第十六話  狂賢者




「一体、何が……?」

 忘我のままに、フェリシィールは守るべき聖地で起きている異変を眺めた。

 ルドールによって召喚されたフェリシィールがアーファリム大神殿から見た聖地ラグナアーツの様子は、平和な都とは一変していた。

 水の都と呼ばれる由縁である、都を縦横無尽に駆けめぐる水路の水が空へと柱が建てられたように高く伸びていた。雲を貫き遙かな空にまで。それはまるで何かに吸収されていくように、南の空へ消えていく。

 アーファリム大神殿より流れ出る水は止まるところを知らないため、また消えていく水も尽きることはなかった。空を幾重にも蹂躙する水の流れは、果たしてどこへ流れ着こうとしているのか。

 自然の予言者たるフェリシィールには、その行く末を目で追うことはできなかったが、明確な感覚として一つのことを感じていた。

「知っています。わたくしは、この予知を知っています……」

 それはフェリシィールが恐怖する、何よりも恐ろしい予知。この世界に悪魔が現れ出でたことを知らせる予知。

 身体をかき抱いたフェリシィールは今、遙かな追放世界よりこの世界へと侵蝕してこようとしている厄災を明確に感じ取っていた。あれらの水は、この世界と『封印世界』の間に水路を築こうとしているのだ。

 もう、時間は残り少ない。

 フェリシィールは恐怖を押し殺して、毅然とそこから見える街並を見つめる。

「この聖地に生きる人々を、決して傷つかせはしません」






 それは巨大な肉塊であった。

 南の地平線より奇声をあげて現れたソレを称する、他の呼び方がわからない。
 炭で磨いたように艶ややかな、しかし見るものを恐怖させる呪いという名の粘液で濡れ光る黒い肉塊。転がるように、引きずるように向かってくる様は、悪夢以外の何ものでもなかった。

 距離が近くなったことにより、殊更にその醜悪な印象が目に刻まれる。

 巨大な肉塊はそれが一つの生物ではなく、多くの生物が集まってできた肉塊のようであった。まるで心臓だけを無数にかき集めたかのような姿。もはやそれは魔獣という一言でも言い表せられない、紛れもない『怪物』である。

 全長は五十メートル近く、近くに寄られると高い肉の壁――あるいはドクドクと鼓動する塔にも見える。生きた肉塊の塔だ。

「神ヨォオオオオオオオオオオオオオ――ッ!」

 肉塊は先程から同じ叫び声を続けている。それは近付くことによって、ようやく何と言っているか判明した。

 神よ、と。なんということか。肉塊はあのような怪物でありながら、神を求める求道者であるという。

 リオンは知っていた。その肉塊に最も近い魔獣の名を。求道者の名を。

「キメラ……ウェイトン・アリゲイ……」

 今は絶滅せし混沌獣へと至った、ベアル教『純血派』の異端導師。現れたキメラが怪物と成り果てても神を求める求道者であるというのなら、それはもう疑うまでもなく目の前のソレがウェイトン・アリゲイのなれの果てであるのは間違いなかった。

「でも、どうしてここにキメラが? キメラが放逐されたのは『ナレイアラの封印の地』のはずですのに」

 リオンの疑問を余所に、すでに前線では戦いが始まっていた。

 ベアルの城へと攻撃を加えていた聖殿騎士の全てが、即座にこの場で最も危険な相手が誰かを悟り、攻撃対象をキメラへと変更する。

 黒い肉塊に向かって、突きつけられる白銀の切っ先。色とりどりの破壊の牙が突き立てられ、その肉を抉っていく。

「神ヨォオオオオオオオオオオオオオオオ――ッ!」

 だが、キメラには痛覚もなければ、聖殿騎士団に対する反応もなかった。

 みちみちと時間が巻き戻るかのように、空いた穴が周りの肉によって塞がっていく。その体積は一切減じた様子がみられず、またその歩みも止まらない。

 南より現れたキメラがひたすらに近付こうとしている場所は――ベアルの城。
 リオンはそこでようやく、かのキメラが今この地で誰を求めているのか理解した。

「総員! 全力でキメラを止め――

 キメラの登場にも何とか平静を保っている聖殿騎士団であったが、さすがにフェリシィールが消えた今、然るべき対応を即座に取ることは望めなかった。リオンは全指揮権と共に託された責務に従い命令を下そうとしたところで、フェリシィールの最後の言葉を思い出す。

(フェリシィール様はおっしゃられた。すぐに全軍を撤退させるように、と)

 リオンはキメラの目的がベアルの城にいるドラゴン――つまりはジュンタであると気付き、また脅威である魔獣を仕留めるためにも相手取ろうとした。それは聖殿騎士団の力を使えばキメラを倒せると踏んだからだ。

 以前にもキメラが消滅寸前まで追い詰められる様を、リオンは見ている。あのときは一対一の戦いであり、それ以上は望めなかったが、今なら同規模の攻撃を数度にわたって繰り返せる。あのときよりも敵の体積は大きいが、所詮は肉塊の塊。倒せるだろう。

 だがフェリシィールは最後に言った。すぐにここから撤退するように、と。

 それはなぜか? キメラ一体であれば聖殿騎士団を引かせる必要など……

「…………もしも、キメラ一体ではなかったら……?」

 指示を止めて考え込んだリオンは、すぐにフェリシィールが言いたかった異変の真の正体に気付く。

 見れば、南の地平線の彼方を黒く蠢く何かが埋め尽くしていた。

 南――そもそも、どうして南から魔獣が現れるのか?

 まだこの『封印の地』には半数近い魔獣が残っているが、それでもこのベアルの城がある場所こそが南の最果てだ。これ以上先は聖地と呼ばれない土地になる。聖地の裏側にある『アーファリムの封印の地』である限り、南より魔獣が新たに現れるはずがないのだ。

 しかしキメラは現れた。そして何より、あのウェイトン・アリゲイのなれの果ては、本来『ナレイアラの封印の地』にいるべき魔獣。聖地より大陸の南に位置する、グラスベルト王国・シストラバス領ラバス村の裏側に……。

「まさか……!」

 リオンは地平線を埋め尽くす黒いものが何なのか気付き、フェリシィールが出した撤退の指示をすぐに出せなかった自分を後悔する。

「総員! よく聞きなさい!!」

 まずは後悔より先になさねればならないことがある。そう、まずは撤退だ。聖殿騎士団の全軍を前線基地まで下がらせ全力で元の世界へと戻る。これ以上ここにいること、それ即ち全滅だ。

 リオンは腹の底から声を張り上げる。キメラの奇声に負けないように。

 皆の視線が自分に集まるようにとシュラケファリを全軍の中心部へと移動させ、そこで現最高指揮官として、最初にして最後の指示を叫びにした。

「現時刻をもって、一切の戦闘行為を停止。全軍は速やかに前線基地へと移動し、そこから元の世界へと帰還します!」

 当然のようにざわめきは起こる。だが、そんなことを許している時間すら今は惜しい。

「繰り返しますわ! 全軍撤退! この戦い――私たちの負けです!!」

 リオンの告げる敗北宣言の意味にその場にいる全員が気付いたのは、その次の瞬間だった。

 キメラに遅れて南より押し寄せてきたのは、黒い黒い魔獣の軍勢。餓えた封印の軍勢。

 その数、数えきれず。まるでダムが崩壊して水が一度に流れてくるように、膨大な数の魔獣が戦場へと流れ込んでくる。

 さらに戦場へと――王は帰還する。

 リオンから見て西側の方角の空から、高速で飛来する黒い影が現れた。

 それは本来ソレが有する飛行速度を超えた速度で戦場の空を支配下に置くと、眼下に向かって猛烈な紅蓮のブレスを吐き出した。

 キメラのみならず、魔獣の軍勢の登場に動揺していた聖殿騎士たちにとって、王の帰還は致命傷になった。鋭角的な印象を受ける漆黒のドラゴンが放ったブレスは、一切の防御をさせず、その場にいる数十の命を容易く呑み込んだ。

「ドラゴンが帰還。いいえ、また現れたということですのね」

 ドラゴンの再登場が意味するのは、ズィールの竜滅が失敗に終わっていたということではない。間違いなく、彼の竜滅はなされた。ただ簡単な話だ。ドラゴンはそもそも、『封印の地』と呼ばれる場所には三体いるのだから。

