第十五話  狂いの果てに




 全ての水を吐き出して、スイカは力なく膝をついた。

 偽装することで偽装行使した『深淵水源リン=カイエ』の『理想の英雄ミスティルテイン』。本来の担い手ではないのに使った代償に、使徒としての魔力全てを費やした。もはや本来の年齢を偽装することもできず、水に濡れた小さな身体でスイカは咳き込んだ。

 口から少なくない量の血が飛び散る。『深淵水源リン=カイエ』に担い手を裏切らせた代償だ。

 だが、ダメージを負った甲斐はあった。放った一撃は水を生命の営みに組み込んだ全てのものに致命傷を負わせる一撃。水底にあるもの全てを泡沫と消す本来の『水底の愛しき貴方ディーブコーラル』には及ばなくとも、十分な威力。

 これならたとえ使徒であっても、喰らえば死は免れない。

 ジュンタは死んだ。いいや、殺した。

 アサギリ・スイカがこの手で、サクラ・ジュンタを殺したのだ。

「ふ、ふふっ、なんだ」

 手からこぼれ落ちた『深淵水源リン=カイエ』が乾いた音を立てるのを聞きながら、スイカはぼそっと呟いた。

「殺すのなんて、簡単じゃないか」

 ああ。そういえば、ずっと前にも同じことを思ったっけ。

 人なんて簡単に死んでしまう。たとえどれだけ強く見えても、美しく見えても、結局それより強いものから見てみれば人間という一括り。腕を振るっても、足で潰しても、簡単に死んでしまう。殺すのなんて簡単だった。

 力も技も何もいらない。ただ、殺意さえあれば簡単にできる。

「ジュンタ君を殺すのなんて……とても、簡単だった……」

 たとえ、相手が無敵と信じた王子様だとしても……結局、こんなにも簡単だった。

 倒れたまま動かない少年を見て、一人スイカは復讐を果たしたことを悟る。

 だが達成感なんて微塵もない。喜びも何も湧いてこない。代わりにごっそりと何かがなくなってしまった喪失感。穴がさらに広がった空虚感を感じるだけ。

 そこに、得体の知れない、なにかが、入り込んでくる。

――結局、これは問題を先送りにしたに過ぎませんわ』

 思い出したのは『狂賢者』と交わした会話。
 交わしたはずなのに、交わしたことを忘れていた会話。

『手遅れなものは手遅れ。こぼれ落ちたものは戻らない。問題を先送りにしても、結局いつかはそこへと追いついてしまう。だから必死に誤魔化しなさい。自分が化け物ではないと。そうすれば、その時間を長くすることくらいは叶うはず』

 破壊の嵐が通り抜けた灰色の城の中、自分を見上げる彼女が、その手に『聖獣聖典』を持ちながら触れてきた。何かがその手に吸収されていくのを感じながら、溶けていく意識の中耳を傾けていた。

『あなたはよくがんばった。元々そう長くはもたないはずだったのに、あなたはがんばって、がんばって、自分さえ偽りながらがんばった。だから、これは努力に対するせめてもの報い。最後に、彼ともう一度出会えるための僅かな時間をあなたに差し上げましょう』

 それは優しい声だった。

『あなたが望むのなら、我慢する理由をあげましょう。あなたが望むのならば、あなたが生きる意味を語りましょう。しかし世界の真実を知れば、あなたは自ら死にたくなる。僅かな時間をさらに短くしてしまう。それでも、望むのならば語りましょう。世界の、真実を』

 同じくらい怖くて、同じくらい悲しそうな声だった。

『そう……それが、あなたの選択。わかりました。それでは、語らせていただきましょう。
 ああ、安心してください。この会話はあなたの大事な人には聞こえていませんし、あなたも次に目が覚めれば忘れていますから。ですから――

 最後に、そう、彼女はそう言ったのだ。倒れた少女を抱きしめながら、まるで、光のない未来を予期したような泣きそうな顔で。


――恨むのならば、あたくしと神を恨んでください。そう、あなたに彼を恨む理由は何もないのだから』


 ……そう、だった。今、スイカは全てを思い出した。

 恨んでいた。何食わぬ顔で接してきて、そしてこの世界の真実を教えた『狂賢者』を恨んでいた。どうしてそんなことを教えたのだと、そう憎んでいた。

 けど違った。自分で決めて世界の真実を知ったのだ。生きる理由を求めて。生きる意味を欲して。ジュンタと出会うという理由とヒズミを親のところへ戻してあげるという意味を失った代わりに、これがその場しのぎでも明確な理由を欲した結果なのだ。

 それさえ今自らの手で消してしまった今、『狂賢者』がかけてくれた魔法も解け、僅かなタイムリミットは終わりを告げた。

 空洞に染み入るように入り込んでくるこれは、魔法によって押しのけられていたもの。
 獣の衝動。死の気配。受け入れたが最後、死を求め、死をばらまくものになってしまう狂い。

 だけど、もうそれを退ける方法も意志もスイカにはなかった。

 結局、自分で選び、自分で選択し、そして結果がこの結末。

「そっか……結局、わたしは……」

 自分でさえわからなくなっていた答え。本当にしたかったこと。それをスイカは、諦めることでようやく知ることができた。

「自分が化け物だってことを、否定したかっただけなんだ……」

 誰かに否定されたくて。
 自分で否定したくて。

 酷いことをやっても誰かに好きでいて欲しいと願った。
 もう酷いことをし続けることは止められないから。だから、それでも誰かに好きでいて欲しかったという傲慢な独りよがり。

