第十七話 巡り巡る(前編) 何か巨大で恐ろしいものが突如空中に現れ、直後キメラの上に降下。衝撃によって粉塵が舞い上がる。 それら空をも覆い尽くさんとばかりに舞い上がる粉塵を掻き消したのは、内から突き出た幾つもの虹の束。まるでいくつもの斬撃が同時に放たれたかのような光は猛烈な風を巻き起こし、粉塵を彼方まで吹き飛ばす。 「ジュンタ・サクラか。まったく、因果な姿だな」 周りが二体目のドラゴンの登場に混乱する中、一人状況を正確に把握したエルジンは、聖殿騎士団に落ち着くよう指示を飛ばす。 巨大質量が高速で落下してきたことにより、その腕から伸びる虹の双剣によって切り裂かれたキメラのみならず、周りの魔獣たちもまた吹き飛ばされ混乱している。逃走のチャンスは、今をおいて他になかった。 「今が絶好の機会! 総員、全力で走れ!」 混乱する騎士たちに活を入れ、足を速めさせる。 新たなドラゴンが攻撃を仕掛けてこない――当たり前だが――こともあって、騎士たちは自分たちの脅威が上空のドラゴンだけと察し、相応の対策をもって動きを早める。さすがは訓練された聖殿騎士団。エルジンが臨時に指揮することへの理解も早ければ、行動に躊躇もない。 速度をあげた部隊は、瞬く間に戦場を置いていく。 それは足が速まったというだけでは説明しきれない移動進度だった。 まるでこの灰色の大地を駆け抜ける一歩が、本当の意味での一歩ではないように。ときに短く、ときに長く、まるで迷路に迷い込んだ錯覚と共に、時間がぐちゃぐちゃになった中を聖殿騎士団たちは駆け抜けていく。 もう、戻ることは叶わない。 剣の形をした高密度の魔力が凝縮された光の束によって切断されたパーツだが、すぐさま断面から黒い触手が伸び、パーツ同士が結び付いて、数分とかからず最初の巨体を取り戻す。ドラゴンとなった自分の大きさすら超える肉塊へと。 「神ヨォオオオオオオオオ――ッ!!」 (それしかもう言えないんだな) 触手を伸ばしてくるキメラ――ウェイトン・アリゲイへと、触手の雨をかわし、ジュンタは翼を動かすことなく宙を滑るようにして接近した。 高速移動によるショックウェーブが、細い触手を根こそぎ吹き飛ばす。残った太い触手に対してジュンタは剣を振るった。人間の姿のときに双剣を振るう感覚で振るわれた虹の双剣は、人間時の斬撃とは比べものにならない威力を生み出した。 ドラゴンの身体能力と翼のバックアップを受けて放たれる高速の斬撃は、触手のみならず再びキメラの肉体を切り刻む。 だがキメラも一度で慣れてしまったのか、切り裂かれ分かたれた状態にもかかわらず、先程の倍以上の触手を伸ばしてくる。 かつてラバス村で戦ったときとは比べものにならない触手攻撃は、さすがのドラゴンでも避けられなかった。接近せず離れていれば可能だったかも知れないが、それでも触手はいつまでも追ってきていただろうから、結局結末は変わらない。 避けられないなら――避けずに迎撃するのみ。 轟、とジュンタの口から放たれたブレスが、至近距離からキメラを襲う。 その表面を流れていく雷の特性を持つ虹の炎は、駆けめぐる中触手を破壊していく。痛覚もないキメラではあったが軽く麻痺を受けたのか、その動きも若干鈍る。 ジュンタはこのチャンスを見逃すことなく、置きみやげとして強烈な斬撃をクロスに放ったあと、キメラから離れた。 前線基地を守るクレオメルンは、紙一重の戦いを繰り広げていた。 「まもなく約束の時間だ! ここに聖地への門が開く。一匹たりとも魔獣の汚い足で、神聖なるアーファリム大神殿を汚させるな!」 応。と答える声は大きく頼もしい。それはこれほどの敵数を前にしては、望むべくもない勇敢さであった。 留守をジュンタにより託されたクレオメルンが視認したその魔獣の数――おおよそ二万。 すでに堅牢であった城壁は半ば以上が砕け、城壁の上に兵の姿も少ない。最初から城壁の外に出ての迎撃を諦め籠城戦に徹したために未だ人員の被害は少ないが、それでも百人近い負傷者が出ている。 フェリシィールにより開かれる道を中核として、侵入させないようにし、なおかつ城壁の近くで敵を迎撃し続ける。所詮は時間稼ぎにしかならなかったが、それでも今は時間を稼ぐ他ない。守護を任された以上守りきってはみせたかったが、物理的に不可能といわざるがえなかった。 「いかんな。あまりにも数が多すぎる」 最も敵の数が多い西の城壁の近くで指揮を執っていたクレオメルンの隣で、何とも苦々しい声をあげたのは、この場では貴重なサポーターを務める白猫であった。 ジュンタの飼い猫――と思われる――サネアツだ。魔法を使うというトンデモキャットは、下手な武闘派の騎士よりも戦運びが上手かった。現場指揮と全体の統率をクレオメルンが一人でこなせているのは、一重に彼の協力が大きい。