第十三話  見せない強さ


 

 ドラゴンに戦いを挑むのに必要なのは軍ではない。数を揃えればいいというものではない。必要なのは個の質であり、それは足止めするのにも同じだ。

 数は最低限でいい。どれだけドラゴンに傷を与えようと、その傷は速やかに回復される。ドラゴンスレイヤーによってつけた傷は若干回復の遅延が見られるも、さした違いは感じられない。

 回復力はドラゴンの魔力が尽きるまで行われるといわれているが、ドラゴンの魔力保有量は世界最高峰のもの。よって燃料切れは狙うべきではない。そもそも魔力がなくなっても、心臓や頭を潰しても死なないというのだから、そこには魔力以上の何かがあって然るべきなのである。

 必要なのは個の質だ。ドラゴンを前にしても畏れず挫けず、自らを守って生き抜くことが必要なのだ。

「……シュラケファリ。あなたはここまででよろしくてよ」

 軽やかに愛馬の背中より降り立ったリオンは、疲れ果ててなお主に尽くそうとするシュラケファリの背をそっと撫で、炎の熱が当たらない場所まで避難させた。

 幾度となく炎の壁を突っ切ってドラゴンまで駆け抜けてくれた愛馬は、もうこれ以上ドラゴンの攻撃を避けることは叶わないだろう。それは同時に乗り手も危険となる……そういう問題ではなく、頼れる愛馬を失いたくない一心から、リオンはシュラケファリを行かせた。

 未だ消える気配の見せない炎に囲まれながら、煤で少し汚れた頬をリオンは擦る。乾いた唇を舐めて濡らし、舐めてからちょっとはしたなかったかと頬に朱を入れた。たとえ誰が見ていなくとも、自分の行いを恥じることができるのはリオンの美点であった。

「さて」

 いつかのランカでのドラゴンとの遭遇時のように、高い炎の壁によってリオンたちシストラバス家の面々は分断を余儀なくされていた。

 視界は赤く、酸素も乏しい中、見えるのはベアルの城とドラゴンの姿だけ。

「相変わらず、あのドラゴンには手加減されてる気がするのはなぜでしょうね」

 以前にもリオンは堕天使の翼のドラゴンと戦ったことがあり、そのときも感じたことだが、あのドラゴンは普通のドラゴンとは少し違うような印象があった。

 ドラゴンは獣であり、人を襲う行為は本能的な行為であるといわれている。人を見れば見境なく殺し尽くそうとする暴虐的な攻撃本能。それこそがドラゴンを厄災たらしめる要素であると。

 しかし、今目の前に立ちはだかるドラゴンには、自分を敵意ある視線で射抜いてくるのとは別で、どこか手加減をしているように感じられた。それは空を飛ぶことをしないからか、あるいは戦場全てを破壊するような息吹は吐かず、あくまでも個を撃破する程度の火球しか吐かないからか。

 どちらにしろ、命からがら攻撃を避け続けたリオンとしては、あのドラゴンが自分を殺そうとしている確信を持つまでに至ったのだが。

「……それが事実だとしたら、甚だむかつきますわ」

 リオンは剣を構えて、敵意の視線でドラゴンを射抜く。

 気怠げにその場を動こうとしないドラゴンであったが、さすがにその殺意には気を引かれたのか、あるいは纏った竜滅の魔力に感付いたのか、長い首をもたげ、大きな口をリオンに向けた。

(来る!)

 炎が吐き出される前に、リオンはその直線上に重ならないルートを駆け抜ける。

 背後で爆発する炎の勢いを剣に乗せて、まずは突き出すように前方の炎を薙ぎ払う。
 速度はそのままに、リオンは剣を斜め後ろに構えつつ、ドラゴンの前へと踊り出た。

 そこで目にしたのは、自分と同じように騎馬を失いながらも、畏れることなくドラゴンへと挑む戦友たちの姿であった。即席の隊列を組み、ドラゴンへと襲いかかる。リオンは口元に笑みを浮かべて、騎士たちの攻撃の中に自らの斬撃を合わせた。

 強かにドラゴンの鱗を切り裂くリオンのドラゴンスレイヤー。さらにそこへと連続で他の騎士たちの斬撃が届く。

 リオンは視線を足下に寄越したドラゴンの鮮血の瞳を、至近距離から見た。

 そこには憎悪はない。そこにあったのは迷い。
 なぜ、そんなにも戸惑っているのか。戸惑いつつも敵意の牙を向けるのか。リオンはドラゴンの手を踏み台にして、その肩へと思い切り剣を振り下ろした。

 着地の際、ついでだともう一撃手首に攻撃を加え、他の騎士たちの邪魔にならないよう素早く下がる。首を振り回しながら炎を吐き散らすドラゴンにより、空から炎の雨が降り注ぐ中、他の騎士が攻撃に専念できるように仲間に当たりそうな炎はドラゴンスレイヤーで打ち消して回る。

 ドラゴンが再生能力を持っているのなら話は簡単だ。相手の再生スピードを凌ぐ質と量の攻撃を加え続ければいいだけ。今はまだ攻撃と再生速度が釣り合っているが、それはまだ自分を含めた騎士たちが、様子見の段階で戸惑っているからだ。すぐに騎士の剣は、その質と規模を何倍にも変えよう。

 何か指示を飛ばす必要もなく、リオンとシストラバスの騎士たちは、見事なコンビネーションで動いていた。

 一人が攻撃をすれば、そこへともう一人が攻撃を加え、繋げるようにさらなる斬撃が見舞われる。たとえ一人に向けて炎を吐いたり、尾で薙ぎ払おうとしても、反対側に展開した騎士たちの攻撃は終わらない。

「私たちを誰と心得ていますの」

 また一人、一人と炎の中より剣を輝かせて紅き騎士が馳せ参じる。
 畏れることのない瞳で。消えることのない不屈の炎を胸に灯して。

「私たちを、誰と心得ていますの!」

「我らは不死鳥の騎士団ッ!」

 リオンの斬撃のあとに攻撃を見舞った騎士が、吼える。

「我らは竜殺しの紅き剣ッ!」

 その次に突きを放った騎士が、吼える。

「我らは騎士姫の下に集う、不滅の騎士ッ!」

 炎より抜け出た騎士が、ドラゴンの足の肉を半分ほど断ち切りながら、吼える。

 最後に――反転して戻り、その剣に炎を纏わせたリオンが炎の弧を描きながら、鋭い鎌を思わせる動きでドラゴンに肉薄する。だが、騎士の攻撃を受けてなお、リオンのみに固執するドラゴンが尾を大きくくねらせた。

