第十二話  視線は彼方に


 

 アサギリ・ヒズミが幼い頃から習っていた習い事の一つに、弓道がある。

 家に弓道場があったヒズミは、祖父より射法を学んだ。和弓は射法八節に始まり、射法八節に終わる、と。

 足踏みにより的に向かって足を開き、胴造りによって身体を安定させる。弓構えで矢を番え、打起しで弓を持ち上げる。そこから引き分けで弦を引っ張り弓を押し出していき、会の状態で矢は的を狙っている。狙う、ではなく、狙っているのだ。離れで弦を離して矢を射る。射ったあとの残身が最も大切とされていた。

 射法八節をここまでしっかりとやれば、おのずと矢は敵へと命中する。的を狙うのは指先ではなく、射法八節を守る心にある。これが弓道に精神が必要とされる理由であった。

 幼いヒズミは祖父の説明の半分も理解していなかっただろう。それでも、十年以上経った今でもはっきりと覚えている辺り、相当根深い場所まで根付いていたようだ。それこそ、武器を宛われる際、弓を選んでしまったくらいに。

 張りつめた緊張を解くように、ヒズミは残身を解く。
 吐き出した息は白く、今立っている場所がそれなりに高いことを教えていた。

 ヒズミが手に弓を持って立っている場所は、『ユニオンズ・ベル』の屋上部分にあたる。砦の見張り台のようになっているそこは、謁見の間の上にあたり、謁見の間から階段で出ることが可能だった。そこからは近くが一望でき、逆に向こうからは出っ張った壁の部分が影となり見えないという、狙撃に非常に適した場所であった。

 そんな場所で弓を持ってやることといえば、無論狙撃しかない。

――命中、か」

 眼下では『ユニオンズ・ベル』を守る魔獣たちの最終ラインと、聖殿騎士団の尖兵たちとの激しい戦いが繰り広げられていた。しかし、見ていてすぐにわかる。もう三十分も戦線は持つまい。

「直にこの城まで聖殿騎士たちは攻め入ってくる。その前に、やるべきことはやらないとな」

 そうなれば多勢に無勢となり、ベアル教は壊滅するだろう。ヒズミとしてはベアル教という名前が滅ぶのは一向に構わないが、大事な姉が傷つけられてはたまったものはない。『狂賢者』の作戦が発動段階になっている今、魔獣たちの肉の壁は一時間もたなくてもいいが、城へと入ってこられると面倒だ。

(こうならないために、ドラゴンの奴が門番やってるはずなんだけど)

 城の門番として守っているはずのドラゴンの姿は最前列にはなく、聖殿騎士団の本隊の中央にあった。門番である彼が直々に出て行かなければ、数十分前には城へと聖殿騎士は侵入してきていたことだろう。つまり、それだけ聖殿騎士団の猛攻は激しかったということだ。

 今は時間が欲しい。少しでも相手の陣形を崩す必要があった。

 城内部で情勢を見守っていた面々も、それぞれ遊軍として動き回っている。オーケンリッターは敵の師団長格を倒して回っているだろうし、ギルフォーデは誤情報を流してくると言っていた。

 ヒズミの役目は、この場からの狙撃。それも狙うは敵のリーダー――

「まずは一柱。フェリシィール・ティンク」

 敵軍を混乱させるのに最も適した相手は、無論敵の司令官だ。この場合は使徒フェリシィール・ティンクが該当し、彼女が倒れることは、敵軍の混乱を加速度的にあげた。

 それは使徒という、聖殿騎士団にとっての縁であり、また彼女がドラゴンを押さえ込んでいたからもある。現在彼女は水面へ沈み、そこへと降り立ったドラゴンが、使徒を助けようと駆け寄る聖殿騎士たちを根こそぎ焼き尽くそうとしているところだった。

「予定通り、混乱しているな」

 未だ城からは遠いその光景だが、ヒズミの目には細部まで映っている。

 ヒズミは元から視力が良かったが、現在は魔力によってかなり水増ししている。視線は遠く、自分が放った炎の魔弾が、狙い違わずフェリシィールの腹部を貫通した一部始終を目撃した。

 あまりに遠いために、さしものフェリシィールも事前に感知することができなかったよう。距離を数えるのも馬鹿らしいぐらいの距離が、ヒズミとフェリシィールの間にはあった。この距離で必中を成し遂げることは、いかなる弓の名手であろうと不可能だろう。

 故にヒズミが成し遂げたことには理由がある。腕ではない。それよりも重要な要素が、ヒズミの持つ弓にあった。

 燃えさかるような金属を芯として、小さな炎を弦とする魔法の弓。
 過去の使徒の力を一心に受け継いで誕生した、必中の弓――黒弦イヴァーデ』。

黒弦イヴァーデ』は魔力によって生み出した炎の矢を放つ。そしてその矢は、狙った敵を魔力が続く限りどこまでも追いかける、さながら猟犬のような魔弾である。要はきちんと狙いをつけさえすれば、当たらないはずがない矢なのである。

 勿論、色々と制約はある。距離があまりに遠いため、届かせるために膨大な時間と魔力が必要であるということや、相手の姿をきちんと視界内に捉えないといけないといった制約が。

 それでもこちらに気付いていない敵を狙い打つ武器としては、これ以上のものはないだろう。たとえ相手が使徒であろうと、無防備な背中を撃ち抜くぐらいはどうということはない。『ユニオンズ・ベル』から遙かな戦場を見渡すヒズミは、戦場にいる誰でも狙うことが可能な弓兵であった。