正確には、先程から彼のところへ報告しに走ってくる猫たちの功績が。 「東門はすでに敵の侵入を食い止めるので精一杯という話だ。あと十分も保つまい。北門も同様。南門は何とか堪えているが、こちらも時間の問題だな」 「儀式魔法展開。敵密集地に向けて発射!」 燃えさかる裁きの炎が城壁へと取り付いていた敵ごと多くの魔獣を葬り去る。押し寄せる熱風を目隠しに城壁の上へとあがり、眼下をもう一度よく見渡せば、屠った数が砂上の一角でしかないのは明らかだった。 「ここももうダメだ。サネアツ。中央に作った即席の城壁の強度は?」 状況は最悪。もうここが陥落するのは避けられまい。あとはどれだけの時間耐えられるかどうかだ。サネアツが口にした二つの援軍はかなり望みが薄い。城を囲むように魔獣が集まっているため下手な援軍では話にならず、アーファリム大神殿で儀式を執り行っているフェリシィールもこの状況は知らないはず。即戦力を投入とは行くまい。 いや、実際のところ自分たちはまだいい。アーファリム大神殿までの道が開かれるまで持ちこたえれば、道を通って逃げ込めばいいのだから。そのあとフェリシィールにこの状況を報告し、道を即座に閉じてもらえば、魔獣たちが踏み込んでくる心配もない。 だが、そうなると困るのが本隊である。前線基地が潰れ、さらには挟撃の状態に持ち込まれたらたまらない。帰還するためにはここにいる魔獣全てを倒した後、一週間粘らなければならない。いや、それより何より、この前線基地が落ちるということは補給が断たれるということだ。補給が断たれた軍に未来はない。 「実際、それを願うしかないな。ああ、我が祈りよ。神へと届きたまえ」 クレオメルンは目を一度瞑り、祈りを捧げる。 そして目を開いて城壁にとりつく魔獣に向かって、槍を突き出した。 灰色の大地を駆け抜けて、リオンは聖殿騎士団と共に魔獣へと勇猛に斬り込んだ。 前線基地の近くまで戻ってきたリオンたちを待ち受けていたのは、数万規模の魔獣だった。恐らくは西より来た『メロディアの封印の地』の魔獣だろう。王に遅れて参戦した魔獣たちは撤退してきた聖殿騎士団を見ると、猛然と襲いかかってきた。 そうと理解したなら、もはや迷いはどこにもない。 元より、逃げることなど誰も好きではない。敗走など不名誉の極み。ならば、逃げることを戦いにしよう。 くさび形陣形を形成して一気に突撃していく本隊。リオンはその最前列でシュラケファリを走らせ、誰よりも苛烈に剣を振るった。 それでも、前にも後ろにも魔獣の数は多すぎた。前線基地へと到達することも叶わない。 王と兵が四方と上から囲むように展開する。 速度という物差しで測るのが馬鹿らしくなるほどの移動方法で、戦場の至るところに瞬間移動を繰り返しては炎弾を落としていくドラゴン。矢も魔法もその動きを追うことは叶わず、また唐突に頭上に現れる炎弾を避ける術すらない。 気ままに飛び交うドラゴンに狙われたが最後、逃げまどう騎士たちは、その炎に抱かれて息絶えた。かといって、炎を避けようとドラゴンのみに視線を合わせれば、押し寄せる魔獣に追いつかれて死が待っている。 「くっ、このままでは……!」 空間が歪んでいようとも、すぐ間近に迫っていようとも、前線基地までの道の残りがあまりにも遠い。 このまま少しずつ進み前線基地までたとえ辿り着けたとしても、そのときにはどれだけの被害が出ているか。何とかしてあのドラゴンだけでも足止めをしないと、被害は目を背けたくなるような数値になろう。 しかし撃退のために足は止められない。選択肢は、一つだけ……。 『不死鳥聖典』――ドラゴンを滅する奇跡の秘法を。 フェリシィールの信頼を裏切る苦しい思いはある。 「ジュンタ……」 それに一緒に帰って、そして想いを伝え合うと約束した人。その約束を反故にしてしまうことに、酷く胸が痛む。 「ジュンタ。あなたなら、きっと分かってくれますわよね」 それでも、リオンは選ぶ。後悔しない道を。自分が竜滅姫として生きていく道を。 ほぼ同時に潰えた二つの風を前にして、リオンは剣を書の形へと変える。それは『不死鳥聖典』の真の姿。 紅の表紙に金で描かれた不死鳥の姿。ここに竜滅の神鳥を招けば、たとえどれだけドラゴンが素早かろうが、ドラゴンである限り決して勝てない。それだけじゃない。ドラゴンをも倒しうる炎は、この乱戦状態でも敵のみを全て焼き尽くすだろう。 多くの騎士たちが生き残る。確かに今回の戦いは敗北に終わったが、それでも次の戦いがある。希望を残せば、きっと地獄の軍勢は希望の光の前に消え去ろう。 自身の幸せなど望むべくもない。その礎となれるなら、笑って死ぬのが竜滅姫。 想いを通じ合った人との約束は破ってしまうが、きっとあの人ならわかってくれるはず。