 まさかの反撃にリオンの回避は間に合わない。当たれば最後、全身の骨を砕くだろう一撃を前にして、リオンは悲鳴をかみ殺す。

 迫る殺意の尾。だが、その前に立ちふさがる者がいた。

 全身の筋肉を収縮させ、左手一本で大剣を振るう。ミチミチと張りつめる筋肉の束は赤熱に燃えるように膨張し、渾身の力を生み出した。

 叩き付けられる斬撃が、恐ろしいドラゴンの尾をも食い止める。
 砕け散ったドラゴンスレイヤーの欠片の中、守りきった姫を振り向くことなく、騎士は言った。

「我らは誓いに魅せられた、ユメを見る者」

 騎士エルジンの背を見て、リオンは戦士の喜悦に居ても立ってもいられず、再び叫んだ。

「私たちを、誰と心得ていますの!」

 尾を踏みつけ、スタート台に変えて飛び込みながらリオンは剣を振り抜いた。

 正面で着地をしたリオンの背後で、ドラゴンの巨大な足が高々と宙を舞う。

 その空中に、緑の風を巻き起こす紅き騎士の姿がある。

 手には飾り紐のついた紅き剣のナイフ。渦巻く風がエプロンドレスの裾を揺らしている。周りからかき集められた酸素は炎から切り離され、見えざる巨大な一筋の線となって大気を揺らしていた。

 竜滅の炎を燃え上がらせる、封印の風を呼ぶ騎士は、眼下で紅き姫が大きく上段にドラゴンスレイヤーを振りかぶるのを見て、小さく微笑んだ。

「ドラゴンに挑む我らこそ。千年のユメを継承する、紅き騎士の末なれば――

 姫に奉じられた血の声と剣。
 飛び立とうとしたドラゴンの身体を、紅き騎士が縫い止める。

「そう、私たちこそ! 希望を担うと誓った、シストラバスの騎士ですわ!!」

 歴史と血の責務を刃に託し、リオンは思い切り振り下ろす。
 
 大気が切り裂かれ、紅の刀身が空を割る灼熱の塊となる。
 紅蓮を撒き散らすシストラバスの魂。炎の大斬撃が、ドラゴンの翼を斬り飛ばした。

 

 


 

 十メートルを超えた斬撃の炎を目の前にして、ドラゴンの胸中には過去の情景が飛来していた。

 そう。あれはいつのことだったか……。

 燃えあがる炎の髪。冷たさと凛々しさを合わせ持った金色の瞳。
 その手に優美な長剣を携え、誰よりも勇敢に、あるいは自分を省みることなく、絶対に死なないという自負を持った不滅の姫。

 携える紅の剣はあらゆる魔を切り裂く。それは魔獣の王とて例外ではない。

 彼女が剣を振るうたびに、斬撃以上の破壊が身体を駆け抜ける。
 全身から力が抜け、心から悪意が抜け、まるで自分の存在そのものを切り裂かれているような錯覚。

 いつだってその背は希望となっていた。彼女は自覚なくその背に、希望の炎を胸に灯した騎士の軍を引き連れていた。

『救世の軍勢』――それを率いる神の眷属が一柱。
『魔法使い』、『聖巫女』に並ぶ『騎士姫』――真紅の髪と金色の瞳をたたえた、美しい女。

 ああ、そうだった。今、その姿を思い出した。

 誰よりも矛を交えた不滅の紅騎士。この腐りきった頭はそれを忘れ去っていたが、その面影を残す女と、彼女を信じて戦う騎士たちを見て、思い出した。

『ああ、これぞまさしく、我が怨敵たる救世の旗頭が一人の姿だ……』

 同情すべき存在は言った。自分の目的に協力して欲しい、と。
 自分は答えた。それがヒトとして最後に欲した夢ならば、と。

 誰よりも美しい紅き髪と瞳をもった女を殺せと命じられたときは、この身の破壊衝動のままに殺そうと思ったが……今はそんなことはできない。たとえ彼女ではなくとも、彼女と同じ輝きを持つ彼女には、全力を賭して挑む価値がある。

『怨敵よ。『騎士姫』よ。今この千年の果てに、あの日の決着をつけようぞ!』

 ドラゴンのみ通じる歓喜を声に伝わせ、あの日あの時の儀礼であったことを、また今日も行おうとして、

『我は破壊の君。我は終焉へと導く獣。我は、我こそは――

 我こそは……………………なんだ?

『オォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ――ッ!!』

 愕然とした嘆きを咆哮に変えて、今、この身体に眠らせていた力を発現させる。

「なっ!?」

 驚きに目を見開く『騎士姫』――何を驚くことがある。これこそが我が力。我が生まれたときより持ち合わせた、人のユメを叶える力。万物の理想を形とする、姿なき始まりの混沌。

【もう一人の自分】――そう、この力の名前は覚えている。覚えている、のに……。

『我の名は、我の名は――!!』

 自分の名前だけが、どうしても、思い出すことが叶わない。


 

 

 膨れあがる黒い魔力が、辺りの炎全てを飲み込んでいく。

 灰色の空すら突き抜けて、世界を闇に閉ざさんとばかりに舞い散る、切り裂かれた堕天使の翼。ハラハラと舞い落ちる羽根は、まるで世界の終わりに降り注ぐ黒い雪のよう。

「これが、このドラゴンの特異能力。ジュンタが言っていた、触れることすら叶わない魔竜の真の姿ですか」

 それは以前ラバス村で目にした、魔獣たちの集合体であるキメラにどこか似ていた。いや、キメラが今目の前にいるドラゴンに似ているのかも知れない。

 毒々しい黒い魔力を身体全体に、可視の状態で纏わせたそれは、まるで泥を全身に付着させたドラゴンだった。本当に泥の向こうにドラゴンとしての肉があるのかさえ疑わしいほどの、流動する黒い泥をドラゴンは纏っている。

 間違いなく、あれは呪いの具現である。
 幾度となく苦しめられた反転の呪い――人を汚す毒を纏った終わりの魔獣に他ならない。

「皆、わかってますわね。あの反転の呪いに飲み込まれてはいけませんわよ。もし飲み込まれたなら、あのドラゴンの首を噛み千切りなさい!」

 醜悪極まりなく、圧倒的だったドラゴンの気配がさらに圧倒的になったことにより、一瞬呆然と立っていた騎士たちはリオンの声で我に返り、低い笑い声をあげる。

 ついに引き出したドラゴンの本気。その異容を前にしても、やるべきことは変わらない。

 炎が一掃されたことによって、自分たちの背後で姿を晒すことになった、大規模な儀式を執り行っている天秤のズィール。かの使徒を守ることこそ、自分たちの役目。

 儀式に集中する彼は、世界を自分色に染め上げるドラゴンの気配を感じても、こちらを信じて閉じた瞳を開くことすらしない。その信頼に応えずして、救世の騎士の血を継ぐ者とは名乗れない。