「オーケンリッターとドラゴンと僕がそれぞれ場を混乱させれば、儀式の終了までは余裕で持つ。だけど逆をいえば、僕らが倒れれば儀式は止まるってことだ」

 ヒズミは深呼吸をして、再び足踏みから始める。

 常ならば走っている状態からでも撃ち抜ける『黒弦イヴァーデ』であったが、さすがにこの距離があると、きちんと狙いをつけなければならない。遠くを見て狙うというのは、常の視力とは違う視界をもって狙うということだ。照準の誤差は、細心の注意を払う必要性があった。

「……姉さん」

 弓構えにまで持っていたところで、ヒズミは自分の内面へと潜り込む。

 燃え上がる炎。駆けめぐる血潮。今のヒズミの全てを満たすのは、ただ、一つの強い決意のみ。

「弱さは捨てる。僕は強い僕になる」

 滲み出る熱は燃えさかる炎の矢を具象させる。
 ただ敵を貫くことにのみ特化し、だからこそその点だけは決して他に譲らぬ、猟犬の牙を。

 火の粉が集まってくるように輝きを強め、肥大化と凝縮を繰り返す矢には、恐ろしいほどの破壊力が詰まっていた。それはこれまでヒズミが扱ってきた矢とは制御でも破壊力でも一線を画す、まさに必殺の矢――

 再び打起し、引き分けと来て、会へと持っていく。和弓ほど長くない『黒弦イヴァーデ』だったが、弾力自在の弦は、正しい形へとヒズミを導いてくれる。

 弓を引く自分は内面にあり。口元に触れんばかりの熱こそ、今の自分の心。

 必中。この自分の心全てを表す矢は必中。必ず、狙う相手へと矢は届く。

 視線の先に認めるのは、暴れるドラゴンの元に馳せ参じた、翡翠色の髪と金色の瞳を持つ使徒。狙うは心臓。格段に進化したこの一矢にも先程で慣れた。今度はもう、逃さない。

 魔弾の射手の弓は狩るべき神獣を前にして、獰猛に魔力を吸い上げる。

 そして――――今、視線は彼方に。

 ここぞというタイミングを迎えてなお、ヒズミは離さない。いや、離せない。

 感じる。感じるのだ。今はまだ遙か遠くとも、それでも着実に近付いてくる、強大無比な敵の姿を。全身を駆けめぐる血潮がそれを恐怖心として教える。ズィールから逸れ、未だ見えない敵を狙う矢の切っ先が、それを知らしめる。

 来る。来る。奴が来る。

 諦めの悪い獣が。諦めることを知らないケダモノが。これ以上ない恐ろしい男が、来る。

「は、ははっ、そうだよな。今更ただの使徒を狙ったって、しょうがないよな」

 彼はただ自分の日常を過ごすだけで、自分や姉に多大なダメージを与えた。これまで揺るがなかった当たり前を揺るがし、あまつさえ絶対と信じた計画さえ狂わせた。そんな彼が、今は一つの意志を心に決めて向かってくる。

 恐い。恐い。恐い。

 ただ笑っているだけであれだ。助けると、救うと、そう心に決めた今の彼は、一体どれだけ自分と姉の心を壊すのか。想像するだけで身の毛がよだつ。身体が震えて止まらない。

 けれど――心によって矢を構えたヒズミは、揺らぐことはない。

「この戦いを決めるのはお前だ、サクラ。他の誰でもないお前なんだ。だから――僕はお前だけを狙う。お前だけを食い止める。そういう、約束」

 万の軍よりも、長き時を生きた使徒よりなお恐い、ただ優しい少年が、迫る。

 遙か彼方から。
 希望を携えて。

「勝負だ。僕とお前の勝負。勝者と敗者が肩を並べるための、戦いを」

 だからこそ、ヒズミもまた遙か彼方に視線を向ける。希望を手に入れるために。

 虹の閃光はまだ遙か遠く――――されど逸らされることなく、視線は彼方に。

 


 

       ◇◆◇

 


 

 ズィールがドラゴンのいる現場に到着したとき、そこでは地獄が甦りつつあった。

 フェリシィールが生み出した池の近くに現在いるドラゴンは、足を地につけたまま辺り構わず炎を吐き出し続けていた。燃えるものが少ないはずの地でありながら、ドラゴンの炎は立ち向かった聖殿騎士たちの亡骸を燃やし、辺りを炎の海へと変えていく。

「くっ、フェリシィールは無事か?」

 押し寄せる熱波の前で馬を止めたズィールは、飛び降りるのと同時にドラゴンの姿を睨みつけた。

「フェリシィール聖猊下は敵の狙撃によって倒れられましたわ」

 そんなズィールの疑問に答えを返したのは、炎の壁を見事な手綱捌きで乗り越えてきた紅の髪の少女だった。

 リオンの身体は頭の先からつま先まで濡れており、彼女が乗る馬上にはもう一人、顔を青ざめさせたフェリシィールの姿があった。腹部には大きな傷がついており、血こそ流れ出ていないが、相当深いダメージを負っているのは確かだ。

「何とか救い出すことには成功しましたが、すぐにでも治療を」

「了解した」

 ズィールは近くで崩れた隊列を組み直していた騎士の一人を呼び寄せると、その彼に意識のないフェリシィールを預けた。すぐさま彼はフェリシィールを治癒ができる魔法使いの元まで運んでくれるだろう。

