかったものだと知るんですよ」






        ◇◆◇


 

 

 ゴッゾ・シストラバスが準備を終え、幾人かの騎士と共にシストラバス邸へと辿り着いたところ、ダイニングルームで目撃したのは哀れな姿で苦しんでいる二人と一匹の姿だった。

 ユースとクーヴェルシェンの二人が食堂の椅子に座り、テーブルに頬を預けぐったりとしている。サネアツは何やら爪でテーブルにダイイングメッセージっぽいものを書いてうつぶせになって倒れていた。意味が分からない。

「少しばかり遅れてしまったうちに……一体何があったんだろうか?」

 意識があるのかないのかよく分からない三人。サネアツはともかく、ユースとクーヴェルシェンは放っておけないのでゴッゾはテーブルに近付いた。

 そこで、何か、よく分からないけど、命の危機を、感じ取った。

 まず異変は嗅覚に来た。どろりと濃厚な、だけどさっぱりとしているというかしょっぺろんとしているというか、しょっぺろんってなんだという感じの自分でもよく分からないのにトラウマを刺激する、死を覚悟する臭いを嗅いだのだ。

「な、なんだい? この臭い。クーヴェルシェン君、一体何があったんだい?」

「ゴッゾ、様……?」

「ああ、私だ。大丈夫かい?」

 一番近くにしたクーヴェルシェンを抱き起こすと、力無く垂れた彼女の耳が僅かに起きあがった。しかし元気なときとは明らかに違う垂れ具合。一体どれほどの酷い眼にあったのか。無理をするきらいがあるという彼女でも、無理できないほどのダメージを受けているらしい。

「ゴッゾ様もこちら側に来てしまわれたということは、アレを食べてしまわれたんですね……? うぅ、すみません。無力な私を許して下さい。がんばったんです、全力でご主人様には迷惑がかからないよう努めたんですけど……ダメでした。やっぱり私はダメダメです」

「クーヴェルシェン君?! おい、クーヴェルシェン君!? ……完全に目を回してる」

 ネガティブが再発したクーヴェルシェンはクルクルと目を回すと、再びテーブルにもたれかかるグロッキーズの一人に戻ってしまった。

 ゴッゾは仕方ないのでユースのところに行く。いつもはリオンの後ろに控えているメイドである彼女も、今日ばかりは立っていられないほどのダメージを受けているよう。

「ユース。大丈夫かい? 一体誰がこんなことを?」

「う、うぅ……」

 声も出ないとユースは震える指でダイニングの向こうの厨房を指差し、意識を失う。恐ろしい。何が恐ろしいかというと、この地獄絵図を作ったのが誰であるか気付いてしまったのでとりあえず恐ろしいことだけは理解できた。

(まずいね。これは相当まずいね。よしっ、見なかったことにしよう)

 臭いも厨房の方から漂ってくるし、何より禍々しい気配を感じるのだ。一体そこで誰が何を作っているのか――ゴッゾは何も見なかったことにしてダイニングを出ようとした。

 しかしそれは許さないと、ガシリと掴んでくるのはユースの手。地獄を生み出した相手が相手であるから、逃がさないよう無意識の内に身体が動いているのだろう。気絶しているのに動いているのはさすがだがここはどうか見逃して欲しい。

「ははっ、ユース。お願いだから離してくれないかい? 離してくれないとまたあの悪夢が――

「あら? お父様。到着されていましたのね」

――あ、現れてしまった……」

 戦慄の表情でゴッゾは厨房からやってきた紅い髪の料理人を見やる。

 満面の笑みを浮かべるリオンは、桃色のかわいらしいエプロンをつけていた。手にはミトンをつけて、頭にはコック長がつけるような白く長い帽子。それだけなら親のひいき目無しでも認めてしまうぐらいかわいかった。それだけなら。