 開かれたドラゴンの口に、呪いの塊でもある、黒い炎が収束する。

「さぁ――来なさい! ドラゴン!!」

 放たれた炎に向かって、リオンは自らの誇りである剣を、幾度となく勇猛に振りかぶる。


 

 

       ◇◆◇

 

 

「はぁああああああああああ――ッ!」

 雄叫びと共に、足に集めた魔力を、ジュンタは一歩ごとに弾けさせて加速を得る。

 前へ。より前へ。
 速く。より速く。

 自分の肉体に宿る『加速』の魔力性質を惜しみなく使って、ジュンタは恐るべき速度で灰色の大地を駆け抜ける。あれだけ遠く感じた戦場は、すぐ間近にまで迫っていた。これまで障害として何も立ち塞がらなかったが、あそこへ飛び込めば魔獣などの障害が現れる。

 いや、違う。障害という点で鑑みれば、魔獣などよりもなお恐ろしい射手が自分を狙い続けているのだから。

 視界の彼方で陽炎が揺らぐ。それは三度目になる、炎の魔弾が放たれた証明。

 視界に揺らぎが映り込んだ刹那、ジュンタは足を弛めることなく、双剣を顔の前で十字に重ね合わせ盾とする。

 直後――数キロの距離を一瞬で詰めた矢の切っ先が、ジュンタへと到達した。

 視界一杯に膨れあがる熱気。
 ジュンタは双剣に込めた雷気を解き放つように、炎を切り裂くように跳び込んだ。

 飛来する弾丸に込められた魔力は、ジュンタが疾走に費やす魔力に比べればあまりに小さい。

 燃えさかる炎は馬一頭を屠るほどの威力を秘めているが、それでも以前対峙したドラゴンのブレスとは比べるほどもないものだ。が、どちらも真っ向から切り裂くに難しいのは変わりなく、そこへと突っ込めば身体には少なくない火傷を負う。

「っ!」

 炎を突き抜けたジュンタは、出そうになる悲鳴を噛み殺した。ここで喉を焼くわけにはいかない。

 これでヒズミの矢を受けるのは二度目だ。最初の一撃こそ、ユーティリスの絶妙な危険察知によりことなきを得たが、遙か彼方より凄まじい速度で飛来する矢を刹那の判断で避け切ることはジュンタには不可能だった。着弾のタイミングに合わせて剣を振ることで威力を弱め、強引に突っ切ること。それが、ジュンタが咄嗟に思いついた最善の策である。

 だが、二度目の着弾を潜り抜けたところで、これは失策だったかと脳裏に不安が過ぎる。

 ヒズミが放つ魔弾の真の恐ろしさは威力ではなく、その命中性にある。魔を冠する弾が意味するように、それは放たれれば最後、敵に命中するまで追い回す猟犬の牙なのである。射手がいるのはベアルの城だというのに、そこから自分に命中させているのだ。人間業じゃない。

 ヒズミが握る必中の弓――黒弦イヴァーデ』の特異性を前にして、距離が空いているからといって誤射は期待できない。

 そして『黒弦イヴァーデ』の威力は込める魔力量に比例するらしく、明らかに一射目より二射目、二射目より三射目の方が威力は上だった。正確にいえば、敵へと辿り着くまでにも魔力を消費するために、射手に近付いた後の射の方が威力があったのだ。

 つまりヒズミに近付けば近付くほど、迎撃の威力は大きくなり、そして立ち向かう以上、絶対に『黒弦イヴァーデ』の矢からは逃げられない。

(最初は凌げた。今のは厳しかったがいけた。だが、次はどうだ?)

 幸いなのは、次の射を撃つのに魔力を溜め込む時間が必要だということか。しかしそれも近付けば近付くほど早くなる。なぜなら、同じ威力を発揮させようと思っても、相手が近ければ込める量を上手く調節できるからである。

 ジュンタは戦いに際して、『黒弦イヴァーデ』の特異性を全てフェリシィールから聞き及んでいる。

 生前の、『黒弦イヴァーデ』という『英雄種ヤドリギ』の武器を生み出した使徒イヴァーデをも知っているフェリシィールは、畏れをこめてこの弓について語った。

 最強の弓。必中の弓。おおよそ弓が持ちうるアドバンテージを、ここまで突き詰めた弓はない。

 あらゆる遺跡に潜り込み、歴史を掘り起こした聖なる眼のイヴァーデ。かの使徒は万里を見渡す瞳と万象を見通す特異能力を持っていたという。その力を最大限学んで進化を果たした『黒弦イヴァーデ』から逃れる術はない。

 ヒズミが本来の担い手ではない以上、『英雄種ヤドリギ』の武器が持ちうる最強の一手は使えないとしても、武器の射程からもヒズミが圧倒的有利。

 迎え撃つという条件もある。こちらも耐久力と持久力だけは自信があるが、威力の桁が一撃ごとに上がるヒズミの矢を、そう何度も耐えられるとは思えなかった。

「なら――耐えられる内に、辿り着く!」

 戦場へと足を踏み入れた直後飛来した、四度目の矢。

 ジュンタは猛然と剣を振るって威力を弱め、その炎の中を切り開くように突っ切る。
 ヒズミの魔弾の威力と規模が増すように、またジュンタも双剣に纏わせる雷気を強くして、一歩の速度も跳ね上げていく。

 炎による火傷だけではなく、制御を超えた魔力行使により、肌を雷の先が切り裂いていく。そうして流れる血をさらなる糧にして、ジュンタは走る。

 やがて、ジュンタの目に混沌とした戦場の様子が飛び込んできた。

 倒れる騎士。食い散らかさされた肉片。魔獣の屍は山と築かれ、くすぶる炎が舐め尽くしていく。ここで繰り広げられた戦いの凄惨を物語るように、また、今ドラゴンの登場で荒れる戦場を表すように、悲鳴が轟いている。

 戦火へと飛び込んだことにより、遠く見えたドラゴンの姿も間近に見えた。そこで僅かに懸念がジュンタの足を鈍らせる。

(あのドラゴンは俺に何か執着心を持っていたが、今度は大丈夫か?)