ジュンタならきっと、わかってくれるはず。 そうして、リオンは最初の聖句を紡ぐ決意を固めた。 「旅の終わりは――」 紡いだ声が、ふいに途切れる。 特別な何かがあったわけではない。唐突に襲撃を受けたとか、ドラゴンが迫ってきたとか、制止を呼びかけられたとか、そういう何かしらのことがあったわけではない。 ただ、声が止まった。 まるで呼吸が止まったように、心臓が止まったように、聖句を紡ぐという意志が唐突に剥奪され、声が止まった。 止まったことに、他でもないリオンが驚いた。どうして止まったかも、わからない。 「――、――」 わからなかったのでもう一度紡ごうとして、今度は最初の一句も出せない自分に絶句した。 紡げなかった。 この聖句を紡ぐことこそ我が人生と信じた聖句が、ただの一言も紡げなかった。 「……う、そ…………」 気が付けば書の形を失い、指輪の形になっていた『不死鳥聖典』を手のひらの上に見て、リオンは呆然と全身から力を抜いた。いや、抜けた。 リオンにとって、竜滅姫とは自分自身であった。 自らの生き様にして人生。存在意義にして絶対なる信仰。 「こんなの、嘘……」 ジュンタとの約束を破る。愛しい人との約束を破る。ただ、それだけの理由で、強さは弱さになってしまった。 震える手がともすれば誇りを滑り落としてしまいそうに見えて、握った手を胸元へと寄せてぎゅっと目を瞑る。 瞑った瞼の裏に見えるのは、いつだって去りゆく大きな背中。偉大なる母カトレーユ・シストラバスの姿はずなのに。今はそれに一人の少年の笑顔が被る。強さの上にさらなる強さをくれた人の笑顔が、克明に浮かぶ。 リオンはこれまで一つの強さを誓って輝き続けてきた。母と同じように竜滅姫として生きて死ぬという誓いだ。そこに、ジュンタ・サクラという男性を生涯愛し続けるという二つ目の誓いを手に入れて、さらなる強さを手に入れた。 それは強さだ。間違いなく強さだ。だが、それでも二つの誓いが同時にある限り、一つの誓いがもう一つの誓いと相克するのなら……強さは容易く弱さに変わる。 よくよく考えてみれば、あのユースが取るべき方法を間違えるはずがなかったのだ。ここまでユースにはわかっていたのだろう。今のリオン・シストラバスに、竜滅姫としての責務を果たす力はないと。 誓いに従順である限り。 「…………ごめんなさい。ごめん、なさい……」 目の前で消え行く命を守る術は――――存在しない。
肯定の叫びが天を突く。虹色の雷が封印世界を照らす。
そう、正しくそれは斬撃だった。キメラの身体を解体し、いくつもの肉片へと変えたのは、白鱗虹翼のドラゴンがその手に握る虹の双剣。
魔獣たちが追いすがっては来るが、すぐに『ユニオンズ・ベル』も神獣化したジュンタの姿も見えなくなる。
「これは……?」
『ユニオンズ・ベル』において戦うものは、超常の獣たちのみになった。
キメラは相も変わらず絶対の再生を繰り返す。
離れなければいけなかった。
突如として今までいた場所に現れる黒い影と、高熱の紅蓮。
一キロ近く開いていた彼我の距離をいつのまに詰めていたのか、漆黒のドラゴンがジュンタに対して牙を剥く。
(次から次へと)
ジュンタに比べて若干小柄なドラゴンは、鋭角的な印象を持つ漆黒のドラゴンだった。
漆黒――
即ち魔竜。破壊を撒き散らし死にたがる獣だ。自分を殺しうる強さを持つジュンタの出現を見て取って、聖殿騎士団から標的を変えたのだろう。
回避からすぐさま音速を超える飛行速度に入り、ブレスを吐くドラゴンを置いていくジュンタは、二体に増えた敵を見てほぞを噛む。
(うっとうしい!)
持っていた双剣をドラゴンとキメラに投げつける。
投擲された剣は光の槍と変わり、二体の獣を地面に縫い止める。
ジュンタの目的はあくまでもスイカのみだ。漆黒のドラゴンがすぐさまジュンタに標的を変えたのに対し、スイカは魔獣を殺して回っている。荒れ狂う水流の魔弾は『封印の地』に河川を生み出す勢いで、魔獣たちは波頭に飲み込まれて溺死している。
すぐに行かないと――そう焦るジュンタを止めることは、キメラにはできない。キメラは縫い止められた部分の肉を剥がすといったことが考えつかないのか、のたうちまわっている。ドラゴンは言わずもがなだ。縫い止められた状態ではすぐには動けない。
スイカの元を目指して飛ぶジュンタの眼前に、ドラゴンが口を開いて立ちふさがったのはその次の瞬間だった。
「空間移動!?」
驚きを声にしながら、ジュンタはブレスの直撃を浴びて落下を始める。
追撃のブレスがホーミングミサイルのように追ってくるのを見てとって、ジュンタは迎撃のブレスを撃った。幾重にも枝分かれして炸裂する炎が、両者の間で炎の花を咲かせる。
(このっ!)
