第十一話  戦場を駆けるもの


 

 主戦場はサウス・ラグナの裏側にある。

 聖地の地形と準ずる『アーファリムの封印の地』の地形上、主戦場までは前線基地からしばらく時間がかかる。山を越えなければならない表側とは違い、こちらは直線距離で行けるため大幅に時間は短縮できるが、今は一分一秒がもったいない。

「急がないとな。スイカのところに」

 ヒズミのいうとおり、前線基地に足を踏み入れたジュンタを拘束するような真似をする騎士は誰もいなかった。敵意の視線は変わらないが、すでにスイカもヒズミもいない以上、阻む者は誰もいない。

 ジュンタはまっすぐ自分が剣を奪われたテントへと行く。

「ようやくのご到着か、ジュンタ」

「ご無事で何よりです」

 そこには待ちくたびれたように、漆黒の甲冑の隣で身体を震わせるサネアツと、その手にジュンタの双剣を抱いたクレオの姿があった。

「サネアツ。クレオ」

「うむ。多くを語らずとも、状況の把握はできている。行くのだろう? 決戦の場へと」

「……頼めるか? この場所を」

 ベアルの城付近で行われているだろう戦いへ赴くにあたって、一つだけ懸念が残る。それはこの前線基地の留守を自分が任されているとである。スイカに一度は乗っ取られた手前今更だが、ここは重要な後方拠点だ。ここがあるからこそ、フェリシィールたちは全力で戦える。

「俺は留守を任された。俺は任せてくれって頷いた。けど――

「行きたいのだな。決戦の舞台へ」

 再び言いたい言葉を先回りして、サネアツは何とも偉そうに胸を張った。

「裏方こそが俺の神髄を発揮する檜舞台である。行ってこい。約束をしたというのなら、また俺と約束をすればいい。渡されたバトンをさらに渡す。ここには留守を安心して任せられる相手が存在するぞ」

「クレオ。悪い、頼まれてくれるか?」

「はい。元よりそのつもりです」

 ずーんと落ち込んだサネアツが地面に倒れ伏した捨て猫のようにテーブルの上に寝転がる。器用に尻尾でのの字を書くというおまけ付きだ。

「冗談だ。サネアツ。お前とクレオなら、ここを十分に任せられる。そもそも、元から俺じゃなくてクレオに託されたみたいなもんだからな、ここは」

  ちょっぴり本気で落ち込んでいるサネアツには悪いが、クールダウンに付き合ってもらった。ある意味本当に信頼しているからこそ言えた言葉である。そのところをサネアツも分かっているのか、すぐさま立ち直って気合い十分なクレオと一緒に軽く笑みを零した。

「元々今のジュンタに情報処理能力も指揮能力もないからな。しかも加えて使徒に反逆者として指名された身の上だ。今のジュンタがここを守りたいというのなら、ほとぼりが冷めるまで出ていた方がよいだろうよ」

「誤解を解けないのは遺憾ですが、任されてしまった以上は全力を尽くすまでです。こちらは私が全力で守りましょう。ですので、どうぞ心行くまで自らが思うままに立ち振る舞って下さい」

「ああ、ありがとな」

 任されたのを他者に放り投げるのは心苦しいが、今はこの場に止まってはおけない。信頼できる二人に任せられるのなら、これ以上のことはなかった。

 前線基地の留守を引き受けてくれた二人は、黙って軽く横へとずれた。
 戦いへ行くことが決まった以上、なすべきことは迅速にせねばならない。二人の間に挟まれたその漆黒の甲冑と剣こそ、サクラ・ジュンタが戦いへと持っていくべき品である。

 かつて全身甲冑だった頃の名残を残す、各所を守る黒い甲冑。制作者の妄執が滲み出るほどに磨かれた表面は、元が魔獣の王の鱗であったことを思わせないほどに艶やか。しかし決して華美ではない。防具として完璧なまでに突き詰められた、そんな印象を受ける。

 禍々しくも思える魔力の猛りは、芸術家が自らの最高傑作に刻む狂気に似て、頼もしくも思える。

「さぁ、行くぞ。『竜の鱗鎧ドラゴンスケイル』」

 一つ一つを迅速に、クレオに手伝ってもらいながら取り付けた『竜の鱗鎧ドラゴンスケイル』の感触を肌で感じる。

 持ち主に不幸をもたらすという甲冑は、しかしジュンタには何の悪影響も与えない。『侵蝕』の性質を持つ魔力が覆い『竜の鱗鎧ドラゴンスケイル』を身体の一部のように感じさせるからだ。ジュンタが受けるのは『竜の鱗鎧ドラゴンスケイル』の最強の防具としての恩恵のみ。これ以上頼りになる防具は他にない。

「入り口に馬を待機させています。ここから足を使って走るとなれば、向こうについたときには疲労で動けなくなってしまいますから」

 最後にジュンタへ双剣を渡したクレオが、そう言ってテントの入り口へと視線を投げかける。そこには神聖さをも感じさせる雄々しい白馬が、鞍をつけた状態で待機させられていた。

「フェリシィール聖猊下がジュンタ様のために用意なされた騎馬、ユーティリスです。彼女以上の駿馬は他にありません。必ずや、あなたを無事に戦いの場へと運んで下さることでしょう」

「何からなにまで悪いな。ありがたく、力を貸してもらう」

 甲冑を纏い、双剣を鞘ごと腰に巻き、ジュンタは雄々しい駿馬へと近付く。

「ご武運を。あなたに神の加護がありますように」

「気張れよ。ここが正念場だ、ジュンタ」

 背中からかけられるエールに、ジュンタはユーティリスへと飛び乗ることによって応える。振り向くことなく前を向く背中は、それだけで答えになると、ジュンタは知っていた。

「頼むな、ユーティリス。俺に力を貸してくれ」

 手綱を握ったジュンタの意志に応え、無色の魔力はユーティリスにまで及ぶ。他者が拒めば何時間も侵蝕に時間のかかる魔力は、瞬く間にユーティリスを覆う。それは彼女が自らの願いに応え、力を貸すことを了承してくれたことを示していた。