「わたしの、本当の願いは……」

 そこには二つの結末しかない。つまり好きな人を自分が殺すか。好きな人に自分が殺されるか。

 だから、アサギリ・スイカの本当の願いとは――


「わたし、ただ、死にたかっただけなんだ……」


「それが――姉さんの本当の答え?」

 答えをようやく見出したそのとき、懐かしく感じる声が聞こえた。

 見れば、入り口に一人の少年が立っていた。 
 身体はボロボロだ。傷ついて疲れたような顔。まるで鏡を見ているみたい。

 だけど、その瞳だけは意志に溢れていた。その手は強い力を握りしめていた。

「今、ようやく聞こえたよ。姉さんの声が。姉さんの本当の声が」

「ヒズミ……」

「悔しいな。もっと早く気付けていたら、もっと早く行動に移せていたら、そんな願いになる前の姉さんの声を聞けたかも知れないのに」

 そこにいた弟は悔しそうな顔をしていた。酷く、泣きそうな顔をして、それでも涙をぐっと押さえていた。

 強くなった。もう、ヒズミには自分がいなくても大丈夫だろう。
 そうしてスイカはまた一つ、生きる理由を捨てた。何の気負いもなく、この上なく気楽に死ぬための。

「わかったよ。姉さんがどうして酷いことをし続けたのか。ただ、姉さんは嫌われたかっただけなんだ。酷いことをして、嫌われて、そうして生きるための理由を手放して……責任も何もかも放り出して、そうやって死のうとしたんだね」

 ジュンタの言ってることは間違っていなかった。我慢比べが好きだった。相手より先に我慢を止めちゃいけないと思っていた。我慢を止めたあとの自分が想像できなかった。

 でもね、もういいでしょう? 生きているのが、辛いんだ。

「僕は、納得していない」

 黙ったまま、自分の弱さに呆然としていたスイカに、ヒズミが近づいていく。

「僕は、何にも納得していない。姉さんがどうしてそんなに辛くなったのか、それをまだ知らないから。だから、姉さんの本音を聞いても何も納得してないよ!」

「そう、だね……ヒズミも、知っておくべきだ。世界の真実を。そうやって、自分で選ばないといけない。これからの、自分の生きる道を」

 もう一緒に歩けないから。もう時間もないから。だから、自分が知ったもの全てを教えるよ。

 手を広げたヒズミに抱きしめられながら、スイカは自分が知ったこと全てを語り始めた。

 終わっていく、自分の中の何かを感じながら。






       ◇◆◇






『封印の地』での決戦は最終局面を迎えていた。

 ドラゴンの消失により、混乱の中にあった戦場が正常に戻っていく。
 フェリシィールが率いる聖殿騎士団の本隊はその体勢を整えていき、やがて全ての師団が合流を果たし、ベアルの城の前に陣取った。

 敵の魔獣の姿はもはやない。

 駆逐されたのか、城に逃げ込んだのか、逃亡したのか。それは定かではないが、未だ数千の精鋭たちの体勢が整った段階で、もはや魔獣たちに勝機はない。王が没した時点で、その命運は尽きている。

 あとはフェリシィールが城攻めの合図さえ送れば、全てことは済む。

 多々問題は発生した戦いではあったが、終わってみたらなんてことはない。当初の予定通りのものだった――それは何も知らない騎士たちの考え。フェリシィールには一つだけ、まだ不安要素があった。

「……スイカさん」

 それはスイカ・アントネッリのことである。

 彼女は使徒。使徒は神獣。その力は全ての力を使い果たし、今は眠るズィールが倒したドラゴンにも、ともすれば匹敵するかも知れない。このまま安易に城攻めを講じたら、彼女が神獣となって対抗してくるかも知れない。

 ズィールと多くの師団長を欠いた現状、一騎当千の強者には指揮官に専任してもらわないといけない。神獣を相手にしたとき、一体どれだけの被害が出るか。

(もしものときは、わたくしが……)

 痛む傷を抑えながら、フェリシィールは悲壮な決意を固める。

 自身にも時間制限がある身、情にほだされていては全てが瓦解する。もしもスイカが敵となってその猛威を振るってきたなら、また自分も神獣となって戦うしかない。

「聖猊下。傷が痛まれるのですか?」

 負った傷を抑え顔を顰めていると、隣にいたリオンから気遣われた。

「傷が痛まれるのでしたご無理をなさらずとも。あとは城を落とすのみなのですから」

「いえ、ご心配なく。始めた者の責任として、最後まで見届けねばなりません。それに心配事も一つ残っていますので」

「……スイカ様のことですか?」

 スイカのことを知るリオンには隠す必要もないので、フェリシィールは素直に頷いた。

「わたくしはスイカさんがどのような神獣としての力を持っているかは知りませんが、もしかしたらドラゴン以上の脅威となる場合もございます。そのときはわたくしが対抗するしかありません。そのときはリオンさん。あなたには指揮を――

「大丈夫です」

 指揮を託す相手として残そうとした指示を、リオンは途中でそう切った。

 パチクリと、フェリシィールはそのリオンの自信のある態度に狼狽する。まるでスイカが敵となることはないのだと確信を持っているかのように。それは先にも見た、とある男性に対する信頼に他ならなかった。

「私は信じております、フェリシィール聖猊下。私の想いを知り、脇目もふらずに走っていった彼は、きっとスイカ様の許へ辿り着いたと。ジュンタがいる限り、スイカ様が私たちの敵になることはありません」

 恋する乙女とは、かくも美しいものなのか。
 以前見たときとは違う、大人の女性としての微笑みをリオンは浮かべていた。

 フェリシィールは同性であるリオンに見とれてしまったことに気付き、はっとなって染めた頬をさらに染めた。

「そう、ですか。では信じましょう。ジュンタさんが、きっとスイカさんたちをまたアーファリム大神殿まで連れて帰って来てくれると」

 クスリと笑みを零したあと、フェリシィールは全軍に届くような大きな声を張り上げた。

「これが最後の戦いです! 全軍前へ! ベアルの城を――落とします!!」







「そっか……」

 ヒズミは腕の中にいるスイカが語った真実に、正直打ちのめされていた。

 異世界と呼ばれるものを統括するマザーという存在。
 自分たちが元々のアサギリ・スイカ、アサギリ・ヒズミのコピーだということ。
 故郷に戻ってももうあのころの居場所は残っていないということ。
 そして、それらの原因がサクラ・ジュンタという本当の救世主にあること。