 頬を染められない理由は、彼女の持つ鍋の中にあった。

「ひ、久しぶりだね。リオン。ところで、その持っている鍋は一体何なんだろうか?」

「もちろん、シチューですわ。お父様。今日の昼食は私が作りましたホワイトシチューです」

「いや、ホワイトシチューって、明らかに色が違うんだが。どうして紫と緑のマーブル模様のホワイトシチューが出てくるんだろう?」

「それはあれですわ。隠し味です」

「隠されていないね。むしろホワイトシチューの方が隠し味っぽくなっているかな」

 リオンが軽々と持ち上げる大きな寸胴鍋には、毒々しい色をしたホワイトシチューが入っていた。ちなみにリオンがそう自称するだけで、ゴッゾにはそれが決してシチューという食品の類ではないことがはっきりと理解できた。

 ここに来て予感が確信に変わる。二人と一匹に大ダメージを与えたのは、間違いなく目の前のシチュー(仮名)だろう。あとたぶん、みんなが食べたのは完成形じゃない未完成品と見た。

「味見は皆さんにしてもらいましたけど、どうやらあまりのおいしさに耐えられなかったようですわ。お父様、是非完成したこれを味見してください」

 深皿に喜々としてシチュー(狩り名)を盛りつけるリオンを、ダラダラと冷や汗を流しながら見るゴッゾは、どうにかデッドエンドを回避する道を模索する。

「え、ええと、その、どうしてリオンは料理なんかを作っていらっしゃるのかな?」
 
「ち、違いましてよ、お父様。べ、別にジュンタに食べさせてあげようとしたわけではなくてですね。ただ、私もいつか誰かのお嫁さんになりますでしょう? 今までは使用人のやることだと思って一切手を付けませんでしたけど、お嫁さんになったからには旦那様に手料理を振る舞って差し上げるのも悪くないかと思った次第ですわ。言ってしまえば花嫁修業。幸せな新婚生活のための練習なのです」

 毒々しい液体は半ばゼリー状で、煮えたぎるマグマを連想させる。盛りつけられた深皿の上でプルプルと震えるソレは、何でも新婚相手に食べさせてあげるつもりのものらしい。

「つまりは毒殺の練習ってことだね」

「もう、そんなご冗談言われないでください。お父様。料理を作ったのは今日が初めてですけど、さすがは私でしたわ。すでにいくつもの工夫を講じて、最高のシチューを完成させてみせました」

「た、たとえば? 何を入れたんだい?」

「そうですわね。隠し味は内緒ですけど、マンドラゴラに冷凍した緑地蛙の眼。死中火草に各種薬草などなど、疲れているだろうジュンタのために元気が出るものばかりをベースとしてミックスしてみましたの」

「ちょっと待ちたまえ。まともに食べられそうな食材が一個も出てこなかった気がするんだが?」

「あ、お水は入れましたわ」

「それが唯一の食材!?」

 激しくツッコミを入れたゴッゾは、問答無用で目の前にズイッと差し出された深皿をちょっぴり涙目で見つめる。

 どこをどう見ても料理ではありません。魔法のための触媒か、敵を仕留めるための猛毒とか、そこら辺の色です。物体です。

(リ、リオンだって別におかしな味覚をしているわけではないんだから、これを見ればおかしいってことぐらいわかるだろうに。どうしてこんなものを完成させてしまったんだ!?)

 臭いを至近距離で嗅いだだけで目眩がしたシチュー(狩りな!)を作り上げた張本人を、ゴッゾは間近から観察することで理解した。

 ニコニコと笑うリオンは、別段おかしな味覚をしているわけではない。だからこんなマーブル上の液体が食べ物ではないことは理解しているはずだ。だからそれでも料理として振る舞おうとしているのなら、そこには何か理由はあるはず。
 
 ……理由はあった。至近距離で見たリオンの肌は上気していて、その瞳は怪しい光をたたえていた。完全に正気を失っている眼である。

 恐らくまだかろうじて料理の体裁を残していた頃に味見をしたのだろう。それでユースたちほどではない軽い症状を発症したに違いない。魔法の触媒が叩き込まれたスープだ。いくらリオンといえど混乱してもおかしくはない。