 聖地そのものである『アーファリムの封印の地』、聖地の南に位置する『ナレイアラの封印の地』、聖地の西の位置する『メロディアの封印の地』。その三つの『封印の地』に、それぞれ一体ずつドラゴンは、いる。

 キメラがこの戦場に現れたこと。新たなるドラゴンが現れたこと。それが意味することは、ただ一つ。


「全ての『封印の地』が、繋がった……!」


 魔獣の行進が、キメラの求めが、ドラゴンの暴威が絶望を歌い上げる。

 敵には仰ぐべき玉座が二つある。そして、その兵は二十万と五千――

 異変は止まることを知らなかった。さらに、空より渦を巻くように滴が落ちてくる。

「水……?」

 リオンがベアルの城の頭上に見たのは間違いなく水だった。

 灰色の城の頭上より雲を突き抜け、天蓋すら喰い破ってどこからともなく水が落ちてくる。
 それは豊富に神秘を混ぜ込んだ聖なる水。しかし、それは今世界すら侵蝕する猛毒の気配を孕んで、ベアルの城を呑み込もうとしていた。

「嘘、でしょう? また、こんな……!?」

 水はベアルの城の最上部で一つの形を取り始めた。
 リオンの血が、身体が証明する、一つの獣の姿を。

「ジュンタ……!」

 リオンは最愛の人の名前を呼んで、この世に生まれ落ちようとしている厄災を、見る。


 

 

 屋上は先のジュンタとヒズミの戦いを経て、荒れたまま放置されていた。しかし去ったときほど荒れてはおらず、まるで城そのものが再生しているかのように少しずつ修復されていた。

 足を踏み入れれば屋上の隅から隅まで見て取れるそこに、しかしスイカの姿はない。
 砕け折れたはずの尖塔の一つに『狂賢者』ディスバリエ・クインシュが佇んでいるだけだった。

 ディスバリエはやってきた二人に気付くと、閉じた瞳を少し柔らげる。

「ごきげんよう、お二方。こうしてまた再会できたことに喜びを感じていますわ」

 気安いあいさつに答える余裕など二人にはなかった。ジュンタとヒズミは揃って空を見上げ、そこで起きている異変に、自分たちが間に合わなかったことに言葉を失う。

 ディスバリエの隣。尖塔にのたうつ水の柱。

 空へと蛇のように伸びていく水の柱は、空から落ちてきた水の柱とぶつかり合流する。まるで新たな河が天空にかかったかのように水路は繋がった。

 河は下流の方、ジュンタたちの目の前の部分で枝分かれし、支流をのばしていく。支流は四つ。伸びた先でさらに五つに枝分かれし、流麗な姿を形取っていた。
 巨大な翼が空を塞いでいるが、空で形作られる水の芸術を見上げるジュンタとヒズミの視界は開けていた。水の翼は妖精の羽根のような、半透明な美しい翼。

 美しかった。
 それは途方もなく美しく、恐ろしい生き物だった。

「水の、ドラゴン……」

 貌に鮮血の双眸が生まれるに至って、それは世界を壊すような気配をばらまく。
 そこに生まれたのは魔獣の王の姿。絶えず体内で流動が起きている、水流のドラゴン。まさにヒズミが語った通りのドラゴンの姿。スイカの神獣としての姿にして堕ちた姿だった。

 ――るぁあああああああああああああああッ!!

 世界に生まれ落ちた水竜は、口から美しい声を発した。

 ドラゴンの咆吼とは思えぬ歌うような雄叫び。
 悲しみで満ちた声だ。まるで恋人を探して海を永遠に彷徨う、セイレーンのような悲しい声……。

「祝福を。彼女が選び、彼女が願い、彼女が至ったその姿……たとえ魔竜と呼ばれるものだとしても、悩み悔やむ懊悩の果てに辿り着いた答えであるのですから」

「姉さん!」

「スイカ!」

 ディスバリエの声で我を取り戻したヒズミが、ゆっくりと塔から離れようとしているスイカに向かって手を伸ばして飛びついた。

 ジュンタも同じように、このままスイカを飛び立たせてはいけないと思い手を伸ばしたが、そのときにはすでに尾の先しか手が届く場所はなかった。その尾をヒズミが掴むのを見て、ジュンタは地力で空へと駆け上ろうとする。

「姉さん!!」

 だがそれは尾を掴んだヒズミの手が、あまりにあっけなく水しぶきと共に空を切ったのを見て止めざるをえなかった。

 ヒズミの絶叫を背に、スイカは空へと飛び立つ。空から幾多の細い水路が流れ出てきてはスイカの元まで流れ込み、二十メートル強のドラゴンの形を作っている。その身体を構成している水はあくまでも水であり、掴むことは叶わない。少なくとも、ジュンタとヒズミには。攻撃はただの攻撃となり、今は彼女の肉である水を削るに終わるだろう。

 遠ざかっていくスイカの姿。
 空を飛ぶ姿は鯨が泳いでいるようにも、ワイヤーアクションで蛇が飛んでいるようにも見えた。

「……ディスバリエ・クインシュ」

「はい、なんでしょうか?」

 双剣の柄が軋むほど力をこめたジュンタは、怒りを噛み砕いた声でディスバリエに話しかけた。

「どうすれば、スイカを助けられる?」

 気安く応じたディスバリエに対するジュンタの要求は簡単だった。

 ディスバリエ・クインシュ。おおよそこの世界でドラゴンという存在について一番知っているだろう人物。そしてジュンタの予想が正しいのなら、彼女はさらに踏み込んだ世界の真実についても知っているはずだ。

 ジュンタの声を聞いたヒズミもはっとなって、ディスバリエに詰め寄る。こちらは柵を押さえ込んだジュンタとは違い、直接的な行動をもって応対する。『黒弦イヴァーデ』に炎の矢を生むと、彼女の心臓に狙いをつけた。

「答えろ。ドラゴンを知り、マザーのことを知り、一度は姉さんを元に戻したお前だ。お前なら知ってるはずだ。魔竜を元に戻す方法を!」

「その傷でさらに魔力を使えば、死んでしまいますよ? 盟主様」

「答えろッ!」

 怒りの声と共に一層燃え上げる魔弾を見ても、ディスバリエは動じない。そっと顎に指を添えると、何かを考えるような仕草を見せながらジュンタをじっと見つめた。

「……やっぱり、お前がスイカにこの世界の真実を教えたんだな? お前も知ってるんだな? マザーのこと。新人類のことを」

「そこまで悟られているのに否定するのも意味はないことですね。
 ええ、存じています。あたくしこそが、そう。哀れな実験動物、アサギリ・スイカに真実を教えたのは、このあたくしです」

 認めたディスバリエに、ジュンタは何ともいえない複雑な思いを抱く。スイカを追い込んだことに対する怒り。どうしてマザーのことを知っているのかという疑問。得体の知れない彼女に対する恐怖。色々と。

「もう一度だけいう。答えろ、『狂賢者』ディスバリエ・クインシュ」

 ヒズミはどこまでも純粋に今必要なことだけディスバリエに問い質す。熱く見えながらも、その瞳は現実をしっかりと見据えていた。

 戸惑っていても、絶望してもスイカを救えない。
 現実的に考えれば、ここは是が非にでもディスバリエの知識が欲しかった。

 ディスバリエは敵対関係。脅すこともやむなしなのかとジュンタが剣の切っ先を僅かに持ち上げたところで、突如として予期せぬ方向から男の声が響いた。

「もう貴公は我らが盟主ではないぞ、ヒズミ・アントネッリ。命令に従う義理はない」

 ディスバリエの斜め後ろ、復元されたばかりの別の尖塔の上に、壁を駆け上がって躍り出た漆黒の姿はあった。全身をくまなく覆った黒の甲冑に、呪われた毒の槍。スリットの奥で燃え立つような瞳をギラギラと輝かせた来訪者――コム・オーケンリッターは、魔槍をヒズミに突きつけた。

「そして時間もタイムオーバー。残念ですね、悲しいですねぇ。ですから潔く諦めてください」

「オ、ォオオ」

「諦めきれなくても諦めないといけないときがある。恨むなとは言わないがな」

 さらに背後の階段の下から追いかけてきたギルフォーデとボルギィ、ウィンフィールドまでもが現れる。

「くっ、追いつかれたか」

 前と後ろを囲まれて、ジュンタとヒズミは身動きが取れなくなった。

 ディスバリエはこれを知っていたから心臓を狙う必中の矢を見ても怯えなかったのか。必ず当たるとはいえ、当たる前に撃ち落としてしまえば脅威ではない。たとえ距離的にはヒズミの方がディスバリエに近くとも、それ以上の速度で妨害は入り込むだろう。コム・オーケンリッターがいる限り。