 この世界に来てからの様々な、それこそ色々なものを傷つけ裏切った行為の全てが無意味だったという事実は、到底許容できるものではなかった。怒りがマグマのように煮えたぎる。自分自身に対する怒りが。

 簡単な話だ。つまり、それでもヒズミは真実の内容より、そんな真実を一人姉に背負わせてしまった自分を許容できなかったというだけ。

「馬鹿だな、姉さんは。そんな大事なこと、一人で背負ってるんだから」

 変わらない。変わらないよ。

 たとえ真実を知ってもジュンタの奴を殺そうとは思わないし、そりゃ一発くらい殴らせてもらおうと思うけど、それでも姉のことが一番大切だということに変わりはないから。

「しょうがないって思うしかないよ。ある意味開き直れば最高だ。意味がなかった……そうだね、僕たちの思いは無意味でしかなかった。けど、無価値だったわけじゃない。楽しかったよ。姉さんと一緒にいるのはおもしろかったさ。姉さんとジュンタといるときが最高に楽しかった」

 小さな姉の背中を優しくさすって、ヒズミは頭を撫でてあげる。

「恥ずかしいから言いたくなかったけど、結構僕は楽しかったんだ。フェリシィールさんは怒ると怖いけど優しかったし、ズィールさんは厳しかったけど面倒見が良かったよね。ルドール老は色々な話をしてくれたし、オーケンリッターの奴は案外親身だった。ヨリは僕らを一生懸命面倒見てくれた。感謝してる。全員に。本当は僕、盟主っていう仮面を被ってみんなを傷つけたくなかった」

 初めての行為だ。こういうの、あまりしたことないし、姉相手だと初めてだけど。ヒズミは精一杯優しく手を動かした。

「でも、しないといけないと思ったから決意した。でも……もう、いいんだ。僕は嫌なことをもうしないでいいし、姉さんも僕のためにジュンタを傷つけなくてもいい。僕らがしてきたことの罰は受けないといけないけど、大丈夫、結局みんな甘い奴らだ。最後にはきっと許してくれるよ」

「…………うん……わたしも、そっちの方がいい。……酷いことより、誰かを傷つけることより、みんなに謝る方がずっといいよ……」

「そうだね。結局、僕らは平和ボケした日本人だから。戦いなんてもういらないよ。
 一緒に戻ろう、姉さん。本物はお互いだけじゃなかった。僕らが認めなかっただけで、きっと本物はこの世界にだってたくさんある」

 顔をあげたスイカの目尻から、ヒズミは涙を拭う。
 ヒズミが彼女の涙を見たのはこれが二度目。長い間一緒にいてこれが二度目。

 だからこれからは、スイカにとって自分が、涙を流せる場所で在り続けよう。

「探しにいこう、これから。目的のために形振り構わずじゃない。幸せになるための方法を、探しに行こう」

「……見つけ、られるだろうか? こんな抜け殻のわたしでも。わたし、人が殺したくてたまらないんだ。ジュンタ君を傷つけたくて、しょうがないんだ」

「傷つけたっていい。人と人が触れ合って、傷つかないでいることなんてできないから。僕を信じて。姉さんが辛くなったら僕が支えるから。姉さんは獣じゃない。化け物じゃない。僕の大事な姉さんは、きれいな女の子なんだから」

 ヒズミは優しく、触れれば壊れてしまいそうなスイカの小さな手を握った。

「望めば叶うさ。この世界は、僕らが思っていたよりも優しくできているらしいから。今日まで二人でやってきて、だけどダメだった。なら、さ。今度はもっと大勢で探してみようよ」

 ようやく握るべき手を見つけることができた。ジュンタではなく、自分が本当に握るべき手を。

 ヒズミはようやく握ることができた。大切な姉の手を。
 自分が与えられた温もりを、握り合う手から分かち合うことができたのだ。

 その幸福にはにかんで。これからの未来に希望を燃やして。そんなヒズミの手を借りて、スイカは立ち上がった。

「まずは手始めに三人で。僕と姉さんと、そしてジュンタの三人。大丈夫だよ。三人寄れば文殊の知恵さ。きっとこの三人でなら、とても幸せな未来を見つけられる」

「わたしとヒズミと、ジュンタ君……そうだね、きっと三人なら見つけられる。馬鹿みたいにできすぎな、それでも幸せな理想を」

 すれ違っていた過去は終わり。否定していた未来は終わり。これから先は、手を取り合う現在を歩いていこう。

 もう、この世界を否定はしない。
 もう、温かな救世主を拒絶はしない。

「探しに行こう、三人で。この現実で幸せになるために」

 自分たち姉弟には、とても頼もしい味方がついているのだから。

 ヒズミの笑顔を見たスイカは、ぼんやりとした瞳に光を取り戻す。

「わたしも……ただ、純粋に、幸せになりたかった……なろうとすれば良かった……そんな簡単なことに気付けなくて、傷つけて、馬鹿みたいだ。
 悔しいな。もっと早く気付けていれば、別の未来もあったかも知れないのにね」

「まだ、まだ間に合うよ!」

 姉の目が本当の願いを追い続けているのを見て、ヒズミはさらに強く抱きしめて訴えた。

「まだ、僕は間に合うんだ! 姉さんだって間に合うよ! 諦めちゃいけない。今から幸せになればいい!」

「わたしにはそんな『もしも』があるかも知れないってだけで十分だから。だから、ヒズミはその願いを叶えて。わたしの分まで幸せになって」

「姉さん!」

「ダメ。ごめん、わたしは無理だよ。だって――

 ヒズミの抱擁を拒んで、スイカはこれまでになかった力強さで立ち上がった。

 その双眸が爛々と輝く。
 使徒であるはずの金色の瞳ではなく、堕ちた鮮血色の瞳が爛々と輝いていた。


――――わたし、また神獣バケモノになっちゃったから」



 差し込む金色の満月に、スイカの背より飛び出した水の翼が浮き彫りになる。

 猛然と風を舞い上げて、天井の裂け目からスイカは跳び去ろうとする。
 優しい笑顔をスイカは浮かべている。自分の運命を呪うことを止めて受け入れた、慈愛の笑顔を浮かべている。