弱いブレスの応酬の直後、奇をてらうようにジュンタは極大のレーザーを口から放つ。
収束された炎は物理的な威力をもってドラゴンの身体を打ち据えるも、なぜか次の瞬間殴り飛ばされていたのはジュンタの方だった。
再び目の前に瞬間移動してきたドラゴンに尾による攻撃を受けて、ジュンタは今度こそ地面に墜落した。地響きを起こしながら地面を陥没させたジュンタに、ダメージを喰らったことによる硬直はない。悠々と空を泳ぐドラゴンに向けて、すぐに咲き乱れる虹色の炎の矢を放った。
逃げ場を塞ぐほどの炎の乱射は、ジュンタの視界一杯にまで及ぶ。その攻撃は、ドラゴンの瞬間移動――即ち、ドラゴンの特異能力の一端と思われる力の限界を推し量るためのものだった。
空間を瞬時に移動する能力は、なるほど、恐ろしい力だ。一切予兆も気配もなく目の前から消えられては、好きなところから撃ってくださいと言っているようなもの。
果たして、上空で炸裂する炎の帯が消えたとき、そこにはドラゴンの姿はなかった。それだけでもドラゴンの空間移動距離の長さがうかがえる。
そして、
「後ろか!」
ぬっと空間に質量が生じた僅かな揺らぎを肌で感じて、振り向くより先にジュンタは尾を思い切り上に跳ね上げた。
背後に立ったドラゴンの顎を砕く感触と共に、背中を寒気が貫く。ダメだ。顎を砕いたくらいではこのドラゴンは止められない。
こともあろうにドラゴンは、自らの顎を砕いたジュンタの尾に噛みつくと、牙と上あごの力だけで振り回してみせた。自らを支点に一回転し地面に叩き付ける。空を飛ぶのとは違う浮遊感を味わったジュンタは、尾を切り裂かれた痛みと叩き付けられた痛みに短い悲鳴をあげた。
だが、悠長に悲鳴をあげてる時間もないのがこの現状。敵は一人ではない。
ジュンタが無防備に叩き付けられたのを見て取って動いたのは、ようやく剣から逃れられたキメラだった。そこにいた二体のドラゴンの両方をも、その黒い泥で包み込もうとする。
黒い泥……キメラの保有する呪いの脅威を知っていたのはジュンタだけだった。未だ噛みつかれた尾を強引に引き抜くと、ブレスをドラゴンめがけて放ち、その反動を使って泥の津波から逃れ出る。
オォオオオオオオオオオオオオオッ!
ブレスで足を封じられたドラゴンは、泥になすすべなく飲み込まれる。
キメラは歓喜を示すようにぐねぐねと蠢き、マネキンのごとき貌で逃れたジュンタを見た。
その貌が内部より破裂する。飲み込まれたドラゴンが傷一つない状態で、炎を撒き散らしながら空へと跳び上がった。
(こいつら……手強い!)
今さらながらにジュンタは立ちふさがった敵の脅威に恐れおののく。
キメラの再生力と個体という形に止まらない身体は、どれだけ攻撃しても意味がない。まるで永遠に続く反復作業を強要されているようで、じわりと焦燥が胸を焦がす。
ドラゴンに至っては攻撃が当たっているのか当たっていないのかさえわからない。当たったと思った次の瞬間には無傷で接近されている。さすがは魔獣の王。得体の知れなさはキメラを凌いでいる。
(どうする?)