 ヒズミとの戦いはすでに始まっている。今は全てをヒズミに傾けてなければ、あの魔弾は避けきれない。ドラゴンの相手など、していられるはずもなかった。

 しかし、ドラゴンは『ユニオンズ・ベル』との直線上にいた。この速度では下手に曲がることもできず、そんなことをすれば、恐らくそのときにできた僅かな隙をヒズミは見逃すまい。

 ジュンタは確かに感じていた。ベアルの城より見下ろす、狩人の鋭い視線を。
 ジュンタがヒズミの手の内を知るように、向こうも手の内は把握しているに違いない。把握していないだろう手に入れたばかりの奇手はあるが、条件が重ならないと使えない。

 第五射が迫ってきたのは、ちょうどジュンタがドラゴンの至近距離へと飛び込んだ際だった。

 これまでとは比べものにならない規模で迫る魔弾。同時に、見境なく伸ばされたドラゴンの呪いの触手が、戦地へと足を踏み入れた途端、地雷を踏むがごとく襲いかかってきた。

 一瞬が命取りになる瞬間が、幾重にも交差する。

 その中で、ジュンタはドラゴンに向かい合う紅い騎士たちを、その中でも一層勇敢に戦う愛しい少女を、見た。

 視線――すれ違う一瞬、ジュンタとリオンの視線は交差した。

(ああ、わかってるさ)

 鈍った足に力が戻る。向ける視線にも、向けられる視線にも、強い信頼と約束があった。

 次に会うときは、それぞれがやるべきことを果たしてから――そうと決めた。だから立ち止まることはせず、また、互いの相手に手を出すこともない。ジュンタにはドラゴンの触手が、リオンにはヒズミの魔弾の余波が届くが、それでも見るのは自分の相手のみ。

「突き破るぞ、『竜滅紅騎士ドラゴンスレイヤー』!」

「切り裂きなさい、『不死鳥聖典ドラゴンスレイヤー』!」

 ジュンタは左の剣に束ねた雷気を弾けさせることによって咄嗟の加速装置として利用し、思い切り地面を蹴り上げる。ちょうどベアルの城にいるヒズミの元へと辿り着く入射角で。

加速付加エンチャント]を超えた、それは[稲妻の切っ先サンダーボルト――『侵蝕』の魔力が大気を歪めて、あり得ない速度を生み出す中、魔を切り裂く右のドラゴンスレイヤーを勢いよく迫る魔弾に向かって突き出した。それと寸分違わぬタイミングで、リオンが迫る触手に向かって燃えさかる斬撃を放った。

 ジュンタのドラゴンスレイヤーが魔弾を切り裂き、纏った雷気が余波さえもはね除ける。
 リオンのドラゴンスレイヤーは迫る触手を根こそぎ切り裂き、纏った炎が全てを燃やす。

 交差は刹那。しかしそのとき交わしたものにより、一層燃えたぎるものを胸に秘めて、それぞれの戦いへと再び戻る。

 稲妻の切っ先が高く、鋭く、際限を知らない加速に入る。

 そして――翡翠の神獣は、瞳を開く。

「さぁ、始めようか。ドラゴン。千年の歴史に、終止符を打つために」

 金色の魔眼が、ドラゴンを捉えた。


 

 

      ◇◆◇


 

 

 戦況は現在、良いことと悪いことが重なりすぎていた。

 良いことはついに魔獣の壁を突き破り、『ユニオンズ・ベル』へと侵入できる段階まで進むことができたこと。悪いことはフェリシィール・ティンクを筆頭とした指揮官の姿が戦場に見えず、指揮系統がバラバラになっていること。

 これではいくら『ユニオンズ・ベル』への到達を果たしても、内部にまでは易々と踏み込めない。残った指揮官が場を纏めているだろうが、それでもフェリシィールの不在は大きい。

 叶うなら、使徒である自分が前線へと行き指揮を執りたいものだが、そのためにはまず目の前のドラゴンを倒す必要がある。このドラゴンさえ倒せば、一気に戦局はこちらに傾く。勝利は決定的になろう。

「よくぞ、持ちこたえてくれた。礼を言おう、栄えある不死鳥の騎士らよ。貴公らが受け継ぎ、研鑽した技の冴え、しかと拝見させてもらった」

「そのお褒めのお言葉だけで十分です、聖猊下」

 ズィールの参戦を悟ったシストラバスの騎士たちが、ゆっくりと、触手を切り裂きながら後退していく。腕をなくしたもの。音をなくしたもの。視力をなくしたもの。傷を負っていないものなど一人としていないが、皆一様に誇らしげな笑みを浮かべていた。

 彼らは十分に時間を稼ぐという役割を果たしてくれた。ならば、次は自分の番だ。

――告げる 汝が契約者たる神の子が告げる

 ズィールは軽く歯で親指の腹を切ると、それを魔法陣に垂らしながら詠唱を開始した。

遙かな深淵より生まれ この世の輝きを集めし神殿よ
 我らが家たるアーファリム大神殿よ 汝が契約者たる使徒ズィール・シレが此処に願う

 ドラゴンを打倒するのに必要なのは神殿魔法。神殿魔法に必要なのは神殿。しかし、ここは『封印の地』。神殿としてズィールが使える場所など存在しない。神殿魔法を行使しようと思うなら、神殿が存在する表の世界へと手を伸ばさなければならない。

 ズィールが時間をかけて用意したのは、直接ドラゴンにダメージを与える魔法陣ではなく、普通では無理な表側への干渉を行うための魔法陣だった。

『始祖姫』の力によって封印されたこの場所から、表側への干渉ができるのは、それこそ[召喚魔法]のような規格外の魔法だけであろう。実際『封印の地』からの自発的な表側への移動などはとても行えない。かなりの準備を行って数秒の通信が限界だろう。

 だが、唯一例外的な場所が存在する。それは表側の世界で最もこの世界に近い場所への干渉。それならば、ズィールの使徒としての規格外の魔力を総動員すれば、何とか叶う。

 つまり、入り口であり出口であるアーファリム大神殿との接続である。

巡礼の地より聖者の列は行く 神の威光たる聖殿に 我は聖者の列に紛れ行く

 猛然と輝く茶色の光は、灰色の大地を豊かな豊饒の大地へと塗り替える。
 瑞々しい大地の輝きは、ここではないどこかへと見えざる魔力という力を伸ばしていく。

[召喚魔法]の理論も組み込んだ、封印の壁にも阻まれぬ見えない『何か』――それを探し、それを求め、ズィールは言の葉を紡ぐ。

 そして今――聖者は神殿に帰還せり!