「ありがとう。それじゃあ、一緒に駆けようか。早く。かつてないほどに速く」

 獰猛にも見える嘶きと共に、力強くユーティリスは大地を蹴り上げ、風を切り裂く勢いで走り始めた。乗り手が望む場所へと、一秒でも速く辿り着くために。

 ジュンタはユーティリスと一体化し、風を追い抜いていく感触を感じながら、遠い灰色の空を見上げた。

 黒い点。しかし見逃せない凶暴な魔力。

――ドラゴンを追い抜くほどの速さで」

 終わりの魔獣も戦地を望む者を乗せ、血塗れた戦場へと行く。


 

 

       ◇◆◇


 

 

「姉さんの本当の望みは、なに?」

 空を駆けるドラゴンの背で、ヒズミはスイカに意を決し質問をぶつけた。

「わたしの望み? それはもちろん、ヒズミと一緒に故郷に帰ることだ」

 質問に返されたのは笑顔。掛け値なしの、いつも通りの笑顔だった。

「ヒズミだって知ってるじゃないか。そのためにベアル教を利用して、今日まで色々と駆け回ってたんだから」

 スイカの言うとおり、ヒズミたちはベアル教を利用しているに過ぎない。

 今から数年前、スイカとヒズミが聖地へとやってきて、ようやく一心地ついた頃に、名高い異端宗教は滅亡の危機に瀕していた。影響力のある導師をことごとく失い、かの宗教は今にも瓦解しようとしていた。

 同時に、ヒズミたちの故郷探索も暗礁に乗り上げていた。
 聖地に使徒と巫女として招かれた二人は、おおよそこの世界全ての知識と接する権力を手に入れた。リアーシラミリィの古文書等、普通では手に入らない知識も得ることができた。

 それでも、異世界についてはどこにも記載されていなかった。異世界という言葉は『封印の地』や『暗黒大陸』など、自分たちとは異なる理解を必要とする場所を指す言葉でしかなかった。

「使徒として得られる正道の知識には、異世界についてはまったく書かれていなかった」

「だから僕は滅びかけていたベアル教を利用することを思いついた。邪神崇拝、禁呪、そういった禁断の知識をもって、異世界の扉を叩こうと。オーケンリッターと協力関係になったのも、このころだった」

 使徒ズィール・シレが行おうとしていたベアル教殲滅作戦において、『狂賢者』がもたらした知識の全ては外道の知識として闇へと葬り去る手はずになっていた。そういった邪法に希望を抱いていたヒズミは、前もって当時御輿として担がれていたビデルたちへと情報を流し、彼らが滅びないようにした。

 だが、使徒とはいっても所詮は子供だった。穴のあった隠蔽はすぐに事後処理に当たっていたコム・オーケンリッターの知るところとなり……持ちかけられたのだ。ベアル教『改革派』を生み出すことを。

 当時はオーケンリッターの目的など知らなかった。だが、彼の誘いは幼く力の足りない巫女にはとても甘いものだった。結果、ビデルたちが地下に潜っている中、ベアル教『改革派』を立ち上げ、開祖ベアルたちが残した外道の知識を手に入れることができた。

「……だけど本当に、他に方法はなかったのかな?」

 ポツリと呟いてしまった一言は、今のヒズミにとって重要なことだった。

 前に座るスイカは、視線を眼下の戦火に合わせながら、淡々とした口調で言う。

「長い間わたしたちは探してきた。今更、そんな不確定な奇跡に縋らなくても、ここには方法がある。たとえ犠牲を伴う方法だとしても」

「……それは本心かい? 姉さん」

 温度のない姉の声に、ヒズミは一歩スイカに近寄った。

「それは本当に姉さんの本心からの言葉? 本当に、姉さんはこの方法で元の世界に戻りたいと思ってる?」

「わたしが、嘘をついてるとでも?」

「そうは言わない。きっと姉さんは、嘘はついてない。本当に故郷に戻りたいんだと思う……けど、全てが全て本当だとも今は思えない。本当は姉さん、探したいんじゃないの? こんな誰かに憎まれる方法じゃなくて、誰もが笑っていられる方法を」

 視線を背けたままのスイカは無言で口を閉ざす。その横顔からは、何も読みとれない。

「僕ならいいんだ。僕は、姉さんと一緒にいられれば、姉さんが幸せなら、それでいいんだから。他の方法を見つけたいっていうなら、僕はそれに付き合う。もう一度フェリシィールさんたちと一緒にいたいっていうなら、僕は土下座だって何でもして許しを請う。姉さんがもし元の世界に戻ることを諦めるっていうなら……僕は、それでも構わない」

 今はもう遠い両親の姿と、今目の前にいる姉の姿。どちらがより大切かと聞かれれば、迷うことなく後者を選ぶ。たとえもう一つを切り捨てるとしても、ヒズミはそれを後悔しない。

 スイカさえ幸せになってくれるのなら、故郷に戻らなくてもいい。この紛い物の世界に骨を埋めることだって厭わない。

「僕が聞きたいのは姉さんの本心だ。僕のためだとか、仕方がないからとか、そういうのじゃない。それがどんなに荒唐無稽でも、夢物語でもいい。僕は姉さんの心からの声が聞きたいんだ!」

 風圧に声が弾かれぬようにじり寄って、ヒズミはスイカの肩を掴んだ。

 先程までジュンタと一緒にいたはずのスイカは、ここへとやってくる前とはどこか違う表情をしたままで、決して視線を合わせようとはしてくれなかった。それはまるで、目を合わせてしまえば心の奥を覗かれてしまうから、それを拒んでいるように見える。