 援護したくとも、ウィンフィールドとボルギィを前にしてはそれも叶わない。『居合い・偽』の連発の所為で、先程から左手の感覚がない。ジュンタとヒズミは背中をお互いに合わせる。

「しかし、首尾良く『封印の地』を一つにすることには成功したわけですがぁ、まさかここでスイカ・アントネッリがドラゴンになってしまうとは。彼女がドラゴンの使徒であることは知っていましたが、はてさて、一体何を狙っているのやら」

 一人戦闘要員ではないギルフォーデが、空を見上げて軽く驚き混じりの呟きをもらす。いやらしい声は緊迫した空気の中よく響いた。

 ジュンタは飄々としつつも油断のないウィンフィールドと動かないボルギィを牽制しながら、スイカの様子を盗み見る。

 空へと行ったスイカがまず最初に行ったこと。
 それは『ユニオンズ・ベル』の上空を一周グルリと旋回することだった。

「神ヨォオ!」

 そして、口から青いドラゴンブレスを、城へと迫っていた巨大な肉塊めがけて撃ち放った。
 
 身体がそうであるように、スイカが放ったブレスもまた水のブレス。口から一本の、猛烈な水流を放ちキメラを打ち据える。ただの水とはいえ、膨大な量が凄まじい速度で放たれれば、そこに生まれるエネルギーは膨大だ。津波が全てを押し流すように、キメラの巨体を大きく後ろへと押しのける。

 キメラは突然の攻撃に対応できず、いや、そういった判断ができる能力があるのかわからないように、前進を続けてはブレスに押し返される。水のブレスは尽きることがなく、どんどんとキメラを後退させた。

 そうしていると、スイカの方にも変化が訪れる。

『封印の地』内の水分が乏しいため、壊した空から流れてくる水を補給源にして自らの姿を形作っている水竜のブレスは、まさに自分の身体そのもの。そのため、補給の速度を超えて水のブレスを放てば徐々に身体を構成する水は減っていく。攻撃そのものが彼女にとっては自傷行為なのだ。

 だが、威力は絶大だった。

 さらに勢いを強めたブレスによって、ついに地面に根を生やしていたかのように決して地面から離れなかったキメラの巨体が宙に浮き上がる。そのまま津波に押し流される家屋の如く、キメラは遙か地平線まで流し飛ばされ、また地平線に迫っていた魔獣の軍勢の多くも吹き飛ばされる。

「まさに身を犠牲にした攻撃ですねぇ。素晴らしい自己犠牲の力。困りましたねぇ、『狂賢者』様。ここで聖殿騎士団を壊滅させる予定でしたのに、このままでは逃げられてしまいますよぉ?」

「それもまた一つの運命、と思う他ないでしょう。言ったはずです。あたくしにも使徒の動きは読めない、と。『封印の地』を在るべき姿に戻し、必要な鍵を手に入れただけで今回は良しとしておきましょう」

「そうですねぇ。欲張りはいけませんよねぇ」

 同じく純粋な戦闘要員ではないディスバリエとギルフォーデの耳障りな会話は続く。自分たちの勝利を確信しているのか、それともこの会話そのものが偽りなのか、ジュンタとヒズミを気にせず二人は重要そうなことを話している。

「……そういえば、ヒズミの目的は知ってたが、ヒズミ以外の奴の目的を俺は知らないな」

「そいつらの目的は簡単さ。『聖獣聖典』に使徒を生け贄に捧げて、世界を狂わせようとしている。生み出そうとしているらしい、世界を滅ぼしうる何かを」

「無駄なおしゃべりはそこまでにしてもらおうか」

「ごほっ!」

 盟主としてそれなりに知っていたヒズミの声を、ジュンタの目で追えない速度で近づいたオーケンリッターの拳が塞いだ。腹にめり込んだ固い拳に、ヒズミは手から『黒弦イヴァーデ』を取り落としてその場に膝をつく。

「ドラゴンは最強であるが故に災厄だ。予想は叶わない。どうするべきか考えるのなら、こちらの方が先だろう? どうする? この二人は色々なことを知りすぎている。何より使徒と巫女だ。ここで禍根のないよう殺しておくのが最善だと判断するが?」

黒弦イヴァーデ』を踏みつけたオーケンリッターは、槍をヒズミの首筋に触れるか触れないかのところで止め、ディスバリエに指示を仰ぐ。また、ギルフォーデもディスバリエの言葉を待っているよう。彼らの実質的な指導者が誰か、それが一目瞭然の場面だった。

「そうですね――

「ディスバリエ」

 何らかの指示を出そうとしたディスバリエに先回りして、ジュンタが口を開いた。ヒズミが人質に取られているのをいいことに、詰め寄ったウィンフィールドの短槍がジュンタの首筋に当てられる。

「お待ちなさい」

 オーケンリッター、ウィンフィールド両名をディスバリエは制止させ、身動きが封じられたジュンタの顔が見える位置まで場所を変えた。

「どうぞ、続きをおっしゃってくださいませ。あなたがあたくしの名を呼んでくださった……何か大事な質問がおありなのでしょう?」

「ああ。さっきヒズミも言っていたことだ。スイカをどうやれば救ってやれる?」

 閉じたディスバリエの美貌を前にして、ジュンタは怯えることなく言い切った。

 命を握られた状態で同じ質問を繰り返したことに、小さくギルフォーデが含み笑いをもらす。それ以外は誰一人としてしゃべることなく、ディスバリエの反応を待っている。

「助ける、とおっしゃられますと、もしやこの状況から逃げられる算段でもおありなのですか?」

「ない。四方を囲まれた状況で、しかも正直身体もきつくなってきた。だから冥土の土産として教えてくれないか?」

「知らずに死ぬよりも、知って死ぬ方が後悔は大きいと思いますが?」

「どっちにしろ後悔するなら、俺は最後まで足掻く方がいい。それに、その口ぶりだと何か方法があるんだろう?」

「ふふっ、喰えない御方。この状況でようやく奴隷たるあたくしに命を下してくれるなんて……酷い人。ですが足りません。もっと傲慢に、もっと情熱的に言ってくださらないと。そう、憎悪と殺意を込めて」

「わかった。なら、言ってやる」

 ディスバリエの指先がジュンタの唇に触れる。口を開いても、その指は離れなかった。むしろ口の中へと浅く侵入してくる。

 指先がまるで催促するようにジュンタの舌をくすぐり、

「頼む。お前しか頼れる奴がいないんだ。教えてくれ」

「喜んで。……ああ、こんなにも御身に欲されることが甘美だとは思いませんでした」

 ディスバリエは恍惚の笑みを浮かべると、ジュンタの唾液で濡れた自分の指を軽く甘噛みした。

「何も新しい知識を欲することはありませんわ、聖猊下。今まであなたが拾い集めた情報で十分推測は可能です。ですが、あなたが知りたいのはもっと深く、深い、ドラゴンの深淵なのでしょう? 構いません。時は満ちたり。語りましょう。求めに応じましょう」

 情欲に湿った声で、ディスバリエはしゃべるのが楽しくて仕方がないというように――自分の口を動かすことが楽しくて仕方がないというように、饒舌に語り出す。

「彼女は現在魔竜に堕ちてしまっていますわ。元々の神獣としての姿はもっと形あるドラゴンだったのでしょうが、耐えきれずに堕ちてしまった。ドラゴンの力は普通の器では耐えられるものではないのです。ですが、彼女はよく持った方。彼女の特異能力は、我慢することに長けていた」

「まさか、だからスイカが選ばれたのか?」

「そうかも知れませんし、そうではなかったのかも知れません。ああ、そんな顔をなさらないで、聖猊下。誓って嘘でも焦らしているわけでもございません。むしろこれ以上焦らされることが耐えられないのはあたくしの方なのですから」