――喰らうぞ! 貴様の時を!!」

 変化は一瞬。されど決定的な変化。

 何かが繋がった感覚を得た瞬間、魔力を空にしたズィールの身体に、並々と魔力が満ちあふれる。

 アーファリム大神殿という世界最高の神殿の恩恵を受け、ズィール・シレは聖地から人類を守る使徒として、人々の想念という力を得る。それは使徒としての魔力さえ凌ぐ、絶対的な力。

 ドクン。と、心臓の代わりに、ズィールの金色の双眸が鼓動する。凶暴なまでの力は、ただ金色の魔眼に注がれる。

 魔眼――他者の時を喰らう魔眼は、醜悪なるドラゴンを視た。

「っっっっ!!」

 刹那――ズィールは自身の身体に、未だかつて感じたことのないほどの力と痛みを覚えた。

 まるで全身を粉々に打ち砕かれたような錯覚。代わりに全てを打ち砕く肉を。
 まるで全身を微塵に切り刻まれたような錯覚。代わりに全てを切り裂く爪を。
 まるで全身を口内で噛み砕かれたような錯覚。代わりに全てをかみ砕く牙を。

「ぐ、おぉ、おおぉおおおおおッ!」

 まるで全身を凍土で凍りつくされたような錯覚。代わりに闇の炎を消し去る息吹を。
 まるで全身を炎で燃やし尽くされたような錯覚。代わりにあらゆる悪を燃やす力を。

 あらゆる錯覚が混ざり合い、耐え難いほどの痛みを身体に叩き込んでくる。常にも魔眼を使った際、自分の『時間』が変化する痛みを感じるが、これはその範疇とは次元が違う。

 ズィール・シレが喰らったことのある最大の時間を持つ存在は、長き時を生きたエルフであるルドールであった。しかしそれでも彼が生きた年月は五百年に満たない。だというのに、今回ズィールが喰らったドラゴンは、少なくとも倍の千年は生きている。

(これが、貴公の生きた時間。神話の時代の痛みか)

 身体の変化にあれだけあった魔力がどんどんと激減していく。貪欲にズィールの魔眼は魔力を貪り、その力をもってドラゴンとの差を釣り合わせていこうとする。天秤の上に乗るズィールとドラゴンという存在の時間が、傾きのない平等へと変わっていく。

(ならば、これからは自分が代わりに――

 それはもう、一度自分を殺し、新たな自分に生まれ変わる行為に等しい。

――人の神話に語られよう!」

 このときこの瞬間、百年も生きぬ神の獣は死に、
 このときこの瞬間、千年を生きた神の獣は生誕した。


 

 


 天が裂け、地が呑み込まれる。そこには、存在するはずのない神獣が存在していた。

 ともすれば、リオンは神獣の姿に変化したズィールに押しつぶされそうになった。咄嗟に避けていなければ、その肉と地面の間で磨り潰されていたことだろう。現に、押しつぶされてはいなかったが、突如として迫ってきた翡翠の塊に、リオンの身体は遠くへと思い切り吹っ飛ばされた。

 それはその場にいた全てのシストラバスの騎士――いや、遠目からドラゴンとの戦いを見守っていた聖殿騎士たちも同じこと。全ての騎士たちが神の威光を目の当たりにし、その予想外の姿に恐れおののき頭を垂れたように吹き飛ばされた。

「これが……神の、獣……使徒ズィール・シレの、奇跡の具現……」

 吹き飛ばされた先で顔をあげたリオンは、そこにあった姿に乾いた笑みを浮かべた

 ズィールの神獣としての姿を見たが故の陶然でもなく、人の理解では及び付かない脅威を前にしたが故の恐怖でもない。あまりの現実離れしたその姿に、ただ笑うしかなかった。

「ドラゴンが、まるで赤子のようですわ」

 そう、それはあまりにも現実離れした――巨体。

 使徒ズィールの神獣としての姿は、翡翠の使徒の名にふさわしい翡翠の如き鱗を持つ蛇なのだという。世間における蛇の認識を覆すほどに、それは恐ろしく美しい、翡翠でできた一つの美術品のようなのだと。

 確かに、今リオンの目の前でとぐろまく長い身体の表面は、一枚一枚がカットされた宝石を薄く切り裂いたような鱗で覆われている。翡翠色の光沢は、それ自体が光を放っているように輝いていて眩しい。大地を覆い隠し、そして空すらも覆い隠さんとばかりに首を伸ばしているため、辺り一帯が緑の輝きで染まっているようだった。

 それは黒い闇の翼を広げて空へと避けたドラゴンの汚染を、服に落ちた紅茶のしみとでもいわんばかりの輝きの蛇。その中で、二つの黄金の瞳だけが、炯々と輝いている。

 確かにその美しさにも目を見張るが、瞠目すべき点は他にある。真に瞠目すべきはその巨体だ。

 全長はもはやわからない。大地に何十にもとぐろを巻き、鎌首をもたげる全容は、リオンの視界の範囲では到底適わないからだ。恐らく、その全容を知りたければ、数キロ離れなければなるまい。胴体の直径だけでも、リオンの数倍はあるのだから。

 ただ、ドラゴンと比較すれば、ここからでもおおよその大きさくらいは判別できた。
 全長二十メートルを超えるドラゴンが、まるで今のズィールと比べたら赤子のようだ。呪いの触手も虫の触角も等しかろう。恐らくズィールの全長は、優に一キロを超えている。

 戦場のどこからでも見えているだろうズィールの姿に、戦場内で響いていた喧噪がピタリと止んだ。ドラゴンですらその偉容に呑み込まれたのか動きを止めている。味方はあまりのズィールの頼もしさに。敵はあまりのズィールの恐ろしさに。

 天秤のズィール――それこそが使徒ズィール・シレの二つ名であり、また所有する特異能力の力である。

 魔眼と呼ばれる対象を視ることによって効果を発揮する魔法を能力発動の条件として、ズィールの特異能力――【時喰らい】は発動する。かの魔眼は他者が持つ時間に合わせ、自身の持つ時間を増減させることができるのだ。

 時間とは即ち、人が生きてきた歴史である。人間は百に満たなくして死ぬが、エルフなどは数百年生きる。一癖に時間といっても個人個人で差があり、また不平等なものである。

 だが、ズィールはそれを天秤に乗せ、均一なものへと変えてしまう。正確には、自分を他者の時間に合わせるのである。

 ズィールの本来の年齢から下の年齢の相手に魔眼を使えば、ズィールは相手の年齢にまでその姿を若返らせる。本来の年齢より上の年齢の相手に魔眼を使えば、その年齢まで歳を取る。

 無論、人間の身体で実際に若返ったり、歳を取ったりはできない。だが、ここに神獣という要素を持ち込むことで、ズィールは一時的にこれを可能としていた。

 神獣への変化において、使徒は人間の殻を破り捨てる。本性を露わにするのだ。

 これは、神獣に変化すると服が破れてしまう等のことが起こらないように、まるで人として死に、神獣として生誕を受けたように変化する。また逆も然りで、神獣からヒトガタになるときは、脱ぎ捨てた人の殻を被るため、神獣化したときのまったく変わらない状態に戻る。

 つまるところ、神獣の肉体は変化の度に世界と神に祝福されて生まれ落ちるのだ。故にこそその生誕の年齢を、ズィールは魔眼によって変化させられるのである。

 蛇という特性から、ズィールは年齢を経るほどに神獣としての身を巨大なものへと変えるのだという。本来の年齢のままならば見上げる巨体といわれていたが、十歳ほどの人間を魔眼で視たあと変化すると、普通の蛇のサイズになるという噂だった。