 長い、長い、沈黙が流れる。

 前線基地から『ユニオンズ・ベル』までの僅かな道のり。眼下に広がる戦火の収束点に至るまでの短い間は、これまで何も考えようとしなかった過去を清算しようとするヒズミにとっては、とても長い時間だった。

「………………どうして、今更、そんなことをいうの?」

 ようやく視線を合わせてくれたスイカの唇からもれたのは、酷く寂れた呟きだった。

「どうして、今更そんなことを言うんだ? もう少し。あと少しで故郷へ戻れるのに。どうして、今更そんなことを言うんだ? いいじゃないか、わたしの本心なんて別に。ヒズミが知らなくても、それは別にいいことだ。
 重要なのは心じゃない。行動だ。心は結局、行動の果てまでついてくる。わたしの本心は何だと聞かれたら、この眼下の炎こそがその答えだ」

 ヒズミはその声音にようやく気付く。どれだけ自分が恵まれていたかを。

 自分はこの空間を隔てた異世界に来てなお、一人ではなかった。姉がいた。姉がいて手を握ってくれたから、一人である孤独を味わうことはなかった。そしてこれまでずっと、姉もまたそうなのだと思っていた。

 けれど、違った。スイカは本当に一人だった。

 それは世界が違うからとか、そういう話じゃない。スイカはたった一人なのだ。強がりで自分を世界から隠す彼女の傍には誰もいない。ずっと前から彼女は一人きりだった。隣に誰かいたとしても……彼女は、結局は独りぼっちだったのだ。

つまりはそういうこと。姉は、アサギリ・スイカとして強くなっていくほどに――人間としては弱くなっていったということなのだろう。

(こんな弱い少女に甘えてたのは、一体誰だ? こんなに震える少女を独りぼっちにし続けていたのは、一体誰だ?)

 スイカの本心を、結局ヒズミは聞けなかった。
 知ることができたのは、彼女の口からもれたしまった小さな綻びから推測できたことだけ。スイカという少女が長年秘め続けてきた言葉の中の、ほんの僅かな部分だけ。

「もう、この話は止めよう。これからわたしたちは儀式を邪魔させないため、眼下にいる人たちを殺さないといけないんだから」

 肩を掴んだ手をやんわりと拒まれ、スイカは灰色の城を見つめた。
 漆黒のドラゴンは何も言われずとも、スイカの思考を読みとったように城へと降下を始めた。

(……結局僕は、弟として失格だったってことか)

 拒まれた両手をぎゅっと握って、ヒズミは情けなさから泣きそうになって――それを必死に堪えた。

 涙は決して流しちゃいけない。もう、泣いてはいけない。これまで自分は涙をたくさんたくさん流してきた。姉の優しさに包まれて流し続けた。決して泣けなかった姉に気付くことなく、一人、甘えて。

 その弱さをここで捨てる。涙を流す弱い自分を捨てて、今からは、姉に泣いてもらえるような一人の強い男を目指す。

 頭に思い浮かぶのは、きっと自分をひた隠しにしてきたスイカの孤独の時間を、唯一埋めてやれただろう少年。スイカの本当の声を聞いて、涙を見て、その寂しさ辛さを埋めることができただろう少年。

(サクラ。僕は今本当の意味でお前がしたいことを理解した。お前がしようとしていることを理解した。お前は間違っていなかった)

 湧き上がる一つの感情は、ヒズミの手に炎の輪郭を持つ弓を握らせる。

(だけど僕も決して間違ってない。たとえ姉さんが選んだのがお前だとしても、僕は姉さんの故郷への思いを知っているから)

 そうして、姉と共に灰色の城へと降り立ったヒズミは、中へと入っていく姉に背を向けた。

 自分の今の問い掛けがどれほど姉を傷つけたかは想像を絶する。スイカは弟がここで立ち止まったことに気付くことなく、振り返ることなく城の中へと入っていってしまった。

 漆黒のドラゴンは、大きく一度旋回したあと、戦火に吸い寄せられるように空を行く。

 その先をヒズミも眺め、強く眦を引き絞る。

 戦うと決めた、一人の男の顔で。


 

 

       ◇◆◇





 
 堕天使の翼を持つドラゴンは、トン、と誰かが自分の背中の上に乗ったことに気が付いた。

 じろりと視線を向けると、そこには微笑みを浮かべる女がいた。目を閉じることで世界から目を逸らし、代わりに別の何かを見ている女を。

「そろそろ、あなたの出番の用ですよ」

 ドラゴンは何も語らない。

「もうほとんど思い出しているのでしょう? 自分がなぜここに存在しているのか。なぜ滅びたはずなのに生き残っているのか。世界のシステムに組み込まれたはずの原初のあなたが、存在しているのか」

 簡単だ。つまり、ここは世界の裏側に最も近い場所ということ。

「協力してもらいますよ。あなたは世界の一部。だとすれば、あなたは世界の権限を持つ者には逆らえない。契約を此処に。刻印をあなたに。采配の天に」

 女の手が背中に触れる。何か得体の知れないものが、魂にまで届く。

 灼熱が身体を駆けめぐる。だが、ドラゴンは身じろぎ一つしない。女のいうことはもっともだった。元より、自分が、自分たちが存在する理由はそこにある。世界と世界の境界線。それを形作るためだけに、自分たちは生かされ続けているのだから。

 ……あるいはあの日、こんな自分たちのために涙を流してくれた、奇跡の担い手の想いによって守られ続けているのだから。

「さぁ、これで全ての準備は整いました。あなたは彼女との約束を果たすといいでしょう。もっとも、あたくしが伝えた世界の真実に、彼女が堕ちていなければの話ですが」

 ただ一つ、悲しいことがあるとすれば。
 停滞の奇跡を壊すことを選んだのが、あの日の彼女にとっての友であることか。

 ならば、せめて贖罪のために死者の行進を続けるとしよう。

 彼女が作ってくれたこの箱庭で。
 最後まで、彼女の敵で在り続けるために。




 

 フェリシィールは覚悟を決めていた。

 後方へとドラゴンが強襲してきたなら、ズィールやリオンたちに全てを任せると。
 前方へとドラゴンが強襲してきたなら、犠牲を覚悟で騎士らに足止めを任せると。
 そして、もしも中央へと空から攻撃を仕掛けてきたとしたら――

「わたくしから全力で離れなさい!」

 ――自らが時間稼ぎをするものと!

