Epilogue

 


「よろしかったのですか? 使徒ジュンタ・サクラを捕縛しなくても」

 灰色の空を仰ぐ荒野の上、ヒズミはディスバリエにそう問い掛けられた。

 確かに、オーケンリッターが作戦に失敗した以上、自分と姉のためにも、掛け替えのない知識をくれた『狂賢者』らのためにも、使徒の確保は命題となる。

 しかし、

「いい。あいつだけはいらない。あいつはもう、姉さんに近付けちゃいけない」

 スイカの安寧を考えるなら、これ以上ジュンタを彼女に近付けるのだけは阻止しなければならない。スイカの魂に根付く【ガラスの靴】の副作用と呼ぶべきものに気付いた今、もはや僅かな接触さえ禁じなければ。

 今回の作戦が失敗したため、狙うべき使徒二柱は警戒しているだろう。フェリシィールもズィールも一筋縄ではいかない。オーケンリッターという油断を誘える相手が敗北した以上、両者の確保は途方もない難問だろう。

(だけど、いざとなったらどちらか一柱だけで)

 ヒズミは自らの居城にして神殿を目指しつつ、同士には見えない場所で口の端をつり上げた。

『聖獣聖典』が代償なくして動かない以上、使徒を手に入れるのは絶対だが、何も自分の目的だけ果たすなら二柱手に入れる必要はない。ディスバリエを出し抜くことさえできれば、一柱で事足りる。

 そもそも利害関係だけで手を結んだ関係だ。裏切りに心は痛まない。むしろ彼女たちが生み出そうとしている怪物のことを考えれば、むしろ自分の考えはこの世界のためになるだろう。

(姉さん。もうすぐだ。もうすぐ、僕らは……)

 人知れず、ヒズミは狂おしい笑みを浮かべていた。

 ようやく手につかめる位置まで近づいた、成就の瞬間を思い描いて。






 ――――だから、気付けなかった。自分と似た笑みを、また後ろの女も浮かべていることに。






 そう、これはただの利害関係。ヒズミが裏切りを躊躇しないというのなら、また逆も然り。そもそもの話、ヒズミには考えられないことだが、今回の作戦は失敗したが、成果事態は成功といってもいいのだ。

 ディスバリエ・クインシュはほくそ笑む。

 自分たちの目的成就だけを考え見れば、使徒は一柱で十二分に事足りる。

 そして――

――すでに『ユニオンズ・ベル』に、使徒は、いる」

 あとは『聖獣聖典』を取り戻すだけ。そうすれば、全ては、叶う。






       ◇◆◇






 捨てられた世界に似つかわしい灰色の城。

 寂れ、朽ちたように見えるが強固な城塞だ。周りに夥しい魔獣を集める『封印の地』にそびえるこの古城こそ、ベアル教の居城『ユニオンズ・ベル』である。

 その玉座に君臨するのは、ベアルの盟主でもベアル教の人間でもない少女――スイカだった。

 両手で『聖獣聖典』と『深淵水源リン=カイエ』を強く抱きしめ、視線を床下の一点に注いでいるスイカの身体は、慣れた十八歳のものだった。

 ジュンタが召喚されたあと、邪魔者がいなくなったスイカは『ユニオンズ・ベル』の中へと進入した。ヒズミを待つために。幸いにも最初からこの場所を拠点とするよう準備してあったようで、場内には十分な食料などの物資が蓄えられていた。

 中でもスイカにとって何よりも助かったのは、豊富に水があったこと。『深淵水源リン=カイエ』の刀身を補充し、なおかつ【ガラスの靴】を行使して水の鎧を纏った。それだけでスイカの心も身体も、強くなった気がした。

 だけど……独りが、怖い。

「ひっ」

 肩を震わせながら視線を横へとずらしたスイカは、喉の奥から悲鳴を零した。

 玉座からは周りが見渡せるようになっており、窓の向こうには灰色の荒野が延々と続いて……いなかった。

 鮮血があった。
 鮮血の瞳があった。

 窓にはりつく幾十の鮮血の瞳。ぎょろりと血走った目で獲物を見つめる魔獣の視線が、じぃっとスイカのことを見つめていた。

 窓だけじゃない。音でわかる。気配でわかる。この城全てが今魔獣で囲まれていた。
 ギチギチと歯をならす音。ガツガツと壁を削る音。ドンドンを窓を叩く音。それらいつ破れてもおかしくない朽ちた壁や窓が、スイカを守る最終防衛ラインだった。