 迷わすような口ぶりに僅かに機微を動かしたことを悟られた。が、ディスバリエは上から者を見る嘲弄でも余裕の笑みでもなく、慌てたように眉を顰めた。

「あたくしにもそこまでは分からないのです。何か特別な理由があったのかも知れませんし、偶然かも知れません。結果として、スイカと呼ばれる少女がドラゴンの使徒に選ばれた。耐えられないこともいずれ狂ってしまうこともわかった上で。
 予定調和が起きている。なればこそ、ここがあなたにとっても大事な分岐点」

 自分の指から口をようやく離したディスバリエは、そっと後ろに下がる。

「思い出してください。自らの体験。自らが知ったこと。自らあたくしに語らせたこと。自分が望んだことを。誰の所為でも誰かが理由でも誰かが強制したわけでもない、自分自身が願い、欲した知識という名の『力』を」

「俺が、俺自身の行動の結果、知ったこと……」

 ジュンタは思い出す。ドラゴンについての情報を。

――ドラゴンの使徒よ。胸に刻め。貴様もまた呪われた身であるならば――――いずれ必ず、貴様も狂ったドラゴンになる――

 かつて、理性あるドラゴンに投げかけられた言葉。

――ドラゴンは異物としてこの世に存在しています。ドラゴンに精神があったとするなら、やはり同じように異なる精神でなければなりません。でなければ、耐えられない。自分がドラゴンであることに、異物であることに、普通の精神では耐えられずに狂ってしまう。
 それをどうにかしようと思ったなら、精神を狂うことのない領域まで昇華させることが求められるわけですが、もちろんそう簡単な話ではありません――
 
 ディスバリエからもたらされた、自分を強く保たなければいけない理由。

 スイカもまた耐え続け、自分を強く保とうとしたが、結果的に堕ちた。ドラゴンが語った通りの予定調和を迎えてしまった。

 これが、スイカが狂ってしまった理由。

 だが、答えはすでに手に入れているはずだ。この異世界に来てから知った知識。この世界を求めて旅したとき得た答え。全ては、この手の中にもうあるはずなのだ。

 ないはずがない。なぜならばサクラ・ジュンタこそがアサギリ・スイカが安全の検証にまで使われた真実の救世主。マザーが望みを託した存在なのだから。ドラゴンの使徒こそが真実世界を救う存在ならば、スイカの辿った予定調和もまたジュンタが背負う業ならば――正解は必ずあるはずなのだ。

 過去の一つ一つを思い出すのでも、論理立てた思考でもなく閃きのように、ジュンタの瞼の裏に一人の少女の姿が焼き付いて離れない。答えは、何よりも強く魂にまで刻み込まれていた。

 誰よりも、何よりも、愛しい少女――その手に紅き剣を握り、紅き騎士らを背負う勝利の光。
 ジュンタが見た、今回の戦いの勝利をもたらしてくれるだろう輝き……あれに間違いはなかったのだ。

「『竜滅姫』……ドラゴンの天敵。竜を滅する封印の力……」

「そう、不死鳥の炎だけがドラゴンを殺す。その狂いがドラゴンの業ならば、竜滅の炎が焼き尽くせぬ道理はなし」

「なら――

「あるいはその狂気のみを焼くことができるのならば、狂いを押さえ込むことができるかも知れない」

「だけど――

「『不死鳥聖典』は生け贄を欲す。自らの血筋か、神の使徒を代償に捧げることを強要する。犠牲は、必ず出る」

 ことごとく先回りをして、ディスバリエは答えをもたらした。

「そう。奇跡にも等しい、アサギリ・スイカの救済を遂げたいと思うのならば――

 そして最後ににこやかに微笑むと、これだけは先回りせずにジュンタに言葉に出させた。

「代わりに代償を支払わないといけない。愛する人、あるいは世界の希望、もしくは自らの命を」






 リオンは焦っていた。

「くっ、撤退を! 急いで!」

 指揮官やシストラバスの騎士が先導するが、思ったように撤退が進まない。

 馬上から必死に撤退の指示を飛ばすが、ドラゴンによって荒らされた戦場に上手く行き渡らない。結果的に多くの聖殿騎士が隊列を無視して逃げ出したり、信仰にまかせてドラゴンに挑んでは散っていく。

 リオンとて軍隊の指揮は幾度となく経験したことだったが、如何せん、紅き騎士団は優秀すぎた。リオンにとって団体の撤退行動の指示を出したのは、これが生まれて初めてのことだった。

 初めて訪れる『封印の地』という場所であること。厄災が障害になっていること。様々な要因が絡んで、遅々として進まない。

 戦場の混乱という煤に汚れ、リオンという炎は誰からも見える灯台の炎ではなくなっていたのだ。フェリシィールの持つ聖殿騎士に対する絶対のカリスマがない以上、撤退行動が遅れるのは仕方がないとしても、目の前で散っていく命の分だけリオンは自分の身体が刻まれていく思いだった。

「せめて、ドラゴンさえいなければ……!」

 ドラゴンスレイヤーを強く握りしめて、リオンは消えたり現れたりするドラゴンを睨む。

 他の魔獣を圧倒する速度で近づいてきたドラゴンは、ただ速い、とだけ称することができない力を有していた。空にその姿があったと思えば、次の瞬間には騎士たちの目と鼻の先で口を開けている。瞬間移動……まさにそうとしか思えぬ飛翔である。

 どこからともなく幽霊の如く現れては、牙で、尾で、炎で殺しては悠々と去っていく悪魔に、指揮系統は乱れに乱された。リオンも数度攻撃を受けそうになり、その度にリオンを頂点とした指揮系統が瓦解の危機に晒される。

「順次前線基地を目指して後退! ドラゴンは足止めを優先し、決して無謀な特攻をせぬように! これは使徒フェリシィール・ティンクから全権を引き継いだ、リオン・シストラバスからの厳命です!」

 ドラゴンの奇襲に耐えながら、リオンはその場に止まり続けて声を張り上げ続けた。

 そうしていると、馬に騎乗したエルジンがやってくる。

「リオン様。ここは我々に任せて、リオン様もお逃げ下さい」

「なりませんわ! 彼らには私の声が必要。一人でも多く逃がすためには、私は必要不可欠です!」

「畏れながら、竜滅姫の命は、騎士千人と比較してなお尊いものです。あなたは絶対にこんな場所で死んではなりません。リオン様、どうかお逃げ下さい!」

「……私には、できませんわ」

 エルジンの必死な嘆願に、リオンは辺り全てを見回してから静かな声で答えた。

 ドラゴンを呪いながら去っていく戦士の無念。倒れた仲間を助けようと自分を危機に晒してまで走る優しき者。騎士にとって撤退とは恥である。だが、彼らはそれでも走っている。それは死なないためではない。

――勝つために。次こそは勝つために、今彼らは走っているのですわ。ここにいる一人一人が明日の勝利への希望。私一人の命よりも、騎士千人の命の方が劣っているわけがありません」

 エルジンの言葉は理解できる。だが、それでもリオンは燃える勝利の光を見出していた。自分一人では叶わない、本当の意味での勝利の光を。

「ですから、私は――

 なおもこの場に止まり続けることを断言しようとしたリオンが、そのとき前線基地目指して急激に移動を始めた。

「なっ!?」

 誰よりも驚いたのはリオンだった。リオンは何の命令もしていないのに駆け始めた愛馬シュラケファリの暴走を、唖然とした顔で見る。

「シュラケファリ! 止まりなさい!」

 鞭を入れても、シュラケファリの疾走は止まらない。それどころかさらに速くなる始末。

 こんなことは初めてだ。従順にして勇猛なるシュラケファリが、乗り手の意志を無視して走り出すなんて。まるでエルジンの言こそ正しいというように、これまで押さえてきた余力をここで全て出し切らんとばかりの疾走だった。

「まさか、あのとき……!」

 気を見計らったようなシュラケファリのスタートダッシュに、リオンは彼女が止まらないことを悟った。

 ならば降りて。と、腰を浮かせたリオンだったが、上空から舞い降りた風がその身体を馬上に押し留める。

「ユース!」

「堪えてください、リオン様。シュラケファリ。もっと速く!」

 リオンの肩を後ろから押さえつけ、シュラケファリの手綱を握ったユースが風の魔法を唱える。風の魔法によって空気抵抗をはね除ける力とスタミナの回復能力を得たシュラケファリは、まさしく疾風の如き速度を持続する。