 空から高速接近する魔力に、フェリシィールが最初に勘付いたのは、自身が多大な魔力を持っていることに加え、魔力に鋭いエルフであることが理由にあった。フェリシィールは自らを狙うように真上から迫る飛来物の速度を耳で感じ、一言のみしか言葉を紡げないものと悟った。

「ぐっ!」

 空から太陽が落ちてきたかのような、赤い、赤い炎が落ちてくる。
 フェリシィールは、重要な一言を詠唱ではなく避難勧告に使ってしまった自分の甘さを後悔しながら、無詠唱での魔法を上空めがけて放った。

 灰色の大気に含まれた僅かばかりの水分を集め、あるいは魔法陣によって新たに生じさせ、一瞬にして膨大な水を生み出す。たとえ無詠唱といえども、使徒の魔力が招く神秘を普通の魔法使いと一緒にしてはいけない。

 大岩のごとき火球の礫に軌道に合わせて放たれた、渦巻く水の球は三つ。
 それぞれが本隊の頭上百メートルほどで炎とぶつかり合い、猛烈な水蒸気を振りまいた。

 崩れかけた魔獣の軍勢を見据えていた視界が一瞬で白く染まる。辺りからは悲鳴が。

 唐突の悲鳴勧告で動けたものなど、近くにいた人間の半数にも満たない。そして無詠唱では水の量が僅かに足りなかった。炎こそ相殺できたが、その熱波までは完全には押し返せなかった。水蒸気に変わって若干和らいだとしても、猛烈な熱は近くに集まっていた騎士たちに軽くない火傷を負わせる。

星の源より沸き立て 生命の井戸よ

 悲鳴を耳に捕らえたフェリシィールは、一気に気温の上がった周りを冷やすためにも、詠唱を用いて先程とは比べものにならない水を生み出した。

 フェリシィールを中心に噴水のように沸き立った水は、水しぶきとして辺りへと広がる。水蒸気そのものを水によって消し去ったあとには、肌に火傷を負いつつも、先程の命令を必死にこなそうと離れる騎士たちの姿が見ることができた。

 彼らには前もって自分たちの頭上に敵が――

「ついに来ましたか。ドラゴンよ」

 ドラゴンがやってきたときの対応について、前もって指示を出しておいた。

 瞬く間に辺りからは騎士の姿がいなくなり、代わりにぬかるみ、僅かにくぼんだ地面に溜まった水の上に、決して一歩も微動だにすることなく自分を乗せていてくれた愛馬から降り立つ。

「ありがとう、わたくしを支えてくれて。ですが、ここからはわたくしに任せてくださいな」

 愛馬が首に負った火傷を癒すように軽く撫でてあげると、彼は甘えるように小さく嘶いたと、邪魔にならないようこの場から立ち去った。

 彼の蹄が生み出した波紋が広がっていく中、水の上に立つフェリシィールは、金糸の髪を少し濡らしつつ空を見上げた。

 先程遙かな空に感じた違和感は、今やすぐ間近にまで迫っていた。空からベアルの城へ。いったん旋回してこの場の上空へと戻ってきたのは、報告にあった通りの姿をしたドラゴンであった。

「これが『始祖姫』様の時代の、ドラゴンですか」
 
 フェリシィールはこれまでに一度だけドラゴンを間近で見た経験があった。しかしそのときに見たドラゴンと比べてなお、目の前のドラゴンは強大な力を纏っていた。神獣として崇められるフェリシィールだからこそわかる。このドラゴンは、普通のドラゴンとは何かが違う。

 二十メートル近い体躯は闇が凝り固まったような漆黒。その点は他のドラゴンと同じ。爛々と輝く鮮血の瞳も同様だ。しかし灰色を闇へと塗りつぶすような鳥の羽に似た漆黒の翼は、他のドラゴンと僅かばかりに異なっている。

 ――オォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!

 そのとき、ドラゴンが吼えた。

 大気を震撼させる毒の咆哮。それだけで気圧される。圧倒的な異音は、この世にあってはならない音だ。大気が注がれた毒に悲鳴をあげ、それは空気を吸って息を吸う人間にも伝播する。

 退避する騎士たちの足取りが、ドラゴンの咆哮によって僅かに乱れる。一つの乱れはさらなる乱れを呼び、崩れた隊列は心に隙間を穿ち、ドラゴンの威圧感はその隙間に侵入してくれる。

『侵蝕』――そう、それは侵蝕だ。

 本来この世にあってはならない異物が、自身に侵入してくる悪寒と恐怖。人がドラゴンを見て本能的に抱く恐怖心、絶望感は、そこから来る。この世の理を犯す世界の敵に自分の肉体が汚されていく恐怖は、信仰によって支えられた聖殿騎士たちにはとりわけ堪えたのか。中にはドラゴンがゆっくりと舞い降りてくるのを見ただけで、失神した者までいる。

「ズィールさんは自分が必ずやドラゴンに勝てるとおっしゃいましたね。もしもわたくしの元に現れたなら、時間稼ぎに徹しろ、と」

 かくいうフェリシィールも、生命の水に守られていなければ、身体に震いを伝わせてしまいそうだった。信仰の縁であるこの聖なる身の震えは、聖殿騎士団全体の震えに繋がる。
 鮮血の瞳を一心に受けながらも、金色の瞳で強く見返して、フェリシィールは恐怖を紛らわせるための小さな皮肉を呟いた。