 今回の場合、ズィールが魔眼で視たものはドラゴン。しかも普通のドラゴンとは違う。この『封印の地』で千年近く生きたドラゴンである。つまりズィールのこの現実離れした巨体は、本来の使徒の寿命を著しく超えた、千年の時間を経た姿ということだ。

「これならば確かに、突如として現れるドラゴンには勝てずとも、千年を生きたドラゴンには……」

 これぞ切り札。これぞ秘策。
 千年を生きたドラゴン相手だからこそ使える、ズィール最強の手札。

 神殿魔法はあくまでも自身の魔眼の補助としてのみ使われ、特別な破壊など必要としない。
 ドラゴンを遙かに凌ぐ巨体である――それだけで、こうも圧倒的なアドバンテージを得られる。

「総員。全速で退避しますわよ!」

 ゆっくりと動き出したズィールが、その巨大な口を開いているのを見て、リオンは声を張り上げた。

 翡翠の神獣対堕天のドラゴン――恐るべき怪物同士の戦いは今、ここに始まろうとしていた。

 


 

       ◇◆◇

 


 

 一撃。それは稲妻の切っ先の前に切り裂かれる。

 二撃。それもまた稲妻の切っ先に切り裂かれたが、ジュンタの身体に傷を負わせた。

 そして三撃目――ベアルの城の頂上に魔弾の射手の姿がジュンタの目にも視認できるぐらいに近付いたときに放たれた一撃は、強かにジュンタの総身を揺らした。

「ぐっ!」

 決して止まらぬと思った疾走は、しかしヒズミの神がかった速射によって止められる。至近距離での爆発に煽られたジュンタは地上に向かって落下を始め、

「ここまで来て――落ちるかよ!!」

 その途中で再び、ヒズミに向かって[稲妻の切っ先サンダーボルト]を仕掛けた。

 急激な減速と加速によって骨が軋む。
 未だに連続行使すれば数日は寝込みかねない自爆攻撃は、それでも速度・威力共にジュンタが持つ攻撃の中で飛び抜けて一番だった。

 神秘の『加速』は落下していたベクトルを強引に上方へと変化させ、雷の尾を伸ばして魔弾の射手に殺到させる。

 ヒズミは一度撃ち落としたことに油断して――いない。

 ――ああ、そうだろうと思ったさ。

 視線でも射抜いてくるヒズミの視線が、そう語っているようにジュンタには思えた。
 
 一度撃ち落としてなお、次弾の装填を限界の速度で行っていたヒズミの構えは、美しい和の射方。敵がすぐ目の前に迫る危機的状況でありながら、ヒズミは一つ一つの動作を的確に行う。

 会の状態にまで入ったヒズミの魔弾の先が、先程よりも暴力的に魔力を絞り込む。

 おおよそ、今の速度でヒズミの元まで辿り着くには、あと一撃――あの一撃はもらわないといけない計算になる。それはつまり、あの一撃さえ凌げばヒズミに勝てるということ。間合いに入られた射手の末路は、たとえ魔弾の射手であっても決まっている。

 しかし――ジュンタの中には確信があった。
 ヒズミが先程確信をもって次弾を装填したように、ジュンタの中にも確信がある。

 たとえ次の一撃を破っても、ヒズミは絶対にもう一撃攻撃を放つだろう、と。

 大気を切り裂いて、そのとき炎が流星となる。

 ジュンタは双剣を前で合わせ、その剣先を鋭く磨く。ヒズミが全てを矢の先にこめたように、自分は剣の先に全てをこめ、全身の加速をさらにあげる。

 激突。矢の先と剣の先がぶつかり合い、互いの推進力がしのぎを削る。

 本来ならば上から下へと放たれた矢の方が優勢だ。しかし、今のジュンタは地上より天へと落ちていく稲妻。上から下へと行く方が優勢だというのなら、それはまたこの身にも該当する。

 激突の瞬間がとても長く感じた。それでも実際は一秒にも満たない。

 ジュンタの双剣が後ろへと弾かれる。同時に、力を失ってその場で弾けるヒズミの矢――

 その場の空気を取り込んで猛烈な爆発を起こす中を、稲妻を纏ったジュンタは駆け抜ける。もし生身だったらこの時点で絶命していただろうが、今のジュンタは『加速』と『侵蝕』の守りに加え、最強の防具たる『竜の鱗鎧ドラゴンスケイル』を身につけていた。首元など、甲冑で被っていなかった部分の服が焼かれる中、それでもジュンタは空へと落ちる。

 ジュンタは墜ちない。ただ、刹那のときにヒズミの眼前へと落ちていく。

「ヒズミィイィイイイイイイイイイイ――ッ!!」

 ジュンタは咆哮をあげた。

 負けられない。負けるわけにはいかない。
 弾き飛ばされた双剣が虹の双翼と化して、最後の加速を生む。全力でぶつかるために。

「サクラァアァアアアアアアアアアア――ッ!!」

 ヒズミが咆哮をあげる。

 負けられない。負けたくない。
 全ての想いを注ぎ込んだ矢の切っ先を、最後の一撃として放つ。射抜くために。

 あまりの加速に、雷の尾と炎の尾が、それぞれ放たれたのとは逆の方向に伸びる。
 その切っ先は至近距離で睨み合った相手に向かって放たれて――二人の間で炸裂した破壊の力は、ベアルの城の屋上部分を塵のように吹き飛ばした。

 衝突の際に生まれた力に弾かれた後の再加速。その中で、ジュンタは自身の勝利を確信する。

 距離にして十にも満たない先では、同じく反発に鈍るヒズミの姿があった。その手は武器を握りしめているが、弓である以上再装填までには時間がかかる。間合いを詰めたところで、それぞれの武器の優劣が覆ったのだ。

 落雷の音を轟かせながら、ジュンタはヒズミへと落下する。雲の合間を稲妻が龍のように駆けるように、至近距離から音速に迫る勢いで振り下ろされた旅人の刃。


「巫女をなめるなよ! 巫女は――使徒を守る最強の戦士だ!!」


 タイミング、威力、速度、全てにおいて満点の攻撃を、こともあろうにヒズミは身体を反らすことで避けてみせた。

 予想外の回避をされたことで、勢い余ってジュンタの身体は屋上の床の上を削りながら滑っていく。床に鋭い傷をつけ、いくつかの石の塊を地雷が爆発したように四散させる中、自分の油断に舌打ちする。

(そうだ。ヒズミは俺よりもずっと前にこの世界にやってきた。俺よりずっと前にスイカを助けようと決めていた。なら、修練のレベルだって俺よりも上だ。『黒弦イヴァーデ 』はヒズミにとっての、守るための力の一つでしかない)