 さらにユースはそれだけではなく、拘束の魔法までかけてきた。これでは動けない。

「戻りなさい! 戻りなさい、シュラケファリ! ユース、離して! だって、あそこには……あの場所には、ジュンタだっていますのに……!!」

「……あとで罰は存分にお受けいたします」

 ユースは魔法が解除されかかる度に重ねがけしつつ、未だ撤退にまごつく騎士たちを置き去りにして、リオンを連れ去っていく。

 リオンは何とか動いた首を後ろに向けて、小さくなる勝利の欠片を悲壮な顔で見送るしかなかった。

 安心してくださいというように、見事な騎士の礼を取ったエルジン・ドルワートルの姿が、やがて、幻のように消えた。それだけではない。隊列を組んでいたはずの聖殿騎士団もなぜかバラバラになり、後続も先に行ったはずの姿も見られない。

「これは……空間が歪んでいる?」

 魔法使いであるユースがこの異常にすぐ様気が付いた。

「異なる座標にあった三つの『封印の地』を強引に同一座標軸に固定したことによる弊害ですか。距離が歪んでいる」

「ユース!」

 対して、リオンの心は今もまだ見捨てた戦場にあった。

 ついに拘束の魔法を払い退けたリオンは、自分を押しとどめるユースを押しのけてシュラケファリの背から降りようと立ち上がる。

「……諦めてください、リオン様。もう、あの戦場に戻ることは叶いません」

 それを止めたのはユースの静かな声。

「正確にいえば、戻るには来た道を戻ればいいというわけではないのです。異なるルートを索敵し、その上でどれだけかかるかわからない距離を詰めなければならないのです。ですから、今は自分のするべきことを果たしてください。この混乱を治められるのは、リオン様だけなのです」

 そしていつの間にか自分の近くに集まっていた、聖殿騎士団の面々だった。

 切り裂かれ、区切られた空間の一角に集まった騎士たちの姿。未だ主戦場に同胞を取り残してなお、空間を満たすほどの数。これだけの数の命が今リオンに託され、リオンの命を待っている。

 これだけの命を……どうして見捨てられようか?

「……探します。前線基地へと続く正しい道を!」

 震えを押し隠して、リオンは毅然と前を向いて、自分を見つめる視線にとって返す。

 ドラゴンをも滅す不死鳥の剣が、今は何の役にも立たなかった。


 
 
 

       ◇◆◇






 耳には水のブレスが敵を打ち付けている音が聞こえてくる。遠くから耳障りな金切り声も。今『封印の地』そのものが激動している中で、この『ユニオンズ・ベル』の周りだけは切り離されたかのように静かだった。

 ディスバリエが口にした魔竜を助ける唯一の方法……それを聞いたジュンタは声を失う。

 それがどんな苦難であろうとも、スイカを助ける方法が存在するのなら成し遂げるつもりでいた。だが、それには『不死鳥聖典』が必要となる。かの聖典の起動には生け贄が必要だ。フェリシィール、ズィール。あるいは、リオンか自分の命。

「くくっ、なるほどなるほど」

 奇跡の代償を聞いて、ディスバリエの言動を訝しげに見守っていたギルフォーデが嬉びの声をあげた。

「道理で『狂賢者』様も気安くお答えになるはずです。お優しい。とてもお優しいですねぇ。敵に塩を贈る程度ではありません。敵に答えをもたらして差し上げるとは」

 ギルフォーデは動きを封殺されたヒズミのところへ近づくと、しゃがみこんでその顔をうかがう。

「ということらしいですよぉ、盟主様。どうです? もう一度我々と力を合わせませんかぁ? ようは生け贄を捧げるべき場所が変わっただけのこと。どうやら使徒フェリシィール・ティンクは帰還してしまったようですが、ここにはまだ三人も生け贄候補がいる」

 顔をうつむけたヒズミの表情は見えない。だが、説明を耳にした彼がギルフォーデのいいたいことについて理解が及ばないわけがない。

「お姉さんを救うためです。一緒に神の奴隷を殺しませんかぁ?」

「冗談はその顔だけにしとけよ、三下」

 ぺっとギルフォーデの顔めがけて唾を吐き捨てると、顔をあげたヒズミはニヤリと嗤った。

「確かに僕にとっては姉さんが大事だし、姉さんを救うための方法に手段を問うつもりはないね。お前が候補にあげた三人の中だと、特にシストラバスの奴なんて大嫌いだし借りもない。だけどな、僕は僕の大事な奴の大切な人を傷つけるつもりはない。もう、僕は大事な人と争うつもりはない」

「ヒズミ……」

「………そうですか」

 唾をぬぐい取るギルフォーデの顔には、有り余る失望の色が見て取れた。まるで何日もお腹を空かせて楽しみにしていたご馳走が、自分の嫌いなものだと知ったような顔だ。

 一週崩れた笑みを再構築させて、ギルフォーデはディスバリエを振り向く。

「『狂賢者』様。あなたのお優しさはご理解できましたが、何もわざわざここで逃がすなど、利益も何もない愚の骨頂です。この二人はここで殺すことを私は進言致しますがぁ?」

「……理由はともかくとして、その進言には賛成だ。この二人……特にそちらのジュンタ・サクラは得体が知れない。ここで殺すべきだ」

 オーケンリッターもまたギルフォーデの進言に賛成を示す。どこからも反対の声はあがらない。

 全ての決定権はディスバリエが持っている。ここでジュンタたちが生きるも死ぬも彼女次第。そして、たとえ葛藤が生まれるスイカを救う方法を知ったとしても、ここから逃げ出さなければ意味がない。

(どうする?)

 前面にはウィンフィールドとボルギィ。後ろにはギルフォーデとオーケンリッター、ディスバリエ。とりわけオーケンリッターの実力は計り知れない。こうして立っているだけで、彼が放つ圧迫感に押しつぶされそうになる。傷だらけの今立ち向かっても瞬殺されるだけだろう。

 そうこう悩んでいる時間も惜しい。スイカは今もまだ戦っていた。

 南から押し寄せる魔獣に対して対抗していたスイカだったが、その水を使う戦闘方法によって、時折身体を回復させるために空を旋回する時間が必要だった。その度に魔獣はキメラを先頭に押し寄せてくる。

 それでもなお、水のブレスの威力の方が勝っていた。なのに徐々に軍勢が近づいてきているのは、スイカが別の方向へもブレスを放ってるから。スイカが時折狙うのは、撤退を続ける聖殿騎士団だった。

「アサギリ・スイカがどうして聖殿騎士団を狙うのか、あなたにはわかりますか? 聖猊下」

 ジュンタの心が読めるように、黙っていたディスバリエが声を発した。

「ディスバリエ様、そんなことよりもぉ――

「黙れ」

 顔も向けずに一言だけディスバリエはギルフォーデめがけて、彼が望んだ命令を下した。簡潔極まりない一言には呪いのような力がこめられていた。ギルフォーデは驚いたように自分の喉を押さえると、数度呼吸を求める魚のように口を動かしたあと、苦虫を噛み潰した顔で後ろに下がる。

「先程、アサギリ・スイカはこう言っていました。二人のことが大切だから。わたしはもう手遅れだけど、二人はまだ大丈夫。だから、わたしが少しでも敵は減らしておいてあげないと。だってわたし、ヒズミのお姉ちゃんで……」

 ギルフォーデの存在などなかったかのように話を続けたディスバリエは、そこで言葉を切ると、ジュンタの顔を真正面から見た。

「つまり今のアサギリ・スイカの行動方針は、あなたと弟の敵を倒すためなのです。魔竜に堕ちても変わらぬ思い……それに、彼女は突き動かされている」

「だけど、なら聖殿騎士団を狙う必要はないはずだ」

「狂っていく。ヒズミ・アントネッリはベアルの盟主だった。聖殿騎士団は彼にとって敵だった。その事実が残ってるのならば、聖殿騎士団も殺さなければ、と。強い愛情は憎悪にも似て苛烈。憎悪が愛に似るように、やがてすべからく一つの感情は、この世全てを壊す源泉となる」

 それが憎しみでも、歓喜でも、愛でも、全ての感情からふろしきを広げ続ければ世界全てを壊さずには済まなくなる。

 たとえば憎しみならば、それだけで全てを破壊する理由に事足りる。たとえば歓喜ならば、この歓喜をこの世で至上のものとするために全ての歓喜を破壊しなければならない。たとえば愛ならば、愛故に愛する人以外を邪魔者と破壊し、やがては愛する人も手に入れるために食いちぎる。