「さぁ、お父様。どうぞ召し上がれ。そうですわね。お父様に何かを作って差し上げたのもこれが初めてですし、食べさせて差し上げますわ」

 リオンは大きな銀のスプーンで半固形のスープをすくい上げ、差し出してくる。

 これがおいしいスープだったら感動ものなのだが、生憎と娘の差し出すスプーンの先に乗っているのは致死性の毒。ゴッゾは紳士の仮面を取り外して、いやいやと首を振って逃走を試みるが、主思いのユースが離してくれなかった。助けて。

 そうこうしている内に、リオンの差し出したスプーンが目の前に迫る。もう逃げられない。

「はい、お父様」

「……そうだね。どんな理由であれ、どんな結果が残るにしろ、リオンが初めて作った料理だ。食べないわけにはいかないか。……カトレーユ。どうして一番継いで欲しくない部分を、リオンは継いでしまったのかな?」

 感謝を行動に変えたリオンを見て、ゴッゾは諦めてストイックな笑みを浮かべた。

 自らを信じて口を開く。そうして自分が決めた選択の先に、自分の幸せがあることを信じて。

 ……サネアツが残したダイイングメッセージには、こうあった。

『料理が下手なのは萌えポイント。しかし行き過ぎれば、最も苦しいデッドエンド』

 思い出すのはかつてのこと。妻であったカトレーユが作ってくれたシチュー。
 そのときと同レベルかそれ以上の衝撃を喰らって、ゴッゾ・シストラバスは、聖地到着早々グロッキーズの一員となった。

 


 

       ◇◆◇


 

 

 あまりにズィールとの対談が短かったからだろう。待っていると思ったクレオメルンの姿は部屋の外にはなかった。

 案内人がいないとはいえ、特段神居の中は迷うような構造にはなっていない。螺旋階段は最上階から一階へとまっすぐ下りられるようになっているし、一階につけばすぐに入り口は存在する。出るだけなら何の問題もなかった。

 問題があるとすれば、誰に伝えるでもなく神居を出てしまうことか。一階まで階段を使って下りたジュンタは少し悩み、そのとき聞いた剣戟の音を頼りにその方角へ足を向けた。

「剣戟の音? クレオメルンがいるのか?」

 階段に続く回廊をすぐ脇に、剣戟を響かせる部屋はあった。そこに扉はついておらず、内部を簡単に覗ける形になっている。フェリシィールの神居で見た内部構造から見ると、そこは神居の中で最も大きな空間になっているはずだった。

 東神居にあっては水をたたえる祭壇になっていたそこは、屋内修練場となっていた。

 どんな素材になっているのか、見た目はただの石畳なのに衝撃を吸収するように触れると柔らかい石の部屋だ。天井はさほど高いというわけではないが、そこは神居の塔。普通の家の天井よりもかなり高い。さらに百人近くが入ってもまだスペースの残るそこは、確かに人知れず修練を積むには最適の場所だった。

「フッ!」

 修練場の中央、距離を取って攻防を繰り広げているのは祖父と孫ほども歳の離れた男女。
 槍を持って訓練に励むクレオメルンと、彼女を指導しているコム・オーケンリッターの姿を見ることができた。

「踏み込みが遅い! それでは簡単に懐に潜り込まれるぞ!」

「はい!」

 連続で刺突を放つクレオメルンの穂先を軽く払って、距離を詰めたオーケンリッターから檄が飛ぶ。

 距離を取り直すクレオメルンは返事をし、早速自分の動きを直す。
 
 両者に操られる白銀の槍は閃光と共に火花を散らせる。
 攻性に出るクレオメルンと、彼女の攻撃を軽く凌ぐオーケンリッター。両者の間には明確な力の差が横たわっており、これが指導であることがはっきりとわかった。