 できれば誰か心強い騎士に護衛のためついていって欲しいものだが、恐らくフェリシィールが目を開けていたのなら、自分のことはいいからドラゴンをどうにかしろと言ったことだろう。ズィールは暴れるドラゴンを睨んだまま、前へと手を突き出した。

「邪魔だ」

 その手の先から茶色の光が溢れ出す。眼前に立ち塞がっていた炎が避け、一筋のロードを造り出す。両端に石柱を並べた道は、まっすぐドラゴンの元まで続いていた。

 掻き消された炎を見て、ドラゴンもこちらの姿に気が付いたよう。
 総勢は白銀の騎士たちに劣れども、一騎の強さは上を行く紅い騎士の姿を。

「我々はこれより、ドラゴンの討滅に移る。諸君、準備はできているな」

「はい、万端です。聖猊下」

 紅き騎士たちの先頭へと馬を移動させたリオンが、その口元に獰猛な笑みを浮かべて騎士たちの総意を述べた。

「敵はドラゴン。神話に語られし、地獄を生み出す魔獣の王だ。自分は神の代弁者として、その存在を許すことはできん。敗走すらも許されん」

「この血にかけて、敗走などは致しません。ただドラゴンを滅する。そのためだけに、我らが紅き剣は磨かれ続けてきました」

「では、存分に歴史を語るとしよう。費やした全てが価値あるものと証明しよう。そこに諸君らの生きてきた意味があるのだとしたら、この戦いの勝利にこそ全ての価値はある」

 竜滅の責を帯びた紅き姫。
 一つの聖句に魅せられ集った勇姿たち。

 滾る血潮は受け継がれてきた責務と、これより臨む全てへ熱意を物語る。竜滅姫の目は語っている。この世に地獄は必要ないと。紅き騎士たちの目が語っている。決して自分たちの姫は死なせはしないと。

 その意志を束ねあげ、この場においては背負うズィール・シレの心に、確かな高揚が満ちていく。それは異端の教徒を神の名の下に裁いていたときでは得られ無かった興奮。

(これが主を守るため、強者に挑む騎士の高揚か)

 仰がれるべき聖猊下であるズィールにとって、それは未知であったもの。それを味合わせるほどドラゴンは強大であり、それに挑むシストラバスの騎士たちは勇壮だった。

「行くぞ。これより我らは、『始祖姫』の伝説を再現する。地獄に希望の光を――

『『我ら人に栄光を!!』』

 かつて地獄を晴らした戦場で高く告げられた、人よ諦めるなと謳う言葉。

 ――オォオオオオオオオオオオオオオオオッ!!

 それを耳にしたドラゴンは怒りで感情を塗りつぶした、呪われた咆哮をあげる。

 だが、ここに怯えるものなど誰もいない。

 たとえ未だ神話以外には誰も成し遂げていない、『不死鳥聖典』を用いぬ竜滅に挑もうとしているとしても、それでもナレイアラの火は熱く騎士たちの心に燃えている。それはドラゴンの息吹と比してなお、決して消えぬ不死鳥の炎なのだから。

 

 



「ああ、だから言っただろうに。お前よりもオレの方が長生きするって……」

 こんな光景を見ることになるだろうということは、ウィンフィールドとて覚悟していた。現にこうして今見ている光景の他に二度、すでに部下の死という形で、ウィンフィールドは戦場の常を確認していた。

 けれど……正直、これは、堪える。

「馬鹿になれれば良かったのにな、ベリーローズ」

 血塗れた少女は、瞼を閉じ、まるで眠るように倒れ伏していた。その顔はただ眠っているように見えるが、地面に吸い込まれる血の量は傷が相当深いことを示していた。これでは今すぐ治療しなければ助かりようがない。いいや、今から治療を始めてもどうしようもないか。

 だって、もう、この少女は死んでいる。
 
 致命傷を負った状態で、ベリーローズは仮死状態になっていた。恐らくは強力な毒によるものだ。それにより、心臓が止まり血が巡らなくなってなお、瀬戸際のところでベリーローズの命の灯火を残していた。

 だが、仮死状態が長く続けば死に至る。そして、仮死状態がとけた瞬間にこれでは死に至る。

 死から逃れる術のない少女……そんな少女を指して、誰が生きているといえるのか?

 ベリーローズ・フォルバッハはここで死んだ。栄誉ある死と言っていた戦場で。

「まったく、面倒くさい」

 頭をガシガシと掻いたウィンフィールドは肩に預けていた短槍を長い指で操り、八つ当たりするように周りに振るった。

 骸となるベリーローズの屍肉を求めてきたのか、周りには少なくない数の魔獣が集まっていた。いつもなら面倒くさいと誰かに任せるか、逃げるかの選択を取る数である。

 けれど――

「本当、面倒くせぇよ。お前ら」

 繰り出した短槍の切っ先は、ただの一度の無駄もなく、集まった魔獣たちの頭を吹き飛ばした。まるで刃先に火薬でも込められているのかと思うくらい、矛先が食い込んだ瞬間魔獣の頭が内側からはじけ飛ぶ。