 この『ユニオンズ・ベル』は元から『封印の地』に建設されることを設計された代物で、どのような強大な魔獣も中へと侵入することを許さなかったが、それを十分承知した上でも四六時中魔獣に獲物として観られているのは耐え難い恐怖を誘った。

「独り、ぼっち」

 再び視線を床の一点に集中させ、スイカは震える手で武器と弟を助けるための術を握りしめる。

 こうして独りでいると、今までどれだけヒズミに助けられてきたかよくわかる。いつだってヒズミが傍にいて、片時も離れることがなかったのだと、そう理解できる。また彼も一人にはなりたくなかったのだろうが、きっと独りが怖いのは自分の方が上だろう。

 スイカは独りになると人が怖くなる。世界が怖くなる。自分が怖くなる。

 全てが変わってしまったあの日、化け物になってしまったあの日から、ずっと恐怖が胸の中を渦巻いている。今こうして考えている自分は、果たして本当に人間なのかと。アサギリ・スイカなのかと、そう怖くなる。

 姉さん。と、ヒズミに呼ばれる度に、自分がアサギリ・スイカであることを認識できる。そうして、今までこの恐怖に耐えてきた。

 だからもう、大事な王子様のことは考えたくない。

 大事だったからこそ、今はもう考えてはだめなのだ。これ以上彼のことを考えたら、ヒズミへの想いを超えてしまったら、きっと自分はこの恐怖に耐えきれなくなる。耐えきれずに、心まで化け物になってしまう。

「怖い、怖いよ……」

 嗚咽するようにスイカは心の中で泣いた。
 長年耐え続けてきた痛みは、もう実際に泣くことすら許してはくれなかった。

 ポタリ。と、瞳から零れたのは偽りの涙。魔法が少し解けてしまって解けた水でしかない。

 その魔力で固められた水が腕の中の『聖獣聖典』に落ちた。
 するとぼぅっと虹色の光が瞬いて、自動的に『聖獣聖典』のページがめくれていく。

「これは……」

 スイカの手を離れて浮かび上がる『聖獣聖典』は、その中の一ページを開いて目の前で制止した。まるでこのページを読めと、そう言っているように。

 何かに導かれるままにスイカは手を伸ばして、その虹色に輝くページに触れた。何か、大切なものがこの光の向こうにあるとそう理解できた。それは温かい、父親のような頼りがいのある、母親のように優しい光。

 指が光に触れ、指先からスイカの身体を光の速さで何かが駆けめぐる。

 一瞬のブラックアウト。すぐに浮上する意識の中、身体を包み込んでいた心の鎧が弾け飛び、鎧を構成していた水が一つになって空中に像を結んだ。

「これは…………知ってる。わたし、知ってる」

 まるでテレビのモニターのように薄くなった水の向こう。そこにはこの世界ではついぞ見ることのなかった機械や文明の利器で溢れた、懐かしく騒がしい光景が映り込んでいた。

「わたしの、故郷。わたしの、大切な、故郷」

 スイカの瞳から、呆然と涙がこぼれ落ちる。

 懐かしい光景に、あの幼い日の記憶が蘇る。
 父親との、母親との、祖父や家族たちとの、弟との、そして王子様との日々が、蘇る。

「ああ。わたし、化け物じゃない。まだ、泣ける、んだ」

 はらはらと流れ落ちる涙の温かさに、スイカは自分が心までは化け物になっていないことを知った。

「ありがとう。わたしのこと、慰めてくれたんだね」

 虹色の本を抱きしめて、スイカは微笑みながら移り変わる故郷の光景を見つめた。

 もう、何も怖くない。外の音も、中の恐怖も、何もかもが消えていく。
 そう。これだけでもう十分だ。こんな温かい世界へ弟を帰してあげられるなら、それだけでもう何かもが救われる。

 大好きな人たちと触れ合えないのは残念だけど、それでもこうして見ることができた。

 映像には明るく笑う両親の姿があった。思い出の中より少し老けていたけれど、元気な二人の姿が。子供二人が突然いなくなって心配していないか、病気になっていないか、実は不安だったけど大丈夫そう。安心した。とても、安心した…………