「待って、姉さん!」

 今行かせちゃダメだ。
 追いかけようとヒズミは必死に手を伸ばして、


――ダメですよぉ。お姉さんの邪魔をしちゃあ」


 その身体を、何者かが振り回したハンマーが捉えた。

「がっ!」

 奇襲も奇襲。まったく予期していなかった攻撃に、ヒズミは防御も何もできずに吹き飛ばされる。

 槌の表面には小さな棘が無数にちりばめられていた。叩くよりも抉るといった方が正しい拷問のハンマー。それにごっそりと肩の肉を抉られたヒズミはボロ雑巾のように地面に転がり、苦痛に気絶しそうになるのを堪えて敵を見た。

 そう、そこにいたのは掛け値なしの敵だ。姉を助ける邪魔をする敵だ。

「さてさて、もうあえて回りくどい真似をぜずともよいでしょうねぇ。この状況を見れば一目瞭然だ。我々が必死に聖神教に抗っているのに、なにせ盟主様がおままごとに興じているのですからねぇ。その意志はないとしても、責任は被ってもらわないとぉ」

「ギルフォーデ!」

 憎悪の雄叫びをヒズミが向けると、暗闇から現れたギルフォーデは痛快そうに顔を歪めた。

「いいですよぉ、その表情! ああ、やはり戦いとはこうでないと。ここぞというときに翻る裏切りの刃。どんな毒よりも強い毒の刃。ああ……素晴らしい。盟主様、どうぞもっとお泣きくださいませ。それがこのギルフォーデに対する、何よりも褒美であります故」

 慇懃に一礼するギルフォーデに合わせ、先程ヒズミを攻撃した禿頭の巨人、ボルギィはハンマーを構え直す。

「しかし非難は困りますよぉ。なぜならば、先に私たちを裏切ったのはあなたの方なのですから」

 お辞儀をしたまま、顔だけをあげたギルフォーデ。そこに歪んだ嘲弄が浮かんでいるのを見て、ヒズミは頭が冷えていくのを感じた。

 ここで吼えてもただギルフォーデを喜ばせるだけだ。今は一刻も早くスイカを追わなければ。

「ああ、いけませんねぇ。その顔は。反吐が出る」

 そう思い、よろめきながら立ち上がろうとしたヒズミの身体を、再びボルギィの振り回したハンマーが襲う。

 小石も同然に吹き飛んだヒズミは、壁に背中から激突し、抉られた太ももと口から血を盛大に吐き出した。

「くそっ……たれ」

 ズルズルと倒れ込むヒズミは、ボルギィではなくギルフォーデに対して悪態づいた。盟主であるヒズミは全てとはいわないが同士の戦闘能力について把握している。中でもボルギィの怪力はまさに右に出る者がいないと言っていい。一撃でどんな相手だって破壊できる。

 にも関わらず二度受けて生きている。手加減、いや、嬲られているのだ。楽には殺さないと、もっと苦しめと。

 確かに、ジュンタの誘いを受け入れたヒズミはベアル教を裏切った形になる。だからギルフォーデたちには自分を粛正する理由がある。だが、それでもくそったれ。ギルフォーデの笑みが気持ち悪くてしょうがないのだ。

「いいだろう。僕だってお前が前から気に入らなかったんだ。敵になるなら好都合。その顔、形が変わるまでぶん殴ってやる」

「いいですねぇ、その敵愾心。恍惚です」

 決して手放さなかった『黒弦イヴァーデ』を杖に立ち上がるヒズミの鋭い視線を、ギルフォーデは余裕の笑みで歓迎する。

「ですがそのような身体で一人、何ができるというのですかねぇ!」

「一人じゃないさ」

「なっ!?」

 再びボルギィをけしかけたギルフォーデの背中を、思い切り蹴り飛ばす輩がいた。

 そっちにボルギィが気を取られた隙を見計らい、何とか動く右手を動かして弦を引く。
 引き延ばされた炎の矢がボルギィの足下に着弾し動きを縫い止める。ヒズミはその間に横をすり抜けて合流した。

「一人じゃない。俺たちは――

――僕らは、二人だ!」

 戦友の元へと。






       ◇◆◇






 一体どれだけの間気絶していたのか?

 気が付けばそこにスイカの姿はなく、傷を負ったヒズミと敵二人の姿があった。

 外からは城を攻める音が聞こえてくる。

 聖殿騎士たちは城の内部に潜んでいた魔獣たちと交戦に入ったようだった。時折城そのものを破壊するような音が響き、天井からパラパラと土が降り注いできたりもした。たとえこの城がどれだけ頑丈であっても、聖殿騎士団の攻城攻撃には長い間耐えきれまい。

 戦いはすでに最終局面に入っている。ジュンタはそれを察し、気になることについて聞いてみた。

「それで、これはどういう状況だ?」

「あぁ、あなたには初めましてですねぇ。私はギルフォーデと申します。こちらはボルギィ。以後お見知りおきを」

「黙ってろよ、細目。お前には誰も聞いてない」

 蹴飛ばされた背中をはたきながらもご丁寧に自己紹介した敵をばっさりと切り捨てて、ジュンタはヒズミを見た。

「悪い。少し気絶していたみたいだ」

「気絶、ねぇ。僕が見た限り、限りなく死にそうだったんだけど。まぁ、言いたいことは色々あるけど僕もお前のことを言えないね。姉さんに逃げられた。すぐに追いかけないとまずい」

「了解。それじゃあ」

「ああ、こいつらをさっさと片付ける」

 ここで初めてジュンタは初見の敵二名を見定めた。

 細目で小柄のギルフォーデと、禿頭で大柄のボルギィ。ギルフォーデは手ぶらでどこか苛立った様子。ボルギィは巨大なハンマーを握り、いかにもというオーラを立ち上らせている。