 全ての魔獣を一撃で倒したウィンフィールドは、穂先についた血肉をそのままに、その場に残っている生者の気配へと殺意を向ける。

 そこには魔獣ではなく、巨人を従えさせた一人の男が立っていた。

「あ?」

「ん?」

 突きつけて、これまで以上に面倒くさそうに口を曲げた。

「おやおや、私の顔になにかついてますかねぇ。初対面のはずなんですがぁ」

 ひょっこりと気配も薄く忍び寄っていたのは、いかにもという怪しい男であった。小柄で目の細い男であり、そしてウィンフィールドはその顔を知っていた。

「……ボルギネスター・ローデ。それに、ギルフォーデ・シーデングか」

「ほぅ?」

 男――ベアル教の人間であるギルフォーデの細い瞳が、興味深げに見開かれた。
 小さな眼孔は強烈な光を放っており、並の人間ならそれだけで腰を抜かしていたことだろう。

「これは驚きですねぇ。成果のほどを見に来ただけの戦場で、まさか私の顔と名前を知っているお方と出会うとは。ちなみに、私のフルネームもご存じだったりしますぅ?」

「ギルフォーデ・レブラス・ジ・シーデング」

 淀みない口調で、ウィンフィールドは答える。

 名前と家名の間にミドルネームを挟む風習があるのは、エンシェルト大陸では北のジェンルド帝国、その中でも貴族のみである。ウィンフィールドはこの男と初対面だったが、ギルフォーデが北のジェンルド帝国出身であることは知識として聞きかじっていた。

「まさか、フルネームを言える方がいるとは。それ、とても珍しいことですよぉ」

 しかし、ギルフォーデに興味を持たれるのはそれだけで十分だったらしい。

「ばっちりです。完璧ですねぇ。ギルフォーデ・レブラス・ジ・シーデング。ええ、私の本名です。いやね、知ってます? この本名を知ってるのって、本当に限られた人間だけなんですよぉ」

 飄々とした気味悪い態度の中に混ざる殺気。
 暗殺者が自分の本当に触れてしまった者に向ける、それは本物の殺意。

 それを見て取って、ウィンフィールドは突きつけた槍を肩へと戻した。

「あんたがここにいるのはちょうどいい。悪いけど、ちょいとここで倒れている子供を助けちゃくれないか?」

「…………いやはや、本当に興味深い方ですねぇ」

 くいっと、虫の息のベリーローズを顎で示せば、ギルフォーデはどこか困惑したように目を細めた。それだけで、強烈な眼光を放つ瞳は姿を隠す。

「確か、そこに倒れている少女は第八師団長のベリーローズ・フォルバッハでしたよねぇ? どうやら我らが同士の行っている行為の餌食となってしまったようで」

「ドラゴンが現れた混乱に乗じて、コム・オーケンリッターが指揮官クラスを始末していってるのか?」

「さらりとそんなことを言わないで欲しいものですが。まぁ、その通りです。しかしどうして彼女を刺したのがコム・オーケンリッターだとお分かりで?」

「簡単だろ? その傷は毒の魔槍で穿たれたものだし、何より強いベリーローズが一撃だ。それはもう、敵の中で最強のコム・オーケンリッターの仕業としか考えられない」

 探るようなギルフォーデの質問に、飄々とウィンフィールドは答える。

「で、助けてくれるのかくれないのか、どっちなんだ? 世界最高の治癒術師」

「世界最高の治癒術師、ねぇ」

 ギルフォーデ・レブラス・ジ・シーデングの名は、ジェンルド帝国の黒歴史として闇に葬り去られた。

 かの帝国貴族は魔法使いの才覚に溢れ、なおかつ人体の構造に誰よりも熟知していた。故に、最高の治癒魔法を扱う魔法使いとなり、宮廷に皇族の主治医として召し抱えられた。

 研究肌だった彼が名誉ある地位を手に入れてまず行ったのは、さらなる治癒魔法の発展。そういえば聞こえはいいが、実際に彼が行ったのは死体解剖である。死体を解剖することによって、人体の秘密を探ろうとしたのだ。

 それが死体だけであったなら、まだ良かった。少なからず、死者を使うことで生者を生かすという彼のやり方は認められていた。けれど、彼はやがて機能を停止した死体では満足できなくなった。本当の人体の秘密を探るのなら――それは生きた人間でなければと考えたのだ。

 そこから先は語るまでもない。

 最高の治癒魔法を扱った魔法使いは、死んですぐの鮮度の高い死体を解剖し、それにも満足できなければ人間を生きたまま解剖し、自らの研究を掘り下げていった。彼は人を治すことに熟知していくにつれ、血に濡れていった。人を生かす術とは反対の、人を殺す術に長けていったのだ。

 無論、栄えある帝国貴族の、それも皇族の周りにいる人間としてそれは許されない行為。彼は地位を剥奪され、さらには家も取りつぶし。その後、秘密裏に処刑されたと言われ、その名を口にすることもタブーとされた。

 しかし、本当はまだ生きているという噂もあった。

 かの狂気の医師は、宮廷お抱えとしての最後の最後、当時帝国にて軍事開発に従事していたディスバリエ・クインシュと何度か会っていたという目撃例が残っている。そのため、追放された『狂賢者』と共に彼もまた逃げたのではないかと、そうまことしやかにささやかれていた。

「そうですねぇ」

 それは果たして、正しかった。今目の前にいるギルフォーデは、あの狂気の天才治癒術師ギルフォーデ・レブラス・ジ・シーデングと同一人物であった。

「いや、あなたわかってます? 一応私はベアル教側の人間なのですから、聖神教側の師団長である彼女を助ける道理はないわけです。その辺り、何か納得できる理由があれば、助けることもやぶさかではないのですがぁ」