(しかし……オーケンリッターさん。あの歳でよくあんなに動けるな)

 クレオメルンもあの歳で大したものといえるが、それに輪をかけてジュンタの感心を誘ったのはズィールの巫女であるオーケンリッターの槍捌きであった。

 老齢に達しようとしている彼の動きは、しかし決して老いによる衰えなどないように見える。巌のような巨体から繰り出される正確無比な剛槍は、受け止めるクレオメルンを後ろに大きく吹き飛ばしている。恐らく、大きな岩をも一撃で砕くことだろう。

 まさに達人の槍。何とか耐え凌ごうとするクレオメルンだが、やがて彼女の足に疲労の蛇が巻き付く。オーケンリッターはクレオメルンの重心のバランスが傾いたのを見てとると、点である刺突から払いへと変え、彼女を横殴りに殴り飛ばした。

「あぐぅ!」

 手から槍がこぼれ落ち、彼女自身は数メートル近く弾き飛ばされた。

 オーケンリッターは槍を片手に持ち、自分の足下近くまで転がってきたクレオメルンの槍を拾い上げる。何とかクレオメルンは転がっていった先で起きあがろうとするも、足と腕は震えてなかなか起きあがれない。

「もう終わりか? クレオ。その様では近衛騎士隊隊長の名が泣こう」

「ぐっ!」

 オーケンリッターの揶揄に、目に見えてクレオメルンの両足に力がこもる。歯を食いしばって彼女は起きあがり、オーケンリッターをにらみ据えるようにファイティングポーズを取った。

「ふっ、それでこそ我が弟子だ」

 小さく笑ったオーケンリッターは、クレオメルンに拾った槍を放り投げる。
 クレオメルンは槍を受け取ると、中腰になって鋭く構えを取った。どうやらまだ続けるつもりらしい。

「クレオ。今日の鍛錬はこれでおしまいとしよう」

 しかしクレオメルンのやる気を見て取ってなお、鍛錬の終わりをオーケンリッターは宣告した。

 クレオメルンは困惑した表情となって、思わず崩れ落ちそうになった身体を咄嗟に槍を支えにして凌ぐ。

「師匠! 私ならば大丈夫です! まだ十分も持っていません! まだ、私は戦える!」

「貴公の気概は確かに受け取った。しかしそれとこれとは話が別だ。強くなることも大事だが、自分の務めを忘れるのは感心せんな」

 槍をおさめたオーケンリッターが、徐にジュンタの方を振り返った。

 そこでようやくクレオメルンも気付いたらしい。やってきた当初から気付いていたオーケンリッターと違い、鍛錬に集中していたクレオメルンには分からなかったのだろう。

「ジュンタ。話はもう終わっていたのか?」

 息を整えたクレオメルンが、鍛錬を終える意味を悟って素直に槍をおさめる。
 邪魔しないように入り口にいたジュンタも、鍛錬が終わったのならと二人に寄っていった。

「ああ。話はもう終わった。これから帰るところだよ」

「そうか、すまない。案内をすべきだったというのに」

「いいさ。もっと話が長引くと思ったんだろ? 結構広いけど別に迷うこともないし」

「いや、これは私が任じられた役割だ。それを放棄したことが良いことのはずがない。やはり待っている時間を修行にあてるべきではなかった。せめてイメージトレーニングなどで終えておくべきだったな。すまない」

 礼儀正しく頭を下げるクレオメルンには困ってしまったジュンタは、何も言わずにたたずむオーケンリッターに助けを求める。彼は髭に覆われた顔に笑みを浮かべると、自分の弟子に対して声をかけた。