 対して二人はジュンタが前列に、ヒズミが後列に下がって即席の隊列を組む。以前戦ったことがあるからか。それぞれの立ち位置を迷うことはなかった。

「その前に一つ提案だけど、ギルフォーデ。僕らを通しちゃくれないか? 僕らの目的は姉さんで、今のところお前ら二人に興味はない。聖殿騎士団も突入してきてることだし、逃げた方がいいんじゃないか?」

「優しいお言葉ありがとうございます。ですがご安心を。あと十分程度なら入り口も持ちますしね」

「はっきり言わないとわからなかったか? ボルギィはともかく、お前が完全に回復専門要員だってことは百も承知だ。僕ら二人を相手にして勝てるとでも?」

「まぁ、確かに私はそういった野蛮なことには不向きですがぁ、ボルギィは私の最高傑作でしてねぇ。使徒と巫女、敵に回してこれほど恐ろしい相手もいませんがぁ、まぁ、傷を負っているとすれば問題はないでしょう」

 それに。と、ギルフォーデは続けて、

「誰がこちらが二人だけだと言いましたかねぇ?」

「っ!?」

 ヒズミがその意味を読み取ったときには、すでにジュンタとこの場にいたもう一人は動いていた。

 天井に隠れ潜んでいた敵はヒズミを狙って奇襲を仕掛け、それに間一髪気付いたジュンタは迎撃に出る。

 突き出されたのは槍。落下の勢いと体重を乗せた一撃は咄嗟の防御では役不足。剣を大きく弾かれたジュンタに、襲撃者は容赦ない追撃を放つ。

 短い槍をバトンのように動かし、アクロバティックな角度から攻めてくる。常道の両手による槍裁きではない片手による槍の軌道は読みづらい。だが、ジュンタは短槍の槍使いと一度交戦してことがあったため、その経験を生かして何とか凌ぎきる。

「ちっ」

 攻めきれないと判断したのか、下がった槍使いはそのままギルフォーデの前へと移動し、ボルギィと並んで壁となる。

 再びヒズミの前で構え直したジュンタは、槍使いの顔を見て、苦々しげに訊いた。

「……どうして、って聞くべきか? それとも、お前は誰なんだって聞くべきか?」

「どっちだっていい。ただ、お前の目の前にオレがいる。それが全てだろ?」

 どこからともなく現れたのは、見たことのある騎士であった。
 まだ静寂があった頃、リオンをかけて矛を合わせた聖殿騎士。その名はウィンフィールド・エンプリル。それが目の前に立った男の名だ。

「ああ、そうだな。理由があるかも知れないが知らない方がいい」

「そういうこった。敵として相対したからには、やることは一つ。生き延びるために戦うだけだ!」

 ただこの時この瞬間ジュンタにとっては、ウィンフォールドが言ったとおり、彼らはスイカを助けられたかも知れない瞬間を邪魔した敵であり、それ以上でもそれ以下でもなかった。

 苛烈な攻めに打って出るウィンフィールドに合わせ、さらに今回はボルギィまで攻撃に加わった。

 単調なパワーファイターと素早いテクニカルファイター。
 得物も攻撃スタイルも違う二人は、見事なコンビネーションで向かってきた。

「ヒズミ、援護してくれ!」

「わかった!」

 ヒズミの怪我を考えると、自分が前衛で二人を押しとどめるしかない。
 ジュンタは自分の身体に[加速付加エンチャント]をかけると、度重なるダメージが悲鳴をあげるのを押し殺し打って出る。

 槌と槍を目の前にして咄嗟の判断。

(ボルギィのハンマーは受けきれない。受け流してウィンフィールドの槍を!)

 巨体に似合わぬスピードで迫り、轟音と共に振り下ろしてきたハンマーを旅人の刃で受け流し、そのままウィンフィールドの槍の切っ先も受け止める。未だかつて成功したこともない神業を、極限の集中力が成功させた。

 自由になったドラゴンスレイヤーを振りかぶる。ヒズミがああははったりをかましたが、実際自分たちの疲労は極限状態だ。火事場のくそ力でも何でもやってやる腹づもりとはいえ、長期戦に持ち込まれれば勝ち目はない。ここでどちらかを戦闘不能に追い込む!

 ジュンタが狙ったのは見るからにタフネスのありそうなボルギィではなく、一度戦ったことがあるウィンフィールドだった。前回の戦いで、彼がそこまで打たれ強くないことを知っていた。

「残念」

 しかし、前回の決闘はあくまでもお遊び。そして魔法が禁止されていた。
 
解放

 一言だけの詠唱がキーワードとなって、ウィンフィールドの槍に内蔵されていたギミックが露わになる。切っ先の見えないほど小さな穴から飛び出した何かが、受け止めた旅人の刃を拘束し、さらにはジュンタの左手までもを縛り上げる。

 いや、縛り上げるというより切り刻もうとしていた。咄嗟に攻撃を捨て左手を引き抜かなかったら、左腕を持って行かれていた。たとえ旅人の刃を投げ捨てることになってしまったとしても、腕一本よりはマシだ。

「いい判断だ。だがな」

「オォオオオオオ!!」

 ニヤリと笑うウィンフィールドが後ろに飛び退くのに合わせ、ボルギィがハンマーをたたき上げる。爆薬でも床に敷き詰められていたかと思うくらいの速度で跳ね上がってくるハンマーは、とてもじゃないが避けられない。なかなかに的確なコンビネーションだ。

「[巨大弓バリスタ]」

 なら、こちらも負けるつもりはまったくない。
 ジュンタは防御を無視して攻撃の姿勢を整え、背後からの援護射撃がボルギィをハンマーごと後ろに下がらせた。

 必中の矢はボルギィの動きにおいて、最も致命的な部分を的確に狙う。巨体がぐらりと倒れ込むのを見て、ジュンタは大きな一歩を踏み出した。

 ボルギィの巨体を踏み台にして、ジュンタはウィンフィールドに襲いかかる。

「なるほど、そっちもマジってことかよ。嫌になるねぇ」

 刺突を身軽に避けたあと、面を制圧するような素早い連続突きをウィンフィールドは放ってくる。適当に話して意志を自分に向けようとしているが、攻撃手段からして目的はボルギィの方へと追い詰めること。