――オレが命じられたのは、聖神教内部の情報を探ることだ」

 ギルフォーデのその問いを待っていたように、ウィンフィールドは口を開いた。その表情は、凍りついた人形のような顔。

「しかし、あそこで上に行こうと思ったら信仰心が必要となる。それがオレにはなかった。聖殿騎士団の小隊長、それが精一杯だ。そんなオレが任務を果たすためには、何か情報源が必要だ」

「それが彼女だと?」

「そうだ。ここまで親密な関係になるのに、オレは長い時間を費やした。それを、今更崩して欲しくはない」

「…………なるほど」

 思惑を感じさせない無表情を見て、ギルフォーデはにこやかに笑った。

「はい、わかりましたぁ。そういうことでしたら助けましょう。あくまでも指揮官を始末することによって混乱させようという作戦でしたので、殺さなくても、この聖戦中目覚めなければいいだけの話ですからねぇ」

 ギルフォーデはウィンフィールドの視線に晒されつつ、倒れたベリーローズに近付いた。

「あらら、確かにこれを治せるのは私くらいのものですねぇ。治す、とは言えないかもですがぁ」

 ギルフォーデは傷の詳細を確認したあと、傷口に手を向ける。その先に輝くのは青色の魔法陣。生命を司る水の色。

「そういえば、一つだけ聞いていないことがありましたねぇ。あなたのお名前、なんていうんです?」

 魔法陣を組み立てつつ、ギルフォーデは問う。
 彼の魔法が本当にベリーローズを助けるか否かは、自分の返答次第というわけだ。

「……本名を名乗るのは禁じられているんだがなぁ。面倒くさいことになった」

 氷のような表情を消して、いつもの面倒な表情を浮かべた男は、名乗る。

「ウィンフィールド――ウィンフィールド・グランヌス・イコルス・リ・ジェンルドだ」


 

 

       ◇◆◇

 


 

 炎の壁を踏み消して、紅き鎧を纏った騎馬隊は駆け抜ける。

 挑むは巨木のように『封印の地』にそびえ立つ、堕天使の翼を持つ漆黒のドラゴン。タイミングをずらして、いったん四方に分かたれたシストラバスの騎士たちは、四方から一斉にドラゴンの足下目がけて押し寄せる。

 その手に握るのは剣や槍。そのいずれもが刀身を眩い紅に染めている。

 まさに紅き竜滅剣を握っての疾走は、地上を駆け抜ける一陣の矢。
 乱れることなく突き進む鏃は、対応に遅れたドラゴンの隙を見逃さず、その足へと刃を走らせた。

 ドラゴンが纏う『侵蝕』の壁は、『竜滅』を帯びた紅によって切り裂かれ、その先にあるもう一つの防御へと突き刺さる。固い鱗の壁は何ものも通さずと内側より張りつめるが、それでも勢いよく、それも数度に渡って同じ所を切り裂かれれば、防げるものではない。

 それぞれ押し寄せた矢が、勢いをそのままに再び炎の壁へと消えていく。

 残されたドラゴンの二つの足首には、深々とした傷が都合四本つけられた。
 悲鳴じみた奇声をあげる代わりに、ドラゴンは一つの方向へと炎のブレスを放つ。

 轟、と大気すら焼き焦がす火球が放たれたのは、奇しくも最も重要度の高い竜滅姫であるリオンが先頭で駆ける騎馬隊だった。

「総員。回避し、そのまま反転。もう一度行きますわよ!」

『了解』

 背後から迫る炎に怯えることなく、一糸乱れぬ動きで騎士たちは馬を走らせる。馬たちも乗り手に見合った勇敢さで、炎に動じることなく、回避するルートを蹴り上げる。

 凄まじい熱波をばらまきながら炎が地面を溶かす。それでも直接当たらなければどうということはない。そのときにはすでに再びドラゴンへと向かう体勢を整えていたリオンたちは、前方と左右からそれぞれ騎馬隊が現れるのを見て、再びドラゴンの足首へと刃を向ける。

 先程と今のタイムラグは一分にも満たない。一度経験したとしても、やはりドラゴンは咄嗟に動けなかった。再び足首を切り裂かれたドラゴンは、今度こそ確かな悲鳴をあげた。

 しかし、二度にわたる傷を足に刻みつけられても、巨体のドラゴンは倒れたりはしなかった。口から怒りを発露させながら、炎へと突入する騎士たちを睨む。――否、ドラゴンが殺意を向けるのは、シストラバスの騎士の中にあっても、ただ一人だけ。

「私を狙ってますの?」

 殺意の矛先を炎弾として撃ち放つドラゴンに狙われていることを、張本人であるリオンは背筋を撫で上げる怖気から感じ取った。

 シュラケファリの手綱を引き、リオンは背後から迫る炎弾の回避を測る。先程よりも発射までのタイムラグの少ない攻撃は、先程よりも回避が難しかった。すでに他の騎士の面々も隊列を一度崩して、バラバラになって避けるコースに向かっている。

「上等。以前の借りでも返したいのかしら? それとも――私の血に怯えてまして!」

 勇猛なるシュラケファリは柔軟にして鋭い奔りで、容易く炎弾の直撃も、その余波の熱風さえ避け旋回する。速度を落とさずドラゴンへと向き直ったリオンの背後に、それぞれ傷一つない騎影が再び集う。

 一直線となって疾走する紅き矢。鋭い雄叫びは炎を切り裂いて、三度ドラゴンへと肉薄する。

 しかし、さすがにドラゴンも学習を終えたようで、先程のようには行かなかった。炎から出てきた四つに分かれたシストラバス家の騎士に向かって、ドラゴンがその場で一回転するように身をよじる。