「クレオ、謝罪することで相手を困らせるのは貴公の悪い癖だ」

「……以後気を付けます」

 生真面目な返事を返したクレオメルンは、額を流れる汗を拭って、それから改めてジュンタに向き直った。

「ジュンタ。ズィール聖猊下に対し、失礼な真似はしなかっただろうな?」

「………………もちろんですよ?」

「何だ、今の間は? そもそも、どうして貴様が聖猊下に呼ばれるに至ったんだ?」

 甚だ気にくわないという風に顔を突きつけてくるクレオメルン。その手に輝く槍が少し恐いので、ジュンタはさっさと退散しようと後退する。

「いや、そこはあれだ。企業上の秘密という奴で」

「秘密? ……それは聖猊下が言われたことか?」

「そう、たぶん、クレオメルンが今知らないなら、そうなんだと思うけど……」

 ジュンタはクレオメルンからオーケンリッターにまたまた視線を変える。今度は助けを求めたわけではなく、無言で質問をしただけ。

 初見のズィールが使徒であることを既知だったのは、ラバス村の一件のとき現場にいたオーケンリッターから聞いたからに違いない。であるなら、もちろん彼も自分がドラゴンの使徒であることは知っているはず。
 
 あの戦いの折、オーケンリッターは『封印の地』から出てくる魔獣の相手をしていたのだという。よって、あの瞬間を見ているかどうかは五分五分で、あの事件あとオーケンリッターは何の会話もなく去って行ったのでてっきり見ていないと思っていたのだが……裏を掻かれた。まず最初に主に伝えるとは大したものである。

 今更睨んでもしょうがないし、使徒であることが発表されるかどうかはズィール次第だし、話はクレオメルンのことに戻す。

「クレオメルンって確か、ラバス村ではベアル教の槍使いと戦ったんだったな?」

 話を急に変えたことには特に何も言わず、顔を悔しそうなものに変え、クレオメルンは頷く。

「そうだ。『竜の鱗鎧ドラゴンスケイル』を身につけた漆黒の槍使い。凄まじい使い手だった。まったく歯が立たず、さらには情けをかけられる始末だ」

 クレオメルンはジュンタがドラゴンとなる瞬間を見ていない。それはその前段階でベアル教側の槍使い相手にユースを逃がすため、囮を買って出たためである。結果は惨敗だったらしい。しかし運が良かったのか、彼女は気絶しているところを戦いのあと発見された。

 ジュンタとしては命が奪われなくて良かったと思うところなのだが、騎士であるクレオメルンとしては敵に――しかもベアル教の人間に情けをかけられたことが悔しくて仕方がないらしい。鬼気迫るような修行も、やはりこの一件の所為だろう。

(クレオメルンの性格なら、俺が使徒ってわかったらきっと何かしらの反応を見せるだろうし、やっぱり知らないんだな。ズィールさんもオーケンリッターさんも教えなかった)

 軽くオーケンリッターを一瞥すると、彼はそのタイミングに合わせてクレオメルンには見えないように首を横に振って見せた。恐らくズィールと何を話したか言わないで欲しいというジェスチャーだ。

「いや、命あっての物種だろ。相手がベアル教なら、またいつか相まみえることもあるだろうし。そこで今度は名誉挽回すればいいんだから」

 内緒の話題から遠ざけるために、ジュンタはクレオメルンにそう声をかける。

 クレオメルンには強く握っていた槍から若干力を抜くと、ほんの小さくだが口元に笑みを浮かべた。

「なるほど、違いない。今更悔やんだところで仕方がないというもの。次に会ったとき倒すために、今はもっと強くなるために努力するべきか」

「では、彼の見送りは私がしよう。クレオはここで私が帰ってくるまで休憩をしているといい。私が戻り次第、修行の続きを見てやろう」

「しかし、これは私が……」

「そんなボロボロな身体で何を言う。まともな見送りも叶うまい。そういうことで構わないかね?」

「俺は別に見送りそのものが必要ないんですけど、そういう問題じゃないんですよね。それじゃあオーケンリッターさんにお願いしようかな」

「承知した」

 渋るクレオメルンに有無を言わさず、さっさと歩き始めるオーケンリッターにジュンタはついていく。これには傷を負ったクレオメルンは咄嗟に反応することができず、その場で見送った。