 背後に巨体の気配が現れたのを見て、ジュンタは自ら大きく下がった。

 視線の先でボルギィとウィンフィールドの二人が直線上に並ぶ。そして、今旅人の刃は距離が離れた場所に落ちている。

 左腕に雷気を溜める。鞘として機能させるためのエネルギーを溜め込む少しの時間。だが、二人に警戒させるのには十分な時間だ。二人をその場に縫い止めるために、今ジュンタが何をするつもりなのか悟ったヒズミが、見事な牽制の矢を放つ。

「来い、旅する刃」

 どれだけ持ち主が弱っていたとしても、同じ室内という距離で必中の矢が逸れることはあり得ない。こと援護という形でいえば、ヒズミの『黒弦イヴァーデ』は最強に近い。なら、今度はこの一撃でジュンタは最強に恥じない一撃をお見舞いしよう。

――居合い・偽」

 ジュンタの左腕を鞘にし、放たれる雷光の剣。
 直線上にあるものを貫く雷光は、人間二人を戦闘不能にしてあまりある威力で疾走する。

「見せてあげなさい、ボルギィ。あなたの本当の力を!」

 ここにギルフォーデさえいなければ、ジュンタの一撃はボルギィとウィンフィールドの二人ともを倒していたことだろう。

 カッと見開かれるボルギィのくぼんだ瞳。

「オォオオオオオオオ――!」

 ドラゴンの咆吼に匹敵する雄叫びを耳にしたとき、その破壊力が大気を震わしたのを見たとき、ジュンタは自分の攻撃がボルギィに受け止められたのだと思い知った。

 だから――結末を見届ける前に、即座に左腕に再度雷気を注ぎこむ。

「悪いな。この技の一番の魅力は――連射が可能だってとこなんだよ」

 回収し、再び放たれる剣の稲妻。
 それがボルギィを貫いたかは定かではないが、ボルギィの巨体を受け止めていた足場の限界は超えた。

「おいおいおいっ!」

 足場が崩れ、踏ん張りがきかなくなったボルギィの巨体が勢いに吹き飛ばされる。背後にいたウィンフィールドもろとも、壁にめり込むくらいの勢いで叩き付けられた。

「ヒズミ!」

「わかってる! ついでだ、受け取れ!」

 さらにはヒズミが連続で二人めがけて矢を打ち込む。衝撃と土埃に視界が塞がれた瞬間を見計らって、二人は部屋を後にした。ここで戦う時間が今は惜しい。すぐにスイカを追いかけないとまずいのだということが、気絶していたジュンタにもわかった。

『ユニオンズ・ベル』の屋上から届く魔力の波動。毒々しいほど汚らわしい獣の魔力を感じる。

「追いなさい!」

 背後に叱咤するギルフォーデの声を聞きつつ、二人は屋上へと続く廊下を駆けていく。

 そこでようやく、ジュンタはヒズミからスイカの身に起きたことを詳しく聞くことができた。

「姉さんの本当の目的、それは死ぬことだったんだ」

 話は、そんな悲しい真実から始まった。

「姉さんは死にたがっていた。それしかもう自分には残されていないと、そう思ってるんだ。辛くて、悲しくて、もう他に道はないって諦めてるんだよ」

「馬鹿な。道がないわけない。どんな罪を犯しても、贖えないなんてそんなの……」

「そうさ。その通りさ。姉さんは酷いことをした。だけど、やり直せないことじゃないって僕も思ってる。だけど、だけど……ただ一つ。姉さんをあそこまで追い詰めた根本的原因が、姉さんをそうさせてるんだ」

「それは、この世界の真実か?」

「いいや。神様の残酷な祝福だ」

 ジュンタが思い当たる唯一のもの、世界の真実ともいえるものを理解しながらも否定して、ヒズミは言った。

 スイカをそこまで追い込んだ理由。
 スイカが死ぬことを求め始めた理由を。

「僕が『封印の地』に残った姉さんのところへ追いついたとき、姉さんは神獣の姿に変わってたんだ」

 ジュンタは思い出す。かつて、ヒズミがこう言ったことを。

『姉さんが神獣になるっていうことは、つまり姉さんが死ぬっていうことだ』

「お前は前に言ったな。スイカが神獣の姿になることは、スイカが死ぬっていうことだって」

「そうさ。肉体的な意味での死じゃない。精神的な意味で姉さんは死んでしまう。たぶん、今の姉さんの気持ちは、誰よりもお前が詳しいはずだ。ジュンタ」

「俺が……?」

 ジュンタは走りながら、めまいのようなものを感じた。今までのスイカやヒズミ、色々な人たちとの会話全てが重なり合って、ジュンタに雷光の早さで真実を理解させる。

「目の前にあるもの全てを壊したくなる。目の前にいる人間全てを殺したくなる。我慢しても、堪えても、時折意識がなくなるみたいに、夢を見るみたいに気が付けば誰かを殺している」

 それは病ではなく呪い。獣の本能ではなく獣の狂気。

「姉さんの背負ったしまった狂気。姉さんの神獣としての姿。それは――

 ……そういえば、一つだけまだ疑問が残っていた。

 それはドラゴンがどうしてベアル教に協力したかということ。てっきりディスバリエの仕業だと思っていたが、もしかしたらスイカの力だったのかも知れない。

 あの堕天使の翼を持つドラゴンは、言語を理解する理性的な面を持ち合わせていた。言葉を交わすことができたなら、あるいは説得も叶ったかも知れない。しかしながら、ドラゴンへと言葉を伝えることができるのは、またドラゴンのみ。

 もしかしたら、スイカは以前『封印の地』に赴いたあのときにはもう、そのことに気が付いていたのかも知れない。自分とドラゴンの会話を理解して、あのドラゴンならば従えさせられるだろう、と。