ヒズミが何かしらの秘策をもって動いている以上、ジュンタができることは時間を稼ぐことだ。
ヒズミが秘策の準備を整えるまでの時間と、リオンたちが逃げるまでの時間を稼ぐ。ドラゴンを、キメラを、魔獣の軍勢をこの場に押しとどめる。
「無茶だがやりきらないといけない。ここは殿だ」
ジュンタには[召喚魔法]という自分限定の脱出手段が用意されている。クーが外にいてくれる以上、いずれは脱出することが叶う。そのときには聖殿騎士団も前線基地にたどり着き、『封印の地』から逃げられている頃合いだろう。
此度の聖戦の目的から鑑みれば大敗というしかないが、聖殿騎士団が生き残れば望みは繋がる。
そのために……今は自分ががんばらないと。
「オォオオオオオオオオオオオオオオオ!!」
口から決意を雄叫びに変えて、ジュンタは放つ。
ドラゴンの咆吼は四方から押し寄せる魔獣の足並みを乱し、キメラやドラゴンの身体を後ろに引かせる、物理的な圧力を持ち合わせていた。
ジュンタの背より広がる紋章にも似た虹の双翼が、全てを加速させるように広がり、
――空より彗星のように落ちてきた水のブレスが、翼の中心を貫いた。
「食い止めろ! 何がなんでも、これ以上の接近は許すな!」
哨戒に出ていた騎士が慌てふためいた様子で帰ってきたのが約四十分前のこと。彼からの絶望的な報告を聞き、物見台に立っていた見張りが押し寄せる魔獣の姿を捉えたのが三十分前。いつでも迎撃できるよう準備を整えていた前線基地残留部隊が動いたのが、その直後。
以後、僅か三十分あまりの戦いで、趨勢は決したといっても過言ではなかった。
対して前線基地に残った聖殿騎士の数は五百。彼我の差は約四十倍。戦略による戦力の加算を加味しても、尚絶望的な兵力差だった。
「せめてこれが名高い砦であればもう少しやりようはあったのだが……」
聖殿騎士団の中でもとびきりのエキスパートが構築した城壁の硬さは並大抵ではなかったが、僅かな時間でここまで追い込まれてしまったのは、前線基地が存在する場所の所為と言えた。
多くの城や砦などは自然の地形を考慮することによって、敵が攻めてきたとき相手が進行してくる方向を絞る工夫がなされている。対して、前線基地は四方に荒野が広がっていた。地理的な壁は一切なく、どこか一方からは絶対に攻められないという政治的背景も持っていない。
「目的は聖地への侵入か。あるいは挟撃することで聖殿騎士団の全滅を狙っているのか……」
現れて即座に突撃を仕掛けてきた敵へと迅速に対応したが、それでも四方から押し寄せる敵全てを食い止めることなど、残された騎士の数では不可能だった。
「こことは比べるまでもない。とはいえ、残存兵力全てをもって守りに徹すれば、この場に残って戦うよりは時間は稼げるだろう」
「了解した。北門、西門、南門に詰めている全騎士は現時刻をもって中央に新たに構築した城壁内に待避だ!」
「はっ!」
伝令の騎士三人が急ぎ三方の門に向かって馬を走らせた。城壁内とはいえ、空を飛ぶ魔獣の攻撃を受ける恐れはあったが、一体程度だったら遅れは取ることはない。数を揃えたものが戦に勝つとはよく言ったものである。
敵の夥しい数を見て取ったクレオメルンは、即座に現在の前線基地の敷地規模では対応仕切れないと判断。前線基地内に残っていた、城壁を作り出した魔法使いに基地中央部――つまりアーファリム大神殿と繋がる門が開く部分を中心に、さらなる城壁を作ることを指示していた。
強固さでは劣るが、そこへと残存兵力を集結させての籠城の方が効率がいい。聖殿騎士団の騎士は一騎当千というより、その鉄よりもなお固いチームワークこそが本当の力なのだから。
「我々は怪我人を収容、回復させている間囮となって派手に暴れようと思うのだが、どうだろう? サネアツ」
「懸命だな。あとは最前線がこちらの様子に気付いて援軍を送ってくれるか、あるいは戻っているだろうフェリシィール・ティンクが戦力を整えてくれるのを願うばかりだな」
◇◆◇
完全に敵のみを警戒していたジュンタには、空から飛来した攻撃は漆黒のドラゴンの特異能力以上の奇襲となった。
空を泳ぐ水のドラゴンによる攻撃は、今まさに覚悟を決めて飛び立とうとしたジュンタの出鼻を挫く以上に、一時的に戦闘不能に追い込むほどの意味を持っていた。
「がっ!」
水のブレスが翼を射抜いたのと同時に、全身に予期せぬスパークが駆けめぐる。
ジュンタの魔法属性は雷。魔性の雷とはいえ、通電性の高い水を全身にかぶっては感電は必死だ。雷に対する耐性こそあるものの、立ちふさがる強敵に対処するために溜め込んだ雷気が盛大に暴発すれば、いかにドラゴンの身体とはいえダメージはある。
「ぐっ!」
焼き焦げた皮膚に引きつれたような火傷のあとが残る。
一気に魔力が破裂したことによる前後不覚に似た混乱状態の頭をたたき直し、ジュンタは攻撃してきた相手を、スイカを見やった。
空を悠々と泳ぎながら使った分の水を補給している水のドラゴン。先程まで魔獣を主に攻撃していたスイカによる攻撃が意味することに、ジュンタは冷や水を浴びせられたように感じた。
『スイカ……お前、もう……』
耳ではなく魂に語りかけるドラゴンの言語でスイカに語りかけるが、返答はない。
鮮血の瞳で眼下にいる全ての敵を狙っているスイカには、もう言語を理解する力がないのだ。
ディスバリエの言葉を信じれば、スイカは時間が経過すると共に全てを破壊するようになっていく、魔竜としての本能に堕ちていくのだ。理性を失って破壊をばらまくだけの存在に成り下がってしまったなら、果たしてスイカはどうなるのか?
もうジュンタをジュンタとして判断できないほど暴走の狂を露わにするスイカは、魔獣に、キメラに、漆黒のドラゴンめがけて無差別に破壊の雨を降らせる。
地表を叩き、ドラゴンが応戦した炎と接触し水蒸気爆発を起こす水のブレスは、実際に局地的な雨のような現象を引き起こす。豪雨が降り注いでジュンタの白い身体を叩き付ける。そのころにはゆっくりと火傷が治り始めていた。
「スイカ……」
人間のときと同じように名前を発音し、けれどドラゴンとしての声は別の声となって発せられる。
――るぁああああああああああああああ!!