 オーケンリッターから声をかけられたのは、ちょうど入り口に続く回廊に出たときだった。

「ジュンタ・サクラ聖猊下、と呼ぶべきですかな。聖猊下。まずは謝罪を受け取ってもらいたい。知らぬこととはいえ、クレオメルン・シレが御身に対し失礼な態度を取った。申し訳ない」

「いえ、気にしてないですし、むしろそういう対応こそ止めて欲しいんですけど」

「私は巫女。貴公は使徒。身分の差は歴然としています」

「だけど、さっきオーケンリッターさん。クレオメルンに謝罪することで相手を困らせるのは悪い癖だって言ってましたよね? 手本になるべき師匠がそれやっちゃ意味がないんじゃないですか?」

「それを言われてしまうとは。了解しました、善処いたしましょう」

 武人らしく頭を下げたオーケンリッターは、弟子を盾に取られて苦笑しつつ頭をあげた。厳つい顔に皺を浮かべて笑う彼には常の圧迫感など露ほどもなく、まるで孫には弱いおじいちゃんのような親しさがのぞく。

「しかしその口振りですと、やはりズィール様とのお話は上手くいかなかったようですな」

「ええ、まぁ」

 歩みを再開させたオーケンリッターと隣に並びつつ、ジュンタは頷く。

「今はまだ、俺は使徒として聖地で生きるつもりはありません。たとえ俺が使徒であることは変わらなくも、もう少しだけ考えてみたいんです」

「お若いですね。クレオも貴公も、まだまだ悩むお年頃というわけですか。それはとても良いことだとは思いますが、生憎と私はズィール様の巫女。説得して欲しいと言われても困ります」

「あ、分かりますか? いや、たぶん俺が悩んでいられる時間は得られたと思うんですけどね」

 クレオメルンとの接し方から、主とは違ってどことなく付き合いやすさを感じたオーケンリッターだが、やはり巫女。使徒であるズィールに意見することはできないのか。できることなら念には念を期して、ズィールにサクラ・ジュンタは使徒であることを発表させないように頼んでもらいたかったのだが。

「と、礼拝殿ですね。見送りはここまででいいですよ」

 中庭を通って神居と礼拝殿の境界線まで辿り着いたジュンタは、これからまだクレオメルンの鍛錬を行うつもりだろうオーケンリッターに足を止めてもらうよう言う。

「そうですか。ではお気を付けて。最近何かと物騒ですからな」

「お見送りありがとうございます。それじゃあ、また」

 足を止めたオーケンリッターに会釈し、ジュンタはシストラバス邸に戻ろうと出口を見た。
 今は鼓動も正常に戻っていた。早く戻って、ズィールに対する自分なりの見解をサネアツあたりと相談したかった。自分を、自分自身を確かめる意味もこめて。

 空を見上げて、深呼吸を一つ。

 今日みたいなことは、もう起こしちゃいけない。無自覚に闇に飲み込まれ続けたら、きっといつか取り返しの付かないことになる。自分が自分でわからなくなってしまう。

「きっとズィールさんとは相性が悪いんだな、俺」

 今日は調子が悪かっただけだと決定づけて、ジュンタは前を向いた。


 そこに見たのは――いてはならない異物だった。


「またお会いできて光栄です、使徒ジュンタ・サクラ聖猊下」

 神居の出口に立ちふさがるように立っていたのは見目麗しい女だった。

 氷の輝きと冷たさを感じさせる水色の髪。
 大きく額を見せており、長いまつげで縁取られた瞳は硬く、しかし自然と閉じている。

 そんなローブ姿の盲目の女性に見える彼女を、ジュンタは以前にも見たことがあった。
 ラバス村の『騎士の祠』にて、祠にまつわる古の伝承を語ってくれた女性が、今目の前に現れた女性だった。