 スイカは言った。自分は救世主の実験体として連れてこられたのだと。だから、たぶん彼女はあらゆる面で想定された、予定された順序に従ってこの世界に連れてこられ、人ならざるものにされてしまったのだろう。

 金色の瞳がその証。救世主サクラ・ジュンタの神獣としての姿がドラゴンだというのなら、


「姉さんの神獣としての姿はドラゴン――堕ちた魔竜なんだ」






      ◇◆◇






 『狂賢者』ディスバリエ・クインシュは『ユニオンズ・ベル』の半ば崩れた屋上で待っていた。

 誰を待っているのだろうと自分に自問しても、答えはない。色々な人を待っていたし、でも実際に来て欲しい人は一人だけだったから。

 それでも、裂け目をくぐり抜けてやってきたのは待っていたけど、待っていない人だった。

 小さな黒髪の妖精のような少女。背からは透明な美しい羽根が生えている。ただ、その鮮血の瞳が美しさを根本からかき消していた。

「……結局、そうなりましたか」

「うん、どうやらなっちゃったみたいだ」

 あまりに軽やかに彼女は言う。今の彼女には、自分の確定した未来を知るが故の安心感と絶望感が混ざり合った、何とも人間離れした何かを感じる。

「ごめんね。あなたが折角魔法をかけて時間をくれたのに、わたしは好きな人を呪うことに時間を使ってしまった」

「気になされないでください。人は辛いときほど、一番大事なものに縋ろうとします。あなたにとってはそれが彼だったというだけ。求め方が憎悪という形だったというだけ。見方を変えれば、ただ好きだから……その、一言だけなのですから」

「そっか……ありがとう。あなたのその言葉に、今、救われるわたしがいる。こんな姿になっても、それだけは変わらなかったんだ。最初から最後まで、そのことだけは変わらなかったんだ」

 スイカは目に見えないものを抱きしめて、酷く嬉しそうに笑っていた。
 見た目相応の無邪気な微笑み……あまりにも哀れで、ディスバリエは見ていられなかった。

 眼下に視線を送る。

 眼下には勝利を確信し、ハイエナのように集まってきた信仰の盾たち。もはやベアル教は虫の息。敗北を突きつけられるのにそう時間はかからないだろう。

「それで、あなたのこれからのご予定は?」

 背後に立ったスイカに対し、ディスバリエは今日の夕食の献立を訊くような軽い声で尋ねた。

 その手を死神の鎌に変えて、背後からディスバリエの首に手をかけたスイカは、逆に問う。

「それはこっちが聞きたいな。ディスバリエ・クインシュ。あなたはジュンタ君とヒズミをどうするつもり?」

「そうですね……その前に、なぜこんなことをするのか訊いてもよろしかったですか?」

「だって、二人のことが大切だから。わたしはもう手遅れだけど、二人はまだ大丈夫。だから、わたしが少しでも敵は減らしておいてあげないと。だってわたし、ヒズミのお姉ちゃんで、ジュンタ君のことが好きだから」

 照れも何もなくスイカは口にする。愛する人のために敵は殺す……その発想がもうすでに、獣の考えだということに気付いてはいないのだろう。

 ここまで人間として欠けてなお、そこまで誰かのために何かをできるのは素晴らしいことだ。ディスバリエは心からの敬意を抱き、歌うように口にした。

「あたくしには、この世界で何よりも誰よりも愛する御方と、この世界で何よりも誰よりも憎む御方がいます。サクラ・ジュンタ……あの方は、そのどちらか」

「そっか……なら、あなたは殺さないでいいな」

 すっと鎌が消える。二者択一を残したはずなのに、スイカは悩む様子も見せなかった。

 ディスバリエは振り向いて、無邪気に笑うスイカを訝しげに見る。
 彼女はこちらの疑問に気が付いたのか、どことなく自慢げに、頬を軽く染めてそう言った。

「わたしも同じだから、あなたは大丈夫だ。だって、あなたは恋する乙女の顔をしているから」

 たぶん、今自分は珍しい顔をしているだろう。そう、ディスバリエは確信した。
 なるほど。大したものである。アサギリ・スイカ……彼女を生け贄にしなくて良かった。彼女はこの上なく狂っている。愛に狂っている。

「ええ、そうですね。否定はできません」

 小さく唇を綻ばせ、ディスバリエは立ち上がる。

 待つのは終わり。そろそろ、仕上げに取りかからないといけない頃合いだ。
 ディスバリエは笑顔のまま身体を崩していく少女に背を受けて、大きく空へと手を伸ばした。

楔は消え、世界の在りようは大きく変わった。古の契約はここに破綻せり。破壊のあとの秩序の形は、我が手と奇跡の光によって決定せり

 唱えられた言霊により、世界に刻まれた三つの大いなる刻印が反応する。

 三つ揃ってようやく機能する秩序の三角形。しかし、その一角はすでにない。故に、秩序はここに崩壊する。

『封印の地』よ、在りようを変質せよ。聖なるかな。聖なるかな。聖なるかな

 繰り返す言葉は三度。たったそれだけで、あれほど強固だった世界は歪む。

 確かに変わった世界を、だがまだ見た目は何も変わらない世界を、少女だったものは満足げに見ていた。

 恐らくディスバリエだけが知っている、ドラゴンの秘密。魔竜と呼ばれるものに共通する概念。

 魔竜はすべからく死にたがる――

『バケモノは死ななくちゃいけない。だから先に行くよ、『狂賢者』ディスバリエ・クインシュ』

「いってらっしゃい、アサギリ・スイカ。どうか、その愛を最後まで貫いてください」

 透明な羽根をはためかせて、少女が今空へと行く。

 それを地上より虹の光と共に見送りながら、ああ、と小さな声でディスバリエは呟いた。

「あなたの憎悪はあたくしが受け継ぎましょう。あなたの愛で憎むべき御方を殺してみせましょう。人と世界を救ってみせましょう。そのために、あなたは今日愛しきものを殺しなさい。明日への礎となるために。破壊のあとに、救世の虹がかかるように」