「ですが――わたくしだって、偶には暴れたくなるときもありますわ」

 ドラゴンが口を開くのに先んじて、フェリシィールは魔法陣を描く人差し指を空に現れた敵へと向ける。

神秘の御名において この指名は罪人を裁く

 ドラゴンへと向けた指先に、辺りから轟々と渦巻いて水が集う。

 一瞬にして膨れあがった巨大な水は、水の弾丸となってドラゴンへと飛んだ。

 生活には欠かせない水は、僅かでは質量というものをさほど感じさせないが、それが神秘によってかき集められ、凝縮され、撃ち出されたとなれば話は別だ。膨大な質量の水が渦巻いて大気を抉って登れば、そこには人知を越えた破壊が生まれる。たとえドラゴンといえど、あたれば無事では済むまい。

 実際、フェリシィールの目的はドラゴンを地に落とすことにあった。

 戦いにおいて、高低差は重要な戦術要素となる。高い場所の方が低い場所より有利となり、それが空を飛んでいるともなれば、その優勢はさらに膨れあがる。まずはドラゴンから空を飛ぶ能力を奪わなければいけない。退避した騎士たちへと被害を出さないためにも、時間稼ぎに徹するためにも。

 しかし、ドラゴンも本能的に、あるいは理性的に自分の優勢さがどこにあるのかは理解しているのか。さらに上空へと翼をはためかせて上り詰めるのと共に、物理法則が歪んだとすら思える俊敏な動きで、水の弾丸を避けて見せた。

裁きの雨よ

 いや、それは正しくない。そもそもこの水の魔法の効果は、水の弾丸という効果に止まらない。

降り注げ
 
 対象に避けられたため、勢いのままに空へと駆け上っていた水の塊が、フェリシィールのさらなる詠唱を受けて破裂する。

 高低差は優劣を生む。ならば、こちらも利用しない手はない。果たして、ドラゴンよりもさらに上空で弾けた水は、一粒一粒は小さくとも、一粒一粒が相応の威力をもって、頭上からドラゴンの身体を撃ち抜いた。

 先の水弾が強敵一体を仕留める単独対象の魔法であるなら、こちらは、一撃一撃は弱くとも広範囲にダメージを与える魔法である。突如として頭上を取られ、さらにはその物量に、さすがのドラゴンの飛行速度でも避けきれなかった。

 騎士たちを自分の傍から逃がしたのはこのためでもあった――数多降り注ぐ水がドラゴンを打ち据えるのと同時に、フェリシィールが立つ場所だけを避けて、水は再び地面に戻る。

 ドラゴン相手に、細やかな制御にまで意識を向けていられる余裕はない。そもそも、使徒はそういった細かな照準には向いていない。聖殿騎士たちを下がらせたのは、彼らが守る対象であると同時に、足手纏いでもあったからである。

「やはり、一撃では何の効果もありませんか……」

 数えるのも馬鹿らしいほどの水弾をその身に受けながらも、空を飛行するドラゴンにいささかのダメージもないようだった。一撃一撃のダメージは少なくとも、あれほどの量を受ければダメージはあるはずなのに。

「これが侵蝕の守り、というものなのですね」

 であるなら、つまりは攻撃自体がドラゴンの身体には届いていないということだ。

 自分に害する全てを阻む、全てを侵す『侵蝕』の魔力の壁と、固い鱗の二重の守りを、確実に命中させるために分散させた散弾では貫けなかったという話。雨をどれだけ受けても、大岩に穴が空かないのと同じことだ。

「でしたら――突破するまで貫くまでです!」

 だが、たとえ少しの雨では大岩は揺るがなくとも、それが積み重なれば、いかな大岩とて歪まずにはいられない。雨は思いの外すごい。自然はすごい。そして、フェリシィールの魔法は、自然災害をただ一つの対象に打ち据えるのと同義。

裁きの雨は長く続く

 再びフェリシィールはドラゴンに向けて指先を向ける。

――注ぐ

 その顔には、どこか愉しげな笑みが浮かんでいた。


 

 

 フェリシィールの元から後方にいるシストラバスの騎士団の陣まで馬で戻っていたリオンは、現れたドラゴンを見て二択を自身に迫った。

 このまま後方に戻って騎士たちと合流するか。
 それとも先に自分だけでもフェリシィールの援護に回るかである。

 指揮官である自分がいなくとも、優秀な紅き騎士団は幾度も炸裂する水の音を聞けば、即座にフェリシィールの元まで駆けつけるだろう。元々話ではそうなっていた。このまま援護に戻ったところで合流は早かろう。なら、先に自分が現場に駆けつけ、詳細を掌握した方が指揮にも多いに役立つだろう。しかし……

「竜滅姫がドラゴンを見て、駆けつけないなんてあり得ませんわよね!」

 選択の最後の決定権となったのは、リオンという少女の根本にまで根付いた考え方だった。

「行きますわよ、シュラケファリ! 此度は私が竜滅を行うのではないですが、守るという点は同じ! いつも通り、誰よりも先に現場へ駆けつけますわ!」

 リオンは手綱を引いて、乗っていた赤茶色の愛馬シュラケファリを反転させた。

 騎士にとって必要不可欠な騎馬の中でも、リオンが相棒とするシュラケファリは取り分け優秀だった。乗り手の言葉がわかっているかのように、ほとんど勢いを落とすことなく反転すると、元来た道を先程よりも早く駆け抜ける。


 

 

――来たか」

 すでにドラゴンとの戦いは始まっていた。

 空を駆け抜けるドラゴンへ向かって放たれる、巨大な水の塊。それは外れるも、散弾となって空から降り注ぎ、僅かながらドラゴンにダメージを与える。ドラゴンも負けじと炎を水の撃ち手目がけて放つが、どうやら相殺されてしまうよう。視界の先で何度も湧き上がる水蒸気は、それを視覚的に表していた。