「あなたは……」

 薄い桃色の唇に笑みを浮かべた姿は聖母のようで、どこかフェリシィールに通じるものがある。  しかし決定的に違うと、いるはずのない神居に忽然と現れた彼女に対して、警戒をジュンタは感じ取った。

 気が付けば指は双剣を探していた。だが、双剣は預けていて手元にない。
 
「そういえば、まだ名乗っていませんでしたね。お許しを」

 無防備なままのジュンタに女は名乗る。

「初めまして。あたくしの名前はディスバリエ。人はあたくしを、『狂賢者』ディスバリエ・クインシュと呼びます」

 この女が『狂賢者』ディスバリエ・クインシュ――自分の危機が本物だと悟った瞬間、ジュンタの視界一杯を塞ぎにかかってきたのはたおやかな白い手。

「お迎えに参じました。あたくしの王――――我らが救世主様」

 氷像の腕のように冷たい手を為す術もなく見届けて、ジュンタの意識は闇に沈んだ。






 クレオメルンは想像の中で、ラバス村で後れを取った敵を相手にしていた。

 漆黒の甲冑と白い仮面を被った、巨漢の槍使い。
 禍々しい魔力を発する漆黒の魔槍は、一合ごとにクレオメルンの身体を削っていった。

 聖殿騎士団は聖槍騎士団とも呼ばれ、団員の大多数が白銀の槍を握る。その中においても、使徒ズィール・シレ聖猊下の近衛騎士隊隊長を務めるクレオメルンの槍は、先代の近衛騎士隊隊長でもあるオーケンリッターが使っていた最高の槍だ。

 女である身と元の持ち主が長身であることから、体格と合ってないのはあるも、オーケンリッターから直々に学んだ槍術は、遺憾なく聖槍の力を発揮した。この槍で貫いた悪漢の数はすでに数十にも上り――だが、ただの一度も仮面の男に穂先が当たることはなかった。

 簡単に言ってしまえば完敗だった。細かい敗因の理由はあるも、それがほとんど意味のならないくらい、自力の差で圧倒的に劣っていた。

 贅力。重心の運び。脚力。反射神経。敏捷力。そして槍捌き。全て相手が勝っていた。

 最初の乾坤一擲の穂先こそ相手に届いたものの――否、その攻撃も最強の鎧である『竜の鱗鎧ドラゴンスケイル』によって弾かれてしまった。以後攻撃が当たることなく、敵にダメージすら与えることができなかった。

 その上、意識を刈り取られた上で情けをかけられて放置された。クレオメルンは今までの努力してきた積み重ねが、嘲笑われたようで酷く屈辱を懐いていた。

 しかしそれでも、想像の中で戦う相手には、クレオメルンはどう足掻いても勝つことができなかった。

「この様では……!」

 想像の中で相手に心臓を突き刺されたイメージに、クレオメルンの血中アドレナリンは臨戦状態にまで高騰する。握った槍がキシリと音を立て、額から流れた汗が顎を伝い床に落ちる。
 
 あれからまだ一月も経っていない。その僅かな時間の中で圧倒的力量が横たわっていた相手に正々堂々の戦いで凌駕できるなどと、クレオメルンとて思っていなかった。それでもクレオメルンの振るう槍はイメージの中の敵へと奔る。まるで焦るように。何かを打ち消すように。

(勝つ! 勝たないといけない! 聖なる血を継ぐ私は、あの悪漢に必ず勝てる!)

 轟。と、女の細腕で振るわれたとは思えない唸りをあげて、白銀が閃く。

(当然だ、負けるものか! 私は師匠にはまだまったく歯が立たない。だから、私は勝って証明しないといけない――!)