「何が起きましたの!?」

 リオンは突如鳴動を始めた大地に、シュラケファリを大人しくさせながら事態の推移を確かめることに全力を尽くした。

 何の前触れもなく、今まさにベアルの城を攻略しようとしていた刹那に起きた大異変に、聖殿騎士団は否応なく混乱に叩き込まれていた。それを必死に正すフェリシィールにも異変が見られた。

「あ、ああ……」

「フェリシィール聖猊下!?」

 馬上で頭を抱えるフェリシィールの様子は尋常ではなかった。

 何かに怯えるように、あるいは欠けていく何かに恐怖する表情は、いつも慈愛で溢れていた金糸の使徒には似つかわしくないものだ。

「聖猊下! お気を確かに!」

 リオンは馬上から横へと滑り落ちるように倒れるフェリシィールを抱き留めて、正気を促すようにその頬を叩いた。

 するとフェリシィールは激しく揺らしていた視線をこちらに定め、はっとなって肩を掴んできた。

「リオンさん! ああ、大変なことに! 大変なことになってしまいました!」

 掴まれた肩から彼女の震えが伝わってきて、必死な様子からはその焦りようがうかがわれる。フェリシィールから言われるまでもなく、大変なのは明らかだった。

「聖猊下。落ち着いてください! 一体何が大変なのですか!?」

「あ、ああ、そうですね。落ち着かなければ。落ち着いて全軍に撤退の指示を――

 深呼吸を繰り返して自分を落ち着かせようとしていたフェリシィールが、そのときぎょっとなって自分の手を見つめた。

 見れば、その指には青い縁の糸が結ばれていた。足下からは温かな光が溢れて、彼女をここではないどこかへと誘おうとしている。

「こんなタイミングで!? ルドールのお馬鹿!」

[召喚魔法]の予兆を確認して、フェリシィールは焦りも極まった様子で顔を近づけてきた。ともすればキスでもするのではというくらい至近距離に、フェリシィールの真面目な顔が寄せられる。

「良いですか? リオンさん。よく聞いてください。もはや一刻の猶予もありません。わたくしが消えたあと、すぐにベアルの城から全軍を退避させ、前線基地へと移動を開始するのです。他の何かをする時間を放棄して、ただ全力で撤退してください」

「撤退? ですが――

「いいから聞いてください!」

 威圧感すら漂う声で反論を封じられる。今は反論を聞く時間すらないようだった。すでに召喚の光は、フェリシィールの全身を包み込んでいる。

「疑問はあるでしょうが、ここはわたくしを信じて言われた通りにしてください。全軍を全速力で撤退させるのです。時間を見計らって、わたくしがアーファリム大神殿からこの地へと道を繋げます。そこから全軍を、聖地ラグナアーツへと避難させ――……」

 フェリシィールの言葉尻が光に攫われる。

 フェリシィールはリオンを巻き込むわけにはいかないと、リオンから離れて誰もいない場所へと下がった。

 もう召喚の光に囚われてしまった彼女は何も伝えることができない。口を動かす彼女だが、リオンの耳はフェリシィールの言葉を捉えられない。

 一体フェリシィールは、人ならざる感覚でこの灰色の世界のどのような異変を見つけてしまったのか?

 消える最後の最後まで、『自然の予言者』は何か必死に訴えていた。あるいは、それはリオンに向けていったものではないのかも知れない。目の前にいる別の誰かに伝えたものだったのかも知れない。

 そしてフェリシィールが光と共に消えた刹那のあと――全ての疑問は明らかとなる。


「神ヨォォォォオオォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ―― ッ!!」


 それはあまりに毒々しい金きり声。空間すら切り裂く求めの声。

「この声は……嘘でしょう?! どうして、あの男が『アーファリムの封印の地』に!?」

 異端導師の奏でる、それは地獄の軍勢の進軍ラッパ。






 アサギリ・スイカはドラゴンの使徒である――それが全ての答え。

 アサギリ・スイカをあそこまで追い詰めたもの、それこそがジュンタも今背負うドラゴンの狂いに他ならなかったのだ。

「覚醒のとき、姉さんは周りにいた全ての人間を皆殺しにした。僕以外の全てを破壊し尽くした。そのときから姉さんは必死に堪え続けてる。姿を隠す水の鎧は、同時に獣の貌を出さないための心の鎧だったんだ」

「スイカの神獣の姿が、ドラゴン……」

「お前ならわかるだろ? その怖さが、その恐ろしさが! 姉さんは言っていた。二度目は耐えられないって。なったら最後、世界を滅ぼそうとする魔竜になってしまうって。だから、姉さんは隠し続けてきた。自分のために。人のために。世界のために。けど……」

 ヒズミの顔が悔しそうに歪む。代わってあげられない自分を責める、そんな顔に。

「知ってしまった真実の惨さに耐えられなかったんだ。今まで耐えてきたものがあふれ出して、姉さんはまたドラゴンになってしまった。ディスバリエの奴がどうにかしてくれて人間に戻れたと思ったけど、それはきっと時間稼ぎにしかならなかった。姉さんはあのときからずっと、魔竜に近づき始めてる」

「なら、どうする?」

 気付けなかった自分を悔やむようなヒズミに、ジュンタは冷たい水を浴びせるように問うた。

 ヒズミははっとなってジュンタの顔を見ると、

「これからどうするのか。それが、重要だろ? ヒズミ。悔やむのは最後でいい。スイカが今魔竜になろうとしてる。だから、俺たちがどうするのか。それが重要だ」

「そうだ……ああ、そうだな。ここで諦めるつもりなんて僕にもないね」

「よしっ!」

 ヒズミの顔に力強さが戻る。意気込んで、二人は足を止める。

 すぐ先には階段がある。屋上へと通じる階段だ。この先に、スイカがきっと待っている。

「行こう、ジュンタ。もう無理かも知れない。手を伸ばすことに意味なんてないのかも知れない。それでも諦めきれないから……僕は行く」

「行こう。俺はまだ、スイカの手を握っちゃいないから」

 そうして二人は、屋上へと足を踏み入れた。









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