「時間稼ぎにしては、少々手荒な対応だな。フェリシィール・ティンク」

 遠目からでも、優雅とはいえない戦い方をフェリシィールがしているのは明白だった。あれではまるで獲物を狙う狩人だ。時間稼ぎをしているというより、積極的に狩りに行っているようだ。

「竜滅は自分の役割と言っておいたはずだがな。これでは役割を奪われかねん。速度をあげるとしようか」

 馬を戦いの場所目がけて走らせるズィールは、さらに速度をあげる。使徒の愛馬となる馬は、いずれも雄々しい軍馬である。フェリシィールの愛馬は人懐っこい白馬だが、ズィールの白馬は、いかにもという筋骨隆々とした軍馬であった。共に優秀な血を持つ駿馬であり、その血は愛馬であるユーティリスにも色濃く受け継がれている。

 その疾走は風よりも早い――しかし、ズィールの後を続く紅き疾走もまた、引けを取らない。

 剣、鎧と並んで騎士に必要不可欠な騎馬。その騎馬にももちろんのこと、自身の騎士団のカラーを持たせる。今ズィールを追随する騎士たちが手綱を握る馬たちは皆、紅い鎧をその身体に纏っていた。

 それはまさに紅い疾走。隊列を崩すことなく、速度は僅かも弛めない。

 使徒とシストラバスの騎士団の疾走は、戦場を駆け抜ける竜殺しの矢の如く、射抜くべき敵めがけて駆け抜ける。


 

 

       ◇◆◇


 

 

「あれがドラゴン……なんて、醜悪な生き物なのですか」

 背後で炸裂する轟音を聞いて、最前線で指揮を執っていたベリーローズは振り向いた。

 偉大にして聖なる使徒と戦っているケダモノは、いっそ自分の目を潰したくなるくらいに醜悪だった。どこか、ではない。存在そのものが汚れていて、呪われている。その姿を畏怖を込めて恐ろしいという者もいるが、ベリーローズは恐れなど僅かも感じず、代わりにただただ気持ち悪さだけを小さな胸に懐く。

 あれと同じ空気を吸っていると思うだけで吐き気がする。
 あれの近くに使徒を置いていなければならない我が身のふがいなさに、ベリーローズは顔を盛大に顰めつつ涙を零した。

「汚らしい。汚らわしい。あんなものがこの世に存在するなんて、あってはならないことです」

 視界に金糸の輝きが混ざっていたとしたら、この目に映る光景は一つの聖画――悪魔を殺す聖者の絵になっただろうが、見えるのは空を飛ぶドラゴンと炸裂する水の塊だけ。ベリーローズがいる場所では、その水しぶきが届くこともない。

「早く、早く、託された任務をやり遂げないといけないです」

 ベリーローズは馬上でハルバートを振るって、向かってきた醜悪なケダモノを切り刻む。念入りに、その輪郭が残らないほどに。

「そろそろ、ベアルの城へと手が届く頃合いですかね」

 第八師団を預かるベリーローズが使徒フェリシィールより命じられたのは、魔獣の駆逐と城攻めだ。前者はすでにほぼ片づいている。あとは自分がいる場所より少し前で、最後の抵抗を試みている奴らを殺し尽くすだけでことは済む。それから騎士たちに再び隊列を整えさせ、城攻めの準備を執り行う。

「遺憾なことですが、ドラゴンの相手は使徒様方がやられなさるです。アタシはアタシが任されたことをしますです。ああ、使徒様」

 うっとりと任命されたその瞬間のことを思い出して、恍惚に頬を染め、ベリーローズは身体を震わせた。瞳に過ぎる熱は、幼い外見でありながら、ベリーローズが大人の女であることを証明する熱を持っていた。

 そうやって使徒への愛と信仰を再確認することによって、ベリーローズ・フォルバッハは疲れさえ忘れさせる。比喩ではなく、本当に。真に正しき信仰は時に疲れさえ消しさるのだ。ウィンフィールドにいわせてみれば、興奮しすぎで感覚を麻痺させているというが、それはつまりこの身の信仰心が揺るがないものとそう言っているのだろう。

(ウィンも偶にはいいことをいうのですから、あとはちゃんとした信仰心を取り戻させてあげるですかね)

 前線の部下たちが討ちもらした魔獣をプチプチと潰し、油断なく戦場を見渡しつつ、ベリーローズは何とも世話のかかる友人のことを考える。

 本当はとっても強い癖に、面倒くさがりな同級生。出会いから今に至るまで、結局変わらず信仰心のないとんでもない奴ではあったが、それでもベリーローズにとっては友人である。戦いの前はさもちゃんと戦うようにと言っていたが、どうぜ今頃は危険が少ない場所で片手間感覚で任務を行っていることだろう。

「まったく、仕方がない部下を持つと苦労するです。これは今度のお休みにでも、ボランティアに誘うですね」

 未だ敵の城を落としたわけでもないのに、意識が戦いのあとのことに及んでも、それは不思議でも何でもなかった。ベリーローズは使徒と共にあるこの戦場での敗北など、微塵も考えていなかった。それは聖戦の敗北、自身の敗北のどちらともである。

 頭ではそんなことを考えつつも、手は敵を屠り、心は使徒のために働ける高揚で充ち満ちているように――それは疑いようもない、絶対だった。

――第八師団長、ベリーローズ・フォルバッハか」

「む?」

 ベリーローズの優れた聴力が、自分の名前を呟いた人間が近くにいることを捉えた。同時に疑問も覚える。

 何も優れているのは聴力だけではない。鍛え上げた感覚は、敵の接近を許したりはしないはずだ。しかし、自分の知覚内に敵はない。無論、味方の気配もない。あるのは遠くではあるが身近に感じるほどに強大な、神聖なる気配と猛毒の気配のみである。

 だが、現にベリーローズの前に人影は現れた。気配なき人影が。

「誰です? 所属をいいなさいです」

 それは異様な男であった。

 身体を隙間なく埋める漆黒の甲冑は、どの金属でも表せない奇妙な光沢を持っている。何か特別な品のようだ。顔には白い仮面をつけており、その人相をうかがうことはできない。が、どこからどう見ても『敵』と認識する他ない相手であった。