 そのとき、頭に過ぎった邪念が白銀の穂先を鈍らせる。仮想敵として想定した『勝てないと思ってはいけない敵』はその隙を見逃さず、まるでクレオメルンの内心を細かに推し量ったかのように的確な返礼を放つ。

 頭部に向かう敵の漆黒の穂先――だが、その槍がクレオメルンの頭蓋を砕くことはない。当然だ。彼は見逃した。見逃したのだ……

「くそっ!」

 苛立ちに任せ、槍を床に突き立てる。
 衝撃を吸収するように敷き詰められた石は、鋭い一撃の前に衝撃を押し殺せずに亀裂を作った。

――神居に傷をつけるとは、どういうつもりだ? クレオメルン」

 その瞬間の情けない自分を見られてしまったのは、一番見られたくはなかった人だった。

 はっとなったクレオメルンは槍を引き抜き、その場で立て膝をついて騎士の礼を取る。
 入り口から歩み寄ってきた相手は、鋭い眼光で畏まる自分の近衛騎士隊隊長にして娘を見て、しかしあくまでも使徒として接す。

「この神居は『始祖姫』様の時代より受け継がれてきたものだ。聖地の中の聖域。絶対不可侵の白亜の塔。それを守るべき使徒の近衛騎士隊隊長自らが傷つけるとなど、絶対にあってはならぬことだ。恥を知れ」

「申し訳ありません!」

 頭を下げるクレオメルンは、自分が情けなくて涙が出そうになった。

 一番自分の無様なところを見られたくない相手――父親であり守るべき使徒であるズィール・シレに静かに怒られたことは、何よりも恥じ入るべきことだった。彼に誇ってもらえるような騎士に、娘になろうとしているのに、これでは真逆ではないか。

(また呆れられた。いつになったら父様に認めてもらえるような自分になれるのだろうか。師匠は、なれているのに……!)

 さらなる叱咤を覚悟して涙を堪えるクレオメルンに対し、ズィールが次に放った言葉はどこか困惑混じりだった。

「怪我を、しているのか?」

「っ! 御身がお気になされるような怪我ではありません! 巫女オーケンリッターと鍛錬をしていてついた怪我です!」

 目線を下に向けたまま、ズィールの質問に即答を返す。

「……そうか。それならばいい。その傷を自らの糧とし、さらなる鍛錬に励め」

「はっ、ありがとうございます!」

 困惑混じりと感じたのは気のせいだったのか。次にかけられた言葉は、いつも通りの彼からの言葉だった。

 クレオメルンとズィールは紛れもない親子だ。

 目元こそ今は故国に戻った母エルフィルテにそっくりだが、凛々しい眉や口元、何より翡翠色の髪はズィールと良く似ている。クレオメルンにとっては、自分の身に流れる父親の血が何よりも宝物であった。

 ただ、ズィールの方はそうは思ってくれていないのか、クレオメルンは執務の時間、彼のことを父親と呼ぶことを禁じられていた。

 私的な時間ならばいいのかと聞かれれば是なのだが、近衛騎士隊隊長である自分に休みなどほとんどなく、ズィールに至っては生きていることと使徒として執務をしていることは同義。『父様』という言葉は、いつだって自分の胸の中だけで使われた呼び名だった。

 だけど、それで構わない。たとえ父とは呼べなくとも、それでもズィール・シレという正義の使徒はクレオメルンにとって尊敬すべき父親だったから。

 生まれたときから見続けていた使徒と巫女は、紛れもなくクレオメルンにとっての理想の形。
 いつか全幅の信頼を置かれたオーケンリッターのように、使徒という大変な役割を与えられたズィールを支えることが夢なのだ。

 今はまだ遠い。だけど、いつか必ず父親を支えてみせる――胸に懐いた疑いを否定して、クレオメルンは立ち去ろうとするズィールに頭を下げて見送る。

「クレオメルン。我が娘よ。
 たとえこの先何があったとしても、何を見たとしても、お前は自分の夢を諦めるな」

 だから、その言葉をズィールがどんな表情をして言ったのかわからなかった。

「……父、様…………?」

 かけられた言葉の意味を、娘としてかけられた言葉の真意を、クレオメルンは去っていく父親の背中から、ついぞ察することはできなかった。









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