それと同じように、スイカの声も今や悲しい嘆きの咆吼に全て取って代わる。
ジュンタは再生した翼を輝かせつつ地上から飛び立ちながら、空から聞こえるセイレーンの声にスイカの思いを見出そうとした。
だけど、わからない。わからないから……。
「助けて欲しいんだよな。スイカ」
自分の感情を決定として、空へと落ちる稲妻となってジュンタは駆け上がった。
空にて対峙する虹のドラゴンと水のドラゴン。ジュンタとスイカ。
そこへとさらに漆黒のドラゴンが空間移動して現れるに至って、三体のドラゴンの激突は開始された。
空を雷のブレスが、水のブレスが、炎のブレスが飛び交う。
そのどれもが異なる形を取りながらも、この世で最上の破壊力の顕現となって荒れ狂う嵐以上の災厄を招く。地面に当たれば地割れや地震を引き起こし、大気を切り裂いては竜巻を引き起こす。
音速で飛び交うドラゴンたちの速度は人の目では到底追いきれない速度。その質量をいかなる力で支えているのか、物理法則に真っ正面から喧嘩を売っては、敗北を叩き付けてこの世在らざる軌道を描いて回避と攻撃の応酬を続ける。
地上から時折キメラが触手を伸ばすが、三体のドラゴンが作り出した空中の決闘場に、王以外が踏み込むことなど許されないといわんばかりに、近づくだけで衝撃破に切り裂かれ悶える。
キメラはまだ良かった。痛覚と呼ぶべきものなど持ち合わせておらず、どれだけ痛めつけられても効果はいまいちだった。
王たちの戦いの一番の被害者は、彼らに比べるまでもなく弱い地上の魔獣たちだった。
当たり損ねたドラゴンブレスにこめられた魔力は霧散することを知らず、魔法に本来あるべき減衰の様相すら見られない。これこそドラゴンの持つ『侵蝕』の力なのだが、魔獣たちにはそんな理論知るべくもない。ただ、天罰の如き神の光が地上を薙ぎ払う度に焼き尽くされ、痛みを覚えるまもなく消え去っていく。
圧倒。虐殺。殺戮。
阿鼻叫喚の地獄絵図。飛び散る緑の血と腐った臓腑が、まるで世界に否定されるように消えていく様子は、もしも魔獣に親近感を抱く者が見たら卒倒どころではない地獄絵図だった。
――お、ぉおお……。
王たちの戦いによる余波が雨あられと降り注ぐ中に、悲痛な叫びが木霊する。
魔獣たちとの断末魔とも違う、嘆き悲しみ悼む声。
それはキメラの身体の奥底で蠢く、黒き本より発せられていた。
――ご無体な。ご無体な。ご無体な。
嘆きに震え、蠢くキメラ。あまりにちっぽけで弱々しいものたちが、強きものらの暴力に駆逐されていく姿は見るに堪えない有様だった。神とは弱きを助け、導く救世主ではなかったのか。否、そうであるに決まっている。
なのに、この仕打ち。一体この救われざる哀しきものたちが、どんな罪を起こしたというのか?
人を喰らったことが罪なのか。否、人だって自らの空腹を癒すために動植物を喰らうではないか。魔獣たちの本能とはそれと同じこと。襲い、奪い、喰らうというその本能は、自然のあるべきサイクルの中に組み込まれた正しきものだ。
であるならば、それを否定することは悪である。
――正義を……。
慟哭の嘆きを祈りに変えて、キメラは触手を空ではなく周りへと伸ばしていく。
炎に消えてなくなるはずだった命が、その前にキメラの触手に捕まり、その身体に吸収されていく。そして、同じ思いを胸に法楽の貌で黒き肉の一部になる。
――正義を。正しき神の名の下に、我らは悪を挫く正義の徒となろう。
道を誤った王には忠言が必要だ。
キメラはその場にいた全ての魔獣を吸収すると、やおら数倍に膨れあがった巨体の背から大きな腐肉の翼を広げる。さらに尾を。手を。首を作り出すと、最後に作り出した頭に身体からかき集めた鮮血の瞳を一つ残らず浮かび上がらせた。
キメラがこれまでに吸収した魔獣は万を超えていた。それらが持ち合わせていた鮮血の双眸を一所に集めたために、頭のほぼ全てに目玉がくっついているバケモノの貌になる。
だが、これでよく見える。翼をはためかせて、キメラは空へと跳び上がる。
正確にいえば、その翼にはキメラの巨体を持ち上げるほどの力はなかった。ぐにっと尾の部分が柱のように伸びて、キメラの身体を空へと持ち上げたのだった。
「神ヨォオオオオオオオオオオオオ――!!」
触手では届かなかった王たちの闘技場へと、今弱きものたちの嘆願を乗せて混沌の獣が足を踏み入れる。
混沌とした戦場へとさらに参戦するキメラ。
すぐさま三体のドラゴンは、姿形だけを自分たちに似せた贋作のドラゴンに洗礼の焔を浴びせたが、キメラはこれに耐えぱっくりと半月に割れた口を開いた。牙と夥しい舌が並んだ口を開くと、呪いを帯びた唾液が垂れ落ちる。
(まずい)
やはり、その行動に危機感を抱いたのはジュンタだけだった。
直角に真下へと移動したジュンタは、直後その回避行動を呪うことになる。『侵蝕』が付加されたブレスではない呪いの濁流を避けようと思うなら、それは上でなくてはならないのだと。
キメラの口から吐き出されたのは、臓物のブレス。反転の黒き呪いに濡れ光る、汚物のようなブレスだった。
だが、その威力はジュンタにしてみれば他のドラゴンのブレス以上に脅威だった。
神獣化してなお、ジュンタは人としての理性を保っていられたが、胸の奥にくすぶる反転の呪いが活性化したことを感じていた。そこへさらに呪いの源泉を浴びれば、自分がどうなるか想像は容易い。
(絶対に、このブレスだけは浴びちゃいけない!)