「総員。回避!」

 その質量で大地を抉って、今まさに横から叩き付けられようとしているものが、当たれば一巻の終わりとなるドラゴンの尾だと、以前にもこのドラゴンと戦ったことのあるリオンは気付き、背後の騎士たちに回避行動を取らせた。

 リオンの指示通りに、背後の騎士たちは攻撃を取りやめ、それぞれ旋回し、炎が目隠しとなってくれる場所まで下がる。そんな騎士たちに背を向けたまま馬を走らせるのは、他でもない回避の指示を出したリオンであった。

「行けますわよね、シュラケファリ」

 信頼をこめて愛馬に尋ねれば、子馬だった頃より共にあった彼女は『当然』と答えるように嘶き、疾走の速度をあげる。

 そのまま、迫る尾をシュラケファリは跳躍することによって回避した。

「はぁッ!」

 大きく跳躍してドラゴンの腹部の横を通り抜けるシュラケファリの馬上から、リオンは大きく剣を振る。馬上から振るわれた強烈な斬撃はドラゴンの腹部に鋭い傷をつけ、これまで二本足で立っていたドラゴンに手をつかせ、四本足への変更を余儀なくさせた。それは三度ドラゴンの足へと攻撃を喰らわせた他のメンバーとの協力がなしたことである。

 ドラゴンには大きな傷がつき、その足では地上戦は不利となろう――それほどまでに深く酷かった傷が、そのとき、内側から筋肉が張りつめるように肉によって塞がれた。

(相変わらずの再生力ですわね)

 着地と同時に再びの疾走。すぐに先程離れた隊と合流を果たしたリオンは、完全回復を果たしたドラゴンを見やった。予想外の攻撃にこちらの姿を見失ったのか、キョロキョロと首を回しては、あらぬ方向にブレスを放っている。

(攻撃力。耐久力。再生力。これに付け加えて鋭い気配察知と、人を追い込む謀略が使えたなら、とてもではないですけど勝ち目は極微少になってしまいますわね)

 勝てないとは決して心の中でもいわないリオンは、戦士としての冷静な分析から、ドラゴンが最強であっても、つけいる隙もない無敵でないことに感謝する。
 確かに一撃必殺の攻撃力、攻撃をほとんど無効化する耐久力と再生能力には舌を巻くが、それでもドラゴンがあくまで動物的本能で戦うというのなら、連携攻撃を上手く使えば勝機はある。

 ヒットアンドアウェイ。ドラゴンに対して接近戦はあまりに無謀だと、以前対峙したリオンは身にしみてわかっていた。全てのタイミングで死が隣り合わせの接近戦は、別の方法があるのなら取るべき上策ではない。
 以前はその身から血を採取することが目的であり、時間もなかったためにああした方法を取ったが、今回は倒すことが目的であり、逆に時間を稼がないといけなかった。

(ドラゴンは首を断たれても、心臓を貫かれても死なぬ異物。ですけど、ナレイアラ様とメロディア様は滅することができた。ナレイアラ様は竜滅の御力があったがために成せたとして、ならばメロディア様が竜滅を行えた理由は?)

 決して死なぬドラゴンを殺す方法として、『不死鳥聖典』以外で唯一考えられる方法は、メロディアがそうしただろう魔法を用いての竜滅以外にはあり得なかった。

(ドラゴンを倒す秘策。それは単体破壊において、最上級の力を行使すること)

 前もって打ち合わせを行った結果、出た結論はそれだった。ドラゴンを倒すには世界に多く存在する魔法の中でも、最強の魔法を用いるしかないと。儀式魔法では通じない。それよりも上の神殿魔法でなければならぬ、と。

 リオンたちの役割は、今刻々と世界に対して刻まれている神殿魔法が行使されるまでの時間稼ぎだった。悔しいが、未だ自分たちのドラゴンスレイヤーではドラゴンは殺せない。勝機を託すのは、ドラゴンに対をなす神獣しかなかった。

「ズィール聖猊下が魔法を完成させるまで、私たちがなすべき最善を尽くします」

 ドラゴンが世界を汚す魔力を放出しているのなら、今戦場の一角から舞い上がりつつある魔力は、世界を癒す魔力。

 翡翠の使徒の秘策たる、特異能力にして神殿魔法――[時喰らい]の胎動であった。

 リオンは着実に進められている秘技の結実を迎えるために、自ら囮となる決意を固める。ドラゴンが自分を狙っている理由が、竜滅姫にあるのか、それとも別に理由があるのか、それはこの際関係ない。成すべきことのためならば、ただ利用するのみだ。

「私たちの隊はこのまま撹乱のために動き回り、ドラゴンの注意を引きつけますわ。総員、遅れたら置いて行きますわよ!」

「それは勘弁してもらいたいものですね。そんなことになってしまえば、我々は先達に会わせる顔がありません」

 隊の騎士の中、比較的飄々とした性格の騎士が軽口を返す。
 リオンはよくぞ言いましたわと口端を吊り上げ、下げていた剣を高く持ち上げた。

「私たちが『不死鳥聖典』を使わずに竜滅を行えたなら、ズィール様がおっしゃられたとおり、先達たちの探求が無意味ではなかったと証明することになりますわ。その剣にかけたものを価値あると思うなら、精々私を守ってみせなさい」