 つまりはそういうこと。人の願いの行き着く先は、果ては、全ての破壊。全てを破壊すれば全ては救われる。魔竜とはそれを体現する存在なのだ。

 灰色の地を上空から放たれた水のブレスが薙ぎ払う。魔獣も騎士も見境ない、破壊の水が洗い流していく。最初は人間と同じ頃の意志に従って行動していたスイカも、徐々に全てを敵と認識して破壊していく。その破壊領域は、徐々に北へと移動していた。

「もう一つ、魔竜には共通する行動原理があります」

 ジュンタの隣に立ち、同じようにスイカを見るディスバリエがなおも説明を続けた。冥土の土産にしてはいささかおかしいと聞く全員が思う、そんなここで言うことに何の意味があるのかわからない説明を。

「それはすべからく死にたがるということ。魔竜は自らを殺しうる相手に惹かれていく習性があるのです」

「自分を、殺す? だけどドラゴンは死なないはずじゃあ?」

「いいえ、死にますよ。事実、あなたは一度ドラゴンを殺したことがあるでしょう?」

 それもまた最初から持っていた答え。先程の答えと同じこと。

「まさか、スイカの行き着く先は……?」

「竜滅姫。ドラゴンと竜滅姫は惹かれ、焦がれあい、そして殺し合う宿命。竜滅姫だけがドラゴンを殺すことができるが故に。急がなければ、手遅れになってしまいますわ。聖猊下」

 クスクスとディスバリエは嗤う。

 それはジュンタの苛立ちと焦燥を募らせる仕草のはずなのに……なぜだろう。ジュンタにはまるでディスバリエの言動が、自分を導こうとしている声に聞こえた。自分がこれからすべきこと、どうすれば一番いいのか、それを教えてくれているような気がする。

 そもそも、ここで彼女が自分たちを殺すつもりなら、この説明そのものが徒労でしかないというのに……まるでディスバリエは自分たちがここから逃げ出すものと、その方法があるものと信じ、そのときを待っているかのようで……。

 すっとディスバリエの視線が意味深にジュンタに寄せられ、そのあと床に向く。

 釣られて床を見たジュンタだけが、襲い来る衝撃の中自由に動くことができた。


――ハッハー!」


 ジュンタの目が床に生まれた一条の亀裂を捉えた直後、地雷が炸裂したように屋上の床の一部が吹き飛ばされ、招待されていない招待客が現れる。

 右手で分厚い床をぶち抜いた男が現れたのは、ちょうどジュンタとヒズミの中間。ぶちまけられた岩はジュンタとヒズミの両者の方向に降り注ぎ、二人の槍使いは見事な反応で愛槍を使って払いのけた。

 時間にして数秒もない、床下から誰かが現れるものとわかっていなければ咄嗟に反応できなかったタイミングにジュンタは動いていた。首からウィンフィールドの槍が消えた一瞬を狙って、ヒズミに飛びつくと屋上の縁まで勢いのまま跳び下がる。

「逃げられると思ったか!」

 ヒズミを抱きかかえて下がったジュンタへオーケンリッターが殺意の槍を手に迫る。だが、その動きは途中で封じられた。

「なんだ、おい。酷ぇな。俺が寂しく悲しく努力してたってのに、テメェらはこんなところで楽しく何してんだァ?」

 オーケンリッターに背中を向け立ちふさがった、縦に瞳孔が割れた赤と青の瞳を持つ男。
 どのような苦痛の末か、先が白くなった金の髪。鼻筋に刻まれた鋭い傷跡。歯をむき出しにして笑う様は、湖の妖精と讃えられたエルフとは思えない野生を思わせる。

――ヤシュー」

「おう、ジュンタ。待たせたなァ。ライバルの俺がいなくて退屈したろ? 俺も退屈してたぜ。
 そうさ。待ちきれねぇよ。いいぜ、やろうじゃねェか。ここからがとびっきりのスペシャルタイムだ」

 たとえ姿形が変わっても、この上なく楽しげな戦闘狂の笑みは何も変わっていない。上半身を晒した彼は、血管のように張り巡らされた『儀式紋』を輝かせると、拳をボキボキと鳴らす。

 放たれる純粋な戦意に、ジュンタは半ば反射的に剣を構えた。抱えていたヒズミを背中に放り、左手は相変わらず動かないために右手だけを構える。だが、こちらももうほとんど握力が残っていない。パワーファイターなヤシューをしのげるか。

「あァ? 嘗めてんのか? テメェ」

 汗がジュンタの顎を伝って床に落ちた途端、ヤシューが怒気を爆発させて迫ってきた。その速度、前回よりもさらに速く、鋭く攻撃的になっていた。

 繰り出された右手に剣を合わせられたのは、一重にヤシューを前にした以上、剣を交わすことなく去ることはできないと覚悟していたからだった。

「ジュンタ! 下だ!」

「くっ!」

 次の右の蹴りに対応できたのは、ヒズミが教えてくれたから。
 身体を反らせて、喉元を狙って振り上げられたヤシューの蹴りを避ける。

「遅せぇ!」

 だが、三撃目は避けられなかった。

 さらに一歩踏み込まれ、思い切り喰らわされた頭突きに一瞬ジュンタの視界がブラックアウトする。鋼鉄の身体を持つヤシューの頭突きは、鉄塊で頭を殴られたかのような衝撃があった。

 後ろにたたらを踏んだジュンタの額がぱっくり割れ、過剰なほどの血が流れてくる。目にも入り痛むが、ここで閉じれば即座に殺される。結果的に目をさらに見開いたジュンタの瞳は、鮮血色にコーティングされた。

 世界が赤色に染まる。鮮血の色に覆われていく。

 まるで世界が壊れてしまったように。あるいは、壊れてしまったのは自分の方か。
 臓腑がひっくり返るような暗い感情が、腹の底からわき出てくる。スイカを助けると決めて戦って、ヒズミを仲間にすることができて……そのあとは、ことごとく邪魔が入る。邪魔されている。

 まるで、世界がスイカを許さないというように。これこそが正しいことだといわんばかりに。

「邪魔……するなよ」

 ジュンタがもらした声は、世界を呪う声だった。

「邪魔、なんだよ」

 果たして、瞳が鮮血に染まっているのは血が入ったからか。
 鋭く目の前にいる六人の敵を睨むジュンタからは、世界を軋ませる魔力が放出され始めていた。 

「なんだ、やればできるじゃねぇか。さァ、見せてくれよ。それがテメェの力ってんなら、俺はその殺意を許容するぜ?」

 ジュンタは無言でヤシューに斬り込んだ。

 振り上げられたドラゴンスレイヤーには、からみつくような『侵蝕』の魔力が付加されていた。いつだって『加速』を意識して使っていたのに、なぜか今はこちらが表に出てくる。

「オラァ!」

 振り下ろされた斬撃にヤシューが破壊を司る右手を合わせて振り抜いた。

 接触した傍から吹き荒れる魔力の奔流。ジュンタの侵蝕の斬撃に対し、破壊をもって抵抗するヤシューだが、やがて奔流に血が混じり出す。ヤシューの腕がジリジリと切り裂かれていた。

「チッ!」

 盛大に舌打ちしてヤシューが飛び退く。
 勢いを押し殺せなかったジュンタの斬撃はそのまま床めがけて振り下ろされ、

 オォオオオオオ――!!