危機感がジュンタにさらなる力を与え、空を覆い隠すほど広がった呪いの臓物を前にして、極限の回避行動を可能にさせた。
黒い雨が降り注ぐ中を、ジュンタは全身に雷気を纏って駆け抜ける。速さという点で評価すれば、この場にジュンタ以上の速度を出せる存在はいなかった。
圧倒的な速さはそれ単体で攻撃ともなる。ジュンタの前に広がる道は『加速』と『侵蝕』の魔力を受け、あらゆる害意をはね除ける優先道路と変わる。何者も前に行くことが許されない、ジュンタのみの道がそこにはあった。
撃ち出された弾丸の如く、逸れることなくその臓物に触れない道を駆け抜けるジュンタ。
道の先、そこにあるのは灰色の空ではなかった。
「スイカ!」
ジュンタがルートに選んだその向こうにいるのは、反転の呪いを脅威と認識することなく滞空しているスイカの姿だった。確かに、ドラゴンの耐久力にしてみれば贋作のブレスなど脅威に値しない。魔竜に反転の呪いは通じない。
だけど、スイカはそうじゃない。彼女は人間だ。魔竜なんかじゃない。だから、守らないといけない。
ジュンタが自分に向かってくるのを見て取ったスイカは、これには脅威を抱いて応戦の構えを取る。放たれる水のブレスに、ジュンタは容赦なく返礼の雷を飛ぶまま放った。
時間にしてコンマ一秒以下。ブレスが激突して相殺し合う中、その隣を雷光が駆け抜けて、水のドラゴンをさらって汚物の檻の外へと逃れ出る。
出た瞬間、助けてくれたことなど知りもしないスイカからジュンタはブレスを受けることになった。驚異的な速度を出したあとの至近距離からの攻撃は避けきれるものではない。腹に直撃を受けたジュンタは、そのまま遙か地平線の向こうまで水圧に押し出されて弾き飛ばされた。
「ぐっ、効くな。これ……」
初めて身体に直撃を受けた水のブレスの威力は想像を超えていた。
今まで受けたことのある炎のブレスが現象であるのとは違い、彼女のそれは物理攻撃であった。思い切り殴られたことによって、直接的なダメージ以上のダメージがジュンタの総身を揺さぶる。
まるで、どうして助けてくれないのと言われているみたいで、痛い。
「わかってるよ、スイカ。だけど、絶対に助けるから」
身体を起こしたジュンタの腹には、巨大な大樹で作った杭でも打ち込まれたかのような巨大な穴が開いていた。これだけは変わらない血がそこから流れ出ては、あらゆる水をかき集めるスイカの元へと運ばれていく。
ここでの負傷はかなり痛手になったが、状況は好転していた。
放たれた臓物のブレスが地上に落ちたあと、なぜだか知らないが空から漆黒のドラゴンの姿がなくなっていた。何か問題が起きたのだろう。急速に遠ざかっていく見えざる気配をジュンタは捉えていた。
キメラもまた、今のブレスに力を使い果たしたかのように地面の上で規模を小さくして、泥たまりのように大人しくなっている。
空に相対するのは獣が二人。ジュンタとスイカのみ。
「頼むぞ、ヒズミ。急いでくれ」
今なお走っているだろう少年を思って、ジュンタは光の双剣を携え斬り込む。
◇◆◇
「はぁああああああッ!!」
彼らは前線基地への道を完全に塞いでしまっている。回避は不可能。
すでに戦いは乱戦状態。前へと進もうとするも、立ちはだかる肉壁は削れるどころか膨張していく。
さらに上空から、ワイバーンとは違う巨大な影が現れる。それは一度は逃げることに成功したはずの、瞬間移動するドラゴンであった。
リオンたちが自ら挑んだのは、絶望的な戦場に他ならなかった。
現れてまたたく間に、戦場はドラゴンが支配し始める。
「リオン様。ここは私にお任せを」
「ユース!?」
リオンが握るドラゴンスレイヤーを見たのと同時に、シュラケファリの背に同席していたユースが飛び降りた。
風をはらんでふくらむスカートを柔らかく押さえて、ユースはトン、と軽やかに着地する。そこが舞台の上ならば拍手が起きただろう所作だが、ここは戦場。血塗られたそこに降り立ったユースは悲壮な決意を固めた顔をすると、スカートの中より飾り紐がついたドラゴンスレイヤーを取り出した。
それはリオンが生まれて初めて下賜した騎士剣だった。リオン・シストラバスとユース・アニエースの主従の絆の証。
「頼みますよ、シュラケファリ。聖猊下のみならず、私からもお願いします。リオン様をどうか、ゴッゾ様の元まで」
「ふざけるのでは――ありません!」