 舌打ちを実際にする代わりに、すぐにジュンタの身体は次の攻撃に移っていた。

 射手を前に間合いを離すことの恐ろしさは身にしみてわかっている。足の腱が引き剥がれると思うくらいの激痛に耐えながら、強引に床に足をつけて勢いを殺す。完全に止まる前に逆に床を蹴り、振り向きざまに旅人の剣を振りかぶった。

(才能があったわけじゃない。誇りがあったわけじゃない。だからこそ、強い。見誤っていた。ヒズミ。お前は、巫女だったな)

 旅人の剣がヒズミが左手で放った炎のダーツによって弾き飛ばされる。『黒弦イヴァーデ』の弦を弾きながらの投擲。最初は何も持っていなかった手には、弦に触れた瞬間、三本の炎のダーツが装填されていた。

「巫女は使徒を導く者。一番一緒にいる者。そして、使徒の最後の盾にして守護者!」

「僕は守る! 姉さんを!」

 ジュンタは左手もドラゴンスレイヤーの柄にやり、強く握りしめてヒズミに向かって駆ける。
 もうダーツによる攻撃は望めないと理解したのか、ヒズミもまた本当の本当に、最後の一射の準備に入る。

 紅蓮――

 矢という形すらもはやわからない、炎の魔弾。
巨大弓バリスタ]のバリエーションの一つ。対象を破壊するためだけに創造された矢は、猟犬の牙というより猟犬そのもの。

黒弦イヴァーデ』の輪郭もが紅蓮の中に埋もれ、ヒズミの両手が炎に包まれ燃ゆる。

 また、同様の輝きをジュンタも剣にかき集めていた。

 小さな帯電を見せていたドラゴンスレイヤーを包みこむ虹の雷が、走る際に大気との摩擦で、一気に巨大な雷光となる。近くにいるだけで髪が逆立ち、肌が粟立つ。

 共に選んだ最速にして最大の攻撃。戦い方に誇りを求めていない、ただ守るためだけに戦う道を選んだ二人は、約束の成立を視線で交わし合う。

 この勝負。勝った者は全てを得て、負けた者はただ一つを残して全てを失う。

 ただ一つ、アサギリ・スイカを救うという願い以外の全てを。

 声もなく、音もなく、最高の一撃は放たれた。

 振り下ろされる雷剣と突き進む紅蓮。
 炎は温度と摩擦によって無数に色を変え、またジュンタの雷剣も虹の帯を撒き散らす。

 無限の色が重なり合い、互いを喰らいつくそうとする。たとえ相手を殺すつもりはなくとも、相応の覚悟をもって行わなければ、たとえ勝ったとしても相手を下すことなどできない。

「僕の矢が――途切れると思うな!」

 ヒズミが残身の姿勢を崩すことなく、さらなる矢を援護射撃として放った。構えも何もないのに、まるでその姿勢こそが弓を扱う者の最大の姿といわんばかりに、炎が装填され、次々に撃ち出されていく。最高を放ったあとでさえ存在する次の攻撃。

 きっと、彼は幾度となく考え、幾度となく試したのだろう。姉を守るために。

「やっぱり、お前はすごい奴だよ。ヒズミ」

 均衡はここに崩れ、強かったものの一撃が相手を徐々に喰い殺していく。

「俺は弱い。覚悟だってお前に負けてる。だから――

 紅蓮の壁を前にして、近づくことも触れることも叶わない。
 だからこそ、ジュンタは手を伸ばすのだ。今日できなかったこと、さっきできなかったことを、これから先はできるようにするために。
 

「俺はお前が欲しい! 強い――覚悟の力がッ!」


 突き出されたジュンタの左手に、雷光が渦巻くように収束し、一つの形をとって具現化する。
 無骨な輝きは虹より生じる。たとえどこへと行こうとも、必ず持ち主の元へと辿り着く、旅する剣。サクラ・ジュンタを故郷とする相棒。

 それが空間を切り裂いて馳せ参じるその瞬間、ジュンタは身体を包み込んでいた全ての雷気を左腕に収束させていた。

加速付加エンチャント]を失ったことにより、ドラゴンスレイヤーが炎に飲み込まれる。猛烈な熱がジュンタを焼き突くし、這い蹲らせんと牙を剥く。

 ……正直、ジュンタは思った。ヒズミになら負けても、別に格好悪くはないんじゃないかと。

 だが、それに異を唱えるのは覇者の鎧。持ち主の一瞬の弱さを覆い隠し、炎をその魔の防護を持って守り抜く。

 炎に包まれてなお持ち主の身体と意志を守りきった『竜の鱗鎧ドラゴンスケイル』に、ジュンタは教えられた気がした。

 先生は言った。無様な勝利よりも華麗な敗北だと。
 だけど……ジュンタは男だ。無様な勝利なんてするつもりはないけど、華麗な勝利と華麗な敗北だったら、やっぱり勝利の方がいい。

「剣の姿をした雷よ。撃ち貫け」

 旅人の刃が現出する瞬間、ジュンタは部分的な[稲妻の切っ先サンダーボルト]を引き起こす。

――居合い・偽」

 現出と同時に、その空間を切り裂く速度をもってヒズミに殺到する旅人の刃。雷光を鞘とし放たれたそれは、師が得意とする居合い斬りを、偽装を加えて再現したもの。ジュンタがこの戦いを前にして、無茶な修行の果てに生み出した一撃。

 全身に疲労を残す[稲妻の切っ先サンダーボルト]同様、片腕という代償をもってしか放つことのできない一撃は、リオンを怒らせ、クーを心配させた中生まれたもの。だが、それでも使う。あの悔やみ、悩み、荒れた瞬間でも、考えた思いは無駄じゃなかったと思うから。

 炎を貫く剣の稲妻が駆け抜けた先を見て、焼けこげた身体でジュンタは笑った。

 地力では負けていた。だけど、自分は負けなかった。だから――

「俺の勝ちだ、ヒズミ」
 




 
 彼は言った。この戦いに敗北したら、愛しい女を諦めると。

 何を馬鹿なと一笑できる。ヒズミは彼がどれだけ少女を愛し、少女に愛されていたか知っていたから、そんなことはあり得ないと思った。

 だが、彼ははっきりと言い切ったのだ。負ければ、決めると。そこには一体、どれだけの覚悟があったのだろうか?