 まるでドラゴンが唸るような音と共に、屋上を真っ二つに切り裂く傷跡を刻みこんだ。

 瞠目すべきは屋上を切り裂くようなジュンタの斬撃か。それともそれを押さえ込んだヤシューの腕か。斬撃を放ったジュンタはなおも荒い息を吐きながら、可視できるほどの魔力を立ち上らせている。

「……これじゃあ、ダメだ」

 ジュンタは呟くと、何の躊躇もなくドラゴンスレイヤーを投げ捨て、左手で持っていただけだった旅人の刃を引き抜く。

 右手に握られた旅人の刃は、やおら沈黙を保つと、嵐の前の静けさだったといわんばかりに爆発的な魔力を纏う。やはりドラゴンスレイヤーに今の『侵蝕』の魔力は通しが悪い。やはり自分の身体にあった剣じゃないと。

「クッ」

 放出された魔力の一部を食いちぎるようにして嗤いながら、ジュンタは再び上段に剣を振り上げた。

 ヤシューは無言で腰だめに構える。すると彼の手にもまた魔力が集い、破壊の力を溜め込んでいく。

「ジュンタ、おい……」
 
 ヒズミの声が合図となった。

 それぞれが床を蹴るのに合わせ、屋上が崩落を始める。
 次々にぶつかり合う一撃一撃に、尖塔の先が抉られ、根本がバターのように切り裂かれる。

 まさにそれは小規模なドラゴン同士の戦いに似ていた。『侵蝕』と『侵蝕』のぶつかり合い。世界の摂理を乱す領域での攻防。

「これは、まずいんじゃねぇのか?」

 ウィンフィールドが攻撃の手が届かない位置まで下がりながら、辟易したような声をあげる。それは見ている人間の総意だった。

 魔力の放出しているのはジュンタだけだったが、爆発させているのはヤシューも同じ。外と中。ただそれだけの違いだ。同規模の破壊を撒き散らす二人の戦いは、こんなことをいうのもなんだが、相性がいいとしかいいようがない有様だった。
 
『ユニオンズ・ベル』の高さが一階分縮まる。完全に崩落した屋上はその下の階へと崩れ落ち、瓦礫で瞬く間に溢れかえったその場所が新たな屋上に変わった。

 そこまで来てようやく二人の激突は止まる。

 目にもとまらぬ攻防の行方を完全に見定めたのは果たして何人か。少なくとも明らかだったのは、止まったそのときヤシューの傷はかすり傷程度で、ジュンタはボロボロだったということ。

 それでもジュンタは止まろうとは思わなかった。

 今の攻防で理解した。疲弊したこの状況ではヤシューには勝てないと。だけど、どうして諦められる。後ろにはヒズミがいる。『黒弦イヴァーデ』を持たない彼は戦えない。守らないと。守って、勝って、スイカを救わないと。

 なら、目の前にいるのは許してはおけない敵だ。敵は、どうすればいいのか。ここでどうすればいいのか。

 ……決まっている。敵は、■せばいい。

 ジュンタは瓦礫に紛れて落ちていたドラゴンスレイヤーを拾い上げると、それを黒こげの左手に握った。あれほど力が抜けていた左腕を一度『侵蝕』の魔力がスキャンのように通り抜けたかと思うと、いつも以上の力がみなぎる。武器の重量を無視するレベルではない。武器が存在することで負うペナルティの一切合切をはね除けたかのような開放感。

 両手に握った双剣が魔剣の如き魔力を纏う。身に纏った『竜の鱗鎧ドラゴンスケイル』が同種の魔力を飲み込むように浴びて、まるでそのドラゴンの鱗という名を体現したかのように艶を増す。認めてはいけない感情に研磨されたように。

 まるでドラゴンになったときのように爽快な気分だ。これなら、誰にも負ける気がしない。

 ジュンタはくぐもった嗤いを浮かべると、敵を見定めて自らの爪たる双剣を構える。後ろでヒズミが何かを言っているが聞こえない。
 
 空を見れば、スイカが破壊をばらまいている。

 そう、ドラゴンがつまりそういう存在なら、自分の目的のために今破壊を――

「抉れ、『朽ちた血ロトゥンブラッド』」

 双眸が今まさに何かしらの変化を遂げようとした刹那、今まで黙していたオーケンリッターがヤシューの横をすり抜け槍を繰り出してきた。

 遅い。たとえ『鬼神』と呼ばれた戦士だとしても、今は何もかもが足りなさすぎる。

 有り余る衝動を力に変えて蹴散らそうと動いたジュンタの前から、オーケンリッターの姿が消えた。彼は途中で軌道を変更し、横へとずれたのだった。

 それはジュンタの攻撃を避けたためではない。横からの予想外の攻撃を避けたためだった。

「……なんのつもりだ?」

 着地した先で低い声で糾弾するオーケンリッターの槍先が見定める相手はヤシュー。彼は右手を振り抜いた状態で鼻で笑うと、

「テメェこそなんのつもりだ? オーケンリッター。ジュンタは俺の獲物だぞ?」

 そんなことを、こともなげに口にした。

「この際だからはっきり言ってやる。ジュンタは俺の獲物だ。俺だけの獲物だ。俺は獣だからよォ、横から自分の獲物をかっさらっていく奴には我慢ならねぇし、容赦はしねぇ。ジュンタと戦いたかったら、まずは俺を殺してからにしな」

「…………は?」

 それは誰が聞いてもあまりにも愚かな言葉だった。直接投げかけられたオーケンリッターは口をぽかんと開けて、目の前の得体の知れないエルフを見ている。

「それに……ちっ、やっぱり邪魔者がたくさんいる中での戦いじゃ全力は出せねぇなァ。ジュンタは弱ってるし、俺だって本調子とはいえねぇ……よしっ、決めた。おい、ジュンタ。テメェ今日のところは見逃しておいてやる。行っていいぜ」

 さらに続く言葉にはその場に集まった全員が押し黙った。

 ジュンタもまた魔力を全て霧散させて、呆然とあーでもないこーでもないと首をひねるヤシューを見る。

「……見逃す? 俺を?」

「ン? そう言ったが聞こえなかったのか? ああ、俺以外の奴を気にしてんなら安心しろよ。テメェがきっちり逃げられるように、俺がここで足止めしといてやるから」

 ニッと笑って親指を立てる代わりに首を横に切る仕草をして、ジュンタを守るようにオーケンリッターたちの前にヤシューは立ちふさがる。

 ヒズミともども呆然としていたジュンタは、自分の中にあった破壊の念があまりのヤシューの放言に消えていくのを感じた。

「……驚いた。ヤシュー。お前本当に馬鹿だったんだな」

「オイコラ、それが宿命のライバルに対する台詞かよ?」

 口元をひくつかせながら顔だけを振り返ったヤシューは、

「まぁ、礼ならいらねぇぜ。俺の目的は一つだけ。テメェをぶちのめすことだからなァ、ジュンタ。不完全の今のテメェを殺すつもりも、殺させるつもりもねぇ」

 ヤシューの言葉には一切虚言がない。彼は本気で自分と一対一、本気の全力で戦いたいがために、ここは見逃してやると言っている。自分が手に入れた力をまだ使いこなせないから。相手が体力を消耗しているから。ただ、それだけの理由で。

 感謝して良いのか、それすらもわからない。本来は敵意を向けるべき相手に対して、ジュンタはただただ困惑と呆れの眼差しのみを注ぐ。

「……信じて、いいのか?」

 尋ねるジュンタに対し、ヤシューは口の端を吊り上げて片目を閉じた。

「俺こそ信じていいのかよ、ライバル。次こそは本当の本当に一対一で戦えるってよ」

 ヤシューの言葉が、以前の戦いの時のことを言っているのだと気付いて、今度こそジュンタは笑みを零した。

 自分と戦うためだけに彼に助けられたのは、思えばこれで二度目だ。一度は自分と戦うためだけにユースを傷付けられたが、それを差し引いてなお、この男を憎む気持ちを抱くことはできなかった。

 そして、これほどまでに自分を高く買い、戦いと言ってくれる相手に対して、もう『正々堂々』という言葉を持ち出す以外、格好をつけられるとは思えなかった。

「ああ。信じて良い。今度俺に焦る理由が何もなく、お前が躊躇う理由が何もなくなったとき。そのときは一対一で正々堂々と戦ってやる。約束だ」

「上等。それでこそ俺の愛しの獣殿。――ほらよ、さっさと行け。俺との約束を果たすためになァ」

「……ありがとな」

「礼はいらねぇって言っただろうが」

 この上なく嬉しそうな笑みを浮かべて前を向いたヤシューに感謝を小さな声で向けて、ジュンタはヒズミのところまで下がった。

 オーケンリッターが制止のために動くが、ヤシューがそれを牽制し、

「構いません。行かせてください」

 黙って推移を見守っていた『狂賢者』が押しとどめた。

「だが」

「あたくしは構いませんといいました」

「ハッハー! 話がわかるじゃねぇか。ディスバリエ」

 口元を押さえて笑いをかみ殺しているようなディスバリエの言葉に、認められないがオーケンリッターは槍を下ろした。本当に、自分たちは見逃されるらしい。

 ジュンタはヒズミに肩を貸したまま、ゆっくりと城の下へと続く階段目指して歩き出す。全員の視線が張り付いているのを感じながらも、一切誰かがちょっかいをかけて来ることはなかった。