「その格好……ベアル教の人間ですか?」

「だとしたら、どうする?」

「決まってます」

 徒手空手で涼しげに近寄ってくる男は、やはり気配を感じない。だが、ベリーローズの直感は、すでに目の前の男が敵であると確信していた。この場で味方ではない人であるというなら、それはベアル教の信徒である以外に考えられない。もし違ったとしても――疑わしければ拷問せよ、だ。

「異端の宗教に染まった異端教徒に与える慈悲もくれてやる餞別もないのです。疾く、速やかに断罪してやるですよ」

「くくっ、殺す、というか。この私を。哀れなほどの信仰心だな、ベリーローズ・フォルバッハ。使徒などに人としての自分も、女としての自分も、全てを捧げるなど」

 かけられた皮肉に表面上は一瞥だけで返しながら――ベリーローズの内面では狂おしいほどの殺意が渦巻き始めていた。

 生まれたときより、敬虔なる聖神教信者の両親の元で育てられたベリーローズにとって、使徒に尽くすこと、使徒を愛すること、使徒の敵を殺すことは、毎日のように言い聞かせられていたことであった。

 そこには歪みも何もない。人が息を吸うことを当然として行うように、ベリーローズは両親の教えを当然のものとし、自分の教えと変えて成長した。

 全ては愛すべき聖猊下のために――それは生まれたときより変わらない、ベリーローズ・フォルバッハの絶対の信仰である。

 それを嗤う者は愚かである。使徒を貶す者は悪である。敵は――皆殺しだ。

 もはやベリーローズは言葉を交わそうとすら思わなかった。そんなことをすれば、自分の口が汚れてしまう。今、この汚らわしい男の瞳に自分が映っているだけでも気持ち悪いというのに、口をきくなんてことをすれば、それは純血を失うも同然だ。

 返礼は速やかに攻撃によって行われた。

 冷え切った殺意をもって繰り出されたハルバート。相手が無手であろうと、異教徒に持ち合わせる騎士道も容赦も存在しない。

 幼い頃から信仰と共に鍛え上げられた一撃が、立ち尽くす仮面の男に振り下ろされる。

 脳天から真っ二つにする一撃は――しかし男がその仮面を外したことにより、命中する直前で制止する。

「ぶっ殺すッ!!」

 さらなる殺意で。

 相手の素顔を見て、ベリーローズは比喩ではなく殺意によって身体能力をあげた。幼い頃から培った教育は、脳が止めうるべきリミッターを易々と外す。
 信仰よって身体能力を本来人ではたどりつけないレベルまで底上げする。それがベリーローズを若くして師団長の地位にまで上り詰めらせた技法だった。

 代償として、正しい身体の成長は望めなかったが、それすらも信仰の証。

 ベリーローズ・フォルバッハは自他共に求める信仰の鬼。
 ならば、絶対に目の前の相手を許してはいけない。殺す。殺す。殺す!

「コム・オーケンリッター!」

 目の前に現れたのはかの裏切りの巫女。使徒の信頼を裏切り、異端に堕ちた愚かな巫女の片割れ。

 振り下ろした一撃が避けられ、大地を砕く前に強引に追撃を放つ。無理に軌道を変更した所為で、手首からプチプチと繊維が裂けた音がしたが、リミッターを外したベリーローズは痛みを感じる回路がいかれている。

「ふんっ、以前の巫女と知っても動揺することなく、勢いを強めるとはな。噂には聞いていたが、大した狂信だ」

「黙るです! 裏切り者が!!」

 以前、彼に対し敬意をもって頭を垂れていたことを思い出す度にベリーローズの心臓はかきむしられるような痛みを発する。巫女という最も使徒に近しい立場にいながら裏切った彼は、たとえ元・巫女という称号を持っていても、否、持っていたからこそ憎悪の対象。

 一撃にこめられた殺意と憤怒は場を支配するほど濃密なもの。愛馬も狂ったようにいきり立ち、後退し続けるオーケンリッターに追いすがる。

「その信仰に培われた実力、見事なり。私の腕慣らしの相手として、貴公以上の者はいまい」

 今のベリーローズの実力は、リオンと戦ったときを大幅に上回っていた。同じ師団長クラスでも、今のベリーローズならば数合の内に討ち取れただろう。

 それほどまでの強さ。強者として理不尽を、


「故に――上を知れ」


 その男、さらなる理不尽で無に帰す。

――お前。その馬鹿な信仰はほどほどにしとかないと、その信仰に殺されるぞ』

 以前ウィンフィールドが珍しく真剣な顔をして言った言葉がなぜこのとき頭に浮かんだのか、ベリーローズはわからなかった。

「……ぁ……」

 だって、偉大なる使徒を裏切った巫女を倒すのは当たり前のことではないか。そう教えられたし、そうであると信じ切っていた。そこに誰の否定も入る余地はない。

 そう、たとえ相手の実力があまりにも強すぎても……ああ、逃げるなんてあり得ない。信仰に殉じて死ねるのならば、それは喜んで享受すべきことなのではないか?