「全力で。それが我々、紅き剣の騎士の存在意義であるのですから」

 自分が守護の対象とされている自覚を持っていたリオンの言葉に、脇を固めていた騎士エルジンが厳かに頷いた。迷っていたところを、最愛の娘に背中を蹴り飛ばされてやってきたという経緯を持つ彼に追随して、他の騎士達も静かに頷いた。

 それぞれの想いと、それぞれが背負うもの。それを見つめて、リオンは声を張り上げる。

「それでは――ここから先、誰一人として死ぬことは許しませんわよ!」

 囮となるということは、これまで以上に危険度は上がる。それはドラゴンを相手にする今、死亡の可能性が相当なものになるということ。

 シュラケファリの手綱を強く握るリオンは、高くかかげた剣の切っ先に、自らの想いを集めるように意識を合わせる。燃える炎の光を受けて、切っ先は白く眩い光を映す。

「行きますわ!」

 その光で炎を切り裂いて、再びリオンたちは紅き矢となってドラゴンへと突き進む。

 胸には確かな脈動が。それは神獣の胎動と合わせ、時と強く、激しく、高鳴っていく。

 


 

       ◇◆◇


 

 

 ユーティリスはクレオが推すだけのことはあり、なるほど、確かな名馬であった。

 乗馬の経験も少なく、基本的にしがみつく以上のことができないジュンタではあったが、ユーティリスはそんな乗り手の事情を察したように、まっすぐ、たとえ魔獣と遭遇しても決して相まみえることなく走り続けた。

 勇猛なる白馬の前に障害はなく、その後ろにはもうもうと砂埃が立ちこめるのみ。長く地平線の彼方まで、力強い蹄の後は刻まれていた。ジュンタの『侵蝕の虹』に支えられた疾走は、疲れを見せぬ機械の騎馬のように衰えを知らない。
 
 そうして走り続けてどれくらいの時間が経っただろうか?

 ジュンタは肌が総毛立つ、どこか懐かしくも思える気配に近付いていることを感じ取った。
 自分の本質と同じドラゴンがすぐ近くで猛っていると、ジュンタは現場に到着する前に気が付いた。

 実際、その光景は、決戦の様子に先んじて瞳に映りこんできた。

 地平線をまっすぐに貫くような炎の線。大地が揺らぐような陽炎は、その炎の向こうに影としてゆらぐ灰色の城の方から届くもの。同じ『封印の地』の中でありながら前線基地とはまったく違う。目と鼻の先に迫ったのは、掛け値なしの戦場であった。

 その中で毒々しい魔力を放出する、黒い影。
 まるで風景画の中にどす黒いインクが垂らされたかのような異物が、確かにそこにいる。

「堕天使の翼を持つドラゴン。戦っているのは、リオン達か」

 細部を確認するほど近付く前から、ジュンタにはそのドラゴンの影が、以前にも見た意味深な発言を重ねた、人語を理解するドラゴンであるという確信があった。

 理性的な言動とは裏腹に、暴虐的な本能と力を有する正真正銘の怪物。あれを目の前にすれば自分の命を繋ぎ止めるだけで精一杯だというのに、こともあろうに今回の目的は倒すことにあるという。正気沙汰ではなく、それをなせる唯一の方法は死を伴うだろうというのに――

「ああ、リオン。お前は勝つだろうさ」

 ジュンタの心に不安はない。あるのはただ、好いた人への信頼だけ。

 目に映るのは何も戦場のむごたらしさと、ドラゴンの恐ろしさだけではない。
 目に見えないほどの極小ながら、そこで必死に戦っている人たちの輝き。見惚れるほどの紅い輝きが、ジュンタの目には確かに見えた。

「ユーティリス。行けるか?」

 一度たりとも止まることなく、それどころか速度も弛めなかった白馬は軽く嘶いて、蹄を強かに大地にぶつける。そこに魔獣の王を畏れる様子は微塵もない。

 ユーティリスの疾走は最初から最後まで、ただの一時も緩むことはなかった。

 そう――最後のときまで。

 どこにそんな力があったのか、そのときユーティリスの駆ける速度が上がった。まるで筋肉が収縮するように一瞬のためがあったかと思うと、加速装置でも爆発したかのような加速に入る。

「っ!」

 ジュンタは思わず掴んでいた首から手を外してしまい、空中に投げ出される。
 しかし飛んでいく先は後ろではなかった。最後の最後、ユーティリスは首を捻ると、ちょうど投げ飛ばすかのようにジュンタを前へと弾き飛ばした。

 地面に落ちるまでの一瞬が、すごくスローモーションに見えた。

 まず見たのは、ユーティリスの穏やかな瞳。最後まで役目を成し遂げ満足したような、けれど目的地まで連れて行けなかったことを悔やむ、そんな瞳。

 次に見たのは、押し寄せる熱波の赤。彗星のように飛来した炎の弾丸が、白馬の足に命中する。

 最後に見たのは、爆風に煽られて倒れ伏す勇敢なる騎馬の姿。最後までその足は止まることなく、前へ、前へと進んでいた。

 背中を強く打ち付けたジュンタは、地面の上を滑るように転がる。
 直後、時間が元に戻ったかのように、突如として響く轟音。一瞬にして馬一頭を包み込んで炸裂した魔弾は、地面を大きく抉るほどの威力だった。

 間違いない。今のは炎の魔弾。ヒズミが持つ『黒弦イヴァーデ』の攻撃だ。

――ありがとう。ユーティリス。よく、がんばってくれた」

 小さな嘶き。立ち上がったジュンタはここまで付き合ってくれたユーティリスに感謝の念を贈り、ゆっくりと鞘から双剣を引き抜いた。倒れたまま動かない彼女の想いを汲み取ればこそ、今は目指すべき場所を目指さなければならない。