 最後に、ジュンタはヤシューとディスバリエからの視線を見返してから、その場を去った。

 ……たとえ、今回見逃されたとしても、やがて対決のときは必ず来る。

 ヤシュー。そして――ディスバリエとも、必ず。



 

「で、どうするよ? やるっていうなら相手をしてやるが?」

 ジュンタが消えたあと、ヤシューはオーケンリッターに獰猛に笑いかけた。

 対して、オーケンリッターは肩をすくめて、槍を肩に預ける。

「ごめん被る。無意味な労力に体力を裂けるほど若々しくはないのでな」

「ハッ。内心殺したくて殺したくてたまらねぇくせに、チキンな野郎だぜ」

 つまらない反応にヤシューは鼻で笑って、構えを解く。そこで全身から抜けていく力に気が付いた。

「おっ?」

 足から力が抜けて前のめりに傾いていく。その身体を支えたのはディスバリエだった。

「ご自愛を。施術を潜り抜けた直後のあなたに、長い間立っている体力はないのですから」

「なるほどなァ」

 ディスバリエの言葉は正しく、ヤシューはその場で膝をついた。

 呼吸がほとんどできず、身体の節々が今更のように痛みを発している。心臓の鼓動は不整脈を超えた凄まじい早さ。このまま爆発してしまうのではないかというくらいの熱が、身体の芯から全身を駆けめぐる。

「ハ、ハハッ! こいつが俺の手に入れた新しい力か。大したじゃじゃ馬じゃねぇか」

 駆けめぐる痛みにヤシューは歓喜の笑みを零しながら、約束したいつかの戦いへと想いを焦がす。

 一体どれだけ『狂賢者』の施術で自分の寿命が削られたのかという心配は、どこにもない。どれだけこの力がリスクを伴うのかということにも、不安はない。ただ最高のライバルと思う存分戦えるという歓喜のみが、全身を焦がす。

「しかし、ディスバリエ・クインシュ。本当に良かったのか? あれらを取り逃がして」

「構いませんとも。此度の戦いにおいて、我々の出番はもうおしまいです。
 すぐにこの場所へと聖殿騎士団は舞い戻ることでしょう。そのときこそ、儀式を次の段階へと推し進めるとき。余興は終わり。本番が始まるというのに、その前に疲れる道理はないでしょう?」

「なるほどな。あれらもまた、貴公が演出する舞台への参列者というわけか」

「そういうことです。ああ、それとは別に一つだけ皆さんに忠告しておかなければならないことがありましたわ」

 ぽんと、ディスバリエは手を叩くと、集まった面々を見回して――底冷えする声で告げた。


――あたくしの聖猊下を殺したら。あたくし、絶対にその方を皆殺しにしますから」


 言霊もなく、命令でもないその言葉は、これまでのディスバリエが吐いたどんな言葉よりも感情が乗せられ、恐ろしかった。

 本能的に震えあがった数名をさらに見て、ディスバリエは最後に支えるヤシューを見た。

「といっても、あなたにだけは意味がないと思いますが」

 当然だ――ヤシューは返すべき言葉を笑みで示して、そのまま意識を失った。






『ユニオンズ・ベル』を出るまで、ジュンタとヒズミの間に会話はなかった。

 スイカに触れることさえできなかった屋上で知り得た情報は、その遣り取りも含めて重大なものばかりだった。心身共にかかる負荷はとんでもないものだ。

 だが、知りたかったことも、知らなければいけなかったことも知ることができた。

 だから、ここからが本当の戦いだ。最後の決戦だ。

「……ジュンタ」

「なんだ? ヒズミ」

 城を出て、そこに広がっていた惨劇と狂躁を同じ目線で見たヒズミはポツリと呟いた。

「さっきのお前、無茶苦茶怖かったぞ」

「……悪い」

「馬鹿野郎。お前まで姉さんみたいになっちゃったら、僕にどうしろっていうんだよ」

 軽く肩をこづかれたジュンタは、先程自分の身に起きたものが、魔竜の衝動だということに気付いていた。ヤシューがあそこまで馬鹿じゃなかったら、今頃どうなっていたことか。

 折角スイカを助けうる鍵を手に入れたのに、それを自ら放棄しかけていた。

「情けないな。やっぱり、ヒズミ。お前がいないとダメだ」

「当然だろ? 姉さんを救うには、僕とお前、二人の力がいるんだから」

 ヒズミは笑みを浮かべず笑みを零して、それからジュンタの瞳をしっかりと見た。

「……ジュンタ。僕に一つ作戦がある。何も聞かずに、僕を信じてくれないか?」

 ヒズミは知った。スイカを助けることができるかも知れない不死鳥の炎と、生け贄の存在を。それを知ってなお是として自信に満ちた声を発するヒズミを、疑えるはずもない。

 ブルン。と、嘶きの声がして白馬が駆けてくる。

 それはジュンタをこの戦場まで運ぶ途中にヒズミの狙撃に合い、足を負傷したユーティリスであった。足の方は誰かに治療してもらったのか傷一つない。そして誰かに命令されたかのようにジュンタたちを迎えに参上した。

「ぶごっ!」

 ヒズミを見るなりしっぽを思い切り降って顔面を強打したユーティリスは、そのあとジュンタにすり寄ってきた。

 首筋を軽く撫でてあげると、それだけでジュンタの意志をくみ取ってくれたのか、嫌々そうにしながらもユーティリスはヒズミに背中を向ける。

「ユーティリスは最高の馬だよ。きっと、お前が行きたい場所まで運んでくれる」

 それがジュンタの答えだった。

 ヒズミはしっかりと頷くと、すっと右手を差し出した。その顔は、少し赤い。

「……その、なんだ。僕らは戦友で、ここでいっぺん別れるから、だから……」

「ああ。友情の証だ」

 ジュンタはヒズミの手を握り替えし、笑顔で振った。

 ヒズミも満更ではない顔で強く握り替えし、満足げに微笑んでユーティリスの背に跳び乗った。

 ユーティリスの手綱を握りしめたヒズミの姿は、まるで白馬に乗る王子様のようだった。いささか迫力に欠けるが、きっとお姫様を救ってくれるはず。待っていてくれるはず

 最後に、もう一度ヒズミは柔らかく微笑んだ。

「ジュンタ――――ありがとう」






 北へ向けて駆け去っていくヒズミとユーティリスの背を見送ったジュンタは、自分のすべきことが何かはっきりと自覚していた。

 南から押し寄せる魔獣の軍勢。そして、北へとゆっくり向かうスイカの姿。

 トクン。と、ヒズミと握手を交わした右手が優しく鼓動したように感じた。そこにはまたサネアツも強さをくれた。色々な人が強さを分けてくれた。それを、今ほど強く自覚せずにはいられない。目に見えない力……それを、ジュンタは確かに掴んでいる。

「……そうだな。大丈夫。ドラゴンっていうのはきっと格好いいものに決まってるから」

「神ョオオオオオオオオオオオオオ――!!」

「なんで……」

 異端導師の声を聞いたジュンタは、先程も思ったことを、今度は自分を見失わずに考える。

 スイカにぬくもりを伝えたかった。
 ジュンタとヒズミは同じ結論に達し、実行に移そうとした。

 なのに――なぜ、こうもことごとくそれが阻まれないといけない?

「どうして……俺たちは、ただ、スイカを助けたかっただけなのに」

 どうして救うという行為が否定されるのか?

 それは正しい想いのはずだ。間違っていないと胸を張れるもののはずだ。
 もしもスイカを救うことが間違っているというのなら……ああ、それはきっと、この世界の方が間違っている。

 この世のルールが正義というのなら、サクラ・ジュンタはそれを認めない。スイカが救われない存在というのなら、救うことを悪というのなら、いいとも、望んで自分は悪となろう。

――君が悪だというのなら」

 口ずさむのは聖句。目の前の全てを、それが正義であってもはね除けるという誓い。

――それでも想うが故に」

 自らの我を貫き通すという欲望の声。人ならざる獣の求め。

――それが救いと信じて」

 自らの行いを肯定する。自己満足のままに、傲慢なほどの肯定を今――

――我もまた悪の名を欲す!」


 ―――― ただ在って、全てへと至る者 ――――


 この否定すべき正義で満ちた世界に刻みつける。

 サクラ・ジュンタの悪意を。









 戻る / 進む

inserted by FC2 system