 ゴプリと、内臓を貫かれたベリーローズの口から赤い血が吐き出される。

 真正面から一刺し。首を失った馬から転がり落ちた勢いで、地面に倒れ込んだベリーローズの背中から、食い込んだ穂先が細い身体を貫いて現れる。

「……っ……」

 誰が見ても致命傷の怪我を負ってなお、ベリーローズは痛みを感じず、ただ唐突に、目の前の男の異名を思い出す。

『鬼神』コム・オーケンリッター――かつて、最強と謳われた男。

「心臓を狙ったはずだが、僅かに避けたのか? ……まぁ、いい。これで一人目。あと数人は慣らしのために必要か」

「け、かっ」

 槍を抜かれたことで、もう一度ベリーローズは口から血を吐いた。まったく動くことができなかったが、傷は心臓から僅かに逸れていた。だが、槍の刃に毒でも塗られていたのか、身体はピクリとも動かなかった。

(あ、待って、ください、です。このままでは、任務、果たせ、ない……)

 立ち去っていく足音に、慌ててベリーローズは顔を前に向ける。
 ゆっくりと顔を前に向けた頃には、もうオーケンリッターの姿はそこにはなかった。

(……使徒、様の、ご命令は……絶対……破って……ダメ……そんなのは、絶対に……裏切り者……殺さない、と…………)

 感じるのは光の気配と闇の気配。そして聞こえるのは荒い魔獣の吐息。

(…………死ぬ、せめて……殺し……てか……ら…………)

 ……ベリーローズ・フォルバッハは、その最後の瞬間に自分が思うものは、使徒のことであると思っていた。その視界に映り込むものも使徒の輝く姿であると、そう思っていた。

 だが、意識が消え去る最後の瞬間。ベリーローズが見たのは、

「…………ウィ、ン……?」

 使徒でも何でもない、一人の友達の姿だった。


 

 

「大した耐久力ですね」

 フェリシィールは相変わらず水の上に立っていたが、その水の深さと水量は、ドラゴンとの戦いが始まったときとは比べものにならなかった。

 神秘たる魔法でかき集められたり生み出されたりした水は、多くがドラゴンの吐き出す炎で蒸発してなお、並々と地面の上に溜まっていた。地面もフェリシィール自身が使った魔法によって大きな穴がいくつも空き、時折間欠泉のように水を噴き出している。

 激しい戦いの末、フェリシィールを中心とした地形は窪み、そこはもう小さな池のような有様だ。

 そんな水量の水が攻撃のための矢となり、束縛のための網となれば、いかなる獣であろうと捕らえられるのは必死であった。それが、一般に獣に含まれる相手なら、の話ではあったが。

「ドラゴン。本当に、大したものですね」

 フェリシィールが対峙する漆黒の獣は、獣と称すにはあまりにも恐ろしい怪物であった。今なお悠々と空を飛び回る姿にダメージなど感じられない。数多もの攻撃を受けたドラゴンには確かにダメージを与えられたが、それを規格外の回復力によって回復されてしまったのだ。

 フェリシィールも使徒としての並はずれた魔力を有するため、まだ魔力には余裕が残っている。池という規模ではなく、湖ほどの規模の水を呼び出すことも、残量を鑑みれば不可能ではあるまい。

(大規模の水を使った束縛……これしかドラゴンを束縛する方法はありませんか)

 神獣を水面に抱いた池は、その水面を僅かに波立たせている。それはドラゴンの翼によって巻き起こされたものではなく、戦いの最中、密やかにフェリシィールによって立たされたものである。

 水面に波紋が広がっていく。その流れ、その輝きは、一つの儀式場。使徒の血を触媒として作られた儀式場は、行使者が両手をそっと横に差し出すことによって、一気に光り輝く。

 蒼く輝く水面は、ぼんやりとした光を発す。それは灰色の空ではなく、青空を映し出したかのような美しい光。その中央に立つ金糸の聖母は、何かを確かめるように空中に滞在するドラゴンへと鋭い視線を向けた。

「……思えば、あなたに何か罪があるわけではないのでしょう」

 漆黒のドラゴンは千年前に封印された獣。その眠りを妨げたのはベアル教であり、自分たちだ。

 魔獣は存在するだけで悪とされる。使徒が存在するだけで正義とされるように、それはこの世界には変わらない不問律である。誰もおかしいとは思わない、誰もが成長する中で常識と弁えること。それを疑問に思ってしまうのは、やはり自分がどこかおかしいからか。

 自然を予知するフェリシィールは、今言葉では説明できない感覚として、加速的に世界が歪んでいく感触を感じていた。

 本来ドラゴンを束縛するには神殿魔法クラスの魔法が必要とされるが、使徒がその魔力のほとんどを費やせば、同等とまではいわないが、相応の威力は発揮する。大気を震撼させるのは、ドラゴンの『侵蝕』の魔力ではなく、フェリシィールの『流動』の魔力であった。

「それでも、わたくしはあなたよりも人を選びます。大切な人を望みます。その自由なる翼、もがせていただきます!」

 フェリシィールの両手によって水が統制されていく。放たれる波紋は二つ。それぞれ波紋の中央から空へと上る蛇のような流動する水を立ち上らせる。二つの水の縄はフェリシィールが手を頭上に掲げることによって、その手の先の魔法陣上で合わさり、一つの大きな縄となる。

水の流れに身を任せたまえ 我が先導に従いたまえ

 最大級の束縛。最大級の儀式魔法。フェリシィールの身体から容赦なく魔力を奪いとるそれは、放たれれば最後、ドラゴンといえども泥の上に引きずり下ろす鎖――

水面に落ちる石のごと――

 ズドン、という音が、攻撃より先にフェリシィールの身体を衝撃が襲った。

「か、はっ……!」

 口から吐き出される血。遙か彼方より放たれた赤い流星は、今まさに魔法を放とうとしたフェリシィールの身体を背中から貫いた。

 放たれたのは燃えさかる炎の魔弾であったために出血量は少ない。それでも少なくない血を腹から飛び散らしたフェリシィールは、いきなり魔法の制御を崩され、その反動から意識を断つ。

 その間、放たれようとしていた頭上の膨大な水は、神秘の力を失って重力に引かれた。
 水の中へとその身を飛び込ませるフェリシィールを、上から容赦なく濁流は打ち付ける。

 大きな大きな、それこそ周りに津波じみた水害を放った波紋は、やがて止まった。

 ――オォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!

 浮かんでこない金糸の使徒を見て、漆黒のドラゴンは悠々と、水の上へと着水を果たした。









 戻る進む  

inserted by FC2 system