 すでに見えない虹が身体全体を覆い尽くし、双剣が握られると共に、それは可視の虹へと変化する。

 双剣の切っ先は虹を束ね、周りの空気を帯電させる。パチリパチリと虹色のスパークは起きて、

「行くぞ。ヒズミッ!!」

 それは輝く尾となって、雷光となって地上を駆けるジュンタの後を、必死に追いかけていく。

 


 

 ついに魔獣の肉壁を突き抜けて、一人の聖殿騎士が『ユニオンズ・ベル』へと辿り着く。

「これは……っ!」

 そこで彼が見たものは、外見からは想像もしていなかった城の姿であった。

 朽ちて打ち捨てられた灰色の外壁と同じく、内装に用いられている石などは同じだった。けれど、視界一杯に広がるのはくすんだ灰色ではなく、

「一体、誰がこんなに血を……!」

 赤い。視界が赤い。世界が赤い。

 床、地面、天井問わず、一面にぶちまけられた赤いそれは人の血液であった。ところどころピンク色の肉片が散らばり、踏み砕かれた白骨や潰された臓器の類も垣間見られる。鼻を突き抜ける強烈な死臭は、これらがまだ真新しいものであることを教えていた。

「先に足を踏み入れた騎士達の末路、なのか……?」

 男は自分が一番槍を果たしたわけではないことを悟っていたので、すぐにこれらの血が誰のものであったかを悟ることができた。凄惨な光景に顔を顰めつつ、しかしこれまで聖殿騎士として戦ってきた自尊心から恐怖で足を止めることなく、城内部へと足を踏み入れた。

 長く続く廊下へと足を踏み入れた彼は、油断なく槍を握りつつ、辺りをうかがう。

『封印の地』の独特の空気と、あまりに強大すぎるドラゴン、多すぎる魔獣などの気配から、何かの気配を察知することは非常に難しくなっていた。一瞬の油断が命取りになる気がして、否が応にも緊張感が高まる。

 研ぎ澄まされた五感は、まず一面にぶちまけられた血が、この外からの入り口付近にのみ固まっていることを確かめさせる。薄暗い通路の先は灰色だけがのぞいていた。

 それが意味していることは、城へと足を踏み入れた騎士のことごとくが、ここで息絶えたということ。この近くに、敵が、潜んでいる……?

 ピチャン。と、足を踏み出した騎士の一歩が、床に溜まった血に触れる。


――ようこそ。『ユニオンズ・ベル』へ」


「誰だ!?」

 そのとき声と共に潜んでいた敵は現れて――そのときにはすでに、彼の命運は尽きていた。

 暗がりからゆっくりと進み出てきたのは、予想だにしていなかった人物であった。

「スイカ・アントネッリ……聖猊下?」

 一介の聖殿騎士である彼であったが、それでも聖殿騎士である以上、世間にはあまり浸透していない最も新しき使徒の顔は知っていた。果たして、姿を現したのは金色の瞳を持つ黒髪の使徒――スイカ・アントネッリであった。

 ……いや、目の前の彼女は、本当にあの使徒様なのだろうか?

 跪くべき使徒の突然の登場に、男は目の前の彼女が、最もこの凄惨なる現場を作りだした下手人である可能性が高いことを忘れてしまった。男の高い信仰心が、このときばかりは災いした。

「ありがとう。ここに来てくれて。足りなかった。まだ、まだ、足りなかったから」

 困惑と畏怖によって動きを止める男に、黒曜の使徒は近寄っていく。ズルズルと、何かを引きずる音が一緒に聞こえた。

「全然、足りない。ここには水がないから、わたしは、隠せない。隠さないといけないのに、ヒズミが心配なんてしないでいいように、もっと、もっと隠さないといけないから。足りない。足りない。足りなかったから、とてもありがとう」

「せ、聖猊下……?」

 なんだと思って視線を向ければ――そこで、見てはいけないものを見てしまう。

「なっ!?」

 それは首を引き裂かれた男の死体。白銀の鎧を身に纏い、どこか喜んだ顔で絶命した、仲間の死体であった。
 
 驚いた男は反射的に下がろうとして、しかし下がれない。
 こひゅっ、という乾いた呼吸音だけをもらして足下をみれば、足下で血溜まりを作っていた血が、ジェル状になって自分の足を束縛している瞬間を確認することができた。

 いや、束縛どころの話ではなく、血は男を足先から囓っていた。咀嚼していた。その内に無数の口と牙をもって、男をしゃくしゃくと喰らっていた。

 生きているように動く血は、近付いてくる使徒の少女の足もとから伸びていた。まるでこの血そのものが身体の一部とでもいうかのように、黒曜の使徒はズルズルと血色の影を引きずりながら近付いてくる。

「ようこそ。ありがとう。それじゃあ――

 床から、壁から、天井から、いくつもの『口』が降り注ぐ。

 取り込まれていく身体に、常軌を逸した瞬間に、騎士は悲鳴すらあげられない。ただ、目と鼻の先に迫った金色の瞳がとろけるような悦びで輝いているのを見て――その顔に、小さな笑みを浮かべた。


――――いただきます」


 咀嚼音が生々しく響く。
 少女の鮮血の影が、獣の姿に揺らめく。

 地獄の炎を瞳に込めた、終わりを告げる、獣の王の姿に。









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