 そしてアサギリ・スイカは――あまりに残酷な現実を、直視した。

 

 

 

 それは何という悪夢。

「なんだ、これは……」

 だけどそれは悪夢ではなく、純然たる現実だった。

「何なんだ、これは……? 何なんだこれは!?」

 認められない。あり得ない。あってはならないと叫び声をあげるスイカは勢いよく立ち上がる。

 瞼の裏には、垣間見た故郷の光景がしっかりと焼き付いていた。忘れないように大事にしておくとは違う意味合いで忘れようもなかった。あんな世界を見せつけられて、どう忘れろというのか。

 懐かしい観鞘市の風景。向こうは春なのか、綺麗な桜の花が咲き始めていた。
 都会でもなく、かといって田舎ではない。ビルの群と自然が残った公園。通った学校やよく通った道など、望む者全てが水の中に投射された。――感激で、声が出なかった。

 懐かしい我が家で、幼い頃に離ればなれになった両親は笑っていた。
 記憶は徐々に薄れ、二人も歳を取っただろうに、スイカには二人が自分の大切な両親なのだとすぐにわかった。――涙で息が詰まった。

 笑う両親に、二人だけの子供を失った者の悲壮感は見えなかった。当然だ。だって、彼らの傍には子供がいるのだから。何も失ってはいないのだから。


――――どうして、どう、して父さんと母さんの隣に、ヒズミとわたしがいるんだ?」 


 スイカが故郷にある自分の家のビジョンで見たのは、仲睦まじい家族の姿だった。

 厳つい顔だけど、本当は面倒見が良くて照れ屋な、家族が大好きな父親。
 いつも穏やかな深窓の令嬢のような感じだが、実は修羅場経験が豊富な母親。

 世間一般では恐れられる立場でありながらも、二人は惜しみない愛を子供たちに注いでくれた。そして、そうして育った子供たちは大きくなって、両親に愛を向けていた。

 記憶にない学校の制服に着替えた、どこか恥ずかしそうに口を尖らせるヒズミ。
 やはり制服に着替え、父親から無言で激写されまくっている黒髪黒眼のスイカ。

 スイカだからこそ一目でわかった。今水に映ったビジョンは真実、現在故郷の地で営まれている光景であり、故郷で笑っている弟は本物のヒズミで、また辛いことなど何もないように笑っている少女も、本物のスイカなのだと。

 そう、本物だ。紛れもなく、そこにいたのはアサギリ・スイカその人だった。

「どうしてわたしがヒズミと一緒に家にいる? わたしは、ここにいるのに……ッ!」

 思い切り『聖獣聖典』を床に叩き付ける。魔力の供給を失った映像が、びちゃんと水に戻って床に叩き付けられた。

「嘘。嘘嘘嘘嘘うそっ! そんなことがありえてたまるか! わたしが二人いるなんてことあってたまるか! わたしが、わたしがアサギリ・スイカの偽物だなんて、そんなこと認めてたまるもんか!」

 スイカは頭を抱えて首を左右に振りながら、その場に力無く座り込む。

 眼を大きく見開いたまま、知ってしまった世界の真実に叩きのめされる。
 スイカはアサギリ・スイカであるために、故郷を映す映像の中にもう一人の自分を見てしまったとき気が付いてしまったのだ。

 彼女はあの日――自分とヒズミが異世界へと連れて行かれたあの日、異世界へと行かず、そのまま故郷の世界で育ったアサギリ・スイカなのだと。

 なるほど、彼女は本物だろう。こうして彼女を認めた自分も、また本物なのだろう。だけど問題はそこじゃない。上限を超える喪失に震える心の空洞は、この自分が今やろうとしている全てを否定されたことによる空虚であった。

「どうしろって、言うんだ……元の世界にわたしとヒズミがいるなら……わたしたちは戻っても意味がない。戻ったところで、戻りたかった場所にはもう戻れないじゃないか……」