それがユースのしようとしていることを何よりも如実に表していたために、リオンは激昂してシュラケファリから飛び降りた。シュラケファリはユースの思いを組んでリオンを最前列ではなく最も安全な場所へと連れて行こうとしたが、二度同じ手に引っかかるリオンではない。
リオンはユースに向かって剣を突きつけ、紅き瞳から圧力を伴う眼圧を放ち、魔獣さえ退ける。
「何をしようとしているかは知りませんが、これ以上私の目の前で大切な人をなくすわけにはいきませんわ!」
「リオン様……初めてお会いしたときから変わりませんね。自身をご自愛いただけないところなどはまったく成長していません」
「あなたもその自分勝手な理想の押しつけは変わってませんわね、ユース。その足へし折ってでも止めますわよ」
「それは構いませんが、リオン様」
ユースは足もとから風を巻き起こしつつ、何とも底意地悪そうな微笑を零した。
「――私に勝てると思っているのですか?」
そこに紅蓮が紛れ込み、ドラゴンの翼のはばたきが起こす以上の突風が吹き荒れる。
熱を孕んだ封印の風……リオンは瞠目してユースが見せた二つの魔法属性の輝きを見た。
「それが、ユース。あなたが私にさえ内緒にしていた秘密ですのね?」
二重属性。炎と風の複合属性。ユースはドラゴンスレイヤーに『矛盾』の力を収束させると、リオンめがけて解き放った。
炎を孕んだ突風にリオンの身体はなすすべもなく押し出される。二重属性が引き起こす魔法の威力は、通常の魔法とはワケが違う。防御することができないのだ。
あらゆる防御能力を無視する力こそ、概念をねじ曲げる『矛盾』の力。魔法の開祖メロディア・ホワイトグレイルが語るところの『至高概念』の一つである。
「ユース!」
いかな封印の力とはいえ抗いようのない暴威に晒されながら、リオンは一人血路を開くために魔獣へと突っ込むユースに向かって喉が張り裂けんばかりに叫んだ。
彼女を中心に炎の竜巻が吹き荒れ、立ちふさがる魔獣を芥子粒にしていく。だが、その規模は急速に小さくなっていく。至高たる『矛盾』の欠点、それは、矛盾しているからこそ魔力の減衰が激しいという欠点だった。
このままでは、ユースは四方から魔獣に押しつぶされて死ぬと、未だ吹き荒れる暴威に前へと進むことが許されないリオンは知る。
攻撃よりもリオンを退ける方に力を注いだユースの気持ちをくみ取れば、ここで自分が取るべき道は明らかだった。だが、ユースは墓穴を掘った。リオンを止めたいと思うのならば、自らを犠牲にするという火に油を注ぐ行為ではなく、その力をもって奪うべきだった。
全てを打開する方法がリオンの手の中にある限り、目の前で苦しむ人を助ける力がある限り、リオン・シストラバスは何ら躊躇はしないのだから。
フェリシィールからは絶対にそれは選ぶなといわれた。此度の戦いで竜滅姫として死ぬな、と。だが、リオンは目の前で助けられる命が次々に消えていくのを、これ以上見ていることだけはできなかったから……。
竜滅姫たる資格を失ったわけではない。ただ――ここで死ぬのが許せなかったから、紡げなかった。
今まで疑いも、揺るぎもしなかったたった一つの『強さ』であったはずなのに……
さらに強くなるために手に入れた強さは、この時この瞬間、紛れもない少女の弱さに変わった。
誇りにまっすぐである限り。
出番を終えた役者に意味はないのに、なぜかディスバリエは独自に行動を起こしていた。
それはおかしな行為だった。ベアル教としての戦略に関わるものではい、ただの自己満足行為。しかも足を向けた先は、敵の本拠地とも呼べる場所だった。いかな『狂賢者』とはいえ危険も大きい。
だから、たぶんアサギリ・スイカの言うとおりなのだろう。戦略を無視して行動したのは……。
虹色の閃光と共に、ディスバリエが足を踏み入れたのはアーファリム大神殿。忙しく動く眼下を見下ろす神居の塔の一室に現れたディスバリエの前には、驚きに目を見開いてこちらを見る金髪のエルフの姿があった。
幼いまま固定された愛玩の容貌に、それに相反する戦闘能力。
「さぁ、奇跡の芽に水をあげましょう」
『竜の花嫁』クーヴェルシェン・リアーシラミリィ。
『狂賢者』ディスバリエ・クインシュにとって決して見逃せない存在が、そこにいた。
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