 彼は確かに甘い。誰も殺さぬという甘っちょろい人間だ。ヒズミが一番嫌いな人間だ。世界は甘えを許さない。幻想を容易く打ち砕いて、無惨な真実をさらけ出す。そして一方的に理想を嘲笑うのだ。

 彼もまた幾度となく嗤われただろう。多くの人にその理想を嗤われただろう。ヒズミだって嗤った。嫌いなのだからしょうがない。

 ああ。だけど……アサギリ・ヒズミという少年は、きっと彼の理想に同調するだろう。

 人はやがて理想の儚さを知り、現実を見つめるようになる。現実を見据えないと救えないものがあると知る。

 だけど、ヒズミは思う。きっと、儚い理想でしか救えないものもあるのだと。

 甘い彼がそれでも口にした覚悟を聞いた瞬間、たぶん、この結末は半ば決まっていた。

 だって、そうだろう? 結局、勝っても負けてもヒズミは変わらない。勝負する前から勝者であることが決まり切っていた。勝っても負けてもスイカを助けられるのなら……そう、何の問題もなかったのだから。

 それでも本気で戦った。だから、これは全ていい訳に過ぎないが。

「ふん、やっぱり。お前はたくさんの女たちに振り回されてる姿がお似合いんだよ、馬鹿」



 


 今までの人生にも等しく感じた長い時間が、その実一瞬のものでしかなかったのだと、静寂に包まれた中でヒズミは知った。

 瓦礫の中、ジュンタが放った奇手に『黒弦イヴァーデ』を弾かれたヒズミは、崩れ落ちた空を見る。

 できれば青空が良かったな。と、灰色の空と、その空をバックにこちらを見つめる金色の瞳を見て思う。熱によって偽装していた瞳が溶けたのだろう。黒い涙がジュンタの頬を伝っていた。

 火傷を全身に負った少年は、ただ、何も言わずにこちらに向かって、黒こげの手を伸ばしていた。それはまるで健闘を讃える握手を求めているように見えるが、全く違う。この少年は、サクラ・ジュンタは、そんな優しさを与えるようなスポーツマンじゃない。

「…………そうか。僕は、負けたのか……」

 それを認めることに、戸惑いはなかった。

 今はとても晴れやかだった。悔しかったのは一瞬で、負けたそのときに口にした負け惜しみと共に全て消えてしまい、胸には何とも言えない晴れやかな気持ちだけが残っている。これがおかしくなったと言わずして、何というのだろう。

「僕の、負けだ。認める。認めるさ。僕は、お前に勝てなかった。運が悪かっただけだけど、それでも僕の負けだ」

 瓦礫に背中を預けて、ヒズミは晴れやかに笑った。

 こんな気持ちで敗北を認められる自分が心底おかしくて、それで笑った。

 相変わらず、ジュンタは何も言わずに手を伸ばし続けている。それは握手を求める手ではない、助け起こしてくれるための手でもない。それは――誘いの手。

 ヒズミはその差し出すだけで激痛があるだろう手を見て、鼻で笑った。

「お前、わかってるのかよ。僕はお前に負けたんだ。僕らの勝負の目的は、どちらが姉さんを助けるのにふさわしいのか決める戦いだったはずだ。僕は思う。僕は必要ない。お前一人で、きっと、姉さんは助けられる」

 ここで敗者の手を求めている馬鹿に、言う。

「お前が勝ったんだ。お前が姉さんを助けるべきだ。敗者なんかに助けを求めるな。お前は、お前なら、一人だって姉さんを救ってやれるだろ?」

 ここで敗者なんかの助力を心の底から乞うている真性の馬鹿に、言う。

「姉さんが求めてるのは僕じゃないんだ。お前なんだよ。お前が姉さんを救える唯一の奴なんだ。だから――

 僕なんか放っておいて、さっさと姉さんのところに行ってください――その言葉は、その全てをわかっていながら手を伸ばす馬鹿で、阿呆で、女誑しで、ヘタレで、だけど優しくて一生懸命な奴の前で、声は出なかった。

「……いいのか? なぁ、サクラ。本当に、いいのか? 何もできない僕で、甘えてばかりの僕で、ずっと姉さんの悲鳴に気付けてなかった僕なんかで、本当にいいのか? こんな僕なんかでも、本当に、お前の手助けが、姉さんを救う手助けができるのか……?」

 姉さんを救いたいと言っておきながら、結局他人任せにしようとしてしまった弱い自分――そんな自分が今でもまだ、大切な家族を助けたいと思ってもいいのだろうか?

 自分のこの手で、救ってやりたい。
 泣いている自分にいつだってしてくれたように、今度は自分が姉の手をとって笑ってやりたい。

 それが願い。それが本当の願い。

「僕は姉さんの温もりに救われた。だから今、その温もりを返したいんだ……!」

 それがアサギリ・ヒズミの、心底からの思いの丈。

 口を閉ざしたままだった少年が、そのとき笑った。

「そうか。なら、しっかりついて来いよ。戦友」

 手がそっと引かれる。それがまるで、お前の望みなのだといわんばかりに。

 助力を乞う手は引かれて、ジュンタは何も言わずに玉座の間を出て行こうとする。しかし彼は、手を握り返さない自分を見捨てて行ったのではない。

「そうさ! 立ち上がる! 僕は、一人で立ち上がれる!」

 その背中に、ヒズミは、同じスイカを救いたい一人として、言った。

「まだ僕は立ち上がれる! お前の手を借りなくても、立ち上がれるんだ!」

 よろよろと、限界を超えて矢を射続けたことによるダメージを気合いで掻き消して、必死に立ち上がる。

「僕に手を差し出すな! それは、姉さんに差し出すべき手だ!
 僕はお前の手を握らない! この手は、姉さんの手を握ってあげる手だ!」

 立ち上がって、去りゆくジュンタめがけて、敗者は敗者なりに精一杯に、叫ぶ。

「先に行ってろ馬鹿野郎! すぐに僕も追いつく! 追いついて、僕もお前と一緒に姉さんを助ける! だから、今はほんの少し先に行ってろよ! ジュンタ!!」

 悔しいが、格好良いと思ってしまった。だからヒズミは一歩一歩、ゆっくりと、だけどしっかりと、進む。彼の背中を追うように。その背中と肩を並べるために。

 ――大切な、大切な、姉のところへ。

 


 

 スイカは、酷く広くて、酷く寂しいダンスホールの中央にいた。

 輝きのないダンスホール。誰もいない中、服を血で染めて、スイカはいた。

 それはとても寂しそうな、迷子の子供のような姿。

 助けを待っている。親を待っている。家族を待っている。そんな、姿。

 一歩一歩、ジュンタは近付いていく。

 やがて、スイカも気が付いて、振り返った。

 泣いていた。

 スイカは泣いていた。

 口元を血で染めながら、その手を血で染めながら、

 泣いていた。ただ、黙って。

 拭って上げたいと思った、その涙を。

 たとえ拒絶されても、その悲しみを。

 だから、ジュンタは手を伸ばす。

 もう一度。以前は握られなかった手を、伸ばす。

 今度は――――しっかりと握るために。









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