 そのためだけにこの道を選んだのに……どうして…………

 ギチギチ。ガツガツ。ドンドン。

 耳に耳障りな雑音が響く。あまりにも耳障りなノイズが聞こえる。

「うる……さい」

 そこにはもう恐怖など抱きようがない。ただ、うるさい。耳障りだ。黙れ黙れ黙れ黙れ。

「嗤うな。わたしを、嗤うな……わたしとヒズミの夢を、お前らなんかが嗤うな!」

 涙をこぼしつつ鬼気迫った声をスイカはあげる。けれども、食欲に支配された魔獣たちは雑音の合唱を止めない。鮮血の瞳で、あまりにも無様な道化を嗤うことを止めない。

 あれを止めようと思うなら、そう、取るべき道は一つしかない。

「…………殺さないと。殺さないと。殺さないと」

 よろめきつつ立ち上がって、スイカは左手で頭をガシガシと掻きむしりつつ、右手に『深淵水源リン=カイエ』を持って窓へと近づいていく。

「そうだ。そう、こんな結末はダメだ。早く殺して考えよう。別の方法。ヒズミが幸せなまま元の居場所に戻れる方法を……ある。絶対にあるはずだ。だから殺して……だってわたし、ヒズミのお姉ちゃんだから。早くコロサナイト」

 クスクス。と、どうしてか笑えてきた。

「そうだ。殺せばいい。それで解決。全部解決。殺して殺して殺して殺して殺して……あはっ」

 ああ。そうだ。楽しいんだ、とスイカは気付いた。

 ……アサギリ・スイカには、二つの生きるための理由があった。

 一つは弟を故郷へと戻してあげること。唯一の家族を幸せにしてあげること。
 もう一つは初恋の男の子に再会すること。彼と一緒にずっと笑っていること。

 幼い頃から思い描いて、それしかもうなくて、ずっと大事にしていた、生きる理由。アサギリ・スイカの存在意義。絶対に譲れないもの。それら全てに裏切られ、全てが壊れ、全てが消え――代わりに狂ったくるったクルッタ新しい生きる理由が生まれた。


 ああ、だけど――とてもタノシイなら、それでもう、いいじゃないか。


「ぁ――あはっ、あははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは――!!」

 




 ヒズミが辿り着いた『ユニオンズ・ベル』はグロテスクな肉界に囲まれていた。

「姉さん……!」

 夥しい魔獣が中を一心に覗き込んでいる。それが意味することに気付きヒズミは駆け出そうとして――その足が止まった。

「これは……?」

 それはまるで爆発だった。

 とりついていた壁が爆発したように、壁の魔獣の一部の身体が四散する。さらに続いて横の魔獣たちが。それが爆発四散したらその次へ。そうして次々と魔獣は破壊され、緑の地で灰色の城壁をコーティングする。

 否。血は壁には触れない。

「血が、蠢いている」

 最初の一撃こそ水色の輝きだったが、次の魔獣を破壊した力は、前の魔獣の血であった。そしてその次は生き絶えたばかりの魔獣の血が。まるで城壁の上を巨大な津波が行くように、触れる際から魔獣は破裂し、その血がさらなる波となって血の海を形作っていく。

 あれだけ城を埋め尽くしていた魔獣が一掃されるまで、一分もかからなかった。

 全ての血は自分の役目を果たしたあと、ズルズルと壁を移動して出発点へと舞い戻る。さらには割れた窓から城の中に、玉座の間に吸い込まれていく。そこにいる誰かに吸い込まれていく。

「姉……さん?」

 城から狂ったような嬌笑が聞こえた気がした。何か、途方もない何かをなくした喪失と狂気の笑い声が灰色の空をつく。


 ――るぁあああああああああああああッ!!


 それはまるで海を彷徨うセイレーンの歌声。
 透明な叫びが、水の咆吼が、灰色の城より木霊する。

 
 ――ぉおおおおおおおおおおおおおおッ!!


 それに呼応するように、空より魔獣の王は舞い降りた。

「盟主様。始まりますよ――戦争が」

 ベアル教における神を見た『狂賢者』が、そう告げた。

 光も闇もない空から舞い落ちる堕天使の翼。
 それがこの地のおける本当の戦いの始まりを、不吉に祝福していた。



 


 幼い夢は夢と消え、全てが全て歪んでいく。
 それでも選ぶ、また道を。その果てにある結末に想い馳せながら。また、選んでいく。










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